トリニティ実験

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テンプレート:Infobox Military Structure トリニティ実験(トリニティじっけん、英語: Trinity)とは、1945年7月16日アメリカ合衆国で行なわれた人類最初の核実験である。

この実験はアメリカ・ニューメキシコ州ソコロの南東48km(北緯33.675度、西経106.475度)の地点で行なわれた。実験場は現在ではアラモゴードに本部を持つアメリカ陸軍ホワイトサンズ・ミサイル実験場の一部となっている。トリニティ実験は爆縮型プルトニウム原子爆弾の爆発実験で、同型の爆弾『ファットマン』が、後に日本長崎県長崎市投下された。この実験による核爆発は、約20ktTNTの爆発と同規模のもので、この核実験を以ってしばしば「核の時代」の幕開けとされる。

歴史

核兵器の開発は、1930年代後半の政治潮流と科学の発展に端を発する。この時代にヨーロッパファシスト政権が誕生したことと、原子の性質に関する新たな発見がなされたこととが一つの流れにまとまり、アメリカとイギリスにおいて原子核分裂反応をエネルギー源とする強力な兵器を開発する計画が生まれた。この計画はマンハッタン計画と呼ばれ、最終的には1945年7月に今日トリニティ実験場と呼ばれる場所で行なわれた人類初の核実験と、その数週間後の広島長崎への原子爆弾投下へとつながった。

開発

核兵器の実現可能性を調べる研究は、アメリカとイギリスによって1939年には開始されていたが、実際の開発が本格的に始まったのは、1942年に研究がアメリカ陸軍の権限の下に委譲されてマンハッタン計画となってからのことだった。マンハッタン計画の目的は核兵器の内部で起こる核分裂連鎖反応の源となる核分裂性物質を開発することと、核兵器自体の設計であった。この計画はニューメキシコ州ロスアラモス研究所で最高機密として進められた [1]

マンハッタン計画で研究された2つのタイプの原子爆弾の動作原理。爆縮型(図下)は複雑な動作をするため、実戦での使用の前に試験を行なう必要があると考えられた。

1944年1月から1945年7月にかけて、核物質を生産する大規模な工場が稼動を続け、ここで生産された核物質が核兵器の特徴を決めるために用いられた。爆弾の設計で生じた問題について様々な角度から取り組むために多面的な研究体制がとられた。研究の初期には試験プラントや研究所の加速器で作られたごく微量のウラン235(濃縮ウラン)やプルトニウムを使って、兵器の設計に関する決定が行なわれた。これらの初期の研究から、核分裂性物質の小片を別の小片に撃ち込んで全体が臨界質量となるようにすれば爆弾を作るのは容易であると考えられた。

ウラン235の生産は当時の技術では非常に困難であることが明らかになったが、プルトニウムは専用に作られた原子炉の副産物として得られるために生産は比較的容易だった。このような原子炉は1942年になってようやくエンリコ・フェルミによって開発された。しかしこのような原子炉で作られる「原子炉級」プルトニウムは、サイクロトロンで作られるプルトニウムに比べて純度がかなり低いものだった。原子炉級プルトニウムにこうした別のプルトニウム同位体が含まれているということは、単純なガンタイプの爆弾(Mark 2)ではうまく作動しないことを意味する。すなわちこれらの同位体が放出する余計な中性子によって爆弾が早期爆発(pre-detonate)してしまい、出力が大きく損なわれてしまう。1942年にこの問題が明らかになるとプルトニウム爆弾は再設計を迫られ、その結果、球形のプルトニウム・コアを通常爆薬によって圧縮し、プルトニウムの密度を上げて臨界に到達させるという爆縮(implosion)のアイデアが生まれた。

そこで問題は、プルトニウムの球体を全ての表面から正確に等しい圧力で均等に圧縮するような仕掛けを作り出すことに移った。圧縮力に少しでも偏位があると、大事なプルトニウムが爆弾の外に放り出されてしまい、大規模な爆発を起こさず不発に終わってしまう。当時存在した技術で完璧な圧縮を実現するためにこの「爆縮レンズ」を作り出すのは困難を伴ったため、マンハッタン計画の軍の最高責任者であったレズリー・グローヴズと科学部門の責任者であったロバート・オッペンハイマーは、この爆弾を実戦で十分な信頼性を持って使用するためには、この起爆機構の実験を行なう必要があると考えた。

