銀座

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銀座
—  町丁  —
銀座の位置
銀座
銀座の位置
座標: 東経139度45分54.0秒北緯35.671222度 東経139.765度35.671222; 139.765
日本の旗 日本
都道府県 Flag of Tokyo Prefecture.svg 東京都
特別区 Flag of Chuo, Tokyo.svg 中央区
地域 京橋地域
面積
 - 計 0.87km2 (0.3mi2)
標高 4.4m (14ft)
人口 (2017年(平成29年)12月1日現在)[1]
 - 計 3,544人
等時帯 日本標準時 (UTC+9)
郵便番号 104-0061[2]
市外局番 03[3]
ナンバープレート 品川
※座標・標高は銀座四丁目交差点付近

銀座(ぎんざ)は、東京都中央区地名で、旧京橋区地域にある。現行行政地名は銀座一丁目から銀座八丁目。郵便番号は104-0061[2]地域ブランドとしても知られている。

概要

日本有数の繁華街であり下町の一つでもある。東京屈指の高級な商店街として、日本国外においても戦前よりフジヤマゲイシャミキモト赤坂などとともに知られる。「銀座」の名は一種のブランドになっており全国各地の商店街には「○○銀座」と呼ばれる所がそこかしこに見受けられる。銀座の地名の由来は、江戸時代に設立された貨幣の鋳造所のことで、1601年(慶長6年)に京都の伏見に創設されたのが始まり[4]。1606年(慶長11年)に駿府(現・静岡市)の置かれていた幕府の銀座鋳造所(銀座役所)が、1612年(慶長17年)に江戸に移され[4]、その後1800年東京蛎殻町に移転して以来、元の「新両替町」の名称に代わって「銀座」として親しまれるようになり[5]、銀座役所が日本橋に移転されたあともこの地名が定着した。また、銀座四丁目交差点周辺は商業地として日本一地価の高い場所としても知られる。

地理

ファイル:銀座ー1.JPG
オリンピック凱旋パレード(2012年8月19日撮影)
ファイル:銀座ー2.JPG
巨人軍優勝パレード(2009年11月22日撮影)

東京都中央区の西部に位置し、西を千代田区、南を港区に接する。北側より銀座一丁目から銀座八丁目まで存在する。また、江戸城外堀を埋め立てた東京高速道路の1・2階部分は商店街となっているが、行政区画が未確定な部分もあり、俗に銀座九丁目・銀座西◎丁目地先などと呼ばれる。こうした事情から、銀座は4丁目と5丁目を除き、1番地が存在しない。こうした未整理区域が在ることを利用し、銀座八丁目と新橋の間には銀座九丁目を示す「銀座ナイン」と呼ばれる商業施設が3棟あり[6]、2号館には「銀座九丁目」というおでん屋が入居している。

街路に関しては、仙台秋田会津若松、駿府(静岡)、名古屋、大坂(大阪)、広島など多くの近世城下町町人地と同じく、直交街路を基本としており、これは近隣の日本橋京橋地区と同様である。

しかし、大阪船場名古屋周辺、あるいは京都四条室町周辺などと異なり、街区は正方形ではなく細長い短冊形となっている。これは、京都のうち豊臣秀吉による都市改造を受けた地域や、大阪の平野町天満周辺、松山などと共通する。

また、街路網は北東から南西に向かう中央通りを中軸として設計されており、大阪京都名古屋札幌のように東西南北の方位を基準とした構造を有していないばかりか、銀座における中央通りの軸線は、京橋日本橋神田における軸線と異なる方向を向いている。これは、徳川家康による当初の都市計画の際、江戸前島以来の微高地尾根筋沿いに、地形に沿った主軸線として通町筋(とおりちょうすじ、現在の中央通り)を設定し、そこから両側に向かう道路を設けることにより、効率的な排水の便を図ったものといわれる。

近代になってからの都市計画に基づきさらに整備が加えられている。関東大震災後、後藤新平による震災復興の都市計画における目玉として、中央通りの東側に、新たな北東-南西軸(東京全体の南北軸の一部)として昭和通りが設けられた。また、数寄屋橋から銀座四丁目交差点、歌舞伎座前を経て勝どき橋方面へ至る、北西-南東方向の主要な直交街路として晴海通りが大通りとして整備され、銀座街区の西側には外堀通りが整備された。

このような整備にも関わらず、銀座内部の街路は昔ながらのものであり、通りから通りへと抜ける路地が多く点在し銀座らしい空間を醸し出している。

地域の郵便番号は104-0061で統一されている。

区域

南東側を現在の首都高速都心環状線、その他を東京高速道路にぐるりと囲まれた地域である。かつては、東を三十間堀川、西を江戸城外堀、南を汐留川、北を京橋川に囲まれた人工の島であった。

昭和通りの南東に位置する地域は、かつて木挽町と呼ばれる地域だったが、三十間堀川の埋め立てにより銀座と地続きとなったことから銀座東と改名し、1960年代後半に銀座西と共に銀座に統合された。首都高速都心環状線を挟んだ地域も含めて東銀座駅を最寄りとする一帯は、一般的に東銀座と呼ばれている。

一方、数寄屋橋を中心とする地域はかつて銀座西という町名だったが、地下鉄丸ノ内線西銀座駅(現在の銀座駅)があったことなどから、町名が銀座となった今でも西銀座の名を冠した施設も散在する(例:西銀座デパート・西銀座チャンスセンター・西銀座通り)。


