平沼騏一郎
平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう、慶応3年9月28日(1867年10月25日) - 昭和27年(1952年)8月22日)は、日本の司法官僚、政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。爵位は男爵。学位は法学博士。号は機外。
大審院検事局検事総長(第8代)、大審院長(第11代)、日本大学総長(第2代)、大東文化学院総長(初代)、財団法人大東文化協会会頭(第3代)、司法大臣(第26代)、貴族院議員、枢密院副議長(第11代)、枢密院議長(第17・21代)、内閣総理大臣(第35代)、国務大臣、内務大臣(第62代)などを歴任した。
Contents
概要
東京控訴院部長や大審院検事局検事を務めたのち、司法省にて民刑局の局長などを経て次官に就任した。その後、大審院検事局にて検事総長に就任し、さらに、大審院の院長を務めた。法曹界で権力を持ち、保守・右派勢力の中心人物として暗躍し、帝人事件や企画院事件の黒幕ではないかと見なされた。
第2次山本内閣にて司法大臣として入閣を果たす。貴族院議員、枢密顧問官などを経て、枢密院の副議長や議長を務めた。内閣総理大臣に指名され、平沼内閣を組閣した。これにより、三権の長のうち2つを務めたことになる。内閣総理大臣退任後は、第2次近衛内閣にて国務大臣や内務大臣を務めた。太平洋戦争後、極東国際軍事裁判でA級戦犯として訴追される。終身刑の判決を受け、獄中で死去した。
政治以外の活動としては、慶應義塾大学法学部教授、日本大学総長、大東文化学院(のちの大東文化大学)総長、大東文化協会(大東文化大学の設立母体)会頭、皇典講究所(國學院大學の設立母体)副総裁などを務めた。
また、国本社の創設者であり、第2代修養団団長でもある。無窮会の創立者として、相談役、第2代会長、理事などを歴任し、東洋文化学会でも第2代会長を務め、後に東洋文化研究所を創設して、初代所長を務めた[注釈 1]。
生涯
生い立ち
1867年新暦10月25日(慶応3年9月28日)、津山城下南新座(のちの岡山県津山市)に津山藩士だった平沼晋(1832年 - 1914年)の次男としてうまれる。
1872年に上京して同郷・箕作秋坪の三叉学舎(さんさがくしゃ)にて英語・漢文・算術を学び、1878年に東京大学予備門入学。在学中、明治十六年事件に関与する[1]。
1888年帝国大学法科大学(のちの東京帝国大学法科大学、戦後の東京大学法学部)を卒業し、その後司法界で出世していった。
首相就任まで
明治年間の第1次桂内閣末期、実業界の資金不足のために民間から資金を集める方法が議論され、社債の相談を持ちかけられた司法部の平沼が、社債信託法採用の意見を述べた。当時はまだ先進国でも英国のみに存在する法律であったが、曾禰荒助大蔵大臣に直に頼まれて、池田寅二郎試補を相手にほとんど平沼一人で社債信託法を立案し、審査を経て成立させた。
1908年、刑法改正(現行刑法制定)を機に設置された犯罪者の前科を記録するための方法を検討する「犯罪人異同識別法取調会」の中心メンバーとなる。平沼の報告書に基づいて、指紋による前科登録が導入される事となった。
1910年の幸徳事件(大逆事件)では、検事として幸徳秋水らに死刑を求刑した[2]。この裁判は「暗黒裁判」として今でも批判があるが、当時の左翼思想に対する危機感・恐怖感を考慮しなければならないという指摘もある[3]。
1913年4月、司法大臣の松室致と協力し、「裁判所廃止及名称変更ニ関スル法律」「判事及検事ノ休職並判事ノ転所ニ関スル法律」を成立させ、229人の判事・検事を一挙に休・退職とし、443人にのぼる異動を発令した。それまでの大逆事件などでの功績から、特に1910年代以降、司法部内での検察権の独立が公然と実態化し、絶対的優位化した。平沼が大審院長となった1921年には、これに伴い裁判所構成法改正で検事総長の地位が司法大臣、大審院長と同レベルに引き上げられた。また1922年改正の刑事訴訟法には起訴便宜主義が取り入れられ、検察官の権限は大幅に拡大された[4]。1923年には法曹会会長として同会の会報『法曹記事』を改題し『法曹会雑誌』を創刊し、判例に準ずる「法曹会決議」の発表を開始した。同年の関東大震災直後には大審院長を辞任したが、その翌日には治安維持法の前身となる勅令治安維持の為にする罰則に関する件が下った、俗に、平沼 - 鈴木喜三郎 - 小山松吉 ラインが思想検事系列の礎として形容されていった[5]。
