バングラデシュ

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バングラデシュ人民共和国
গণপ্রজাতন্ত্রী বাংলাদেশ
国の標語:なし
公用語 ベンガル語
首都 ダッカ
最大の都市 ダッカ

面積

総計 14万7000km291位
水面積率 7.0%

人口

総計(2015年 159,400,000人(7位
人口密度 1084人/km2
GDP(自国通貨表示)

合計(2013年 11兆1,390億[1]タカ
GDP (MER)

合計(2013年 1,413億[1]ドル(59位
GDP (PPP)

合計(2013年3,251億[1]ドル(43位
1人あたり 2,080[1]ドル
独立
 - 宣言
 - 承認
パキスタンより
1971年3月26日
1971年12月16日
通貨 タカ (BDT)
時間帯 UTC +6(DST:なし)
ISO 3166-1 BD / BGD
ccTLD .bd
国際電話番号 880

バングラデシュ人民共和国(バングラデシュじんみんきょうわこく、ベンガル語: গণপ্রজাতন্ত্রী বাংলাদেশ)、通称バングラデシュは、南アジアにあるイスラム教徒主体のイギリス連邦加盟国、通貨はタカ、人口1億5,940万人、首都はダッカ

北と東西の三方はインド、南東部はミャンマーと国境を接する。南はインド洋に面する。西側で隣接するインド西ベンガル州とともにベンガル語圏に属す。

1971年パキスタンから独立。バングラデシュはベンガル語で「ベンガル人の国」を意味する。都市国家を除くと世界で最も人口密度が高い国で、人口数は世界第7位。

ベンガル湾に注ぐ大河ガンジス川を有する。豊富な水資源から米やジュートの生産に適し、かつて「黄金のベンガル」と称された豊かな地域であったが[2]、インフラの未整備や行政の非能率から、現在はアジアの最貧国に属する[3]。近年は労働力の豊富さ、アジア最低水準の労働コストの低廉さに注目した、多国籍製造業の進出が著しい。

国名

正式名称は、গণপ্রজাতন্ত্রী বাংলাদেশベンガル語: ラテン文字転写は、Gônoprojatontri Bangladesh)。通称、বাংলাদেশ 発音 [ˈbaŋlad̪eʃ]

英語の公式表記は、People's Republic of Bangladesh(ピープルズ・リパブリック・オブ・バングラデシュ)。通称、Bangladesh [ˌbæŋɡləˈdɛʃ]。国民・形容詞はBangladeshi。

日本語の表記は、バングラデシュ人民共和国。通称、バングラデシュ。ベンガル語で、バングラが「ベンガル(人)」を、デシュが「国」を意味し、あわせて「ベンガル人の国」となる。バングラデッシュバングラディシュバングラディッシュと記述されることもある(ただし、少なくとも後二者はベンガル語の発音に対して不自然な表記である)。日本での漢字表記は中国の表記をそのまま用いた孟加拉、1文字ではと略されるが、ほぼ使用されることはない。日本では文字数を節約する必要のある新聞の見出しなどにおいて、バングラと略されることがある[4][5][6]

バングラデシュの国旗は赤が昇る太陽、緑が豊かな大地を表す。豊かな自然を表す緑の地に独立のために流した血を示す赤い丸、という説もある。赤丸は真ん中から旗竿寄りにしてある。 初代バングラデシュ大統領ムジブル・ラフマンの娘のシェイク・ハシナ首相は、「父は日本の日の丸を参考にした。」と証言している[7]

歴史

近代まで

ファイル:Lalbager Kella 01.jpg
ダッカ市内のラルバグ城(17世紀)

現在バングラデシュと呼ばれる地域には、古くから文明が発達した。現在のバングラデシュはベンガル地方の東側にあたる。紀元前4世紀マウリヤ朝から6世紀グプタ朝まで数々の王朝属領であった。仏教寺院からは紀元前7世紀には文明が存在したことが証明され、この社会構造は紀元前11世紀にまで遡ると考えられるがこれには確実な証拠はない。初期の文明は仏教および(あるいはまたは)ヒンドゥー教の影響を受けていた。北部バングラデシュに残る遺構からこうした影響を推測することができる。

8世紀の中葉にパーラ朝がなり、仏教王朝が繁栄した。12世紀にヒンドゥー教のセーナ朝にとってかわられた。13世紀イスラム教化が始まった[8]13世紀にはイスラム教のベンガル・スルターン朝の元で、商工業の中心地へと発展した。その後、ベンガルは東アジアで最も豊かで最も強い国になった。16世紀にはムガル帝国の元で、商工業の中心地へと発展した。11世紀(セーナ朝の時代)から16世紀(ムガル帝国に編入されたのは1574年)の間はベンガル語が発達した。この頃に、ベンガル経済の成長に伴って密林の多かった東ベンガルに開発の手が入り、イスラム教徒を中心に開発が進められていった。16世紀後半になって東ベンガルではイスラム教徒が多数派となっていった。また、17世紀半ばにはムスリムの農民集団が目につくようになっている[9]