区域・町名の変遷

ファイル:Ginza-townmap-kyobashiward.png
区画整理実施前後の
町名町域対照地図
1930年3月)
  • 1869年(明治2年)5月
    江戸町名改正により新両替町と三十間堀西側等をあわせて銀座一丁目から銀座四丁目が起立。
    当時の銀座一丁目から銀座三丁目は、東西南北をそれぞれ現在の三原通り、観世通り、松屋通り、桜通り(東京高速道路)に囲まれた四角形、銀座四丁目は、東西南北をそれぞれ現在のあづま通り、観世通り、晴海通り、松屋通りに囲まれた四角形にあたる。
  • 1930年(昭和5年)3月4日
    区画整理により現在の晴海通り北側の4町域を銀座一丁目〜銀座四丁目に編入。また、現在の晴海通り南側の9町域を統合して銀座五丁目〜銀座八丁目とし、同時にこれら「銀座」地区と外堀に挟まれた18町域を統合して銀座西一丁目〜銀座西八丁目とした。
    この時点での銀座一丁目〜銀座四丁目は、東西南北をそれぞれ現在の三原通り、西五番街、晴海通り、桜通りに囲まれた四角形にあたる。また、当時の銀座五丁目〜銀座八丁目は、東西南北をそれぞれ現在の三原通り、西五番街、御門通り、晴海通りに囲まれた四角形にあたる。「銀座西」は「銀座」と西側にある外堀に囲まれた地域。
  • 1951年(昭和26年)8月1日
    三十間堀川の埋め立てにより木挽町と陸続きになることから、この木挽町一丁目を銀座東一丁目(銀座東二丁目〜銀座東八丁目も同様)と改名した(埋め立ては1952年7月に完了した)。
  • 1968年(昭和43年)10月1日
    住居表示実施により、銀座西一丁目と銀座一丁目を統合し、これを改めて銀座一丁目(銀座二丁目〜銀座八丁目も同様)として[7]銀座西が消滅(ただし東京高速道路下にある店舗などは未だに何区に帰属するか確定していないため、暫定的に「中央区銀座西◎丁目地先」と名乗っている)。
  • 1969年(昭和44年)4月1日
    住居表示実施済みの銀座一丁目に未実施の銀座東一丁目を編入し、これを改めて銀座一丁目(銀座二丁目〜銀座八丁目も同様)として[8]銀座東が消滅。
実施後 実施年月日 実施前(特記なければ各町名ともその全域)
銀座一丁目 1968年10月1日 銀座西一丁目、銀座一丁目
1969年4月1日 銀座一丁目、銀座東一丁目
銀座二丁目 1968年10月1日 銀座西二丁目、銀座二丁目
1969年4月1日 銀座二丁目、銀座東二丁目
銀座三丁目 1968年10月1日 銀座三丁目、銀座西三丁目の一部
1969年4月1日 銀座三丁目、銀座東三丁目
銀座四丁目 1968年10月1日 銀座西四丁目、銀座四丁目、銀座西三丁目の一部
1969年4月1日 銀座四丁目、銀座東四丁目
銀座五丁目 1968年10月1日 銀座西五丁目、銀座五丁目
1969年4月1日 銀座五丁目、銀座東五丁目
銀座六丁目 1968年10月1日 銀座西六丁目、銀座六丁目
1969年4月1日 銀座六丁目、銀座東六丁目
銀座七丁目 1968年10月1日 銀座西七丁目、銀座七丁目
1969年4月1日 銀座七丁目、銀座東七丁目
銀座八丁目 1968年10月1日 銀座西八丁目、銀座八丁目
1969年4月1日 銀座八丁目、銀座東八丁目

隣接する地区

歴史

江戸時代

江戸時代以前、現在の丸の内から日比谷にかけては日比谷入江と呼ばれ海になっており、その東には隅田川の運んできた砂によって江戸前島という砂州が形成されていた。その先端が現在の銀座にあたる[9]

  • 江戸前島
江戸前島は銀座付近にあった半島。中央通り付近を尾根筋とし、汐留付近を先端としていた。江戸時代初めの日比谷入江の埋め立てにより、日本橋台地と呼ばれる微高地になっている[10]

1600年徳川家康関ヶ原の戦いに勝利し、1603年江戸幕府を樹立すると、第一回目の天下普請が行われ、日比谷入江の埋め立てと京橋地区の整備が進められた。1604年には東海道が整備されたが、銀座の都市基盤の整備は1612年の第二回目の天下普請まで待つことになる[11]。整備は、京間10間とした東海道(銀座通り)を中心にグリッド状に設計され、それぞれの街区の中央には会所地が設けられた。町割りは金座御金改役で家康の側近でもあった後藤庄三郎を中心に行われた。

町人地として整備が行われた銀座には、1612年駿府にあった銀座役所(現在の静岡市葵区両替町一丁目)が移転し、銀貨の鋳造が行われた。当時、通町京橋より南一丁目〜四丁目までを拝領して新両替町と称し銀座人らが住居を構え、新両替町二丁目東側南角に常是役所、この北隣に銀座役所が設けられた。常是役所は現在の第一三共ビル付近、銀座役所は現在のティファニー銀座ビルの位置に相当する。1715年には大判座後藤屋敷が一丁目に移転してきた。これらの場所は現在の銀座一丁目から四丁目にあたる。銀を特権的に扱う銀座は相当な利益があり、銀座役人の不正事件が多発したことから、銀座そのものは1800年に蛎殻町(現在の日本橋人形町一丁目付近)に移転させられるが、呼び名としての銀座は当地の通称としてそのまま残った[12]

現在の五丁目〜八丁目は、尾張町、竹川町、出雲町と呼ばれていた。現在の銀座七丁目付近には朱座が設けられた。また、徳川家康に親しまれ、幕府の式楽となったの四座のうち三座も銀座に置かれた。このほかにも、といったものを供給する職人たちが多く居を構えた。

1657年明暦の大火により江戸は大半を焼失し、銀座も大きな被害を出した。これを機に江戸の大規模な都市改造が試みられ、銀座でも三十間堀川沿いの河岸の増設や、道路の新設による街区再編などが行われた。

江戸時代の銀座は、御用達町人地として発展したものの「職人の町」としての側面が強かった。江戸研究家の三田村鳶魚も、京橋や日本橋よりも街の賑わいは劣っていたと、自著『銀座』内で語っている。

明治時代

ファイル:Tokyo-edohakub-ginza.jpg
銀座煉瓦街のミニチュア(江戸東京博物館)

銀座に転機が訪れたのは、明治維新後の1869年1872年に起こった2度の大火だった。特に、1872年の銀座大火は和田倉門内の兵部省添屋敷から出火し、銀座一円が焼失するという大規模なものであった。そこで、東京府知事由利公正の主導により、大規模な区画整理と、トーマス・ウォートルス設計によるジョージアン様式銀座煉瓦街の建設が行われた。この政策は、火事の多かった東京を不燃都市化すること、また同年秋に開業予定だった横浜東京間を結ぶ鉄道の終点・新橋駅と、当時の東日本経済の中心地であった日本橋の間に位置する銀座を文明開化の象徴的な街にしたい、との思惑があったとされる。ロンドンリージェント・ストリートに倣って、街路樹(当初は松・桜・もみじ)やガス燈、アーケードなどが造られた[13]。煉瓦街はまず1873年銀座通り沿いに完成し、1877年に全街区の建設が完了した。

しかし、その一方で、住民たちは自らの住所に帰ることができなかった。煉瓦街の整理後も煉瓦家屋の払下げ価格が高価なうえに支払い条件が厳しく、多くの住民たちは銀座を後にせざるを得なかった。かわりに、他の地区で成功を収め、煉瓦街に進出してきた商人たちが銀座の表通りで商売を始めた。現在、「銀座の老舗」とされている店の多くは、それ以降に進出してきた店である。

こうして新しく出発した銀座には2つの特色があった。まず、実用品小売を中心とした町であったこと。そして、京橋区という下町にありながら、顧客は主に山の手番町市谷赤坂麻布など)に住む華族財閥といった特権階級上流階級)や、中産階級ホワイトカラーの人々だったということである[14]。当時の下町の人々の盛り場は、古くから栄えた浅草上野だった。一方、明治維新後に東京へ出てきた人々は、同じく明治に入って急速な発展を遂げた銀座に集うようになり、こうした地方出身者と中産階級の増加に伴って、銀座も発展をしていった。

大正・昭和戦前

ファイル:Ginza after Great Kanto earthquake.JPG
関東大震災直後の銀座通り
ファイル:Ginza in 1933.JPG
1933年の銀座通り

