ウィリアム・アダムス

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三浦按針
時代 江戸時代
生誕 1564年9月24日
死没 1620年5月16日元和6年4月24日
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康秀忠
氏族 ウィリアム氏→三浦氏

ウィリアム・アダムス(William Adams, 1564年9月24日 - 1620年5月16日元和6年4月24日))は、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人航海士・水先案内人・貿易家。三浦 按針(みうら あんじん)の日本名でも知られる。

生涯

生い立ちと青年時代

1564年イングランド南東部のケント州ジリンガムの生まれ。船員だった父親を亡くして故郷を後にし、12歳でロンドンテムズ川北岸にあるライムハウスEnglish版に移り、船大工の棟梁ニコラス・ディギンズに弟子入りする。造船術よりも航海術に興味を持ったアダムスは、1588年に奉公の年限を終えると同時に海軍に入り、フランシス・ドレークの指揮下にあった貨物補給船リチャード・ダフィールド号の船長としてアルマダの海戦に参加した。翌1589年にはメアリー・ハインと結婚し、娘・デリヴァレンスと息子・ジョンを儲けている。しかし、軍を離れてバーバリー商会English版ロンドン会社の航海士・船長として北方航路やアフリカへの航海で多忙だったアダムスは、ほとんど家に居つかなかったといわれている。

リーフデ号の航海

ファイル:LiefdeShip.jpg
17世紀のエングレービング。左から右方向にフライデ・ボートスハップ号、トラウ号、ヘローフ号、リーフデ号とホープ号

航海で共に仕事をする中でオランダ人船員たちと交流を深めたアダムスは、ロッテルダムから極東を目指す航海のためにベテランの航海士を探しているという噂を聞きつけ、弟のトマスらと共にロッテルダムに渡り志願する。航海は5隻からなる船団で行われることになっていた。

  • ホープ号("希望"の意・旗艦
  • リーフデ号("愛"の意)
  • ヘローフ号("信仰"の意・ロッテルダムに帰還した唯一の船)
  • トラウ号("忠誠"の意)
  • フライデ・ボートスハップ号("良い予兆"あるいは"陽気な使者"の意)

司令官のヤックス・マフEnglish版はアダムスをホープ号の航海士として採用する。こうして1598年6月24日、船団はロッテルダム港を出航した。

しかし航海は惨憺たる有様で、マゼラン海峡を抜けるまでにはウィリアムとトマスの兄弟はリーフデ号に配置転換されていたが、トマスが最初乗船していたトラウ号は東インド諸島ポルトガルに、フライデ・ボートスハップ号はスペインに拿捕され、1隻はぐれたヘローフ号は続行を断念してロッテルダムに引き返した。生き残った2隻で太平洋を横断する途中、ホープ号も沈没してしまい、極東に到達するという目的を果たしたのはリーフデ号ただ1隻となった。その上、食糧補給のために寄港した先々で赤痢壊血病が蔓延したり、インディオの襲撃に晒されたために次々と船員を失っていき、トマスもインディオに殺害されてしまう。こうして出航時に110人だった乗組員は、日本漂着までには24人に減っていた。

日本漂着、家康の引見

ファイル:William Adams 1707 map of Japan.jpg
1705年にオランダ・ライデンの地図出版者が作成した日本の地図、右下に将軍謁見図

関ヶ原の戦いの約半年前の1600年4月29日慶長5年3月16日)、リーフデ号は豊後臼杵黒島に漂着した。自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵城主・太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏んだ。一吉は長崎奉行寺沢広高に通報した。広高はアダムスらを拘束し、船内に積まれていた大砲火縄銃弾薬といった武器を没収したのち、大坂城豊臣秀頼に指示を仰いだ。この間にイエズス会宣教師たちが訪れ、オランダ人やイングランド人を即刻処刑するように要求している。

結局、五大老首座の徳川家康が指示し、重体で身動きの取れない船長・ヤコブ・クワッケルナックに代わり、アダムスとヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタインメルキオール・ファン・サントフォールトらを大坂に護送させ、併せて船も回航させた。

