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千利休

ファイル:Sen no Rikyu (Masaki Art Museum).jpg
千利休像(正木美術館蔵)天正11年(1583年)古渓宗陳賛

千利休(せん の りきゅう、せん りきゅう、大永2年(1522年) - 天正19年2月28日1591年4月21日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人茶人

わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられ、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱えた。子孫は茶道三千家として続いている。天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあり、秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」のなかで多くの大名にも影響力をもった。しかしやがて秀吉との関係に不和が生じ、最後は切腹へと追い込まれた。切腹を命ぜらるに至った真相については諸説あって定まっていない。

名・号

幼名は田中与四郎(與四郎)、のち法名宗易(そうえき)、抛筌斎(ほうせんさい)とした。

広く知られた利休の名は、天正13年(1585年)の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないために正親町天皇から与えられた居士号である。考案者は、大林宗套笑嶺宗訢古渓宗陳など諸説がある。いずれも大徳寺の住持となった名僧で、宗套と宗訢は堺の南宗寺の住持でもあった。宗陳の兄弟弟子であった春屋宗園によれば大林宗套が考案者だったという(『一黙稿』)。しかし宗套は禁中茶会の17年前に示寂しており、彼が関わったとすれば利休が宗套から与えられたのは「利休宗易」の名であり、若年時は(いみな)の「宗易」を使用し、少なくとも与四郎と称していた天文4年(1535年)4月28日から天文13年(1544年)2月27日以前に宗易と号したと考えられる[1]。後に宮中参内に際して(あざな)の「利休」を居士号としたと考えられる。こう考えれば宮中参内の2年前、天正11年(1583年)に描かれた肖像画(正木美術館蔵)の古渓宗陳による讃に「利休宗易禅人」とあることも理解できる。

号の由来は「名利、既に休す」の意味とする場合が多いが、現在では「利心、休せよ」(才能におぼれずに「老古錐(使い古して先の丸くなった錐)」の境地を目指せ)と考えられている。いずれにせよ「利休」の名は晩年での名乗りであり、茶人としての人生のほとんどは宗易を名乗る。

生涯

和泉国商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれ。家業納屋衆(倉庫業)。父は田中与兵衛(田中與兵衞)、母の法名は月岑(げっしん)妙珎、妹は宗円(茶道久田流へ続く)。若年より茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳、ついで武野紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだ。堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わった。織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われた。

本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕えた。天正13年(1585年)10月の秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、このとき宮中参内するため居士号「利休」を勅賜される。天正15年(1587年)の北野大茶湯を主管し、一時は秀吉の重い信任を受けた。また黄金の茶室の設計などを行う一方、草庵茶室の創出・楽茶碗の製作・竹の花入の使用をはじめるなど、わび茶の完成へと向かっていく。秀吉の聚楽城内に屋敷を構え聚楽第の築庭にも関わり、も3千石を賜わるなど、茶人として名声と権威を誇った。秀吉の政事にも大きく関わっており、大友宗麟は大坂城を訪れた際に豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と忠告された。

天正19年(1591年)、利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられる。前田利家や、利休七哲のうち古田織部細川忠興大名である弟子たちが奔走したが助命は適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。享年70[注釈 1] 。切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図る恐れがあることから、秀吉の命令を受けた上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられる。死後、利休の首は一条戻橋梟首された。首は賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたという。

利休が死の前日に作ったとされる遺偈(ゆいげ)が残っている。

人生七十 力囲希咄 (じんせいしちじゅう りきいきとつ)
吾這寶剣 祖佛共殺 (わがこのほうけん そぶつともにころす)
提ル我得具足の一ッ太刀(ひっさぐルわがえぐそくのひとツたち)
今此時ぞ天に抛 (いまこのときぞてんになげうつ)
— 久須見疎安茶話指月集』(元禄14年(1701年))
意味

利休忌は現在、3月27日および3月28日に大徳寺で行われている。

死の原因

利休が秀吉の怒りを買った原因を「大徳寺三門(金毛閣)改修に当たって増上慢があったため、自身の雪駄履きの木像を楼門の二階に設置し、その下を秀吉に通らせた」[3][4]とする説が知られているが、その他にも様々な説があり、詳しくは分かっていない。

