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ストラスブール

ストラスブール
Strasbourg
人口動態
人口 274 394人
2012年
人口密度 3,506人/km2
住民の呼称 Strasbourgeois, Strasbourgeoise
地理
座標 東経7度44分55秒北緯48.584445度 東経7.748612度48.584445; 7.748612
標高 平均:143 m
最低:132 m
最高:151 m
面積 78.26km2 (7,826ha)
ストラスブールStrasbourgの位置
ストラスブール
Strasbourg
公式サイト strasbourg.eu
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ストラスブール: Strasbourg[† 1]アルザス語:Schdroosburi[† 2]アレマン語:Strossburi[† 3]: Straßburg[† 4])は、グラン・テスト地域圏首府である。バ=ラン県県庁所在地でもある。

フランス北東部の、ライン川左岸に位置する。河川港を抱える交通の要衝である。対岸にはドイツの都市ケールが存在するが、シェンゲン協定によってパスポートチェック無しで自由に行き来できる。2007年6月10日にはTGV東ヨーロッパ線が開業し、パリ東駅と2時間20分で結ばれた。

概要

ストラスブール(シュトラースブルク)の語源はドイツ語で「街道の街」であり、交通の要衝として栄える。ライン川にフランス最大の河川港をもち、交通の便の良さから商工業が盛んである。1998年から当地のクレディ・ミュチュエルfrançais版English版商工信用銀行français版English版を支配している[† 5]

かつてはドイツ神聖ローマ帝国に属したが、近世初頭にドイツの混乱に乗じてフランス王国が侵略して併合する。以降、ドイツとフランスが領有権を争った土地として有名である。言語や文化の上ではドイツ系であるといえるが、下記のように1944年以降、政治的にはフランスに属する。

現在は欧州評議会欧州人権裁判所、またEU欧州議会の本会議場を擁し、ベルギーブリュッセルと共にEUの象徴的な都市の一つとなっている。フランス国立行政学院(ENA, エナ)の校舎もあり、欧州のエリートが当地で養成される。また、近郊の村エンツハイムにはスポーツウェア等で知られるルコックスポルティフの、同様に近郊のモルスアイムにはブガッティ・オトモビルの各本社機能がそれぞれ置かれている。

グーテンベルクカルヴァンゲーテモーツァルトパストゥールなども人生の一時期をこの地で過ごした。その中には現代史に欠かせないユダヤ銀行家がおり、マーク・ユージン・マイヤー(Marc Eugene Meyer 1842-1925)といった。その祖父はユダヤ教会役員会のラビ書記だった。自身は1859年17歳のときにカリフォルニアへ移住し、ロサンゼルスのデパート所有者となった。それからニューヨークでラザードの共同経営者となった[2]。その息子もラザードでキャリアを積み、連邦準備制度議長と初代世銀総裁を務めた。このようなマークの息子が授かった娘はキャサリン・グラハム女史である。

もっと永く過ごしたマークの同時代人で、ストラスブールの立場を理解するのに知っておくべき女性がいる。メラニー・ド・プルタレスは政治も担った。シュテファニー・フォン・ヴェデル(Stéphanie von Wedels, 1852-1937)はスウェーデンヤーコプ・ハミルトンが父である。ストックホルム駐在ドイツ帝国大使のカール・フォン・ヴェデルと結婚した。1907年夫がラインラント総督へ就任したのを機に、ストラスブールへ定住した。身体障害児の養護施設シュテファニー・ホスピスをつくらせるなどの社会貢献をなした。

歴史

ローマ人が都市をきずき、当時は「アルゲントラトゥム」Argentoratumとよばれた。ローマ帝国がライン川をゲルマニアとの国境としていたので、この地はローマ領であった。4世紀以来、司教座がおかれている。455年フン族に破壊されたが、フランク族によって再建された。

後に神聖ローマ帝国に属した。カトリック教会がシュトラースブルク司教座を設置。毛織物業も発展成立し、交通の要衝でもあったシュトラースブルクは大いに発展する。当時の司教ヴァルター・フォン・ゲロルズエック(Walter von Geroldseck, 1231年 - 1263年)の軍隊をハウスベルゲンの戦いにて打ち破り、1262年自由都市となった。1349年、在住ユダヤ人が差別に耐えかねて井戸に毒を流し、多数の市民を殺した[3]。科刑は内容がまちまちであった。

ルネサンス期の宗教改革では、はやくも1523年プロテスタントをうけいれ、市内にはカトリックとプロテスタントの教会が並んで建てられるようになった。17世紀フランスルイ14世の膨張政策が自然国境論のもとこの地域に触手を伸ばし、三十年戦争でドイツ圏のエルザス=ロートリンゲン地方(アルザス=ロレーヌ地方)を獲得すると、1697年大同盟戦争講和条約であるレイスウェイク条約によりフランス王国の領域に入り、シュトラースブルクはフランス語風にストラスブールと呼ばれるようになる。

