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豊臣秀頼

安土桃山時代の武将。秀吉の次男。母は浅井氏の長女,淀殿。幼名,お拾。秀吉 57歳のときの子。秀吉は文禄4 (1595) 年養子秀次を自刃させたのち諸将から秀頼に対し異心なき旨の誓書を出させ,秀頼が相続人であることを天下に公示した。慶長1 (96)年 12月 17日元服。秀吉の死後,大坂城に入り,徳川家康は伏見城で政務をとった。同5年関ヶ原の戦い後,家康の権力が確立すると,秀頼は摂津,河内,和泉の3ヵ国六十余万石の一大名格に落された。同8年家康の孫娘千姫と結婚。その間同6年権大納言,同8年内大臣,正二位,同 10年右大臣と官位は進んだが,権力は徳川氏の手中にあった。これに不満をもつ秀頼の周辺は反徳川勢力を結集した。家康のすすめにより,地震で崩壊した秀吉創建の方広寺を再建して同 19年供養法会を行うにあたり,梵鐘の銘文「国家安康」の文字は家康を呪詛するものと家康に言いがかりをつけられて大坂冬の陣が起った(鐘銘事件 )

いったんは和睦が成立して大坂城の堀を埋めさせられ,翌年再び家康に攻められ (夏の陣) ,母淀殿とともに自殺した。