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日本への原子爆弾投下(にほんへのげんしばくだんとうか)は、第二次世界大戦の末期に当たる1945年8月に、アメリカ軍が日本に投下した二発の原子爆弾による空爆である。人類史上初、なおかつ世界で唯一核兵器が実戦使用された例である。
- 1945年8月6日に広島市に投下された原子爆弾については広島市への原子爆弾投下
- 1945年8月9日に長崎市に投下された原子爆弾については長崎市への原子爆弾投下をそれぞれ参照。
本稿ではこの2発の原子爆弾に併せて、投下されなかった3発目の原子爆弾について総論的に述べる。
投下の理由
太平洋戦争(大日本帝国では大東亜戦争、アメリカでは第二次世界大戦太平洋戦線)における日本列島での上陸直接戦闘(ダウンフォール作戦、日本軍では「本土決戦」)を避け、早期に決着させるために、原子爆弾が使用されたとするのが、アメリカ合衆国連邦政府による公式説明である。
第二次世界大戦後の世界覇権を狙うアメリカが、原子爆弾を実戦使用することによりその国力・軍事力を世界に誇示する戦略であったとする説や、併せてその放射線障害の人体実験を行うためであったという説、更にはアメリカ軍が主導で仕組んだ説があり、広島にはウラン型、長崎へはプルトニウム型とそれぞれ違うタイプの原子爆弾が使用された。豊田利幸はウランの核爆発が実験で確認できなかったためと推測している[1]。
原子爆弾投下の背景と経緯
日本への原子爆弾投下までの道程は、その6年前のルーズベルト第32代アメリカ合衆国大統領に届けられた科学者たちの手紙にさかのぼる。そして、マンハッタン計画(DSM計画)により開発中であった原子爆弾の使用対象として日本が決定されたのは1943年5月であった。一方で、原子爆弾投下を阻止しようと行動した人々の存在もあった。
具体的に広島市が目標と決定されたのは1945年5月10日であり、長崎市は投下直前の7月24日に予備目標地として決定された。また、京都市や新潟市や小倉市(現・北九州市、長崎市に投下された原子爆弾・ファットマンの当初目標地)などが候補地とされていた。
イギリスとアメリカと日本における政策上の背景と経緯
1939年1月、イギリス国王書簡局発行『年2回刊 陸軍将校リスト 1939年1月号』に、昭和天皇の名がイギリス正規軍の陸軍元帥として掲載される[2]
1939年8月2日、イギリス委任統治領パレスチナのヘブライ大学建設資金集めに尽力してきたユダヤ人アインシュタインが、フランクリン・ルーズベルト大統領に宛てた手紙(アインシュタイン=シラードの手紙)で、「大量のウランが核分裂連鎖反応を起こす現象は、新型爆弾の製造につながるかもしれない。飛行機で運ぶには重過ぎるので、船で運んで港湾ごと爆破することになる。アメリカで連鎖反応を研究している物理学者グループからなる諮問機関をつくるのがいい」と進言。
1939年9月1日、第二次世界大戦勃発。
1939年10月11日、その手紙(アインシュタイン=シラードの手紙)がフランクリン・ルーズベルト大統領に届けられる。
1939年10月21日、アメリカはウラン諮問委員会を設置。
1940年4月10日、イギリスが、第一回ウラン爆発軍事応用委員会(MAUD委員会)の会議を開催。
1940年4月、理研の仁科芳雄がウラン爆弾計画を安田武雄陸軍航空技術研究所長に進言[3]。
1940年4月、安田武雄中将が部下の鈴木辰三郎[注 1]に「原子爆弾の製造が可能であるかどうか」について調査を命じた。
1940年6月、鈴木辰三郎は東京帝国大学の物理学者嵯峨根遼吉(当時は助教授)の助言を得て、2か月後に「原子爆弾の製造が可能である」ことを主旨とする報告書を提出[注 2]。
1940年7月6日、すでに理研の仁科芳雄等がイギリスの学術雑誌ネイチャーに投稿してあった『Fission Products of Uranium produced by Fast Neutrons(高速中性子によって生成された核分裂生成物)』と題する、2個の中性子が放出される(n. 2n)反応や、複数の対象核分裂を伴う核分裂連鎖反応(臨界事故)を起こした実験成果が、掲載された[4]。この実験では臨界量を超える天然ウラン(ウラン238-99.3%, ウラン235-0.7%)に高速中性子を照射したわけだが、現在ではそのことによってプルトニウム239が生成されることや、核爆発を起こすことが知られている[5]。
1941年4月、大日本帝国陸軍が理研に原爆の開発を依頼。二号研究と名付けられた[6]。
1941年7月15日、イギリスのウラン爆発軍事応用委員会(MAUD委員会)は、ウラン爆弾が実現可能だとする最終報告を承認して解散。
1941年10月3日、イギリスのウラン爆発軍事応用委員会(MAUD委員会)最終報告書が、公式にフランクリン・ルーズベルト大統領に届けられる。
1941年11月末、後に連合国軍最高司令官総司令部の主要メンバーとなるユダヤ人ベアテ・シロタ・ゴードンの母で、大日本帝国貴族院議員のサロンを主催していたオーギュスティーヌが、夫レオ・シロタと共にハワイから再来日。
1941年12月8日、日本がイギリス領マラヤでマレー作戦を、アメリカ準州のハワイで真珠湾攻撃をし、太平洋戦争が勃発するとともに、日本は第二次世界大戦に参戦することとなった。
1942年9月26日、アメリカの軍需生産委員会が、マンハッタン計画を最高の戦時優先等級に位置づけた。
1942年10月11日、アメリカはイギリスにマンハッタン計画への参画を要請。
1944年7月9日、朝日新聞に、『決勝の新兵器』と題して「ウラニウムに中性子を当てればよいわけだが、宇宙線には中性子が含まれているので、早期爆発の危険がある。そこで中性子を通さないカドミウムの箱に詰め、いざという時に覆をとり、連鎖反応を防ぐために別々に作ったウラニウムを一緒にして中性子を当てればよい。」という記事が掲載された。ウラン原爆の起爆操作と全く同じであった。[7]
ルーズベルトの決断
1939年9月1日に第二次世界大戦が勃発した。ユダヤ人迫害政策を取るナチス党率いるドイツから逃れてアメリカに亡命していた物理学者のレオ・シラードたちは、当時研究が始まっていた原子爆弾をドイツが保有することを憂慮し、アインシュタインとの相談によって、原子爆弾の可能性と政府の注意喚起をルーズベルト大統領へ進言する手紙(アインシュタイン=シラードの手紙)を作成した[8]。アインシュタインの署名を得たこの手紙は1939年10月11日に届けられた[9]。その手紙には原子爆弾の原材料となるウラニウム(ウラン)鉱石の埋蔵地の位置も示されていた。ヨーロッパのチェコのウラン鉱山はドイツの支配下であり、アフリカのコンゴのウラン鉱山をアメリカが早急におさえることをほのめかしている[10]。ルーズベルト大統領は意見を受けてウラン諮問委員会を一応発足させたものの、この時点ではまだ核兵器の実現可能性は未知数であり、大きな関心は示さなかった[11]。
2年後の1941年7月、イギリスの亡命物理学者オットー・フリッシュ (Otto Robert Frisch) とルドルフ・パイエルスがウラン型原子爆弾の基本原理とこれに必要なウランの臨界量の理論計算をレポートにまとめ、これによってイギリスの原子爆弾開発を検討する委員会であるMAUD委員会が作られた[12][13]。そこで初めて原子爆弾が実現可能なものであり、航空爆撃機に搭載可能な大きさであることが明らかにされた[14][15]。ウィンストン・チャーチル英国首相が北アフリカでのイギリス軍の大敗などを憂慮してアメリカに働きかけ、このレポートの内容を検討したルーズベルト米国大統領は1941年10月に原子爆弾の開発を決断した。
1942年6月、ルーズベルトはマンハッタン計画を秘密裏に開始させた。総括責任者にはレズリー・グローヴス准将を任命した。1943年4月にはニューメキシコ州に有名なロスアラモス研究所が設置される。開発総責任者はロバート・オッペンハイマー博士。20億ドルの資金と科学者・技術者を総動員したこの国家計画の技術上の中心課題はウランの濃縮である。テネシー州オークリッジに巨大なウラン濃縮工場が建造され、2年後の1944年6月には高濃縮ウランの製造に目途がついた。
1944年9月18日、ルーズベルト大統領とチャーチル首相は、ニューヨーク州ハイドパークで首脳会談した。内容は核に関する秘密協定(ハイドパーク協定)であり、日本への原子爆弾投下の意志が示され、核開発に関する米英の協力と将来の核管理についての合意がなされた。
前後して、ルーズベルトは原子爆弾投下の実行部隊(第509混成部隊)の編成を指示した。混成部隊とは陸海軍から集めて編成されたための名前である。1944年9月1日に隊長を任命されたポール・ティベッツ陸軍中佐は、12月に編成を完了し(B-29計14機および部隊総員1,767人)、ユタ州のウェンドバー基地で原子爆弾投下の秘密訓練を開始した。1945年2月には原子爆弾投下機の基地はテニアン島に決定され、部隊は1945年5月18日にテニアン島に移動し、日本本土への原爆投下に向けた準備を開始した。
原子爆弾投下阻止の試みと挫折
デンマークの理論物理学者ニールス・ボーアは、1939年2月7日、ウラン同位体の中でウラン235が低速中性子によって核分裂すると予言し、同年4月25日に核分裂の理論を米物理学会で発表した。この時点ではボーアは自分の発見が世界にもたらす影響の大きさに気づいていなかった。
