三笠宮崇仁親王
三笠宮崇仁親王(みかさのみや たかひとしんのう、1915年(大正4年)12月2日 - 2016年(平成28年)10月27日)は、日本の皇族、歴史学者(専攻は古代オリエント史)、陸軍軍人(最終階級は陸軍少佐)。大正天皇と貞明皇后の第四皇男子。昭和天皇の末弟、今上天皇の叔父にあたる。御称号は澄宮(すみのみや)。身位は親王。皇室典範における敬称は殿下。勲等は大勲位。称号は東京芸術大学名誉客員教授。お印は若杉(わかすぎ)。
「三笠宮」の宮号[注釈 1]は、1935年(昭和10年)12月2日に崇仁親王が成年式を行った際に賜ったもので、奈良市の三笠山にちなんで命名された。日本軍に従軍経験のある最後の皇族であり、日本の皇室で残っている記録としては最長寿の皇族であった(臣籍降下をした元皇族は除く)。
Contents
略歴
生い立ち
1915年(大正4年)12月2日、大正天皇と貞明皇后の第四皇男子として誕生。3人の兄は皇太子の皇子として生まれ、早くから「皇孫御殿」に引き取られて養育されたが、生まれながらの皇子である崇仁親王は、すぐ上の兄である宣仁親王から10歳年下、長兄皇太子裕仁親王から14歳年下となる末子を手元で育てたいという両親の意向が貫かれ、御所で育てられた。
学習院初等科・中等科を経て、1936年(昭和11年)に陸軍士官学校(第48期、兵科:騎兵)を卒業。大日本帝国陸軍の陸士時代には、辻政信が自ら願い出て教育を担当した。辻とはのちに同じ支那派遣軍で勤務している。在校中の1935年(昭和10年)の成年式に伴い、三笠宮の宮号を賜り、同時に大勲位に叙せられる。陸軍騎兵学校を経て、士官候補生時代に指定された原隊たる騎兵第15連隊で小隊長、続いて中隊長を務めのちに陸軍大学校(第55期)を卒業する。
1935年(昭和10年)に成人したことに伴い貴族院議員となる。下記の通り、活動実績はあまりないが、1946年(昭和21年)までの11年間に及んで議員(貴族院議員)の職を務めた。旧憲法下では、皇太子と皇太孫以外の皇族議員は満20歳になると同時に自動的に貴族院議員となることや、成年男性の皇族は原則として軍人であることから、皇族議員が議事に加わることは稀であったため、活動実績が無いことは皇族議員として一般的である。
1941年(昭和16年)10月22日、子爵高木正得の次女百合子と結婚。寬仁親王ら三男二女をもうけた。
軍人として
1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦後、陸軍大尉時代の1943年(昭和18年)1月から翌1944年(昭和19年)1月まで、コードネーム「若杉」(姓は印にちなんで作られた)として、南京市の支那派遣軍総司令部に勤務。三笠宮は「日本軍は中華民国との戦争が長引き戦闘が泥沼状態になっており、軍紀が乱れている者が一部いる事を深く反省すべきである」と畑俊六総司令官に言い、対中政策のブレーキ役となった[1]。
総司令部は、着任に際して部隊内に通達を出し、勤務中の接遇及び食堂での食事の際の礼遇について周知している。若杉の正体は陸軍省上層部に秘匿されていたため、部内にはかなり後期まで若杉が三笠宮であることを知らない者も多かった。支那派遣軍勤務中には、中国語のエキスパートであった通訳の木村辰男から中国語と中国事情を学んでいる。また、中国共産党の八路軍に興味を持ったことは、後のオリエント考古学への関心に影響を与える[2]。その後、大本営参謀に転出。
日本帰国後、戦争終結を摸索し、同僚の津野田知重陸軍少佐らと共に東條内閣打倒のクーデター計画を立てるが、東條英機暗殺、主戦派数百名大量粛清などその過激な内容に躊躇し、自ら憲兵隊に通報。津野田らは逮捕され、クーデター計画は未遂に終わった。成功時には支那派遣軍総司令官の職に就く予定であったと言われる(津野田事件)。
事件への関与は明白ではあったが不問に付され、1944年(昭和19年)9月、願い出て陸軍機甲本部付に異動。津野田はじめ他の将校も軽い処分で済まされた。こうした経緯があったためか、1945年(昭和20年)4月に長兄・昭和天皇に対面を願い出た時には「何を言うつもりなのかな」と天皇が不安がったとも言われる。終戦時の階級は陸軍少佐・航空総軍参謀であった。1945年(昭和20年)8月12日に皇族会議が召集されて、昭和天皇が終戦の決意を語り、三笠宮は「忠実に実行したい」と語った。8月13日に陸軍大臣阿南惟幾が昭和天皇に徹底抗戦に翻心させようと三笠宮に説得を願い出たが「陸軍は陛下の大御心に反する」と断り、阿南を叱責した[3]。
