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豊臣秀次

豊臣秀次 / 羽柴秀次
時代 戦国時代室町時代末期) - 安土桃山時代
生誕 永禄11年(1568年
死没 文禄4年7月15日1595年8月20日
主君 豊臣秀吉
氏族 木下氏(長尾、三輪とも)[注釈 1]宮部氏羽柴氏三好氏→羽柴氏→豊臣氏

豊臣 秀次(とよとみ ひでつぐ / とよとみ の ひでつぐ)または羽柴 秀次(はしば ひでつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名豊臣氏の2代目関白豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男。

幼少時、戦国大名浅井長政の家臣・宮部継潤が秀吉の調略に応じる際に人質となり、そのまま養子となって、初名は吉継、通称を次兵衛尉[注釈 2]とし、宮部 吉継(みやべ よしつぐ)と名乗った。次いで畿内の有力勢力だった三好一族三好康長(笑岩)養嗣子となり、今度は名を信吉と改めて通称は孫七郎とし、三好 信吉(みよし のぶよし)と名乗って三好家の名跡を継いだ。

秀吉が天下人の道を歩み始めると、羽柴姓に復氏して、名も秀次と改名。豊臣姓も下賜された。鶴松が没して世継ぎがいなくなったことから、改めて秀吉の養嗣子とされ、文禄の役の開始前に関白の職を譲られ、家督を相続した。ところがその後になって秀吉に嫡子・秀頼が誕生して、理由は諸説あるものの、秀次は強制的に出家させられて高野山青巌寺蟄居となった後に切腹となった。秀次の首は三条河原晒し首とされ、その際に眷族も尽く処刑された。

生涯

生い立ち

永禄11年(1568年)、秀吉の同母姉・とも(瑞竜院日秀)と弥助(後の三好吉房)夫婦の長男として尾張国知多郡大高村で生まれた[1]。名は治兵衛(じへえ)[注釈 3]

元亀元年(1570年)4月、織田信長と同盟していた北近江の浅井氏が離反して朝倉氏についたことから、信長は金ヶ崎より一旦撤退した後、6月に改めて徳川家康の援軍と共に近江国へ出陣して、浅井・朝倉連合軍との姉川の戦いで勝利した。その後、浅井親子が籠城して小谷城攻めは長期化したが、陥落させた支城の横山城に入り、攻囲の責任者となったのが秀吉であった。

秀吉は小谷城の他の支城に対して次々と調略を試み、元亀3年(1572年)、宮部城[注釈 4]主の宮部継潤を巧みに勧降したが、この際に継潤の安全を保障するための人質として送られたのが、当時4歳の治兵衛であった。治兵衛は、名目上、継潤の養子とされ、治兵衛の百姓名を棄て、通称を次兵衛尉、を吉継と改めて、「宮部吉継」を名乗ることになった。『筑後国史』によると、この時に継潤によって宮部家家臣の田中久兵衛が傅役とされたと云う。彼は後に吉政と名を改めたが、秀次には最も長く側近として仕えている[2]

天正元年(1573年) 9月1日、小谷城は陥落して浅井氏は滅亡した(小谷城の戦い)。信長は第一の功績を秀吉に認めて同城を与え、宮部継潤も秀吉の与力の一人とされた。吉継(秀次)がいつまで宮部家の養子でいたのかわからないが、自分の臣下となった者に人質を出して置く道理がないため、天正2年(1574年)、琵琶湖沿岸に長浜城が築かれたときにはすでに羽柴氏か木下氏に復していたと考えられている[3]が、6歳の秀次がこの頃に何と名乗っていたかは不明。

三好孫七郎

天正3年(1575年)、畿内で松永久秀三好三人衆が信長に降った際に、三好一族で阿波国に勢力を持ち、河内高屋城で籠城していた三好康長も降ったが、彼は松井友閑を介して、信長が欲しがっていた名器「三日月の茶壷」を献上して大変喜ばれ、一転して家臣として厚遇されるようになった。信長はこの頃に土佐国を統一した長宗我部元親の所領を安堵し、「四国の儀は元親手柄次第に切取候へ」と書いた朱印状を渡していたが、天正8年(1580年)に長宗我部氏が阿波国に勢力を伸ばして、康長の息子・三好康俊や甥・十河一存の城を攻めるようになると情勢は変化した[4]。康長は秀吉に接近してその支援を得ると、織田家重臣で長宗我部氏との外交窓口となっていた明智光秀の考えが反映した従来の方針が撤回されるように働きかけた。その結果、天正9年(1581年)3月、信長は阿波勢と長宗我部氏の調停と称して、元親に阿波国の占領地半分を返還するように命じたが、元親はこれに従わずに対立。翌年、信長三男の神戸信孝を総大将とする四国征伐が行われることになり、康長は信孝を養子とするという手筈であったが、天正10年(1582年)6月に本能寺の変があって全てが中止となった。

三好康長は連携を強めるために秀吉の甥を養子としてもらった。しかしその時期については諸説あり、早くは天正3年(1575年)4月で荒木六之助は康長が投降した直後とする説をとるが、遅くは天正10年(1582年)10月で諏訪勝則谷口克広などが言う本能寺の変の後であったとする説もあり、諏訪勝則は秀吉は瀬戸内から四国をおさえ、さらに長宗我部氏の行動を阻止する必要上、三好氏を自己のもとへ引き寄せるために秀次を養子に出したとする[5]。 本能寺の変や信孝を養子とするという話との関連性などを含めて不明な点がある。藤田達生小和田哲男などは天正8年(1580年)から同9年(1581年)にかけての四国政策の転換時期であろうと推定しているが、それぞれの説には反論や史料的裏付けの不足などあって確定には至っていない[6]

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太平記英勇伝九十九:豊臣秀次(落合芳幾作)

ともかく再び養子とされた吉継(秀次)は、通称を孫七郎と改め、諱を信吉[注釈 5]として、「三好信吉」と名乗るようになった。康長は河内半国を知行して若江城を居城としていたが、本能寺の変後に出奔してその後の消息は不明で、一説には出家して妙心寺に入ったとも言うが、実子の康俊もこの頃に亡くなったか何かで姿を消しているため、天正11年(1583年)頃には信吉が残った三好家の家臣団を率いる立場となり、河内北山2万石の大名となった。また百姓の倅が名門三好氏を継いだということで父の弥助も三好姓を用いるようになり、以後、三好武蔵守吉房と名乗りを改めた。

飯田忠彦の『野史』によると、天正10年(1582年)の山崎の戦いの直前、秀吉のもとに馳せ参じた池田恒興の娘と信吉との婚約が約束されたと言い[7]、時期は不明ながら後に実際に結婚して正室とされた。清洲会議では、関東で足止めを食った滝川一益の代わりに恒興が宿老の1人として出席しており、この縁組は秀吉の多数派工作の一助となった。またこの頃、池田氏の所領から三田城[注釈 6]が信吉に譲渡されている。

天正11年(1583年)、滝川一益が挙兵すると、信吉は中村一氏や近江勢2万を率いる大将として出陣して、鳥居本から大君ヶ畑峠を越えて伊勢国に入リ、滝川益重の籠る嶺城を攻略した。さらに続く賤ヶ岳の戦いでも第六陣を率いて参加したが、このときは活躍の場はなかった。この戦いで柴田勝家を破った秀吉が、信長の後継者として天下人の地位を確立すると、信吉は秀吉の数少ない縁者の中での二世世代の最年長者として重用されるようになり、天正12年(1584年)の春頃、羽柴姓に復帰して「羽柴信吉(孫七郎)」と名乗りを改め、この段階で三好康長のもとを去ったと思われる。秀吉にとって排除すべき存在であった織田信孝がいなくなったことで、畿内は安定した状態になり、秀次が三好家にいる必要がなくなったからである[5]。この時に三好家臣団から引き抜いた者を、特に若江八人衆[注釈 7]と言う。

しかし天下人の甥として期待されて参加した小牧・長久手の戦いでは失態を演じた。岳父である池田恒興と(羽黒の陣で敗北した)義兄・森長可三河国に攻め入るという「中入り」策を秀吉に強く提案し、信吉もこの別働隊の総大将に志願して認められたが、4月9日、白山林で榊原康政大須賀康高らに奇襲されて、壊滅的な大敗を喫した。軍目付として同行していた木下助左衛門木下勘解由が信吉を守ろうとして討死する中で、本人は馬もなく徒歩で命からがら落ち延び、堀秀政隊の救援で何とか脱出した。結局、長久手では池田や森らの武将も尽く討たれてしまい、見苦しい敗北で不甲斐ない様を見せたとして、秀吉から激しく叱責される。

山鹿素行の『武家事紀』によれば、信吉は失った木下勘解由ら部下の代わりに池田監物を遣わされるように訴えたようで、一柳直末を使者としたが、秀吉は口上しただけの直末を手討ちにしようと思ったほど大激怒し、家臣を見殺しにした大たわけであるとして5箇条の折檻状を送って厳しく戒めた[8]。この中で秀吉は、自分の甥としての覚悟と分別を持つように求めて、それに応えるならば何れの国でも知行を認めるが、今の様に無分別ならば「一門の恥であるから手討ちにする」とまで述べている。また世継ぎである於次丸秀勝は病身であるから将来は名代を継がせる考えもあるが、それは覚悟次第であると述べて、重ねて自覚を持つように要求して、宮部継潤と蜂須賀正勝を派遣するので詳細を聞くようにと申し渡した[注釈 8]

天正13年(1585年)、秀吉が紀伊雑賀征伐に出陣すると、信吉(秀次)は叔父・羽柴秀長と共に副将を任されて汚名を雪ぐ機会を得た。3月21日千石堀城の戦いでは、信吉軍は四方より猛然と攻めかかり、首は一つも取らずに打ち捨て、一揆勢を皆殺しにして城を落した。太田城攻囲にも参加した。続く同年6月の四国征伐では、秀吉が病気であったので、秀長が総大将となり、信吉は副将として明石より3万を率いて出陣し、鳴門海峡を経て阿波国土佐泊に上陸。黒田孝高宇喜多秀家ら備前・播磨勢と合流した後に、比江山親興の籠る岩倉城を攻めて落城させた。

同年7月頃、秀吉の関白就任に前後して、その偏諱を受けて秀次と改名し、「羽柴秀次」を名乗った[10][11]

二代関白へ

8月6日、長宗我部元親が降伏して四国平定が成ると、その後の評定によって大掛かりな国替え・加増が行われた。結果、秀次の本人分としては20万石、宿老(中村一氏・山内一豊堀尾吉晴)たちへの御年寄り衆分としては23万石が与えられ、併せて43万石の大名とされた。領地は東西交流の要となる近江国の蒲生甲賀野洲坂田浅井の5郡[12]で、秀次は蒲生郡の現在の近江八幡市に居城を構えることとし、安土を見下ろして琵琶湖にも近い場所に、八幡山城を築いた。

縄張や築城工事の都督、作業工程まで具体的な指示が書状で示されているところを見ると、諸将の配置、場所の選定なども含めてすべて秀吉の指図であったと思われる。八幡山城は後の事件で破却を命じられたために現存しないが、日牟禮八幡宮の上宮を移築して山頂の尾根に三層の天守閣が築かれた山城は、所謂、詰の城つめのしろで、山麓の居館との二つに分かれていた。城下町の町人は主に安土から転居しており、計画的に造られた町並みは、八幡堀として現在もその姿を留めている。上下水道も整備され、地名に残る「背割」とはもともとは下水のために掘られた溝を指す。

