ノモンハン事件
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座標: 東経118度38分02秒北緯47.9682度 東経118.633987度
ノモンハン事件 | |
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戦争: 日ソ国境紛争 | |
年月日: 1939年5月11日 - 9月16日 | |
場所: 満蒙国境 | |
結果: ソビエト連邦・モンゴル人民共和国の優勢[1][2] | |
交戦勢力 | |
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戦力 | |
総兵力[3] 58,000名 (内戦闘参加二万数千名)[4] 戦車92輌[5] 8月20日時点 歩兵8,000名[6] ないし5万よりはるかに少ない数[7] 戦車なし[6] 火砲70門[6] |
総兵力[8] ソ連軍69,101名 モンゴル軍8,575名 8月20日時点 総兵力51,950名[9] 火砲542門 戦車438輌 装甲車385輌 兵力比で日本軍の4倍[10] |
損害 | |
日本軍 戦死 7,696[11] 戦傷 8,647[11] 生死不明1,021[11](うち捕虜566[12]-567[13]戦後に捕虜交換で生還したもの160[14]) 戦車 約30輌 航空機 約160機 |
ソ連軍 戦死 9,703[12] 戦傷 15,952[12] 戦車・装甲車 約400輌 航空機 約360機 モンゴル軍[15] |
ノモンハン事件(ノモンハンじけん)
1939年,モンゴルと満州 (中国東北部) との国境地区で起った日本軍とソ連軍の大規模な衝突事件。結果は,日本軍の惨敗に終った。ノモンハンは満州国の西北部にあり,外モンゴルとの国境が不明確な,国境紛争の発生しやすい地帯であった。5月 11日,ノモンハン付近で満州国警備隊と外モンゴル軍が交戦したのが事件の発端になった。参謀本部と陸軍省は当初から事件不拡大の方針をとったが,現地の関東軍は中央の意向を無視して戦闘を続行,拡大し,外モンゴルとの相互援助条約に基づいて出兵したソ連軍と激戦を展開した。
7月17日の5相会議では不拡大方針と外交交渉開始が決定されたが,交渉の開始が遅れているうちに,8月下旬にはソ連機械化部隊の大攻勢が行われ,日本軍は大敗し,第 23師団は壊滅した。8月 23日,独ソ不可侵条約が締結され,9月3日にはヨーロッパで第2次世界大戦が勃発するなどの情勢下で,日本政府は東郷駐ソ大使に停戦交渉を行わせ,9月 15日の東郷大使とモロトフ外務人民委員との会談で停戦協定が成立,16日に共同声明が発表され,ノモンハン地方の国境線が画定されることになった。
脚注
- ↑ 歴代陸軍大将全覧 昭和篇/満州事変・支那事変期 187 - 191ページ
- ↑ 産経新聞2016年2月10日朝刊「ふりさけみれば」262回
- ↑ 中山隆志第9回市来会講演録「ノモンハン事件」再考2016年7月5日閲覧
- ↑ 中山隆志「第9回市来会講演録「ノモンハン事件」再考2016年7月5日」閲覧
- ↑ コロミーエツ, p. 17.
- ↑ 6.0 6.1 6.2 コロミーエツ, p. 107.
- ↑ 推定数。中山隆志「ノモンハン事件の教訓」[1]
- ↑ 秦 2014, p. Kindle版4102.
- ↑ コロミーエツ, p. 101.
- ↑ 『ノモンハン秘史 新書版』P.275
- ↑ 11.0 11.1 11.2 五味川 1978b, p. Kindle版3295.
- ↑ 12.0 12.1 12.2 三浦、ジンベルグ、岩城2009, p76
- ↑ 半藤 1998, p. Kindle版5747.
- ↑ 秦 2014, p. Kindle版3128.
- ↑ モンゴル戦史