1939年9月1日第二次世界大戦が勃発し、ドイツによるヨーロッパ支配拡大とユダヤ人迫害を見て、ボーアは1943年12月にイギリスへ逃れた。そこで彼は米英による原子力研究が平和利用ではなく、原子爆弾として開発が進められていることを知る。原子爆弾による世界の不安定化を怖れたボーアは、これ以後ソ連も含めた原子力国際管理協定の必要性を米英の指導者に訴えることに尽力することになる。
1944年5月16日にボーアはチャーチル首相と会談したが説得に失敗、同年8月26日にはルーズベルト大統領とも会談したが同様に失敗した。逆に同年9月18日の米英のハイドパーク協定(既述)では、ボーアの活動監視と、当時英米との対立姿勢が目立ってきたソビエト連邦との接触阻止が盛り込まれてしまう。さらに、ルーズベルト死後の1945年4月25日にボーアは科学行政官のバネバー・ブッシュと会談し説得を試みたが、彼の声が時の政権へ届くことはなかった。
また、1944年7月にシカゴ大学冶金研究所のアーサー・コンプトンが発足させたジェフリーズ委員会が原子力計画の将来について検討を行い、1944年11月18日に「ニュークレオニクス要綱」をまとめ、原子力は平和利用のための開発に注力すべきで、原子爆弾として都市破壊を行うことを目的とすべきではないと提言した。しかし、この提言が生かされることがなくなったのは、トルーマンが政権を引き継いでからのことである。なお、ルーズベルトは、原子爆弾を最初から日本に投下するつもりはなく、1944年5月に日本への無条件降伏の要求を取り下げ、アメリカ合衆国国務省極東局長を対日強硬策を布いたスタンリー・クール・ホーンベックから、駐日アメリカ合衆国大使を務めたことのあるジョセフ・グルーに交代するなど、日本への和平工作を行っていた[16]。これらのアメリカ側の動きを日本側は、アメリカ軍の損耗を最小限にするため行っているという認識であったが、ルーズベルトは、国共内戦が勃発することを恐れており、その予防に兵力を振り向けたい思いで、動いていたのであった[16]。
トルーマン政権と軍の攻防、和平工作の破綻
ルーズベルトが急死したことによって、急遽、副大統領だったトルーマンが大統領に昇進した。
ドイツ降伏後の1945年5月28日には、アメリカに核開発を進言したその人であるレオ・シラードが、後の国務長官バーンズに原子爆弾使用の反対を訴えている[17]。バーンズはマンハッタン計画の責任者の一人として、東ヨーロッパで覇権を強めるソ連を牽制するために、日本に対する原爆攻撃を支持しており、天皇制の護持が容れられれば、日本には終戦交渉の余地があるとする、戦後日本を有望な投資先と考える国務次官ジョセフ・グルー、陸軍長官ヘンリー・スティムソン、海軍長官ジェームズ・フォレスタルら三人委員会とは正反対の路線であった。
1945年6月11日には、シカゴ大学のジェイムス・フランクが、グレン・シーボーグ、レオ・シラード、ドナルド・ヒューズ、J・C・スターンス、ユージン・ラビノウィッチ、J・J・ニクソンたち7名の科学者と連名で報告書「フランクレポート」を大統領諮問委員会である暫定委員会に提出した[18]。その中で、社会倫理的に都市への原子爆弾投下に反対し、砂漠か無人島でその威力を各国にデモンストレーションすることにより戦争終結の目的が果たせると提案したが、暫定委員会の決定が覆ることはなかった。また同レポートで、核兵器の国際管理の必要性をも訴えていた[19]。
さらに1945年シカゴ大治金研究所で7月12日、原爆の対日使用に関するアンケー卜があった。それによると、科学者150人のうちの85%が無警告での原爆投下に反対を表明している。7月17日にもシラードら科学者たちが連名で原子爆弾使用反対の大統領への請願書 (Szilard petition) を提出したが、原爆投下前に大統領に届けられることはなかった[20]。しかし実際には、レスリー・グローブス陸軍少将らが請願書を手元に置き、大統領には届かないように防害した。
軍人では、アイゼンハワー将軍が、対日戦にもはや原子爆弾の使用は不要であることを1945年7月20日にトルーマン大統領に進言しており[21]、アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ提督も、都市への投下には消極的でロタ島への爆撃を示唆している。また政府側近でも、ラルフ・バードのように原子爆弾を使用するとしても、事前警告無しに投下することに反対する者もいた。
また、大統領だったトルーマン自身も、自身の日記に「原爆の投下場所は、軍事基地を目標にする事。決して一般市民をターゲットにする事がないようにとスティムソンに言った。」と書いていたため、市民の上への原爆投下には反対していたことが明らかになっている。
しかしマンハッタン計画の責任者だったグローブスは、原爆による最大の破壊効果を得たいが為に「広島は軍事都市である」との偽装した報告書を提出した挙げ句、勝手に原爆投下指令書を作成した(当然ながら大統領だったトルーマンがそれを許可した証拠はない)。そして、ワシントンで原爆投下の一報を聞いたグローブスは、原爆開発をした科学者たちに対し「君たちを誇りに思う。」とねぎらったという。
原子爆弾投下都市の選定経緯
広島と長崎が原子爆弾による攻撃目標となった経緯[22]は、日本の各都市への通常兵器による精密爆撃や焼夷弾爆撃が続けられる中で、以下のようなものであった。
1943年5月5日 軍事政策委員会、最初の原子爆弾使用について議論され、トラック島に集結する日本艦隊に投下するのがよいというのが大方の意見であった[23]。
1944年11月24日~翌3月9日 通常兵器による空爆第一期。軍需工場を主要な目標とした精密爆撃の時期。ただし、カーチス・ルメイ陸軍少将による焼夷弾爆撃も実験的に始められていた。
1945年3月10日~6月15日 通常兵器による空爆第二期。大都市の市街地に対する焼夷弾爆撃の時期。
1945年4月12日のルーズベルト大統領の急死により、副大統領であったトルーマンが大統領に就任した。ルーズベルトの原子爆弾政策を継いだトルーマンに、「いつ・どこへ」を決定する仕事が残された。4月25日にヘンリー・スティムソンと、レスリー・グローブスがホワイトハウスに訪れ、原爆投下に関する資料を提出(しかしこの際トルーマンは、「資料を見るのは嫌いだ」と語ったという)。
1945年4月中旬~5月中旬 沖縄戦を支援するために九州と四国の飛行場を重点的に爆撃、大都市への焼夷弾爆撃が中断した。このため京都大空襲が遅れた[23]。
1945年4月27日、第1回目標選定委員会(アメリカ政府には極秘に行われていた)で、
- 日本本土への爆撃状況について、第20航空軍が「邪魔な石は残らず取り除く」という第一の目的をもって、次の都市を系統的に爆撃しつつあると報告した。東京都区部、横浜市、名古屋市、大阪市、京都市、神戸市、八幡市、長崎市[23]。
- 次の17都市および地点が研究対象とされた。東京湾、川崎市、横浜市、名古屋市、京都市、大阪市、神戸市、広島市、呉市、下関市、山口市、八幡市、小倉市、熊本市、福岡市、長崎市、佐世保市。
1945年5月10日-11日、第2回目標選定委員会、ロスアラモスのオッペンハイマー博士の執務室で、8月初めに使用予定の2発の原子爆弾の投下目標として、次の4都市が初めて選定された[23]。
- 京都市:AA級目標
- 広島市:AA級目標
- 横浜市:A級目標
- 小倉市:A級目標
このとき以下の3基準が示された[23]。
- 直径3マイルを超える大きな都市地域にある重要目標であること。
- 爆風によって効果的に破壊しうるものであること。
- 来る8月まで爆撃されないままでありそうなもの。
1945年5月28日、第3回目標選定委員会、京都市、広島市、新潟市に投下する地点について重要な決定がされ、横浜市と小倉市が目標から外された[23]。
- 投下地点は、気象条件によって都度、基地で決定する。
- 投下地点は、工業地域の位置に限定しない。
- 投下地点は、都市の中心に投下するよう努めて、1発で完全に破壊する。
これらの原子爆弾投下目標都市への空爆の禁止が決定された。禁止の目的は、原爆のもたらす効果を正確に測定把握できるようにするためである。これが「○○には空襲がない」という流言を生み、一部疎開生徒の帰郷や、他の大都市からの流入を招くこととなった。
1945年6月1日、暫定委員会(委員長:ヘンリー・スチムソン陸軍長官)は、
- 原子爆弾は日本に対してできるだけ早期に使用すべきであり、
- それは労働者の住宅に囲まれた軍需工場に対して使用すべきである。
- その際、原子爆弾について何らの事前警告もしてはならない。
と決定した[23]。なお原子爆弾投下の事前警告については、BBC(ニューデリー放送)やVOA(サイパン放送)で通告されていたという説もある[24]が、確認されていない。
この経過の中で、4つの目標都市のうち京都が次の理由から第一候補地とされていた[23]。
- 人口100万を超す大都市であること。
- 日本の古都であること。
- 多数の避難民と罹災工業が流れ込みつつあったこと。
- 小さな軍需工場が多数存在していること。
- 原子爆弾の破壊力を正確に測定し得る十分な広さの市街地を持っていること。