戦後
3人の兄たちとは年齢も離れており、四男として皇位継承の可能性も低かったことから、かなり自由な立場で行動した。
1946年(昭和21年)5月23日、貴族院議員を辞職[4]。1947年(昭和22年)4月に東京大学文学部の研究生となり、歴史学を学んだ(専攻はオリエント史)。1955年(昭和30年)には東京女子大学で講師として教育に当たり、一般人に混じり学生食堂でうどんをすすった他、青山学院大学、専修大学、天理大学、拓殖大学でも教壇に立ち、日本オリエント学会の会長も務めた[5]。1979年(昭和54年)、出光佐三(出光興産創立者)の協力を得て、東京都三鷹市に『中近東文化センター』を設立し、同センター総裁を長く務めた。また佐三が中心となってすすめた福岡県宗像市にある宗像大社の神領、沖ノ島祭祀遺跡の調査が行われた際には立ち会っている。この時に宗像大社沖津宮の前に、槙の木を植樹している。
2006年(平成18年)に同センター図書室がリニューアルオープンした際には、その功績を記念して「三笠宮記念図書館」と命名された。1991年(平成3年)にはフランスの「碑文・文芸アカデミー」の外国人会員に就任、また1994年(平成6年)6月にはロンドン大学東洋アフリカ研究学院の名誉会員に就任した。
1950年代後半から『紀元節』(神武天皇即位紀元に基づき、初代・神武天皇が即位したとされる西暦紀元前660年2月11日を「日本建国の日」とする)の復活への動きが具体的なものになってくると、考古学者・歴史学者としての立場から『神武天皇の即位は神話であり史実ではない』として、「神話」と「史実」は切り離して研究されるべきと強く批判し、積極的に「紀元節復活反対」の論陣を張った。編著『日本のあけぼの』は、このときに刊行されたものである。このため「赤い宮様」と渾名された。
一方で、復活を推進する人々は三笠宮を激しく非難し、なかでも里見岸雄や野依秀市は、三笠宮を「無責任」「非常識」「左翼」と批判し、皇族の身分を離れることを要求する著作を公表している。右翼団体の構成員が宮邸に押しかけて、面会を強要した事件も起きている[6]。結果的には、『紀元節』という元来の呼称は使用されなくなったものの、国民の祝日の一つとして、「2月11日を建国記念の日とする」ということが制定された。
90歳前後あたりから、心臓の僧帽弁に異常が見つかり、度々僧帽弁閉鎖不全で入退院することがあった。
2012年(平成24年)6月14日に、長男の寛仁親王の斂葬の儀(葬儀)に出席した翌日の6月15日に体調を崩し、聖路加国際病院に入院した。当初は過労によるものと診断され、1週間の入院の予定だったが、僧帽弁閉鎖不全のため心機能と血圧が低下し、改めて鬱血性心不全と診断された。7月2日には集中治療室に入り、7月11日に川副浩平による手術を受けた。その後再び集中治療室で治療を受け、8月31日に退院した[7]。11月21日には、高円宮邸で行われた三男の高円宮憲仁親王十年式年祭霊舎祭に出席し、退院後はじめて公の場に姿を現した。
2014年(平成26年)6月17日に行われた二男の桂宮宜仁親王の斂葬の儀では、孫である寬仁親王第一女子の彬子女王が喪主代理となり、三笠宮は車椅子で参列し拝礼した[8]。
2015年(平成27年)12月2日、紀寿(満100歳)を迎え[9]、同時に確かな記録の残る皇族としては初めて100歳となった[9][注釈 2]。
薨去
2016年(平成28年)10月27日8時34分、東京都中央区の聖路加国際病院で心不全のため薨去[10][11][12][13]、享年102(満100歳)。皇位継承順位は第5位であった[13]。
11月4日、葬儀にあたる斂葬の儀が豊島岡墓地で行われた[14]。喪主は百合子妃が務め、司祭長は自身が名誉総裁を務めた日本・トルコ協会の東園基政常任理事が務めた。天皇・皇后は慣例により参列せず、使者として河相周夫侍従長が拝礼した[15]。告別式にあたる葬場の儀には600人が、当日行われた一般参拝には、1335人が参列した[16][17]。午後、新宿区内の落合斎場で火葬され、豊島岡墓地[14]にある寛仁親王、桂宮宜仁親王、高円宮憲仁親王の墓の近くに埋葬された。
