人民寺院
人民寺院(英語: Peoples Temple、ピープルズ・テンプル)は、1955年にアメリカ合衆国インディアナ州マリオン郡インディアナポリスで創設されたキリスト教系新宗教(カルト)。創設者及び教祖はジェームス・ウォーレン・"ジム"・ジョーンズ。教団の全名は、ピープルズ・テンプル・オヴ・ザ・ディサイプルス・オヴ・クライスト(英語: Peoples Temple of the Disciples of Christ)である[1]が、一般的には、短縮形のピープルズ・テンプルで知られている。ジョーンズは、人民寺院を通じて人種平等の訴えに注力しながらも、その一方でキリスト教と共産主義や社会主義の考え方とを組み合わせた自身のメッセージを広めるために教団を使った。なお、Temple of the PeopleやPeoples Churchといった宗教団体・建築物が存在するが、人民寺院とは無関係である。
人民寺院は、1978年11月18日に南米・ガイアナでの惨劇で最も知られている。この惨劇では、実に918人もの人々が、人民寺院の開拓した辺境の町(コミューン)・ジョーンズタウンで、大量殺人、もしくは集団自殺によって命を落としたのである。同日には、アメリカ合衆国下院議員のレオ・ライアンとその代表団のメンバー4人が、ポート・カイトゥマの空港で人民寺院信者によって惨殺されている。このジョーンズタウンでの惨劇は、2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が発生するまで、アメリカ合衆国民の故殺において最多の被害者数を記録した事件であった。
教団は1960年代にカリフォルニア州へと本部を移し、州内の複数の都市に支部を設立している。その中には後に本部が置かれるサンフランシスコも含まれていた。絶頂期においては、人民寺院の信者数は20,000人[注釈 1]、左派の政治家との繋がりもあると宣伝していた。
Contents
カリフォルニア州移転前
インディアナでの創立
教団を設立する前、ジム・ジョーンズは共産主義に魅了され、アメリカ合衆国における共産主義者に対する嫌がらせにストレスをためる様になっていた[2]。この事情と、他の出来事も合わさり、ジョーンズに精神的着想をもたらした。彼は、伝記録音の中で次のように自問自答している[2][3]。
私は決意した、どうやって私のマルキシズムを実証するのかを。その考えとは、教会に潜入するということだ。だから私は意識的に、その展望を調査する決断をしたのだ。
ジョーンズは、自身が共産主義者であることによる過激な反発を恐れていたが、メソジストの教区長[注釈 2]は、ジョーンズが共産主義者であることを知っていたにも関わらず、ジョーンズが教会に所属できるように尽力し、ジョーンズを驚かせている[4]。1952年にジョーンズは学生牧師として、ソマーセット・サウスサイド・メソジスト教会(英語: Sommerset Southside Methodist Church)に所属するようになる。しかし、ジョーンズの集会にアフリカ系アメリカ人達を参加させることを教会のリーダーが禁止したことが原因となってジョーンズは同教会の牧師を辞している[3]。1954年に、ジョーンズはインディアナポリスのレンタルスペースで自身の教会の運営を開始した[3]。設立当初の名前は、コミュニティ・ユナティ・チャーチ(英語: Community Unity Church)であった[3]。
ジョーンズは、以前セブンスデー・バプテストによる心霊治療を目にし、この様な心霊治療は、人々を惹き付け、収入を生み、ジョーンズの目指す社会を実現する一助になると結論付けた[3]。結局、教団の財政が困窮しており、それを補填するためにも収入源を拡大する必要があり、ジョーンズと人民寺院信者達は、仕込みを行った心霊治療を行うに至った[3]。これらの「心霊治療」には、鶏の肝臓や他の動物の臓器が用いられていた。ジョーンズ(そして共謀した人民寺院信者達)は、肉体から取り除かれた癌に侵された臓器であると主張した[5]。
1956年、ジョーンズはインディアナポリス近郊の様々な人種の人々が住む場所に初めての教会となる建物を購入している。ジョーンズはこの教会をウィングス・オヴ・デリヴァランス(英語: Wings of Deliverance)[注釈 3]と名付けた[6]。ただし、同年終わりごろに、ピープルズ・テンプル・フル・ゴスペル・チャーチ(英語: Peoples Temple Full Gospel Church)と改名している[3]。ジョーンズが初めてピープルズ・テンプル(英語: Peoples Temple)のフレーズを使ったのがこの時である[3]。ジョーンズの心霊治療と、主張していた透視能力は、唯心論者達を惹き付ける結果となった[6]。
インディアナポリスでの拡大
一般での認知度を高めるために、人民寺院は他のペンテコステ派の牧師と共に大規模な宗教「集会」を主催した。この中でも、ジョーンズは自身の目指す社会を作り上げるために宗教を利用しているという事実をひた隠しにし続けていた[6]。この集会は、11,000人近くの参加者を集め、ジョーンズや他の説教者は心霊治療を実演していた[6]。更には、個人情報を暴露することによって、出席者に強烈な印象を残した。この個人情報は、日常的によく使う番号が使われており、例えば住所、電話番号、または社会保障番号のような物が使われたが、実際には探偵を使うことで、事前にこれらの情報は容易に手に入れることが可能だった[6]。ジョーンズと人民寺院信者は、インディアナ州とオハイオ州を車で回り、信者と資金獲得を目指した[7]。
人民寺院は、平等主義の理想を強調しており、信者達には貧しい人々でも気兼ねなく集会に参加できるように、カジュアルな服装で出席するように伝えており、恵まれない人々に避難所を提供していた[8]。人民寺院信者に占める黒人信者の割合は上昇の一途をたどり、当初全体の15%だった黒人信者の割合は50%近くに達するまでになったが、その中で、人民寺院がアフリカ系アメリカ人の聖職者アーチー・イジェムズを採用したことで、この傾向が強まった[注釈 4][6]。牧師イジェムズは、ジョーンズによる社会主義共同体計画に最初に参加した人物であった[8]。1959年、人民寺院はディサイプルス派のクリスチャン・チャーチに加入し、名前をピープルズ・テンプル・クリスチャン・チャーチ・フル・ゴスペル(英語: Peoples Temple Christian Church Full Gospel)に改名している[3]。このクリスチャン・チャーチへの加盟は、減少していた信者数を上昇に転じさせ、教団の評判を回復させるという2つ面で成功であった。
1960年2月、人民寺院は貧民向けの炊き出しを始め、家賃援助、就業先の紹介、缶詰、衣類、そして冬用の燃料の無料配布へと社会保障サービスを拡大していった[8]。ジョーンズ夫妻自身も、増大する炊き出しを助けており、1か月で平均2,800食を配布している[8]。
ジョーンズに、インディアナポリスの人権委員会への参加要請があったことで、人民寺院の知名度は更なる高まりを見せた。彼は、人種差別のないビジネスを試みることを公に約束し、多くのローカルメディアで取り上げられることになった。
変化と「宗教的共同体主義」
