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== 概要 ==
 
== 概要 ==
[[ファイル:Terumasa Ikeda.jpg|thumb|200px|池田輝政]]
 
 
姫路城は[[播磨国]][[飾東郡]][[姫路藩|姫路]]、現在の姫路市街の北側にある[[姫山]]および鷺山を中心に築かれた[[平山城]]で、日本における[[近世]]城郭の代表的な[[遺構]]である。[[江戸時代]]以前に建設された[[天守]]が残る[[現存天守|現存12天守]]の一つで、中堀以内のほとんどの城域が[[史跡#特別史跡|特別史跡]]に、現存建築物の内、大天守・小天守・渡櫓等8棟が[[国宝]]に、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が[[重要文化財]]に、それぞれ指定されている。[[1993年]]([[平成]]5年)12月にはユネスコの世界遺産([[文化遺産]])に登録された<ref>http://www.himeji-kanko.jp/castle/</ref>。この他、「国宝五城」<ref group="注釈">国宝指定の現存天守を持つ5箇所の城郭、姫路城・[[松本城]]・[[彦根城]]・[[犬山城]]・[[松江城]]を指す。</ref>や「[[三名城]]」、「[[日本三大一覧#城|三大平山城・三大連立式平山城]]」の一つにも数えられている。
 
姫路城は[[播磨国]][[飾東郡]][[姫路藩|姫路]]、現在の姫路市街の北側にある[[姫山]]および鷺山を中心に築かれた[[平山城]]で、日本における[[近世]]城郭の代表的な[[遺構]]である。[[江戸時代]]以前に建設された[[天守]]が残る[[現存天守|現存12天守]]の一つで、中堀以内のほとんどの城域が[[史跡#特別史跡|特別史跡]]に、現存建築物の内、大天守・小天守・渡櫓等8棟が[[国宝]]に、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が[[重要文化財]]に、それぞれ指定されている。[[1993年]]([[平成]]5年)12月にはユネスコの世界遺産([[文化遺産]])に登録された<ref>http://www.himeji-kanko.jp/castle/</ref>。この他、「国宝五城」<ref group="注釈">国宝指定の現存天守を持つ5箇所の城郭、姫路城・[[松本城]]・[[彦根城]]・[[犬山城]]・[[松江城]]を指す。</ref>や「[[三名城]]」、「[[日本三大一覧#城|三大平山城・三大連立式平山城]]」の一つにも数えられている。
  
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[[昭和]]に入り、[[太平洋戦争]]において[[姫路空襲|姫路も2度の空襲]]被害があったものの、大天守最上階に落ちた[[焼夷弾]]が[[不発弾]]となる幸運もあり奇跡的に焼失を免れ、現在に至るまで大天守をはじめ多くの城郭建築の姿を残している。[[#昭和の大修理|昭和の大修理]]を経て、[[姫路公園]]の中心として周辺一帯も含めた整備が進められ、祭りや行事の開催、市民や観光客の憩いの場になっているほか、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]や[[江戸時代]]を舞台にした[[時代劇]]などの映像作品の撮影が行われることも多く、姫路市の観光・文化の中核となっている。
 
[[昭和]]に入り、[[太平洋戦争]]において[[姫路空襲|姫路も2度の空襲]]被害があったものの、大天守最上階に落ちた[[焼夷弾]]が[[不発弾]]となる幸運もあり奇跡的に焼失を免れ、現在に至るまで大天守をはじめ多くの城郭建築の姿を残している。[[#昭和の大修理|昭和の大修理]]を経て、[[姫路公園]]の中心として周辺一帯も含めた整備が進められ、祭りや行事の開催、市民や観光客の憩いの場になっているほか、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]や[[江戸時代]]を舞台にした[[時代劇]]などの映像作品の撮影が行われることも多く、姫路市の観光・文化の中核となっている。
  
== 名称の由来と別名 ==
 
姫路城天守の置かれている「姫山」は古名を「日女路(ひめじ)の丘」と称した。『[[播磨国風土記]]』にも「日女道丘(ひめじおか)」の名が見られる<ref>[http://www.hyogo-c.ed.jp/~h15db/katego/nakaharima/himeji/pfuku25_4_m.pdf 播磨国風土記と国分寺(PDF)]</ref>。[[姫山]]は[[サクラ|桜]]が多く咲いたことから「桜木山」、転じて「鷺山(さぎやま)」とも言った<ref name="no4">『姫路城の話』 橋本政次 社団法人姫路観光協会</ref>。天守のある丘が[[姫山]]、西の丸のある丘が鷺山とすることもある。
 
