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(とう、拼音: Táng618年 - 907年

中国の王朝。李淵(高祖),李世民(太宗)父子が末の群雄を平定して建国。三省六部(三省六部制度),九寺五監および御史台などを中心とし,地方を道,州,県に分け,律令格式を整備した。

唐の中央政界は隋代に引き続いて貴族の勢力が強かったが,一方では科挙制度をしいて官僚制を推進した。財政面では均田制に基づく租・庸・調ならびに雑徭の徴収を原則とし,軍事面では全国に折衝府を配置して徴兵を行ない,国家権力による人民把握に努めた。

唐初は対外的発展もめざましく,東突厥(突厥)を滅ぼし,西突厥を討ち,吐谷渾吐蕃を破って西域を支配するとともに,百済高句麗をくだして朝鮮をも征した。新たに勢力の及んだ四方辺境の地には 6都護府を設置し,いわゆる羈縻政策を行なった。

しかし 7世紀末,高宗が没すると,皇后武氏(則天武后)が政権を握って帝位につくにいたった(690~705)。武周政権は中宗復位によって終わったが,再び皇后韋氏の専権があり,唐の政治はしばしば動揺した(武韋の禍

玄宗が立つと復興に努め,唐の文化は最盛期に達したが,一方この頃から均田制は崩れて農民の没落が起こり,府兵制も行なわれなくなり募兵制が採用され,社会不安は増大した。

玄宗は 10節度使を配置し,辺境守備にあたらせたが,やがてそのなかから安史の乱(755~763)が発生し,唐朝はにわかに衰退に向かった。かくて均田体制は完全に崩壊し,荘園が王侯貴族,官僚,豪商あるいは寺観によって大々的に開発され,農民は小作人(佃戸)化した。その結果,国家財政が逼迫し,これを打開するため両税法が施行された。また節度使も一般的に内地に置かれるようになり,地方分権化も進んだため,律令政治は行きづまった。

特に河朔三鎮(河北の節度使)は激しく唐朝に抵抗したうえ,中央政界でも宦官の跋扈や党争が相次ぎ,政治は乱れた。9世紀後半,唐朝の経済的基盤であった江南において龐勛らの反乱が起こり,山東でも王仙芝黄巣の乱が 10年に及んだため,中央の権威は失墜。やがてもと黄巣の部将だった朱全忠が政権を握り,開平1(907)年哀帝を廃し,後梁朝(五代)を建てた。

脚注