政治姿勢はきわめて保守的かつ国粋主義的であり、民主主義や社会主義、またナチズムやファシズム、共産主義といった外来思想を、常に危険視していた。自身の経歴を生かして主に司法界と枢密院に大きな影響力を持ち、これに国本社を中心とした大衆的な支持を加えて、教化運動や自己の秩序観の高調を行ったが、特に国本社は政界の惑星を頭目とする点で、世人の注目を浴びた。
過去、第2次若槻内閣や浜口内閣に対する攻撃、天皇機関説排撃事件などで、元老西園寺公望に嫌われており、本人の強い希望にもかかわらず首相候補に推されることがなく、また枢密院議長に就任できずに副議長に留め置かれたままであった。
ただ西園寺は、1932年に首相犬養毅が武装海軍青年将校らに殺害された五・一五事件の後も、まだ政党内閣を続けるつもりであり、また、立憲政友会右派の森恪らも、総裁に鈴木喜三郎を選出し、次期首相に推していた(いわゆる「憲政の常道」では首相死去による内閣総辞職の場合は与党の後継党首への大命降下となる)。
ここで斎藤実が、シーメンス汚職事件によって海軍大臣を引責辞任したという経歴を持ちながらも[6]、総理大臣兼外務大臣に任命された主な理由は、犬養内閣の陸軍大臣でもあった荒木貞夫が元老の西園寺に、政党内閣拒絶の意を伝えていたことと、親英米派だった昭和天皇の意向があったという。
斎藤内閣が発足した後の9月には、陸軍関東軍による満州事変が勃発し、1933年には日本国が国際連盟を脱退するに至った。
平沼は1934年、西園寺と彼が育てた立憲政友会、斎藤内閣を潰すため、帝人事件を起こして司法省の検察庁に国策捜査(当時でいう「検察ファッショ」)を行わせたという説がある。他方、司法省は同年の機関紙でプロシア邦の司法大臣ハンス・ケル『ナチスの刑法』を翻訳出版している。
ただ、司法省の裁判官の石田和外らは4月、起訴内容は無実無根であるとして被告ら全員に無罪判決を言い渡した(司法大臣は小山松吉)。平沼の意向を受けた検事達の捜査が政友会幹部らの逮捕を優先したため、裏付けとなる証拠収集が杜撰であったとも言われる。しかし、この無罪判決によっても政権批判の世論が収束に向かうことはなく、斎藤内閣は7月、内閣総辞職した。
平沼は、この事件以降は慎重を期し、高齢化した西園寺が政治の表舞台から一歩引いた後は、1936年3月に枢密院議長に就任して国本社を解散するなど、親英米派と妥協することで首相の座に就いたという。憲法の番人と言われる枢密院の議長となって2カ月後の5月には、思想犯保護観察法が成立し、司法省(大臣林頼三郎)からはハンス・フランク『ナチスの法制及び立法綱要』を翻訳出版されている(司法省『司法資料』)。なお、この時期に郷土津山の人々が旧平沼家跡に旧邸を復元し(1937年~1938年)、平沼に贈呈している。この施設は知新館(旧平沼騏一郎別邸)として現存している[7]。
なお、平沼は戦後、A級戦犯として収監された巣鴨プリズン内での重光葵との会話の中で、「日本が今日の様になったのは、大半西園寺公の責任である。老公の怠け心が、遂に少数の財閥の跋扈を来し、政党の暴走を生んだ。これを矯正せんとした勢力は、皆退けられた」と語ったことがあるとされ、西園寺を敵視していたことが伺える[8]。
平沼内閣
1939年1月に発足した平沼内閣は、基本的に第1次近衛内閣の後継内閣としての性格がつよく、政策・人事の大部分を引き継ぐとともに、枢密院に転じた近衛文麿自身も班列(無任所大臣)として残留してこれに協力した。
そのうえ議会が近いという事情から、近衛内閣から塩野季彦法相兼逓相、荒木貞夫文相、木戸幸一内相、有田八郎外相、八田嘉明商工相兼拓務相、米内光政海相、板垣征四郎陸相の七閣僚が留任、あたかも首のすげ替えの様相を呈した。週刊『アサヒグラフ』はこれを「平沼・近衛交流内閣」と皮肉っている。