栄典
皇族議員として
1935年(昭和10年)に満20歳に達し、男子の皇族である為、貴族院令の規定により自動的に貴族院の皇族議員となる。皇族議員である為、普通選挙を経ずに議員となった。上記の通り軍人としても活動しており、軍人の政治的関与を好ましくないとする慣例や、皇族議員はほとんど貴族院に出席しないことから、実際の議員としての活動はほぼ見られない。
1946年(昭和21年)10月29日、枢密院本会議において、日本国憲法制定の採決が行われた際、GHQによるマッカーサー憲法であり日本人の手によるものではないとして、採決を棄権した。一方で、日本国憲法第九条の非武装中立については支持した[20][注釈 3]。
また、所在が明確かつ存命であった最後の貴族院議員の経験者であり、また最後の帝国議会議員経験者であった。
人物
- 幼少時より文才を認められ「童謡の宮さま」と呼ばれた。大正時代の詩作品には作曲家によって曲がつけられ、レコードも発売されている。また1957年(昭和32年)に百合子妃と共に『句集 初雪』(新樹社、著名は三笠宮若杉・ゆかり)を出した。
- 日本レクリエーション協会総裁として、『レクリエーション随想録』(非売品、1998年)を出している。
- 古代オリエント史、特にアナトリア考古学を専門とする歴史学者として知られ、長らく東京女子大学、拓殖大学などで古代オリエント史の講義を担当、「宮さま講師」と通称された。社団法人日本オリエント学会設立にかかわり、同学会会長を務めた。同学会では三笠宮オリエント学術賞が創設された。ほかに岡山市立オリエント美術館名誉顧問なども務めた[注釈 4]。
- 財団法人中近東文化センター(東京都三鷹市)の設立にも尽力。また同センター総裁として、トルコ共和国でのカマン・カレホユック遺跡の発掘調査を進め、近年は現地における常設の研究機関アナトリア考古学研究所の建設を進めている。ちなみに、同センターが所在している東京都三鷹市には、兄・高松宮宣仁親王が設立準備委員会の名誉総裁を務めた国際基督教大学(ICU)もあり、同大学には、甥にあたる今上天皇の孫で、皇太子徳仁親王の弟宮である秋篠宮文仁親王・同妃紀子の長女・眞子内親王と次女・佳子内親王の姉妹が在籍・通学しており、三笠宮・高松宮・秋篠宮と皇統直系の3直宮家に属する、実に3人もの皇族と関わりの持つ、ミッション系大学となった。
- 陸軍時代に支那派遣軍に在籍していた関係から、日中国交回復前夜には中国の招請を受けた。語学にも堪能であり、流暢な中国語・ヘブライ語を操る。学術関係の公務において他の皇族と同席する機会も多い。
- 『東方学回想 VIII 学問の思い出〈3〉』(刀水書房、2000年)に、護雅夫・中根千枝ら5名と座談会で回想がある[注釈 5]。
- 鉄のカーテンと竹のカーテンになぞらえて「菊のカーテン」という言葉を最初に使ったとされている[21]。
- 私的な旅行であるにもかかわらず、過度に丁重な儀礼的な扱いを受け、外出が嫌になったことを挙げ、公私の区別を明確にした対応を希望すると述べたことがある[22]。
- 終戦後の心境として「不自然きわまる皇室制度」「『格子なき牢獄』から解放された」ので生活環境が激変したと述べている。エピソードとしては、30歳になって独りで誰にも気付かれず、町歩きをしたことを挙げている[23]。
- 上述のように、公私に渡って皇族として特別扱いされることを強く不満に思っていたが、帝国陸軍においては、一般将兵と全く同じ待遇をされることを喜び、週番勤務(週番士官)時など、自由な軍隊生活を非常に楽しんでいた。
- 太平洋戦争については「1943年1月、私は支那派遣軍参謀に補せられ、南京の総司令部に赴任しました。そして1年間在勤しました。その間に私は日本軍の残虐行為を知らされました」[25]「聖戦という大義名分が、事実とはおよそかけ離れたものであったからこそ、そして、内容が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないかということである」「こうして聖戦に対する信念を完全に喪失した私としては、求めるものはただ和平のみとなった」[26]などと述懐している。