しかし、フィリピン総督時代に京都を訪れたことのあるスチムソン陸軍長官の強い反対[25]や、戦後、「アメリカと親しい日本」を創る上で、京都には千数百年の長い歴史があり、数多くの価値ある日本の文化財が点在、これらを破壊する可能性のある原子爆弾を京都に投下したならば、戦後、日本国民より大きな反感を買う懸念があるとの観点から、京都への原子爆弾投下は問題であるとされた。
1945年6月14日、京都市が除外され、目標が小倉市、広島市、新潟市となる。しかし京都への爆撃禁止命令は継続された[23]。
1945年6月16日~終戦まで、通常兵器による空爆第三期。中小都市への焼夷弾爆撃の時期。
1945年6月30日、アメリカ軍統合参謀本部がマッカーサー将軍、ニミッツ提督、アーノルド大将宛に、原子爆弾投下目標に選ばれた都市に対する爆撃の禁止を指令。同様の指令はこれ以前から発せられており、ほぼ完全に守られていた[26][23]。
- 新しい指令が統合参謀本部によって発せられない限り、貴官指揮下のいかなる部隊も、京都・広島・小倉・新潟を攻撃してはならない。
- 右の指令の件は、この指令を実行するのに必要な最小限の者たちだけの知識にとどめておくこと。
1945年7月3日、それでもなお、京都市が京都盆地に位置しているので原子爆弾の効果を確認するには最適として投下を強く求める将校、科学者も多く存在し、その巻き返し意見によって再び京都市が候補地となった[23]。
1945年7月20日、パンプキン爆弾による模擬原子爆弾の投下訓練が開始された[27]。
1945年7月21日、ワシントンのハリソン陸軍長官特別顧問(暫定委員会委員長代行)からポツダム会談に随行してドイツに滞在していたスチムソン陸軍長官に対して、京都を第一目標にすることの許可を求める電報があったが、スチムソンは直ちにそれを許可しない旨の返電をし、京都市の除外が決定した[26][23]。
1945年7月24日、京都市の代わりに長崎市が、地形的に不適当な問題があるものの目標に加えられた。スチムソン陸軍長官の7月24日の日記には「もし(京都の)除外がなされなければ、かかる無茶な行為によって生ずるであろう残酷な事態のために、その地域において日本人を我々と和解させることが戦後長期間不可能となり、むしろロシア人に接近させることになるだろう(中略)満州でロシアの侵攻があった場合に、日本を合衆国に同調させることを妨げる手段となるであろう、と私は指摘した。」とあり、アメリカが戦後の国際社会における政治的優位性を保つ目的から、京都投下案に反対したことが窺える[26][23]。トルーマン大統領のポツダム日記7月25日の項にも「目標は、水兵などの軍事物を目標とし、決して女性や子供をターゲットにする事が無いようにと、スティムソンに言った。たとえ日本人が野蛮であっても、共通の福祉を守る世界の指導者たるわれわれとしては、この恐るべき爆弾を、かつての首都にも新しい首都にも投下することはできない。その点で私とスティムソンは完全に一致している。目標は、軍事物に限られる。」とある[26]。
1945年7月25日、マンハッタン計画の最高責任者レスリー・グローブスが作成した原爆投下指令書が発令される(しかし、それをトルーマン大統領が承認した記録はない)。ここで「広島・小倉・新潟・長崎のいずれかの都市に8月3日ごろ以降の目視爆撃可能な天候の日に「特殊爆弾」を投下する」とされた[26][27][23]。
1945年8月2日、第20航空軍司令部が「野戦命令第13号」を発令し、8月6日に原子爆弾による攻撃を行うことが決定した。攻撃の第1目標は「広島市中心部と工業地域」(照準点は相生橋付近)、予備の第2目標は「小倉造兵廠ならびに同市中心部」、予備の第3目標は「長崎市中心部」であった[27][23]。
1945年8月6日、広島市にウラニウム型原子爆弾リトルボーイが投下された。
1945年8月8日、第20航空軍司令部が「野戦命令第17号」を発令し、8月9日に2回目の原子爆弾による攻撃を行うことが決定した。攻撃の第1目標は「小倉造兵廠および市街地」、予備の第2目標は「長崎市街地」(照準点は中島川下流域の常盤橋から賑橋付近)であった[27][28]。
1945年8月9日、第1目標の小倉市上空が八幡空襲で生じた靄による視界不良であったため、第2目標である長崎市にプルトニウム型原子爆弾ファットマンが投下された。
1945年8月10日、トルーマンが全閣僚を集め、これ以上の原爆投下を中止する指令を出す。
模擬原子爆弾「パンプキン」の投下訓練
1945年7月20日以降、第509混成部隊は長崎に投下する原子爆弾(ファットマン)と同形状の爆弾に通常爆薬を詰めたパンプキン爆弾(総重量4,774kg、爆薬重量2,858kg)の投下訓練を繰り返した。すなわち、原子爆弾の投下予行演習である。テニアン島から日本列島の原子爆弾投下目標都市まで飛行して都市を目視観察した後に、その周辺の別な都市に設定した訓練用の目標地点に正確にパンプキンを投下する練習が延べ49回、30都市で行われた。
パンプキン練習作戦は、1945年7月24日、7月26日、7月29日、8月8日及び8月14日と終戦直前まで行われた。
原子爆弾の輸送とインディアナポリス撃沈事件
パンプキン爆弾による訓練に並行して、完成した原子爆弾を部品に分けての輸送が行われた。損傷の修理のために戦列を離れていたアメリカ海軍のポートランド級重巡洋艦インディアナポリスは、原子爆弾運搬の任務を与えられ1945年7月16日にサンフランシスコを出港し、7月28日にテニアン島に到着した。また、アメリカ陸軍航空隊のダグラスC-54スカイマスター輸送機がウラン235のターゲットピースを空輸した。この原子爆弾の最終組立は、テニアン島の基地ですべて極秘に行われた。
このインディアナポリスは、帰路の1945年7月30日フィリピン海で、橋本以行海軍中佐が指揮する日本海軍の伊号第五八潜水艦の魚雷によって撃沈されている(インディアナポリス撃沈事件)。この潜水艦は、当時、特攻兵器である人間魚雷回天を搭載しており、回天隊員から出撃要求が出されたが、「雷撃でやれる時は雷撃でやる」と通常魚雷で撃沈した。インディアナポリスの遭難電報は無視され、海に投げ出された乗員の多くが疲労・低体温症・サメの襲撃にあって死亡した。そのため、原子爆弾には「インディアナポリス乗員の思い出に」と白墨(チョーク)で記された。インディアナポリスの艦長はその後軍法会議に処せられたが、自艦を戦闘で沈められたために処罰された艦長は珍しい。第二次世界大戦後、米軍は原爆輸送の機密漏洩を疑い、橋本潜水艦長を長く尋問したが、その襲撃は偶然であった。インディアナポリスがテニアン島への往路に撃沈されていれば、1945年8月6日の広島市への原子爆弾投下は不可能となっていた。
日本の対応
1945年当時、大本営と帝国陸軍中央特種情報部(特情部)は、サイパン島方面のB-29部隊について、主に電波傍受によってその動向を24時間体制で監視していた。大本営陸軍部第2部第6課(情報部米英課)に所属していた堀栄三が後に回想したところによれば、第509混成部隊がテニアン島に進出したことや、進出してきたB-29の中の一機が飛行中に長文の電報をワシントンD.C.に向けて打電したこと(このようなことは通常発生しない)、それ以前からサイパン方面に存在していた他のB-29部隊が基本的にV400番台、V500番台、V700番台のコールサインを用いていたのと異なり、第509混成部隊がV600番台のコールサインを使用していたことから、東京都杉並区にあった陸軍特殊情報部(現在、高井戸に在る社会福祉法人浴風会 本館内)では新部隊の進出を察知していた[29]。
その後1945年6月末ごろから、この「V600番台」のB-29がテニアン島近海を飛行し始め、7月中旬になると日本近海まで単機又は2、3機の小編隊で進出しては帰投する行動を繰り返すようになったことから、これらの機体を特情部では「特殊任務機」と呼び警戒していた。しかし、これらのB-29が原爆投下任務のための部隊であったことは、原子爆弾投下後のトルーマン大統領の演説によって判明したとのことであり、「特殊任務機」の目的を事前に察知することはできなかった[30]。だが、事態が判明した後の長崎原爆投下を阻止しようとしなかったのかについては不明であり【要出典】、付近に当時日本軍の最新鋭機の一つである紫電改を装備した第三四三海軍航空隊が待機していた【要出典】のに関わらず、海軍が部隊に出撃命令を下さなかったのかについては帝国陸軍中央特種情報部の高官が情報を握りつぶし、情報が海軍へ伝えられなかったからだと当時の関係者は近年にインタビューで答えている。【要出典】
【堀の「情報なき国家の悲劇」(kindle 3968)の記述は広島原爆投下に関するものであり、長崎原爆投下に関する記述はない。
第三四三海軍航空隊は、長崎から40キロほど離れた、大村湾を挟んだ大村航空基地に駐屯していた。「源田の剣 改訂増補版」(kindle 8481)には「八月九日、志賀飛行隊長は飛行作業をやめて(当直待機の飛行隊は別として)「休養日」とした。「燃料機材共に乏しく、飛行長、隊長、分隊長は搭乗員と一緒に、大村の裏山に登山することとなった(以下略)」としている
堀の「情報なき国家の悲劇」(kindle 3968)は陸軍中央特種情報部が「ヌクレア(核の)」という単語を解読したのは、8月11日であると記載している。】