18世紀末、セルベールフランス語版)(英語版がユダヤ人総代として活躍した。

1871年、普仏戦争プロイセンが勝利すると、アルザス=ロレーヌ地方はドイツ帝国領に復帰した。1875年、インドシナ銀行ができるときにストラスブールの個人銀行が参加した。

1919年第一次世界大戦でフランスが勝利し同地域は再びフランス領となった。

第二次世界大戦でも独仏戦の戦火にあい、1940年にドイツが自国領とするが、1944年に連合国が奪還している。第二次大戦後は「ヨーロッパの歴史を象徴する都市」として、欧州の主要な国際機関が置かれている。

1988年、イル川の中洲にある旧市街が「ストラスブールのグラン・ディル」としてユネスコ世界遺産に登録された。

観光

ファイル:Strasbourg place gutenberg.jpg
グーテンベルクの彫像がある広場


都心にあるカテドラル (ストラスブール大聖堂) 、アルザスの伝統家屋が密集したプチット=フランス地区がユネスコ世界遺産に登録されている。イル川の中洲である周囲2kmほどの島が都心であり、観光スポットもショッピングスポットもこの中洲に集中している。

カテドラルは地元産の砂岩で作られているため外観がバラ色で、地盤が弱いため尖塔が片方しかないのが特徴である。また、聖堂内には人の人生を表現したからくり時計「天文時計」が設置されている。

プチット=フランス地区はもとはなめし革職人の居住地区だったもので、小水路が入り組んだところにアルザス伝統の木組みコロンバージュ)の家が密集している。このプチット=フランス地区内には閘門が設けられている。ストラスブールはイル川の水運で栄えた水の都であり、観光客向けに水上バスも運航されている。水上バスは都心を出発してプチット=フランス地区の閘門を水路を調整しながら通過し、イル川河畔の欧州議会付近まで周遊する。

その他、市内にはいくつかの美術館が存在する。郊外では、欧州議会の会議場も見所の一つとなっている。通常時は欧州議会の建物へ入ることはできないので、外から建物を見学するだけになる。年に何度か、欧州議会公開デーがあり、そのときは会議場内部を見学することができる。欧州議会に隣接して、欧州評議会欧州人権裁判所もある。欧州議会・人権裁判所は非常に凝った現代建築である。

観光で忘れてはならないのが、ストラスブール市の鳥、シュバシコウである。シュバシコウはストラスブールのイメージキャラクターとして至るところで登場し、都心部の土産物屋ではシュバシコウのぬいぐるみなど、多数のシュバシコウ関係のグッズが売られている。ストラスブール土産と言えばシュバシコウというくらい定着しているが、実際は野生のシュバシコウはほぼ絶滅しており、市内では滅多に見ることはできない。市東部にあるオランジェリー公園内にコウノトリ飼育センターがあり、多数のシュバシコウが飼育されている。コウノトリ飼育センターは動物園も兼ねており、シュバシコウ以外にもクジャクなど他の鳥も見学できる。なお、オランジェリー公園は市内最大の公園であり、コウノトリ飼育センターだけではなく、園内にストラスブール唯一の三つ星レストランもあり、ここも重要な観光スポットである。

交通

水運

ライン川にフランス最大の河川港を抱えている。ライン川は今でもヨーロッパの物流の大動脈であり、ストラスブール港はライン川におけるフランスの玄関口を果たす重要な港である。港周辺には工場が集積しており、ストラスブール経済の重要な基盤である。また、ストラスブールからパリ方面やスイス方面へ運河も整備されている。なお、旅客に関しては鉄道自動車の時代であり、一部の観光船を除いて旅客船は就航していない。

長距離陸上交通

「街道の街」の名の通り、鉄道・道路ともに主要な幹線が交差する要衝となっている。ストラスブールはパリから真東へ約500kmに位置しており、フランスの東の玄関口としての役割が大きい。南北方向へは、ベルギーのブリュッセルからルクセンブルクを経て、アルザス地方、スイスからイタリアへ通じるルートの経路上にある。東はすぐにドイツであり、バーデン=バーデンカールスルーエシュトゥットガルトに近い。パリからドイツ南部(ミュンヘンなど)やオーストリアを結ぶルート、A4の経由点でもあり、東西・南北の国際幹線ルートの交点に位置している。

鉄道は上記のように、東西・南北方向の幹線を持つ。2007年6月にTGV東ヨーロッパ線が開業し、パリ-ストラスブール間は2時間20分で結ばれた。ストラスブール自体は都市圏人口45万の中規模都市だが、それでもパリからTGV路線が建設されるのは、ストラスブールを中継して近隣の主要都市への所要時間短縮が期待できるためである。これは、フランスのみならずルクセンブルクやEUが建設資金を拠出していることからも明らかである。パリから来たTGVの一部は、ストラスブールからスイス方面(バーゼルベルンチューリッヒなど)、ドイツ南部方面(シュトゥットガルト)への直通TGVとなる。将来はドイツ国内の路線も整備され、オーストリアハンガリーへ至る高速鉄道路線を形成する予定である。

