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大谷吉継

大谷吉継
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永禄8年(1565年)※永禄2年(1559年)説も
死没 慶長5年9月15日1600年10月21日
主君 豊臣秀吉秀頼
氏族 大谷氏

大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされるが[注釈 1][注釈 2]、現存する古文書で「吉隆」と署名する文書は確認できず、いずれも「吉継」である[2]通称は紀之介、号は白頭。官途は刑部少輔で、大谷刑部(おおたに ぎょうぶ)の通称でも知られる。業病[注釈 3]を患い、眼疾のために失明して関ヶ原の戦いでは輿に乗って指揮し奮戦するが、小早川秀秋らの離反で敗戦すると家臣・湯浅隆貞の介錯で切腹して果てた[5]

生涯

出自

永禄2年(1559年)に近江国滋賀県)で生まれたとされてきたが、現在は6年後の永禄8年(1565年)を生年とする説が有力となりつつあり、その場合は享年も従来の41歳から35歳と改められることになる[6][注釈 4][注釈 5]。 父が病気治療のために豊後国に赴いてそのまま一時期、大友氏の家臣になっていた折に生まれたという説もあるが[注釈 6]、当時の大友家中に平姓大谷氏は存在せず[7][注釈 7]六角氏の旧臣・大谷吉房とする説が有力である[注釈 8]

華頂要略』の坊官大谷家系図に吉継の名があること、本願寺坊官下間頼亮室が妹であることなどから、青蓮院門跡坊官・大谷泰珍の子という説もある[8]

母が大政所ないし高台院の縁故者であったことは、すでに作者不詳の『校合雑記[注釈 9]』に記載があった[9]が、『校交雑記』が引く『兼見卿記』の確認作業により、吉継の母は高台院の取次役であった東殿であることが確定した[10][11]。 また『関原軍記大成』では東殿が高台院の生母の朝日殿の親族であったとも語られている[12]。天正14年(1586年)4月6日、大坂城へ伺候した豊後国の大友義鎮が国元の家老へ送った書状に孝蔵主とともにあえて東殿と名指しでその存在を伝えており、すなわち秀吉のくつろぐ奥御殿の次ぎの間に東殿が控えており、かなりの政治力を有していたことがうかがえ、豊臣家中で重責を担っていたといえる[13]

兄弟姉妹が存在し、栗山林斉と祐玄(祐玄坊とも)の2人の甥が記録に見える。

秀吉に仕える(織田時代)

天正始め頃に秀吉の小姓となった[注釈 10]。天正5年(1577年)10月に秀吉が織田信長から播磨国攻略を命令されて姫路城を本拠地としたとき、脇坂安治一柳直末福島正則加藤清正仙石秀久らと共に秀吉御馬廻り衆の1人として大谷平馬の名前が見える[14]。天正6年(1578年)5月4日に尼子勝久上月城において毛利輝元の軍勢に包囲されたとき、秀吉は尼子軍を救援するために出陣したが、このときに吉継も従軍している[15]

その後の三木城攻めには馬廻として従軍し、10月15日に平井山で開かれた秀吉陣中での宴にも大谷平馬として名を連ねている[16]。このときの禄は150石とも250石であったともいうが定かでない。

天正10年(1582年)4月27日、秀吉は毛利方の清水宗治が立て籠もる備中高松城を攻めた。このときも吉継は秀吉の馬廻りとして従軍している[17]。しかし、ここまでの逸話の中で『武功夜話』が根拠となっている逸話については偽書説があるために信憑性について問題がある。

その2ヵ月後の6月2日に織田信長が本能寺の変横死した。秀吉は6月13日に信長を殺した明智光秀を討ち、6月27日の清洲会議織田氏の主導権を獲得して台頭してゆく。

秀吉時代の活躍

秀吉と織田家重臣である柴田勝家の対立は決定的となり、吉継はこの時期の秀吉の美濃国侵攻にも馬廻衆として従軍した。そして天正11年(1583年)に賤ヶ岳の戦いが起こった。この時、吉継は長浜城主・柴田勝豊を調略して内応させ、合戦においても先懸衆として石田三成らと共に七本槍に匹敵する三振の太刀と賞賛される手柄を立てた[注釈 11]

天正13年(1585年)、紀州征伐においては増田長盛と共に2,000の兵を率いて従軍し、最後まで抵抗を続ける紀州勢の杉本荒法師を槍で一突きにして討ち取った武功が『根来寺焼討太田責細記』に記されている。秀吉が伊勢長島城に移った織田信雄を祝いに赴いた際にも同行している。文書の発給もこの頃から見え、称名寺へ寺領安堵状を「大谷紀之介」の名で発給している[19]