ジョーンズは、ファーザー・ディヴァインに関する記述を広く読み漁った[9]。このファーザー・ディヴァインは、インターナショナル・ピース・ミッション・ムーヴメントの創始者であった[9]。ジョーンズと他の人民寺院信者達は、ディヴァインの元に何度も通い、ジョーンズはディヴァインの著書や説教のテープを学んでいたという[10]。人民寺院はディヴァインの文章を信者のために書き写し、信者達に性行為を慎み、養子をとる様に説教を始めている[10]。
1959年、人民寺院のデラウェア・ストリート寺院での説法において、ジョーンズはディヴァインが用いたような炎を使った華美な方法を実践した[11]。ジョーンズは集団の前で、個々の信者に対して話を行う際には、穏やかな部分と語気を強め強調する部分を使い分けることで信者達を魅了した[11]。このスピーチでは、「我々対彼ら」という文句を基礎とした人民寺院の始まりでもあった[11]。ジョーンズは注意深く間を縫うように、人民寺院の高齢者のための家を設立した[12]。この設立の際には、カール・マルクスの「ゴータ綱領批判」より引用された「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」というスローガンを基にしていた[12]。ジョーンズは、キリスト教徒の聴衆達には、この言葉が「使徒言行録 (4:34–35)」に記述された「それぞれの必要に応じてそれぞれに分け与えられた」と類似していると気付くと考えていた[12]。ジョーンズは、イエス・キリストが共産主義者であるという一節として何度も主張していた[12]。ただし、ジョーンズはそれと同時に聖書の数多の文章に対して、攻撃を加えていた[12]。
人民寺院は、他の教会よりも多くを人々に要求するなど、組織の強化を開始した[8]。特に、神への感謝の祈りやクリスマスの際には、血の繋がった親族よりも人民寺院の「家族」と共に過ごすように要求した[8]。これは、信者を親族達から引き離すための工作の始まりであり、信者の人生全てを人民寺院の目指す社会的、政治的なゴールへと傾倒させるためのものであった[8]。ジョーンズは社会主義集団の取り決めを提案し始めた。ジョーンズ自身は「宗教的共同体主義」(英語: religious communalism)と呼んでおり、その中では、人民寺院信者達は彼らの求めるものを与える教団と引き換えに、自身の重要な財産を教団に寄付することとされていた[8]。人民寺院聖職者のイジェムスは、最初のこれに応じた人物の中の一人であった[8]。
人民寺院は、宗教と偽装されていたものの、アメリカ合衆国中西部の人々を共産主義者の理想に染め上げる様な運はほとんどなかった[13]。キューバのフィデル・カストロによる1959年のフルヘンシオ・バティスタ追放に感化され、ジョーンズは1960年にキューバへと渡った[13]。そして、キューバの貧しい黒人たちをインディアナの彼の会衆にすることを試みたが、この計画は失敗に終わった[13]。
人民寺院の宗教的なメッセージはこの時期に変わり始め、無神論とジョーンズをキリストの様な象徴的存在として扱うという主張との奇妙な折衷へと変わっていった[14]。人民寺院の補佐官が私的に苦言を呈したにもかかわらず、ジョーンズはこの新しいメッセージは、人民寺院の掲げる大義に対して、信者達が献身する心を育てるために必要なことだとして取り合わなかった[14]。ジョーンズは、この様な内容を仄めかす内容を、1970年代中盤から後半に至るまで何度も言及していた[14]。
1961年、ジョーンズはシカゴが核攻撃に曝されるという幻影を見たと発言した[15]。彼は、インディアナポリスも同様にして壊滅すると主張し、人民寺院は新しい本拠地を探す必要があると補佐官たちを説得した。
1962年にエスクァイア誌が、核戦争が勃発した際に安全な9つの場所という記事を掲載した[16]。この記事の中では、ブラジル・ミナスジェライス州のベロオリゾンテが最も安全な都市として記載されており、その理由はその地理的な特徴と大気条件にあるとしていた[16]。ジョーンズは、1962年から1963年初頭にかけて、ブラジルを縦断する旅行を行った[17]。リオデジャネイロに滞在している間、ジョーンズは寺院から資金を引き出そうとしたが、寺院側にはそれに応えるのに十分な財力は無かった[17]。ジョーンズの不在によって人民寺院の財政状態は悪化していたのである[17]。ジョーンズは、ブラジルで人民寺院の聖職者となった人物をインディアナに送り、寺院の立て直しを図った[18]。
カリフォルニア州時代
カリフォルニアへの移転
ジョーンズは1963年中にインディアナへと戻ってきた[3]。ジョーンズは、1960年代後半になるまで常々社会的福音の美徳について語っていたが、ジョーンズの語る福音が実際には共産主義であることを公にしなかった[3]。1960年代後半になると、ジョーンズは人民寺院の集会で彼の「使徒社会主義」(英語: apostolic Socialism)という考えを公にするようになった[3][19] 。この考え方は、様々な社会主義の考え方をゆるく混ぜ合わせたものであった[注釈 5]。この時期の間、ジョーンズは新しい人民寺院信者達に、聖霊は彼らの中にあると説法を行っていたが、ジョーンズの治癒力は、彼が「キリスト革命」の特別な兆候であると実物宣伝していた[3]。ジョーンズは更に、アメリカが反キリストであり、資本主義は「反キリスト教的システム」であると説いていた[3]。
ジョーンズは、差し迫った核虐殺、そして神に選ばれた生存者たちが地球に新しい社会主義者の楽園を作ると説いた[3]。1965年、ジョーンズは1967年7月15日に核攻撃が世界に起こるだろうと予言した[3]。そして、ジョーンズは、人民寺院はカリフォルニア州レッドウッド・ヴァレーに移転しなければならないとも予言した[3]。ジョーンズは、1965年7月に約140人の信者[注釈 6]を伴って、レッドウッド・ヴァレーに彼の教会を設立した[7][25]。この地区の代表弁護士・ティモシー・ストーンが、この地区の人民寺院の信頼性を大いに向上させ、急激に信者数を増やす結果となった[25]。
ジョーンズは、伝統的なキリスト教を「軽薄な宗教」であると嘲笑うようになり、聖書は女性を支配し、有色人種を奴隷にするための白人男性の正当化である見做し、拒絶した[3]。ジョーンズは、「ザ・レター・キレット」(英語: The Letter Killeth)と題された小冊子を作り、寺院で配布し始めた[26]。この小冊子では、ジョーンズが聖書内で否定的に感じたり、不条理、非道を感じた部分を指摘していたが、同時に聖書は素晴らしき真実を含んでいるとも述べていた。ジョーンズは、「神の教義」とは「愛」と同等であり、愛とは「社会主義」と同等であると説いた[3]。彼は、聖書には「天の神」(英語: Sky God)か「猛禽の神」(英語: Buzzard God)についての信仰しか含まれていない、それらは神でもなんでもないと述べていた[3]。
都市での拡大
レッドウッド・ヴァレーからユカイア地域における拡大の限界を理由に、都市部へ教会本部を移動する戦略的な必要性があった[27]。1970年に人民寺院は、サンフランシスコとロサンゼルスでの奉仕活動を始めた[28]。1971年、1972年にそれぞれの場所で拠点となる建物を建設した[27]。