 
[[橋本政次]]『姫路城の話』では、別名「白鷺城(はくろじょう)」の由来として、推論も含め、以下の4説が挙げられている<ref name="hashimoto_p9">『姫路城の話』pp.9-10</ref>。
 
*姫路城が「鷺山」に置かれているところから。
 
*白[[漆喰]]で塗られた城壁の美しさから。
 
*[[ゴイサギ]]など[[白鷺]]と総称される鳥が多く住んでいたから。
 
*黒い壁から「烏城(うじょう)」とも呼ばれる[[岡山城]]との対比から。
 
白鷺城は「はくろじょう」の他に「しらさぎじょう」とも読まれることがあり<ref group="注釈">[[八代城]]の別名は白鷺城と書いて「しらさぎじょう」と読んでいる。</ref>、[[村田英雄]]の歌曲に『白鷺(しらさぎ)の城』というものもある。これに対し、前出の橋本は漢学的な名称であることから、「しらさぎじょう」という読みを退け、「はくろじょう」を正しい読みとしている<ref name="hashimoto_p9" />。現在は、『日本歴史大事典』(小学館)、『もういちど読む山川日本史』([[山川出版社]])のように「しらさぎじょう」の読みしか掲載していないもの、『日本史事典』(三訂版、旺文社)、『ビジュアルワイド 日本名城百選』(小学館)のようにどちらかを正しいとせずに「はくろじょう」「しらさぎじょう」を併記しているものなども見られる。{{要出典範囲|[[日本放送協会]](NHK)の番組でも「しらさぎじょう」と紹介されることがあるため、一般的には「しらさぎじょう」と認識されていることが多いと思われる|date=2016年2月}}。姫路市内では市立の[[姫路市立白鷺小中学校|白鷺(はくろ)小中学校]]のように学校名に使用されたり、小中学校の[[校歌]]でも「白鷺城」または「白鷺」という言葉が使われていることが多い<ref group="注釈">[http://www.himeji-hyg.ed.jp/ 姫路市学校園ホームページ]に校歌が掲載されている集計した時点で32校中15校の校歌に使用されている。</ref>。戦前の姫路市内の[[尋常小学校]]で歌われていた『姫路市郷土唱歌』の歌詞にも「白鷺城」や「池田輝政(三左衛門)」などが使われている。
 
 
他にも以下のような別名がある。
 
;出世城
 
:[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]が居城し、その後の出世の拠点となったことから呼ばれる<ref>司馬遼太郎著『司馬遼太郎と城を歩く』</ref>。同様の例として[[浜松城]]も出世城と呼ばれる<ref>[https://www.entetsuassist-dms.com/hamamatsu-jyo/facility/history.html 浜松城の歴史]</ref><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/chubu/feature/CO016071/20151009-OYTAT50032.html 現在の浜松城に残る家康期の「出世城」<家康編11>]</ref>。
 
;不戦の城
 
:[[幕末]]に新政府軍に包囲されたり、[[第二次世界大戦]]で焼夷弾が天守に直撃したりしているものの、築城されてから一度も大規模な戦火にさらされることや甚大な被害を被ることがなかったことから。
 
 
== 歴史・沿革 ==
 
{| class="wikitable" style="font-size:small; margin:9px; float:right" <!-- 右寄せ -->
 
|+ 江戸幕府成立以前の歴代城主<ref>『姫路城の基礎知識』の「歴代姫路城主」)</ref>
 
! 代 !! 城主 !! 入城年 !! 代 !! 城主 !! 入城年
 
|-
 
| style="text-align:center" |'''1'''||[[赤松貞範]]||[[1346年]]([[貞和]]2年)|| style="text-align:center" |'''10'''||[[小寺則職 (戦国時代)|小寺則職]]||[[1519年]]([[永正]]16年)
 
|-
 
| style="text-align:center" |'''2'''||[[小寺頼季]]||[[1349年]](貞和5年)|| style="text-align:center" |'''11'''||[[八代道慶]]||[[1531年]]([[享禄]]4年)
 
|-
 
| style="text-align:center" |'''3'''||[[小寺景治]]||[[1352年]]([[文和]]元年)|| style="text-align:center" |'''12'''||[[黒田重隆]]||[[1545年]]([[天文 (元号)|天文]]14年)
 
|-
 
| style="text-align:center" |'''4'''||[[小寺景重]]||[[1357年]]([[延文]]2年)|| style="text-align:center" |'''13'''||[[黒田職隆]]||[[1564年]]([[永禄]]7年)
 