また7月以前に、キリスト教に改宗していたとされ、宣教師ガスパル・コエリョが秀吉を訪問した時には、安威了佐(あい りょうさ)[注釈 12]と共にコエリョへ果物と干柿を持参している[20]

同年7月11日、秀吉は近衛前久の猶子となって従一位・関白に叙任したが、このとき諸大夫12名を置き、吉継は従五位下刑部少輔に叙任される。これにより「大谷刑部」と呼ばれるようになる。この頃から、本来違い鷹の羽であった家紋を対い蝶に変更したという[21]。9月には秀吉の有馬温泉湯治に石田三成ら他の近臣と共に同行している[22]

天正14年(1586年)の九州征伐では、兵站奉行・石田三成の下、功績を立てた。同年、三成が奉行に任じられると、その配下として実務を担当した。毛利輝元の著した『輝元上洛日記』には天正16年(1588年)に輝元が上洛した際、世話になったり挨拶周りをした豊臣家や諸大名の名とそれぞれへの献上品が細かく記されており、下巻に大谷の名も見える。この時点で奉行格に列していたことが分かる。

天正17年(1589年)に越前国敦賀郡2万余石を与えられ、敦賀城主となる。吉継は蜂屋頼隆の築いた敦賀城(現在の敦賀市結城町、三島町)を改修したと伝わるが、吉継の前に豊臣秀勝が城主になっており、天守は秀勝時代に完成していた説もある。笙ノ川児屋ノ川の二川を境界として町立てを行い、町割を川西・川中・川東の三町に改めた。

天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍し、続いて奥州仕置にも従軍し出羽国検地を担当した。この時、蠣崎慶広と面会し、独立の承認と豊臣政権への臣従について助力を依頼されている。検地においては、配下の代官が抵抗する農民を斬ったことが発端となり一揆が発生したが、上杉景勝の支援を要請し鎮圧した。帰還後、南条郡丹生郡今立郡の村々六三か村、2万6,944石を加増され、このころにいわゆる「敦賀5万石」を領することとなる[注釈 13]

文禄元年(1592年)から始まる秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では船奉行・軍監として船舶の調達、物資輸送の手配などを務めてその手腕を発揮し、勲功を立てている。同年6月には秀吉の命令で奉行衆の一人として長谷川秀一前野長康木村重茲加藤光泰・石田三成・増田長盛らと共に渡海し、特に大谷・石田・増田の三人は秀吉の指令を受けて朝鮮諸将の指導にあたると共に現地報告を取り纏めた。との和平交渉でも、明使(謝用梓・徐一貫)を伴って石田・増田と共に一時帰国し、文禄2年(1593年)5月23日に名護屋城で秀吉と明使との面会を果たした。その後、再度朝鮮へ渡海したが、6月に晋州城攻防戦で晋州城を攻略すると戦局は和平交渉により停滞し、閏9月上旬には帰国した。最終的に決裂した和平では、明国の秀吉冊封に際し、吉継は石田三成、小西行長宇喜多秀家増田長盛とともに大都督の官位を受けることになっていた。

文禄2年の朝鮮からの帰還に際し、9月吉日付けでに大宰府天満宮に一対の鶴亀文懸鏡を奉納しており、この鏡は現存している。一つの銘には吉継の名が、もう一方の銘には「東・小石・徳・小屋」という4人の女性名が列挙されている。この東は吉継の母親の東殿であり、小石・徳・小屋については諸説あるが、吉継の家族であろうと考えられる[24]

文禄3年(1594年)には草津に湯治に赴いており、直江兼続に宛てて「眼相煩い候間、慮外ながら印判にて申し上げ候」との書状を送っている。慶長2年(1597年)9月24日、秀吉は徳川家康富田知信織田有楽斎らを伴い、伏見の大谷邸に訪問した。吉継は豪勢な饗宴で出迎えた[25]。慶長3年(1598年)6月16日の豊臣秀頼中納言叙任の祝いには病をおして参列し、秀吉から菓子を賜った[26]。慶長4年(1599年)には神龍院梵舜と女能を見物しており、病状の好転がうかがえる。

関ヶ原

慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去した後、吉継は五大老の徳川家康に次第に接近した。慶長4年(1599年)、家康と前田利家の仲が険悪となり徳川邸襲撃の風聞が立った際には、福島正則豊臣氏の武断派諸将らと共に徳川邸に参じ家康を警護している。その後、前田利長らによる「家康暗殺計画」の噂による混乱の際は、家康の命令で失脚していた石田三成の内衆と共に越前表に出兵している[27]。また宇喜多家中の紛争の調停をしている。