- 1971年(昭和46年)に、イランのアケメネス朝建国2500周年を祝ったイラン建国二千五百年祭典に夫人とともに日本を代表して出席した。
系譜
三笠宮崇仁親王 | 父:大正天皇 | 祖父:明治天皇 | 曾祖父:孝明天皇 |
曾祖母:中山慶子 | |||
祖母:柳原愛子 | 曾祖父:柳原光愛 | ||
曾祖母:長谷川歌野 | |||
母:貞明皇后 | 祖父:九条道孝 | 曾祖父:九条尚忠 | |
曾祖母:唐橋姪子 | |||
祖母:野間幾子 | 曾祖父:野間頼興[27] | ||
曾祖母:不詳 |
系図
122 明治天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
123 大正天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
124 昭和天皇 | 秩父宮雍仁親王 | 高松宮宣仁親王 | 三笠宮崇仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
125 今上天皇 | 常陸宮正仁親王 | 寛仁親王 | 桂宮宜仁親王 | 高円宮憲仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
皇太子徳仁親王 | 秋篠宮文仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
悠仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
子女
- 甯子内親王 やすこ:1944年(昭和19年)4月26日 - (78歳) - 近衛忠煇夫人
- 寬仁親王 ともひと:1946年(昭和21年)1月5日 - 2012(平成24年)6月6日、満66歳没
- 宜仁親王 よしひと:1948年(昭和23年)2月11日 - 2014年(平成26年)6月8日、満66歳没 - 桂宮
- 容子内親王 まさこ:1951年(昭和26年)10月23日 - (71歳) - 裏千家家元:千宗室夫人
- 憲仁親王 のりひと: 1954年(昭和29年)12月29日 - 2002年(平成14年)11月21日、満47歳没 - 高円宮
2人の兄である秩父宮と高松宮は子どもがいないまま薨去したのに対し、三笠宮は長兄である昭和天皇同様に多くの子どもに恵まれた。しかし、敗戦後は、発足の遅かった三笠宮家は秩父宮・高松宮両家よりも資産に恵まれないなかで多くの子を育てざるを得ず、皇族としての格式を保つには苦心があった。
三笠宮の子孫は女性の比率が高い。他家に嫁ぎ民間人となった2人の皇族外の息女に産まれた孫は4人中3人が男性であるが、3人の親王のうち結婚した2人と各親王妃との間に生まれた計5人の子も皆、女子ばかりで、男子の孫は1人も生まれることなく、皇族の身分を有する者は女性のみで、現行制度では三笠宮家を継承する資格がない。その上、第三男子・高円宮憲仁親王が2002年(平成14年)に心室細動による急性心不全で薨去。長年にわたり癌を患っていた第一男子・寛仁親王も2012年(平成24年)に多臓器不全で薨去。さらに、同じく長年にわたり病弱であった第二男子・桂宮宜仁親王も2014年(平成26年)に急性心不全で薨去し、三笠宮は自身よりも若年の男子3人全員に先立たれる不幸に見舞われた。そして2016年(平成28年)に三笠宮自身も薨去し、三笠宮家の廃絶が確定した。
孫が9人(うち皇族女子4人、婚姻により皇籍を離脱した女子1人)、曾孫が4人いる(4人とも最年長の孫近衛忠大の子)。
逸話
- 浪花節を好み、戦前の宮邸には数百枚に及ぶ浪花節のレコードが秘蔵されていたという。このコレクションは空襲で焼失している。