|-
 
| style="text-align:center" |'''5'''||[[小寺職治]]||[[1403年]]([[応永]]10年)|| style="text-align:center" |'''14'''||[[黒田孝高]]||[[1567年]](永禄10年)
 
|-
 
| style="text-align:center" |'''6'''||[[山名宗全|山名持豊]]||[[1441年]]([[嘉吉]]元年)|| style="text-align:center" |'''15'''||[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]||[[1580年]]([[天正]]8年)
 
|-
 
| style="text-align:center" |'''7'''||[[赤松政則]]||[[1467年]]([[応仁]]元年)|| style="text-align:center" |'''16'''||[[豊臣秀長|羽柴秀長]]||[[1583年]](天正11年)
 
|-
 
| style="text-align:center" |'''8'''||[[小寺豊職]]||[[1469年]]([[文明 (日本)|文明]]元年)|| style="text-align:center" |'''17'''||[[木下家定]]||[[1585年]](天正13年)
 
|-
 
| style="text-align:center" |'''9'''||[[小寺政隆]]||[[1491年]]([[延徳]]3年)|| style="text-align:center" |'''18'''||[[池田輝政]]||[[1600年]]([[慶長]]5年)
 
|}
 
 
=== 南北朝時代・戦国時代 ===
 
{{see also|播磨国#歴史}}
 
[[1333年]]([[元弘]]3年)、[[元弘の乱]]で[[護良親王]]の[[令旨]]を奉じて播磨国[[守護]]の[[赤松則村]]が挙兵し、上洛途中の[[姫山]]にあった[[正明寺|称名寺]]<ref>『姫路誌一班』二頁</ref><ref group="注釈">現在は市内[[五軒邸]]に移転し[[正明寺]]([[天台宗]])になっている。市内[[飾東町]]にある称名寺([[浄土真宗]][[真宗大谷派|大谷派]])は同名の別の寺。</ref>を元に縄張りし、一族の[[小寺頼季]]に守備を命じた<ref>『姫路城誌』一頁</ref><ref>『姫路城の基礎知識』の「姫路城の歴史」。</ref>。[[南北朝時代 (日本)|南北朝の争乱]]で[[足利尊氏]]に呼応した則村が再度挙兵し、[[1346年]]([[南朝 (日本)|南朝]]:[[正平 (日本)|正平]]元年、[[北朝 (日本)|北朝]]:[[貞和]]2年)、次男の[[赤松貞範]]が[[称名寺]]を麓に移し[[姫山]]に築城し'''姫山城'''とした<ref name="saikyo">『最強はどれだ!戦国「城」ランキング100』(別冊宝島)</ref><ref>探訪 日本の名城 戦国武将と出会う旅</ref><ref>『日本名城図鑑―同一縮尺で見る城郭規模の比較』姫路城180頁</ref>。[[1349年]](南朝:正平4年、北朝:貞和5年)、貞範が新たに[[庄山城]](しょうやまじょう)<ref group="注釈">姫路市飾東町にあった城。</ref>を築城して本拠地を移すと、再び小寺頼季が城代になって以後は小寺氏代々が城代を務める<ref>『兵庫県管内史談大要』十四頁</ref>。
 
 
[[1441年]]([[嘉吉]]元年)、[[嘉吉の乱]]で[[赤松満祐]]・[[赤松教康|教康]]父子に対して[[山名宗全]]が挙兵、赤松父子は[[城山城 (播磨国)|城山城]]で自害し赤松氏は断絶、赤松満祐に属していた城代の[[小寺職治]]は[[戦死|討死]]した。その後、[[山名氏]]が播磨国守護に、山名氏の家臣・[[太田垣主殿佐]]が城代になった。[[1458年]]([[長禄]]2年)、[[長禄の変]]で[[後南朝]]から[[八尺瓊勾玉|神爾]]を取り戻した功績で[[赤松政則]](満祐の弟の孫)の時に赤松氏再興が許された。[[1467年]]([[応仁]]元年)、[[応仁の乱]]で山名氏に対立する[[細川勝元]]方に与した政則が弱体化した山名氏から播磨国を取り戻し、当城に本丸・鶴見丸・亀居丸を築いた。
 
 
[[1469年]]([[文明 (日本)|文明]]元年)、則村が隣国の[[但馬国]]に本拠地がある山名氏に備えるため新たに築いた[[置塩城]]に本拠地を移し、[[小寺豊職]]が城代になった。[[1491年]]([[延徳]]3年)、豊職の子・[[小寺政隆|政隆]]が城代になり、[[御着城]](姫路市[[御国野町御着]])を築城開始。[[1519年]]([[永正]]16年)、政隆が御着城に本拠地を移し、子の[[小寺則職 (戦国時代)|則職]]が城代になった。
 