1923年9月1日に発生した関東大震災で銀座は町の大半を焼失し、壊滅的な被害を受けた。国の援助を受けて東京市は大規模な帝都復興計画を実施し、都市機能の拡充を行った。銀座でも、煉瓦家屋のほとんどの取り壊し、昭和通りの整備、晴海通り外堀通りの拡幅が行われたものの、街区の整備に手をつけられることはなく、1872年の区画整理時の町並みが残された。

なお戸越の商店街は震災後の排水処理に困っていた為、銀座から撤去されたレンガを貰いうけて排水処理に利用した。この由来から『戸越銀座』と名乗るようになって、全国初の「○○銀座」となった[15]。その後、全国各地に「○○銀座」と名付けられた商店街が数多く形成されていくようになった。 震災後は、東京駅の開業に伴う丸の内の発展や東京市電の整備などにより、百貨店劇場喫茶店カフェー)などが次々と登場し、震災恐慌金融恐慌などで日本中が不景気に見舞われるなかでも発展を続けてゆく。昭和初期にはアール・デコの影響を受けたモダンボーイ(モボ)やモダンガール(モガ)と呼ばれる人々が町を闊歩し、散策する「銀ブラ」が全盛を極める[† 1][16]

しかし、日本が戦争へ介入するに伴って銀座もその影響を受けるようになる。戦局の悪化に伴い1940年に贅沢品の製造販売禁止令(七・七禁令)や電力制限による広告灯ネオンサインの消滅、1944年には警視庁によって劇場・料理店・待合芸妓屋・バー・酒屋が閉鎖され、銀座は大打撃を受けた。その一方で、軍隊の行進や、贅沢を諫める運動なども街頭で行われた。第二次世界大戦末期の1945年1月27日に銀座は初めて空襲を受け多数の死者・重傷者を出した。爆弾は泰明国民学校にも直撃し教員4人が死亡、2人が重軽傷を負った[17]。その後も3月10日、4月28日、5月25日の空襲で銀座は七・八丁目と六丁目の一部を除いて壊滅的な被害を受ける事となる。

戦後

ファイル:Morinaga Ginza Neon sign 19530420-2.JPG
森永ミルクキャラメルの地球儀型ネオン広告塔(1950年代後期)

第二次世界大戦が終わると、服部時計店松屋や銀座東芝ビル[† 2]など、多くの商業施設が連合国軍PXとして接収された。その傍らで、銀座の復興も商店主たちの手によって着々と進められ、被災した商店はバラック露店で営業を再開した。華僑王長徳による一等地買占めが行われたのもこの時期である。1946年には銀座復興祭が行われ、銀座の復興は軌道に乗り出した。1951年GHQの命令により露店は廃止になったが、その頃から接収解除になる建物が増え、銀座は賑わいを取り戻していった。

銀座は明治維新以来の事情から伝統的に不燃建物が多く、戦災を免れた建物も比較的多かったが、復興の過程では戦災を免れた建物もかなり多くのものが取り壊され、建物の(当時としては)高層化が進み、中央通り沿いの景観は、建築基準法(当時)の百尺規制(約31m、1尺≒303mm)で建物の高さが揃うまでになっていった。また、1964年東京オリンピック開催に合わせて東京の都市インフラ整備も急速に進められ、1949年三十間堀川の埋め立てを皮切りに、銀座を取り囲んでいた掘割の埋め立てが行われ、銀座西端の旧外堀、南端の汐留川、北端の京橋川を埋め立て、1964年に東京高速道路が完成するなど、掘割は道路へと変貌を遂げていった。

そんな銀座であったが、銀座には暗い影が忍び寄りつつあった。上述のように、明治維新以来、銀座の主要な顧客であり銀座の個性的文化を創ってきたのは、地方から上京して山手地区に住むホワイトカラー層であったが、関東大震災以降、山手の住宅街は、東京急行電鉄小田急電鉄西武鉄道等の沿線住宅開発により、武蔵野台地を急速に西へ西へと広がっていた。これら電鉄会社は、大阪の阪急電鉄に倣ってそれぞれの都心側ターミナル駅の繁華街建設を進めており、渋谷新宿池袋に代表される副都心の鉄道ターミナル繁華街が勃興しつつあったのである。山手線よりはるかに西に住むようになったホワイトカラー層の主力にとって、銀座は遠い繁華街になりつつあった。1964年みゆき族1971年マクドナルド1号店の開店、1970年歩行者天国の開始などを最後に、東京の繁華街の文化的中心としての銀座は、山手在住の若者文化の中心としての地位を渋谷(「シブヤ系」も参照)や原宿に、庶民的な要素も含めた総合的な筆頭繁華街としての地位は、新宿に奪われることになっていく。1980年代後半には、バブル景気に伴う地価高騰の象徴として、銀座の天文学的地価が連日報道され、高級クラブに代表される夜の街としてのステータスは盤石ながらも、総合的な繁華街としては首都圏における鉄道沿線文化の色分けに組み込まれていき、銀座は、千葉弁が飛び交う、東京東部の一繁華街に落ち着きつつあった。

1990年代後半になると、東京郊外の西への拡張が一段落し、都心再開発のブームが起きて、都心としての銀座が再び脚光を浴びるようになる。銀座の各所で再開発が促され、ヨーロッパの高級ブランド各社も銀座の持つブランド性に再び着目するようになった結果、海外の高級ブランド店が、中央通りや晴海通りなどに表通りに軒を連ねるようになった。他方、都心再開発は、遠く遠ざかっていた東京西部郊外の住民を、一定程度銀座にも呼び戻すことになった。彼らによって、総合的繁華街としての副都心の雰囲気が銀座にも持ち込まれるようになり、長期不況に伴う小売業態の変化も手伝って、ドラッグストア飲食店チェーン店なども開業するようになった。その結果、戦前高度経済成長期のような「独特な高級繁華街」としての雰囲気は、随分薄くなっていると言える。

2010年代になると、中国人観光客によるいわゆる爆買に代表される外国人観光客が目立つようになった。それにあわせ外国人向け免税店や既存の店舗の中に外国人向け免税コーナーや免税手続き所を設ける店舗が多くなっている[18]

地域

世帯数と人口

2017年(平成29年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

丁目 世帯数 人口
銀座一丁目 944世帯 1,513人
銀座二丁目 447世帯 638人
銀座三丁目 201世帯 284人
銀座四丁目 126世帯 179人
銀座五丁目 34世帯 52人
銀座六丁目 38世帯 59人
銀座七丁目 186世帯 244人
銀座八丁目 463世帯 575人
2,439世帯 3,544人

1908年には27,689人が暮らしていたが、関東大震災や戦争を機に郊外流出が進み、1955年に15,582人にまで減少した。さらに高度経済成長期には人口減少に拍車がかかり、1970年の人口は6,257人、1998年は2,963人にまで減少したが、それ以降は都心回帰に伴う投資マンションの建設ラッシュによって多少は増加に転じているもののそれらマンションの実態は事務所使用が著しく多い。

小・中学校の学区

区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[19]