そもそも、日本軍は当時日本でも原子爆弾開発が行われていたにもかかわらず、ドイツやイタリアから亡命してきた科学者たちによるアメリカにおける原子爆弾開発の進捗状況をほとんど把握しておらず、およそ特情部においては1945年「7月16日ニューメキシコ州で新しい実験が行われた」との外国通信社の記事が目についたのみであった[31]。
もちろん、これはトリニティ実験を指した報道であったのであるが、実験直後の時点ではその内容は公開されておらず、当時の日本軍にその内容を知る術はなかった。それを踏まえ、堀は「原爆という語は、その当時かけらほどもなかった」と語っている。また、特情部では、当時駐スウェーデン大使館に勤務していた駐在武官を通じて経由して入手したアメリカ海軍のM-209暗号装置を用いた暗号解読も進めていたが、この暗号解読作業において「nuclear」(原子核)の文字列が現れたのが、広島と長崎に原子爆弾が投下された直後の8月11日[32]のことであった。
当初は、軍部(主に大日本帝国陸軍)は新爆弾投下に関する情報を国民に伏せていたが、広島及び長崎を襲った爆弾の正体が原爆であると確認した軍部は報道統制を解除。11日から12日にかけて日本の新聞各紙は広島に特派員を派遣し、広島を全滅させた新型爆弾の正体が原爆であると読者に明かした上、被爆地の写真入りで被害状況を詳細に報道した。これによって、当時自国でも開発が進められていたもののその詳細は機密扱いであったこともあり、一般にはSF小説、科学雑誌などで「近未来の架空兵器」と紹介されていた原爆が発明され、日本が攻撃を受けたことを日本国民は初めて知ったのである[注 3]。
なお、この原爆報道によって、新潟県は8月11日に新潟市民に対して「原爆疎開」命令を出し、大半の市民が新潟市から脱出し新潟市は無人都市になった。その情報は8月13日付の読売報知新聞に記載された[33]。これは新潟市も原爆投下の目標リストに入っているらしいという情報が流れたからである。原爆疎開が行われた都市は新潟市だけであった。また東京でも、単機で偵察侵入してきたB-29を「原爆搭載機」、稲光を「原爆の閃光」と誤認することもあった。
1945年8月15日終戦の日の午前のラジオ放送で、仁科芳雄博士は原爆の解説を行った。さらに8月15日正午、戦争の終結を日本国民に告げるために行われたラジオ放送(玉音放送)で、原爆について「敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル(敵は新たに残虐な爆弾を使用して、罪もない者たちを殺傷し、悲惨な損害の程度は見当もつけられないまでに至った)」と詔があった。
正確な犠牲者数などは、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ / SCAP) 占領下では言論統制され、日本が主権を回復した1952年に初めて報道された。
新型爆弾への心得
原子爆弾が広島・長崎に投下された後、日本の報道機関は号外を出し、原子爆弾への対策とその心得を国民へ伝達している[34]。
東京朝日新聞 昭和二十年 八月十一日付特報(送り仮名等は実際に掲載されたものに則っている)
新型爆彈への心得 防空總本部發表
橫穴式防空壕が有效 初期防火・火傷に注意
國際法を無視した廣島の新型爆彈を、現地に出張、視察した陸海軍および防空總本部の專門家の調査に基いて新型爆彈に對する心得を防空總本部から十一日發表した、なほさきに二回にわたつて發表された注意は有效であるから今回の左記注意を追加すれば一層完璧である
一、落下傘やうのものが降下するから目撃したら確實に待避すること
二、鐵筋コンクリート造りの建物は安全度が高いからこれを有效に利用すること しかし窓ガラスは破壞するからこれがための負傷を注意すること、壁、柱型、窓下、腰壁を待避所とすると有效である
三、破壞された建物から火を發するから初期防火に注意すること
四、傷害は爆風によるものと火傷であるがそのうちでも火傷が多いから火傷の手當を心得えておくこと、もつとも簡單な火傷の手當法は油類を塗るか鹽水で濕布をするがよい
五、横穴式防空壕は堅固な待避壕と同樣に有效である
六、白い衣類は火傷を防ぐために有效である(但し白い着衣は小型機の場合は目標となり易い、よく注意のこと)
七、待避壕の入口は出來るだけふさぐのがよろしい
八、蛸壺式防空壕は板一枚でもしておくと有效である
第三、第四の原子爆弾投下準備
長崎市への原子爆弾投下後、テニアン島に原子爆弾はなかったが、プルトニウム以外の原子爆弾の部品は用意されており、プルトニウムをアメリカ本土から運んでくれば原子爆弾をすぐに組み立てて完成させることができる状態であった。8月14日にロスアラモス基地からプルトニウムが出荷され、8月20日前後には第三の原子爆弾を投下することが可能であった。トルーマンによる投下禁止命令が出たため、第三の原子爆弾が日本に投下されることはなかった。なお、広島・長崎への2発のみならず、終戦までにさらに17発もの原子爆弾を投下する計画であった。[35]
第三の原子爆弾投下候補地は小倉市、京都市、新潟市など諸説あるが、1945年8月14日に投下された7発のパンプキン爆弾の愛知県への投下は、3発目の原子爆弾の投下訓練であったとされ、いずれも爆撃機が京都上空を経由した後に愛知県に投下していることから、第三の原子爆弾の標的は京都市であったと考えられる理由の一つとなっている[23]。
また広島市・長崎市に投下された新型爆弾が、新潟市にも落とされるとの新潟県知事見解により、新潟市の中心から12km以上疎開することを求めた「徹底的人員疎開」なる布告を8月10日に出したため、新潟市の中心部が17日ごろまで無人状態になった。
極東国際軍事裁判
極東国際軍事裁判(東京裁判)において連合国側はニュルンベルク裁判と東京裁判との統一性を求めていたが、ラダ・ビノード・パール判事は、日本軍による残虐な行為の事例が「ヨーロッパ枢軸の重大な戦争犯罪人の裁判において、証拠によりて立証されたと判決されたところのそれとは、まったく異なった立脚点に立っている[36]」と、戦争犯罪人がそれぞれの司令を下したとニュルンベルク裁判で認定されたナチス・ドイツの事例との重要な違いを指摘したうえで、「(米国の)原爆使用を決定した政策こそがホロコーストに唯一比例する行為」と論じ、米国による原爆投下こそが、国家による非戦闘員の生命財産の無差別破壊としてナチスによるホロコーストに比せる唯一のものであるとした。
同趣旨の弁論は他の弁護士によってもなされ、ベン・ブルース・ブレイクニー弁護人は1946年5月14日の弁護側反証段階の冒頭で、アメリカの原子爆弾投下問題をとりあげ、「キッド提督の死が真珠湾攻撃による殺人罪になるならば、我々は、広島に原爆を投下した者の名(ポール・ティベッツ)を挙げることができる。投下を計画した参謀長(カール・スパーツ)の名も承知している。その国の元首の名前[37]も承知している。彼らは、殺人罪を意識していたか?してはいまい。我々もそう思う。それは彼らの戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからである。何の罪科でいかなる証拠で戦争による殺人が違法なのか。原爆を投下した者がいる。この投下を計画し、その実行を命じ、これを黙認したものがいる。その者達が裁いているのだ。彼らも殺人者ではないか」と発言した。なおこの発言が始まると、チャーターで定められている筈の同時通訳が停止し、日本語の速記録にもこの部分のみ「以下、通訳なし」としか記載されなかった[38]。ブレイクニー弁護人は、1947年3月3日にも、原子爆弾は明らかにハーグ陸戦条約第四項が禁止する兵器だと指摘した。またイギリスのアーサー・S・コミンズ・カー検察官による「連合国がどんな武器を使用しようと本審理にはなんらの関係もない」との反駁に対し、日本はそれに対して報復する権利がある、と主張した。
またパールは1952年11月、広島市を訪問し、講演「世界に告ぐ」では「広島、長崎に原爆が投ぜられたとき、どのようないいわけがされたか、何のために投ぜられなければならなかったか」[39]など、原爆投下を強く非難した[40]。講演では、「いったいあの場合、アメリカは原子爆弾を投ずべき何の理由があっただろうか。日本はすでに降伏すべき用意ができておった」「これを投下したところの国(アメリカ)から、真実味のある、心からの懺悔の言葉をいまだに聞いたことがない」、連合国側の「幾千人かの白人の軍隊を犠牲にしないため」という言い分に対しては「その代償として、罪のないところの老人や、子供や、婦人を、あるいは一般の平和的生活をいとなむ市民を、幾万人、幾十万人、殺してもいいというのだろうか」「われわれはこうした手合と、ふたたび人道や平和について語り合いたくはない」として、極めて強く原爆投下を批判した。
被爆者への認識と対応