- 日中戦争当時、進駐先で、事態が未だに解決しない理由について全員(およそ200人)に自由記述で答案を書かせた後、“日本人が真の日本人たり得ていないから”と答えた一人のみを及第判定。「そのとおりだ。皇軍がその名に反する行為(暴行略奪など)をしている、これでは現地民から尊敬などされるわけがない。今の皇軍に必要なのは装備でも計画でもない、“反省”だ。自らを顧み、自らを慎み、一挙一動が大御心に反していないかを自身に問うこと」と部下達を叱りつける。居並ぶ一同は三笠宮の叱咤に言葉がなかったという[注釈 6]。戦後には著書『古代オリエント史と私』の文中や、日中戦争時の南京事件についてインタビューを受け、捕虜の殺害に関して述べている。
最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係ありません。私が戦地で強いショックを受けたのは、ある青年将校から「新兵教育には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばんよい。それで根性ができる」という話を聞いた時でした。それ以来、陸軍士官学校で受けた教育とは一体何だったのかという懐疑に駆られました。また、南京の総司令部では、満州にいた日本の部隊の実写映画を見ました。それには、広い野原に中国人の捕虜が、たぶん杭にくくりつけられており、また、そこに毒ガスが放射されたり、毒ガス弾が発射されたりしていました。ほんとうに目を覆いたくなる場面でした。これこそ虐殺以外の何ものでもないでしょう。しかし、日本軍が昔からこんなだったのではありません。北京駐屯の岡村寧次大将などは、その前から軍紀、軍律の乱れを心配され、四悪(強姦、略奪、放火、殺人)厳禁ということを言われていました。私も北京に行って、直接聞いたことがあります。 — 「THIS IS 読売」 1994年8月号 「闇に葬られた皇室の軍部批判」より 聞き手は中野邦観・読売新聞調査研究本部主任研究員
- 「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を、私は経験してきた」と自らが生きた時代を振り返っている[28]。
- 「東大新聞」に「天皇は国家最高の公僕なのだから、むしろ陛下に御発声願って、国民万歳を唱えるようなことがあってよい」と書いたことがある[29]。
- 「文藝春秋」の1951年(昭和26年)12月号でのイギリス人女性との対談では「天皇への敬礼は強制さるべきではなく、各人の判断のままでよい。頭を下げる人、手を振る人、あるいは知らん顔をしたり、最悪の場合には『赤んべえ』をしていても、ちっとも構いません」と発言[30]。この直後、昭和天皇の京都大学巡幸では、京大天皇事件が発生し、学生はさっそく「あかんべえ」をして昭和天皇を迎え、宮内庁を狼狽させた[30]。
- 長兄である昭和天皇に、然るべき礼を尽くすこと、皇太子との身分差などについて十分理解していると発言をしたとされる。
- 日中国交回復前の1970年代前半には、結局実現しなかったが訪中が打診されたことがある。
- 江沢民の回顧録に、1998年(平成10年)、中華人民共和国国家主席の江沢民が来日した際に、宮中晩餐会に同席して「今に至るまでなお深く気がとがめている。中国の人々に謝罪したい」と発言したとの記述がある[31][20]。
- 戦後間もない頃、ブラジルに移住した日本人の間で、日本の降伏を認めた「負け組」とそれを認めない「勝ち組」に分裂し、抗争問題に発展していた。移民五十年祭を開く際も、勝ち組は非協力的であったが、皇族である三笠宮が式典に出席すると分かると事態は一変、双方の協力体制が布かれ、以後和解に進んでいった。
「三笠宮双子説」をめぐって
京都華族の山本實庸子爵の末子として育てられた奈良円照寺門跡・山本静山(1916年(大正5年) - 1995年(平成7年)、俗名・絲子)が、実は三笠宮の双子の妹だったと河原敏明が主張した。これは1979年(昭和54年)に『週刊大衆』に掲載された。宮内庁側は無視していたが、1984年(昭和59年)1月になって再度取り上げられ、今度は大きな話題となったため、同年1月20日、この説を全面的に否定する声明を発表した。河原に対し、山本本人は直接「デマです」と否定し、また河原に有力証言者とされた末永雅雄は、証言そのものの存在を否定した[32]。
河原の「皇室が双子を忌み嫌う」という主張に関しては、近代以降も伏見宮家の敦子女王・知子女王姉妹(1907年(明治40年)生)が双子として生まれ、共に成長した事例があり、宮内庁も反証として挙げた。