丁目 番地 小学校 中学校
銀座一丁目 2〜10番
11番1〜2号
中央区立泰明小学校 中央区立銀座中学校
11番3号
12~28番
中央区立京橋築地小学校
銀座二丁目 10〜16番
2〜9番 中央区立泰明小学校
銀座三丁目 2〜8番
9〜15番 中央区立京橋築地小学校
銀座四丁目 9〜14番
1〜8番 中央区立泰明小学校
銀座五丁目 全域
銀座六丁目 全域
銀座七丁目 全域
銀座八丁目 全域

景観

銀座の建物は戦後復興の1960年代までに建設されたものが多く、当時の建築基準法により高さ31mに制限され、統一された景観を形成してきた。しかし、老朽化した建物の建て替えに際して、多くの建物が容積率制度の導入される1964年以前に建設されたものであることから、建て替え前よりも小さい規模での建設を余儀なくされることや、建物の高層化により統一した景観が阻害されることを懸念した地元と中央区が協議し、1998年に地区計画「銀座ルール」が制定された。ルールでは、道路幅に応じて高さ13〜56mにまで制限し、容積率も基準を800%、最大でも1100%とし、開発に大幅な制限をした[20]

しかし、2002年都市再生特別措置法の「緊急整備地域」に指定されたために、容積率が大幅に緩和され、銀座においても再開発による建物の高層化の機運が高まることとなった。これとは別に、2005年都市計画法特定街区制度を活用して銀座八丁目に121mの銀座三井ビルディングが建設された。この流れを受けて、2004年に地元企業は資生堂名誉会長の福原義春を代表とする「銀座街づくり会議」を発足させた。

そのなかで、 松坂屋森ビルと共同で松坂屋銀座店と隣の街区を合わせて大規模な再開発をする計画が浮上。また、ほぼ同時期に歌舞伎座でも建て直しに伴う一部高層化の計画が発覚し、再び「銀座ルール」の見直しがされることとなった。2006年に施行された新ルールでは、昭和通りより西の銀座中心部では一切の例外を禁止して建物の高さを56mに抑え、今まで規定のなかった屋上広告についても最大で10mまでとした。

一方で、昭和通りより東では、区長が「文化等の維持・継承に寄与する大規模開発」と判断した場合に限って56mを超える建物の建設が許可されることになり、歌舞伎座の再開発は認められた。また建物の建設に際して建築確認の前に「銀座街づくり会議」が選出した学者や地元商店主らによって構成された「銀座デザイン協議会」と建物のデザインや用途などについて協議することを求めている。

象徴

ファイル:Ginza03s3200.jpg
三愛ドリームセンター

銀座のシンボルとされているのがである。また、銀座4丁目交差点に建つ和光本館の時計台と三愛ドリームセンターは完成時より銀座のランドマーク的存在である。

銀座の柳

銀座発祥の地、から移住してきた銀細工職人が故郷を懐かしんで移植したのが起源とされる[21]。現在では、「中央区の木」にも指定されている。1874年に日本初の街路樹として、が銀座通りに植樹されたが、埋立地である銀座の土地が水分の多いことから根腐れを起こしてしまい、1877年に湿地に生育する柳に植え替えられた。1921年には車道の拡幅にともない銀杏へと植え替えられたものの、銀座の柳に対する思いは強く、1929年に発表された西條八十作詞の『東京行進曲』でも銀座の柳をなつかしむ歌詞が登場する。1932年朝日新聞社の寄贈で銀座通りに柳が復活し、同年4月には第1回柳まつりが開催された。その後も、『東京ラプソディ』や『東京音頭』で歌われるなど、柳は銀座のシンボルとして定着していった。

しかし、1968年に銀座通りの共同溝工事のために柳は伐採され、東京都日野市建設省街路樹苗圃に移植された。その柳もどんどん枯れていき、1984年には3本しか残っていなかった。それを知った地元商店主が柳の枝を譲り受けて挿し木を行い、自宅の庭などで育てたものを銀座をはじめ、全国各地に植樹を行った。銀座に柳を復活させる運動は続いており、現在では外堀通りや銀座柳通り、御門通りに柳が植えられている。また、外堀通りでは2006年から毎年5月5日に「銀座柳まつり」が開催されている。

経済

東京都心部に位置する銀座は、明治時代より商業の中心地として日本でも有数の繁華街を形成している。

商業地域は銀座通り(中央通り)沿いの地域を軸とした銀座の西部、特に晴海通りと交わる銀座四丁目交差点の周辺を中心としている。また、七丁目や八丁目周辺は高級クラブ飲食店などが立ち並んでいる。

一方で、東銀座地域は企業の社屋などが立ち並ぶオフィス街となっており、新橋演舞場のある六丁目から八丁目にかけては新橋花街が形成されている。

商業

銀座は、東京の中心的な商業地の一つであり、有楽町エリアを合わせた2002年年間商品販売額は4088億2100万円で、東京都内では新宿駅東口地域に次ぐ規模である。

明治時代に舶来品などが並んだ銀座は高級商店街として発展してきた。昭和初期のデパート進出などにより、銀座は東京随一の盛り場としての地位を確実なものにしていくが業態は少しずつ変化していった。従来は高級婦人服飾店といえば銀座セキネ銀座マギーマミーナマミーナ小松ストア銀座ダイアナ三愛、創作洋品店(オートクチュール店舗)、日本初のセレクトショップであるサンモトヤマなどが代表だったが1990年代のバブル崩壊以後は海外の有名ブランドが続々と旗艦店を銀座に構えた、その一方でカラオケ店、ブランド品買取専門の質店などといった大衆的な業種のチェーン店化が活発になってゆく。

銀座は、老舗の集積地でもあり、松屋三越のほかにも、隣接する有楽町ルミネ阪急MEN'S TOKYOが立ち並ぶ。しかし、有楽町駅再開発・一億総中流社会解体によって、有楽町そごうは2000年、有楽町西武は2010年、有楽町阪急は2011年、松坂屋は2013年、プランタン銀座は2016年に閉店しており、百貨店は7店から2店にまで急減している。

1966年にはソニーソニービルを建設するのを皮切りに家電メーカーがオーディオ製品を中心にしたショールームを銀座に相次いで開設した(松下電器テクニクス銀座ショールーム、日立製作所Lo-Dプラザ、東京芝浦電気=東芝銀座セブン、日本ビクター=ニッパーズギンザ[† 3])。また、日産自動車銀座ギャラリーを開設した。

近年では、新築された東急プラザ銀座銀座プレイスGINZA SIX(ギンザ シックス)、改装されたイグジットメルサ(旧ニューメルサ)などの大型の複合商業施設が数多く並ぶ。