秀次は、領内の統治では善政を布いたと言われ、近江八幡には「水争い裁き」の逸話[注釈 9]などが語り継がれている。これは宿老の田中吉政の功績が大きいとも言われているが、悪政を敷いた代官を自ら成敗したり、名代を任せた実父の三好吉房について「頼りない」と評価する[13]など主体性を発揮した面も伝わっている。

また同年10月頃、秀次は従四位下右近衛権少将に叙任された。

天正14年(1586年)の春頃、秀次は右近衛権中将に叙され、11月25日、豊臣の本姓を秀吉から下賜され[14]、同時に参議にも補任された。

天正15年(1587年)、九州征伐では、前田利家を輔佐として、秀吉の名代で京都留守居を命じられて、秀次は出陣しなかった。11月22日に従三位昇叙して権中納言に任ぜられた。

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『後陽成天皇聚楽第行幸図』(堺市博物館収蔵)

天正16年(1588年)4月14日に聚楽第後陽成天皇の行幸を迎えた際、忠誠を誓う署判の序列では、徳川家康(大納言)、織田信雄(内大臣)、豊臣秀長(権大納言)、豊臣秀次、宇喜多秀家、前田利家の順で署名したが、この時までに秀次の家臣内序列は四番目に上がっていた。4月19日には従二位に昇叙。

天正18年(1590年)の小田原征伐には出陣し、秀長は病気であったために秀次が副将とされ、今度は徳川家康の指南を受けるように指示された[15]山中城攻撃では秀次が大将となって城を半日で陥落させ、守将・松田康長の首を取ったが、一方でその戦闘で家老の一柳直末を失っている。小田原城包囲では、秀次軍は荻窪口に陣取り、7月5日北条氏の降伏まで在陣した。

小田原城開城が一段落した直後である7月18日、秀次はそのまま奥州平定に出発して、8月6日には白河に到着。9日には黒川に至った。伊達政宗から没収して蒲生氏郷に与えられた三郡の内、会津郡検地の監督を秀次は命じられていたが、秀吉が京都に帰還した後、葛西大崎一揆が起こった。当初、氏郷が一揆は政宗が扇動したものであると秀吉に報告したため、秀次と家康に出陣が命じられたが、後に誤報として処理されて、一旦取り消しとなった。しかし天正19年(1591年)2月には九戸政実の乱が起きて、鎮圧に手こずった南部信直より援軍要請を受けた秀吉は、葛西大崎一揆の裁定と九戸征伐の両方を進めるために、改めて諸将に出陣を号令した。伊達政宗、蒲生氏郷、佐竹義宣宇都宮国綱上杉景勝、徳川家康、そして秀次の六番の隊が出征し、総大将は秀次が務めた。

このように秀次は奥州にいて不在であったが、小田原攻めの論功行賞で、織田信雄が東海道五カ国への移封を拒否して改易されたので、信雄領であった尾張国・伊勢国北部5郡などが秀次に与えられ、旧領と合わせて100万石の大大名とされた。(ただし播磨良紀は研究で、北伊勢5郡については秀次の統治を示す一次史料が一通も見つかっていないと指摘して、これを含まないという説を唱えている[16]。)これに伴って、秀次は居城を清洲城に移した。年寄衆の所領も東海道に転封された。

同じ天正19年(1591年)の1月22日に豊臣秀長が、8月5日には秀吉の嫡男・鶴松が相次いで死去した。通説ではこの年の11月に秀次は秀吉の養嗣子となったとされるが、養子となった時期についても、従来より諸説あって判然としておらず、それ以前に養子とされていたという説もある[17]。しかしこの頃に秀吉は関白職を辞して、唐入りに専心しようと思い立ち日本の統治を秀次に任せると言い出しており、後継者にすることが決まったことは、ほぼ確実のようである。関白職の世襲のために秀次の官位は、急遽引き上げられ、11月28日には権大納言に任ぜられ[18]、12月4日には内大臣に任ぜられた[19]

12月20日、『本願寺文書』および『南部晋氏所蔵文書』によると、秀吉は5ヶ条の訓戒状を秀次に出している[20]。前4条は天下人としての一般的な心得を述べたものだが、最後の条で「茶の湯、鷹野の鷹、女狂いに好き候事、秀吉まねあるまじき事、ただし、茶の湯は慰みにて候条、さいさい茶の湯をいたし、人を呼び候事はくるしからず候、又鷹はとりたか、うつらたか、あいあいにしかるべく候、使い女の事は屋敷の内に置き、五人なりとも十人なりともくるしからず候、外にて猥れかましく女狂い、鷹野の鷹、茶の湯にて秀吉ごとくにいたらぬもののかた一切まかり出候儀、無用たるべき事」と個人的な行いについて特に“自分のように振る舞うな”と戒めて、神明に誓わせた[注釈 10]

12月28日に、秀次は関白に就任して、同時に豊臣氏の氏長者となった[21]。関白就任以後、秀次は政庁である聚楽第を主な住居として政務を執ったが、諸事は秀吉が定めた「御法度」「御置目」に従うようにされており、太閤秀吉が依然として統括的立場を保持して二元政治のようになった。

天正20年(1592年)1月29日、左大臣に補任された。2月には2回目の天皇行幸があり、秀次がこれを聚楽第で迎えた。これは秀次への権力世襲を内外に示したものと理解されている。

3月26日に淀殿を伴って名護屋城に出征した秀吉が唐入りに専念する一方で、秀次とその家臣団による国内統治機構の整備は進んでいったようである[22]朝尾直弘は「いったん譲ってしまうと、関白を中心とする国制機能は独自に発動され、太閤権力の制御の枠をこえる動きをみせようとした」[23]と説明するが、『駒井日記』の4月7日の条によると、前田利家、前田利政、佐竹義宣、里見義康村井貞勝真田昌幸らの官位授与・昇叙に対して秀吉は秀次の同意を求めて、その上で上奏するように指示しており、制度上の関白・秀次の地位が、独自の権力を生む余地を生んだとされる。秀吉の隠居地とされた伏見城(指月城[注釈 11])の築城作業も、結局は秀次の管理下で行われた。5月17日、従一位に叙せられた[24]。8月の大政所の葬儀も、喪主は秀吉であったが、葬儀を取り仕切ったのは秀次であった[注釈 12]

12月8日に元号が文禄改元されるが、この時期に天皇即位や天変地異など特に改元すべきふさわしい理由はなく、これは秀次の関白世襲、つまり武家関白制統治権の移譲に関係した改元であったと考えられている[25]

秀頼誕生後

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豊臣秀次像、高厳一華賛
(京都地蔵院所蔵)

ところが、継承が済んだ後になって、肥前国から戻った淀殿の懐妊が判明した。当初、平静を装っていた秀吉であった[26]が、文禄2年(1593年8月3日大坂城二の丸で淀殿が秀頼(拾)を産むと、その報せを受けた8月15日には名護屋城を発ち、25日に大坂に来て我が子を抱きかかえたほどの、大変な喜びようであった。『成実記』には「秀吉公御在陣ノ内若君様御誕生ナサレ候、秀次公ヘ聚楽御渡候ヲ、内々秀吉公御後悔ニモオボシ候哉、治部少見届、御中ヲ表裏候由見ヘ候」[27]とあり[注釈 13]、通説のように秀吉が関白を譲ったのは早計であったと思い直したとしても不思議はなかった。

山科言経の『言経卿記』によると、9月4日、秀吉は伏見城に来て、日本を5つに分け、その内4つを秀次に、残り1つを秀頼に譲ると申し渡したそうである[28]。この後、秀次は熱海に湯治に行ったが、旅先より淀殿に対して見舞状を出すなど良好な態度であった[29]。ところが、『駒井日記』の10月1日の条によると、駒井重勝木下吉隆から秀吉が前田利家夫妻を仲人として、まだ生まれたばかりの秀頼と当時1歳の秀次の娘(後の露月院)を婚約させ、将来は舅婿の関係とすることで両人に天下を受け継がせる考えであり、秀次が湯治より帰ったら言い渡されるそうだと教えられたと言う[30]。これからは3代目の後継者は秀頼としたいという秀吉の意図が読み取れるが、このような重大な決定が不在中(帰還は11月)に頭越しに決められては秀次の感情も変わっていったと思われる。

宮本義己は、典医曲直瀬玄朔診療録である『玄朔道三配剤録』『医学天正日記』を分析して、秀頼が誕生してから、喘息の症状が強くなるなど、秀次の心身がいかに不安定であったかを説明し、失われるものに対する恐怖心、すなわち権力への執着心の強さを示している[31][32]。先の熱海温泉への湯治も秀次の“喘息”治療のためであったが、前述のように秀吉の露骨な秀頼溺愛があって、心休まるような状態ではなく、むしろ悪化した。小林千草は秀次はもともと激情の人であり、突然の環境の変化が「理性のはどめのきかない部分」を助長したのではないかと言う[32]

しかし一方で、両者の関係は少なくとも表面上は極めて良好であった。『駒井日記』によると、文禄3年(1594年)2月8日、秀次は北政所と吉野に花見に行っており、9日には大坂城で秀吉自身が能を舞ったのを五番見物した。13日から20日までは2人とも伏見城にあって舞を舞ったり宴会をしたりして、27日には一緒に吉野に花見に行っている。3月18日には、滋養に利くという虎の骨が朝鮮から秀次のもとに送られてきたので、山中長俊が煎じたものを秀吉に献じて残りを食している。このような仲睦まじい様子が翌年事件が起こる直前まで記されて、何事もなく過ごしていたのである[33][注釈 14]

秀吉は当初、聚楽第の秀次と大坂城の秀頼の中間である伏見にあって、自分が仲を取り持つつもりであったが、伏見は単なる隠居地から機能が強化され、大名屋敷も多く築かれるようになって、むしろ秀次を監視するような恰好になった。4月、秀吉は普請が終わった伏見城に淀殿と秀頼を呼び寄せようとしたが、淀殿が2歳で亡くなった鶴松(棄丸)を思って今動くのは縁起が悪いと反対し、翌年3月まで延期された。秀頼の誕生によって淀殿とその側近の勢力が台頭したことも、秀次には暗雲となった。またこの頃、大坂城の拡張工事と、京都と大阪の中間にあった淀城も破却工事が実施されたが、中村博司は論文で、これは聚楽第の防備を削り、大坂の武威を示す目的があったのではないかと主張する[34]

他方で、文禄の役では『豊太閤三国処置太早計』[注釈 15]によると、秀次は文禄2年(1593年)にも出陣予定であったが、秀吉の渡海延期の後、前述の病気もあって立ち消えになっていた。外交僧の景轍玄蘇が記した黒田如水墓碑文(崇福寺)によると、如水は博陸(=関白)に太閤の代わりに朝鮮に出陣して渡海するように諫めて、もしそうしなければ地位を失うだろうと予言したが、秀次は聞き入れなかったそうである[37]。『続本朝通鑑』にも、如水が名護屋城で朝鮮の陣を指揮している太閤と関白が替わるべきであると諭し、京坂に帰休させることで孝を尽くさずに、関白自身が安楽としていれば恩を忘れた所業というべきで、天下は帰服しないと諫言したが、秀次は聞かずに日夜淫放して一の台の方ら美妾と遊戯に耽ったと、同様の話が書かれている[37]。翌年正月16日付の吉川広家宛ての書状にも、「来年関白殿有出馬」の文字があるが、秀次の出陣は期待されつつも実現していなかった[37]