5月12日(慶長5年3月30日)、家康は初めて彼らを引見する。イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康だったが、路程や航海の目的、オランダやイングランドなどプロテスタント国とポルトガル・スペインらカトリック国との紛争を臆せず説明するアダムスとヤン=ヨーステンを気に入って誤解を解いた。しばらく乗組員たちを投獄したものの、執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺した家康は、幾度かにわたって引見を繰り返した後に釈放し、城地である江戸に招いた。

三浦按針となる

ファイル:AdamsLetter.jpg
アダムスが平戸からロンドンの東インド会社本社へ宛てた手紙の一部。1613年12月1日付け(大英図書館蔵)。

江戸でのアダムスは帰国を願い出たが、叶うことはなかった。代わりに家康は米や俸給を与えて慰留し、外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、助言を求めたりした。またこの時期に、幾何学数学、航海術などの知識を家康以下の側近に授けたとも言われている。

やがて江戸湾に係留されていたリーフデ号が沈没すると、船大工としての経験を買われて、西洋式の帆船を建造することを要請される。永らく造船の現場から遠ざかっていたアダムスは、当初は固辞したものの受け入れざるを得なくなり、伊東に日本で初めての造船ドックを設けて80tの帆船を建造した。これが1604年(慶長9年)に完成すると、気をよくした家康は大型船の建造を指示、1607年(慶長12年)には120tの船舶を完成させる[注釈 1]

この功績を賞した家康は、さらなる慰留の意味もあってアダムスを250石取りの旗本に取り立て、帯刀を許したのみならず相模国逸見采地も与えた[1]。また、三浦按針("按針"の名は、彼の職業である水先案内人の意。姓の"三浦"は領地のある三浦郡にちなむ)の名乗りを与えられ、異国人でありながら日本の武士として生きるという数奇な境遇を得たのである。のち、この所領は息子のジョゼフが相続し、三浦按針の名乗りもジョゼフに継承されている。

1613年(慶長18年)にイギリス東インド会社クローブ号が交易を求めて日本に来航した際、一行に付き添い、家康らとの謁見を実現させ、貿易を許可する朱印状を取りつけるなどの手助けをした。1614年(慶長19年)のクローブ号帰還の際には、一緒に帰国できる許可が日英両方から出たが、同船司令官のジョン・セーリスと馬が合わず、帰国を見送った。セーリスは何事も日本式を強要するアダムズが気に入らず、アダムズはセーリスを生意気で無礼な青二才として嫌っていた。一行が去ったあとは、それまで手伝っていたオランダ商館より安い賃金だったが、母国イギリス商館の仕事を手伝った。[2]

家康の死後

家康に信頼された按針だが、1616年元和2年)4月に家康が死去し、跡を継いだ徳川秀忠をはじめ江戸幕府幕臣たちの方針で貿易を平戸のみに制限し鎖国体制を敷いたため、按針の立場は不遇となった。以降の按針の役目は天文官のみとなり、幕臣や次期将軍候補の徳川家光らに警戒されながら、按針は憂鬱な状態のまま、1620年5月16日元和6年4月24日)に平戸で死去した。55歳であった。

徳川家康がアダムスを外交顧問として雇用した理由

鈴木かほるは、徳川家康がウィリアム・アダムスを外交顧問として雇用した理由は、自領の関東浦賀湊にスペイン人鉱夫を招聘し、スペイン領メキシコで行われている画期的な金銀製錬法アマルガム法を導入するためであり、その交渉にアダムスをあたらせたという新説を提唱している[3][4]。その理由として、アダムスは家康と謁見した際、日本との通商を請うたにもかかわらず、オランダとの通商が成立したのはアダムスの日本来航から9年後の慶長14年(1609年)7月、アダムスの母国イギリスとは慶長18年(1613年)8月であり、しかも、スペインのように家康からの働きかけではなく、両国の東インド会社の使節が派遣されアダムスの斡旋により成立した、いわば家康にとっては受け身であること、家康が浦賀湊の入港を指定したのはスペイン商船のみであること、そのために三浦郡浦賀邸と逸見村の采地を与えたことなどを挙げている[5]。浦賀湊にスペイン商船が入港する都度、西国から商人が浦賀に急行し、浦賀は国際貿易港として賑わい世界にその名を轟かせた。ウィリアム・アダムスのマニラ(スペイン領)交渉により浦賀フランシスコ修道院が建立され、江戸の修道院とともに関東におけるキリスト教伝播の起点となった。ウィリアム・アダムスが外交顧問としてその本領を発揮したのはこのマニラ渡海であるという[6]