イギリス領時代

15世紀末にはヨーロッパの貿易商人が訪れるようになり、18世紀末にイギリス東インド会社により植民地化された。この東インド会社によって、イギリスは支配をベンガルからインド全域に拡大した。このイギリスの統治期間中、ベンガルは何度も深刻な飢饉に襲われ、膨大な人命が失われた。ベンガルの東部・西部から綿織物やコメの輸出が盛況を呈し、17世紀の末には、アジア最大のヨーロッパ向け輸出地域となり、大量の銀が流入し、銀貨に鋳造され、森林地帯の開拓資金に投下された[10]。東インド会社は支配をインド全域に拡大していき、その中心地域となったベンガルの繁栄は続いた。「黄金のベンガル」と讃えられるようになったのはこの時期である。

やがてインドの他地域同様、バングラデシュでも民族運動(1820年代からフォラジと呼ばれる復古主義的な運動)がさかんになっていった。これを食い止めるため、イギリスはベンガルのインド人勢力の分断を意図し、1905年にベンガル分割令を発布し、ベンガルをヒンドゥー教徒中心の西ベンガルとイスラム教徒中心の東ベンガルに分割したことで、英領東ベンガルおよびアッサムEnglish版が確立された(今日のバングラデシュおよびインド東北部のアッサム州メガラヤ州アルナーチャル・プラデーシュ州に相当)。1906年にはダッカでムスリム連盟の創立大会が開かれた。この措置は両教徒の反発を招き、1911年に撤回されたものの、両宗教間には溝ができ、やがてインドとパキスタンの分離独立へと繋がっていく。

当時、東ベンガルではベンガル人としての意識とムスリムとしての意識が並存していたが、1929年全ベンガル・プロジャ党(ムスリム上層農民を支持基盤とした)が結成され、1936年の農民プロシャ党に発展した。1930年代にはベンガル人意識が一時後退し、ムスリムとしての意識が高揚していった。1940年のムスリム連盟ラホール大会でベンガルの政治家フォズルル・ホックがパキスタン決議を提案した。1943年、大飢饉が起こり150万〜300万人の死者を出した[11]。1946年8月コルカタ(旧カルカッタ)暴動でムスリムとヒンドゥーが衝突し、4000人以上の命が失われた。

インド領東ベンガル

ダッカ市内のベンガル語運動English版1952年

そんな中で英領インドは1947年に独立を達成したものの、宗教上の問題から、ヒンドゥー教地域はインド、イスラム教地域はインドを挟んで東西に分かれたパキスタンとして分離独立することになり、東ベンガルEnglish版1947年 - 1955年)はパキスタンへの参加を決めた。

パキスタン領東パキスタン

パキスタンが成立すると、現在のバングラデシュ地域は東パキスタンとなった。しかし両地域間は人口にはさほど差がなかったものの、経済や文化の面では違いが大きく、さらに国土はインドによって1000km以上も隔てられていた。このような違いはあちこちで摩擦を起こした。まず最初に問題が起きたのは言語の違いだった。ベンガル語でほぼ統一された東に対し、西がウルドゥー語を公用語にしたため対立が起きた。この問題はベンガル語とウルドゥー語の両方を公用語にすることで決着がついたものの、政治の中心になっていた西側に偏った政策が実施され、1970年11月のボーラ・サイクロンの被害で政府に対する不満がさらに高まった。1970年12月の選挙で人口に勝る東パキスタンのアワミ連盟が選挙で勝利すると、西パキスタン中心の政府は議会開催を遅らせた上、1971年3月には軍が軍事介入を行って東パキスタン首脳部を拘束した。これによって東西パキスタンの対立は決定的となり、東パキスタンは独立を求めて西パキスタン(現パキスタン)と内乱になった。バングラデシュ独立戦争である。西側パキスタンと対立していたインドが東側パキスタンの独立を支持し、また第三次印パ戦争がインドの勝利で終わった結果、1971年にバングラデシュの独立が確定した。

独立・ムジブル・ラフマン政権

独立後はアワミ連盟シェイク・ムジブル・ラフマンが首相となった。インドからの独立以前から、イスラムを旗印とするパキスタン政府と先住民族の折り合いは悪く、ジュマ(チッタゴン丘陵地帯の先住民族)はパキスタン編入をそもそも望んでいなかったために緊張状態が続き、バングラデシュが1971年に独立するとこの状況はさらに悪化した。このため先住民族は1972年にチッタゴン丘陵人民連帯連合協会English版 (PCJSS) という政党を作り、翌年からPCJSS傘下のシャンティ・バヒーニーEnglish版とバングラデシュ軍とが戦闘状態に入った。内戦や洪水による経済の疲弊により、1975年クーデターが起きムジブル・ラフマンが殺害される。

ジアウル・ラフマン政権

その後、軍部からジアウル・ラフマンEnglish版少将が大統領となった。1979年以降バングラデシュ政府の政策によってベンガル人がチッタゴン丘陵地帯に大量に入植するようになり、チッタゴン丘陵地帯におけるジュマとベンガル人の人口比はほぼ1対1となった。

エルシャド政権

1981年に軍内部のクーデターによりジアウル・ラフマン大統領が殺害され、1983年12月にフセイン・モハンマド・エルシャドEnglish版中将が再び軍事政権を樹立した。1988年には、チッタゴン丘陵地帯カルナフリ川English版上流のカプタイ・ダムEnglish版に国内唯一の水力発電所(230MW)建設したことにより10万人近い住民に立ち退きを強制し、うち2万人がミャンマーへ、4万人がインドへそれぞれ難民として移住している。