実験計画

実験の計画自体は爆発物の専門家ジョージ・キスチアコフスキーEnglish版の下で働いていたハーバード大学の物理学教授のケネス・ベインブリッジによって起案された。この実験で爆発させる核兵器の威力は未知だったが、にもかかわらず実験の結果については秘密が保障されるような適切な場所を実験場として選ぶ必要があった。また、実験のデータを取得するために適切な実験装置を設置したり、未知の威力と大きな危険を伴うこの実験の参加者の安全を守るための安全指針も策定する必要があった。この実験の公式写真家とされたバーリン・ブリックスナーはこの爆発をフィルムに捉えるために何十台ものカメラを設置した。

実験場

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トリニティ実験場(赤色の矢印)

実験場には現在ホワイトサンズミサイル射場となっているアラモゴード爆撃試験場の一部が選ばれた。実験場の位置は爆撃試験場の北端(北緯33.675度、西経106.4756度)で、アメリカ合衆国南西部のニューメキシコ州カリゾゾソコロの中間に位置する。

名称

この実験に付けられたトリニティ (Trinity:キリスト教における三位一体説) という名称の正確な由来は不明だが、ロスアラモス研究所長のロバート・オッペンハイマーが、ジョン・ダンから引用したものとしばしば言われている。

オッペンハイマーは、かつて交際していたジーン・タットロックを通じて、ダンの作品に触れており、彼女は1944年7月に自殺している。1962年にレズリー・グローヴスは、オッペンハイマー宛の手紙で、実験の名前の由来について、「トリニティ」という名前は、アメリカ西部のの名前としてよくあるものだったため、実験が世間の注意を引かないように、この名前を選んだのではないか、と尋ねた。これに対してオッペンハイマーは次のように答えている。

確かに私がトリニティという名前を提案しましたが、その由来はそのような理由によるものではありません…何故私がこの名前を選んだのかは定かではありませんが、自分が当時何を念頭に置いていたかについては覚えています。私がよく知っていて愛しているジョン・ダンの一篇の詩があります。これは彼が死の直前に書いたものです。以下はこの詩からの引用です。「'As West and East / In all flatt Maps—and I am one—are one, / So death doth touch the Resurrection.' ("Hymn to God My God, in My Sicknesses")

オッペンハイマーは、続けてこう記している。

この詩には三位一体に関する記述はありませんが、ダンが書いた別のよく知られている賛美詩は次の一節から始まります。「'Batter my heart, three person'd God;?.' (Holy Sonnets XIV)」これ以上の手掛かりは私も持ち合わせていません[2]

実験の予想

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最終組立のために実験塔の最上部へ運び上げられる「ガジェット」

トリニティ実験の結果を観察する研究者たちの間では爆発の大きさについての賭けが行なわれた。予想には「0(不発)」というものから「TNT 換算で18kt」(I. I. ラービによる予想)、「ニューメキシコ州を破壊」、「大気が発火して地球全体が焼き尽くされる」というものまであった(幸いにも最後の予想については事前の計算でほぼ除外できることが分かったが、研究者の中にはしばらくの間これを心配する者もいた)。結果的にはラービが賭けに勝つこととなった。なお、核融合を用いた更に強力な爆弾の開発を主張していたエドワード・テラーは、破壊力の「小ささ」に落胆し「こんなちっぽけなものなのか」と漏らしたという [3]

実験の準備

計測機器の較正を行なうため、5月7日に108tのTNTを使って予備の爆発実験が行なわれた(この時以来、核爆発の出力はTNT換算のトン数を単位として表されるようになった)。

本番の実験で高い位置に原子爆弾を配置するために、高さ20mの鋼鉄製の爆発実験塔が建設された。これは、空中で爆発させれば(爆発の衝撃波が球面状に膨張するために)目標に直接与えるエネルギー量を最大化でき、爆発後に放射性降下物に変わる粉塵の巻き上げが地表で爆発させるよりも少なく抑えられるためで、これらに加えて航空機から爆弾を投下した際にどのようになるかをより良く示すだろうと考えられたためである。

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組立が完了して実験を待つガジェット

7月12日に実験場近くのマクドナルド牧場に資材が到着し、ここでプルトニウムのコアを内蔵した核爆弾(ガジェットというニックネームが付けられていた)の組立が行なわれることとなった。組立は7月13日に完了し、翌日に実験塔の上部へ引き揚げられた。