切腹事件

文禄4年(1595年)6月末、突然、秀次に謀反の疑いが持ち上がった。秀次切腹事件を最初に描いた太田牛一太閤さま軍記のうち』では、これを「鷹狩りと号して、山の谷、峰・繁りの中にて、よりより御謀反談合とあい聞こえ候」[38]と描写している。秀次を中心とする”反秀吉一派”が、鷹狩りを口実にして、山中で落ち合って謀議を重ねているという噂があったというのであるが、これは当時の人々にとっても雲を摑むような話であり、俄かに信じがたいものであった。

しかしながら、7月3日(または6月26日)[注釈 16]、聚楽第に石田三成前田玄以増田長盛富田左近など[注釈 17]秀吉の奉行衆が訪れて、巷説の真偽を詰問し、誓紙を提出するよう秀次に要求したのである。秀次は謀反の疑いを否定して、吉田兼治に神下ろしをさせた前で誓う起請文として7枚継ぎの誓紙をしたため、逆心無きことを示そうとした。誓紙提出については『家忠日記[注釈 18]にも記されており、史実性は高いと考えられている[40]。他方で『御湯殿上日記』によると、秀次は7月3日に、朝廷に白銀3,000枚、第一皇子(覚深法親王)に500枚、准三宮勧修寺晴子近衛前子)に各500枚、八条宮智仁親王[注釈 19]に300枚、聖護院道澄に500枚を献納している[41]。そのため、何らかの多数派工作を行ったか、または、(仮に同日であれば)偶然の一致が疑いを招き、粛清の口実になったのではないかとも考えられる[42]

7月5日、前年の春に秀次が家臣・白江成定毛利輝元のもとに派遣し、独自に誓約を交わして連判状をしたためている(または、輝元よりこのような申告があった)と、石田三成[注釈 20]は秀吉に報告した[43][注釈 21]。 このことから、秀吉は「とかく父子間、これかれ浮説出来侍るも、直談なきによれり」[45]として、秀次に伏見城への出頭を命じた。しかし、この報告の内容も事実無根であり、秀次はすぐには応じなかったようである。『続本朝通鑑』には、5日黎明、当時聚楽第近くの館にいた徳川秀忠を秀次が人質としようとしたので大久保忠隣土井利勝が相談して秀忠を伏見へ脱出させたという記述がある[46]が真偽のほどは定かではない。3日間どのようなやり取りや出来事があったかは明らかではない[45]が、事態は思いがけぬ方向に急転した。

7月8日、再び、前田玄以宮部継潤・中村一氏・堀尾吉晴山内一豊の5名からなる使者が訪れ、秀次に伏見に出頭するよう重ねて促した。『甫庵太閤記』では、堀尾吉晴がなかなか言い出せないでいると、吉田修理が割って入って、もし疑われるような事がないのならすぐに伏見に立つように、もし野心があって心当たりがあるのならば一万の軍勢を預けていただければ先陣を切って戦うと啖呵を切ったので、秀次はその忠勤の志に安心したが、それには及ばないと出頭を了承したとされる。『武家事紀』ではこれに加えて、秀次は自ら積極的に冤罪を晴らすとして伏見に向かったとされる。一方、宣教師達の所見をまとめた『日本西教史』では、この5名が五ヶ条の詰問状[注釈 22]を示して謀反の疑いで秀次を弾劾したことになっていて、清洲城[注釈 23]に蟄居するか伏見に来て弁明するかを命じたので、秀次は観念して慈悲を請うために伏見に向かったとされている[48]。他方、『川角太閤記』や『利家夜話』ではこれらとは異なり、秀吉によって使者を命じられた比丘尼・孝蔵主が秀次を騙して、侍医や小姓衆など僅かな供廻りだけを連れて伏見にくるように謀ったとされ、もともと秀吉には直談する意思はなく、おびき出すための謀略であったとされている[49]

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『おもひきや 雲ゐの秋のそらならて 竹あむ窓の月を見んとは』(月岡芳年『月百姿』)高野山の豊臣秀次

秀次は伏見に到着したが、登城も拝謁も許されず、木下吉隆の邸宅に留め置かれた[注釈 24]。上使に「御対面及ばざる条、まず高野山へ登山然るべし」[45]とだけ告げられた秀次は、すぐに剃髪染衣ていはつぜんえの姿となり、午後4時頃、伏見を出立した。監視役として木下吉隆、羽田長門守木食応其(木食興山)が同行した。その日は玉水に泊まったが、そこまでは2、300騎の御供が従っていたので、石田三成から多すぎると指摘され、9日からは小姓衆11名[注釈 25]東福寺の僧・虎岩玄隆のみが付き従った。移動する途中で秀次左遷の御見舞いの飛脚が次々とやってきて賑わいを見せたので、駒井重勝および益田少将[注釈 26]と連絡をとって見舞いを送らないように通達を出させた。この夜は興福寺中坊に泊まった。10日、高野山青巌寺に入り、この場所で秀次は隠棲の身となった。この出家の際に道意と号した[50]とも言い、以降は豊臣の姓から豊禅閤ほうぜんこうと呼ばれることがある[注釈 27]

秀次の妻妾公達らは8日の晩に捕えられて家臣の徳永寿昌宅に監禁され、監視役として前田玄以と田中吉政が付けられていたが、11日に丹波亀山城に移送された。12日、秀吉は、さらに高野山の秀次に対して供廻りの人数や服装の指定、出入りの禁止と監視を指図し、監禁に近い厳しい指示を出した[51]

7月13日、『太閤さま軍記のうち』によれば、四条道場にて秀次の家老の白江成定が切腹し、その妻子も後を追って自害した。同じく嵯峨野二尊院熊谷直之が切腹。摂津国の大門寺木村重茲が斬首[52]され、財産没収となった[注釈 28]。重茲の妻子は一旦は法院の預かりとなったが、後に三条河原でにされた[53]

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豊臣秀次像/瑞泉寺蔵。
秀次の下に殉死した隆西堂、山本主殿、不破万作、山田三十郎、雀部淡路守[注釈 29]を配す

他の家臣については、一柳可遊は徳川家康に、服部一忠は上杉景勝に、渡瀬繁詮は佐竹義宣に、明石則実小早川隆景に、羽田長門守は堀秀政に、前野長康景定親子は中村一氏に、それぞれ身柄を預けられた。粟野秀用は自邸にて切腹(または三条河原にて斬首)。縁者である日比野下野守山口小雲北野で、丸毛不心斎は相国寺で切腹。吉田修理は逃亡した。木下吉隆、荒木元清(馬術の師匠)、曲直瀬玄朔、里村紹巴(歌の師匠)は遠流とされた[54][注釈 30]

7月15日、高野山に福島正則池田秀雄福原長堯の3名の検使が兵を率いて現れ、秀次に賜死の命令が下った[注釈 31]ことを告げた。ところが、『甫庵太閤記』によれば、木食応其が仏教寺院内では寺法により無縁の原理が認められており罪人すら保護されると抗議した。木食応其は衆徒と対応を評議すると言って引き伸ばし、切腹を何とか阻止しようと食い下がったので、衆徒との間で一触即発の事態となる。しかし秀吉に逆らえば高野山の寺院そのものが失われるという恫喝に近い福島の説得があり、秀次も切腹を受け入れたために対決は回避された[56]

秀次は名刀を多数所持していたが、山本主殿助、山田三十郎、不破万作の小姓衆は名だたる刀匠の脇差を賜ると、次々と腹を斬り、この3名の殉死者は秀次が自ら介錯した。虎岩玄隆は太刀で自ら腹を切って果てた。5番目についに秀次の番となり、雀部重政の介錯により切腹して果てた。享年28[57]。法名は、高野山では善正寺殿高岸道意大居士とし、菩提寺の瑞泉寺では瑞泉寺殿高厳一峯道意とされている。

辞世は「磯かげの松のあらしや友ちどり いきてなくねのすみにしの浦」。

雀部重政もすぐに自害して後を追ったが、秀次の介錯に用いた彼の刀、南都住金房兵衛尉政次は、兄の雀部六左衛門の子孫に受け継がれて、現在は博物館「大阪城天守閣」に寄贈されている[57]。また青巌寺(現:金剛峯寺)の柳の間は、現在では“関白秀次自刃の間”として知られる。

秀次及び同日切腹した関係者の遺体は、高野山奥の院の千手院谷、光台院の裏の山に葬られ、福島正則は首だけを検分のために伏見に持ち帰った。

その後

7月16日、秀吉は三使が持ち帰った秀次の首を検分した。しかし秀吉はこれで満足せず、係累の根絶をはかった。7月31日、秀次の妻妾公達が亀山城より京都の徳永邸に戻され、8月1日、翌日に処刑されると通達されたので、女性達は辞世の句を認めたり、身支度などをした。

8月2日9月5日)早朝、三条河原に40m四方の堀を掘って鹿垣を結んだ中で処刑が行われることになり、さらに3mほどの塚を築いて秀次の首が西向きに据えられた。その首が見下ろす前で、まず公達(子供たち)が処刑された。最も寵愛を受けていた一の台は、前大納言・菊亭晴季の娘であって北政所が助命嘆願したが叶わず、真っ先に処刑された。結局、幼い若君4名と姫君、側室・侍女・乳母ら39名[注釈 32]の全員が斬首された。子供の遺体の上にその母らの遺体が無造作に折り重なっていったということで、観衆の中からは余りに酷いと奉行に対して罵詈雑言が発せられ、見物にきたことを後悔した者もいたという[58]

数時間かけて行われた秀次の眷族の処刑が済むと、大量の遺体はまとめて一つの穴に投じられた。この穴を埋め立てた塚の上に秀次の首を収めた石櫃が置かれて、首塚が造られた。首塚の石塔の碑銘には「秀次悪逆」の文字が彫られており、後述のような殺生関白の悪評もあって、人々はこれを「畜生塚」[注釈 33]や「秀次悪逆塚」と呼んでいたが、鴨川の洪水で流出した後はしばらく放置されていた。慶長16年(1611年)、河川改修の際に石版を発見した豪商・角倉了以が、供養のために瑞泉寺を建立し、「悪逆」の文字が削られて供養塔として再建された。同寺には、秀次ら一族処刑の様子を描いた絵巻瑞泉寺縁起」が残されている[61]

大名預かりとなっていた家老7名(前野父子・一柳・服部・渡瀬・明石・羽田)は全員死を賜り切腹した[注釈 34]。他の家臣にも遠流になった者がかなりおり、遺臣の中で許された者の多くは(石田三成陰謀説に反して)石田三成や、前田利家、徳川家康らに仕えた。