エルシャド政権は民主化運動により1990年に退陣。

民主化

1991年3月の総選挙で、中道右派勢力バングラデシュ民族主義党 (BNP) がアワミ連盟 (AL) を破り、BNP党首のカレダ・ジアは同国初の女性首相に就任した。1991年に総選挙が行われて以降は、民主的に選挙で選出された政府が統治している。5月10日、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領の指示による Operation Sea Angel で被災地への人道支援が行なわれた。チッタゴン丘陵地帯紛争は20年続いたのち1992年に休戦、1997年には和平協定が結ばれたものの、根本的な問題は残ったままであり、対立は続いている。

1996年の憲法改正により前最高裁判所長官を長(首相顧問)とする非政党選挙管理内閣 (Non-Party Care-Taker Government) が導入された。この制度は、現職内閣が選挙活動に干渉したり、投票結果を操作したりする職権乱用防止のためであり、議会解散の後に任命される[12]1996年6月の総選挙では、今度はALが勝利し、シェイフ・ハシナが同国2人目の女性首相に就任した。

2001年10月1日に行われた総選挙では、BNPなどの野党連合が与党ALに大差をつけ勝利しカレダ・ジアが首相に返り咲いた。経済建設を重視し、穏健な改革を訴え、都市市民らの支持を集めたとされる。

軍政

2002年9月6日に予定されていた大統領を選任する投票は、立候補者が元ダッカ大学教授のイアジュディン・アハメド1名のみだったため無投票当選となった。

2006年10月、軍の圧力でカレダ・ジア率いるBNP政権は退陣し、アハメド選挙管理内閣(暫定政権)が発足した。暫定政権は汚職の撲滅やイスラム過激派対策に取り組んでいる。2007年1月11日には総選挙が予定されていたが政党内対立で情勢が悪化。総選挙は2008年に延期された。イアジュディン・アハメド大統領は、非常事態宣言を発令すると共に全土に夜間外出禁止令を出した。[1]

2008年12月29日に行われた第9次総選挙では、選出対象の299議席中、シェイフ・ハシナ元首相の率いるアワミ連盟が230議席(得票率48.06%)を獲得し、国民党などからなる「大連合」が300議席中262議席で圧勝した[2]。2009年1月6日、ハシナ党首が首相に就任した。前与党のBNPを中心とする4党連合は32議席に激減した。投票率は、87%の高率。

政治

1991年憲法が改正され、大統領(象徴的な存在)を元首とする議院内閣制が確立した[12]

元首

旧イギリス植民地としてイギリス連邦に加盟するが、共和政体であるため総督を置かず、元首は大統領である。国家元首である大統領は、原則として、儀礼的職務を行うだけの象徴地位である。任期5年で、国民議会において選出される。大統領は、首相と最高裁判所長官の任命以外は、首相の助言に従い行動する。ただし、議会と政府が対立し政治的混乱が起きた際は、議会を解散し、暫定政府を発足させる権限がある。

行政

行政府の長である首相は、議会選挙後に、勝利した政党の党首を大統領が任命する。内閣の閣僚は、首相が選び、大統領が任命する。

バングラデシュの貧困の一因として、政府のガバナンス(統治能力)の低さがあげられることがある。汚職がひどく、2011年の腐敗認識指数は2.7で世界120位に位置し、2003年の1.2よりかなり改善されたものの未だ低位にいることには変わりない。また地方行政が特に弱体であり、これにより、行政が上手く機能していない。それを補助する形で、各種NGOが多数存在し、開発機能を担う形となっている。特に、アジア最大といわれるNGOの「BRAC」や「グラミン銀行」などが規模も大きく著名である。

立法

議会は、一院制で、Jatiya Sangsad国会)と呼ばれる。全300議席。任期5年で小選挙区制選挙によって選出される。また、立法に女性の意見を反映させるため、正規の300議席とは別に、女性専用の30議席が用意されていたが、2001年5月に廃止された。

民主化後、総選挙ごとに政権が変わるが、選挙による政権交代が定着してきている[13]。とはいえ、議会政治を担う政党に問題が多い[14]。選挙はおおむね公正なものとされるが、政党や政治風土には問題が多い。各政党は配下に政治組織を持ち[15]、選挙ごとに彼らを動員して選挙を繰り広げる。選挙終了後、敗北した政党はストや抗議行動に訴えることがほとんどで、しばしば暴動へと発展する。


司法

軍事

ファイル:Bdunmsn3.jpg
PKOで活動中のバングラデシュ軍

軍隊志願兵制度であり、兵力はおよそ14万人。バングラデシュ軍はPKOに積極的に人員を送っている。バングラデシュ軍は過去何度か軍事政権を樹立し、現在でも政治に大きな発言力を持つ。2006年にはBNP政権を退陣させ、アハメド選挙管理内閣を発足させた。

国際関係

南部の一部を除き大部分の国境を接するインドとは、独立戦争時の経緯や独立時の与党アワミ連盟が親インド政党だったこともあり独立当初は友好的な関係だったが、もともとムスリムヒンドゥー教徒の対立がパキスタンへの編入を促した事情もあり、やがて関係は冷却化した。バングラデシュ民族主義党はやや反インド的な姿勢をとり、逆にアメリカ中国との友好関係を重視する傾向がある。