慶長5年(1600年)、家康は会津の上杉景勝に謀反の嫌疑があると主張して上方の兵を率い上杉討伐軍を起こした。家康とも懇意であった吉継は、所領地である敦賀・自らが代官を務める蔵入地から兵を募り、3,000の兵を率いて討伐軍に参加するべく領国を立ち、途中で石田三成の居城である佐和山城へと立ち寄る。吉継は三成と家康を仲直りさせるために三成の嫡男・石田重家を自らの軍中に従軍させようとしたが、そこで親友の三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられる。これに対して吉継は、3度にわたって「無謀であり、三成に勝機なし」と説得するが、三成の固い決意を知り熱意にうたれると、敗戦を予測しながらも息子達と共に三成の下に馳せ参じ西軍に与した(※異説有り、後述)。8月5日付の三成の書状「備えの人数書」によると、この後北国口の兵3万100の大将とされた。また大坂にいた真田昌幸の正室を預かるなど、西軍の一員としての行動を開始する。大谷氏は一族挙げて西軍につき、吉継の母・東殿は高台院の代理として宇喜多秀家が行った出陣式に出席している[注釈 14]

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関ヶ原の戦いの大谷吉継陣跡
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関ヶ原にある吉継の墓(左隣は湯浅五助の墓)
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大谷吉継の首塚(滋賀県米原市)

こうして西軍首脳の1人となった吉継は敦賀城へ一旦帰還し、東軍の前田利長を牽制するため越前国加賀国における諸大名の調略を行った。その結果、丹羽長重山口宗永上田重安らの諸大名を味方として取り込むことに成功した。さらに吉継は偽情報を流して利長を動揺させ、8月に前田軍と戦った(浅井畷の戦い[注釈 15])。

9月、吉継は三成の要請を受けて脇坂安治・朽木元綱小川祐忠戸田勝成赤座直保らの諸将を率いて美濃国に進出する。そして9月15日10月21日)、東西両軍による関ヶ原の戦いに至った。この時、吉継は関ヶ原の西南にある山中村の藤川台に大谷一族や戸田勝成・平塚為広の諸隊、合わせて5,700人で布陣する。陣中にはこの他、織田信長の子・織田信吉長次の兄弟、蜂須賀家政の重臣・高木法斎らが加わっていた。吉継は病の影響で後方にあって軍を指揮し、午前中は東軍の藤堂高虎京極高知両隊を相手に奮戦した。

正午頃、松尾山に布陣していた小早川秀秋隊1万5,000人が東軍に寝返り大谷隊を攻撃するが、初めから小早川隊の謀叛に備えていた直属の兵600で迎撃し、更に前線から引き返した戸田勝成・平塚為広と合力し、兵力で圧倒する小早川隊を一時は500メートル押し戻し2、3回と繰り返し山へ追い返したという[28]。その激戦ぶりは東軍から小早川の「監視役」として派遣されていた奥平貞治が重傷を負った(後に死亡)ことからも伺える。

しかし吉継が追撃を仕掛けたところへ、秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・朽木・小川・赤座の4隊4200人が東軍に寝返り突如反転、大谷隊に横槍を仕掛けた。これにより大谷隊は前から東軍、側面から脇坂らの内応諸隊、背後から小早川隊の包囲・猛攻を受け防御の限界を超えて壊滅、吉継は自害した。享年42もしくは36。吉継率いる大谷軍の敗北は戦場の趨勢を一変させ、西軍の諸隊に動揺を与え、西軍潰走の端緒となった。西軍の諸将の多くが戦場を離脱したにもかかわらず自害をしたのは、高台院の甥である秀秋に討たれることで、高台院への恩義に報いようとした結果の討死にではないかといわれている[29][30]。 自害した吉継の首は側近である湯浅隆貞の手により関ヶ原に埋められ(『常山紀談』)、東軍側に発見されることはなかった。異説では切腹した吉継の首を家臣・三浦喜太夫が袋に包んで吉継の甥の従軍僧・祐玄に持たせて戦場から落とし、祐玄が米原の地に埋めたとも言われる。現地には首塚も建てられている。吉継の自害後、喜太夫は追腹を切り、隆貞は藤堂隊に駆け行って討ち死にした[31][32]。居城敦賀城は家臣・蜂谷将監が東軍に引き渡しを行った。また、関ヶ原の戦い直後に勅勘が許されて京都に帰還を許された山科言経冷泉為満に与える屋敷地が公家町の中に用意できなかった徳川家康は没収していた原勝胤と吉継の母の屋敷地(公家町の北隣にあった)を両者に宛がっていることが知られる[33]

辞世は「契りとも 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」で、これは戦闘中に訣別の挨拶として送られてきた平塚為広の辞世「名のために君がため棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」への返句となっている[34]