事件では多くの連座者を出した。

  • 相婿の関係にあった浅野幸長[注釈 35]は、秀次を弁護したこともあって能登国に配流となり、その父・浅野長政も秀吉の勘気を蒙った。
  • 細川忠興は、切腹した家老の前野景定の舅であり、秀次に黄金200枚の借金もしていた。忠興は娘をすぐに離縁させ、徳川家康に取り成しを頼んで、借財を何とか弁解し、結局、借金は秀吉に返すことで難を逃れた。
  • 伊達政宗は日頃より秀次と懇意にしており、秀次家老の粟野秀用が元は政宗の家臣であった[62]ことなどからも、謀反の一味の可能性があると見なされた。事件が明らかになると(同じく懇意としていた)施薬院全宗からすぐに大坂に来て弁明するのが良いと忠告されたので、岩出山城から急ぎ上京した。すると前田玄以・施薬院全宗・寺西筑後守・岩井丹波守[注釈 36]からなる詰問使の訪問を受けたが、政宗は豊臣家の2代目たる関白に誠心誠意に奉公しようとしただけであると弁舌巧みに自己弁護したので、秀吉はこれを許して、8月24日、秀頼への忠誠を命じる朱印状を出し、伏見城下に伊達町をつくるので、そこに屋敷を構えて家老や妻子、1,000名の家来を常駐させるように命じた。
  • 最上義光は娘を秀次の側室に差し出していたことで咎められた。この駒姫は事件が起こった時にはまさに上京したばかりで秀次の寝所にも入っていなかったので、前田利家、徳川家康らが助命嘆願したが、ほかの妻妾と同じように三条河原で処刑された。これが憐れであるというので義光も結局は許された[63]
  • 十丸の祖父にあたる北野松梅院も、娘と孫を処刑されたが、北野天満宮祠官という地位のために本人は死を免れた。

秀次の遺児の中では、淡輪徹斎(淡輪隆重)の娘・小督局[注釈 37]との娘で生後1ヶ月であったというお菊は、母の従兄弟・後藤興義に預けられて助かり、後に真田信繁の側室・隆清院となった娘とその同母姉で後に梅小路家に嫁いだ娘も難を逃れた、と言い伝えられている[注釈 38]

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瑞龍寺の山門(日秀尼母子の菩提寺となった瑞龍寺は、後に秀次の居城八幡山城の虎口跡に移築された。)

縁故の人物を殺しつくした後には、秀次の痕跡まで消し去ろうと聚楽第や近江八幡山城の破却が命じられた。聚楽第の堀は埋め戻されて基礎に至るまで徹底的に破壊され、周囲の諸侯の邸宅も同時に取り壊された。現在の京都に、聚楽第の遺構が殆んど全く残っていないのはこのためである。近江八幡山城は、当時は親族大名の京極高次が城主であったが、城と館は破壊され、高次は大津城主に転じた。この際に近江八幡山城の部材の一部を大津城に移築したという説もある[64]

秀吉は、事件が諸大名を動揺させないように、特に朝鮮に出兵中の諸将を安心させるために(高野山入り後の7月10日頃)書状を多数発して、真相をぼかしつつも事情を説明した。その上で、秀次切腹の前である7月12日、今後は拾(豊臣秀頼)に対して忠節を誓うように諸大名に求めて、誓紙を書かせている[65]

さらに眷族皆殺しの翌日である8月3日には、五大老の名で御掟五ヶ条を発令して、事件の発端となった秀次と輝元の誓約について、以後は諸大名間の縁組・誓約(同盟)が全面的に禁止されるとした。また時期は不明だが、綱紀粛正が目的と思われる御掟追加九ヶ条も定められた[66]

このように秀吉は、秀次に関係したものを抹消した一方で、事件の影響を最少に収めようとも努めたが、藤木久志は、政権内部の対立が秀次事件を機としてさらに深刻化したと評している[67]。秀吉の晩年、秀次は豊臣家の二世世代では唯一の成人した親族であった。秀次とその子をほぼ殺し尽くしたことは、数少ない豊臣家の親族をさらに少なくし、豊臣家には秀頼を支える藩屏が全く存在しない危険な状態とした。また、秀次事件に関係し秀吉の不興を買った大名は、総じて徳川家康の助けを受けて難を逃れたので、関ヶ原の戦いで徳川方である東軍に属することにもなった。笠谷和比古は、朝鮮出兵をめぐる吏僚派と武断派の対立などとともに、秀次事件は、豊臣家及び豊臣家臣団の亀裂を決定的にした豊臣政権の政治的矛盾のひとつであり、関ヶ原の戦いの一因となったと指摘している[68]

粛清の理由

慶長年間に成立した太田牛一の『太閤さま軍記のうち』は、事件の全貌を最初に描いた作品であったので後世に強い影響を与え、最初の“通説”を形成する上での底本となった。この軍記は非常に曖昧な謀反の風聞を粛清の口実としながらも、秀次がこのような憂き目にあったのはその暴虐な行いに原因があったという、「因果歴然の天道思想」[69]に則って事件を描くことで、むしろ天然自然の道理である天道を説くことに重点を置いたところに特徴があるが、これでは秀次の滅亡を勝者の論理で正当化したのと変わらない。この軍記における暴虐行為の描写は、江戸時代の『絵本太閤記』になるとさらに話に尾鰭が付けられ、“殺生関白”という言葉の説明のために悪行はエスカレートして加筆されて、その後も長期に渡って秀次暴君論がまかり通る原因となったのである[70]。謀反説はその後の他書においては讒言説へと発展するわけであるが、完全には無くならず、殺生関白の悪名はほぼそのまま残った。一方で、『太閤さま軍記のうち』は「天道の恐ろしき次第なり」で片付けてしまったので、結局のところ何も解明されず、どのような理由によって粛清されたのかという真相の部分は曖昧なままとされてきた。よって現在でも断片的な説明となる幾つかの仮説が存在するのみである。

謀反説とその否定

謀反説は当時から世間では懐疑的に見られていた。『言経卿記』の記述によれば(文禄4年)7月8日「関白殿ト太閤ト去三日ヨリ不和也、此間種々雑説有之、今日殿下伏見御出也」、13日「昨日殿下禅定於高野山御腹被云々、言語道断也、御謀反必定由風聞也」[71]とあり、山科言経は謀反は単なる噂にすぎないのにそれで切腹とは言語道断だと怒っていて、「不可説」と説明できない事態の展開に憤慨していた[72]。『御湯殿上日記』にも、7月8日、「今朝関白殿へ太閤より御使いありて。謀反とやらんの沙汰御入候て、太閤機嫌悪く御断り候まてとて、関白殿高野へ尾登りのよし申」、7月16日「関白殿昨日十五日の四つ時に御腹切らせられ候よし申。無実ゆえかくの事候由申すなり」[73]と書かれ、秀次は謀反の疑いで高野山に入ったが、無実であったので切腹になったのであろうと端的に説明する。

『川角太閤記』では「御謀反は毛頭おぼしめし寄りなき事、後々、只今までも御座なく候と、承り候。太閤様御分別には、御存命の時さへ、か様に乱りに御行てだての義候は、御他界後は、義理五常も御そむきなさるべきこと必定と、おぼしめされ候故、半分も大きりも、右の様子は、御りんきと相聞こえ申し候事」として、冤罪であったと断言しつつも、秀次の素行の悪さを憂いて将来の禍根を断ったのであろうと秀吉の意思を説明する[74]。『当代記』では「関白秀次太閤江頃日御謀反の企露之由あって、七月八日関白聚楽第退出、即出家於高野山、同十五日腹を切御、秀次若君二人、一二歳の孩児、近習女房餘輩、渡洛中切捨らる、誠は秀次逆心之儀虚言と云へ共、行跡不穏便飢故、治部少依讒言如此、」と、謀反を明確に否定しつつも、それを石田三成讒言説へと展開している[74]

『太閤さま軍記のうち』では木村常陸介と粟野木工頭が「陰謀をさしはさみ」と秀次を唆したというものの、何れの話においても漏れ聞こえてきたという謀反の風聞そのものについて少しも具体的ではなく、鹿狩夜興で武装していたことが野心の表れと咎められたというぐらいで、謀反の実体を書いた物はなかった。それどころか多くの書物では疑われた謀反はなかったと否定されたのである。

秀次の罪状

そもそも本当に謀反を起こしたのであれば切腹は許されず、斬首や磔などもっと重い刑罰が科されることが常識であった。よって秀次は謀反によって死を賜ったわけではないと解釈するのは自然で、宮本義己は1987年から翌年にかけて『国史学』と『國學院雑誌』上で、前述の『御湯殿上日記』7月16日の記述「御腹切らせられ候よし申。むしち(無実)ゆえかくの事候由申すなり」を根拠にして、謀反では無罪になったから切腹になったのであり、謀反の疑いが晴れなければ磔になったのではないかと主張した[75][31]。 この解釈に小和田哲男は(2002年頃)賛同したが[76]、その後、宮本本人が自説の文法解釈上の誤りを認めて、むしち(無実=古語で「誠意がない」の意)、すなわち不誠実な対応を咎められた故の自刃であったという新説を2010年に提起している[77]。なお宮本は秀次失脚の原因として、後陽成天皇の病の際に、その主治医をしていた曲直瀬玄朔を自宅によびよせた一件が、天皇診脈を怠ることになり、秀次には秦宗巴という侍医がすでに存在していただけに関白の地位の乱用を問われる越権行為と判断され失脚、切腹につながったのではないかと指摘している。これがいわゆる天脈拝診怠業事件である[31][75]

いずれにしても『御湯殿上日記』と伊達家文書にある『太閤様御諚覚』は、“謀反”に言及する数少ない一次史料であるが、『太閤様御諚覚』に「今度秀次様御謀反之刻…」という記述がある[78]ものの、その続きは「…政宗事も一味之由種々達上聞候」で、その後の内容で秀次の謀反騒動における伊達政宗の弁明を聞いてそれが誤解であったとしているのであり、前者が謀反の沙汰があったが無罪となったと書いているのであるから、謀反が“あった”と書いている史料はほぼ皆無ということになる。『太閤さま軍記のうち』ですら列挙される罪状のなかに謀反の文字はなく、忘恩・無慈悲・悪業の三点[79]が責められたに過ぎない。つまり謀反の企ては存在せず、嫌疑が晴れたにもかかわらず切腹させられたということなのである。

断罪した側がどのように事件を説明したかというと、『吉川家文書』の中に7月10日付で秀吉と奉行衆がそれぞれ吉川広家に送った2通の手紙が残っているが、この中では高野山に秀次が送られた理由を「相届かざる子細(不相届子細)」や「不慮之御覚悟」があったとする[80]。のみで、具体的な内容は明記されず、口実すら記さない、言うのは憚られるという状態であった。小和田哲男は、「不相届子細」は秀吉が「秀次は自分の思い通りにならなくなってきた」と考えていたことであるとし、斎木一馬[注釈 39]の論文を思い起こして、謀反などはなく、これは専制政治が起した悲劇で、独裁者秀吉には秀次を粛清するのに理由など必要としなかったことを示唆する[81]

宣教師ルイス・フロイスは、1592年11月1日付の書簡で、すでに秀吉と秀次の不和から「何事か起こるべしと予想」[82]していたが、『日本史』の第三十八章では、秀次は「(老関白から)多大な妄想と空中の楼閣(と思える)書状[注釈 40]を受理したが、ほとんど意に介することなく、かねてより賢明であったから、すでに得ているものを、そのように不確実で疑わしいものと交換しようとは思わなかった。彼は幾つか皮肉を交えた言葉を口外したものの、叔父(老関白)との折り合いを保つために、胸襟を開くこともなく自制していた」[72]と書き、老いて誇大妄想に陥った秀吉と、賢明で思慮深い秀次の人物像とを対比して描き出した。フロイスは「この若者(孫七郎殿)は叔父(秀吉)とは全く異なって」[72]いたと評していて(後述する悪行はあったとするものの)暴君は秀次ではなくて秀吉そのひとであったという立場をとっている。

