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'''7世紀'''(ななせいき、しちせいき)
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[[ファイル:Mohammed_receiving_revelation_from_the_angel_Gabriel.jpg|thumb|260px|right|イスラム教の誕生。画像は[[天使]][[ガブリエル|ジブリール]]から啓示を受けるムハンマドで、14世紀に描かれた『[[集史]]』「預言者ムハンマド伝」載録の細密画([[エディンバラ大学]]蔵)。]]
 
[[ファイル:Kaaba mirror edit jj.jpg|thumb|260px|right|聖地[[メッカ]]。ムハンマドはメッカから[[メディナ]]に逃れた後、イスラム教共同体(ウンマ)を組織し、再びこの都市に現れてイスラム教の支配下に置いた。画像はメッカの[[カアバ]]とそれを取り囲む[[マスジド・ハラーム]]。]]
 
[[ファイル:Israel-2013(2)-Jerusalem-Temple Mount-Dome of the Rock (SE exposure).jpg|thumb|260px|right|[[岩のドーム]]。ユダヤ教徒やキリスト教徒にとって重要な聖地であるエルサレムはイスラム教徒にとっては預言者ムハンマドが「夜の旅(イスラー)」を行った場所であり、それを記念してこの建物が建てられた。]]
 
[[ファイル:Xuanzang w.jpg|thumb|200px|right|[[玄奘三蔵]]。困難多い求法の旅の果てにインドに到達し[[ヴァルダナ朝]]の[[ハルシャ・ヴァルダナ|ハルシャ王]]に歓待された。旅の記録は『[[大唐西域記]]』にまとめられ、有名な伝奇小説『[[西遊記]]』のもとともなった。]]
 
[[ファイル:Nalanda University India ruins.jpg|thumb|right|250px|[[ナーランダ大学|ナーランダ寺院]]。創立は[[グプタ朝]]時代にさかのぼるが、この時代までにインド随一の仏教総合大学に発展し、唐僧玄奘もこの地で[[唯識]]派の[[シーラバドラ]](戒賢)に学んでいる。画像は現在の[[ビハール州]]に残るナーランダ寺院跡。]]
 
[[File:Arjunas Penance - Descent of the Ganges.jpg|thumb|right|250px|[[マハーバリプラム]]。南インドの[[パッラヴァ朝]]の貿易港として発展した地域で「海岸寺院」ほか特色あるヒンドゥー建築が並び立った。画像は「ガンガーの降下」とも「アルジュナの苦行」とも知られている浮き彫り(レリーフ)で岩山に掘られたものとしては世界最大級を誇る。]]
 
[[ファイル:Avalokiteçvara, Malayu Srivijaya style.jpg|thumb|200px|right|[[シュリーヴィジャヤ王国]]。[[スマトラ島]]を中心に[[マレー半島]]周辺に交易圏を築き上げた海洋王国で、唐僧[[義浄]]が『南海寄帰内法伝』で記録したように多くの寺院が立ち並ぶ大乗仏教の拠点でもあった。画像はシュリーヴィジャヤ様式の青銅鍍金四臂観世音菩薩像。]]
 
[[File:Horyu-ji10s3200.jpg|thumb|right|250px|[[法隆寺]]。[[聖徳太子]]により7世紀初頭に創建された寺院で焼亡の後、7世紀後半に再建されたとされる。以後西院伽藍は罹災に遭わず世界最古の木造建築物に認定されている。画像は中門と五重塔を含む法隆寺西院伽藍。]]
 
[[ファイル:Tenjyukoku embroidery.jpg|thumb|250px|right|「[[天寿国繍帳]]」。[[飛鳥時代]]を代表する工芸の一つで聖徳太子の妃である[[橘大郎女]]の発願で作成されたとされ、[[斑鳩]][[中宮寺]]に伝来した。]]
 
[[ファイル:SongstenGampoandwives.jpg|thumb|270px|right|吐蕃の王[[ソンツェン・ガンポ]]と二人の妃(唐から来た文成公主とネパールから来たチツン)。吐蕃はチベットを統一し唐に倣った律令体制を発展させた。]]
 
[[ファイル:TangTaizong.jpg|thumb|right|180px|唐の[[太宗 (唐)|太宗]]。父[[李淵]]の後を継いで二代皇帝となった太宗李世民は、唐の[[律令体制]]を完成させ「[[貞観の治]]」と呼ばれる安定期をもたらした。画像は[[台湾]][[国立故宮博物院]]が所蔵する太宗の肖像画。]]
 
[[ファイル:Longmen lu she na.jpg|thumb|right|270px|[[洛陽]]郊外の[[龍門]]にある[[奉先寺]]大仏。則天武后の命で造営されたもので、大仏の顔は則天武后をモデルにしているといわれる。]]
 
