操作

ホロコースト

ホロコースト Holocaust

ナチスによるユダヤ人大量虐殺。もとはユダヤ教の供犠(燔祭)を意味する。ドイツのユダヤ人に対する迫害は,1933年1月のアドルフ・ヒトラーの首相就任 1ヵ月後に始まり,ユダヤ人の商店は不買運動にさらされ,破壊され,公職者は地方政府,裁判所,大学から追放された。1933~38年の一連の立法措置や財産の没収,暴行,略奪により,ドイツのユダヤ人社会の政治的・経済的基盤は崩れた。1935年のニュルンベルク法によりユダヤ人は市民権を完全に失い,1938年11月のいわゆるクリスタル・ナハト(水晶の夜)の結果,ドイツにあるすべてのユダヤ教会がその他のユダヤ関連施設とともに破壊された。その後,数千人のユダヤ人が強制収容所に入れられ,ドイツのユダヤ人資産の主要部分は,巨額の罰金やその他の取り立てによって没収された。1939年,第2次世界大戦が勃発する頃には,ユダヤ人はもはや市民でなく,公立学校に通えず,実際いかなる商売,職業にもつけず,土地を所有できず,非ユダヤ人と一切交際できず,公園や図書館,博物館への出入りも禁じられ,ゲットーに住むよう命令された。

1938年までに,ファシスト政権下のイタリアはドイツをモデルに,反ユダヤ法を発布した。1938年のオーストリア,1939年のチェコスロバキアに対する征服,併合は,両国のユダヤ系国民の隷属へとつながった。反ユダヤ主義的社会背景をもっていたハンガリーは 1938年,ヒトラー方式をモデルにハンガリー初の反ユダヤ主義立法を行なった。ルーマニアでは 1939年末までに,ユダヤ人人口の 3分の1以上が公民権を剥奪された。さまざまな社会的,政治的勢力は,ユダヤ人やその他ヨーロッパの被抑圧マイノリティの支援に立ち上がると期待されたが,彼らは行動に出なかった。中部・東部ヨーロッパの学生団体は,自由主義者との共闘を拒否し,自由主義的諸政党はみずからが粉砕もしくは弾圧の対象にされていた。教会の抵抗はゼロではなかったが,無力で,一部の聖職者は明らかにその当人が反ユダヤ主義者であった。ユダヤ人の多数派は移民を希望し,1931~41年にかけて,約 16万人がアメリカ合衆国へ移り,イギリス支配下のパレスチナへも数万人が脱出している。大戦初期にドイツ軍が連戦連勝した結果,ヨーロッパのユダヤ人の圧倒的多数はナチスとその衛星国の支配下に置かれ,人権は剥奪され,資産も没収され,大半がゲットーや強制収容所へ移動させられた。

ドイツ軍がまずポーランド,次いでバルカン半島,ソビエト連邦へと東方に向かうにつれ,ナチス親衛隊によって,「ユダヤ問題」の解決が恐るべき方法ではかられた。征服された村や町,都市のユダヤ人が狩りたてられ,射殺され,近くの共同墓地に埋められた。また,犠牲者を密閉したトラックなどに押し込め,排気ガスを荷台に引き込み,共同墓地に向かう途中で死にいたらしめるという方法もとられた。しかし,あまりにも効率が悪いために,人里離れた「絶滅収容所」で殺人と火葬を行なうという計画が提案された。1942年1月のワンゼー会議で「ユダヤ人問題の最終的解決」につき,ヨーロッパの占領地全体からユダヤ人を東部の収容所に組織的に移送し,「しかるべき扱い」に処するという決定がなされた。一部はすぐさま処刑され,他の者は大規模な労役部隊に組織されたが,過酷な労働や乏しい食事のため結果的に最後は殺される側に選別されてしまった。大量処刑の最も効果的な方法は,特別に建設されたガス室(シャワー室に偽装)で,ガス室から運び出された遺体は隣接する火葬場へと移された。ガス室やその他の方法により,おそらく 400万人ものユダヤ人がアウシュウィッツ収容所など各地の絶滅収容所で命を落とした。戦争中,ナチスに処刑されたユダヤ人の総数はおよそ 570万人と推計されている。ユダヤ人に加えて,40万人ものロマ(→ロム)もホロコーストで殺された。 ジェノサイド(集団殺害)計画は効率的に実施され,犠牲者はしばしば毒ガスで殺される最後の瞬間までそのことに気づかなかった。国民がユダヤ人に対し好意的だったデンマーク,フランス,イタリア,ブルガリアのような国々では,ユダヤ人をかくまったり,偽造文書を提供したり,中立国に脱出させるなどの措置がとられた。しかし東ヨーロッパでは,農民の伝統的反ユダヤ感情もあって,ほとんど支援は寄せられず,逆に絶滅運動の担い手となった非ドイツ人も少なくなかった。このような絶望的状況のもとでも,数千人のユダヤ青年がポーランド,ソ連,ユーゴスラビア,フランス,イタリアのさまざまな地下抵抗運動やパルチザンに参加している。特筆すべきは 1943年4~5月のポーランドの主要ゲットーにおけるユダヤ人蜂起で,ワルシャワではドイツの強制移送命令に抵抗して,ドイツ正規軍を相手に 1ヵ月近くもちこたえた。しかし連合国は有効な支援を行なわなかった。また大戦期を通じて,大部分の国はひと握りの難民を除くと,門戸を閉ざしたままだった。イスラエルでは現在,ユダヤ暦のニサン月27日(西暦では 4月19日もしくは 20日)にホロコーストの日の記念式典が行なわれている。