一方で、39名もの眷族が皆殺しとなったのであるから、谷口克広はやはり罪状は秀吉に対する謀反であったのは確かであるという。それでも谷口も謀反そのものはなかったと否定し、溺愛説を取っているが[83]、秀次が切腹したにもかかわらず、眷族にまで罰が及ぶというのは確かにちぐはぐであり、依然として謎は残る。フロイスは、これは太閤が「残酷絶頂に至り」「その憎悪は甚だ強く、その意思は悪魔の如く、関白に係有る一切のものを根絶」しようと決心したからであるとし、秀吉の狂気の表れとして説明する[84]

他方、矢部健太郎は、別の観点で新説を発表して、無罪である秀次が腹を切ったのは、命令によってではなく潔白を訴えた秀次自らの決断であったとし、「秀吉は秀次を高野山へ追放しただけだったが、意図に反し秀次が自ら腹を切った」と主張した。秀次が腹を切った青巌寺は、大政所の菩提寺として秀吉が寄進した寺院であり、神聖な場所を汚されたと思った秀吉は逆に激怒して、秀次の妻子を皆殺しに及んだと説明する。矢部は、太閤記の『秀次に謀反の動きがあった』という記述も、「事態収拾のために秀吉と三成らが作り上げた後付けの公式見解だったのではないか」と推測している[85][86][87]

石田三成讒言説

『太閤さま軍記のうち』では、「御謀反談合」の風聞が秀吉の耳に届き、7月3日に4奉行が派遣されて「子細御せんさく」があった後、8日に伏見木下吉隆邸に預かりとなった秀次がすぐに高野山に入るという展開になるが、それでは余りに話を省略し過ぎているので、『太閤記』以後の書物ではこの間のくだりが大幅に“加筆”された。

元和年間に成立したとされる『川角太閤記』は、秀吉の側室であったが病を得たため暇を出され親元に帰されていた菊亭晴季の娘である一の台を、秀次が見初めて、晴季に請うて秀吉には黙って継室としたが、石田三成の讒言でそれを知った秀吉が嫉妬に狂って罪状をでっち上げ処断したとする話を載せている。

『甫庵太閤記』では、7月5日に石田三成が、1年前に毛利輝元と秀次が交わした誓紙を今になって咎めて、(秀次には謀反心は)「聊以(いささかもって)なかりし」ものの、反逆者の行為に似ていると別の嫌疑を取り上げて言い掛かりをつけてくる。同記は「秀次公讒言にあひ給ひし」は天罰であったという論調であるが、讒言者を石田三成と増田長盛の2名としている。木村重茲(木村常陸介)の役回りが変わって、彼は秀吉の重臣・木村定重の嫡男として本来なら豊臣家の執政となるべき立場であったが三成にその地位を奪われた者であり、両者の対立関係を描くことで、三成に陰謀に関与する動機を与えている。三成は、関白の宿老として将来のある常陸介を陥れようとしていて、木村家に内偵を入れて見張り、讒言の口実を伺っており、三成による讒言という構造がはっきりしている[88]

以後、陰謀の主体者に石田三成を当て嵌めた“讒言説(讒構説)”の筋書きに追随する書物が続出し、寛永年間の作で『太閤記』と同じ頃に書かれた『聚楽物語』では、それぞれの役割分担はさらに明確にされる。木村重茲はもはや忠臣として扱われ、物語の中心は、石田三成と秀次の宿老衆とのせめぎ合いであり、田中吉政が三成の謀略によって讒言に協力するように迫られて、吉政が日々子細な報告を繰り返すうちに情報を集めて、三成は「御謀反はうたがいなく候」と秀吉に報告するに至る。三成はさらに孝蔵主を使者として秀次をおびき出そうとする。重茲は追い詰められたからにはいっそ謀反を起そうと提案するが、粟野秀用が反対して、秀次は弁解に伏見に向かうが、すべてが筒抜けの状態であったからまんまと捕らわれてしまうという展開である[89][90]

これが『武功夜話』(成立年代不明だが江戸中期以後)になると、田中吉政の役回りが前野長康に替わっている。ここでは前野家が主人公だが、これまで不明だった謀反とされた内容がさらに具体的に加筆された。それによるとそもそもの発端は毛利秀元が秀吉に直接訴え出たことであり、秀元が聚楽第に来た際に連判状を示されて秀次への忠節を誓うように催促されたのを、謀反の疑いとして注進したが、連判状には前野景定(出雲守)の名前もあったのだと言う。そこで6月末、前野長康と木村重茲が伏見に召還されて石田三成・増田長盛・長束正家の審問を受け、両名はそれぞれ秀次の所業を弁護するが、連判状の存在を突き付けられて観念して、聚楽第に急行して秀次に恭順の意を諭すことになる。連判状がなぜ謀反と繋がるのか疑問に思うわけであるが、これについては弁明する秀次に「この書物は別儀相無く、余への忠義の心を相確かめるため、家来ども始め諸上に書物に連署墨付け願いたる事、太閤殿下に聊かも他意これなし、如何様に殿下に讒言候哉」と言わせて、奉行衆が秀吉と秀次の間が引き裂いたことだとして描かれている[91][注釈 41]

ここまで詳しく書いたが、これらの資料ごとの相違からも考察できるように、石田三成讒言説については「秀次の粛清は何者かの陰謀の結果であろう、そしてそれはきっと石田三成に違いない」という、後世の人の憶測と考えられる。主体的に三成が動いたということがわかるような史料は存在せず、三成による讒言があったことを示す史料もない。また、上記の例に挙げた後世に書かれた「軍記物」はもとよりフィクションを多く含んでいると考えられている。事件後に、使者となって関わった奉行衆がそれぞれ加増されているという史実はあるものの、秀次旧家臣らの中にも加増を受けているものも存在することなどから、「三成ら奉行衆は秀吉の命を遂行したに過ぎない」というのが現在は有力な説で、今井林太郎や小和田哲男などは讒言説を否定し、石田三成は「秀次追い落としの首謀者ではなかった」[92]としている。

悪逆説・悪行説

謀反の嫌疑が「虚共実共終にしれず」という状態にもかかわらず、家老衆が自害した後に、秀次の乱行・悪行が再び断罪の材料とされるのは、ほぼすべての軍記物・太閤記の書物で共通する内容である。悪業として列挙されるのは、およそ下記の4点であるが、宣教師の記録にある不徳についても記す。なお、『太閤さま軍記のうち』が死の原因(あるいは天道に背く所業)とするのは、稽古で人を撃ち殺したり辻斬りなどをしたことではなく、比叡山の禁制破りと北野で座頭を殺したことで、天道思想と現代人の道徳観念とにはかなりの落差があることには注意が必要である。一方、宣教師フロイスは、秀吉の方がより残忍で人倫に外れた暴君であると書いており、秀次の悪しき慣習を指摘しつつもそれは残念な欠点と言っているだけで多くの美徳を讃えてもいて、粛清の原因としては別の分析を書いて太閤と関白の不和によって起こったとする。人斬りも5つ挙げられた口実の1つ[注釈 22]にされたに過ぎない。

秀次の乱行・悪行

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絵本太閤記』より「秀次公戯れに往来の男女を討殺し給ふ図」(岡田玉山画)
「御稽古」
秀次は習い事が好きで、『武徳編年集成』によると馬術は荒木元清から、射術は京都山科より片岡家次吉田重氏ら6名の弓術家を招いて、その術を試していた。『続本朝通鑑』によると、秀次は剣術も好み、しばしば能伎者を召してそれを見ると、木刀を用いずに白刃を用いてこれを試してみた。それで傷を負ったり、悪くすると死ぬ者もいたので、相手をさせられる用人の中にはこれを苦にして逃げ去る者も少なくなかったという。
太田牛一の『天正記』(『太閤さま軍記のうち』と同じ記述)によると、鉄砲御稽古と称して北野辺りに出て行っては見かけた農民を鉄砲で撃ち殺し、あるいは御弓御稽古と称して射貫遊びをするからと言って往来の人を捕まえさせてこれを射ち、また力自慢と称しては試し斬りをするから斬る相手を探してこいと言い、往来の人に因縁をつけさせて辻斬りを行った。数百名は斬ったが、これを「関白千人斬り」だとして吹聴し、小姓ら若輩の者がこれを真似て辻斬りを行ったが咎めなかったという[93]

千人斬りに関しては、天正14年(1586年)に宇喜多次郎九郎が大坂で、文禄2年(1593年)に津田信任が山科で、それぞれ多数の人間を殺害した容疑で逮捕されており、前者は自害、後者は改易させられたという[注釈 42]。特に津田信任は秀吉の城持ち家臣であり、他者の犯罪が秀次の話としてすり替わった可能性はあり、太田牛一が「よその科をも関白殿におわせられ」[94]と書いたこともこれらを指していたと考えられる。また辻斬りは後に徳川幕府が積極的な取り締まりに乗り出す必要があったほど、桃山時代から江戸時代初期にかけて流行しており、珍しいことではなかった[95]ものの、さすがに秀次ほどの人物が辻斬りを行えば、太田牛一以外にもそれを書き留める者がいたはずであり、史料記録が他に皆無であることから信憑性には当然疑念が生じる。小林千草は著書『太閤秀吉と秀次謀反』の中で、秀次が秀吉の数百本所持していた名刀の鑑定を任されており、名刀鑑定体制の中で試し斬りを行っていたのではないか、という仮説を述べている[96]

「院の諒闇中」
文禄2年(1593年)正月5日、正親町上皇が77歳で崩御されたが、関白という地位にもかかわらず、精進潔斎をせずに16日にはを食した。諒闇の喪に服す期間(=1年間)にもかかわらず、郊外に出て遊興した。6月7日には検校を召して平家物語を5、6段語らせた。7月18日には聚楽第で相撲を興行し、以後もしばしば興行した。『甫庵太閤記』によれば崩御7日も経たないのに鹿狩りをしたという[97]

この鹿狩りが殺生関白の落首の話に続くわけであるが、『言経卿記』によれば秀次が鹿狩りを行ったのは文禄3年(1594年)9月11日のことで喪は既に開けていたとされ、事実ではないという[98]。また秀吉が文禄2年2月に鷹狩りをしたという記録があり、喪が明けないうちに狩りをしたのは秀次ではなく秀吉であったという説もある[99]

比叡山の禁を犯す」
『甫庵太閤記』によれば、秀次は女房らを連れて女人禁制の比叡山に登山して一昼夜の遊宴を催した。日中は終日狩りをして、日没後も徹夜で夜興引きを行い、殺生が禁止されている聖地の山で鹿・猿・狸・狐・鳥類と大量の獲物を獲った。山の衆が桓武天皇以来この山は殺生禁断女人結界であると抗議したが、聞き入れなかった[100]
『太閤さま軍記のうち』によれば、秀次一行は根本中堂院内に馬をつないだり、鹿狩りを止めようとした僧侶たちがためていた塩酢の器に獲った鹿肉などをつっこむという悪さもしたといい、またこれらが(同記では何年のことか不明)6月8日の出来事であったとして、ちょうど月違いの7月8日に高野山に入ることになったのは「因果歴然」であるとする[101]

『甫庵太閤記』ではこれを文禄2年(1593年)の6月8日のこととしているが、『言経卿記』によればその日は秀次は聚楽第にいたことがわかっており、少なくとも日付は間違いであったことは確認されている。