ファイル:Trinity Jumbo.jpg
用意されたジャンボ

万一実験が失敗した際に貴重なプルトニウムを回収するため、グローヴズ将軍の命令でジャンボというコードネームで呼ばれる巨大な鋼鉄製の容器が用意されていた。ジャンボは240tの重量を持ち、当初の計画ではこの中にプルトニウムと通常爆薬5tからなる起爆装置を置いて爆発させることになっていた。爆縮が成功してプルトニウムの連鎖反応が起これば、ジャンボは蒸発して消滅する。連鎖反応が失敗に終わった場合には、ジャンボの内部で爆発が留まるため、貴重なプルトニウムが飛散するのを防ぐことができる[4]。ジャンボは多額の費用をかけてペンシルベニア州ピッツバーグで製造され、鉄道で実験場まで運ばれた。しかしジャンボが実験場に到着する頃には、爆縮機構について研究者たちは強い信頼を持てるようになっていたため、本番の実験にジャンボを使わないことになった。その代わりにジャンボは、ガジェットから730m離れた位置にある別の鉄塔に引き揚げられ破壊力を観察する試料とされた。この距離は爆弾の威力を概算した結果決められた。最終的にガジェットの爆発によってジャンボは破壊されずに残ったが、ジャンボを支える鉄塔は倒壊した。

爆発は、当初7月16日午前4時(現地時間)に予定されていたが、当日の早朝から雷雨が続いたために延期された。雨天の下では放射線や放射性降下物の危険が非常に大きくなることが予想され、またによって予期しない爆発が起きてしまう可能性を研究者たちが心配したためであった。

爆発

ファイル:Trinity shot color.jpg
トリニティ実験での核爆発を捉えた数少ないカラー写真の一枚

7月16日午前4時45分になって気象情報が好転し、午前5時10分に20分前の秒読みが開始された。最上級の研究者や軍人たちのほとんどは、実験塔から16km南西に設けられたベースキャンプから実験を見守った。その他の多くの見物人は約32km離れた位置におり、それ以外にも様々な距離に陣取った人々がいた(物理学者リチャード・ファインマンは、自分は支給された遮光ガラスを使わずに爆発を見た唯一の人間だと書いている。彼は有害な紫外線を遮断するために、トラックの風防ガラス越しに爆発を観察した[5])。最終秒読みは物理学者のサミュエル・アリソンEnglish版によって読み上げられた。

現地時間(アメリカ山岳部戦時標準時)の5時29分45秒に爆弾は爆発し、TNT換算で約19kt(87.5 TJ)のエネルギーを放出した。この爆発で砂漠爆心地には放射能を帯びたガラス質の石からなる深さ3m、直径330mのクレーターが残された。爆発の瞬間、実験場を取り囲む山々は1秒から2秒の間、昼間よりも明るく照らされ、爆発の熱はベースキャンプの位置でもオーブンと同じくらいの温度に感じられた、と報告されている。観察された爆発の光の色は紫から緑、そして最後には白色へと変わった。衝撃波による大音響が観察者の元に届くまでには40秒かかった[3]。爆発の衝撃波は160km離れた地点でも感じることができ、キノコ雲は高度12kmに達した。ロスアラモス研究所長のロバート・オッペンハイマーはこの爆発を目の当たりにして、ヒンドゥー教の詩篇『バガヴァッド・ギーター』の次の一節が心に浮かんだ、と後に述べている。

我は死なり、世界の破壊者なり[注釈 1][注釈 2]

実験責任者のケネス・ベインブリッジはオッペンハイマーに対して、「"Now we are all sons of bitches."(これで俺達は皆糞ったれだ)」と言った。オッペンハイマーの弟のフランク・オッペンハイマーEnglish版によれば、ロバート・オッペンハイマーは爆発の瞬間、ただ「"It worked."(うまくいったな)」と言ったという。

当時のニュースでは、実験場から約240km西にいた森林警備隊員が「閃光の後に爆発音と黒い煙を見た」という証言を報じている。また実験場から北に約240km離れた場所にいた住民は「爆発で空が太陽のように明るくなった」と述べた。その他の報告では、320km離れた場所でも窓がガタガタと鳴り、爆発音が聞こえたと言われている。

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実験直後のトリニティクレーターの航空写真。画面右下(南東)の角に見える小さなクレーターは TNT 100トンを用いた予備実験でできたクレーター