航空

ストラスブール近郊のエンツハイム市にストラスブール国際空港があり、フランス国内ならびにヨーロッパ主要都市に就航している。なお、ストラスブール空港からストラスブール中央駅までは鉄道のnavette(シャトル)が通じており、日中の便数は1時間当たり数本、所要時間は最速7分である。2013年にパリ・シャルル・ド・ゴール国際空港とストラスブール国際空港間のエールフランス便は廃止されたため、現在ではTGVに航空便名を付与して、フランス国鉄の共同運航という形を取っている。このため、日本からシャルル・ド・ゴール国際空港経由で乗り継ぐ場合には、実際にはストラスブール中央駅に到着することになる。

なお、フランクフルト空港からはルフトハンザドイツ航空の連絡バスがストラスブール駅前まで運行されている。このバスは航空機の代替便として走っているので、ルフトハンザ航空の飛行機の乗り継ぎ便として利用できる。日本からルフトハンザ航空や全日本空輸(ANA)などスターアライアンス系航空会社でフランクフルト空港経由でストラスブール入りする場合は、このルートが便利である。

市内交通

1994年よりトラムLRT)が運行されている。2007年5月現在、4系統24kmの路線網となっている。このトラムは非常に斬新なデザインであり、トラム導入とともに都心の歩行者専用ゾーン化・トラムの停留所設備の整備と一体化した景観整備なども行い、トラム導入を軸とした都心再開発を行った。トラム導入後、公共交通の乗客数は大幅に増加し、なおかつ再開発が非常に高く評価され、交通まちづくりの先進事例として評価が高い。遠く日本からも都市行政関係者などが多数ストラスブールを視察している。欧州議会等が存在する街の特徴などから「ユーロトラム」というニックネームが車両に与えられている。

また、市内交通はトラムの他にバスがある。トラムとバスは1時間以内なら1枚の切符で乗り継ぎが可能であり、トラムとバスが一体となったネットワークで運営されている。トラム・市バスともに第3セクターのストラスブール交通会社(CTS)が運営しており、CTSは他に空港連絡バスおよびバ=ラン県内中距離バス(Resaux67)も運営している。

2007年秋にはトラムが延伸され、2011年を目処にトラムとフランス国鉄線の直通運転が開始され、ストラスブール空港から都心への直通トラムが運行される予定である。

自転車

ストラスブールは、1970年代より一貫して自転車政策を推進してきた街である。現在では自転車道などの自転車空間のネットワークは、ストラスブール大都市共同体全体で500kmを超え、交通モードに占める自転車の割合(分担率)は、ストラスブール市中心部で14%、ストラスブール大都市共同体全体で8%となっており、フランスで最も自転車の利用が普及している都市といえる。また、レンタサイクルであるヴェロップのサービスも提供されている。

ギャラリー

ファイル:Strasbourg - Ponts Couverts vus de la terrasse panoramique.jpg
「バラージュ・ヴォーバン」から望む、前方の中世の橋「ポン・クヴェール」及び遠方のストラスブール大聖堂

姉妹都市・提携都市

出身者

脚注

注釈

  1. フランス語発音: [stʁazbuʁ] ストラズブール
  2. シュトロースブーリ
  3. シュトロースブリ
  4. ドイツ語発音: [ˈʃtʁaːsbʊɐ̯k] シュトースブルク
  5. 商工信用銀行(CIC)は、1859年に創設されたフランス初の株式銀行。オディフレ侯爵(Charles d'Audiffret)の後援で、デュフール(François Barthélemy Arlès-Dufour)、タラボ(Paulin Talabot, ソジェン発起人)、ドノン(Armand Donon)、ウィリアム・グラッドストン、ハンゼマン(David Hansemann, ディスコント・ゲゼルシャフト創業者)などが発足させた。CIC はイギリスのジョイント・ストック・バンクをモデルに、小切手を利用した決済の普及を設立目的としていた。支店の開設をパリに限定していたので、1863年に貯蓄・当座勘定銀行(Société des dépôts et comptes courants, パナマ運河疑獄で損害を出しフランス銀行が吸収)を設立し、同行と協力して各地に子会社の銀行を創設(マルセイユ・ノール・サンテチエンヌ・ボルドー・ナンシー)、コルレス網を全国展開した。[1]

出典

  1. 篠永宣孝 『フランス帝国主義と中国』 春風社 2008年 330頁
  2. 洲崎恵三 トーマス・マンとアグニス・E・マイアー(1) つくば国際大学研究紀要 No. 17, 2011, p. 85.
  3. August Stöber, Die Sagen des Elsasses, St. Gallen, 1858, p.486.

関連項目

外部リンク

公式
観光