 
[[1545年]]([[天文 (元号)|天文]]14年)、則職が御着城に移り、家臣の[[黒田重隆]]に城を預ける。黒田重隆・[[黒田職隆|職隆]]父子が主君で御着城主の[[小寺政職]](則職の子)の許可を受けて、御着城の[[支城]]として[[1555年]](天文24年)から[[1561年]]([[永禄]]4年)の間に、現在よりも小規模ではあるが居館程度の規模であったものから[[姫山]]の地形を生かした中世城郭に拡張したと考えられている。姫路(姫山)に城があったと確認できる一次史料は、永禄4年の『正明寺文書』に「姫道御溝」の記述や『助太夫畠地売券』に城の構えがあるという記述で、これらを根拠に姫路城の始まりという説もある<ref>『姫路市史』第14巻の石田善人説。『姫路城の基礎知識』の「姫路城の歴史」・「歴代姫路城主」。</ref>。職隆は百間長屋を建てて貧しい者や下級武士、職人、[[行商]]人などを住まわせるなどして、配下に組み入れたり情報収集の場所としていた<ref>『週刊 日本の城14号』(デアゴスティーニ)</ref>。
 
 
[[1567年]](永禄10年)、職隆の子・[[黒田孝高|孝高]]が城代になった。[[1568年]](永禄11年)、[[青山・土器山の戦い]]で[[赤松政秀]]軍の約3,000人に対して黒田軍(職隆・孝高父子)は約300人という劣勢で姫路城から撃って出て赤松軍を撃退する。以後、[[1573年]]([[天正]]元年)まで孝高(官兵衛・如水)が城代を務めた。
 
 
=== 安土桃山時代 ===
 
[[ファイル:Himeji Castle01.jpg|thumb|250px|真柴久吉公播州姫路城郭築之図]]
 
[[1576年]](天正4年)、[[中国攻め]]を進める[[織田信長]]の命を受けて[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]が播磨に進駐すると、播磨国内は織田氏につく勢力と中国地方の[[毛利氏]]を頼る勢力とで激しく対立、最終的には織田方が勝利し、毛利方についた小寺氏は没落した。ただし小寺氏の家臣でありつつも早くから秀吉によしみを通じていた黒田孝高はそのまま秀吉に仕えることとなった。[[1577年]](天正5年)、孝高は二の丸に居を移し本丸を秀吉に譲った。
 
 
[[1580年]](天正8年)、[[三木城]]・[[英賀城]]などが落城し播磨が平定されると孝高は秀吉に「本拠地として姫路城に居城すること」を進言し姫路城を献上、自らは[[市川 (兵庫県)|市川]]を挟んで姫路城の南西に位置する[[国府山城]](こうやまじょう)<ref group="注釈">父の職隆が家督を譲り隠居していた城。別名は妻鹿城・甲山城・功山城・袴垂城ともいう。</ref>に移った<ref>『姫路城誌』二頁</ref>。秀吉は、同年4月から翌年3月にかけて行った大改修により姫路城を[[姫山]]を中心とした近世城郭に改めるとともに、当時流行しつつあった[[石垣]]で城郭を囲い、太閤丸に天守(3層と伝えられる)を建築し'''姫路城'''に改名する<ref>『姫路城誌』二頁</ref><ref>『姫路誌一班』四頁</ref><ref name="saikyo" />。<!-- 本拠地として薦めたこと、4月から3月までの部分。 NDL11-44 日本歴史地名大系(兵庫県) 元は、新版「姫路市師」とされる部分より -->あわせて城の南部に大規模な[[城下町]]を形成させ、姫路を播磨国の中心地となるように整備した。この際には姫路の北を走っていた[[山陽道]]を曲げ、城南の城下町を通るようにも改めている。同年10月28日、龍野町(たつのまち)に、諸公事役免除の制札を与える。この最初の条文において、「市日之事、如先規罷立事」とあることから、4月における[[英賀城]]落城の際に、姫路山下に招き入れ市場を建てさせた[[英賀]]の百姓や町人達が龍野町に移住したとする説がある<ref>平凡社『日本歴史地名大系』</ref>。[[1581年]](天正9年)、秀吉は姫路城で大茶会を催した後、[[鳥取城]]攻略へ出陣した([[中国攻め#鳥取城攻めと淡路平定 /天正9年]])。
 