クレーターの内部では、主にケイ酸塩でできている砂漠の砂は融解して、明るい緑色でわずかに放射能を帯びたガラスに変化した。この物質はトリニタイトと命名された。トリニタイトは熱で融解した長石石英からなる。クレーターは実験後間もなく埋められた。

実験後、アラモゴード航空基地は「遠隔地の火薬庫が爆発したが、死者・負傷者は出なかった」という50語からなるプレスリリースを発表した。実際の爆発の原因は8月6日に広島市に原子爆弾が投下されるまで公表されなかった。

マンハッタン計画の公式ジャーナリストであるウィリアム・L・ローレンスEnglish版は、緊急時に発表できるように、事前に複数のプレスリリースをファイルしてニューヨーク・タイムズの自分のオフィスに置いていた。この原稿の中には、実験の成功を伝えるもの(これが実際に使われた)から、たった一度の異常な事故でなぜ研究者全員が死んでしまったかを説明するという恐ろしいものまで用意されていた。

トリニティ実験では約260名の人員が参加していたが、爆心地から9km以内に近づいた者はいなかった。1946年に行なわれた一連の核実験であるクロスロード作戦では40,000人以上が参加している。

実験結果

ファイル:Trinity fallout.png
トリニティ実験場付近での放射性降下物の分布。放射能を含んだ雲は高レベルの放射線を放射しながら北東へ約160km移動した。

実験の結果はハリー・トルーマン大統領の下に伝えられ、ポツダム会談ソビエト連邦との交渉のカードとして使われた。しかしトルーマンは、ヨシフ・スターリンに非公式に原子爆弾のことを伝えた際に彼が反応を示さなかったことにいささかショックを受けた。スターリンは既にアメリカの計画について諜報員を通じてよく知っていた。

トリニティ実験の成功に続いて、日本に対して使用するために2発の原子爆弾が準備された。8月6日に日本の広島市に投下された1発目の爆弾は「リトルボーイ」というコードネームで呼ばれ、核分裂物質としてウラン235が使われていた。このタイプの原子爆弾は実験を行なっていなかったが、爆縮型の原爆に比べて構造がはるかに単純なため、ほぼ間違いなく正常に作動することが予想された。それ以前にウラン235は、この時点で爆弾1発分しか生産できていなかったため、いずれにせよ、投下前に実験を行なうことはできなかった。

8月9日長崎市に投下された2発目の爆弾は「ファットマン」というコードネームで呼ばれ、トリニティ実験でテストされたのと同じタイプのプルトニウム爆弾だった。

広島と長崎への原子爆弾投下によって少なくとも12万人以上の人々が即死し、その後も時とともに多くの人々が犠牲となった。非戦闘員の無差別虐殺であるという主張や、これによってダウンフォール作戦の決行を逃れ、長期的に見ればより多くの人命を救う結果となったという主張も存在する(原子爆弾投下に関する歴史的疑問やこれを取り巻く議論については「日本への原子爆弾投下」を参照のこと)。

ファイル:Trinity Test - Oppenheimer and Groves at Ground Zero 001.jpg
実験の数週間後に実験塔の跡地に立つレズリー・グローヴス中将(左端、軍服姿)やロバート・オッペンハイマー(中央、帽子を被っている)

トリニティ実験についての情報は、広島への原爆投下の後間もなく公表された。1945年8月12日に発表されたスミス・リポートにはこの爆発実験に関するいくつかの情報が書かれており、この文書のハードカバー版はプリンストン大学出版会から数週間後に出版された。この中には有名なトリニティ実験の泡状の火の玉を写した写真が掲載されている。

戦後間もなく、オッペンハイマーとグローヴズが実験塔の残骸のそばでポーズを取る写真が撮影された。この年、この写真はいわゆる「核の時代 (atomic age)」の始まりを告げる顕著な象徴となり、トリニティ実験は大衆文化の中でも取り上げられるようになった。

実験場跡地

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トリニティ実験の跡地に立つ記念碑

1952年に実験場は整地され、跡地に残されていたトリニタイトは廃棄された。1965年12月21日にトリニティ実験場はアメリカ国定歴史建造物 (National Historic Landmark) に指定され、1966年10月15日には国定史跡 (National Register of Historic Places) にも指定された。