なお、三笠宮夫妻も後年になって、『母宮貞明皇后とその時代』(工藤美代子著、中央公論新社)中のインタビューで双子説を否定した。ただし『高松宮日記』昭和15年11月18日条には「15時30分 円照寺着。お墓に参って、お寺でやすこ、山本静山と名をかへてゐた。二十五になって大人になった」とある。円照寺は有栖川宮ゆかりの寺院のため参拝自体は不思議でないが、高松宮にとって「山本静山」が「やすこ」という名の特別な人物であったことが窺われる。
著書
- 単著
-
- 『帝王と墓と民衆 - オリエントのあけぼの(付・わが思い出の記)』(カッパブックス:光文社、1956年)
- 巻末に附載された「わが思い出の記」は、1956年までの自叙伝。
- 『乾燥の国 - イラン・イラクの旅』(平凡社、1957年)
- 『大世界史1 ここに歴史はじまる』文藝春秋、1967年
- 『生活の世界歴史 1 古代オリエントの生活』河出書房新社、1976年 のち文庫
- 『古代オリエント史と私』(学生社、1984年)
- 『古代エジプトの神々 - その誕生と発展』(日本放送出版協会、1988年)
- 『レクリエーション随想録』日本レクリエーション協会、1998年3月
- 『文明のあけぼの - 古代オリエントの世界』(集英社、2002年)
- 『わが歴史研究の七十年』(学生社、2008年)
- 『帝王と墓と民衆 - オリエントのあけぼの(付・わが思い出の記)』(カッパブックス:光文社、1956年)
- 訳書
- 編著・監修書
- 記念論集
-
- 『オリエント学論集 三笠宮殿下還暦記念』日本オリエント学会編. 講談社、1975年
- 『オリエント学論集 三笠宮殿下古稀記念』日本オリエント学会編. 小学館、1985年12月
- 『三笠宮殿下米壽記念論集』三笠宮殿下米寿記念論集刊行会編著 刀水書房、2004年11月
脚注
注釈
- ↑ 内閣告示や宮内庁告示等の表記では、皇族に宮号が冠されることはなく(「皇太子」を除く)、それらの告示が掲載される官報では、「崇仁親王」と表記される。一方、同じ政府による表記でも、国民一般向けのウェブページなどでは、宮号を用いて表記される。皇室典範に定める敬称は殿下。
- ↑ 臣籍降下後に100歳を迎えた元皇族(例:東久邇稔彦、東伏見慈洽)を除く。
- ↑ 棄権者は三笠宮を含めて2名で、もう一人は大日本帝国憲法を支持する立場から日本国憲法の制定に反対していた美濃部達吉。
- ↑ 日本オリエント学会編で、『オリエント学論集 三笠宮殿下還暦記念』(講談社、1975年)と『オリエント学論集 三笠宮殿下古稀記念』(小学館、1985年)が、大著で『三笠宮殿下米壽記念論集』(刀水書房、2004年)が刊行されている。
- ↑ 非売品で、作家陳舜臣と『歴史清談 古代オリエント/中国日本東北』(河北新報社、1987年)がある。
- ↑ 小川哲雄『日中戦争秘話』、原書房。小川は当時陸軍将校、のち汪兆銘政権で軍事顧問兼経済顧問補佐官。同書は陳公博の亡命に付き添った際の回想録。
出典
- ↑ 『歴史読本 特集皇族と宮家』2014年8月号、中経出版、2014年6月24日、 109頁上段。
- ↑ 三笠宮崇仁 『古代オリエント史と私』 学生社、1984、33-37。ISBN 4-311-20131-1。
- ↑ 『歴史読本 特集皇族と宮家』2014年8月号、中経出版、2014年6月24日、 109頁中段。
- ↑ 「貴族院 議員辞職」、『官報』第5822号、1946年6月13日、 82頁。
- ↑ 『歴史読本 特集皇族と宮家』2014年8月号、中経出版、2014年6月24日、 109頁中段〜下段。
- ↑ 小田部雄次 『皇族 天皇家の近現代史』 中央公論新社〈中公新書〉、2009。ISBN 978-4-12-102011-6。
- ↑ “三笠宮さまがご退院 心臓手術受け2カ月半入院”. MSN産経ニュース (産経デジタル). (2012年8月31日). オリジナルの2012年8月31日時点によるアーカイブ。
- ↑ “桂宮さま逝去:斂葬の儀 皇太子ご夫妻はじめ560人参列”. 毎日新聞 (毎日新聞社). (2014年6月17日). オリジナルの2014年8月8日時点によるアーカイブ。 . 2014閲覧.