1972年まで、人民寺院はレッドウッド・ヴァレーを「州全体の政治運動」の「母なる教会」と呼んでいた[27]。当初から、ロサンゼルス施設の最も重要な目的は、信者の獲得とカリフォルニア中からバスが毎週運行されるバス停の獲得であった[27]。人民寺院は、ロサンゼルスに常勤のスタッフを配置し、隔週でバスをロサンゼルスへと走らせるように変えた[27]。ロサンゼルスでの堅固な集会出席者と集金が、人民寺院信者への要求の膨張させることとなった[27]。ロサンゼルスの施設は、サンフランシスコのものよりも大きかった[27]。この施設は、アルヴァラード通りとフーヴァー通りの交点にあり、黒人信者が多数いたワッツとコンプトンからも容易に訪れることが出来る場所であった[27]。
ロサンゼルスとサンフランシスコへの信者獲得旅行は、1970年代半ばまでに数百から3000人近い信者を獲得するものとなった[29]。後に、人民寺院本部がレッドウッド・ヴァレーからサンフランシスコへと移転した際、寺院側は多くのロサンゼルス在住信者達をこの新しい寺院本部へと移住させた[27]。
組織の構造
人民寺院の記述は、ジョーンズが寺院全体に独裁的支配体制を敷いていたと強調しているが、実際には人民寺院は信者間で不平等な政策決定力を持つ複雑な権力構造を持っていた。この様な構造の中で、人民寺院信者達は、知らず知らずの内、徐々に、革命後の中国や北朝鮮から借用したマインドコントロールや行動変容技術に慣らされていった[30]。寺院は、人民寺院の「離反者」の様な教団の「敵」による、彼ら自身の危険に対する心理的境界線を厳密に定義した[30]。彼が信者獲得の中で求めた秘密事項と用心は、信者数全体を減少させる結果につながったものの、信者達は、ジョーンズが「究極の社会主義者」であるという英雄視を増長させた[30]。
1970年代、人民寺院は社会主義モデルのために、より形式ばったヒエラルキーを形作った[31]。その頂点は、教団の職員、そして人民寺院のために最重要機密を内密に行う、大学で教育を受けた確実に従順な8から10人の女性たちによって構成された選ばれたグループであった[31]。彼らは、必ず「目的は手段を正当化する」という哲学に染められていた[31]。この中で最も若い信者は、サンディ・ブロードショー[注釈 7]であった[31]。他の信者としては、キャロライン・レイトン[注釈 8]、シャロン・エイモス[注釈 9]、パティ・カートメル[注釈 10]、テリー・ビュフォード[注釈 11]がいた[31]。このグループは、平等主義の教団に在ってエリート主義であると嘲笑の対象となっており、教団の秘密警察であると見做されていた[31]。
人民寺院の計画委員会(英語: Planning Commission)は、教団の理事会であった[32][33]。この委員会の人員数は、50人から100人以上へと急増した[32][33]。1週間の間、委員会のメンバーはレッド・ウッドヴァレーの様々な場所で会合を開いた[32]。それはしばしば夜明けまで続いた[32]。この計画委員会は、日々の教会の運営に責任を持っており、その中には重要な意思決定、財政的、法的な計画、教団組織の監視までが含まれていた[34]。計画委員会は、様々な他の委員会の上に位置していた。その中には、多様委員会(英語: Diversions Committee)やマーテル委員会(英語: Mertles Committee)があった。多様委員会は、アメリカ中の様々な場所から、実在しない人物の名前を騙って大量の手紙を政治家に書くという役目を担っており[35]、マーテル委員会は離反者であるアルとジャーニのミルズ夫妻に対する地下活動を行っていた[36]。
外部の人間に「軍隊」(英語: The troops)と呼ばれていた一般の信者グループは、労働階級の信者によって構成されており、その70から80%が黒人であった[31]。そのグループは、会合の席を用意したり、供物箱の充填、その他の事を担っていた[31]。彼らの大半は、教団の半社会主義的アプローチに惹き付けられていた[31]。これは、人民寺院の政治的教育によるものと、人民寺院の非常に情熱的な集会が未だに福音主義的信者達と黒人主義を保持していたことによる[31]。ジョーンズは、何十人かのほぼ白人で構成された信者達に囲まれていた[31]。彼らは、20人から30人ぐらいおり、法律、会計、看護、教育、音楽、経営の知識、能力を持つ者であった[31]。後者のグループは、教団外の仕事によって得られる給金を教団に上納するだけでなく、公的な関係や財務義務、更には世俗的な雑用を担っていた[31]。
信者獲得、霊感療法、そして財政潤沢化
人民寺院は、10から15台のグレイハウンドタイプのバスを使って、毎週、信者獲得と財政改善のためにカリフォルニア州の北部から南部まで信者達を送り込んでいた[37]。ジム・ジョーンズはいつも7号車のバスに乗っており、そこには自警団も同乗しており、保護鉄板で仕切られた特別な場所にいた[37]。ジョーンズは、信者達に10万ドルから20万ドルの利益を得ることが出来ない限り、この旅行の行程に頭を悩ます事になると語っており、加えて教団の目標は年100万ドルの収入をこのバスによる勧誘で得ることであるとも語っていた[37]。
1970年代初めには、このバスを使ったキャラバンは、年4回ワシントンD.C.を含むアメリカ合衆国中に向かうようになった[37]。1973年6月には、下院議員のジョージ・ブラウン・ジュニアが、人民寺院についての長くて冗長な説明を連邦議会議事録の中に記載している[37]。1973年8月18日のワシントン・ポストは社説で、660人の人民寺院からの訪問者はワシントンD.C.の敷地を約1時間清掃した後、「年間の観光客賞の受賞者である」と述べた[37]。
教団は、パンフレットをバスで移動したルートにある町々で配布した[37]。このバンプレットは、ジョーンズの「心霊治療」の能力を自慢する内容が記載されていた一方で、教団の掲げるマルクス主義的目標については一切記載していなかった[37]。滞在地の中には、ヒューストンやデトロイト、クリーブランドといった都市が含まれていた[37]。教団の信者達は、地元民であるかのように装い、様々な偽りの治療や「天啓」の中でサクラを演じていた[37]。地元民の観覧者たちは、自分たちが聴衆の中で少数派であることに気付くことは無かった[37]。1週間で上納されたり治療代としての入金が、ロサンゼルスで1万5千ドルから2万5千ドル、サンフランシスコで8千ドルから1万2千ドル程度あった[38]。レッド・ウッドヴァレーの「母なる教会」周辺からはさらに少額の収入しかなかった[38]。
人民寺院は、更にトゥルース・エンタープライズ(英語: Truth Enterprise)を立ち上げた。これは、月に3万から5万通の手紙を人々に送るダイレクト・メーリング部門であった。この手紙は、人民寺院のサービスを利用したことがあるか、教団のラジオ番組を聞いて手紙を送ってきた人物に送られた[38]。募金は、アメリカ合衆国大陸部はもとより、ハワイ、南アメリカ、そしてヨーロッパから送金された[38]。募金集金に加えて、寺院はジョーンズのローブの一部や、ヒーリングオイル、指輪、キーチェーン、ロケットペンダントといった小物の販売を行っていた[38]。絶頂期には、送金額は日300から400ドルに上っていた[38]。この数字は、ジョーンズでさえも驚かすものであった[38]。
ジョーンズは、初期においては、自身をカトリックが「石膏の像を崇める」ように自身を崇拝してほしくないと信者に求めていたことから、信者達に自分自身の写真を廃棄するように依頼していた。ジャーニーとアルのミルズ夫妻[注釈 12]は、ジョーンズに人民寺院の収入を増やすために聖別され祝福された写真を販売することを提案した[38]。ジョーンズは、「やつらはいつか郵便詐欺に自分自身を巻き込むつもりだろう」とよくイラついていた[38]。1973年、寺院はブラザーフッド・レコーズ(英語: Brotherhood Records)を設立した[39]。このレコード会社は、人民寺院の「大規模な人種混合の合唱団とオーケストラ」によるレコードを作成する子会社であった[39]。