  • 安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やした(売僧(まいす)の行い)疑いを持たれたという説[5]
  • 二条天皇陵の石を勝手に持ち出し手水鉢庭石などに使ったことが秀吉の怒りを買ったという説[6]
  • 秀吉と茶道に対する考え方で対立したという説[7]
  • 秀吉は元々わび茶が嫌いで、ある日彼の命令で黄金の茶室で「大名茶」とよばれる茶を点てた頃から利休は密かに不満を募らせていた。さらにこの後、利休が信楽焼茶碗を作っている事を聞いて憤慨した秀吉はその茶碗を処分するよう利休に命じたが、利休が全く聞く耳を持たなかったために秀吉の逆鱗に触れたという説[8]
  • 秀吉が利休の娘を妾にと望んだが、「娘のおかげで出世していると思われたくない」と拒否し、秀吉にその事を恨まれたという説[9][10]
  • 豊臣秀長死後の豊臣政権内の不安定さから来る政治闘争に巻き込まれたという説[11]
  • 秀吉の朝鮮出兵を批判したという説[12][注釈 2]
  • 権力者である秀吉と芸術家である利休の自負心の対決の結果という説 [14][15][16]
  • 交易を独占しようとした秀吉に対し、堺の権益を守ろうとしたために疎まれたという説[17]
  • 利休が修行していた南宗寺徳川家康と繋がりがあり、家康の間者として茶湯の中にを入れて、茶室で秀吉を暗殺しようとしたという説[18][19]
  • 茶会で秀吉に茶をこぼしたという説。

死後

千利休の自害後、聚楽城内にあった利休聚楽屋敷[注釈 3]は、秀吉の手によって取り壊された。利休七哲の一人である細川忠興創建の大徳寺高桐院にはこの利休屋敷の一部と伝えられる書院が遺る。十数年後、この屋敷跡地は、忠興の長男・長岡休無の茶室・能舞屋敷として活用された。

茶の湯の後継者としては先妻・宝心妙樹の子である嫡男・千道安と、後妻・宗恩の連れ子で娘婿でもある千少庵が有名であるが、この他に娘婿の万代屋宗安千紹二の名前が挙げられる。ただし道安と少庵は利休死罪とともに蟄居し、千家は一時取り潰しの状態であった。豊臣家の茶頭としての後継は古田織部であったが、その他にも織田有楽斎、細川忠興ら多くの大名茶人がわび茶の道統を嗣いだ。

利休の死後数年を経て(文禄4年(1595年)頃)、徳川家康や前田利家の取りなしにより、道安と少庵は赦免された。道安が堺の本家堺千家の家督を継いだが、早くに断絶した。このため、少庵の継いだ京千家の系統(三千家)のみが現在に伝わる。また薮内流家元の藪内家と千家にも、この時期に姻戚関係が生じる。

三千家は千少庵の系譜であり、大徳寺の喝食であったその息子・千宗旦が還俗して、現在の表千家・裏千家の地所である京都の本法寺前に屋敷を構えた。このとき宗旦は、秀吉から利休遺品の数寄道具長櫃3棹を賜ったという(指月集)。その次男宗守・三男宗左・四男宗室がそれぞれ独立して流派が分かれ、武者小路千家官休庵・表千家不審庵・裏千家今日庵となっている。件の木像は今日庵に現存する。