近年は中国の存在感が強まっており、中国からの輸出額は7年で4.5倍に増えた。インフラ整備の面でもバングラデシュ最大の港湾都市チッタゴンから首都ダッカに通じる幹線道路の拡幅工事は中国の支援の下、全長190キロの工事区間のうち70パーセントを中国企業が請け負っている。その他、発電所の建設や橋の整備等官民あげてバングラデシュへの関与を強めている。[16]

バングラデシュは多くの難民を受け入れ、また送り出す国である。東パキスタンとして独立した時には両国内の非主流派の信徒がお互いに難民として流れ込み、またバングラデシュ独立時にもパキスタン軍の侵攻を逃れて100万人近いバングラデシュ人が難民となってインド領へと流れ込んだ。また、チッタゴン丘陵地帯では政治的緊張が続いており、この地域の仏教系先住民がインドへと多く難民として流出している。一方で、バングラデシュは南のミャンマーからムスリムのロヒンギャ人難民を多く受け入れている。

バングラデシュは貧困国であるため、世界各国から多額の経済援助を受け取っている。日本は最大の援助国の一つであるが、近年は援助額がやや減少気味である。他に、アジア開発銀行やアメリカ、イギリス、世界銀行ヨーロッパ連合などからの援助が多い。

地理

バングラデシュの標高図。
バングラデシュの地図。

バングラデシュの国土の大部分はインド亜大陸ベンガル湾沿いに形成されたデルタ地帯である[17]。このデルタ地帯を大小の河川やカールと呼ばれる水路が網の目のように走っている。沼沢地とジャングルの多い低地[18]であり、ジャングルはベンガルトラの生息地として知られる。北をヒマラヤ山脈南麓部、シロン高原(メガラヤ台地)、東をトリプラ丘陵やチッタゴン丘陵、西をラジュモホル丘陵に囲まれ、南はベンガル湾に面している[19]。東部や東南部に標高100〜500メートルの丘陵が広がる。

ヒマラヤ山脈に水源を持つ西からガンジス川(ベンガル語でポッダ川)、北からブラマプトラ川(同ジョムナ川)が低地のほぼ中央で合流し、最下流でメグナ川と合流して、流域面積173万平方キロメートルものデルタ地帯を作っている。デルタ地帯はきわめて人口密度が高い。バングラデシュの土壌は肥沃で水に恵まれることから水田耕作に適しているが、洪水旱魃の双方に対して脆弱であり、しばしば河川が氾濫し多くの被害を及ぼす。国内の丘陵地は南東部のチッタゴン丘陵地帯(最高地点:ケオクラドン山、1230m)と北東部のシレット管区に限られる。

北回帰線に近いバングラデシュの気候熱帯性で、10月から3月にかけての冬季は温暖である。夏季は3月から6月にかけて高温多湿な時期が続き、6月から10月にかけてモンスーンが襲来する。ほぼ毎年のようにこの国を襲う洪水サイクロン竜巻海嘯といった自然現象は、一時的な被害にとどまらず、森林破壊土壌劣化浸食等を引き起こし、さらなる被害を国土に対して及ぼしている。

地形の大部分が平坦なこと、洪水による地形の変化が多いことなどは、バングラデシュの国土測量を極めて難しいものとしている。日本の国土地理院の協力により、1/25,000の地形図の作成が試みられているが、2016年段階でも詳細な全国地図は完成に至っていない[20]

国内最大の都市首都であるダッカである。通常ダッカと呼ばれているが、ベンガル語を正式に読むと促音は入らず「ダカ」である。他の主要都市はチッタゴンクルナラジシャヒである。チッタゴンの南に位置するコックスバザールは世界最長の天然のビーチとして知られる。

行政区分

最上位の行政単位は、8つある管区である。それぞれ中心となる都市の名が付けられている。しかし、管区には実質的な機能はなく、その下にある (Zila) が地方行政の主位的単位となる。2005年1月現在、64県が存在する。県の下には郡(ウポジラ)が置かれ、その下にいくつかの村落をまとめた行政村(ユニオン)がある。独立時は管区は4つであったが、人口増加に伴い管区の新設が行われている。

経済

ファイル:Panorama View of Dhaka,2012.jpg
ダッカはバングラデシュ経済の中枢である、世界有数のメガシティ

IMFによると、2013年のバングラデシュのGDPは1,413億ドルであり、一人当たりのGDPは904ドルであり世界水準の1割にも届いていない[1]国際連合による基準に基づき、後発開発途上国と位置づけられている[21]2011年アジア開発銀行が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層は国民の75%を超える約1億1800万人と推定されている[22]

同国はガンジス川の氾濫により涵養された、世界有数の豊かな土地を誇り、外からの侵略も絶えなかった。「黄金のベンガル」と言われていた時代もあり、膨大な人口と労働力を持っていることから経済の潜在能力は高いが、洪水などの自然災害の影響で現在では貧困国の一つに数えられる。

バングラデシュは内外問わずに援助を受けているにもかかわらず、過剰な人口や政治汚職などによって未だに貧困を脱しきることが出来ないでいる。バングラデシュの発展を阻害しているものとしては、多発するサイクロンやそれに伴う氾濫などの地理的・気候的要因、能率の悪い国営企業、不適切に運営されているなどインフラの人的要因、第一次産業のみではまかない切れない増加する労働人口などの人口要因、能率の悪いエネルギー利用法や十分に行き渡っていない電力供給などの資源的要因、加えて政治的な内部争いや汚職などの政治的要因が挙げられる。