北野天神座頭を殺害」
『甫庵太閤記』によれば、北野天神に行った際に1人の盲人(座頭)が杖をついているのに遭遇した秀次は、酒を飲ませてやると騙して手を引かせて、その右腕を斬り落してしまった。その盲人は周囲に助けを求めて「ならず者め、人殺し」「勇気ある人は助けてくれ」などと叫んだが、(秀次の家老)熊谷大膳亮から盲人でも助かりたいと思うのかと尋ねられたので、殺生関白がこの辺りで辻斬りを行っていたという話を思い出して、自らが悪業の犠牲になるのかと嘆きつつも、「我が首を取って殺生関白の名を後代まで成さしめよ」と罵り、なぶり斬られたと云う。
また『太閤さま軍記のうち』によれば、これが(同様に何年かは不明)6月15日の出来事であったとして月違いの7月15日に秀次は自害したことから、「天道恐ろしき事」として結んでいる[102]

会話は『甫庵太閤記』による“加筆”であり、演出じみているが、『太閤さま軍記のうち』ではどんな経緯だったのか詳しく書かれていない。

フロイス指摘「秀次の一大不徳」
『日本西教史』によれば、秀次には「人を殺すを嗜む野蛮の醜行」があり、罪人が処刑される際には自ら処刑人を務めるのが常であったという。関白の居館の一里ほど先の高地に刑場が設けられ、周囲に土塀を築き、中央に大きな案板を置いて罪人をこれに寝かせて切り刻んで楽しんだり、あるいは立たせて両段に裂下ろしたりし、最も快楽としたのは罪人の四肢を一つずつ切断することで、恰も鳥獣を裁くのと同じようなやり方で人間を解剖したと云う。また最も惨酷な振る舞いは妊婦の胎を剖い見たことであったと云う[103]

著者のジャン・クラッセ[注釈 43]は、実際に秀次と会ったことがあるという“ブロヱー(フロヱー[注釈 44])師”が話したものとしているが、同書をつぶさに目を通すと、この人物はワリニヤン大師に随伴してインドに一旦帰ったと書いてあること[104]から、ルイス・フロイスのことを指していると思われ、フロイスがイエズス会総長クラウディオ・アクアヴィーヴァに送った1595年日本年報で書いた内容[105]が上記と同じで原典であると確認できることから、ほぼ断定できる。フロイス(=フロヱー)は秀次切腹という日本での一大事を受けて1595年中に書簡を書いたとしているので、少なくとも当時すでに流布していた悪評なのであろう。ここでは割愛しているが、前述の人間を生きる標的として弓や鉄砲で撃ち殺した話も含まれていた。またこの話は、微妙な違いはあるものの、他の宣教師の書物にも繰り返し引用され、ルイス・デ・グスマンの『東方伝道史』やアルノルドゥス・モンタヌスの『モンタヌス日本誌』[106]にも同様の内容が登場するが、これらは別々の証言というより、フロイスの書簡記事が転載されていったものである。ただしフロイスの原典を見れば、斬っていたのはあくまでも「死罪の者」であり、描写の内容は、特殊な刑場は「土壇場」を指し、処刑の様子は「生き胴」のような方法を指していると思われる。日本刀の試し切りに人体を用いていたことも併せて、これらの刑罰や習慣は江戸時代の日本にもあったもので、宣教師の目から見た当時の日本人の異習に過ぎず、フロイスの記述は史料的価値は高いものの、必ずしも秀次の残虐性を示す証拠や特異な奇習とまでは言えないことには留意すべきである。

殺生関白について

 さるほどに、院の御所崩御と申すに、鹿狩りを御沙汰候。法儀も政道も正しからざるあひだ、天下の政務を知ること、ほどあるべからずと、京わらんべ笑つて、落書にていわく、
 院の御所にたむけのための狩りなればこれをせつせう関白といふ
と、かように書きつけ、立てをきさぶらひし。

—太田牛一(『大かうさまくんきのうち』より)

正親町上皇崩御の諒闇中に狩りをしたことが不道徳であるとして落首されたという話を元にして、“せつせう関白”、つまり摂政と殺生をかけて、殺生関白と呼ばれるようになったと言うが、『太閤さま軍記のうち』におけるこの記述が唯一の出典となっている。しかしながら落首が実際にあったかどうかは不明であり、狂歌は他に出典を見いだせず、句も後世の作ではないかという説もある。

また注意して読めば、秀次が殺生した対象は“鳥獣”であり、言及されたのは仏教的な破戒であって、歌に詠まれた内容は厳密には喪も明けないうちに狩りをしたことを非難されたに過ぎないのである。しかしほかの悪行と列記されることで読み手には拡大解釈が促された結果、後年の『甫庵太閤記』になると“せつせう”が座頭殺しの場面でも登場し、その後『太閤記』では殺生の意味がより人殺しに近い意味に置き換わって、いつの間にか殺生関白は秀次暴君論へと発展した。これは、悪行非道の人物であれば誅されても当然、あのように眷族すべて皆殺しになったからにはとんでもない大罪を犯したのであろうとの思い込みであり、秀次の文化人としての側面を評価する小和田哲男はこれを太田牛一による“呪縛”と表現している[76]

専門家の評価

殺生関白、つまり秀次暴君論の評価については、現在、専門家の間でも意見が分かれている。

戦前の歴史学者は、概ね秀次の性行および態度に不良な面があったという説を受け入れていた。徳富蘇峰などは太閤記をそのまま信用し、秀吉の家族の研究でも業績を残した渡辺世祐も粛清の原因の一つとして上げて、秀吉の愛情が秀頼に移った上に、秀次は暴戻にして関白としてあるまじき行動が多かったがゆえに身を滅ぼしたとしている[107]。しかしその後の研究で史料分析が進むと、太田牛一の『太閤さま軍記のうち』以前には、秀次の暴虐・乱行を記した史料が一つも存在しないことが複数の歴史学者に指摘されて明らかになった。以後の史料は太田牛一の著作の影響を強く受けたものと考えられたので[108]、江戸時代に成立した史料は内容の信憑性が疑問視され[109]、史実性について再考がなされるようになった。

前述のように、院の諒闇や比叡山の禁を犯した話については、期日が不明であったり、他に矛盾する史料があったりして、すでに疑議が上がっている。秀次は公家と親しくし、古典教養の豊かな文化人であったことから、宮中のしきたりを敢えて破ったという話にはそもそも不自然さがあることも指摘される[94]。稽古で人を殺したり、北野天神で盲人を殺したということなどは、太田牛一ですらその後に「よその科をも関白殿におわせられ」[94]と他人の犯罪が秀次の悪行・乱行として濡れ衣がきせられたかもしれないと示唆しており、最初から実際にあった事なのか、ただの流言飛語なのかはっきりしない記述であった。これが具体的な内容に加筆されて秀次の所業とされたのは後世になってからであった。またルイス・フロイスの日本年報での弓鉄砲の稽古で人を殺した話の箇所は「或時はまた果報拙き者どもを生きたる的となして、矢又は鉄砲を以て射殺したり」[110]という一行のみで、彼の主旨はネロカリグラドミティアヌスといったローマ皇帝との対比にあった。同時代人であるフロイスが秀次を自ら人殺すを好む青年として描いたことは歴史証言として一定の価値を持つが、全体の論調としては秀次に同情的に記述されている。また多くの歴史学者は当時の宣教師たちがどのようにして情報を得ていたのかわからないとしており、情報の出所について疑念も残っていて、僅かだが意味不明の箇所もあることから、巷説・風説を集めて書いたものであるという説もある。

最も強く秀次暴君論を否定する小和田哲男は、殺生関白を説明するために多くの逸話は創作されて追加されたものであるとして[70]、殺生関白の史実性を明確に否定する。谷口克広は秀次の非行そのものは否定しないながらも、天道思想による因果応報の考えによってそれが針小棒大に語られている可能性を指摘する[111]

確執説

秀次の死は、どのような所業が理由であれ、一度出家した者に切腹を要求する事自体当時としても考えられないことであった。また武家とはいえ、関白は天子の後見人として殿下と敬称される地位であり、その関白秀次が朝廷の外で失脚したのみならず早々に切腹を申し付けられて梟首にまでなったこと、一族郎党までも尽く処刑されたことは、公家社会に衝撃を与えた。秀次の痕跡すら消し去ろうというような苛烈な仕置には明らかに秀吉の強い意志が感じられ、当然のことながら二人の間に根深い確執があったことが考えられた。

ルイス・フロイスは1595年中に秀次の死という一大事をヨーロッパに伝えたが、その際に独自の分析から事件は太閤と関白との不和から起こったものであるとして原因を三つ挙げている。これは文禄4年という最も早い時期に出された説であるが、フロイスは秀吉が三人の甥(秀次・秀勝・秀保)に天下を分け与えたことを述べた上で、そのいずれもが相次いで亡くなったことを指摘し、秀吉は天下を譲り渡したもののその実権を渡す気は無く、支配権を巡る争いがあったことを第一の理由として述べた。第二の理由としては秀次が再三促されながらも朝鮮出兵に出陣しなかったことを挙げ、日本を領すれば事足りると考える秀次が外征に対して内心不満を持っていたと述べた。第三の理由としては実子・秀頼の誕生を挙げ、秀吉は秀頼を秀次の婿養子とするという妥協策を発表したものの、その本意は秀次に関白の地位を諦めさせることにあったとし、これらのわだかまりから発した不和と不信が数年の間に高じ、後の事件につながったというのが彼の解釈であった[112]

フロイスが提示した原因はそれぞれ後世の歴史学者が主張した説とも符合するところもある。三鬼清一郎は秀吉と秀次政権との間に統治権の対立があったと主張しており、秀次切腹事件によって育っていた新体制が壊されたことが、結果的には豊臣政権そのものの崩壊へと繋がることになったとも言う[113]。太閤と関白の権力闘争が秀次失脚の要因として、蒲生氏郷遺領相続問題に結びつけた朝尾直弘の説もある[114]。ただこの朝尾説は、宮本義己により政策の決定権を有する太閤と、自主権を備えずに太閤の忠実な執行機関でしかない関白では同格形態での権力闘争は成立しないと反論されている[31]。そして秀吉が我が子を可愛く思う余りに、秀頼の誕生によって甥の秀次が疎ましくなったが、関白職を明け渡すことに応じなかったため、口実を設けてこれを除いたという説は、従来より通説(溺愛説)として語られてきた[115]。またこの溺愛説には、秀吉の意思というものと、淀殿の介入を示唆する石田三成讒言説と合わさったものとがある。