実験から50年以上が経過した2003年現在でも実験場跡地では通常環境の約10倍というわずかな残存放射線が検出される[7]。アメリカ陸軍当局は、トリニティ実験場に1時間滞在する間に浴びる放射線の量は食物を摂取したり日光を浴びたりする際に受ける放射線量よりもずっと少ないとしている [3]。実験場に建てられている高さ約3.65mの溶岩でできた記念碑は爆発の中心地表を示している。この近くには「ジャンボ」もそのまま残されている。

トリニティ実験場は現在も「核ツアー (atomic tourism)」の客たちにかなり人気の目的地となっているが、実験場跡が開放されるのは年に2回、4月と10月の第1土曜日のみである。2005年7月16日にはトリニティ実験60周年を祝う特別ツアーが企画され、数百人(報道によっては数千人)の訪問者がこの記念日を祝うために集まった。

実験場付近住民への調査

トリニティ実験場付近の住民は長年に亘り、判然としないがんの発症例がニューメキシコ州南中部一帯で繰り返し発生し、それにより多くの住民が死亡していると主張した[8]。また、政府に対して核実験の放射線量の影響を判断するよう求めた[8]。これに対して2008年に未公表の報告草案がまとめられたが、推計が含まれており住民が納得できるものではなかった[8]。こうした中、2014年9月、実験当時にニューメキシコ州に居住していた住民を訪ね、実験によって汚染された食物の摂取による内部被曝の影響をアメリカ国立がん研究所で調査することとなった[8]

脚注

注釈

  1. この引用句についてはオッペンハイマー自身によるものや他の人々によるものを含めていくつかの異なる訳が存在する。この一節に関する最もよく知られた英訳はアーサー・ライダーEnglish版による以下のものである(オッペンハイマーは1930年代にカリフォルニア大学バークレイ校で彼からサンスクリット語を学んでいる)。
    Death am I, and my present task
    Destruction. (11:32)
    ギーターが1785年に初めて英訳されて以来、多くの翻訳者は "Death" ではなく "Time" という訳語を充てている。オッペンハイマーの引用句に関するより詳しい記述は1958年ロベルト・ユンクEnglish版による『Brighter than a Thousand SunsEnglish版』(日本語題『千の太陽よりも明るく』)からしばしば取られている。
    If the radiance of a thousand suns
    were to burst into the sky,
    that would be like
    the splendor of the Mighty One—
    I am become Death, the shatterer of Worlds.
    この引用句やその翻訳のバリエーション、報告されている詩句の形についての詳しい議論は、James A. Hijiya, "The Gita of Robert Oppenheimer" Proceedings of the American Philosophical Society, 144:2 (June 2000). [1] を参照。
  2. 引用された箇所の服部正明による日本語訳は以下の通り。
    予は世界を滅亡せしめる熟した時(死)である。[6](11:32)
    ※「時」には「カーラ」とルビが振られている。英語版記事「Kāla (time)」を参照。

出典

  1. Hans Bethe (1991), The Road from Los Alamos. American Institute of Physics ISBN 0-671-74012-1
  2. Richard Rhodes, The Making of the Atomic Bomb (New York: Simon and Shuster, 1986). Quotes regarding the naming of the test from pp. 571-572.
  3. 3.0 3.1 James Hershberg (1993), James B. Conant: Harvard to Hiroshima and the Making of the Nuclear Age. 948 pp. ISBN 0-394-57966-6 p. 233
  4. Trinity: First Test of the Atomic Bomb. Olive-Drab.com.(英語)
  5. Richard Feynman (2000), The Pleasure of Finding Things Out p. 53-96 ISBN 0-7382-0349-1
  6. 服部正明訳 「バガヴァッド・ギーター」『ヴェーダ アヴェスター』 訳者代表 辻直四郎筑摩書房世界古典文学全集 第3巻〉、1967-01。全国書誌番号:55004966NCID BN01895536
  7. Brian Greene (2003), NOVA: The Elegant Universe: Einstein's Dream. [2] Regarding residual radiation.
  8. 8.0 8.1 8.2 8.3 Dan Frosch (2014年9月16日). “初の米核実験から約70年、現地でがん発症の影響調査へ” (Japanese). The Wall Street Journal. オリジナル2014年9月17日時点によるアーカイブ。. http://megalodon.jp/2014-0917-2019-49/jp.wsj.com/news/articles/SB12785023003277603623104580156744126046182 . 2014閲覧. 

関連項目

外部リンク