夫人お雪について

帰国を諦めつつあったアダムスは、1602年(慶長7年)頃に大伝馬町名主で家康の御用商人でもあった馬込勘解由の娘・お雪(マリア)と結婚したとされてきた。しかし、馬込勘解由の娘とする説は1888年(明治21年)の「横須賀新報」、1892年(明治25年)の菅沼貞風『日本商業史』[7]が初出であり、現実的に勘解由本人の娘とは考えられず、実際の出自は不明である。また、お雪という名前も1973年(昭和48年)石一郎の小説『海のサムライ』を初出とし、牧野正『青い目のサムライ三浦按針』の英訳書を通じて誤って広まったものであり、史料上夫人の名前は残っていない[8]

彼女との間には、息子・ジョゼフと娘・スザンナが生まれている。

記念する場所・行事など

平戸

左:平戸市木引田町にある「三浦按針終焉の地」の碑
右:平戸市崎方公園にある「三浦按針之墓」。

按針は1609年(慶長14年)、平戸のイギリス商館開設に関わった。三浦按針終焉の地(平戸市木引田町431番地)には碑が立つ。

三浦按針は、平戸のイギリス商館付近にあった外国人墓地に葬られた[9]。しかしその後、キリスト教弾圧の中で平戸商館とともに外国人墓地の破壊が行われたため、埋葬地の正確な場所ははっきりしない[9]。1931年、崎方にほど近い三浦家で「安針墓」として伝えられてきた墓から、遺骨と遺品の一部が発掘される[9]。三浦家は通詞の末裔であり、ひそかに按針の遺骨の一部をもらいうけて埋葬したという口伝があった[9]

1954年(昭和29年)、イギリス商館跡近くの崎方公園(平戸市大久保町)に「三浦按針の墓」が建立された。1964年(昭和39年)、アダムスの生誕400年に際し、イングランドの妻の墓地より小石を取り寄せ、夫婦塚とした[10]。毎年5月下旬には墓前で「按針忌」が催される。

横須賀

神奈川県横須賀市逸見には三浦按針の領地があった。同地(横須賀市西逸見)にある濤江山浄土寺が三浦按針の菩提寺となっており、按針が東南アジアからもたらしたという唄多羅葉や、念持仏が納められている[11]

横須賀市西逸見町の「塚山公園」には、按針夫妻の慰霊のために作られた2基の供養塔(宝筺印塔)があり[12]、「安針塚(按針塚)」「三浦按針墓」と呼ばれる。江戸時代、三浦按針は遺言によって、江戸城を遠く望む逸見の地に葬られたと伝えられるようになった[11]。また、江戸時代後期には浄土寺や日本橋按針町の人々によって、按針の法要が行われた[11]

日本の開国後、ウィリアム・アダムスの墓探しが行われた。1874年(明治7年)、横浜に住む実業家ジェームズ・ウォルタースによって、逸見の浄土寺から古い2基の宝筺印塔が見いだされた[9][11]。このころには逸見では、これが按針に関わるものという伝承が失われていたようである[9]。ウォルタースは「按針塚」周辺の荒廃を憂いて修復を行い、横浜居留のイギリス人や地元の人々などからも支援が行われた[11]。1902年(明治35年)に結ばれた日英同盟を契機に「按針塚」周辺の大規模な整備が行われ、塚山公園が作られたが、これに際して発掘調査が行われ、埋葬地ではないことが確認された[11]1923年大正12年)3月7日、「三浦按針墓」として国の史跡に指定された。

塚山公園では第二次世界大戦以前から「按針祭」が挙行されていた。日英間で交戦状態になった第二次世界大戦期の中断を挟み、「三浦按針墓前祭」「三浦按針祭」などの名称で記念行事が行われた[13]。1997年(平成9年)以後は「三浦按針祭観桜会」の名称で、毎年4月8日[注釈 2]に挙行されている[13]