情報通信業

かつて銀座にマスメディアの集中が見られた時期があった。明治時代、銀座煉瓦街の建設に伴い、丸の内日本橋に近い銀座に、多くの新聞社が集中した。一時期は、東京日日新聞(現・毎日新聞)、東京朝日新聞(現・朝日新聞)、読売新聞國民新聞などといった新聞社のほとんどが銀座に集中し、それに伴って印刷業広告代理店なども集中した時期もあった。しかし関東大震災により東京在来の新聞社が壊滅的打撃を受けると、読売が大手町へ移転するなど銀座への集中も途絶えることとなった。現在は、隣接する築地朝日新聞東京本社が、隣接する汐留日本テレビがそれぞれ社屋を構えていることが目立つくらいである。

また、日本電報通信社(現・電通)が銀座に設立されたことにより、広告原稿の受け渡しの利便性から地方新聞社の多くが銀座周辺に東京支局を構えた。このことから、現在でも地方のテレビ局・ラジオ局などのうち、比較的小規模なものを中心に、銀座に支局や支社を構えるところが少なからず存在する(地方民間放送共同制作協議会も、銀座に事務所を置く地方ラジオ局支社長達が「火曜クラブ」として定例会合を開いたことにちなむ)。

出版社や大手出版取次店をはじめとする印刷出版業に関しては、東京における集中地区は、主要な大学にほど近い本郷をはじめとする文京区内や千代田区神田神保町周辺を含む、皇居の北側のエリアに一大中心地があり、銀座は中心地とは言えない。しかし、前述したような事情から、明治時代から社屋を構える教文館実業之日本社など、古い出版社には銀座に本社を残しているところも残存する。

銀座に本社を置く企業

ファイル:RICOH Company Head Office Building 2007-1.jpg
リコー本社が入居していた銀座三井ビルディング。現在、三愛ドリームセンターに同社のフォトギャラリーがある。

文化

明治時代、煉瓦街建設や横浜と新橋を結ぶ鉄道の開業、また築地(明石町)鉄砲洲()に外国人居留地があったために舶来品の往来が盛んとなった銀座にはそれらの品を扱う商店が軒を連ね、銀座は西洋文化の発信地として日本文化の近代化に大きな役割を果たした。

食文化

食においても、銀座は西洋の味覚を紹介する場となった。1871年、「文英堂」(現・木村屋總本店)が尾張町にて創業し、あんパンの販売を始めた。また、1895年には洋食屋の「煉瓦亭」が開業した。銀座で調剤薬局を営んでいた資生堂1902年、店舗内に「ソーダ・ファウンテン」(現・資生堂パーラー)を併設し、ソーダ水アイスクリームを売りだした。他にも、1897年に開業した「銀座千疋屋」は輸入果物の販売や日本初のフルーツパーラーを開業するなど銀座には様々な食文化が流入した。

1911年3月、パリカフェを模した「カフェー・プランタン」が開店し、作家や画家などの文化人社交場となった。その後も「カフェー・ライオン」や「カフェーパウリスタ」などが続々と開店し、学生なども出入するようになり、文壇の議論が盛んに行われた。しかし、関東大震災を境に関西資本のカフェーが進出し、カフェーは女給による濃厚なサービスを行う場に変貌していった。昭和初期にはエロ・グロ・ナンセンスの流行とともに大衆化・俗化し、カフェーは全盛を極めることとなった。また、この頃に関西の料亭の進出も相次いだ。

戦後、銀座は徐々に世界各国の高級料理店が進出し、代表的なフランス料理店のレカンマキシム・ド・パリ高級クラブなどが林立する街として認知されるようになってゆく。1980年代後半に差し掛かるとそれまでとは比較にならない勢いで世界の一流レストランが挙って出店する一方、外食フランチャイズも盛んになる。まず1971年に「マクドナルド」、「ダンキンドーナツ」の1号店が銀座に開店。1990年代後半には「スターバックスコーヒー」や「タリーズコーヒー」が相次いで進出し、その後も「サンマルクカフェ」や銀座四丁目交差点で銀座和光と並ぶランドマーク的な存在である三愛ドリームセンター内に「ル・カフェ・ドトール」の1号店が開店、銀座は戦前とは異なる形態のカフェ激戦地となり、カフェブームを全国へ広げる舞台として躍進する。

ファッション

アルマーニ銀座タワー

服飾文化においても、銀座は西洋ファッションを紹介する場となった。そのなかで、資生堂は化粧品を扱うなど、ファッション文化の発展に大きく貢献する。

関東大震災後の大正末期から昭和初期にかけてはモボ・モガと呼ばれる当時の世界的流行であるアール・デコの影響を色濃く受けた若者たちが現れた。

1964年に並木通りやみゆき通り周辺で「みゆき族」と呼ばれる若者が出現した。男性は流行していたアイビー・ルックコンチネンタルルック、女性はロングスカートのバックに共布のリボンベルトを結び、二つに折ったハンカチーフを頭にかぶるというスタイルで、手には流行を扇動した「VAN」や「JUN」の紙袋かコーヒー豆の麻袋を持つというスタイルだった。しかし、同年に開催される東京オリンピックを前に風紀の乱れを懸念した警察によって一斉取締りが行われ、みゆき族はひと夏で姿を消す。

1990年代後半からは海外ブランドの進出が活発になり、並木通りを中心として次第に晴海通り、銀座通り(中央通り)へと多くの海外高級ブランド店が進出。しかし、2007年8月アメリカで起きたバブル崩壊と経済危機の煽りで、海外ブランドの閉鎖が相次ぎ、2割ほどが撤退すると予想されている。近年では、プランタン銀座マロニエゲートの間を南北に走る銀座マロニエ通りに、カルティエ、シャネル、ルイヴィトン、ブルガリ等のラグジュアリーブランドが軒を連ねている。 最近ではユニクロFOREVER21等のファストファッション専門店が進出し様変わりしている。

文化施設

1900年代から1920年代前半にかけて、歌舞伎座東京宝塚劇場など、銀座・有楽町周辺には多くの劇場が開場した。

1950年代以後はカントリー・ミュージックジャズなどをバンドの生演奏で楽しむジャズ喫茶の開店が相次ぎ、1960年代に入ると銀座ACBが盛況を博し、シャンソン喫茶「銀巴里」は多くのシャンソン歌手を生んだ。しかし、1970年頃より、新宿御茶ノ水などへ音楽の拠点は移っていった。

劇場や映画館は1970年代までと比べ減少したが、現在ではコンサートホールなどの文化施設が多く存在している。特徴的なのは、ヤマハホールや王子ホールといった企業の文化支援活動の一つとして開いているものが多いことである。また、画廊は全国の4分の1が銀座に集約しているとされる。

主な文化施設一覧

劇場
映画館
音楽ホール
ギャラリー

交通

銀座へは地下鉄とバス網が整備されており、またJRの有楽町駅新橋駅からも徒歩圏内にある。このため、1998年に行われた銀座への交通手段に関するアンケート調査では地下鉄利用者が半数以上を占め、JRの利用者も3割以上だったことから、大半が鉄道を利用して銀座へ来ていることが分かった。