しかし同時に、末次信正、有馬頼寧、風見章らのような熱烈な制度改革論者は、平沼の閣僚名簿からは除かれていた。これは観念右翼と評される平沼が、新体制運動・制度改革論者をナチス型国家社会主義の亜流として警戒していたことを意味している。
最大の懸案である対中問題では「爾後國民政府ヲ對手トセズ」という近衛声明に基づき、汪兆銘政権を成立させ、これと外交的解決を図ることで日中戦争の幕引きを狙ったが、意図したような中国国民党内部の分断が成功せず、まったくの失敗に終わる。
一方内政問題としては、戦争にともなう経済圧迫に対応するために第1次近衛内閣以来の国民総動員体制を実務的に推進し、警防団の設置など、米穀配給統制法・国民徴用令などの制定とともに、国民精神総動員委員会などを設置して挙国一致体制を整えていった。
しかし、1939年(昭和14年)4月9日に親日的とみなされていた程錫庚海関(開港場の税関)監督を抗日ゲリラに暗殺狙撃される事件がおこり、犯人が潜伏した天津イギリス租界での事件調査をめぐってイギリスが犯人の引き渡しを拒否して対立した。本間雅晴天津軍防衛司令部の名で陸軍が英仏租界の交通を制限し、英租界を事実上封鎖するという問題に発展していく(天津英租界封鎖事件)。
平沼は外交交渉によってこの問題の解決を図り、有田・クレーギー協定で英国の譲歩を勝ち取るものの、これがアメリカの反発を呼び、1939年7月26日に日米通商航海条約を廃棄を通告され、また閣内の英米派とドイツ派との対立を深める結果となり、政権は混迷する(野村・グルー会談にのる新条約、暫定条約の試みも成功せずに日米通商航海条約は1940年1月26日に失効)。
さらに1939年8月20日にノモンハンで日本軍が記録的大敗を喫する国境紛争がおきた(ノモンハン事件)。また8月23日に独ソ相互不可侵条約が締結され、防共を標榜しドイツとともに反ソ連勢力の結集を政治課題としつつ軍事同盟をドイツと討議していた平沼は、日本政府を無視した容共姿勢に転換したドイツのやり方に驚き呆れ、8月28日「欧洲の天地は複雑怪奇」という声明とともに総辞職した。
退陣後
近衛文麿の新体制運動に関しては皇道派軍人とともに批判的な立場をとった(二・二六事件以降、皇道派勢力は弱体化していたが、この時期には陸軍の反主流派としていくらか勢力を回復していた)。これは観念右翼の総帥であった平沼が、新体制運動をナチスドイツの模倣と見做し反発していたからである。後述のように平沼は、ナチスを社会主義思想の一種として軽蔑していた。
1940年、11月の下旬に新体制推進派から距離を置くことを考え始めた近衛は、第2次近衛内閣で平沼を無任所国務相として閣内に迎えた後、新体制推進派を閣外に追放、皇道派軍人の大物である柳川平助を司法相、平沼を内相とした。これは近衛の観念右翼への屈服、新体制運動からの後退を意味するものであった。
内相に就任した平沼は財界から批判のあった経済新体制要綱を骨抜きにし、新体制推進派から協力的であるとして賞賛されていた矢野兼三富山県知事を休職処分したのを手始めに内務省の人事を一新、この原案を作成した企画院の官僚らを共産主義運動・人民戦線運動にかかわったものとして逮捕を指令し(企画院事件)、その余波で岸信介商工次官を辞職に追い込んだ。こうして平沼はナチス型統制経済を目指す官僚グループを次々に追放した。また平沼は大政翼賛会を公事結社として政治活動を禁じ、有馬頼寧らを辞職させ、新体制推進勢力をさらに後退させる。また平沼は米国駐日大使であるジョセフ・グルーらと面会して、悪化していた米国との関係修復を目指している。「親ドイツ色」を中央政界から取除くことがこの時期の平沼の行動目的であった。
このような平沼の行動は革新勢力の批判を浴び、ドイツ・ソ連から帰国した松岡洋右外相は平沼を強く非難し、松岡と平沼は閣内で対立した。
しかし、松岡は陸海軍とも対立し天皇からも不興を買って、松岡を排除するためだけに第3次近衛内閣が組閣され松岡洋右は閣外に追放される。
1941年の第3次近衛内閣においては平沼は内閣参議・無任所国務大臣となり、自分の代わりとして田辺治通を内務大臣に据えた。こうして平沼は対米関係修復を目指す第3次近衛内閣での実力者と目され、右翼団体勤王まことむすびから狙撃される。弾丸6発を被弾する重傷だったが一命をとりとめた。開戦の賛否を討議する開戦直前の重臣会議では、平沼は開戦に消極的な見解を表明した。