墓所は、居城のあった福井県敦賀町永賞寺に九輪の石塔[35]岐阜県関ケ原町にも湯浅隆貞の墓と隣接して石塔が設けられ、少なくとも2ヵ所に供養塔があり、また前述のように祐玄が首を持ちかえったとされる伝承に基づく首塚が滋賀県米原市下多良に残っている。

人物

吉継の敦賀統治

吉継の敦賀入封は日本海交易の要港、北国の物資の集散地であった敦賀港を秀吉直系の家臣に掌握させることにあり、敦賀城改築の用材は秋田実季らが軍役として賦課されている。敦賀の地は吉継支配の下、北国から畿内への輸送の拠点、出兵時の物資の調達拠点として機能した。吉継は蜂屋頼隆時代から廻船屋を営む敦賀の川船座の頭分道川氏の一族・川舟兵衛三郎に間口19間、奥行10間の地子、諸役、舟三艘の役免除の特権を与えて支配体制に取り込み(天正20年2月、「道川文書」)流通を掌握した。

文禄3年(1594年)に伏見城(指月山伏見城)が築城された際の用材「太閤板」は、道川氏一族の道川兵二郎の船で秋田から敦賀経由で伏見へと送られ、同じく道川一族の越後屋兵太郎は吉継に船を提供している。この他、高嶋屋伝右衛門らの高嶋屋一族も特権を認められて吉継に協力し、慶長元年(1596年)に木幡山伏見城が築かれた際には高嶋屋久次が太閤板14間半、慶長2年(1597年)には高嶋屋良左衛門が50間を運んでいる。伏見城下においては現在の桃山町日向より北東に屋敷を構えた。

この他、慶長2年(1597年)2月に鍛冶屋の刀禰家へ地子本銭790貫文を永代免許したという記録が残り[36]、地場産業の育成を図ったことが見て取れる。

水軍も編成され、後の関ヶ原の戦い前田利長小松城を攻撃した際には、「大谷水軍が金沢を攻撃する」との噂を流させ撤退に追い込んでいる。

西福寺に対し発給した禁制など、文書も相当数が現在に伝わっている。寺社への寄進も積極的に行い、秀吉の命を受けて常宮神社を再興、氣比神宮朝鮮から持ち帰った戦利品の鐘を奉納した他、八幡神社に本殿の欄間飾りや鳥居灯篭などを寄進している。

「蓋し、吉隆、平日家臣に対して慈心深く、義をもつて之を奨励せし故、皆命を致して、其の恩に報ぜりと云う」「北国を経略し、士卒を訓練すること臂の指を使うがごとし」と言われ、家中の統制も行き届いていた。