道路

晴海通り中央通り昭和通りなどの大通りが縦貫し、これらの通りでは自動車の交通量が多いことに因り渋滞が深刻化している。

銀座全域が首都高速道路に囲まれた形になっており、直に利用する以外にも目印等の用途がある。

道路

南北に延びる道路を西からの順
  • 銀座コリドー通り
  • 数奇屋通り
  • 東京都道405号外濠環状線(西銀座通り・外堀通り) - 数寄屋橋交差点より南西側が「西銀座通り」
  • ソニー通り
  • 並木通り
  • 西五番街
  • 金春通り・すずらん通り・ガス灯通り
  • 中央通り - 銀座通過部分は「銀座通り」
  • 信楽通り・あづま通り
  • 三原通り
  • 昭和通り
東西に延びる道路を北からの順

首都高速道路・出入口

鉄道

1882年東京馬車鉄道新橋日本橋間で開業した。1903年、馬車鉄道は「東京電車鉄道」と名を変え電化し、同年には数寄屋橋神田橋間に東京市街鉄道が開業した。これらの鉄道路線は、後に東京市電として公営化し、路線・系統の拡大がされた。1934年には東京地下鉄道によって敷設された地下鉄(現・東京メトロ銀座線)が銀座まで延伸した。

1950年代より地下鉄整備が着々進められ、西銀座駅の丸ノ内線が開業したことを機に整備されてゆく。その一方で自動車の増加に因り都電は徐々に撤去されていった。

鉄道駅

東京地下鉄(東京メトロ)

東京都交通局都営地下鉄

主な店舗・施設

法人については本店・旗艦店ないし路面店、あるいはそれに準ずるもののみ掲載。ゲームセンターの類が無く、家電量販店カラオケボックスパチンコ店ファストフード店は他の繁華街に比較して少ない。それらの店は隣の有楽町新橋などに集中している。

1丁目
2丁目
3丁目
4丁目
5丁目
6丁目
7丁目
8丁目
未確定地域
その他

銀座を舞台・背景とした作品

日本映画の黎明期から黄金期となる戦後混乱期から高度経済成長期まで、東京を代表する町として頻繁に銀座が登場。歌謡曲でも銀座を歌った歌が数多く、『東京行進曲』や『東京音頭』などといった東京の歌の歌詞にも銀座が登場する。