規模と範囲
人民寺院の2万人かそれ以上の信者がいるという誇張した主張に反して、ある文献では、実際に教団に登録した信者は最多でも3000人前後であったとされている[40]。しかしながら、教団が崩壊した後5000人の個人写真が寺院の記録の中に存在した[41]。公式な信者かどうかに関係なく、教団は登録された信者かどうかにかかわらず、定期的に3000人の人々を個別にサンフランシスコの奉仕に連れて行っていた[42]。政治家にとって特に興味のあることは、2000人の人々を働かせたり、6時間の集会のためだけにサンフランシスコに集めることが出来る教団の能力であった[25]。
1970年代中ごろまでに、レッド・ウッドヴァレー、ロサンゼルスとサンフランシスコに加えて、人民寺院はカリフォルニア州の他数十の町に支部を設立した[30]。ジョーンズは、サンフランシスコ、ユカイア、ロサンゼルス、ベーカーズフィールド、フレズノ、サクラメントに言及していた[43]。教団は、大学授業プログラムの様な部門や、サンタ・ローザ短期大学の寮を運営していた[44][45]。
同じ時期に、ジョーンズと彼の教会は、町々の貧しい人々、特に人種マイノリティー、薬物中毒者、ホームレスを助ける活動によって評判を受けるようになった。そして、人民寺院は、カリフォルニア州の福祉システムを強いつながりを持つようになった[46]。1970年代の間、人民寺院は少なくとも9つの介護老人福祉施設、6つの里親施設、発達障害の人々のための国家に承認された40エーカー(160,000m2)の農園を所有、経営していた[47]。教団のエリート層は、信者の保険金請求や法的問題、顧客保護グループの様な効果的演技を担っていた。これらの理由で、社会学者のジョン・ホールは、人民寺院のことを「カリスマの官僚主義」であると述べた[48]。これは、ジョーンズがカリスマリーダーとして方向づけられている一方で、官僚的社会奉仕組織として運営されていたことに由来している。
キンソルヴィングの連載
1972年、サンフランシスコ・エグザミナー誌とインディアナポリス・スター誌に、レスター・キンソルヴィングによる人民寺院に関するレポート[注釈 13]が掲載された[49]。これが、最初の公への暴露であった[49]。キンソルヴィングは、教団の取引、心霊治療の主張、ジョーンズの聖書を投げ捨てる儀式、「この黒い本にあなた方は2000年もの間抑え付けられてきたのです。これに力などないのです。」といった絶叫等、いくつかの側面からレポートを行っている[50]。人民寺院は、エグザミナー誌に策を巡らし、車の中で[注釈 14]エグザミナーの編集者を怒鳴りつけたり、両紙に対して名誉毀損訴訟による脅しをかけたりした[49]。両紙は、7編の連載の内、4編のみで連載を中断した[49]。これから少しして、ジョーンズはアメリカ合衆国憲法修正第1条を支持するという名目で、カリフォルニア州の新聞各社に助成金の交付を始めた[51]。
脱退
いくつかの脱退者が現れた[52]が、最も有名なものは1973年のものである。最も若かった信者の内8人、一般に「ギャング・オヴ・エイト」(英語: Gang of Eight)として知られる信者達が、共に教団を脱退したのである[53]。ギャング・オヴ・エイトのメンバーは、脱退の可能性がある信者に対して不吉な脅しがかけられていたことを知っていたため、ジョーンズが彼らを探すための調査団を送り込んでくるのではないかと疑っていた[53]。この恐れは現実のものとなり、ジョーンズは複数の調査団を雇用した[54]。この中には、レンタルした飛行機から高速道路を調査する様なものまであった[54]。ギャング・オヴ・エイトは、銃火器を積載した3台のトラックを、監視されている国道101号線を避けて、カナダに向かって走らせた[53]。銃火器をカナダとアメリカ合衆国の国境に持ち込むことを恐れたため、ギャング・オヴ・エイトは、代わりにモンタナ州の丘陵地へと向かい、そこで彼らの申立を記述した長い手紙を書いた[54]。
人民寺院元信者のジャーニー・ミルズは、後にジョーンズは30人の信者を自宅に招き、ギャング・オヴ・エイトの離反について予言的に宣言した。「我々の使徒社会主義の持続のために、我々は我々自身を殺して、嫌がらせによって現在においては、社会主義グループが存在出来ないという記述を残さなければならない。」[55]ジョーンズは、人民寺院の計画委員会の会合で、潜在的脱退者に対して脅迫をしながら、拳銃を振りかざし激怒していた[56]。そして、ギャング・オヴ・エイトを「トロツキー派の脱退者」や「コカ・コーラ革命者」であるとしていた[56]。人民寺院は、ジョーンズが言及した自殺計画を実行しなかったが、その後の数年間、疑似自殺儀式を行っている[55]。
サンフランシスコでの人民寺院
人民寺院はサンフランシスコへと本部を移転したが、都市での信者獲得へと回帰することが出来るようになり、加えて、人民寺院が真の政治的特徴を示すために、より良い政治的センスを醸造することも可能となった[57]。1976年春までに、ジョーンズは、外部の人間からでも彼が無神論者であると公に認められていた[58]。アメリカ合衆国内国歳入庁が寺院の宗教税金控除について調査しているという寺院側の恐れに反して、1977年にジョーンズの妻、マーシーはニューヨーク・タイムズに対して、ジョーンズは信念、マルキシズムを通じて社会変革を起こすというジョーンズの目標を実現するために宗教などに誘惑されていないと述べている[25]。彼女は、彼は18歳という若い時に、彼の英雄である毛沢東が国共内戦でナショナリストを下した時、ジョーンズはアメリカ合衆国で社会変革を達成する方法は、宗教を通じて人々を動員することであると気付いたのだと述べている[25]。彼女は、「ジムは、宗教の麻薬から人々を救い出すために宗教を使っている」と認め、「私は、この紙に書かれた偶像など滅ぼしてやる!」と叫びながら、聖書をテーブルに打ち付けたことも同時に認めた[25]。
サンフランシスコへの移転に伴って、教団は、信者達が共同体で生活していることを殊更に強調するようになった[59]。まず、子供達の物理的規範を強調し、それから大人たちも対象となった[60]。サンフランシスコの人民寺院は、広範囲な調査を行って、新しい入信者を注意深く調査した[27]。
人民寺院は、その明らかに政治的なメッセージによって、他の新宗教運動の殆どとは区別されていた[61]。真の政治的なシンパシーは、多数の著名な政治家の支持を得るために多数の投票を実現するという認識と結びつけられた[62]。ジョーンズがサンフランシスコへと移住した後、彼は政治、教団の様な政治団体を増強する様に法改正に興味があると知られるようになった[63][64]。
1975年にジョージ・モスコーニの選挙の辛勝に際して、人民寺院はボランティアや投票者を動員し、モスコーニはジョーンズをサンフランシスコ住宅公社委員会の委員長に指名した[65][66]。ジョーンズや教団は、様々な政治家のサポートを行っていたが、その中には、カリフォルニア州知事のジェリー・ブラウンや副知事のマーヴィン・ダイマリー、州下院議員のウィリー・ブラウン、サンフランシスコ市長のジョージ・モスコーニ、アート・アグノス、ハーヴェイ・ミルクがいた[67]。ウィリー・ブラウンは何度も寺院を訪れており、カルトに対する調査や疑いがかけられた後でも、ジョーンズの応援を公の場でも行っていた[68][69]。