利休の茶の湯

  • 「わび茶」の完成者としての利休像は、『南方録』を初めとする後世の資料によって大きく演出されてきたものである。偽書である『南方録』では、新古今集六百番歌合に出詠)の藤原家隆の歌、「花をのみ 待つらん人に 山里の 雪間の草の 春をみせばや 」を利休の茶の心髄としており、表面的な華やかさを否定した質実な美として描かれている。しかしこれらの資料では精神論が強調されすぎており、かえって利休の茶の湯を不明確なものとする結果を招いてきた。同時代の茶の湯を知るには、利休の高弟である山上宗二による『山上宗二記』が第1級の資料とされている。この書によると、利休は60歳までは先人の茶を踏襲し61歳から(つまり本能寺の変の年から)ようやく独自の茶の湯を始めたという。つまり、死までの10年間がわび茶の完成期だったということになる。
  • 利休の茶の湯の重要な点は、名物を尊ぶ既成の価値観を否定したところにあり、一面では禁欲主義ともいえる。その代わりとして創作されたのが楽茶碗や万代屋釜に代表される利休道具であり、造形的には装飾性の否定を特徴としている。名物を含めた唐物などに較べ、このような利休道具は決して高価なものではなかった点は重要である。
  • 利休は茶室の普請においても画期的な変革を行っている。草庵茶室の創出である。それまでは4畳半を最小としていた茶室に、庶民の間でしか行われていなかった3畳、2畳の茶室を採りいれ、躙り口(潜り)や下地窓、土壁、五(四)尺床などを工夫した。なかでも特筆されるべきは「窓」の採用である。師の紹鷗まで茶室の採光は縁側に設けられた2枚引きあるいは4枚引きの障子による「一方光線」により行われていたが、利休は茶室を一旦土壁で囲いそこに必要に応じて窓を開けるという手法を取った(「囲い」の誕生)。このことにより茶室内の光を自在に操り必要な場所を必要なだけ照らし、逆に暗くしたい場所は暗いままにするということが可能になった。後には天窓や風呂先窓なども工夫され一層自在な採光が可能となった。設計の自由度は飛躍的に増し、小間の空間は無限ともいえるバリエーションを獲得することとなった。利休の茶室に見られる近代的とも言える合理性と自由さは、単に数奇屋建築にとどまらず、現代に至るまで日本の建築に大きな影響を及ぼしてきた。
  • 露地」も利休の業績として忘れてはならない。それまでは単なる通路に過ぎなかった空間を、積極的な茶の空間、もてなしの空間とした。このことにより、茶の湯は初めて、客として訪れ共に茶を喫して退出するまでの全てを「一期一会」の充実した時間とする「総合芸術」として完成されたと言える。
  • 「利休箸」「利休鼠」「利休焼」「利休棚」など、多くの物に利休の名が残っており、茶道のみならず日本の伝統に大きな足跡を刻んでいるといえる。

人物・逸話

  • 現存している利休の甲冑(不審菴蔵「伝千利休所用 紺糸威縫延二枚胴具足」)から推定すると身長は180cmほどで、当時としてはかなりの巨躯だったとされる。利休没後100年頃に成立したと推定される『南方録』滅後にも利休が大男であったという記述がある[9]
  • ある朝、秀吉が利休に茶会に招かれると庭の朝顔が全て切り取られていた。不審に思いながら秀吉が茶室に入ると、床の間に一輪だけ朝顔が生けてあり、一輪ゆえに際立てられた朝顔の美しさに秀吉は深く感動した(『茶話指月集』)。
  • 弟子の古田織部の茶席で籠の花入の下に薄板を敷いていないのを見て感じ入り、「この事に関しては私が弟子になりましょう」とまで述べた(『茶話指月集』)。
  • ある冬の日、大坂から京へ向かっていた利休は、親しい茶人の家へ立ち寄り、主人は来訪に驚きながら迎え入れた。利休は突然の訪問にも関わらず手入れされている邸内や、庭で柚子の実を取り料理に柚子味噌を出す主人のとっさの客をもてなせる趣向に喜んだが、料理に当時は高級品で日持ちもしない蒲鉾が出されたところで顔色を変えた。実は主人は利休がこの日に自邸のそばを通ることをあらかじめ知っており、準備を整えた上で素知らぬ態で突然の客でも十分にもてなすことが出来るように見せかけていただけだったのである。蒲鉾が用意されていたことからそれを察した利休は、わざわざ驚いたように見せた主人の見栄に失望しその場で退席した(『茶話指月集』)。
  • 福島正則細川忠興が茶人の利休を慕っていることを疑問に思い、その後忠興に誘われ利休の茶会に参加した。茶会が終わると正則は「わしは今までいかなる強敵に向かっても怯んだことは無かったが、利休と立ち向かっているとどうも臆したように覚えた」とすっかり利休に感服していた[20]
  • 切腹を命じにきた秀吉の使者に対しても動じず「茶室の鍵を無くしました」と述べた[21]