日本は世界で唯一、戦争における原子爆弾の直接被害を受けた国であるが、この経験は、太平洋戦争終結直後から、米国国務省内で原子爆弾の使用に反対した者たちの予想[41]にも反し、日本国民の反米感情や報復意識には繋がっていない。1946年の日本でのアメリカ戦略爆撃調査団による大規模調査結果によると、広島、長崎では19%、日本全体でもわずか12%の被調査者のみが、原爆投下に対しアメリカに憎しみを感じたという。また戦後20年間の書籍、新聞、雑誌の原爆関係記事では、おおむね原爆の悲惨さを訴えるものが多く、アメリカへの恨みはほとんどないという。しかしこれらの「沈黙」は、その後の生活に必死で心情を吐露する余裕がなかったことや、被爆による悲惨な経験を思い出したくない、就職や結婚での差別や偏見を逃れたい、犠牲になった同胞を差し置いて自分のみが生き残った後ろめたさなどの感情があると推察され、また占領軍による検閲が1945年9月19日から1949年10月末まで行われ、被爆者が自己の経験を語ることはもとより、原爆に関する科学的・医学的情報の公開まで禁じられたことが背景としてある[42]。
救護を目的としない被爆者の詳細な健康被害調査は原爆投下直後から日本側により開始された。この日本側調査報告書は戦後直ちに米国側に全て英訳されて渡された。これは米国の提出命令によるものではなく、自主的なものであり、戦後も日本側は米国の調査に積極的に協力していたことが、米国公文書公開によって明らかになっている。これらの調査は詳細かつ執拗で、被爆者に治療とは関係のない薬物を投与し、その反応を観るといったものまでなされていた。調査結果は米国核戦略上の資料となり、永く被爆者の救済に用いられることはなかった[43]。
原子爆弾が日本国民にもたらしたものは、反米感情ではなく、放射能、放射線に対する「恐怖」であった[44]。そしてそれは戦後しばらくの間、被爆者に直接、向けられた。新聞・雑誌などにおいても被爆者は「放射能をうつす存在」あるいは重い火傷の跡から「奇異の対象」などとして扱われることがあり、被爆者に対する偏見・差別は多くあった。このため少なからず被爆者は自身が被爆した事実を隠して暮らすようになっていった。今日、日本放送協会は、これを戦後のGHQによる言論統制の影響、すなわち正しく原爆に関する報道がなされなかったために、当時、放射能・放射線の知識が一般的でなかったことと相まって、誤った認識が日本国民の間に蔓延したためであったと分析・公表している[45]。また、RCC記者であった秋信利彦は、当時の被爆者の報道機関に対する強い反感と反発の実態について証言している[46]。この日本国民の放射能、放射線に対する「恐怖」は、当時米国が優位にあった原子力産業の日本進出を決定的に阻むものともなり、日本の主権回復後、米国は民間を中心に莫大な経費を投じ、原子力平和利用キャンペーンを日本国内各地で展開している[47]。
被爆者への救護施策は1945年10月の各救護所の閉鎖をもって終了し、以降、何の公的支援もなされない状況が長く続いた。国の被爆者援護施策は、1957年4月の「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」(原爆医療法)施行より、実質的には1960年8月に「特別被爆者制度」が創設されて以降である。しかしこの被爆者援護施策は限定的で、救済されない被爆者が多く、概ね充実したのは実に1995年7月の「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」(被爆者援護法)の施行以降である[48]。
東京地方裁判所は、1963年12月7日、被爆者は損害賠償請求権を持たないとして、日本へのアメリカ軍による原子爆弾投下は国際法に違反したものであり、また同時に大日本帝国の戦争責任を認め、引き継ぐ日本国が十分な救済策を執るべきは立法府及び内閣の責務であるとする判決を下し、確定した[49][50]。以降、今日に至るまで、日本国内の被爆者関連の施策あるいは裁判において、この基本的な考え方が準用され続けている。
しかし今日、日本では「核兵器廃絶運動に関心はなく、具体的に参加したこともない」とする人が20代、30代の男女で23~25%いるとする調査結果[51]や、平和活動未経験かつ参加したくないとする人が23%いるという調査結果[52]などから、特に若年層を中心として、広島・長崎への原爆投下に対する問題意識の希薄化が進んでいるとされる一方で、原爆投下における体験の継承の重要性の認識とは裏腹に、継承がうまくいっていないとする回答[53]や、平和教育の不十分さを指摘する調査結果[54]も出ている。 終戦直後はともかく、こういった今日に至るも原爆投下に関してアメリカの加害責任を問うことなく、その原因と責任の全てを、おおむね日本の軍部などに求め「過去のものにする」世論は、やはり戦後のGHQによる言論統制によって形成されたものだとする意見もあるが[55]、があり、本稿では控える。
原子爆弾の投下によって生じた悲劇は、21世紀に入った現在においてもなお終結しているものとはいえない[56]。他の兵器と原子爆弾による人的被害の決定的な相違は、強力な原爆放射線や放射能によってもたらされた難治性疾患や永続的な後遺症(晩発性疾患を含む)にあり、生き残った被爆者やその家族に現在もなお、現実的な労苦を強いるものとなっている。これは少なくとも全ての被爆者が亡くなるまで続くものとされると主張している[57][58]。現在のところ公式には(日本国政府などの見解としては)否定されているものの、医学的見地などから、被爆者や、その親を持つ子(被爆二世)さらに被爆三世への健康的・遺伝的影響について、調査・研究が[59]反面、打ち切りになったもの[60]もある。 また、広島、長崎両市では被爆二世への健康診断(任意検診)も行われている[61][62]。
2012年6月3日、長崎原爆資料館で開催された第53回原子爆弾後障害研究会、広島大学の鎌田七男名誉教授らによる「広島原爆被爆者の子どもにおける白血病発生について」の研究結果発表、すなわち広島大学原爆放射線医科学研究所研究グループの長期調査結果報告において、被爆二世の白血病発症率が高い、特に両親ともに被爆者の場合に白血病発症率が高いことが50年に渡る統計結果より明らかにされた。これにより、まだ一部しか解明されたとしかいえないが、医学的に少なくとも被爆二世への遺伝的影響の否定はできないことが明らかにされた[63]。
被爆者を使った人体実験
東京帝国大学で、1945年8月6日の広島と9日の長崎の原爆による被爆者を使って、戦後2年以上に渡り日本国憲法施行後も、あらゆる人体実験が実施されたことを、NHKが、2010年8月6日NHKスペシャル『封印された原爆報告書』にて調査報道した。 その報道の内容は次の通り[64][65]。
字幕:昭和20年8月6日、広島。昭和20年8月9日、長崎。
ナレーター:広島と長崎に相次いで投下された原子爆弾、その年だけで、合わせて20万人を超す人たちが亡くなりました。原爆投下直後、軍部によって始められた調査は、終戦と共に、その規模を一気に拡大します。国の大号令で全国の大学などから、1300人を超す医師や科学者たちが集まりました。調査は巨大な国家プロジェクトとなったのです。2年以上かけた調査の結果は、181冊。1万ページに及ぶ報告書にまとめられました。大半が、放射能によって被曝者の体にどのような症状が出るのか、調べた記録です。日本はその全てを英語に翻訳し、アメリカへと渡していました。
字幕:東京大学
ナレーター:日本が国の粋を集めて行った原爆調査。参加した医師は、どのような思いで被曝者と向き合ったのか。山村秀夫さん90歳、都築教授が率いる東京帝国大学調査団の一員でした。当時、医学部を卒業して2年目の医師だった山村さん。調査は全てアメリカのためであり、被曝者のために行っている意識は無かったと言います。
山村さん:もういっさいだって、結果は日本で公表することももちろんダメだし、お互いに持ち寄って相談するということもできませんですから。とにかく自分たちで調べたら全部向うに出すと。
ナレーター:山村さんが命じられたのは、被曝者を使ったある実験でした。報告書番号23、山村さんの論文です。被曝者にアドレナリンと言う血圧を上昇させるホルモンを注射し、その反応を調べていました。12人の内6人は、わずかな反応しか示さなかった。山村さんたちは、こうした治療とは関係のない検査を毎日行っていました。調べられることは全て行うのが、調査の方針だったと言います。
山村さん:生きてる人は生前にどういう変化を起こしているかということを、少しでも何かの手掛かりは見つけて、調べるということだけでしたから、それ以外何にもないですね。あんまり他のことも考えれなかったですね。とにかくそれだけやると。
NHKインタビューアー:今となってみたらどうお感じになりますか?そのことは。
山村さん:(苦笑)、今となってみたらねぇ。そうですねえ、まあもっと他にいい方法があったのかも知れませんけど、だけど今と全然違いますからねぇ、その時の社会的な状況がね。
評価・歴史認識
日本
広島平和記念公園の慰霊碑にある「過ちは繰り返しませんから」の「主語問題」(誰が過ちを繰り返さないのか?)や、昭和天皇による「原爆はやむを得ない」発言(後述)[66]、元長崎市長の本島等の「日本軍が起こした戦争に対する当然の報い」発言[67]、元防衛相の久間章生による「原爆はしょうがない」発言[68]など枚挙にいとまがなく、被爆者やその遺族・家族団体などからの批判や、抗議行動[69]が絶えない。なお、湾岸戦争以降にアメリカ軍などが使用している劣化ウラン弾については、その放射能による被害があるとして、原水禁などの団体が抗議を行っている[70]。キリスト教徒で社会学者の橋爪大三郎東工大名誉教授は、キリスト教圏では広島と長崎の原爆からソドムとゴモラの滅亡が連想されるものであると言っている[71][72]。