- ↑ 9.0 9.1 “三笠宮さま100歳 確かな記録では皇族初”. 産経ニュース (産経新聞社). (2015年12月2日) . 2015閲覧.
- ↑ 2016年(平成28年)10月28日宮内庁告示第11号「崇仁親王殿下が薨去された件」
- ↑ “三笠宮さま ご逝去 昭和天皇の弟で100歳”. NHK NEWS WEB (日本放送協会). (2016年10月27日). オリジナルの2016年10月27日時点によるアーカイブ。 . 2016閲覧.
- ↑ “三笠宮さま逝去=昭和天皇末弟、100歳-歴史学者として活躍”. 時事ドットコム (時事通信社). (2016年10月27日). オリジナルの2016年10月27日時点によるアーカイブ。 . 2016閲覧.
- ↑ 13.0 13.1 “三笠宮さま薨去される 天皇陛下の叔父、100歳”. 産経ニュース (産経新聞社). (2016年10月27日) . 2016閲覧.
- ↑ 14.0 14.1 2016年(平成28年)10月31日宮内庁告示第12号「故崇仁親王の喪儀を行わせられる期日、場所及び墓所を定められた件」
- ↑ “平和願った宮さまにお別れ 参列者ら生涯しのぶ”. 日本経済新聞 電子版 (日本経済新聞社). (2016年11月4日) . 2016閲覧.
- ↑ “三笠宮さま、本葬は来月4日=喪主は妃の百合子さま-宮内庁”. 時事ドットコム (時事通信社). (2016年10月27日). オリジナルの2016年10月27日時点によるアーカイブ。 . 2016閲覧.
- ↑ “三笠宮さま、墓所に埋葬=愛用の品々と一緒に”. 時事ドットコム (時事通信社). (2016年11月4日). オリジナルの2016年11月4日時点によるアーカイブ。 . 2016閲覧.
- ↑ 「叙任及辞令」、『官報』第849号、1929年10月28日、 672頁。
- ↑ 「叙任及辞令」、『官報』第2927号、1936年10月2日、 50頁。
- ↑ 20.0 20.1 “戦後皇室の歩み体現 三笠宮さまをしのぶ 皇室担当特別嘱託・岩井克己”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. . (2016年10月28日)
- ↑ 工藤美代子 『母宮貞明皇后とその時代 三笠宮両殿下が語る思い出』 中央公論新社、2010-07-23。ISBN 978-4-12-205343-4。
- ↑ 三笠宮崇仁 『古代オリエント史と私』 学生社、1984、。ISBN 4-311-20131-1。
- ↑ 三笠宮崇仁 『帝王と墓と民衆 オリエントのあけぼの(付・わが思い出の記)』 光文社〈カッパブックス〉、1956。
- ↑ 騎兵第15連隊
- ↑ 三笠宮崇仁 『古代オリエント史と私』 学生社、1984、。ISBN 4-311-20131-1。
- ↑ 三笠宮崇仁 『帝王と墓と民衆 オリエントのあけぼの(付・わが思い出の記)』 光文社〈カッパブックス〉、1956。
- ↑ 山階会 『山階宮三代 下』 精興社、1982。
- ↑ 『日本のあけぼの 建国と紀元をめぐって』 三笠宮崇仁、光文社〈カッパブックス〉、1959。
- ↑ 河原敏明 『天皇家の50年 激動の昭和皇族史』 講談社、1975。
- ↑ 30.0 30.1 河原敏明 『天皇家の50年 激動の昭和皇族史』 講談社、1975、170-171。
- ↑ “日中戦争-三笠宮さまが謝罪の意”. 東京新聞 朝刊 (中日新聞東京本社): 12版3頁. (2006年8月10日)
- ↑ “"三笠宮さまは双子"説騒ぎ 宮内庁、5年後の否定”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. . (1984年1月20日)