農業

水田

人口の62%は農業に従事し、国民の7割以上が農村に住む。主要農産品はコメおよびジュート(コウマシマツナソ)である。コメの生産量は世界第4位で、かつ生産量も年々微増している。国連食糧農業機関(FAO)によると穀物自給率は90%を超え、特に米に関しては消費量のほぼ全てを自給している。

バングラデシュの稲は雨季前半に栽培されるアウス稲、雨季後半に栽培され収穫の中心となっているアマン稲、乾季に栽培されるボロ稲の3種に分かれる。気候的に二期作や三期作も可能であるが、乾期にはガンジス川の水位が低下するため、行える地域は限られていた。しかし、井戸の普及や改良種の普及により、特に乾季のボロ稲の農業生産が大幅に拡大し、それにつれてアウス稲やアマン稲の生産も増加を示した。それによって、二期作や三期作の可能な地域も増加して米の生産量が大幅に増大した[23]。これがバングラデシュにおける「緑の革命」といわれる農業生産の近代化促進である。緑の革命は国家政策として行われたが、緑の革命は農家の設備投資支出の増大を強いた。一方で生産量増大はその負担を埋めるまでにいたらないという問題を抱えている。

ジュートは農産品として最も重要な輸出品であるが、1980年代以降化学繊維に押され重要性は下がってきている。ジュートに次ぐ輸出農産品は紅茶であり、紅茶の名産地として知られるインドのアッサム州に隣接する北部シレット地方において主に栽培されている。19世紀にはの世界最大の産地であったが、化学染料の発明と普及により生産は激減した。

繊維工業

ファイル:Garments Factory in Bangladesh.JPG
バングラデシュの服飾工場

繊維工業の発展は、経済成長によって繊維生産が不振になり始めた韓国香港からの投資をきっかけに、1970年代に起こり始めた。近年では中国の労働コスト上昇に伴い、バングラデシュの廉価な労働コスト(月給が中国の1/3)が注目されており、繊維製品等の軽工業製品の輸出は増大している。これにより、ようやく軽工業が発展し経済発展のキッカケをつかもうとしている。また膨大な人口と安い労働コスト、繊維産業の成長などが評価され、NEXT11の一国ともなった。現在、バングラデシュの輸出の80%は繊維製品によって占められている。チャイナ+1の製造国として非常に注目を集めており、大手繊維メーカーなどの進出が多く行われており、バングラデシュ経済を担う一大産業となっている。

労働力輸出

バングラデシュの貿易収支は輸入品より輸出品のほうが少なく、常に大幅な赤字となっている。これを多少なりとも埋めるのが、外国に出稼ぎに行った労働者たちの送金収入である。1997年には出稼ぎ労働者は総計40万人を超えた。出稼ぎ先はイスラム教国が多く、最大の出稼ぎ先はサウジアラビアで出稼ぎ労働者の3分の2を占め、クウェートアラブ首長国連邦などの湾岸諸国にも多く労働者が向かっている。東では、マレーシアシンガポールに多い。日本でも、1万人ながらも在日バングラデシュ人が存在する。

NGO

ダッカなど都市部ではNGO、農村部ではグラミン銀行による貧困層への比較的低金利融資を行なう事業(マイクロクレジット)が女性の自立と貧困の改善に大きな貢献をしたとして国際的に注目を集めている。2006年にはグラミン銀行と創設者で総帥のムハマド・ユヌスは「貧困層の経済的・社会的基盤の構築に対する貢献」を理由にノーベル平和賞を受賞し、バングラデシュ初のノーベル賞受賞者となった。また、2008年にはインターネット網が農村、学校等にまで広げられ、大々的にこれを祝った。NGO が多く存在する中でも筆頭がBRAC(Bangladessh Rural Advancement committee バングラデシュ農村向上委員会ブラック)である。BRACは1972年設立、すべての県に事務所を置き、農村や都市の貧困層を対象に活動している。

洪水

バングラデシュの殆どの耕作地域は雨季に河川の溢水により水に沈む。時折耕作地域だけでなく、土盛りして高台にしている住宅地や幹線道路も浸水被害を受ける。こういった大洪水が「ボンナ」と呼ばれ、破壊と災厄をもたらすものとみなされる一方で、毎年起こる程度の適度な洪水は「ボルシャ」と呼ばれ、土壌に肥沃さをもたらし、豊かな漁場とありあまるほどの水、豊作をもたらす恵みの存在と考えられている。ボンナが発生するとアウス作、アモン作の生産量に悪影響があるが、近年大洪水となった2004年および2007年でも10%程度のアモン生産量の減少にとどまっている。[24]このほかに河岸侵食による土地流出も過去には深刻な被害をもたらしていたが、近年のインフラ整備により、改善されてきている。