昭和天皇の発言
1975年10月31日、訪米から帰国した際に行われた日本記者クラブ主催の記者会見で、記者からの質問に対し、次のように返答している[73][74]。
- [問い] 陛下は、ホワイトハウスの晩餐会の席上、「私が深く悲しみとするあの戦争」というご発言をなさいましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味ですか?また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか?(ザ・タイムズ記者)
- [天皇] そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます。
- [問い] 戦争終結にあたって、広島に原爆が投下されたことを、どのように受けとめられましたか? (中国放送記者秋信利彦)
- [天皇] 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております。
この中で、原爆投下に対する所感質問について、陛下は広島市民を気の毒だと述べて遺憾の意を表明しつつ、「戦争中のことだからやむを得ないこと」と述べており、が抗議する事態になった。特に、広島県被団協の森滝市郎が宮内庁へ時には、宇佐美毅が発言の補足として、『天皇が原爆投下を肯定する意味あいのご発言ではない。ご自身としてはそれを止めることが出来なかったことを遺憾に思われて、「やむを得なかった」のお言葉になったと思う。第二次大戦の犠牲となった人々、今なお原爆の災禍に苦しむ広島、長崎両市民に心を砕かれておられる両陛下のご真情を理解してほしい』と回答した[75][76]。
しかし日本側は、鈴木貫太郎が降伏しようと決意した際に宮内省や政府要人がそれを阻止しようとした徹底抗戦派に襲われ、近衛師団の将校によって森赳近衛師団長が殺害されるような宮城事件があり、昭和天皇の失言を擁護している意見もある。漫画家の小林よしのりの『昭和天皇論』ではこの発言を触れており、アメリカから帰国したばかりで、日米関係が良好だった事に背景があり、また昭和天皇の発言は、久間の「原爆によって北海道は占領されずに済んだ」「私はアメリカを恨むつもりはない」と言う原爆によって北海道がソ連に占領されずに済んだと言う感謝するような発言はしていない事から天皇と久間の発言の違いを説明している。また昭和天皇の発言は生中継の記者会見であるのに対し、久間章生の発言は講演による自発的な発言である。読売新聞社の渡邉恒雄は「昭和戦争の多くの局面で天皇に国政を左右し、国運を決する判断と軍部に対する下命を求める事は不可能であった。昭和戦争の時代天皇には統帥の最高権力者としての能力は奪われまたは保有し得なかった事は間違いない」と昭和天皇よりも、周囲の反対を押し切って原爆投下命令を下したアメリカのトルーマン(しかし、トルーマンが原爆投下を許可した証拠は見つかっていない)、仲介と中立を破ってシベリア抑留させたソ連のスターリン、そして降伏を阻止しようとした日本の徹底抗戦派を非難の対象にしている[77]。
反天皇制論者である栗原貞子は「終戦の詔書に見られる原子爆弾の残虐性への非難は消え失せ、原爆投下の容認となっているのは、単に三十年による風化を意味するもの」「天皇が原爆投下を肯定している」[78]と述べたが、「日本会議広島」公式サイトでは天皇と広島との関係を扱っており(日本会議広島:天皇陛下と広島)、1975年の失言を取り上げているが、終戦勅書の「新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所」と言った発言から決して原爆を容認していなわけでないと述べている。原爆投下後に早速日本政府はスイス政府を通じて原爆投下に対する抗議文を送り、『ヒロシマ平和メディア』の「過去の広島新聞から」には、実際1945年に昭和天皇が広島、長崎市に侍従を真っ先に派遣して惨状を視察し救護関係者を激励するよう指示しており、1971年に「原爆にあった被爆患者には、今後も援助、援護の手をさしのべるよう一層の努力をするように」と述べ、さらに原爆慰霊碑や原爆病院に訪問、1974年には昭和天皇が秋の園遊会で重藤文夫広島原爆病院長に伝言し「患者の方々によろしく伝えて下さい」と激励した事が掲載されている。つまり一度も昭和天皇は原爆投下を肯定するような発言は公でした様子は見られない。天皇制廃止論者であり、昭和天皇を嫌悪している中沢啓治は『はだしのゲン 自伝』でこの発言に対して激しく批判していない。
また、戦争終結派の米内光政と木戸幸一は陸軍の強硬派を恐れていたために「言葉は不適当と思うが原爆やソ連の参戦は天佑だった」という発言をしている。
アメリカ・イギリス
客観的な世論調査などによる、大衆認識の実態を知ることのできる資料は乏しい。しかし当時の関係者など(広島原爆投下作戦実行者など)は、70年経過後も、広島、長崎への原爆投下を「日本に無条件降伏を促すために行った」との認識を示している[79]。しかし一方で今日、核兵器所有国が増加し、アメリカ同時多発テロ事件以降、国家ではなくテロリストによる核兵器使用の脅威の見地から派生して、米国政府内でも賛否両論となり、米国政府要人の平和祈念公園訪問もされるようになった[80]。Wikipedia英語版では賛成派と反対派の論争なども見受けられる(各論のディベートはen:Debate over the atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki参照)。
終戦直後はGHQの検閲があり、『原爆体験記』を出版する時に原爆文学や原爆記録に対するアメリカ占領軍による検閲、発禁が歴然とあった[81]。
元陸軍長官のスティムソンが「ハーパーズ・マガジン」194号(1947年2月刊)に投稿した論文では、日本本土への上陸作戦「ダウンフォール作戦」による米兵の新たな犠牲は100万人と推定され、戦争の早期終結のために原子爆弾の使用は有効であったとの説明がなされており、この論文は原爆投下を妥当であったとするアメリカ政府の公式解釈を形成する上で重要な役割を果たしている[82]。しかし、スティムソンの見解はスタンフォード大学のバートン・バーンスタインによって、厳しく批判されている[82]。バーンスタインはまた、原爆投下の目的が「一般市民への殺戮」[83]かつ、「日本への懲罰」[84][85]であることを明らかにしている。原爆投下問題を再検討するアメリカの研究者の間では、「原爆の投下は、日本への上陸作戦を避けるためにも、早期に戦争を終結させるためにも必要ではなかった」、「原爆投下によって回避されたとされる犠牲者の公式解釈での推定数『50万人』あるいは『100万人』には根拠がない」などの点でほぼ合意に達している[82]。またバートン・バーンスタイン教授は被爆したアメリカ兵捕虜について扱っている。原爆投下の直前、アメリカはイギリス情報部から「広島にアメリカ人捕虜がいる」と通告を受けていたがこれを無視され、アメリカ戦略空軍司令部の極秘電報(45年7月30日付)によると同司令部は長崎にはアメリカ人捕虜収容所があることを確認、ワシントンに打電されたが、投下は強行された。結局、長崎の原爆は目標を少しずれたため、約1400人のアメリカ人捕虜は助かった。アメリカ政府が被爆死したアメリカ兵捕虜の事を秘密にしていた理由について、同教授は「アメリカ国民の大半が支持した原爆投下でアメリカ兵が殺されていたとなれば、世論は批判に変わり、第2次大戦直後の冷戦激化の中での核戦略に重要な影響をもたらす、と懸念したからではないか」と語り、「一般市民はもちろん、味方の軍人まで犠牲にしても平気な“戦争の狂気”を告発したい」と述べている。実は捕虜以外にもアメリカ国籍の被爆者はいる。戦前期の広島県が「移民県」であったことを背景に、被爆当時の広島市には開戦以前に親戚への訪問や日本国内への進学を理由として来広し、開戦によりそのまま帰米不能となった多数の日系アメリカ人が在住し、被爆した[86]。詳細は日系アメリカ人被爆者より。
軍事戦略思想家のベイジル・リデル=ハート卿は、アメリカによる日本への原子爆弾投下について、日本の降伏はすでに時間の問題となっていたので、このような兵器を用いる必要性は無かったと批判している。さらに、連合国側の無条件降伏要求が、戦争を長引かせる一因となり、何百万人もの犠牲を余分に出す結果になったとも論評している[87][88]。
1992年5月、米国上院議員のアーネスト・ホーリングズ (Ernest Hollings) は、石原慎太郎が「日本人は(怠惰で無学な)アメリカ人よりいい製品をつくる」という発言をしたのに対して、「誰が原子爆弾を発明したのか忘れたようだから、キノコ雲の写真に“怠惰で無学なアメリカ人によって作られ、日本で試験された米国産”というキャプションをつけろ」という発言をした[89]。ホーリングスは「冗談」として発言したが、これは当時日本のマスコミでかなり非難され、のち謝罪した。
1994年11月、アメリカ合衆国郵便公社が1995年9月に第二次世界大戦50周年切手として、キノコ雲に"Atomic bombs hasten the end of war, August 1945"(原爆投下が戦争終結を早めた)と説明が入った図案を公表した[90]。この切手に対して、日本政府などから強い反発を受け、別の図案に変更されたが、アメリカではそれに対する反発もあり、アメリカにおける原爆投下は妥当であったとする歴史認識を垣間見せるものであった。(詳細は原爆切手発行問題を参考のこと)