戦時下では重臣として岡田啓介・近衛文麿・若槻禮次郎らとともに東條内閣倒閣に活躍。内務省、検察、右翼勢力などに影で大きな権力をもつ平沼の存在は、和平派重臣にとって大きな力であり、平沼の邸宅で反東條派の重臣の秘密会合が開かれることもあった。
東條内閣辞職後の重臣会議では「敬神家」として小磯國昭を推し、小磯内閣辞職後には他の重臣とともに鈴木貫太郎を推した。
1945年4月には首相となった鈴木貫太郎の後をついで枢密院議長となった。
しかし平沼は戦時下、一貫して和平派重臣だったかというと必ずしもそうではなく、彼は和平派と協調するかと思えば降伏反対を唱えることもあり、天皇への上奏の折には明確な主張を見せないなどその立場は一貫していない。たとえば枢密院議長であった平沼は、広島へ原爆投下・ソ連参戦直後、ポツダム宣言受諾を決定する御前会議のメンバーであったが、会議の直前、和平派の米内光政海相は「平沼男爵は和戦どちらにつくか、危ないぞ、大丈夫か」と心配している。この御前会議では平沼は曖昧な表現ながらポツダム宣言受諾側に一票を投じ米内の心配は杞憂におわった。
しかし、東郷茂徳外相が受諾案において天皇の扱いを「国法上の地位を変更する要求を包含し居らざる了解の下受諾する」としていたことに異議を唱え、「国家統治の大権に変更を加うるが如き要求は之を包含し居らざる」に変更させ、連合国から当初の受諾案を拒絶される結果も招いた[注釈 2]。
こうした曖昧な態度は『昭和天皇独白録』で昭和天皇に厳しく批判され「結局、二股かけた人物というべきである」と酷評されている。世論全体や強硬派からは和平推進派とみなされており、このため終戦決定に反発する横浜警備隊長であった佐々木武雄陸軍大尉を隊長とした横浜高等工業学校の学生らによって構成された「国民神風隊」のテロリズムによって終戦未明、自宅を焼き討ちされた(宮城事件)。平沼も鈴木貫太郎同様に二度も強硬派に命を狙われかけた。
A級戦犯
太平洋戦争後、A級戦犯として終身刑が言い渡されるが、1952年病気仮釈放。直後に死去した。刑務所内では深夜に泣き叫ぶなどの奇行が多かったという。
読売新聞、朝日新聞は、平沼の「戦犯の罪」は死去により消滅した、と報じた[9][10]。
逸話・語録
- 「外交は建国の皇謨に則り、道義を基礎として世界の平和と文化とに寄与するを第一義とし、この方針の下に対欧政策を考慮し、屡次これを闕下に奏聞し来ったのであります」(昭和14年8月28日)
- 「どうも日本人は西洋かぶれをしたがる。殊に地位に在る人―政治家と云はれる人、学者と云はれるやうな人がさうである。一時は民主説とか国際説とかにかぶれた。近頃は米英崇拝をやめて独逸崇拝となり、ナチスにかぶれている。そしてあんなものを作らねばならぬと言つて居るが、それは国体に反する」「これは国家社会主義で、ソ聯の赤とそんなに距たりがあるものでない。日本の国体に反する点は殆ど同様で、共々に害を流すものと思ふ」(昭和17年5月19日)
- 「日本は君主国であると云ふ。君主国なら西洋にもあるでないかと反問される。すると日本は万世一系であると云ふ。さう云ふことならエチオピヤが日本より古いではないかと反駁される。君主は統治権をもつとか、万世一系とか、そんな形式的なことでは国体は明らかにされない。どこに万世一系があるか、皇室と国民との関係を明らかにせねばならぬ。日本で親子の関係は自然であるから誰でも判る。日本の国体もその方面から論じなければならぬ」(昭和17年5月19日)
- 「非常に危機に瀕したのは維新当時である。それから我々が覚えて危機であつたのは欧洲大戦である。知識階級はデモクラシーにインターナショナルである。国家主義などは古い、国際主義でいかねばならぬ、皇室は存してもデモクラシーでいかねばならぬと立派な人でも言つてゐた。真向から之に反対したのは私だらう。その故に頭が古い奴だと言はれた。皇室はあつても置物にしやうとした。そこで私は皇室神聖を説いたので、迷信家だとか、頑迷だとか西園寺から言はれた」(昭和18年2月23日)
年表
- 1867年
- 1888年
- 1890年