逸話

  • 吉継が生まれる前、両親が子供が出来ないことに嘆き悲しんでおり、父の吉房が八幡神社へ参詣すると「神社の松の実を食べよ」という夢を見たという。そこで神社の松の前に落ちていた松の実を食べると吉継が生まれてきたという伝説があり、その幼名も慶松(桂松)という[37]
  • 相州正宗の作、敦賀正宗を召料としていたという。
  • 吉継は当時の仏教観で先生(せんじょう)の罪業に因する病として忌み嫌われていた癩病(ハンセン病と考えられているが、梅毒等の異説有り)を患っており、崩れた顔を白い布で覆っていたとされるが、江戸中期頃までの逸話集にはこの描写は存在しない。『関ケ原合戦誌記』『関ケ原軍記大成』などの軍記がこのイメージを広めたようである。ただし、目を病んでいたのは確かなようで、病が重篤化したと推定される文禄3年10月朔日付けの直江兼続宛書状の追伸で、目の病のため花押ではなく印判を用いたことへの断りを述べている[38]
  • 『絵本英雄美談』により、敦賀城主として剣豪・伊東一刀斎に一刀流の剣術を学んだという。一方で、婿である真田信繁も入門したとされる[39]
  • 吉継は石田三成のように最初から徳川家康を敵視しておらず、むしろ親しかったという。
    • 天正17年(1590年)、小田原征伐に赴く秀吉が駿府城に立ち寄ろうとしたとき、三成が「駿河大納言(家康)殿は北条左京(氏直)と縁戚であり、謀略があるやも知れず、入城を見合わせては」と述べた。しかし浅野長政と吉継は「大納言殿はそのようなことをされる方ではない」と反論して秀吉に入城を勧めたという[40][41]
    • 慶長5年(1600年)諸大名の反対を押し切って会津征伐を決断した家康を「まさに天下の主ともなる人だけのことはある」と高く評価している(『改訂後三河風土記』)[42]
    • 会津征伐に赴く際、近江佐和山城に立ち寄って石田三成から家康に対して挙兵に及ぶので共にしてほしいと誘われたときも、家康と三成の石高・兵力・物量の差から軍事経験の差、器量の差などを評して到底家康に勝てるわけがないと諌めている[43]
  • 石田三成との間には深い友情が存在したとされ、友情意識に疎い戦国時代においては両者の親密な関係は美事と思われ、衆道関係であったとする記録も存在している[44]。その理由として両名が同世代であり、出身も同じ近江国[注釈 16]だったためという。また秀吉は三成・吉継を「計数の才」に長けた奉行として重用しており、一緒に行動する機会が多かった[注釈 17]ことから友情を培ったのではないかといわれている[45]
    • 天正15年(1587年)6月、九州征伐を終え、筑前国筥崎に到着した秀吉の機嫌を損ねてしまった吉継は、筥崎にほど近い香椎村で蟄居していた。このとき秀吉主催の茶会があり、三成がひそかに神屋宗湛へ茶器を吉継に披露するように頼んだ。吉継はひそかに船で香椎より姪浜に渡り、興徳寺に宿を借りて茶器を鑑賞したという(『宗湛日記』)。
    • 天正15年(1587年)、大坂城で開かれた茶会において、招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶を1口ずつ飲んで次の者へ回していった。この時、吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、後の者達は病気の感染を恐れて飲むふりをするだけであったが、三成だけ普段と変わりなくその茶を飲み(一説には吉継が飲む際に顔から膿が茶碗に落ち、周りの者達はさらにその茶を飲むのをためらったが、三成はその膿ごと茶を飲み干し、おいしいので全部飲んでしまったからもう一杯茶を注いでほしいと気を利かせたとされる)、気軽に話しかけてきた。その事に感激した吉継は、関ヶ原において共に決起する決意をしたとされる[注釈 18]
    • 関ヶ原の挙兵の直前、三成の横柄さを憂慮した吉継は、「お主(三成)が檄を飛ばしても、普段の横柄ぶりから、豊臣家安泰を願うものすら内府(徳川家康)の下に走らせる。ここは安芸中納言(毛利輝元)か備前宰相(宇喜多秀家)を上に立てお主は影に徹せよ」と諫言したという[47][注釈 19]。本人を前にして「お前は横柄だから」と率直に言って諫言していることから、吉継と三成はお互いに言い合える仲であったことがわかる[48]。他にも「(三成は)智慮才覚の段に於いては天下に並ぶ者無しであるが、勇気は不足していて決断力に欠ける」と忠告している[49]
  • 自害する際、小早川秀秋の陣に向かって「三年の間に祟りをなさん」と言って切腹したが、この祟りによって秀秋は関ヶ原の戦いの2年後に狂乱して死亡に至ったという噂がある[50]

子孫

  • 子の大谷吉治は関ヶ原の戦い後に浪人となり、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では義兄弟に当たる真田信繁らとともに大坂城へ入城し、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣福井藩主・松平忠直の軍勢と戦い、討死した。その子孫は帰農したが、後に直系は絶え、杉山家より養子を迎えて存続している。
  • 大坂の陣よりのち、三男の泰重の子で吉継の孫にあたる大谷重政越前松平家に仕官し、その子孫は福井藩家老の家格に列した。老中土井利勝らはこのことを知ると、「家康公が知ったら喜んだだろう」と言ったという。
  • 娘(妹、姪を養女としたという説もある)は真田信繁の室であるというが、学説として信頼できる史料は無い。関ヶ原の戦い後は信繁の配流に従い九度山に移り大坂の役で信繁が死去すると、石川貞清の嫡男・石川重正に嫁いだ娘・おかね夫婦の援助を受け京都で余生を送った。慶安2年(1649年)に死去。信繁の子のうち幸昌守信、あくり、阿昌蒲、おかねが子とされている。なお、吉継の娘の名前は史料では確認されておらず、死後の法名・竹林院という号しか解っていない。
  • どの子の系統かは不明であるが、会津戦争に際して会津藩に組織された白虎隊士中2番隊の隊員で飯盛山で自刃したとされる19名に含まれている津田捨蔵は吉継の子孫と言われる。津田家には吉継の甲冑が伝来し、逸話を父から聞かされた捨蔵は鎧を着用すると三度宙に躍り上がり敵の首を斬る動作をしたという。