映画
ラジオドラマ
テレビドラマ
小説
漫画
アニメ

出身者

脚注

注釈

  1. 「銀ブラ」の語源については諸説あるが、安藤更生『銀座細見』によれば大正4、5年頃、慶應義塾の学生が使い始めた言葉であるという説などがある。
  2. 東急不動産に買収されて後の銀座TSビル。モザイク銀座阪急が入居していた。2012年9月に取り壊され現存しない。
  3. 所在地は新橋1丁目だった。
  4. 1994年、ミッドタウン・マンハッタン ガーメント地区 (en) 発のイタリアンスタイルのブランド。日本には1996年に東京南青山で開店し、2014年に銀座店が開店した(「トッカ / TOCCAVOUGUE)。オンワード樫山によるライセンスブランド店で、同社のレーベルブランド)の一つになる。
  5. ジュエリーブライダル、レストラン等のショッピングモール
  6. アクセサリーパーツビーズラボとカフェとの複合店舗。原宿にもカフェ併設店舗がある。
  7. 2000年、大阪梅田発のパンケーキかき氷のカフェ(「分厚いパンケーキ&かき氷カフェ 雪ノ下 東京銀座に…」 はてなニュース 2013年11月1日)。
  8. 銀座では他に、ホテルモントレ銀座が松屋銀座裏手銀座2丁目にある。
  9. 1932年、"銀座アパートメント"として築造されたレトロビル。現在はアンティークショップギャラリーアトリエ等が入居。
  10. 1946年、大阪で創業した高級呉服ないし和服専門店チェーンストア。2003年からさが美の子会社。銀座では他に、銀座コア店がある。
  11. 銀座駅構内にもエチカフィット店がある。
  12. リヨンブラッスリーを展開するポール・ボキューズのライセンスブランド店で、ひらまつ によるレーベルの一つになる。
  13. 三井ショッピングパークが運営。
  14. 」をコンセプトとした紳士靴を中心にドレスシャツやスーツ等を扱う三陽商会のオリジナルブランド。
  15. パリジャンを意識したメンズブランド"エディフィス"と、パリ16区パリジェンヌを意識したレディースブランド"イエナ"とを融合した店舗。2つとも、"ジャーナルスタンダード"などを扱う日本のベイクルーズグループによるオリジナルブランド(「Le Dôme ÉDIFICE et IÉNA 銀座店」 タイムアウト東京 2018年)。
  16. 中央区立の結婚式場やイベントホール、貸し会議室。
  17. 1947年に銀座7丁目で創業。常連客の巨人軍選手千葉茂の注文で始まったとされる「カツカレー」発祥店として知られている。なお「カツカレー形式の洋食」の発祥に関しては、浅草の「河金丼」も知られている(「カツカレー発祥の店が、実は浅草だった! 河金」 浅草smartニュース 2015年1月29日)。築地にバー&グリル銀座スイス店がある。
  18. 東京高速道路下の専門店街「銀座インズ」で、ワールドなどの各レーベルショップが入る"プチプチマルシェ"のプロデュースをしている。
  19. 1890年、オランダアムステルダムで創業。1914年第一次世界大戦勃発でロンドンカムデン区の宝石商街ハットンガーデン (en) を拠点とした。1948年にはエリザベス王女の結婚指輪のカットイヤリングを担当した"世界3大カッティング(カッターズ)ブランド"の一つ。日本での販売総代理店(ライセンスブランド店)はムラキ。  
  20. 1937年、ボザール出身のロジェ・ヴィヴィエによりパリ8区ロワイヤル通りに創業、フランス発の高級靴ブランド。エリザベス・テイラーケーリー・グラントエヴァ・ガードナーマレーネ・ディートリッヒビートルズジャクリーン・ケネディ・オナシスカトリーヌ・ドヌーヴブリジット・バルドーらに愛用され、また、1953年エリザベス2世の女王戴冠式にも採用された。
  21. 2010年、ウェスト・エンド・ロンドンメイフェア地区マドックス・ストリート (Maddox Street) 創業、イギリス発の婦人靴ブランド。
  22. モラビトのライセンスブランド店になる。
  23. 1993年、日本人の荻野いづみミラノで創業したイタリア発のバッグなど革アイテムのブランド。
  24. 1977年創業、紳士靴から始まった、主に女性用バッグやシューズ等の日本発の革アイテムブランド。
  25. 銀座では他に、銀座インズ店がある。
  26. 深川宮川の廃業を受けて明治26年(1893年)、築地で創業した全国の「宮川」の「総本山」(「築地本願寺近く、宮川の総本山 つきじ宮川本廛All About 2013年3月4日)。その松屋内の店舗。
  27. 木村屋總本店6代目長男が創業者。銀座では他に、&COFFEE MAISON KAYSER が銀座1丁目にある。
  28. 1977年、パリ8区フォーブール・サントノレ通り創業、フランス発のショコラパティスリー。
  29. ヴァンクリーフ&アーペル、ブシュロン、モーブッサン、メレリオ・ディ・メレーと共に、パリヴァンドーム広場界隈に本店を構える"グランサンク"と(日本でのみ)括られる高級宝飾店の一つ。ジョゼフィーヌ以来、欧州王室によるティアラ着用の発祥店とされている。
  30. 1903年、ベルギーアントワープで創業。モニッケンダム同様、1914年の第一次世界大戦勃発でニューヨークに本拠地を移した。1946年以来からの「サイトホルダー(デビアスから直接ダイヤモンド原石供給を受けられる特権。日本では1994年からTASAKI)」。"世界の三大カッティング(カッターズ)ブランド"の一つ。日本での販売総代理店(ライセンスブランド店)はにあるプリモ・ジャパン。2003年に同銀座ブティックを開店。
  31. 札幌アインファーマシーズが展開する化粧品中心のドラッグストアチェーン店。銀座では他に、銀座8丁目に銀座並木通り店がある。
  32. 銀座では他に、銀座4丁目にハープ&フルートサロン Hanare店がある。
  33. あんパン」発祥店として知られている。
  34. 銀座では他に、銀座5丁目にロテスリーレカン銀座店がある。
  35. ショーメ、ヴァンクリーフ&アーペル、ブシュロン、モーブッサンと共に、パリのヴァンドーム広場界隈に本店を構える"グランサンク"と(日本でのみ)括られる高級宝飾店の一つ。
  36. 東京には銀座と南青山店がある。パリ16区パッシー通り、パリ1区サントノレ通りマレ地区パリ4区フラン・ブルジョワ通りなどパリ市内各所で展開する、1997年創業のフランス発のブランド。
  37. 1930年、ミュンヘン創業のドイツ発の惣菜からハム、ソーセージ、ワイン、ビールまでの食料品店(デリカテッセン)。以降、レストランから配達(ケータリング)まで展開している総合食料品事業を本国や欧州で営む。日本では、1992年以降、三越全店内で店開している。
  38. 1942年、パリのモンパルナス地区で創業したブーランジュリー。日本では1983年に銀座三越店の第一号店開店から、三越各店内中心に16店舗がある。 
  39. 1854年、アムステルダムで創業した"三大カッティング(カッターズ)ブランド"の一つ。1980年にオランダのユリアナ女王から"アッシャー"に"ロイヤル"の名を冠され、現社名となった。
  40. 1927年、ボローニャで創業したイタリア発のバッグなど革アイテムのブランド。
  41. 読み方は"エステバン"。マレ地区パリ4区フラン・ブルジョワ通り本店やサン=ジェルマン=デ=プレ地区パリ6区レンヌ通りにある1979年創業、南仏発の香水店。1996年、日本香堂傘下のグループ会社になった。
  42. 築地に総本店がある。銀座では他に、銀座8丁目に博品館店がある。
  43. それまであった老舗古書店の奥村書店が閉店したのにともない、2010年、同書店員が同じ歌舞伎座界隈に独立開業した古書店。歌舞伎や映画を中心とする古本屋。
  44. 隣接する日比谷側の有楽町に路面店ないし旗艦店がある。
  45. 東京には銀座の他、青山Ao渋谷東急百貨店本店に店舗がある。1973年サン=ジェルマン=デ=プレ地区パリ6区フール通り発祥、フランス各地で展開するブランド。
  46. パリジェンヌの靴に惹かれ制作された革靴からスポーティブシューズ、バッグなど革アイテムからアパレルまで取り扱う1851年創業スイス発のブランド(「DICTIONARY バリー」GQジャパン、NO.177 2018年3月3日号)。
  47. ロートレックの作品などアールヌーヴォーの店内装飾で知られるパリ8区ロワイヤル通りマキシム本店のライセンスブランド店だった。GINZA SIXの「THE GRAND GINZA (ザ・グラン銀座)」でマキシムの"苺のミルフィーユ"が販売されている。
  48. 1948年に現在地で創業した、おかきを主とした米菓・和菓子店。銀座では他に、松屋銀座や銀座三越にある。
  49. 1946年に現在地で甘味とかき氷店として創業した和菓子屋。2階はあんみつお汁粉等の甘味喫茶室(「愛情が直に伝わる老舗和菓子店 銀座 鹿乃子の、親子2代…」 CAFE.TOKYO 2015年12月20日)。
  50. 1986年に日本で初めてベルギーワッフルを販売した大阪発の店舗。
  51. 江戸時代から京都に店舗を構える書画用品の専門店。銀座には、銀座煉瓦街の時代から路面店を構える老舗
  52. ミシュランガイド2つ星のパリ1区サントノレ通り本店のライセンスブランド店になる。
  53. 江戸時代の元和3年に京都で創業。1872年の東京遷都と共に東京八重洲に移転し、関東大震災第二次世界大戦等で店舗が消失したのを期に銀座に移転。
  54. 1950年、静岡の旧清水市で創業。ランドセルや、甲州印伝のバッグ専門店。
  55. エベレスト登山隊にも採用された、肌着専門店(「保温力でエベレスト登山隊に貢献…zakzak、2015年9月30日)。
  56. 1930年、新橋駅近くで創業したドイツ料理風ステーキ等の洋食屋。銀座では他に、銀座1丁目に和牛グリルつばめやがある。
  57. BUNMEIDO CAFE は併設のカフェレストラン。銀座では他に、歌舞伎座横のカフェレストラン併設の東銀座店の他、松屋銀座、銀座三越にある。
  58. 銀座では他に、銀座三越、GINZA SIX に店舗がある。
  59. 赤坂トゥール・ダルジャンなど数店の高級フランス料理店にも卸す、1988年創業の茶葉専門店。銀座では他に、銀座三越に店舗がある。
  60. 創業100年のオーダーメイドスーツチェーン店。銀座界隈のオーダーメイドスーツ店は他に、銀座SAKAEYA、銀座テーラーなどがある。
  61. 第二次世界大戦後、流行の先端を牽引した婦人服や雑貨を取り扱う小松ストアーがあった地。小松ストアーを開業した小坂武雄の父小坂梅吉日比谷松本楼開業者で、松本楼の発祥地である銀座松本楼(小松食堂)があった地にもなる。
  62. 銀座では他に、マロニエゲート2に店舗がある。
  63. サクレ・クール寺院南側のパリ9区マルティル(殉教者)通りに、イギリス人夫婦が2002年に開店したカフェのライセンスブランド店になる。
  64. 1947年、数寄屋橋で創業した靴&バッグ等の革アイテムブランド店。銀座では他に、元の本店であった銀座4丁目店がある。
  65. 1948年、銀座すずらん通り(現在地裏手付近)で創業した靴&バッグ等の革アイテムブランド店。銀座では他に、マロニエゲート銀座2店がある。
  66. 1907年、尾張町(銀座6丁目)で創業した靴専門店。
  67. 1903年、現在地で創業した、パイプ等の喫煙具専門店。
  68. 元の場所にあった松坂屋銀座店は2013年6月30日を以って閉店。ただし、公式サイトでは「一旦営業を終了」という記述があり、公式見解では営業再開を前提としていると思われたため、"完全閉店"ではないと一部で見られていた。
  69. 1994年ミラノ創業の革アイテム中心のイタリアブランド。海外ではパリ8区モンテーニュ大通り等にある他、日本上陸は2002-12年南青山にあった旗艦店から(「マルニ / MARNIVOUGUE)。銀座・有楽町界隈では他に、松屋銀座、銀座三越、阪急メンズ東京にある。
  70. ピエール・エルメ監修のディオールカフェないしブラッスリー
  71. フランス語オートクチュールの性格を美容院に置き換えたような"高級美容院"の意。1957年にパリ8区フォーブール=サントノレ通り120番地に開店した美容サロンが発祥。2017年、南青山5丁目とGINZA SIXに直営サロンを開店。銀座では他に、松屋銀座店内に店舗がある。現在は、ヘアアクセサリーブランドやコスメ(ロレアル製造)も展開。ウィンザー公爵夫人グレース・ケリーモナコ大公妃、ローレン・バコールマリア・カラスミシェル・モルガンオードリー・ヘップバーングレタ・ガルボソフィア・ローレンロミー・シュナイダー・・らが顧客だったとのこと。2016年から日本の八木通商の所有ブランド(公式HP「アレクサンドルドゥパリ 美しい物語」「同 about」「同 ブランド紹介」、仏公式HP「Alexandre de Paris」、fashionsnap.com. 「八木通商 アレクサンドルドゥパリ株取得 」2016年9月17日 ・・など参照)。
  72. 現在はロレアル傘下の化粧品コスメブランド。
  73. パリのサントノレ通りなどに店舗があるトランクなど革製品のフランス老舗高級ブランド。
  74. 施設の老朽化等を理由に、2017年に渋谷の松濤から移転。
  75. 神戸岡本に本店があるショコラパティスリー。東京では他に、南青山6丁目や麻布十番に路面店がある。
  76. 現在はドラッグストアとしては閉店。暫く空きテナントとなっていたが、再び「くすりの福太郎」が入居し、調剤薬局として営業している。銀座では他に、銀座1丁目店、銀座5丁目店がある。
  77. 銀座では他に、松屋銀座店、銀座三越店がある。
  78. 銀座では他に、松屋銀座店がある。
  79. 2008年9月13日に開店した同銀座店は同社の日本第1号店であったが、2018年7月16日をもって閉店。
  80. パリのベル・エポックに触発された1924年、イタリアのヴァレンツァで創業したジュエリーブランド。
  81. 2015年9月に開店した三陽商会のレーベル(ブランド)を集積したビル(「三陽銀座タワーがオープン - マッキントッシュ ロンドンなど三陽商会の展開ブランドが集結」 fashion-press)。
  82. 三陽商会のレーベル(ブランド)の一つになり、三陽銀座タワー内にある旗艦店。銀座・有楽町界隈では他に、松屋銀座や阪急メンズ東京に店舗があり、また、1981年以来神宮前に路面店がある。
  83. オンワード樫山のオリジナルブランド。銀座では他に、松屋銀座、マロニエゲート2&3 に店舗がある。
  84. 銀座では他に、アシックスウィメンマロニエゲート銀座2、アシックスウォーキング銀座インズ、同イグジットメルサ(期間限定店)に店舗がある。
  85. 軍艦巻き」発祥店として知られている。
  86. 1921年(大正10年)、築地創業の寿司岩が本店。築地本店の他に、銀座では同店と銀座三越店がある。
  87. 銀座では他に、銀座5丁目に銀座5th店がある。
  88. 略称SOS、現在はSOSモデル・エージェンシーとも、1957年に菅原文太岡田眞澄ら総勢8名で発足した日本初の男性専門モデル・クラブ、後年には女性も所属。
  89. 旧・東京南部小包集中局。更に遡って明治時代には旧逓信省もここにあった。
  90. 銀座ファイブ内にある。その他に、パリ6区・パリ7区境界界隈セーヴル通りなど国内外で店舗展開している。1987年、アントワープ創業のベルギー発のカジュアルバッグのブランド。
  91. 銀座ファイブ内にある。その他、表参道交差点界隈北青山等にも路面店がある。大阪ミナミ発のイタリアンスタイルの靴のブランド。
  92. 銀座ファイブ内にある。日本刀、刀装具、火縄銃甲冑・・等の武具を銀座で販売している店舗としてメディアに取り上げられる事が多い。