[[ファイル:Palenque - Maske des Pakal.jpg|thumb|right|270px|[[パレンケ]]遺跡。この遺跡は[[マヤ文明]]の古典期を代表するもので、とりわけ[[パカル王]]の墓所があった「碑文の神殿」は有名である。画像はパカル王の遺体に被せられていた[[翡翠]]の[[仮面]]({{仮リンク|メキシコ国立人類学博物館|en|National Museum of Anthropology (Mexico)}}蔵)。]]
 
[[ファイル:Greekfire-madridskylitzes1.jpg|thumb|right|270px|「[[ギリシア火]]」。イスラム軍の猛攻で劣勢に置かれた東ローマ帝国もこの新兵器を用いて帝都の防衛に成功する。画像は『スキュリツェス年代記(歴史概観)』の挿絵([[マドリッド]]国立図書館蔵)。]]
 
[[ファイル:CoronaRecesvinto01.JPG|thumb|right|200px|西ゴート王国の安定。7世紀のイベリア半島は「西ゴート・ルネサンス」または「イシドールス・ルネサンス」の時代とも呼ばれ、[[レケスウィント]]王のもとでは「西ゴート法典」の整備や、トレド教会会議の開催などの取り組みがなされた。画像は「グアラサールの宝物」の一つであるレケスウィント王の宝冠([[国立考古学博物館 (スペイン)|スペイン国立考古学博物館]]蔵)。]]
 
  
'''7世紀'''(ななせいき、しちせいき)とは、[[西暦]][[601年]]から西暦[[700年]]までの100年間を指す[[世紀]]。
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7世紀(ななせいき、しちせいき)

西暦601年から西暦700年までの100年間を指す世紀

できごと

600年代

610年代

620年代

630年代

  • 630年
    • ムハンマドがメッカを征服。周辺各国にイスラム教への入信を呼びかける(遣使の年)。
    • 東ローマ皇帝ヘラクレイオスがエルサレムに入城。
      • サーサーン朝から返還された「真の十字架」を奉献する聖墳墓教会を再建。
    • 唐軍により頡利可汗が捕えられ東突厥が滅亡。
      • 唐の太宗は西域諸国から「天可汗」に推戴される。
    • 第1回遣唐使として犬上御田鍬が派遣される。
  • 632年 - ムハンマドが死去。遺体は預言者のモスク(マスジッド・アルナバウィ)の墓に葬られる。
    • アブー・バクルが後継のイスラム指導者である初代カリフに選ばれる。リッダ(背教)の戦いが起こる( - 633年)。
  • 634年 - アブー・バクル死去により第2代カリフにウマルが選ばれる。
  • 634年頃 - チャールキヤ朝のプラシーケン2世がナルマダー川の戦いでハルシャ・ヴァルダナの軍を破り南インドの独立を維持する。
  • 635年以前 - クブラト・ハンにより黒海北岸のタマン半島のファナゴリアを中心とする大ブルガリアが成立する。
  • 635年
  • 636年
    • ヤルムーク河畔の戦いで、皇帝ヘラクレイオス率いる東ローマ帝国軍がイスラム帝国軍に惨敗。
      • 東ローマ帝国はサーサーン朝から奪回したシリアの領土を再び失う。
    • フランク王ダゴベルト1世により王家の墓所となるサン・ドニ教会がパリ近郊に設置される。
  • 637年
    • カディシーヤの戦いで、サーサーン朝がイスラム軍に敗れ、都のクテシフォンを占領される。
    • 「貞観律令」が施行される。
  • 638年
    • 東ローマ皇帝ヘラクレイオスが「エクテシス」を発布。
    • カリフのウマルにより派遣されたウトバ・イブン・ガズワーンがイスラム最初のミスル(軍営都市)のバスラを建設する。
  • 639年
    • 舒明天皇の命で百済大寺(吉備池廃寺)が建立される(天皇の命による日本初の官寺)。
    • サアド・イブン・アビー・ワッカースによりミスルのクーファが建設される。