足跡

ファイル:Senno Rikyu yashikiato.jpg
千利休屋敷跡
堺市堺区宿院町西1丁)
  • 大阪府堺市堺区宿院町西1丁の中浜筋沿いに利休の屋敷跡と伝えられる場所があり、市の史跡として保護されている。千家茶道の発祥と発展に伴い、くるみ餅、芥子(けし)餅、肉桂(にっき)餅、大寺餅といった堺銘菓を扱う和菓子店が周囲に多数存在し、中には豊臣秀吉が名付けたものもある。
  • 京都市上京区晴明神社内に利休屋敷跡の碑が建つほか、堺の百舌鳥野(現在の大仙陵古墳周辺か)に「もずの屋敷」、京都五条堀川辺りに「醒ヶ井屋敷」、同じく東山大仏前に「大仏屋敷」、大徳寺門前に「大徳寺屋敷」、大阪府島本町山崎に「山崎屋敷」を構えていたと伝えられ、京都府乙訓郡大山崎には茶室「待庵」(国宝)が現存する。
  • 顕彰・展示施設としては堺市営の「千利休茶の湯館」がある(「さかい利晶の杜」として与謝野晶子記念館と併設)[22]
  • 現在でも「利休饅頭(同種の菓子に利久饅頭の別名もあり)」というお茶受けのお菓子が各地にある。
  • 天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州遠征に同行し、筥崎宮に20日あまり滞在したとされる。この時、秀吉は黒田休夢黒田孝高(官兵衛)の叔父)らと浜(現在の九州大学馬出キャンパス内)で茶会を催した。利休は秀吉の命により、に鎖を下ろし、雲龍の小釜をかけ、白砂の上の松葉をかきあつめて湯をわかしたとされる。

作品

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伝 千利休 竹花入「音曲」 

利休はさまざまな新しい試みを茶道に持ち込んだ。樂家初代・長次郎をはじめとする職人を指導して好みの道具を作らせるとともに、みずからも茶室の設計、花入茶杓の製作など道具の製作にも熱心であった。紹鴎の時代にあってもまだ煩雑であった茶会の形式をさらに簡略化するとともに、侘び道具を製作・プロデュースして、多くの支持者・後継者に恵まれたことが、利休を侘び茶の完成者と言わしめる由縁である。

  • 茶室待庵京都府大山崎町所在。利休作といわれる。国宝
  • 黄金の茶室 : 豊臣秀吉の命により製作。
  • 書状「武蔵あぶみの書(織部あて)」「末吉勘兵衛宛書状」「松井佐渡守宛書状」など
  • 書状「寄進状」
  • 書「孤舟載月」
  • 竹花入「園城寺」「尺八」「夜長」
  • 茶杓「なみだ」「面影」

出自・系譜

利休の祖父は、『千家系譜[23]によれば、

里見太郎義俊二男、田中五郎末孫、生国城州、東山慈照院義政公同朋相勤

と説明されており、新田里見氏の一族田中氏の出身とされる。また『千利休由緒書[24]には、

利休先祖之儀ハ、代々足利公方家ニ而御同朋ニ而御座候。先祖より田中氏に而御座候。就中、利休祖父ハ田中千阿弥〔初メ専阿弥ト号ス、太祖ハ里見太郎義俊二男、田中義清と申末孫也と云、〕と申候而、東山公方慈照院義政公の御同朋ニ而御座候、(中略)千阿弥発心致し泉州堺江閑居仕候、其子与兵衛ハ田中之名字を改メ父之名ノ千を取り苗字ニ致し、与兵衛と申候而堺之今市町ニ而商家ニ罷成候、其子千与四郎と申候而今市町ニ而商売仕候所茶道ヲ好キ候。

と書かれており、利休の祖父の名は初めは専阿弥、のちに千阿弥といい、足利義政同朋衆であったので、その子、田中与兵衛(利休の父)がその阿弥号の千の字をとって千姓を称したとされる。