アメリカの哲学者のジョン・ロールズは、1995年雑誌Dissentに掲載した論文「Reflections on Hiroshima: 50 Years after Hiroshima(原爆投下はなぜ不正なのか?: ヒロシマから50年)[91]」において、原爆投下を「すさまじい道徳的悪行」と批判した[92]。
1997年に歴史家で米原子力制御委員会主席J・サミュエル・ウォーカー(英語版参照)は『原爆投下とトルーマン』を発表[93]、「この数年公開された外交文書と当時の米政府高官の日記の詳細な分析により、なぜアメリカが原爆を使用したかが増々明確になってきた。日本本土侵攻を避ける為にも早期終戦にも原爆は必要なかったこと、原爆以外の容易な外交的手段がありトルーマンはそれを知っていたこと、原爆はアメリカの若者50万人の命を救ったというこけの生えた主張に全く根拠がない、という点で我々研究者達の意見は一致した。」とも発言している。
イギリスの哲学者A・C・グレイリング (A. C. Grayling) は、2006年にAmong the Dead Cities: Was the Allied Bombing of Civilians in WWII a Necessity or a Crime? [94](邦訳「大空襲と原爆は本当に必要だったのか」[95])を発表し、無差別爆撃への反対論、擁護論をともに検証した。
2010年8月6日、初めて駐日米国大使が米国公式代表として広島の平和祈念式典に参列した。しかし慰霊碑への献花もなく、犠牲者に対する言葉もなかった。なお式典後、大使館を通じて、未来のために核兵器廃絶に努力する旨のコメントが出された。
2013年夏、映画監督オリバー・ストーンは、被爆地の広島・長崎を初訪問した。ストーンはトルーマン政権内では多くの軍幹部が、空襲を受けて疲弊し、降伏寸前だった日本に原爆を使っても意味がないと進言していたが、それでも耳を貸さなかったのは、対日参戦へと動いていたソ連を牽引するためと批判している[96][97]。オリバー・ストーンとともに『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史』を手掛けたピーター・カズニック歴史学教授によると、年配の世代の人たちはトルーマン大統領は英雄だったと信じているのは「原爆投下によって、戦争を早く終わらせ、100万人のアメリカ兵の生命が救われた」という「原爆神話」を信じているためであり、同教授が講演で、第二次世界大戦当時の7人の米軍最高幹部のうちの6人までが原爆投下は不要か道徳的ではないと言っていたと話すと、これを聞いた退役軍人らは衝撃を受けると述べた[98]。またカズニックは後述のウィリアム・リーヒ同様に、トルーマンが日本がソ連に和平仲介したことを意図的に無視したことを批判している[99]。
2016年5月27日、バラク・オバマ第44代アメリカ合衆国大統領は、現職の大統領として初めて広島を訪問し、慰霊碑への献花後所感を述べている。その中で「この空(広島)に上がったキノコ雲のイメージのなかに、私たちは人類の矛盾を強く突きつけられます。」と原爆投下について批判的な発言をしたが具体的な謝罪等は無く、発言全体としては第二次世界大戦自体を批判し核なき世界を目指すといった内容であった。同年、アメリカのビル・オライリーが原爆投下を正当化する『Killing the Rising Sun: How America Vanquished World War II Japan. Henry Holt.(2016年)』が大ベストセラーとなっている。
アメリカ側の原爆投下に対するコメント
原爆投下当初にはアメリカ側にも原爆投下を批判する意見があった。また原爆投下を命令したトルーマンへの厳しい批判もあるが、最近では、アメリカ軍がトルーマンの許可無しに原爆を投下したという説も出てきている。
- 「いかなる詭弁を用いようと、原爆投下の主目的が、戦闘員ではなく女子供老人などの非戦闘員の殺傷であったことを否定することはできない。そもそもアメリカは日本を挑発しなければ決して真珠湾を攻撃されることはなかっただろう。」―ハーバート・フーバー 第31代アメリカ合衆国大統領
- 「原爆投下は、米国兵士の命を救うためには全く必要のないものだった。我々は日本に原爆を投下する必要はなかった。」―ドワイト・アイゼンハワー 米第34代大統領 連合国軍総司令官
- 「日本がソ連に和平仲介を頼んだと知った1945年6月、私は参謀達に、戦争は終わりだ、と告げた。ところがワシントンのトルーマン政権は突如日本に原爆を投下した。私は投下のニュースを聞いたとき激怒した。」―連合国軍総司令官 ダグラス・マッカーサー
- 「ドイツがアメリカに原爆を落としたとしましょう。その後ドイツが戦争に負けたとします。その場合我々アメリカ国民の誰が”原爆投下を戦争犯罪とし、首謀者を極刑に処す”ことに異議を唱えるでしょうか?原爆投下は外交的にも人道的にも人類史上最悪の失敗だったのです。」―マンハッタン計画参画の科学者 レオ・シラード
- 「アメリカはこの戦争を外交的手段で終了させられた。原爆投下は不要だった。日本の犠牲はあまりにも不必要に巨大すぎた。私は東京大空襲において、同僚達と、いかにして日本の民間人を効率的に殺傷できるか計画した。その結果一晩で女子供などの非戦闘員を10万人焼き殺したのである。もし戦争に負けていれば私は間違いなく戦争犯罪人となっていただろう。では、アメリカが勝ったから、それらの行為は正当化されるのか?? 我々は戦争犯罪を行ったんだ。一体全体どうして、日本の67の主要都市を爆撃し、広島・長崎まで原爆で、アメリカが破滅させ虐殺する必要があったというのか。」―ロバート・マクナマラ ケネディ政権国防長官、元世界銀行総裁
- 「日本上空の偵察で米軍は、日本に戦争継続能力がないことを知っていた。また天皇の地位保全さえ認めれば、実際原爆投下後もアメリカはそれを認めたのだが、日本は降伏する用意があることも知っていた。だがトルーマン大統領はそれを知っていながら無視した。ソ連に和平仲介を日本が依頼したことも彼は無視した。この野蛮な爆弾を日本に投下したことは、なんの意味を持たなかった。海上封鎖は十分な効果を挙げていた。この新兵器を爆弾、と呼ぶことは誤りである。これは爆弾でもなければ爆発物でもない。これは”毒物”である。恐ろしい放射能による被害が、爆発による殺傷力をはるかに超えたものなのだ。アメリカは原爆を投下したことで、中世の虐殺にまみれた暗黒時代の倫理基準を採用したことになる。私はこのような戦い方を訓練されていないし、女子供を虐殺して戦争に勝ったということはできない!」―ウイリアム・ダニエル・リーヒ 米海軍提督・大統領主席補佐官
- 「日本との戦争へのロシアの参入は、その終結を早める決定的要素であり、原子爆弾が一つも投下されなかったとしても、その事実は変わらなかった」―クレア・リー・シェンノート 米陸軍航空隊大尉(のち少将)
- 「最初の原子爆弾(ネバダ州の実験)はいわば不必要な実験であった。これを一度でも投下したのは誤りだった。(…中略…)原爆は多数のジャップを殺した。しかしジャップはかなり前からロシアを通じて和平の打診をしていた」-ウィリアム・ハルゼー・Jr 太平洋艦隊第三艦隊司令長官(のち元帥)
- 「ロシアの参戦と原爆がなくとも、戦争は二週間で終わっていただろう(…中略…)原子爆弾は戦争の終結とは何ら関係がなかった」-カーティス・E・ルメイ 陸軍航空軍少将(のち空軍参謀総長)
- 「(原爆か上陸作戦かという選択に関して)ジレンマは不要なものだった。なぜなら、じっくり待つつもりさえあれば、海上封鎖によっていずれ石油、米、薬品や他の必需品が不足し、日本人は窮乏して降伏せざるをなくなったからだ」-アーネスト・J・キング 米海軍元帥・艦隊司令長官兼海軍作戦部長
- 「私はトルーマンに、広島の破壊を示す写真を示した。大統領は、それを見て、我々が負わなければならない恐るべき責任について、私に吐露した。」―ヘンリー・スティムソン 米陸軍長官
- 「軍人として命令を受けた以上、任務を遂行するのは当然」[100] ―ポール・ティベッツ(エノラゲイ号機長)
- 「多くの人々が死んでいるのはわかっていた。喜びはなかった」[101][102]―モリス・ジェプソン(エノラゲイ号技術者)
中華人民共和国
毛沢東は日本への原爆投下に強い衝撃を受け、以来、原子爆弾を中国も保有したいと考えるようになった[103]。のちにソ連からの技術供与で原子爆弾の保有に成功した。
中華人民共和国は1985年8月、中国共産党代表が広島平和祈念公園で花輪を贈呈、人民日報がこれに関し、広島原爆を「米帝の暴行」として批判した。