- 8月:判事試補・芝区治安裁判所詰。
- 10月:京橋区裁判所判事。
- 12月:東京地方裁判所判事。
- 1892年
- 11月:千葉地裁部長。
- 1893年
- 12月:横浜地裁部長。
- 1895年
- 9月:東京控訴院判事。
- 1898年
- 7月:東京控訴院部長。
- 1899年
- 1903年
- 10月:司法省参事官兼検事。
- 1905年
- 11月:大審院検事。
- 1906年
- 1月:司法省民刑局長兼検事。
- 1907年
- 1909年
- 7月:大審院検事局次席検事。
- 7月:兼民刑局長。
- 1911年
- 1912年
- 12月:検事総長に就任。
- 1921年
- 10月:大審院長に就任。
- 1922年
- 3月:日本大学総長に就任(- 大正12年(1923年)11月)。
- 1923年
- 1924年
- 1926年
- 4月:枢密院副議長に就任。
- 10月:男爵。
- 1936年
- 3月:枢密院議長に就任。
- 1939年
- 1月:内閣総理大臣に就任。
- 1945年
- 12月:A級戦犯に指定。
- 1946年
- 4月:巣鴨拘置所入所。
- 1948年
- 1952年
- 8月22日:死去。墓所は岡山県津山市の安国寺、東京の多磨霊園。
栄典・授爵
- 位階
- 1891年(明治24年)12月23日 - 従七位[12]
- 1892年(明治25年)12月23日 - 正七位[13]
- 1895年(明治28年)11月26日 - 従六位[14]
- 1900年(明治33年)11月10日 - 従五位[15]
- 1902年(明治35年)12月17日 - 正五位[16]
- 1907年(明治40年)12月27日 - 従四位[17]
- 1913年(大正2年)1月30日 - 正四位[18]
- 1916年(大正5年)5月30日 - 従三位[19]
- 1921年(大正10年)6月10日 - 正三位[20]
- 1927年(昭和2年)12月15日 - 従二位[21]
- 1934年(昭和9年)12月28日 - 正二位[22]
- 授爵・勲章等
- 1904年(明治37年)12月27日 - 勲四等瑞宝章[23]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲三等瑞宝章[24]
- 1914年(大正3年)4月13日 - 金杯一組[25]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[26]
- 1916年(大正5年)1月19日 - 勲一等瑞宝章[27]
- 1919年(大正8年)9月29日 - 勲一等旭日大綬章
- 1926年(大正15年)10月28日 - 男爵
- 1927年(昭和2年)4月16日 - 金杯一個[28]
- 1928年(昭和3年)4月21日 - 旭日桐花大綬章[29]
- 1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章[30]
- 外国勲章佩用允許
その他
家族
終生独身(2018年現在内閣総理大臣を務めた人物の中で唯一)であった。
祖父織右衛門は能書家で津山藩士で祐筆をつとめている。騏一郎の父晋は津山藩(儒学者)織右衛門保信の子で詩書に堪能で、廃藩置県までは旧藩主松平慶倫の教育係をつとめた。騏一郎はその二男で、妹もいる。祖母千鶴は、子守歌として孫たちに唐詩を唄っていたという。
なお、衆議院議員で騏一郎の養子の平沼赳夫は、騏一郎の兄である経済史学者で早稲田大学学長(注:総長ではない)を務めた平沼淑郎の曾孫であり、騏一郎の曾姪孫である。赳夫の父は大協石油勤務の中川恭四郎で、彼は石川県金沢市出身の内務官僚・中川友次郎の四男であった。また、赳夫の母は淑郎の孫娘節子(東京裁判で平沼の代理として証言台に立つ)である。つまり、赳夫は平沼家とは女系繋がりとなる。当初は赳夫のみ養子にする予定だったが、結局、恭四郎一家を養子として平沼姓を名乗らせた。
系譜
平沼家