鉱業

バングラデシュは鉱物資源に恵まれない。唯一ともいえる資源が天然ガスである。1908年に発見される。その後英国統治時代にも開発が続けられ、独立以後は外国資本による生産分与方式(PS方式)で進められた。政府は1970年代より天然ガス資源の探査、生産を推進し、1984年のバクラバードガス田(チッタゴン)操業開始をはじめ、17のガス田を開発した。1997年には全国を23鉱区に分け、企業入札が実施された。2003年時点の採掘量は435千兆ジュール。現在(2008年)12のガス田、53の井戸から日量13億立方フィートの生産可能となっている。ガス田はジャムナ川より東側に分布しており、パイプラインで輸送されている。現在ボグラ市まで達している。埋蔵量(『オイル・アンド・ガス・ジャーナル』2002年4月の記事)は、生産中及び確認・確定埋蔵量は、28.8兆立方フィート。アジア地域では、マレーシア80兆、インドネシア72兆に次ぐ埋蔵量。埋蔵量については種々の試算方式があり、それぞれに大きな開きがある。ガスの消費は、発電で約50%、約40%が工場で、約10%が個人世帯・商業で利用されている。ガス管敷設距離の延長に伴い個人用消費が伸び、最近の10年間で年率10%を超えている[25]

通貨

通貨単位はタカ。レートは1米ドル=83.28タカ(2018年2月7日現在)。

労働力

雇用は貧しく、失業率はネパールとほぼ同じで、40%を超えるほどである。産業別の労働人口比率は、2007年のデータで農業が62.3%、サービス業が29.4%、鉱工業が8.3%であり、近年の急速な繊維産業の成長により工業化が進む現在においても、未だ本質的には農業国である。しかし、貧富の差や農地面積に比して人口が多すぎるため、農地だけで充分な生計を立てられる世帯は4割程度に過ぎず、残りの6割は小作農や日雇い労働者として生計を立てている。近年ではグラミン銀行などが進めるマイクロ・クレジットの拡大や経済成長によって貧困層の一部に生活向上の兆しがあるものの、貧困は未だ深刻な問題となっている。

労働人口は(2002年)4,630万人である。

交通

デルタ地帯にあり縦横に水路が張り巡らされている地形であるため、道路はあまり発達していない。代わりに、舟運の可能な水路は3800kmに及び、バングラデシュの輸送に重要な位置を占めている。雨季と乾季では水位が違い、陸路と水路の利用に大きな差が出る。主要貿易港は海港である東部のチッタゴンである。他に海港としては西部のチャルナ港が大きく、またダッカやボリシャル、ナラヤンガンジなどには規模の大きな河港がある。

道路

アジアハイウェイ1号線が北部からダッカを通って西部国境まで通じている。

鉄道

鉄道は国営鉄道であるバングラデシュ鉄道によって運営され、総延長2706kmで、ブラマプトラ川を境に軌間が違い、ブラマプトラ以西は1676mmの広軌、ブラマプトラ以東(ダッカやチッタゴンも入る)は1000mmの狭軌である。広軌路線が884km、狭軌路線が1822kmである。

空運

空港はダッカのシャージャラル国際空港やチッタゴンのシャーアマーナト国際空港などがあり、シャージャラル国際空港に本拠を置く国営航空会社ビーマン・バングラデシュ航空ユナイテッド・エアウェイズなどの航空会社が運行している。バンコク、コルカタ便が主である。国内線はチッタゴン、ジェソール、シレットの空港があるが、不安定で利用は少ない[26]

住民

人口

バングラデシュは、シンガポールバーレーンなどの面積の小さい国を除くと世界で最も人口密度の高い国である。1平方キロメートルあたりの人口は2012年現在で1173人になり、しばしばインドネシアのジャワ島と比較される。人口爆発が社会問題となっているため、政府は1992年より、人口調節を推進して人口の増加を抑えようとしており、一定の成果を上げつつある。1992年に4.18あった合計特殊出生率は2001年には2.56に、2011年には2.11まで減少している。[27][28]

人口増加率は独立当初3%を超え、3.4%(1975年)だったが、2.02%(1995年)、2.056%(2007年推計)、1.26%(2008/2009年)と急激に減少してきている。近年は南アジアで最も人口増加率の低い水準の国となっている。[29][30]

民族

98%がベンガル人。その他、en:Stranded Pakistanisen:Chakma peopleen:Marma people、Tipperas、en:Tanchangya people、Mros、en:Mughal tribe、Sylheti、en:Kurukh peopleen:Khasi peoplebn:খুমিガロ族、টিপরা、bn:পাংখো、পাংগোন、মগ、en:Meitei peoplebn:মুরংbn:রাজবংশীen:Santali peoplebn:হাজংen:Rakhine peopleen:Magh peopleen:Tripuri peoplebn:কুকি (উপজাতি)bn:চক (জাতিগোষ্ঠী)bn:হাদুইbn:লুসাইbn:হদিbn:বাওয়ালীbn:বনযোগীbn:মৌয়ালী


言語

ベンガル語公用語である。文字はデーヴァナーガリーに似たベンガル文字を用いる。ベンガル語に加え、英語も官公庁教育機関で使用されており事実上の公用語である。住民はベンガル語話者であるベンガル人がほとんどで、人口の98%を占めている。その他に、ウルドゥー語を話す、ビハール州などインド各地を出身とする非ベンガル人ムスリムが2%を占める。他に、南東部のチッタゴン丘陵地帯にはジュマと総称される10以上のモンゴロイド先住民族が存在する。ジュマの総人口は100万人から150万人とされる。