一方で中華人民共和国の歴史教科書では、原子爆弾投下を含めた日本に対する戦争行為は、「反ファシズム戦争」としてとらえて肯定する姿勢が明白である。毛沢東らの日本人民無罪論(戦争の責任は当時の日本軍部にあり、日本人民は無罪とする考え[104])を継承しつつ、アジアへの加害者は「日本国民」や「日本」そのものではなく、あくまで「日本帝国主義」「日本ファシズム」であるとし、日本国民の大半は「被害者」として扱われ、中国人民と同様な苦難を嘗めてきたとされている。すなわちアメリカによる原子爆弾投下は正当なものであったが、その結果は被爆者に多大な苦難を強いるものとなったという認識である[105]。また中国の教科書においては、日本で使われる「終戦」という言葉は容認されておらず、あくまでも「敗戦」、「日本帝国主義」「日本ファシズム」を曖昧なものにしないという姿勢が貫かれている[106]。
韓国
一方、韓国の義務教育課程で使われる韓国史教科書は1970年代より国定教科書となっているが、この中で原子爆弾に関する「特筆」はなく「日帝」という言葉を明確に用いて、併合から独立(8・15光復)までの記載がなされているのみである[107]。『中学校 社会2』(内容は世界史)と『高等学校 世界史』には「日本に原爆が投下されて終戦」など短く書いてある。なお被爆者については、ソンジ文化社の『中学校 社会2』など、詳しく書かれている教科書もある。
韓国の場合「日本国政府の戦争責任」を問い、被爆者健康手帳の交付を申請、認められてこれを所有する在韓・在日韓国人被爆者があり、日本国内で日本人被爆者と等しく治療を受けている人がいる。
韓国の『中央日報』が2013年5月20日付のコラムにて、日本への原爆投下を神の懲罰と主張[108]。在韓国日本大使館が中央日報に対し抗議をおこなったほか、菅義偉官房長官や被爆地の市長も同コラムを批判した。中央日報は、「コラムは執筆した論説委員の個人的な視角と主張に基づくもので、中央日報の立場ではない」と反論し[109]、記事の撤回を拒絶した[110][111]。韓国外務省も、コラムの内容は執筆者の意見であり、韓国政府の見解ではないとの立場を表明した[112]。
また、韓国の『朝鮮日報』が2015年8月14日付の金基哲文化部次長のコラムにて、日本の原爆被害者への追悼を戦争の加害者であることから目を背けさせる「犠牲者コスプレ」であると非難している[113]。
イラン
2010年2月23日、イランのアリー・ラリジャニ国会議長が衆議院の招待で訪日し[114]、同月27日には長崎市を訪れ、長崎原爆資料館を見学した後、「広島に原爆を投下して核兵器の影響の大きさを知りながら、長崎にも落とした」と述べ、ホロコーストよりも、アメリカの核兵器使用を問題にするべきだとの認識を示し[115]、「世界に一つでも原爆が存在すれば人類への脅威だ。人々は、核のない世界に向けて立ち上がるべきだ」と感想を述べた。その後ラリジャニ議長は「原爆投下こそが米国が引き起こした真のホロコーストだ」とイラン国会で演説したとイランのメディアが報じている。
脚注
注釈
出典
- ↑ 豊田利幸「新・核戦略批判」岩波新書、1983年、14頁
- ↑ THE HALF-YEARLY ARMY LIST, HIS MAJESTY'S STATIONERY OFFICE. 2016年12月7日閲覧
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- ↑ 「広島原爆被爆者の子どもにおける白血病発生について」第53回原子爆弾後障害研究会、鎌田七男広島大学名誉教授代表発表。
- ↑ "NHKスペシャル 封印された原爆報告書", NHK
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- ↑ 2007年6月30日、麗沢大講演。
- ↑ 一例として、1989年に長崎の平和公園を訪れたアメリカ海軍の艦長が、犠牲者のために献花をしようとした際、長崎原爆被災者協議会員らによる激しい抗議により、平和記念像への献花を断念させた挙句、その献花を踏みつけられる事態に発展している。(出典:被爆者ら、献花を踏みつぶす 米艦長に抗議 長崎・平和公園、1989年9月16日、朝日新聞西部夕刊)
- ↑ 同様な事例として、永井隆博士が原爆で亡くなった信徒らの葬儀ミサでの生贄発言(cf:浦上燔祭説)で、遺族や生存した信徒らが反発している。
- ↑ 橋爪, 大三郎. “原発事故・加藤典洋氏の思想(『Voice』2012年4月号掲載)”, 国家の原理, DIGITAL Voice. PHP研究所. “核分裂性物質の半減期は何万年だったりして、半永久的だ。これは人間スケールでなく、絶対の、永遠の神のスケールではないか。核のおぞましい表象も、ここに由来する。キリスト教圏の人々は広島・長崎の原爆から、どうしてもソドム・ゴモラを連想してしまうのである。”
- ↑ ここにおいて橋爪は評論家加藤典洋を引き合いに原子爆弾投下と日本における原子力発電の政策を論じるのであるが、原爆を投下されてなぜ日本は原発を建設してきたのか、加藤によるとそれは核利用の「過ち」であるよりは、幸福や繁栄への「反転」であり、そのような幸福・繁栄への祈念は福島原発の事故後もなお権利を有するのであるという(加藤典洋『3.11 – 死に神に突き飛ばされる』岩波書店、2011年11月)
- ↑ 『陛下、お尋ね申し上げます —記者会見全記録と人間天皇の軌跡』高橋絃著、文春文庫
- ↑ 『昭和天皇語録』講談社学術文庫 p332
- ↑ ヒロシマの記憶1975年12月。
- ↑ この天皇への抗議により、宮内庁は以後、取材などに対しては事前にかなり厳しい措置をとるようになっている。
- ↑ 世界の海軍にあって最も下劣 なぜ、今、戦争責任の検証か。渡邉恒雄(読売新聞・主筆)
- ↑ [1]
- ↑ Enola Gay crew 'have no regrets' 2005年8月4日 BBCニュース電子版。
- ↑ 日本放送協会制作「クローズアップ現代」2010年5月20日放送。
- ↑ 川村湊、成田龍一他『戦争文学を読む』朝日新聞出版 173ページ
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- ↑ 「原爆投下、市民殺りくが目的」(「朝日新聞」1983年8月6日号)
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- ↑ 産経新聞 (1994) によると、外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」1995年1月7日号に掲載とのこと。
- ↑ 袖井林二郎 『私たちは敵だったのか;在米被爆者の黙示録』(増補新版) 岩波同時代ライブラリー、1995年 ISBN 400260232X
- ↑ 『第二次世界大戦』中央公論新社,1999年。
- ↑ カイロ宣言の日本語訳には、「三大同盟国ハ海路陸路及空路ニ依リ其ノ野蛮ナル敵国ニ対シ仮借ナキ弾圧ヲ加フルノ決意ヲ表明セリ右弾圧ハ既ニ増大シツツアリ」と記載されている。
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- ↑ ストーンはベトナム戦争の従軍体験から映画「プラトーン」を製作した40歳ごろまでは歴史の「原爆正当論」にとらわれており、自分の娘の高校教科書の広島・長崎についての記述が原爆投下を正当化するひどいものとも述べた。
- ↑ 『言』 原爆投下肯定論 歴史のうそ 見抜くべきだ(2013年8月7日)
- ↑ 1995年に、スミソニアン博物館が企画した原爆投下機エノラ・ゲイと広島・長崎の被爆資料を並べて展示する原爆展は、退役軍人らの猛反対で中止になったが、20年後の2015年に原爆投下をめぐる言説に挑戦するような作品に好意的な反応が寄せられるのは、20年前に猛反対した世代の多くは亡くなり、原爆投下決定をめぐる議論は沈静化したためと同教授は述べている。
- ↑ (インタビュー 核といのちを考える)米国で原爆神話に挑む ピーター・カズニックさん(2015年6月2日)
- ↑ 映画アトミック・カフェのインタビューより
- ↑ アメリカ・タイム誌
- ↑ しかし日本の新聞の取材には原爆投下を肯定する発言をしている
- ↑ ユン・チアン、ジョン・ハリディ「マオ」講談社
- ↑ ユン・チアン、ジョン・ハリディ「マオ」講談社
- ↑ 超 軍 著「中国歴史教科書における近現代日中関係史」
- ↑ 超 軍 著「鏡としての歴史教育-中国歴史教科書の中の日本像-」駒沢女子大学研究紀要第4号、1997年2月。
- ↑ 「韓国国定歴史教科書」(日本語)
- ↑ 【時視各角】安倍、丸太の復讐を忘れたか(1)、同(2) 中央日報日本語版 2013年5月20日
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参考文献
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- 『原爆を投下するまで日本を降伏させるな』鳥居民、草思社、2005年
関連項目
外部リンク
- 広島平和記念資料館
- 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
- 広島赤十字・原爆病院
- 長崎原爆資料館
- 国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
- 原子爆弾の歴史-1
- 被爆者の声(音声による被爆証言)
- Summary of Strategic Bombing Survey (Atomic attacks) - 1946年米国戦略爆撃調査団による調査報告書。