主な家臣

  • 湯浅隆貞(五助) - 近習。関ヶ原の折最後まで本陣に残った四人の家臣の一人。
  • 湯浅十郎左衛門 - 隆貞の子。後高力家に仕官した。
  • 三浦喜太夫 - 隆貞の従者。吉継の首を地中に埋めて隠した。
  • 諸角余市 - 近習。関ヶ原の折最後まで本陣に残った四人の家臣の一人。
  • 土屋守四郎 - 近習。関ヶ原の折最後まで本陣に残った四人の家臣の一人。
  • 笠井慶秀 - 武田旧臣・笠井満秀の子。関ヶ原後、日頃目をかけられていた井伊直政に召し出され仕官した。
  • 三位融盛
  • 岩田五助
  • 島信勝 -島清興の息子、軍奉行。名は清正とも。関ヶ原の戦いで藤堂隊と戦い討死。
  • 蜂屋将監 - 敦賀城留守居役。関ヶ原敗戦後、東軍に城を引き渡した。後福島正則に仕えた。
  • 蜂屋右京進 - 文禄5年(1596年)、秋田実季に対し「御橋板」受取状を発した。
  • 高橋二郎兵衛 - 同上。
  • 蜂屋市兵衛 - 老臣と目される。
  • 下河原惣左衛門 - 老臣と目される。
  • 佐久間与左衛門
  • 岩間伝五郎
  • 橋元久八
  • 岡部小衛門
  • 富永主膳
  • 中田六兵衛
  • 引塩伝右衛門 - 文禄3年(1594年)5月明の講和使節沈惟敬が来日した際「唐便萬事用所等承り、相調可申添奉行」を務めた。
  • 小岩内膳 - 同上。
  • 大滝源右衛門
  • 本多政重

このほか、蜂屋頼隆旧臣で召抱えられた者も多いと思われる。

関連作品

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よっしー(神戸市にて)
公認キャラクター
  • 敦賀城主だった大谷吉継にちなんだ「よっしー」を、敦賀市は公認キャラクターとしている。もともとは2006年に敦賀市立博物館で開かれた企画展のイメージキャラクターだったが、二年後に市の公認キャラクターに昇格し、2011年7月には着ぐるみも披露された[51][52]
書籍
  • 外岡慎一郎「大谷吉継と敦賀」(『敦賀論叢』15号、2000年)
  • 外岡慎一郎「大谷吉継と関ヶ原」(『歴史読本』49巻11号、2004年)
  • 外岡慎一郎「大谷吉継年譜と若干の考察 付・関係文書目録(稿)」(『敦賀市立博物館研究紀要』30号、2016年)
  • 外岡慎一郎「二日酔いの大谷吉継」(『日本歴史』820号、2016年)
  • 歴史読本編集部『炎の仁将 大谷吉継のすべて』(中経出版、2012年)
  • 藤本正行「関ヶ原合戦の松尾山城と大谷吉継の陣営」(『中世城郭研究』29号、2015年)
  • 井上泰至『関ケ原はいかに語られたか』(勉誠出版、2017年)
小説