人物・逸話

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八幡公園内に建つ豊臣秀次像
  • 凡庸・無能な武将として見られることがあるが、秀次の失敗は16歳の時の小牧・長久手の戦いの敗戦の一度だけであり、その後の紀伊・四国攻め、小田原征伐での山中城攻め、奥州仕置などでは武功を上げ、政務においても山内一豊堀尾吉晴らの補佐もあって無難にこなした。これらが群臣に支えられた結果だとしても、同様の境遇になった2代将軍の徳川秀忠の将軍職就任以前と比しても遜色はない。凡庸はともかくとして、少なくとも無能を示す史料的論拠は皆無である。秀次が本格的に統治を行った近江八幡では、町割など行政活動を積極的に行って発展させており、近江八幡では未だに尊敬されていることを考慮すると、相応の力量はあり、文武両道の人物であったようである[109]
  • 古典の収集に励み、これを保護した。小田原征伐後、奥州に赴いた秀次は中尊寺大蔵経を接収してこれを持ち帰った。このほかにも足利学校金沢文庫所収の書籍をも持ち帰っている。また、かねてから蒐集していたとみられる『日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『文徳実録』『三代実録』『類聚三代格』『実了記』『百練抄』などを朝廷に献じてもいる[116]
  • 秀次は古筆を愛し、多くの公家とも交流を持つ当代一流の教養人でもあった。天正16年以前に『源氏物語』を書写させて所持していた[116]。学問の上達ぶりを賞賛する公家の手記も現存する。一方、在野の学者である藤原惺窩などは秀次を低く評価し、「学問が穢れる」と相手にしなかったと言われている。ただし藤原惺窩の父・細川為純は秀吉によって見殺しにされているため、秀吉の養子である秀次をあえて酷評した可能性も否定できない。
  • 養父の三好康長は茶人としても有名で、連歌でも秀でていた。秀次も養子に入ってからこれらを習い、茶道や連歌を嗜む教養人であった。15歳の頃から著名な歌人の集まる連歌会に名を連ね、亭主も務めたこともあった。上記の古典収集や文芸に秀でていたという公家の日記や、その他の史料の上からも文化的素養を持つ人物として秀次像を十分に再評価できるため、太田牛一の著書以後に広まった極端に粗暴な人物というイメージは間違いであると小和田哲男などは反論している。この反論の中では太田牛一以前には暴虐な振る舞いを示すような史料がなく、著書の影響で世間の秀次に対する見方が変わったことが強調される。
  • 一般に秀次は千利休の弟子だった[117]と言われており、神屋宗湛津田宗及・利休らと茶会を同席していた。また秀吉より(利休流)台子点前の秘伝を受けた台子七人衆の1人に秀次も数えられている。
  • 秀吉をまねて秀次も能楽を自ら演じるようになったが、彼は公家・禅僧らに命じて最初の謡曲の注釈書である『謡抄』を編纂させ、後世の文芸に大きな影響を与えた。
  • 秀次事件のとき、秀吉古参の家臣である前野長康、さらには木村重茲渡瀬繁詮など多くの人物たちが秀次の無罪を主張し、『五宗記』によれば、石田三成も秀次を弁護している。(石田陰謀説については別記) 
  • キリスト教宣教師たちは秀次を「この若者は叔父(秀吉)とはまったく異なって、万人から愛される性格の持ち主であった。特に禁欲を保ち、野心家ではなかった[118]」「穏やかで思慮深い性質である」などと記している(ルイス・フロイス『日本史』など)。また、秀次にはキリシタンではなかったかという説もある[119]
  • 秀吉と同じく男色を嫌っていた[118]
  • 武術については、疋田景兼より剣術槍術を学んだほか、長谷川宗喜片山久安からも剣術を学んだといい、切腹の際の介錯ができるだけの腕前があったという。刀剣の鑑定も行っていた形跡もある。このほか吉田重氏から日置流弓術を、荒木元清からは荒木流馬術も学んでいた。剣術試合を見世物として楽しみ、聚楽第で兵法者の真剣での試合を催すことがあった。秀次所用と伝わる「朱漆塗矢筈札紺糸素懸威具足」が、サントリー美術館に所蔵されている[120]
  • 大名の常として、秀次も有力な家臣の子などに偏諱を授けている。偏諱を受けたと思しき武将には田中吉次織田長次増田盛次らがいるが、秀次の偏諱は他の武将と異なり、下偏諱を諱の下の字として与えるという変わった形態を取っている。これは「秀」の字が、秀吉の偏諱によるものであるため、それを憚ったものと思われる。

官職および位階等の履歴

※日付=旧暦

系譜

父母
兄弟
秀次の妻妾らの墓。
瑞泉寺にある秀次公一族の法名を記した名簿。同寺は三条河原で処刑された彼女らの墓地である。
妻子[121][122][注釈 45]
  • 正室:若御前(若政所)- 池田恒興の娘
  • 継室:一の台 - 菊亭晴季娘。一の台とは「一の御台所」の意味で正室をさす。継室(後妻)とされているが、若御前はまだ存命していたという説もあるため、その場合、秀次は二人の正室をもっていたことになる。池田氏の女は若政所と呼ばれており、若い方の正室と、一番の正室という意味のようである[60]。また『川角太閤記』では、一の台はもともとは秀吉の側室であったとする。
  • 側室:於妻御前(おつまの方)- 四条隆昌の娘
  • 側室:於和子の前(おあこの方)- 日比野清実の娘。
  • 側室:お辰の方 - 尾張星崎城山口重勝の娘(前野長康の養女)。『武功夜話』によると、キリシタンであったと言うが、『甫庵太閤記』では、南無阿弥陀仏と唱えよというセリフがあって、真言宗のように描かれている。
  • 側室:阿左古の方(於佐子の前)- 北野松梅院(禅興またはその子・禅永)の娘。
  • 側室:於長(おちょう)の前 - 竹中重定(竹中與右衛門)の娘。
    • 四男:土丸(十一丸)
  • 側室:於亀の前(中納言局)- 摂津国小浜の僧・毫摂寺善助の娘(持明院基孝の養女)。
  • 側室:小督局(おここの方)[注釈 37] - 和泉国淡輪隆重の娘。
  • 側室:於伊萬の方 - 最上義光の次女。
  • 側室:於菊の前(法名:悦含院殿誓心大姉)- 伊丹兵庫頭正親の娘。
  • 側室:於園おそのの前(お国の方)- 大島親崇(三好一族)の娘。
  • 側室:於藤の前 - 大草公重大草流庖丁道家元)の娘。
  • 側室:於牧の前(おまさの方)- 斉藤吉兵衛(平兵衛)の娘。
  • 側室:於松の前 - 右衛門の後殿[注釈 46]の娘。
  • 側室:小少将の前 - 本郷主膳の娘または女房の姪。
  • 側室:於佐伊(おさい)の前 - 別所吉治の客人・某の娘。
  • 側室:おさなの方 - 武藤長門守の娘。
  • 側室:おなあの方 - 坪内三右衛門[注釈 47]の娘。
  • 側室:於喝食(おかつしき)の前 - 坪内市右衛門[注釈 47]の娘。
  • 側室:於輿免(およめ)の前 - 尾張国住人・堀田二郎右衛門の娘。
  • 側室:於世智(おせち)の前(おあぜちの前)- 京都住人・秋葉(秋庭)某の娘。
  • 側室:於愛の前 - 京衆・古川主膳の娘。
  • 側室:おとらの方 - 上賀茂の岡本美濃の娘。
  • 側室:於古保(おこほ)の前 - 近江国・鯰江才助(/鯰江権之介。一説に六角義郷の家臣)の娘。
  • 側室:於萬の前 - 近江国住人・多羅尾彦七(多羅治郎左衛門)[注釈 48]の娘。
  • 側室:おみやの方[注釈 49] - 近江国住人・高橋某の娘。
  • 側室:おきみの方 - 近江衆某の娘。
  • 側室:しょうしょう(せうせう)の方 - 越前衆(または越前守)某の娘。
  • 側室:おこちやの方 - 最上衆某の娘。
  • 側室:於阿子の前 - 出自不明。
  • 側室:於杉の前 - 出自不明。
  • 側室:於竹の前 - 京都一条通の捨て子
  • 側室:於仮名の前 - 木村重茲が越前国より呼んだ女郎
生母不詳の子女
落胤

家臣

宿老

(事件前までに転出)

田中吉政(傅役、筆頭家老、八幡山在城→三河岡崎城主、与力大名へ)
中村一氏(近江水口城主→駿河駿府城主、与力大名へ)
一柳直末大垣城主ほか→山中城攻めで戦死)
堀尾吉晴(近江佐和山城主→遠江浜松城主、与力大名へ)
山内一豊(近江長浜城主→遠江掛川城主、与力大名へ)


(事件時)

前野長康(後見役)
渡瀬繁詮(遠江横須賀城主)


家老
木村重茲粟野秀用白江成定宮部宗治熊谷直澄前野景定一柳可遊服部一忠徳永寿昌
奉行
駒井重勝(→秀吉直臣へ)、吉田好寛山田家秀羽淵家次
小姓
不破万作、山田三十郎、山本主殿助
若江八人衆[注釈 7]
前野忠康(舞兵庫)大場土佐大山伯耆森九兵衛高野越中牧野成里安井喜内富田高定藤堂良政塩川志摩守[注釈 53]
その他の家来衆
今枝重直津田重久斎藤徳元生駒正勝、饗庭八右衛門尉、香西又一郎、長谷川半右衛門、山本半左衛門、藤井輔縄

秀次切腹の主な連座者

家臣・大名・公家など

打ち首または切腹
  • 木村高成(重茲の長男で同じく斬首または自害および梟首。また、重茲の娘も磔。)


切腹
  • 日比野下野守(日比野清実?。秀次家臣・尾張清洲奉行。自害。北野天満宮の付近にて。秀次側室の於和子の前の父)
  • 山口少雲(秀次家臣。自害。日比野と共に北野天満宮の付近にて。娘のお辰の方は秀次側室で百丸を産んでいたが、この二人も処刑)
  • 丸毛不心斎(丸毛兵庫頭)(丸毛長照?。相国寺門前にて自害。妻の東殿も賜死)
  • 羽田正親(秀次の重臣。賜死。元豊臣秀長家臣)
  • 本多正氏(秀次の重臣。賜死。元徳川家臣。羽田正親の推挙で秀次に仕えた。正親とともに殉死した説がある。)
  • 明石則実(賜死。黒田孝高の従兄弟)
  • 瀬田正忠(賜死。千利休の高弟)


殉死
  • 山本主殿/主殿助(切腹。享年18。秀次が介錯)
  • 山田三十郎(切腹。享年18、秀次が介錯)
  • 不破万作(切腹。享年18、秀次が介錯)
  • 虎岩玄隆(僧侶。高野山に同行、殉死。秀次が介錯)
  • 雀部重政(元三好家臣。秀次の介錯を行ったのち追腹。服部吉兵衛が介錯。千利休の介錯を行ったともされる人物。)
その他


難を逃れた主な人物
秀次の家臣・与力大名等
  • 大崎長行(木村重茲家臣。重茲に殉じ追腹を行おうとするが重茲に阻止され、起請文を書かされて実行できず。のちに服部一忠の子を養子とする)
若江八人衆
その他の人物
最上家、細川家、伊達家らは徳川家康の取り成しで、改易などの処分は逃れた。

打ち首にされた眷族

  • 仙千代丸(享年5)
  • 百丸(享年4)
  • 十丸
  • 土丸
  • 露月院(女児)


妻妾など[121]

墓所と供養

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慈舟山瑞泉寺境内にある秀次と連座者の墓所
墓所
  • 京都市の慈舟山瑞泉寺に、豊臣秀次の石碑と、処刑された家臣・眷族を慰霊する五輪の塔(五輪卒塔婆)がある。上記の眷族の遺骸は三条河原で処刑された後、墓も造られず、穴を掘って埋められたため、この塚をかつては「秀次悪逆塚」や「畜生塚」[注釈 33]と呼んだが、打ち捨てられて状態を憐れに思った僧・慶順によって庵とされた。さらにそれが水害で流れた後には豪商・角倉了以によって現在の形に直されている。
  • 妙慧山善正寺に墓所があるが、これは秀次の首塚と母瑞龍院日秀の墓である。一族の菩提寺はかつて嵯峨野にあった瑞龍寺であるが、これは近江八幡市に移設されている。秀次の遺体は、彼が切腹した高野山に葬られており、こちらにも墓所がある。
供養
豊臣秀次の命日の7月15日には、村雲門跡瑞龍寺住職により、八幡山(滋賀県近江八幡市)で供養が行われる。