出典

  1. 1.0 1.1 町丁目別世帯数男女別人口”. 中央区 (2017年12月5日). . 2017閲覧.
  2. 2.0 2.1 郵便番号”. 日本郵便. . 2017閲覧.
  3. 市外局番の一覧”. 総務省. . 2017閲覧.
  4. 4.0 4.1 浅井建爾 2001, p. 154.
  5. 銀座八丁―町名の変遷”. ウェブサイト. 銀座まちづくり会議・銀座デザイン協議会. . 2018閲覧.
  6. 行政区画上、銀座八丁目の管轄となっている。なお、建物の上は道路になっている。
  7. 1968年(昭和43年)12月28日自治省告示第243号「住居表示が実施された件」
  8. 1969年(昭和44年)7月2日自治省告示第113号「住居表示が実施された件」
  9. 岡本 12頁
  10. 江戸の道路と地形-地図趣味のすすめ”. . 2012/12/25閲覧.
  11. 岡本 26頁
  12. ヒストリー銀座Tokyo Ginza Official
  13. The Ginza in the late 19th century, with Japanese narration - YouTube藤森照信、Massachusetts Institute of Technology, 2009)
  14. 小野一成「繁華街としての銀座」『銀座 街の物語』 81頁
  15. 大石学『駅名で読む江戸・東京』、237頁
  16. 1930年代の銀座 - 銀座を練り歩く資生堂石鹸のキャンペーンガールたち(Massachusetts Institute of Technology所蔵)
  17. 『銀座 街の物語』 119頁
  18. http://diamond.jp/articles/-/77270 銀座の免税店競争が過熱、ラオックス、三越にロッテも参入 週刊ダイヤモンド編集部2015年8月25日
  19. 区立学校一覧”. 中央区 (2017年8月17日). . 2017閲覧.
  20. 三枝進「銀座の未来」『銀座 街の物語』 111頁
  21. 堺観光ものがたり 観光案内版「堺の昔ばなし」

参考文献

  • 浅井建爾 『道と路がわかる辞典』 日本実業出版社、2001-11-10、初版。ISBN 4-534-03315-X。
  • 大石学 『駅名で読む江戸・東京』 PHP研究所 (PHP新書)、2003年1月、ISBN 978-4569625720
  • 岡本哲志『銀座四百年 都市空間の歴史』(講談社・2006年)
  • 川崎房五郎『国史大辞典』4巻「銀座」(吉川弘文館、1984年)
  • 三枝進ほか『銀座 街の物語』(河出書房新社・2006年)
  • 田谷博吉『近世銀座の研究』(吉川弘文館、1963年)

世界各地の"銀座"

関連項目

外部リンク