- 平沼家は江戸時代、津山藩士として藩主松平家に仕えた武士の家系だった。平沼家について『日本現今人名辞典』(明治33年)によれば、「…其先詳ならず八代の祖織右衛門延良駿府[注釈 3]與力たり弓術に長ず享保中[注釈 4]津山藩の士籍に列す」という。騏一郎から7代前に駿府から津山に移った。平沼家は代々養子が家督を相続していたが、騏一郎の父・晋が初めての実子であった。
平沼騏一郎を演じた人物
- 明石潮『日本のいちばん長い日』(東宝、1967年)
- 宮城幸生『プライド 運命の瞬間』(東映、1998年)
- 伊藤幸純『太陽』(スローラーナー、2006年)
- 金内喜久夫『日本のいちばん長い日』(松竹、2015年)
著書
- 『祭祀と事業』財団法人修養団、昭和13年4月
- 『祭祀と事業衍義』興文社、昭和14年6月 平沼騏一郎述、相良政雄著
- 『機外清話』財団法人修養団、昭和14年7月
- 『平沼騏一郎回顧録』平沼騏一郎回顧録編纂委員会、昭和30年8月
- 『新刑事訴訟法要論』日本大學、大正12年3月28日発行
脚注
注釈
- ↑ 他方、ラルフ・ドライヤーによれば、ドイツ(プロイセン王国~ワイマール共和政)でナチス法制を容認した法哲学者ユリウス・ビンダー(ハンス・ヴェルツェルの師)は、エアランゲン大学、ヴュルツブルク大学およびゲッティンゲン大学の学長、エアランゲン大学哲学部およびソフィア大学法学部名誉博士、ゲッティンゲン学術会議とドイツ法学術会議の委員、ドイツ哲学会、ドイツ国家学会および国際ヘーゲル連盟の創設者の一人であった(Ralf Dreier『ユリウス・ビンダー(1870 - 1939年) — 帝国とナチスの間の法哲学者』)。
- ↑ 枢密院は条約の批准権を持っていたため、条約の一種と見なされたポツダム宣言受諾は平沼の同意がなければ正式決定できなかった。
- ↑ 駿府は今の静岡市。
- ↑ 享保は江戸時代、中御門天皇・桜町天皇の時代。西暦1716年から1735年までの期間。
出典
- ↑ “平沼 騏一郎”. 岡山県立図書館. 2012年12月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2016-5-10閲覧.
- ↑ 幸徳事件
- ↑ 『いわゆるA級戦犯』(小林よしのり、幻冬舎、2006年6月) P144
- ↑ なお、この法案が提出された2月7日には、憲法の番人であった枢密院の議長は空き席であった
- ↑ 『思想検事』(荻野富士夫、岩波新書、2000年9月) P13~P14
- ↑ 斎藤実は、その後の朝鮮総督の時期に子爵となっていた。
- ↑ [1]津山瓦版 - 知新館(旧平沼騏一郎別邸)
- ↑ 『巣鴨日記』(「文藝春秋」昭和27年(1952年)8月号掲載)より。
- ↑ 「平沼騏一郎氏」(訃報)『朝日新聞』昭和27年8月22日。
- ↑ 「平沼元首相死去」『読売新聞』昭和27年8月23日。
- ↑ 『官報』第3427号、大正13年1月29日。
- ↑ 『官報』第2547号「叙任及辞令」1891年12月24日。
- ↑ 『官報』第2850号「叙任及辞令」1892年12月26日。
- ↑ 『官報』第3725号「叙任及辞令」1895年11月27日。
- ↑ 『官報』第5210号「叙任及辞令」1900年11月12日。
- ↑ 『官報』第5839号「叙任及辞令」1902年12月18日。
- ↑ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
- ↑ 『官報』第150号「叙任及辞令」1913年1月31日。
- ↑ 『官報』第1148号「叙任及辞令」1916年5月31日。
- ↑ 『官報』第658号「叙任及辞令」1921年6月11日。
- ↑ 『官報』第343号「叙任及辞令」1928年2月22日。
- ↑ 『官報』第2399号「叙任及辞令」1934年12月29日。
- ↑ 『官報』第6450号「叙任及辞令」1904年12月28日。
- ↑ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
- ↑ 『官報』第510号「叙任及辞令」1914年4月14日。
- ↑ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ↑ 『官報』第1038号「叙任及辞令」1916年1月20日。