関連作品

小説
  • 『伴天連見聞録殺生関白行状記[1]』松崎実、1930年刊 (日本評論社)
  • 『封印された名君』渡辺一雄(廣済堂出版)
  • 『豊臣秀次: 抹殺された秀吉の後継者』羽生道英(PHP研究所)
  • 『有明の月: 豊臣秀次の生涯』澤田ふじ子(廣済堂出版)
  • 『腕白関白』 吉本洋城(2013年、林檎プロモーション)-主人公が秀次として戦国時代にタイムスリップした架空歴史小説。
研究書

脚注

注釈

  1. 父の弥助(三好一路)は、特定の姓を持たない農民階層の出身であり、秀吉の姉と結婚した後、本人も秀吉に仕えるようになったが、その際に木下姓を名乗ったのではないかという推測に基づいた説があるが、時期など、史料的根拠には乏しく、確証があるわけではい。このために秀次が姓を名乗っていたかどうかには異論もある。弥助には、他にも「長尾」や「三輪」など幾つかの姓をつかったという説がある。[1]
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  4. 厳密な所在地は不明ながら、小谷城のすぐ近くで、主城を守る上で重要な地点にあったと思われる。
  5. 信長の偏諱を受けたとも言う。その場合は当然として養子となったのが本能寺の変よりも前のこととなる。
  6. 1582年(天正10年)に近江から山崎片家が転封されて城主を交代した。
  7. 7.0 7.1 八人衆や七人衆とも言うが、数や人選には複数の説がある。
  8. 渡辺世祐などはこれは後の切腹事件の布石となったと考えている[9]
  9. 近江八幡の農民に水争いがあって揉め、庄屋が秀次に裁定を訴えたことに応えたもので、秀次は吉政を現地に派遣して調査した上で双方が納得する裁決を下したという逸話。同市の桐原新橋にはこの故事を記念した銅像がある。
  10. 渡辺世祐などはこれを切腹事件への第二の布石と見ている。
  11. 慶長元年の大地震で倒壊し、木幡山城として少し離れた場所に再建。
  12. 宣教師の記録等では、大政所の葬儀に際して、秀次が秀吉の帰還を出迎えなかったとか、近くに住んでいるにも関わらず秀次が葬儀に出席しなかったことが、両人の不和の発端となったと書かれているが、そのような事実はなかった。
  13. 『成実記』には後世による脚色・加筆が多いとされるため、この話の史実性にはやや疑問がある。
  14. この平静は、秀吉が秀次に対して関白譲位を迫って説得していた期間であるという説明をする作家もいるが、想像の域を出ない。
  15. 加賀藩第4代藩主の前田綱紀が残した文書。天正20年(1592年)5月18日付。[35][36]
  16. 川角太閤記』では奉行衆は6月26日に来て、7月3日までは秀次が自ら伏見に来て弁明するのを待っていた。『太閤さま軍記のうち』『朝鮮太平記』などでは7月3日に訪問。『甫庵太閤記』には日付の記述がない。[39]
  17. 左記の4人は『太閤さま軍記のうち』より。『甫庵太閤記』では、宮部継潤・前田玄以・増田長盛・石田三成・富田一白の5人。『川角太閤記』では、石田三成・増田長盛・富田一白・長束正家・前田玄以の5人。
  18. 松平家忠の日記。彼は徳川家康の家臣で、当時は前年より伏見城普請に従事して京都に滞在していた。
  19. 秀次よりも前に秀吉の猶子として関白就任を約束されていたが解消。
  20. 石田三成の讒言とするのは『太閤記』などであり、『武功夜話』では毛利秀元が申告した内容になっている。
  • 『毛利家記』では、秀次が毛利輝元と結んで謀反の際に便宜をはかると約束したとして、それに毛利侍従(秀元)穂井田元清が関係したとされるが、彼らは共に朝鮮に出陣中であってこれを行えるはずはなく、渡辺はこの話も単なる風説に過ぎなかったとする。[44]
  • 22.0 22.1 宣教師が書いている秀次に対する詰問状の内容はは5点。
    • 秀次が気の病になった理由を問うもの。
    • 高位の身分にありながら自ら下人を斬ったこと。
    • 外出の際に武装した護衛をつれて世間を不安がらせたこと。
    • 鉄砲衆を千人増やしたこと。
    • 諸侯に忠義の証文を書かせたこと。
    フロイスが描写した秀次の不徳を、秀吉が咎めたというわけではなかった。[47]
  • 当時の秀次は聚楽第で生活をしていたが、本来の居城は清洲城である。
  • 『川角太閤記』では糟屋武則の邸宅。
  • 武藤左京亮、生田右京亮、雀部淡路守、津田雅楽助、山岡主計頭、前田主水正、不破万作、雑賀虎、山田三十郎、山本主殿助、志水善三郎。
  • 秀次の祐筆の一人。
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  • 『太閤さま軍記のうち』では、木村重茲は謀反を唆した「奸臣」として描かれており、彼は越前の府中で米を貸し付けて高利を貪リ、死体を売買していたとまで書かれている。
  • 雀部は篠部淡路守と表記(誤記)されているものもある。
  • 秀次の監視役であった吉隆が追放された理由は不明。
  • ただし、儒学者小瀬甫庵が江戸時代初期に記した太閤記に載せている「切腹命令」という文書は、明らかな偽書であるというのが定説であり、実際には命令が下ったかどうかわかる史料はない。[55]
  • 数については書籍によってばらつきがある。
  • 33.0 33.1 畜生塚の由来は『絵本太閤記』にある。関白秀次は美貌の一の台を是非にと妻としたが、その連れ子である13歳の於宮も美しかったので、これも妻として母娘共に寵愛していたと聞いた太閤秀吉が、子供まで犯すとは人にあるまじき畜生にも劣る所業であると忌み嫌って、一の台を最初に処刑してその墓を「畜生塚」と名付けたという逸話から、「畜生塚」または「悪逆塚」、転じて「畜生関白」とか言われるようになったとする[59]。しかしこの話は根拠に乏しい俗説・悪評であり、小和田哲男は於宮が側室であったとは疑問だとして、秀次を大逆非道の人物とする太閤記の脚色の1つが、人々に信じられるようになったに過ぎないとする[60]
  • 秀吉の古参家臣でもあった前野長康については、『武功夜話』はその前野家を主人公とするだけに詳しく書かれていて、連判状に名を連ねて断罪されたのは子の景定だけであり、長康は長年の功績を鑑みて蟄居の処分となったが、景定切腹の3日後に伏見六漢寺で自害したとする。ただしそれ以外の書では、前野父子は「いずれも御成敗」などと簡単な記述に留まる。
  • 豊臣秀次の正室・若御前と浅野幸長の正室は、共に池田恒興の娘で姉妹(または、おば・姪の関係ともいう)。
  • 武功雑記』では、石田三成・富田一白・施薬院全宗の3名。
  • 37.0 37.1 『太閤さま軍記のうち』では小督局も殺害されたとするが、『石田軍記』などには名前が見えない。
  • ただし秀頼の許嫁であった女児(露月院)が、一般的に秀次の一人娘とされており、他の娘は最初から数に含まれていない。淡輪氏はもともと海賊衆であり、隆清院の姉妹はそもそも生母不明で、存在自体も後年になってから研究者によって再発見された。
  • 大正大学名誉教授。
  • 『豊太閤三国処置太早計』などを指しているものと思われる。
  • ただし『武功夜話』では、石田三成は豊臣家の安泰を考えて秀次の素行を問題視しているものの、その助命嘆願もしている。同書では三成は“豊臣家御為の人”とされている。
  • ただし津田の千人斬り事件についても陰謀説がある。
  • フランス生まれのイエズス会宣教師。『日本西教史』は1689年公刊で、つまり元禄年間の成立になる。
  • イタリア語読本では「Luiggi Froes」という綴りになっており、イタリア語ではルイジ・フロエスとするのが普通であるが、母音を「oe」として表記したものと思われる。『日本西教史』の中では、同一人物が「ルーイ・ブロヱー師父」「教師ルイ・フロエー」「ルイー・ブロエー師」「ペール(=神父の意)・ブロヱー」などと表記されているが、明治11年に太政官本局翻訳官が訳された時点の誤植であろう。他社版もすべて間違っていた。
  • 「〜の前」「〜の方」は同じく貴婦人に対する敬称で、同じ意味である。
  • 村井善右衛門の妹、村瀬某の後室
  • 47.0 47.1 坪内市右衛門と坪内三右衛門は同一人物の可能性があるが、娘の名前、年齢などが異なり、坪内を名乗る家臣は多数いて別人もあり得るために別記としている。
  • 『武功夜話』では蒲生氏郷の郎党と言う。
  • 一の台の娘とは別人。
  • 『東西歴覧記』によると瑞龍寺の過去帳に「秀次幼子」として妙亀童女の戒名が記されている。生母や没年の表記がないが、命日を7月13日としており、これが斬首された姫君の命日とは異なるため、秀次の生前にすでに夭折した幼女であろう[123]。これが『兼見卿記』にある八百姫であるとすると、秀頼よりも1歳年上の文禄元年生まれである[124]
  • 真田信繁の側室となった妹・隆清院が、大坂夏の陣の後、姉の嫁いだ公家梅小路家に身を寄せたという。一般に知られる梅小路家は、祖の梅小路定矩が元和5年(1619年)生まれのため、年代的に合わない。当時梅小路に居を構えていた公家であると思われる。
  • 豊臣秀次の娘が信繁に嫁いだ経緯などはわかっていない。御田姫の母とされ、大坂城落城後は身重の母は娘と共に京都の瑞龍院日秀(秀次生母)のもとに避難した[126]
  • 小野お通の夫。
  • 同年中に義父の隆景が隠居したため、隆景旧領が与えられる
  • 六角氏綱の子孫が六角氏の家督を継いだとする佐々木哲の異説に基づく。通説ではそもそも六角義郷が大名として所領を得ていたとは考えられていない。
  • 岡本彦左衛門の娘、岡本某の後室。琴の名人で歌書の師匠。
  • 丸毛不心斎女房。大谷吉継の母と同名だが別人。中居御末。夫の丸毛不心斎(75歳)も自害。
  • 出典

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    19. 宣旨(足守木下家文書){{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}[写真掲載あり]
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    • 朝尾直弘 「豊臣政権論」(『岩波講座日本歴史』近世1, 1963年)
    • 諏訪勝則、「織豊政権と三好長康―信孝・秀次の養子入りをめぐって―」 『戦国織豊期の政治と文化 : 米原正義先生古希記念論文集刊行会編』 続群書類従完成会、1993年 
    • 諏訪勝則「関白秀次の文芸政策」(『栃木史学』9号, pp.53-88, 1995年)
    切腹事件・殺生関白関連

    阿部一彦 (PDF)『『』33号』、2008年 

    • 矢部健太郎「『御湯殿上日記』と秀次事件―「むしちゆへ」「御はらきらせられ候」―」(天野忠幸・片山正彦・古野貢・渡邊大門編『戦国・織豊期の西国社会』日本史史料研究会, 2012年)
    • 矢部健太郎「関白秀次の切腹と豊臣政権の動揺―秀吉に秀次を切腹させる意思はなかった―」(『國學院雑誌』114巻11号, pp.460-475, 2013年)

    関連項目

    テンプレート:歴代関白