ただし、「阿弥」号は当時の時宗門徒などには極めてありふれたものであったから必ずしも同朋衆に結びつくものではない。この説の初出である「千利休由緒書」は、利休の曾孫である江岑宗左によるものであり、利休の同時代史料には見当たらないところから内容を疑問視するむきがある。たとえば芳賀幸四郎は、「千利休由緒書」の伝承は『応仁記』巻第二「室町亭行幸之事」に名のみえる「同朋専阿弥」を参考にしたのではないかと指摘する[25]。また村井康彦は、「利休の祖先が義政の同朋衆であったとするなら(中略)千阿弥は利休の祖父というより曾祖父」でなければ時代が合わないと疑義を呈している[26]。中村修也は、「利休の祖父が足利義政の同朋衆であったという確たる史料はなく、むしろ創作された家伝と見るほうが無難である。ただし、この記事は田中姓から千姓に代わった経緯を説明する役割を担っており、その意味では、千家がもとは田中姓であったことは疑いあるまい」[27]としている。

さらに、山上宗二の『山上宗二記』(天正16年(1588年))は、利休のことを田中宗易、利休の長男を田中紹安(後の道安)と記しており[28]、利休の晩年に至っても姓としては田中の方が通っていたと考えられることから、利休の父の代に田中姓を千姓に代えたのではないとする向きもある。たとえば神津朝夫は、「利休の父が田中姓を千姓に改めたというのも正しくない。『山上宗二記』には「田中宗易」と明記されており、利休の本姓は依然として田中だったことがわかるからだ」と指摘し、「千」は利休以前から続く田中家の屋号であるとしている。神津はこれに続けて「千家は朝鮮系の家ではないかとする説もあるが、田中が姓だったのではそれも成り立たない。もしも日本「帰化」姓が田中だったのなら、秀吉の朝鮮侵略中に少庵が千家に戻したことになり、あまりに不自然だろう。」とも指摘している[29]

家族

  • 宝心妙樹(ほうしんみょうじゅ、生年不詳 - 天正5年7月16日1577年8月10日))
    先妻お稲。三好長慶の妹。天文11年(1542年)頃に利休に嫁ぎ、一男四女をもうけた。しかし夫婦仲は円満ではなかったと伝わる。
  • 宗恩(そうおん、生年不詳 - 慶長5年3月6日1600年4月19日))
    後妻おりき。元は能役者の宮王三入の妻で、一男(後の少庵)をもうけた。天文22年(1553年)頃、夫に先立たれる。天正6年(1578年)兼ねてより縁のあった利休が前年に妻を亡くしていたため、利休と再婚した。宗恩は新たな袱紗さばきを提案するなど、自身茶の湯に精通し、利休のよい補佐役、理解者であったといわれる。
  • 千道安
    長男。母は宝心妙樹。
  • 宗林(そうりん、生没年不詳)
    次男。母は宗恩。夭折し、父母を悲しませたという。
  • 宗幻(そうげん、生没年不詳)
    三男。母は宗恩。夭折した。
  • 田中宗慶
    一説に庶長子。
  • 清蔵主(せいぞうしゅ、生没年不詳)
    庶子。明叔寺を号。
  • 千少庵
    養嗣子。宗恩の連れ子。
  • 不明(生没年不詳)
    長女。母は宝心妙樹。永禄元年(1558年)頃、茶人千紹二に嫁いだ。
  • 不明(生没年不詳)
    次女。母は宝心妙樹。天正4年(1576年)頃、利休の弟子である万代屋宗安に嫁いだ。天正17年(1589年豊臣秀吉に気に入られて、奉公するように請われたが断り、後の利休の自害の遠因になったという説がある。夫が没すると、実家に戻った。
  • 三(生没年不詳)
    三女。母は宝心妙樹。従弟にあたる石橋良叱に嫁いだ。三の逸話は一説には彼女の事とも言われる。
  • 吟(生没年不詳)
    四女。母は宝心妙樹。天正12年(1584年本能寺の僧侶円乗坊宗円古市宗円・玉堂)に嫁ぐ。
  • 不明(生没年不詳)
    五女か。魚屋与兵衛に嫁いだ。
  • 亀(かめ、生年不詳 - 慶長11年10月29日1606年11月29日))
    末女、六女か。名は長(ちょう)とも。天正4年(1576年)頃、後に利休の養子となる少庵を婿とした。少庵との間には宗旦を儲けている。利休が秀吉の怒りを買って堺に蟄居する際に、歌を亀に残している。また夫婦仲は良好ではなかったようで少庵とは別居していたが、息子・宗旦が利休に連座しようとした際には別居先から駆けつけている。