サンフランシスコの政治サークルの中でジョーンズの地位が向上した後、ジョーンズとモスコーニは、1976年アメリカ合衆国大統領選挙前に、アメリカ合衆国副大統領候補者であったウォルター・モンデールにサンフランシスコで私的に面会している[70]。ジョーンズは、ファーストレディのロザリン・カーターに様々な場面で面会している[71][72]。その中には、私的な夕食会も含まれており、カーター夫人と文通も行っていた[71][72]。
ジョーンズは、住宅公社での地位を利用して、サンフランシスコのインターナショナル・ホテルからテナントの立退きに反対する闘争を先導した[73]。教団は、サンフランシスコのサン・レポーターの発行人であるカールトン・グッドレットと同盟を結び、この新聞において、しばしば好意的な記事が掲載されるようになった[74]。サンフランシスコ・クロニクルのコラムニスト、ハーブ・カンや、他の地方紙やテレビ番組のレポーターによる好意的言及もなされた[75]。
ジョーンズがベイ・エリアにおける急進的グループのシンバイオニーズ解放軍を賞賛し、そのリーダーがサンフランシスコの人民寺院の集会に参加したため、教団は警察の疑いの目を向けられることとなった[76]。ジョイス・ショーの脱退と、直後に彼女の夫、ボブ・ヒューストンが死亡した事で、教団への更なる疑惑が湧き出てきた。教団とサンフランシスコのネーション・オブ・イスラムとの間の緊張が高まった後、その分断を修復するために、ロサンゼルス・コンヴェンション・センターで、数千人が参加する大規模な「霊的」祝祭を開催した[77]。参加者の中には、著名な政治家も含まれていた[77]。
教団はマスコミと同盟を結んでいたが、サンフランシスコへの移転は、サンフランシスコのマスコミによる監視に教団を曝すこととなった。ジョーンズと数千の教団信者たちが、メディアからの調査に続いてガイアナへ逃げ出した後、市長のモスコーニは、市長事務所から教団への調査を行わない旨のプレスリリースを行った[63][78]。この時期の間、ハーヴェイ・ミルクは人民寺院の政治集会で公演しており、調査が始まった後には第39代大統領のジミー・カーターへ、ジョーンズを賞賛し、ジョーンズタウンから親類を連れ戻そうと試みている人々のリーダーは「厚顔無恥な嘘」をついているとの書簡を書き送っている[79][80][81]。
ジョーンズタウンでの大量殺人/集団自殺
|
1974年に人民寺院はガイアナで土地を借り受ける契約を結んでいる[82] 。この土地に作られたコミュニティは、ピープルズ・テンプル・アグリカルチュラル・プロジェクト(英語: Peoples Temple Agricultural Project)、非公式にジョーンズタウン(英語: Jonestown)と呼ばれた。1977年初頭には、50人程度の移住者しかいなかった[83]。
ジョーンズは、ジョーンズタウンを「社会主義者の楽園」であり、キンソルヴィングの記事に始まるメディアの調査からの「聖域」でもあるとみなしていた[84]。元信者のティム・カーターは、ジョーンズタウンへ移住した理由を、「74年(1974年)、アメリカ合衆国で私たちが見たものは、蔓延するファシズムだった。」と述べている[85]。カーターは、「企業、多国籍会社は、巨大になり、政府の中で影響力を増大したし、アメリカ合衆国は人種差別国家である」と説明している[85]。カーターは、教団はガイアナを「我々の黒人信者たちが平和に生活することができる黒人国家である」、「社会主義政府である」そして「南アメリカで唯一の英語が公用語の国である」と結んだ[85]。
1977年に元信者による告発によって、メディアからの監視が更に強まったことは、ジョーンズに更なる圧力を加えることになった[28]。具体的には、ニュー・ウェスト・マガジン誌に掲載されたマーシャル・キルダフによる記事が挙げられる[28]。このニュー・ウェスト・マガジン誌が出版される前に、編集者のロザリー・ライトはジョーンズに電話を掛け、その記事を彼に読み聞かせた[86]。ライトは、「カリフォルニア州知事(ジェリー・ブラウン)から我々が受け取った擁護の手紙」や他の人々からの受け取った手紙から、出版前にこのような行動を起こしたと説明した[87]。この記事での主張を電話で聞いている間、ジョーンズは部屋にいる人民寺院信者達に書付を書き、「我々は今夜発たねばならない。ジョージタウンへと」と言った[87]。
ジム・ジョーンズはガイアナへと逃れた後、教団信者達に彼に続くように呼びかけた。1978年終わりごろまでに、ジョーンズタウンの人口は900人を超すまでに増大した[83][88]。ジョーンズタウンへと移住した人々は、南国の楽園、想定された外界の邪悪から自由となることが約束された[89]。
1978年11月17日、カリフォルニア州第11区選出のアメリカ合衆国下院議員のレオ・ライアンが教団による人権蹂躙の調査のためにジョーンズタウンを訪れた[90]。この訪問の間、何人かの人民寺院信者が、ライアンにジョーンズタウンを離れたいと申し出た[91]。そしてこの信者達は、11月18日の午後、ライアンに同行しポート・カイトゥマの空港に向かった[92]。そこで、彼らは人民寺院の自警団によって襲撃された[93]。ライアン、3人のジャーナリスト、1人の教団離反者が殺害された[93]。銃撃が開始されてから数秒の映像が、ボブ・ブラウンによって撮影されていた[93]。彼は、この襲撃で殺害されたジャーナリストの1人であった[93]。
11月18日夕方、ジョーンズタウンにおいて、ジョーンズは集会を開き、ブドウ味のフレーバー・エイドとシアン化物の混合飲料を飲ませた。
- PTinGuyana Cen image001.gif
ジョーンズタウンの人口と移住者数
- Jonestown entrance.jpg
ジョーンズタウンの入り口
- Jonestown Houses.jpg
ジョーンズタウンの家並み(1979年撮影)
- Leo Ryan.jpg
余波
全体で918人が死亡し、内276人が子供であった[94]。この集団自殺は、現代における同様の惨劇の中でも最大規模のものであり、2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が発生するまで、アメリカ合衆国民の故殺において最多の被害者数を記録した事件であった[95][96][97]。この人数には、同日夜にジョージタウンの人民寺院本部で死亡した4人も含まれている[98]。
人民寺院のサンフランシスコ本部は、全国メディアやジョーンズタウンの犠牲者の親族に取り囲まれた[99]。この出来事は、ギャラップによる調査によれば、アメリカ史の中で最も知られている出来事のひとつであり、タイム誌を含む様々な雑誌の表紙や、数ヶ月間新聞の一面を飾ることとなった[100]。
加えて、様々な雑誌の取材によれば[101][102]、ジョーンズタウンでの集団自殺の後、アメリカ合衆国で生存していた人民寺院信者は、ジョーンズタウン生存者の「テロ組織」による攻撃対象になるという危険性を公表した。同様に、1979年にAP通信は、アメリカ議会補佐官の証言として、「120人の白人、ジョーンズタウンからの洗脳された暗殺者達が、殺害の指示が出るのを待っている」という記事を掲載した[103]。