宗教

イスラム教en:Islam in Bangladesh)が89.7%、ヒンドゥー教が9.2%、その他が1%である。その他の宗教には仏教キリスト教などが含まれる。バングラデシュはイスラム教徒が多数派であるが、ヒンドゥー教徒の人口割合もかなり高く、両者は平和裏に共存している。また、パハルプールの仏教寺院遺跡群に見られるように、以前は、仏教が大いに栄えていたため、現在でも、一部の地域では、仏教が信仰されている。どの宗教を信仰しているかという点も重要だが、それ以上に、同じベンガル民族であるという意識の方が重要視され、両者は尊重しあっている。このような意識はインド側の西ベンガル州でも同様に見られる。

衛生状態

国民の大多数は土地を所有せず、あるいは洪水の危険が高い低湿地にすんでおり、衛生状態はきわめて悪い。このため、を媒介として、コレラ赤痢などの流行がたびたび発生している。こうした状況を改善するため、国際機関が活動を行っている。特に飲用水の衛生状態の改善のため、井戸の整備を独立後に進めてきたが、多くの井戸が元来地層中に存在したヒ素に高濃度に汚染され、新たな問題となっている。全土の44%、5300万人が発癌を含むヒ素中毒の危険にさらされていると考えられている[31]

教育

教育制度は小学校5年、中学校5年、高校2年の5-5-2制である。識字率は53.5%(2009年)。義務教育は小学校5年のみである。就学率は2000年には95%に達し、それにつれて識字率も徐々に上昇してきたものの、児童の中退率が3割に達し、また授業や教育環境の質が低く児童の学力が向上しないなどの問題がある。

文化

食文化としては大量にとれる米を主食とし、ガンジス川流域や海岸、汽水域などで大量にとれるも重要な蛋白源となっている。演劇や詩作もさかんである。

世界遺産

バングラデシュ国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が2件、自然遺産が1件存在する。

バングラデシュのイスラム建築:

シュンドルボンはインドとバングラデシュ南西部に渡るマングローブ林の湿地域で、バングラデシュがその3分の2を占める。ベンガルトラをはじめ稀少生物種が生息し、自然環境を保護するため、人間の居住は禁止されている。

祝祭日

日付 日本語表記 現地語表記 備考
移動祝祭日・3日間 犠牲祭 Eid-ul-Azha イスラム教の祭り。2月。
2月21日 ベンガル語国語化運動記念日 Shoheed Dibosh 独立以前のベンガル語運動の弾圧による死者の記念日
移動祝祭日 アーシューラー Ashura
3月26日 独立記念日 Shadhinota Dibosh
4月14日 ベンガル新年 Pôhela Boishakh
5月1日 メーデー Me Dibôsh
移動祝祭日 誕祭 Buddha Purnima 仏教の祭り。5月
移動祝祭日 ムハンマド生誕祭 Eid-e-Milad-un-Nabi イスラム教の祭り。5月。仏誕祭とほぼ同じ日
移動祝祭日 クリシュナ・ジャンマシュタミ Shree Krishna Janmashtami ヒンドゥー教の神クリシュナの聖誕祭。8月
移動祝祭日 ドゥルガー・プージャー Durga Puja 女神ドゥルガーを讃えるヒンドゥー教の祭り。9月下旬
移動祝祭日 シャベ・バラット Shab-e-Barat イスラム教の祭り。断食月前の祭り。「運命の夜」の意。
11月7日 革命連帯記念日 Nationl Revolution & Solidarity Day 1975年ジアウル・ラーマンのクーデターによる政権掌握を記念
移動祝祭日 シャベ・カダール Shab-e-Qudr イスラム教の祭り。断食月の第27夜。
移動祝祭日 ジャマトゥル・ビダ Janmat-ul-Bida
移動祝祭日・3日間 断食月明け大祭 Eid-ul-Fitr イスラム教の祭り。
12月16日 戦勝記念 Bijoy Dibosh パキスタン軍の降伏を記念
12月25日 クリスマス Christmas/Boro Dheen

難民

1971年8月、バングラデシュ独立戦争のため多大なる被害に対して、イギリスのロック・ミュージシャンであるジョージ・ハリスンインド出身のラビ・シャンカールらが中心となり、ニューヨークでチャリティ・イベント「バングラデシュ難民救済コンサート」が開催された。このコンサートは映画化され、またライブ盤レコード「バングラデシュ・コンサート」として発売され、コンサートの入場料を含めた全収益金がバングラデシュに寄付された。この企画はロック界におけるチャリティー事業のさきがけとなった。また、ジョージ・ハリスンはシングル・レコード「バングラデシュ」を発売し、この売り上げも全額が寄付されている。

バングラデシュ・国の象徴
(公式)
動物
ベンガルトラ
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シキチョウ
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樹木
マンゴー
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スイレン
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水生動物
カワイルカ
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爬虫類
インドガビアル
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果物
パラミツ
(Artocarpus heterophyllus) Jack fruits on Simhachalam Hills 01.jpg

イリッシュ
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モスク
バイトゥルムカロム
Baitul Mukarram (Arabic, بيت المكرّم; Bengali, বায়তুল মুকাররম; The Holy House).jpg
寺院
ダッケシュワリ寺院
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ジャムナ川
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キーオクラドン
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著名な出身者