脚注

注釈

  1. 関ヶ原の戦いで西軍へ加担することを決めた際に、吉継では「(三好)義継」に音が通じて不吉であるという理由で吉隆に改名したという(安積澹泊『烈祖成績』)。
  2. 関ケ原町にある吉継の墓塔は「大谷吉隆墓」として国の史跡に指定されている(国の史跡「関ヶ原古戦場」の附指定)。陣跡を示す碑に「大谷吉隆陣所古址」、墓塔の案内板に「大谷吉隆(吉継)」とそれぞれ記されている。
  3. 業病とは前世の罪の報いとして発する病気という意味で、非常に治りにくい病気・あるいは不治の病の総称として使われたが、特に相貌に著しい病変を起こすハンセン病は近代になるまで業病の一種として忌み嫌われていた[3]。吉継がハンセン病であったと断定されているわけではないが、『本願寺日記』には千人斬りで騒がれたのは吉継が癩病(らいびょう、ハンセン病のこと)の患者で人体のある部分を(食するために)必要としたのだとする説を載せている[4]。その他の病名として組織壊死まで至った末期梅毒説もある。
  4. 宮本義己も2000年9月3日、歴史シンポジウム「大谷吉継の謎に迫る」(敦賀・プラザ万象)において永禄8年説を指摘し、染谷光廣の説を補強する。
  5. 兼見卿記天正二十年一月三日 「ひかし殿子息刑部少輔廿八才」(数え年。満年齢27歳の年である)このとき吉継の母である東殿は吉田神社の神主である吉田兼見に祈祷を頼んでおり(朝鮮出兵の戦勝祈願か)、この年齢も東殿の申告である可能性が高い
  6. 太田亮の『姓氏家系大辞典』に「大谷刑部少輔吉隆は豊後の人にして」「子孫盛治の子吉隆、刑部少輔に任ぜらる」とある。『名将言行録』においても「吉隆は大友家の臣なり、大友家亡し時、浪遊し、姫路に来り、石田三成に寄り、秀吉に仕ふ」とある。『国史大辞典』では「父は豊後の国主大友宗麟の家臣大谷盛治であるといわれている」とある
  7. 毛利氏に仕えた石見益田氏の家臣に平貞経を祖とする広瀬古土居城主・匹見大谷氏があり、この匹見大谷氏の初代に「盛」の字を持つ大谷盛胤がいること、16世紀半ばの当主に姓名官途とも同じ大谷吉隆がいることから、これとの混同が生じたものと思われる。この大谷氏は毛利氏の敵対勢力に内通した疑いで主家益田氏から族滅されているが、内通した勢力が大友氏であった場合、「大友氏の家臣だった大谷氏」との俗説には「毛利氏陪臣から大友氏家臣になった」ということで説明がつくが、吉継豊後出身説の証拠とはならない
  8. 『淡海温故録』『輿地志略』で吉継は近江大谷村の出身としている
  9. 『交合雑記』『挍合雑記』とも。国立国会図書館デジタルコレクション
  10. 『淡海温故録』で「秀吉公長浜御在城の頃召出され」とある
  11. 『一柳家記』では賤ヶ岳七本槍や石田三成らと14人と共に柴田軍1万5000人相手に無類の働きをしたとある[18]
  12. 洗礼名はシモン。安威弥四郎の子。
  13. なお、慶長3年(1598年)の太閤検地により3,000石近い加増をうけるが、その際に今立郡の領地は収公されている[23]
  14. 孫の一人に大坂の役に徳川方として参陣、功を賞されて家康から50石の加増を受けた大谷隆昌(隠岐、五右衛門)がおり、判明していない一族に徳川方についた者がいた可能性はある
  15. 実際に前田軍と戦ったのは丹羽長重であるが、利長は吉継によって流された偽情報に動揺して軍を加賀に撤退させる際、丹羽軍に襲われたという。
  16. 吉継に関しては諸説があるが、『淡海温故録』は吉継を近江出身としている。尤もこの史料は吉継を若狭国小浜城主だったとしているなど信憑性が疑問視されている。
  17. 九州征伐では共に平坦奉行を務め、天正18年(1590年)の小田原征伐でも兵站奉行を、文禄の役でも「船奉行」を共に務めている。また太閤検地でも三成と検地奉行を担当しており、天正14年(1586年)に三成が堺奉行になった際には三成の補佐役に付された。天正13年(1585年)9月14日に秀吉が有馬温泉に湯治に出かけた際にも、三成や増田長盛とその供を務めている(『宇野主水日記』)。『甫庵太閤記』では「御扶持方渡し奉行」として三成と吉継、長束正家の3人を挙げている。
  18. 本郷和人によると、この逸話の典拠は不明で、江戸時代に遡ることが難しく、明治時代のジャーナリストであった福本日南が明治43年(1911年)に刊行した『英雄論』では、三成ではなく秀吉の話として載っていて、本郷は「これがぼくが知っているものとしては一番古い。もし何かソースをご存じの方、ぜひご教示下さい」と述べている[46]
  19. 大道寺友山『落穂集』では、三成に対して「殊外へいくわい(横柄)に候とて、諸大名を始め末々の者迄も日比(頃)あしく取沙汰を仕る由也」とある。