人民寺院会員のマイケル・プロークスは、ソビエト連邦共産党に人民寺院の財産を詰めたスーツケースを運ぶ命令を受けていたが[104][105]、ジョーンズタウンでの集団自殺から4ヶ月が経過した1979年3月に自殺した。この自殺の数日前、プロークスは30枚に及ぶ人民寺院について書き残した書付を数人の人物に送っていた。コラムニストのハーブ・カンはサンフランシスコ・クロニクルのコラムの一部を再印刷した[106]。プロークスは、モデストのモーテルの部屋で記者会見の準備を行った。この記者会見には8人の記者が参加し、プロークスは声明を読み上げた。彼は自身の弁明を行ってから、トイレに立ち、そこで頭を撃ち抜き自殺した[106]。
この惨事の前、人民寺院信者のパウラ・アダムスは、ガイアナのアメリカ合衆国大使、ローレンス・"ボニー"・マンと恋愛小説的な縁で婚約していた[107]。アダムスは、後にマンと結婚した[108]。しかし1983年10月24日、マンはアダムスと自身の子供を射殺した後、自殺した。教団離反者のハロルド・コーデルは、この集団自殺によって、教団信者の家族20人を失っている[109]。同じく教団を離反したボグ一家は、彼らの娘マリリー(当時18歳)を失い、別の離反者ヴァーノン・ゴスニーは息子のマーク(当時5歳)を失っている[110]。
人民寺院の集団自殺は、世の中の人々に全ての新宗教が破滅的なものであるという認識を深く刻み込むこととなった。ブライアン・R・ウィルソンは、この認識に対して実際にこのような出来事を引き起こした宗教団体はたった5つに過ぎないと指摘している[111]。ウィルソンに挙げられたのは、人民寺院に加えてブランチ・ダビディアン、太陽寺院、オウム真理教そしてヘヴンズ・ゲートであった[111]。
破産と消滅
1978年の年末、人民寺院は破産を宣告され、その資産は管財人の手に渡った[112]。民事訴訟の面では、1978年12月4日に教団法人の弁護士チャールズ・ゲイリーが、人民寺院の解散を申請した。この申請は、1979年1月に開かれたサンフランシスコ上位裁判所で承認された[113]。少数の人民寺院信者がガイアナに残り、1979年5月まで残務整理を行ってから、アメリカに戻った[112]。
ロサンゼルス、インディアナポリス、そしてレッドウッド・ヴァレーにあった教団の建物は手をつけられることなく、その内いくつかは教会の集会に使われていた[112]。セントラル・スパニッシュ・セブンスデー・アドベンチスト教会は、現在、元々人民寺院のロサンゼルス支部のあった建物[注釈 15]に置かれている[114]。人民寺院のサンフランシスコ本部があった建物[注釈 16]は、1989年に発生したロマ・プリータ地震で崩壊し、現在ではアメリカ合衆国郵便公社の建物が建っている。
アメリカ合衆国下院外交委員会は、5000ページに上る人民寺院に関係するとされた文書を保有している。情報公開法によって、30年の間に複数の人物からこの情報の情報公開申請が成されたが、いずれも却下されている[115][116][117]。
関連項目
脚注
注釈
- ↑ 実証は無く、実態は3,000から5,000人程度であったとされる。
- ↑ この人物とジョーンズは、アメリカ共産党を通じて知り合った訳ではなかった。
- ↑ 「解放の翼」の意。
- ↑ ただし、イジェムズは早々に組織化された人民寺院を辞している。
- ↑ 人民寺院は設立メンバーに対して「宗教は人々を麻痺させるものだ」と公に説経していた[20]。それ故、「宗教の麻薬に麻痺している人々は、教化 - 社会主義化しなければならない[21]と言い、ついには「人々を教会へと連れて行き、その人々を無神論へと導く」と公に述べていた[22]。ジョーンズは、「もし貴方達が、この教会で、社会主義者の革命の中で生まれていたならば、あなた達は罪の中で生まれてくることなど無かったのです。あなた達が資本主義国家アメリカ、差別主義国家アメリカ、ファシスト国家アメリカで生まれたならば、あなた達は罪に塗れ、大きな張り型と共に生まれてきたのです。しかし、もし貴方達が社会主義の中で生まれてきたならば、あなた隊は罪に塗れて生まれて等来なかったのです。」などと説教をするなど、これらの考え方をしばしば混合させた[23][24]。
- ↑ 半分が黒人であった。
- ↑ ニューヨーク州シラキュース出身で24歳。
- ↑ 当時31歳で、15歳の時にジョーンズとの間に子供をもうけてから、共産主義者であった。
- ↑ 社会サービス部門で働いていた。
- ↑ ジョーンズの秘書。
- ↑ 海軍軍人の子供で平和主義者となった。
- ↑ 夫婦は後に人民寺院を離反している。
- ↑ 7編の内、最初の4編が掲載された。
- ↑ この際には、編集者は屈強な教団の「赤旅団」の警備員に挟まれて座らされた。
- ↑ ロサンゼルス・南アルヴァラード通り1366番地(1366, South Alvarado Street, Los Angeles)。
- ↑ サンフランシスコ・ギアリー・ブールバード1859番地(1859, Geary Boulevard, San Francisco)
出典
- ↑ http://jonestown.sdsu.edu/wp-content/uploads/2013/10/DissolutionPeoplesTemple.pdf
- ↑ 2.0 2.1 Jones, Jim. "Transcript of Recovered FBI tape Q 134." Alternative Considerations of Jonestown and Peoples Temple. Jonestown Project: San Diego State University.
- ↑ 3.00 3.01 3.02 3.03 3.04 3.05 3.06 3.07 3.08 3.09 3.10 3.11 3.12 3.13 3.14 3.15 3.16 3.17 3.18 3.19 Wessinger, Catherine. How the Millennium Comes Violently: From Jonestown to Heaven's Gate. Seven Bridges Press, 2000. 978-1-889119-24-3{{#invoke:check isxn|check_isbn|978-1-889119-24-3|error={{#invoke:Error|error|{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。|tag=span}}}}.
- ↑ Horrock, Nicholas M., "Communist in 1950s", New York Times, December 17, 1978
- ↑ Layton 1999, p. 65–66.
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 6.5 Reiterman 1982. p. 49–52.
- ↑ 7.0 7.1 Reiterman 1982. p. 57.
- ↑ 8.0 8.1 8.2 8.3 8.4 8.5 8.6 8.7 8.8 Reiterman 1982. p. 54–55.
- ↑ 9.0 9.1 Reiterman 1982. p. 59.