また、偽書『南方録』によれば三・亀を除くいずれかの女子が、天正19年1月18日1591年2月11日)に自害したという。

千利休を題材にした作品

小説
映画
テレビドラマ
漫画
音楽

脚注

注釈

  1. 近年、日本茶道史研究家の中村修也文教大学教授)は『時慶記』の記述や豊臣秀吉発大政所宛書状の内容などを論拠として、利休はこの時死なずに失踪し、消息不明となったという説を唱えている[2]
  2. 桑田忠親は、「ある長編の歴史小説で試みられた作家のフィクションであって、史実ではない」と否定している[13]。なお、その歴史小説とは、野上彌生子『秀吉と利休』を指す。
  3. 毘沙門町および葭屋町通元誓願寺下ル町の晴明神社の近くにあったという。また『聚楽古城図』(国立国会図書館・広島県立図書館など蔵)によれば、聚楽第北御門横の元誓願寺通下る大宮通東付近にあったと推定される。

出典

  1. 宮本義己「利休の登場」、米原正義編『千利休のすべて』、新人物往来社、1995年、38頁。
  2. 『日経大人のOFF』2013年12月号、『利休切腹』(洋泉社・2015年)【異説あり】千利休 切腹してない?「死後」に茶をたてた記述■九州へ逃れた説『朝日新聞』朝刊2018年5月14日(文化の扉面)
  3. 勧修寺晴豊『晴豊公記』第七巻、天正19年2月26日条(1591年4月19日)
  4. 吉田兼見『兼見卿記』巻十六、天正19年2月26日条(1591年4月19日))
  5. 多聞院日記』巻三十七、天正19年2月28日条(1591年4月21日)
  6. 平直方『夏山雑談』巻之五、寛保元年(1741年)
  7. 吉田孫四郎雄翟 口述、千代女 書留『先祖等武功夜話拾遺』巻七、寛永15年(1638年)
  8. 笠原一男編集『学習漫画 人物日本の歴史〈12〉織田信長・豊臣秀吉・千利休―安土・桃山時代』集英社
  9. 9.0 9.1 『南方録』第七巻・滅後
  10. 『秀頼公御小姓古田九郎八直談、十市縫殿助物語』承応2年(1653年)
  11. 吉田孫四郎雄翟 編『武功夜話』巻十七、寛永15年(1638年)
  12. 杉本捷雄『千利休とその周辺』淡交社、1970年
  13. 桑田忠親『千利休―その生涯と芸術的業績』中央公論社、1981年
  14. 芳賀幸四郎『千利休』(吉川弘文館、1963年)
  15. 米原正義『天下一名人千利休』(淡交社、1993年)
  16. 児島孝『数寄の革命―利休と織部の死―』(思文閣出版、2006年)
  17. 会田雄次・山崎正和対談「利休が目指し、挫折したもの」(『プレジデント』27(9) 《特集》千利休、1989年9月)
  18. 岡倉天心薯『茶の本国立国会図書館
  19. 千利休薯『利休百会記』岡山大学付属図書館
  20. 『細川家記』(東京大学史料編纂所所蔵)
    • 江岑宗左『千利休由緒書』承応2年(1653年)
    • 国枝清軒『武辺咄聞書』延宝8年(1680年)
    • 山田宗徧『茶道要録』付録 元禄4年(1691年)
    • 成島司直「千利休罪科付格言の事」(『改正三河後風土記』巻第二十九)天保4年(1833年)
    など。
  21. 千利休茶の湯館(2018年6月26日閲覧)
  22. 了々斎宗左『千家系譜』文化元年(1804年)
  23. 江岑宗左『千利休由緒書』承応2年(1653年)。『墨海山筆』巻二十二所収の「利休伝」(東京大学史料編纂所架蔵)は『千利休由緒書』の写しとされ、若干の異同がある。
  24. 芳賀幸四郎『千利休』吉川弘文館、1963年。
  25. 村井康彦『千利休』講談社、2004年。
  26. 中村修也「『源流茶話』注釈(二)」文教大学教育学部紀要38、2004年。
  27. 山上宗二『山上宗二記』天正16年(1588年)
  28. 神津朝夫『千利休の「わび」とはなにか』(角川書店、2005年)

参考文献

関連項目

外部リンク