- ↑ 『官報』第90号「叙任及辞令」1927年4月20日。
- ↑ 『官報』第393号「叙任及辞令」1928年4月23日。
- ↑ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ↑ 『官報』第3457号「叙任及辞令」1938年7月13日。
- ↑ 『官報』第3899号「叙任及辞令」1940年1月9日。
参考文献
研究一覧
- 藤野豊「国本社における水平運動観―平沼騏一郎,中央融和事業協会会長就任の背景」、『部落問題研究』通号84、1985年8月
- 加藤陽子「昭和一四年の対米工作と平沼騏一郎」、『史学雑誌』第94編11号、1985年11月
- 滝口剛「満州事変期の平沼騏一郎―枢密院を中心に―」、『阪大法学』通号151、1989年8月
- 滝口剛「平沼騏一郎と太平洋戦争―対外態度における2重性を中心に」、『阪大法学』通号159、1991年7月
- 高橋勝浩「首相平沼騏一郎と「道義外交」―防共協定強化問題と「支那事変」処理―」、『国史学』通号164、1998年2月
- 高橋勝浩「重臣としての平沼騏一郎―終戦と国体護持へむけて」、『軍事史学』通号142、2000年9月
- 鈴木望「平沼騏一郎博士と神習文庫―帝室制度審議委員会との関連に就きて―」、『東洋文化』復刊第100號(通巻第332號)、平成20年4月
- 柴田紳一「平沼騏一郎の枢相再任と御前会議参列」、『栃木史学』第二十六号、2012年3月
関連項目
外部リンク
- 平沼騏一郎 | 近代日本人の肖像
- 平沼赳夫オフィシャルホームページ「平沼は語る」(平沼騏一郎に関するエッセイあり)
- 平沼騏一郎(おかやま人物往来) - 岡山県立図書館
- 平沼騏一郎関係文書 | 国立国会図書館 憲政資料室
- 平沼騏一郎 内閣 第74回帝国議会(通常会)における施政方針演説
- 平沼騏一郎 内閣 第74回帝国議会(通常会)における国務大臣の演説
- 墓所(多磨霊園)
- 墓所(安国寺)
公職 | ||
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先代: 近衛文麿 |
内閣総理大臣 第35代:1939年 |
次代: 阿部信行 |
先代: 一木喜徳郎 鈴木貫太郎 |
枢密院議長 第17代:1936年 - 1939年 第21代 : 1945年 |
次代: 近衛文麿 鈴木貫太郎 |
先代: 安井英二 |
内務大臣 第62代:1940年 - 1941年 |
次代: 田辺治通 |
先代: 倉富勇三郎 |
枢密院副議長 第11代:1926年 - 1936年 |
次代: 荒井賢太郎 |
先代: 田健治郎 |
司法大臣 第27代:1923年 - 1924年 |
次代: 鈴木喜三郎 |
先代: 松室致 |
検事総長 第8代:1912年 - 1921年 |
次代: 鈴木喜三郎 |
司法職 | ||
先代: 富谷鉎太郎 |
大審院長 第11代:1921年 - 1923年 |
次代: 横田秀雄 |
学職 | ||
先代: 松岡康毅 |
日本大学総長 第2代 : 1923年 - 1933年 |
次代: 山岡萬之助 |
先代: 創設 |
大東文化学院総長 初代 : 1923年 - 1925年 |
次代: 井上哲次郎 |
その他の役職 | ||
先代: 秋月左都夫 |
無窮會會長 第2代 : 1924年 - 1945年 |
次代: 清水澄(代表理事) |
先代: 大隈重信 |
東洋文化學會會長 第2代 : 1922年 - 1943年 |
次代: 無窮會へ合併 |
先代: 田尻稲次郎 |
修養団団長 第2代 : 1924年 - 1936年 |
次代: 二木謙三 |
日本の爵位 | ||
先代: 叙爵 |
男爵 平沼(騏一郎)家初代 1926年 - 1947年 |
次代: 華族制度廃止 |
日本国歴代内閣総理大臣 | ||||||||
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第34代 近衛文麿 |
第35代 1939年 |
第36代 阿部信行 |
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