- ↑ 10.0 10.1 Reiterman 1982. p. 59 and 65.
- ↑ 11.0 11.1 11.2 Reiterman 1982. p. 60.
- ↑ 12.0 12.1 12.2 12.3 12.4 Reiterman 1982. p. 61.
- ↑ 13.0 13.1 13.2 Reiterman 1982. p. 62.
- ↑ 14.0 14.1 14.2 Reiterman 1982. p. 74.
- ↑ Reiterman 1982. p. 76.
- ↑ 16.0 16.1 Reiterman 1982. p. 77.
- ↑ 17.0 17.1 17.2 Reiterman 1982. p. 83.
- ↑ Reiterman 1982. p. 85.
- ↑ Jones, Jim. http://jonestown.sdsu.edu/?page_id=27309 "Transcript of Recovered FBI tape Q 1023."]] Alternative Considerations of Jonestown and Peoples Temple. Jonestown Project: San Diego State University. “Archived copy”. 2011年2月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2008閲覧.
- ↑ Jones, Jim. "Transcript of Recovered FBI tape Q 1053." Alternative Considerations of Jonestown and Peoples Temple. Jonestown Project: San Diego State University.
- ↑ Layton 1999, page 53
- ↑ Jones, Jim. "Transcript of Recovered FBI tape Q 757." Alternative Considerations of Jonestown and Peoples Temple. Jonestown Project: San Diego State University
- ↑ Jones, Jim. "Transcript of Recovered FBI tape Q 1053." Alternative Considerations of Jonestown and Peoples Temple. Jonestown Project: San Diego State University.
- ↑ “Archived copy”. 2011年2月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2008閲覧.
- ↑ 25.0 25.1 25.2 25.3 25.4 25.5 Lindsay, Robert. "How Rev. Jim Jones Gained His Power Over Followers." New York Times. 26 November 1978.
- ↑ Jones, Jim. "The Letter Killeth." Original material reprint. Department of Religious Studies. San Diego State University. “Archived copy”. 2011年2月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2008閲覧.
- ↑ 27.0 27.1 27.2 27.3 27.4 27.5 27.6 27.7 27.8 27.9 Reiterman 1982. page 164.
- ↑ 28.0 28.1 28.2 Kilduff, Marshall and Phil Tracy. "Inside Peoples Temple." New West Magazine. 1 August 1977 (hosted at Alternative Considerations of Jonestown and Peoples Temple. Jonestown Project: San Diego State University). “Archived copy”. 2011年1月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2006閲覧.
- ↑ Reiterman 1982. p. 156.
- ↑ 30.0 30.1 30.2 30.3 Reiterman 1982. p. 163–64.
- ↑ 31.00 31.01 31.02 31.03 31.04 31.05 31.06 31.07 31.08 31.09 31.10 31.11 31.12 Reiterman 1982. p. 156–159.
- ↑ 32.0 32.1 32.2 32.3 Reiterman 1982. p. 160–163.
- ↑ 33.0 33.1 Lewis, Mike. "Jones disciple recovers from, recalls painful past." Seattle Post-Intelligencer. 19 November 2003.
- ↑ Dickerson, Toby. “Peoples Temple (Jonestown)”. 2006年9月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2008閲覧.. The Religious Movements Homepage Project. University of Virginia. 5 February 2005.
- ↑ Layton 1999, p. 62.
- ↑ Hall 1987, p.178–184
- ↑ 37.00 37.01 37.02 37.03 37.04 37.05 37.06 37.07 37.08 37.09 37.10 Reiterman 1982. p. 166–168.
- ↑ 38.0 38.1 38.2 38.3 38.4 38.5 38.6 38.7 38.8 Reiterman 1982. p. 169–171.
- ↑ 39.0 39.1 Kilduff, Marshall and Ron Javers. Suicide Cult: The Inside Story of the Peoples Temple Sect and the Massacre in Guyana. Bantam Books, New York, 1978. 978-0-553-12920-5{{#invoke:check isxn|check_isbn|978-0-553-12920-5|error={{#invoke:Error|error|{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。|tag=span}}}}. page 42.
- ↑ Hall, John R. "The Impact of Apostates on the Trajectory of Religious Movement: The Case of the Peoples Temple", in David G. Bromley (ed.) Falling from the Faith: Causes and Consequences of Religious Apostasy. Sage Publications, 1988. 978-0-8039-3188-6{{#invoke:check isxn|check_isbn|978-0-8039-3188-6|error={{#invoke:Error|error|{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。|tag=span}}}}. page 234.
- ↑ 'The Opposition, The Returned, Crisis & White Nights', Jonestown Institute, San Diego State University, May 2008. “Archived copy”. 2011年2月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2008閲覧.
- ↑ Hall, John R. (1987). Gone from the Promised Land: Jonestown in American Cultural History. New Brunswick, New Jersey: Transaction Publishers. ISBN 978-0-88738-124-9. page 166
- ↑ Jones, Jim, FBI Tape Q 683, Jonestown Institute, San Diego State University “Archived copy”. 2011年2月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2008閲覧.
- ↑ Layton 1999, p. 53.
- ↑ Hall, John R. (1987). Gone from the Promised Land: Jonestown in American Cultural History. New Brunswick, New Jersey: Transaction Publishers. ISBN 978-0-88738-124-9. page 90-91
- ↑ Hall 1987, p. 81–82
- ↑ Hall 1987, p.82
- ↑ Hall 1987, p.95
- ↑ 49.0 49.1 49.2 49.3 Reiterman 1982. p. 211–214.
- ↑ Kinsolving, Lester. "SEX, SOCIALISM, AND CHILD TORTURE WITH REV. JIM JONES." San Francisco Examiner. September 1972.
- ↑ Reiterman 1982. p. 302–304.
- ↑ Reiterman 1982. p. 225–227.
- ↑ 53.0 53.1 53.2 Reiterman 1982. p. 224.
- ↑ 54.0 54.1 54.2 Reiterman 1982. p. 225.
- ↑ 55.0 55.1 Paranoia And Delusions, Time Magazine, December 11, 1978
- ↑ 56.0 56.1 Reiterman 1982. p. 226.
- ↑ Hall, John R. (1987). Gone from the Promised Land: Jonestown in American Cultural History. New Brunswick, New Jersey: Transaction Publishers. ISBN 978-0-88738-124-9. page 161
- ↑ Jones, Jim in conversation with John Maher. "Transcript of Recovered FBI tape Q 622." Alternative Considerations of Jonestown and Peoples Temple. Jonestown Project: San Diego State University. “Archived copy”. 2011年2月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2011閲覧.
- ↑ Reiterman 1982. page 256.
- ↑ Reiterman 1982. page 259.
- ↑ Reiterman 1982. p. 280.
- ↑ Reiterman 1982. p. 266–267 & 280.
- ↑ 63.0 63.1 Los Angeles Herald Examiner, "The Political Pull of Jim Jones", November 21, 1978
- ↑ Reiterman 1982. page 263.
- ↑ Kinsolving, Kathleen and Tom. "Madman in Our Midst: Jim Jones and the California Cover Up." 1998. Steven Alan Hassan's Freedom of Mind Center. Retrieved October 14, 2010. “Archived copy”. 2011年2月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2010閲覧.
- ↑ Jonestown: The Life and Death of Peoples Temple. PBS.org.