1982年(昭和57年)に横須賀市とジリンガム市は姉妹都市提携をしており、1999年(平成11年)以降はメドウェイEnglish版[注釈 3]と姉妹都市関係にある[14]

伊東

ファイル:William adams bronze ito city.jpg
三浦安針像 伊東市渚町 按針メモリアル公園 重岡建治

按針が洋式船を建造した静岡県伊東市では、「按針メモリアル公園」が作られ、銅像がある。

毎年夏には「按針祭」が開催され、日程の最後には「按針祭海の花火大会」が挙行される。

1982年(昭和57年)に伊東市とジリンガム市は姉妹都市提携をしており、1999年(平成11年)以降はメドウェイ市と姉妹都市関係にある[14]

その他

ファイル:WilliamAdamsMonument.JPG
「三浦按針屋敷跡の碑」東京都中央区
  • アダムスの江戸屋敷があった地区は按針町と呼ばれた(現在の東京都中央区日本橋室町)。同地(日本橋室町1-10-8)には、「三浦按針屋敷跡の碑」が立つ。
  • リーフデ号が漂着した大分県臼杵市佐志生海岸黒島には「三浦按針上陸記念碑」が立つ。「三浦按針記念公園」や「リーフデ号到着記念公園」が整備されている。
  • リーフデ号の船尾像であったエラスムス像は、旗本・牧野成里の手に渡り、その菩提寺である栃木県佐野市の龍江院に「貨狄尊者」として伝えられた。エラスムス像は国の重要文化財に指定され、東京国立博物館に収蔵されている。
  • 出生地であるメドウェイでは、毎年9月中旬に「Will Adams Festival」が開催される[13]

関連文献

脚注

注釈

  1. この船は1610年(慶長15年)になって、上総国御宿海岸で遭難し地元民に救助された前フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロに家康から貸し出され、サン・ブエナ・ベントゥーラと名付けられた。
  2. 後述する1982年のジリンガム市との姉妹都市提携日。
  3. 1998年、ジリンガム市と隣接するロチェスター市と合併して発足。

出典

  1. ウィリアム・アダムス(三浦按針)
  2. The voyage of Captain John Saris to Japan, 1613『ジョン・セーリス日本航海記』アーネスト・サトウ編 1900年 ロンドン刊
  3. 鈴木かほる「徳川家康の浦賀外交とその意図」『神奈川地域史研究』12号 1994年刊
  4. 鈴木かほる著『徳川家康のスペイン外交―向井将監と三浦按針』新人物往来社 2010年刊
  5. 鈴木かほる著『徳川家康のスペイン外交―向井将監と三浦按針』新人物往来社 2010年刊 110頁 
  6. スペイン外交と浦賀湊」『郷土神奈川』52号 神奈川県立図書館 2014年
  7. 菅沼貞風 『大日本商業史』 東邦協会、1892。NDLJP:994052/227
  8. 森良和「ウィリアム・アダムズの日本人妻 ―その出自と名前をめぐって―」、『玉川大学教育学部紀要』第2016号、玉川大学教育学部、2017年3月31日
  9. 9.0 9.1 9.2 9.3 9.4 9.5 宮永孝 (PDF). ウィリアム・アダムスの埋葬地は平戸か. http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/6098/1/43-3-4miyanaga.pdf . 2013閲覧.. 
  10. 三浦按針の墓”. 平戸観光協会. . 2013閲覧.
  11. 11.0 11.1 11.2 11.3 11.4 11.5 (PDF) 三浦按針と横須賀. http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0130/culture_info/documents/miura_anjin_yokosuka_h24_02ver.pdf . 2013閲覧.. 
  12. 三浦按針祭観桜会 (William Adams Cherry Blossom Party)”. 横須賀市. . 2013閲覧.
  13. 13.0 13.1 13.2 三浦按針祭観桜会 (William Adams Cherry Blossom Party)”. 横須賀市. . 2013閲覧.
  14. 14.0 14.1 姉妹(友好)提携情報”. 自治体国際化協会. . 2013閲覧.

関連項目

外部リンク