出典

  1. 花ヶ前盛明 2000, p.219
  2. 平野明夫「大谷吉継の発給文書」[1]
  3. テンプレート:Kotobank2
  4. 高柳光寿; 松平年一 『戦国人名辞典』 吉川弘文館、1981年、61頁。 
  5. 桑田忠親 『太閤家臣団』 新人物往来社、1971年、158頁。 ASIN B000J9GTRU
  6. 染谷, p. 166.
  7. 荻原勝「小瀬甫庵『太閤記』を中心とする大谷吉継の軌跡』(『敦賀論叢』2号、1987年)
  8. 外岡慎一郎「青蓮院坊官大谷家と大谷吉継-その系譜をめぐって-」(『敦賀論叢』第17号、2002年)。青蓮院坊官大谷家の系譜に大谷泰珍の子として吉継の名がみえる。
  9. 『関ヶ原合戦史料集』新人物往来社
  10. 染谷, p. 164.
  11. 宮本義己「関ヶ原合戦―西軍の孤塁を守り義に殉じた熱き闘将―」(『歴史読本』42巻7号、1997年)
  12. 外岡慎一郎「徹底検証大谷吉継の実像」(『歴史読本』54巻7号、2009年)
  13. 宮本義己「大谷刑部と豊臣秀吉」、花ヶ前盛明 2000, p.77
  14. 武功夜話』の「天正五年十月十九日、羽柴筑前守播州発向の陣立て覚えの事」
  15. 武功夜話』の「羽柴秀吉、尼子勝久を救えず上月城落城の事」
  16. 武功夜話』「播州三木城責めの事」
  17. 武功夜話』「天正十年四月、備中陣惣仕立ての覚えの事」
  18. 花ヶ前盛明 2000, p.17
  19. 『称名寺文書』、日付不詳。
  20. 五野井隆史『日本キリシタン史の研究』(吉川弘文館、2002年)185頁
  21. 『古今武家盛衰記』
  22. 『宇野主水日記』
  23. 『福井県史』通史編3 近世一 第一章/織豊期の越前・若狭 第三節/豊臣政権と若越 一/越前・若狭の大名配置 大谷吉継の敦賀入部
  24. 大谷幹伸「太宰府天満宮の鶴亀文懸鏡の願主の考察」(『歴史研究』51巻10号, p102-p105, 2009年10月)
  25. 鹿苑日録
  26. 『戸田左門覚書』
  27. 石畑匡基「秀吉死後の政局と大谷吉継の豊臣政権復帰」(『日本歴史』第772号、2012年9月)
  28. 『関原軍記大成』
  29. 宮本義己「関ヶ原合戦―西軍の孤塁を守り義に殉じた熱き闘将―」(『歴史読本』42巻7号、1997年)
  30. 宮本義己「大谷刑部と豊臣秀吉」、花ヶ前盛明 2000, pp.82-83
  31. 二木謙一『関ケ原合戦』
  32. 敦賀新聞社編、国立国会図書館デジタルコレクション 「大谷吉継の墓」 『敦賀』 山上書店、1912年http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764655/58 国立国会図書館デジタルコレクション 
  33. 登谷伸宏『近世の公家社会と京都 集住のかたちと都市社会』(思文閣出版、2015年) ISBN 978-4-7842-1795-3 P45
  34. 『常山紀談』による。花ヶ前盛明「大谷刑部とその時代」、花ヶ前盛明 2000, pp.48-49
  35. 福井県敦賀郡編、国立国会図書館デジタルコレクション 「大谷吉継の墓」 『敦賀郡誌』 福井県敦賀郡、1915年http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950917/565 国立国会図書館デジタルコレクション 
  36. 『刀根市左衛門文書』
  37. 花ヶ前盛明「大谷刑部とその時代」、花ヶ前盛明 2000, p.11
  38. 温泉草津資料
  39. 伝真田信繁写本『源家訓閲集』
  40. 池内昭一「大谷刑部と徳川家康」、花ヶ前盛明 2000, p.112
  41. 大道寺友山の『異本落穂集』
  42. 池内昭一「大谷刑部と徳川家康」、花ヶ前盛明 2000, pp.118-119
  43. 池内昭一「大谷刑部と徳川家康」、花ヶ前盛明 2000, pp.116-118
  44. 『慶長軍記』『校合雑記』
  45. 小和田哲男「大谷刑部と石田三成」、花ヶ前盛明 2000, pp.122-130
  46. 本郷和人『戦国武将の明暗』(新潮社、2015年)31-32頁
  47. 『常山紀談』より。花ヶ前盛明「大谷刑部とその時代」、花ヶ前盛明 2000, p.40
  48. 小和田哲男「大谷刑部と石田三成」、花ヶ前盛明 2000, p.132
  49. 花ヶ前盛明「大谷刑部とその時代」、花ヶ前盛明 2000, p.41
  50. 『慶長軍記』『関東軍記大成』
  51. 智と仁の将 敦賀城主 大谷吉継(中)”. 福井新聞 (2020年3月17日). . 2011閲覧.
  52. 敦賀PR「よっしー」に任せて 市公認キャラ着ぐるみ披露”. 福井新聞 (2011年7月22日). . 2011閲覧.

参考文献

  • 花ヶ前盛明編 『大谷刑部のすべて』 新人物往来社、2000年ISBN 4404028571 
  • 染谷光廣『教養講座シリーズ第50集 織田信長・豊臣秀吉』(ぎょうせい、1986年)
  • 荻原勝「小瀬甫庵『太閤記』を中心とする大谷吉継の軌跡』(『敦賀論叢』2号、1987年)
  • 宮本義己「関ヶ原合戦―西軍の孤塁を守り義に殉じた熱き闘将―」(『歴史読本』42巻7号、1997年)
  • 外岡慎一郎「青蓮院坊官大谷家と大谷吉継―その系譜をめぐって―」(『敦賀論叢』17号、2002年)
  • 石畑匡基「秀吉死後の政局と大谷吉継の豊臣政権復帰」(『日本歴史』772号、2012年)

外部リンク