- ↑ Layton 1999, page 105.
- ↑ Dooley, Nancy and Tim Reiterman. "Jim Jones: Power Broker." San Francisco Examiner. August 7, 1977.
- ↑ Layton 1999, p. 105.
- ↑ Reiterman 1982. page 302.
- ↑ 71.0 71.1 Reiterman 1982. page 304.
- ↑ 72.0 72.1 Jim Jones, "Transcript of Recovered FBI tape Q 799." Alternative Considerations of Jonestown and Peoples Temple. Jonestown Project: San Diego State University. “Archived copy”. 2011年1月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2008閲覧.
- ↑ Reiterman 1982. page 282–283.
- ↑ Reiterman 1982. page 265.
- ↑ Reiterman 1982. page 285, 306 and 587.
- ↑ Reiterman 1982. page 236.
- ↑ 77.0 77.1 Reiterman 1982. page 282.
- ↑ Moore, Rebecca. A Sympathetic History of Jonestown. Lewiston: E. Mellen Press. 978-0-88946-860-3{{#invoke:check isxn|check_isbn|978-0-88946-860-3|error={{#invoke:Error|error|{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。|tag=span}}}}. p. 143.
- ↑ Coleman, Loren, "The Copycat Effect", Simon & Schuster, 2004, page 68
- ↑ Fishwick, Marshall, "Great Awakenings: Popular Religion and Popular Culture", Routledge, 1994, page 73
- ↑ Milk, Harvey. Letter Addressed to President Jimmy Carter, Dated February 19, 1978.
- ↑ Reiterman 1982. page 240–41.
- ↑ 83.0 83.1 Entry to Guyana, Alternatives Considerations of Jonestown & Peoples Temple, San Diego State University “Archived copy”. 2011年2月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2008閲覧.
- ↑ Hall 1987, p.132
- ↑ 85.0 85.1 85.2 Tim Carter. There was no choice in Jonestown that day... Oregon Public Broadcasting Radio interview. 9 April 2007. “Archived copy”. 2011年2月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2016閲覧.
- ↑ Layton 1999, page 111–116.
- ↑ 87.0 87.1 Layton 1999, page 113.
- ↑ Reiterman 1982. page 346.
- ↑ Hall 1987, p.133
- ↑ Reiterman 1982. p. 487.
- ↑ Reiterman 1982. p. 512.
- ↑ Reiterman 1982. p. 524.
- ↑ 93.0 93.1 93.2 93.3 Reiterman 1982. p. 529–531.
- ↑ “1978: Mass Suicide Leaves 900 Dead”. BBC News. (1978年11月18日) . 3 October 2011閲覧.
- ↑ Rapaport, Richard, Jonestown and City Hall slayings eerily linked in time and memory, San Francisco Chronicle, November 16, 2003
- ↑ Nakao, Annie. "The ghastly Peoples Temple deaths shocked the world." San Francisco Chronicle. 14 April 2005.
- ↑ Knapp, Don. "Jonestown massacre + 20: Questions linger." CNN.com. 18 November 1998. Retrieved 9 April 2007.
- ↑ Reiterman 1982. page 544-5.
- ↑ Reiterman 1982. p. 573
- ↑ Hall, John R. Gone from the Promised Land: Jonestown in American Cultural History. 1989. 978-0-88738-801-9{{#invoke:check isxn|check_isbn|978-0-88738-801-9|error={{#invoke:Error|error|{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。|tag=span}}}}. p. 289.
- ↑ Spencer, Duncan, "Cult's Ukiah Community in Fear of Vengeful Death Squads", Washington Star-News, November 23, 1978
- ↑ "Police Seek Out Cult 'Hit Squads'", San Francisco Examiner, November 22, 1978
- ↑ Steel, Fiona. “Jonestown Massacre: A 'Reason' to Die”. CrimeLibrary.com. 2011年2月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2007閲覧.
- ↑ Reiterman 1982. pp 561–580.
- ↑ "Letter to Feodor Timofeyev." Alternative Considerations of Jonestown and Peoples Temple. Jonestown Project: San Diego State University. “Archived copy”. 2010年8月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2012閲覧.
- ↑ 106.0 106.1 "Statement of Michael Prokes." Alternative Considerations of Jonestown and Peoples Temple. San Diego State University: Jonestown Project. Retrieved 22 September 2007. “Archived copy”. 2011年1月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2012閲覧.
- ↑ Reiterman 1982. pages 274–5 & 418.
- ↑ Weingarten, Gene. "The Peekaboo Paradox." The Washington Post. January 22, 2006.
- ↑ The Congregation of Peoples Temple. PBS.org.
- ↑ Who Died at Jonestown? Ross Institute.
- ↑ 111.0 111.1 “Why the Bruderhof is not a cult – by Bryan Wilson | Cult And Sect | Religion And Belief” (英語). Scribd. . 2017閲覧.
- ↑ 112.0 112.1 112.2 "What happened to Peoples Temple after 18 November 1978?" Alternative Considerations of Jonestown and Peoples Temple. San Diego State University: Jonestown Project. 2007-03-08. “Archived copy”. 2011年1月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2008閲覧.
- ↑ “The Court’s Wrapping-Up of Peoples Temple Affairs – Alternative Considerations of Jonestown & Peoples Temple”. jonestown.sdsu.edu. . 16 June 2017閲覧.
- ↑ Central Spanish Seventh-day Adventist Church. AdventistChurchConnect.org.
- ↑ McGehee, Fielding M. III. "Attempting to Document the Peoples Temple Story: The Existence and Disappearance of Government Records." Alternative Considerations of Jonestown and Peoples Temple. San Diego State University: Jonestown Project.
- ↑ Richardson, James. “Jonestown 25 Years Later: Why All The Secrecy?”. 2011年2月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2008閲覧.
- ↑ Taylor, Michael; Lattin, Don (1998年11月13日). “Most Peoples Temple Documents Still Sealed”. San Francisco Examiner. オリジナルの2011年2月13日時点によるアーカイブ。 . 2008閲覧.
参考文献
- Hall, John R. (2004). Gone from the Promised Land: Jonestown in American Cultural History. New Brunswick, New Jersey: Transaction Publishers. ISBN 978-0-7658-0587-4.
- Layton, Deborah. Seductive Poison. Anchor, 1999. 978-0-385-48984-3{{#invoke:check isxn|check_isbn|978-0-385-48984-3|error={{#invoke:Error|error|{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。|tag=span}}}}.
- Reiterman, Tim and John Jacobs. Raven: The Untold Story of Rev. Jim Jones and His People. Dutton, 1982. 978-0-525-24136-2{{#invoke:check isxn|check_isbn|978-0-525-24136-2|error={{#invoke:Error|error|{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。|tag=span}}}}.
- Klineman, George and Sherman Butler. The Cult That Died. G.P. Putnam's Sons, 1980. 978-0-399-12540-9{{#invoke:check isxn|check_isbn|978-0-399-12540-9|error={{#invoke:Error|error|{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。|tag=span}}}}.
- Naipaul, Shiva. Black and White. London, 1980. 978-0-241-10337-1{{#invoke:check isxn|check_isbn|978-0-241-10337-1|error={{#invoke:Error|error|{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。|tag=span}}}}.