640年代

650年代

  • 650年頃
  • 651年
    • オクサス川の戦いでサーサーン朝ペルシアが滅亡。皇子ペーローズ3世は唐に亡命する。
    • イスラム帝国カリフのウスマーンの命令で『クルアーン(コーラン)』正典が編纂される(ウスマーン版)。
    • 「永徽律令」が施行される。
  • 652年
    • 唐律疏義(永徽律疏)」が編纂され、漢代からの「春秋決獄」が廃止される。
    • 玄奘三蔵がインドから招来した経典や仏像を保存するため長安近郊の大慈恩寺大雁塔が建てられる。
  • 653年
  • 654年
    • 西ゴート王レケスウィントが属人法を廃止し「西ゴート法典(リベル法典・裁判法典)」を公布する。
  • 655年
    • 皇帝コンスタンス2世率いる東ローマ帝国軍が小アジアのリュキアの海戦(帆柱の戦い)でイスラム帝国軍に惨敗。
    • 唐の高宗の皇后王氏が廃され、武照が皇后に冊立される。
    • 皇極天皇が重祚し、第37代斉明天皇となる。
  • 656年 - ウスマーンが暗殺され、アリーが第4代カリフに選出される。
    • この選出をめぐりイスラム帝国で第一次内乱が勃発( - 661年)。ラクダの戦いでアーイシャがアリーに敗北。
  • 657年
  • 658年
    • 有間皇子が謀反の疑いで処刑される。
    • 阿倍比羅夫が水軍180隻を率いて蝦夷を討ち、粛慎を平定する( - 660年)。
    • 東ローマ皇帝コンスタンス2世がバルカン半島南部のスラブ人を制圧。
      • この時のスラブ人は小アジアに入植させられ、帝国防衛のためのテマ制(軍管区制)の原型が形成される。

660年代

670年代

  • 670年
  • 671年
  • 672年 - 天智天皇死去。大友皇子が近江宮の首班となる(第39代弘文天皇)。
  • 673年 - ウマイヤ朝海軍がキュジコス半島を前線基地として確保。
    • ここから東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを678年まで継続して包囲。東ローマ軍はギリシア火でこれを撃退
  • 676年 - 伎伐浦海戦で唐を破った新羅が朝鮮半島を統一。

680年代

690年代

時代の動向

東アジア

大陸

前世紀末に華北を再統一し、さらに南北朝の対立を解消した武川鎮軍閥出身の楊氏(普六茹氏)のが内乱の末に崩壊し、群雄割拠の中からやはり武川鎮軍閥出身の出身の李氏(大野氏)のが内乱を収拾して統一王朝を建設する。唐は建国当初はモンゴル高原東突厥の後塵を拝していたが、第二代皇帝太宗李世民はこれを屈服させて羈縻支配に置き、唐を世界帝国に成長させる。唐は武則天武周に取って代わった一時期を含め本世紀に最盛期を迎える。しかし、本世紀末の682年より東突厥は唐の支配より再び独立を果たし、唐と南北に対峙するようになる。

朝鮮半島

日本

日本では飛鳥時代古墳時代終末期)にあたる。

西アジア

南アジア

東南アジア

ヨーロッパ

人物

イスラム世界

キリスト教世界

フランク王国

ローマ教皇

イングランド・アイルランド

西ゴート王国

ブルガリア

東ローマ帝国

イラン

インド・チベット

東アジア

  • 煬帝(楊広)(569年 - 618年) - 隋王朝第2代皇帝(在位604年 - 618年)・高句麗遠征に失敗し殺害される
  • 陸法言(生没年不詳) - 隋の音韻学者・漢字発音の標準を定め『切韻』5巻を編纂・これは現存最古の韻書科挙にも影響
  • 竇建徳573年 - 621年) - 隋末唐初に割拠した群雄・高句麗遠征軍から逃れて河北で自立・宇文化及を倒すが李世民に敗北
  • 李密582年 - 618年) - 隋末唐初に割拠した群雄・楊玄感の反乱に続いて挙兵し河南で自立・王世充に敗北する
  • 王世充(? - 621年) - 隋末唐初に割拠した群雄・洛陽にて恭帝侗を擁立・さらに自ら皇帝を名乗るが李淵に敗北

渤海

  • 大祚栄(? - 719年) - 渤海の初代国王(在位698年 - 719年)。東牟山に都城を築き独立・後に唐の冊封を受ける。

朝鮮

日本

フィクションのできごと

  • 618年 - 619年 - 突厥の曷薩那可汗の命により、花木蘭が男装して父の身代わりとなって徴兵に応じ各地で戦う(褚人獲『隋唐演義』)。
  • 618年前後 - 武術家神腿張の息子小虎は鄭王王世充により父を殺され自身も重傷を負って少林寺に落ち延びる。父の仇を討つため少林寺にて修行に励む小虎の前に将軍李世民が現れ、共に王世充を倒すために立ち上がることを決意する(張鑫炎監督の香港映画「少林寺」)。
  • 684年 - 飢饉に見舞われた羽生蛇村に堕辰子が降臨、飢えに耐え切れなかった村人がその肉を食べ、村に呪いが降りかかる(『SIREN (ゲームソフト)』)。

脚注

注釈

出典

  1. ただし、日本成立以前の倭国および倭国王の勢力範囲に関しては諸説ある。

関連項目

外部リンク