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 World Economic Outlook Database, April 2014”. IMF (2014年4月). . 2014閲覧.
  2. ムガル帝国の時代には経済的に一番豊かな州の一つであり、植民地支配期にはインドで最も早く西欧文化の影響を受け西欧化・近代化の先頭に立っていた地域である。(中里成章「新しい国の古い歴史」/大橋正明・村山真弓編著『バングラデシュを知るための60章【第2版】』明石書店 2009年 20ページ)
  3. 農村の国であり、2000年の統計では全人口の75%が農村で暮らしている。(長畑誠「農村の貧困問題」/大橋正明・村山真弓編著『バングラデシュを知るための60章【第2版】』明石書店 2009年 222ページ)
  4. “バングラで多国間PKO演習 自衛隊から4人が参加”. 朝雲新聞. (2012年2月9日). http://www.asagumo-news.com/news/201202/120214/12021405.html . 2012閲覧. 
  5. “非常任理事国の選挙、日本を支持…バングラ首相”. 読売新聞. (2014年9月6日). http://www.yomiuri.co.jp/politics/20140906-OYT1T50124.html . 2014閲覧. 
  6. 国連安保理非常任理事国選挙 我が国の過去の選挙結果(外務省)
  7. 清水憲司 (2014年5月27日). “バングラデシュ首相:日の丸参考に国旗…親日アピール”. 毎日新聞. http://mainichi.jp/select/news/20140528k0000m030031000c.html . 2014閲覧. 
  8. 1204年トルコ系ムスリムの奇襲によってムスリム王権が成立した
  9. 臼田雅之「イスラーム教徒が増えた時期」/ 『バングラデシュを知るための60章』[第2版] 28ページ
  10. 臼田雅之「イスラーム教徒がふえた時期」/ 大橋正明ほか 28-29ページ
  11. 中里成章「新しい国の古い歴史」(参考文献『バングラデシュを知るための60章』[第2版]22ページ
  12. 12.0 12.1 佐藤宏「議会制民主油主義のゆくえ」/ 大橋正明、村山真弓『バングラデシュを知るための60章』[第2版] 明石書店 2009年 40ページ
  13. BNP=1991〜1996年、AL=1996〜2001年、BNP=2001〜2006年
  14. 佐藤宏「議会制民主油主義のゆくえ」/ 大島正明ほか 41ページ
  15. 暴力団や学生組織(BNP系の民族主義学生等:JCD、アワミ連盟系のバングラデシュ学生連盟:BCL、イスラーム党系のイスラーム学生戦線:JCS)佐藤宏「議会制民主油主義のゆくえ」/ 大島正明ほか 43ページ
  16. NHKBS1「ワールドWaveトゥナイト」 2011年11月18日放送
  17. ベンガルデルタとは、ガンジス(ポッダ)川、ブラフマプトラ(ジョムナ)川、メグナ川の3大河川の堆積作用によってできた大地である。
  18. ベンガル低地、東西約400キロ、南北約560キロの広がり、標高は北部で40〜50メートル、南部で2〜3メートル、洪積台地と沖積低地に大きく分けられ、台地は中央部や北西部に広がっている、首都ダカは台地の南端に位置する。台地と低地の高低差はおよそ10メートル以下である。畑作が中心で、水田は浅い谷部分に分布する。(大橋正明、村山真弓『バングラデシュを知るための60章』[第2版] 明石書店 2009年 44〜45ページ)
  19. 大橋正明、村山真弓『バングラデシュを知るための60章』[第2版] 明石書店 2009年 44ページ
  20. https://www.jica.go.jp/bangladesh/office/others/human/15.html 独立行政法人国際協力機構 2017年10月10日閲覧
  21. 外務省 後発開発途上国
  22. アジア開発銀行 Poverty in Asia and the Pacific: An Update
  23. 大橋正明、村山真弓編著、2003年8月8日初版第1刷、『バングラデシュを知るための60章』p40-41、明石書店
  24. [Statistical Yearbook of Bangladesh ]Bangladesh Bureau of Statistics 2012
  25. 松澤猛男「天然ガスと電力」/大橋正明、村山真弓『バングラデシュを知るための60章』[第2版] 明石書店 2009年 133-134ページ
  26. 里見駿介「リキシャからジャンボ機まで」/大橋正明、村山真弓『バングラデシュを知るための60章』[第2版] 明石書店 2009年 137ページ
  27. 臼田雅之「イスラーム教徒がふえた時期」/ 大橋正明・村山真弓編著『バングラデシュを知るための60章 [第2版]』 明石書店 2009年 27ページ
  28. [Statistical Yearbook of Bangladesh ]Bangladesh Bureau of Statistics 2012
  29. 国勢調査、1974年7130万人、1981年8994万人、1991年1憶799万人、2001年1億2925万人、(臼田雅之「イスラーム教徒がふえた時期」/ 参考文献『バングラデシュを知るための60章』[第2版] 27ページ)
  30. http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2012/01/weodata/weorept.aspx?pr.x=53&pr.y=12&sy=2000&ey=2012&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=512%2C558%2C513%2C564%2C514%2C524%2C534&s=LP&grp=0&a=
  31. 藤井 孝文, モハマド マスド・カリム、「バングラディシュの地下水ヒ素汚染について」、『水工学論文集』Vol. 42 (1998) P 397-402

参考文献

  • 大橋正明、村山真弓『バングラデシュを知るための60章』[第2版] 明石書店 2009年 ISBN 978-4-7503-3094-5

関連項目

外部リンク

政府
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観光
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