 
[[1582年]](天正10年)6月、秀吉は主君・信長を殺害した[[明智光秀]]を[[山崎の戦い]]で討ち果たし、一気に[[天下人]]の地位へ駆け上っていく。このため[[1583年]](天正11年)には天下統一の拠点として築いた[[大坂城]]へ移動、姫路城には弟・[[豊臣秀長]]が入ったが[[1585年]](天正13年)には[[大和国|大和]][[郡山城 (大和国)|郡山]]へと転封。替わって[[木下家定]]が入った<ref group="注釈">関ヶ原の合戦後の[[1601年]](慶長6年)、木下家定は[[備中国|備中]][[足守藩|足守]]2万5000石へ転封する。</ref>。
 
 
[[1600年]](慶長5年)、'''[[池田輝政]]'''が[[関ヶ原の戦い]]の戦功により[[吉田城 (三河国)|三河吉田15万石]]から播磨52万石(播磨一国支配)で入城した。輝政は[[徳川家康]]から豊臣恩顧の大名の多い西国を牽制する命を受けて[[1601年]](慶長6年)から8年掛けた大改修で[[姫山]]周辺の宿村・中村・国府寺村などを包括する広大な城郭を築いた<ref>『兵庫県管内史談大要』十六頁</ref><ref>『姫路城誌』三頁</ref><ref>『姫路誌一班』四頁</ref>。中堀は八町毎に門を置き、外堀からは城下と[[姫路港|飾磨津]]を[[運河]]で結ぶ計画であったが輝政の死去と地形の高低差の問題を解決できず未完に終わる<ref>『姫路誌一班』四頁</ref>。運河計画は後の本多忠政の時代に船場川を改修して実現することになる。普請奉行は池田家家老の[[伊木忠繁|伊木長門守忠繁]]、大工棟梁は桜井源兵衛である。作業には在地の領民が駆り出され、築城に携わった人員は延べ4千万人 - 5千万人であろうと推定されている<ref name="no4"/>。また、姫路城の[[支城]]として播磨国内の[[明石城]]([[船上城]])・[[赤穂城]]・[[三木城]]・[[利神城]]・[[龍野城]](鶏籠山城<ref group="注釈">読みは「けいろうさんじょう」。別名:龍野古城・朝霧城。[[龍野市]][[龍野町]]北龍野にあった赤松氏の居城の1つ。</ref>)・[[高砂城]]も整備された。
 
 
=== 江戸時代 ===
 
[[ファイル:Old painting of Himeji castle.jpg|thumb|250px|姫路城鳥瞰図(明治初期)]]
 
'''[[姫路藩#歴史|姫路藩の歴史]]'''も参照。
 
 
[[1617年]](元和3年)、池田氏は跡を継いだ[[池田光政|光政]]が幼少であり、重要地を任せるには不安であることを理由に[[因幡国|因幡]][[鳥取藩|鳥取]]へ転封させられ、[[伊勢国|伊勢]][[桑名藩|桑名]]から[[本多忠政]]が15万石で入城した。忠政は城の西側を流れる妹背川を飾磨津までの舟運河川に改修し[[船場川]]と改名した<ref>[http://web.pref.hyogo.lg.jp/wd15/documents/143ksenba.pdf 船場川水系河川整備計画]</ref><ref>『姫路城誌』五頁</ref>。[[1618年]](元和4年)には[[千姫]]が[[本多忠刻]]に嫁いだ[[化粧料]]を元に西の丸が整備され<ref>[https://www.city.himeji.lg.jp/kouhou/kouhoushi/backpdf/s60/pdf_s62/19871101705.pdf 姫路城再発見]</ref>、全容がほぼ完成した。
 
 
城内の武士階級の人口は次の通り<ref>[http://www.city.himeji.hyogo.jp/event/newsletter/vol_29/oshiro-info/index.html お城からの手紙vol.29]</ref>。
 
*池田氏時代(1603年頃):300石以上の中級武士が約500人。
 
*本多氏時代(1617年から1639年):忠政の家臣が700人以上、忠刻の家臣が500人以上、足軽や小者を含め約4000人。
 
*榊原氏時代(1649年から1667年、1704年から1741年):家臣・足軽など約3000人、
 
*酒井氏時代(1749年から1871年):家臣・足軽など約2200人
 
 
藩主は親藩および譜代大名が務めたが、[[本多氏|本多家]]の後は[[奥平氏|奥平松平家]]、[[越前松平家]]、[[榊原氏|榊原家]]、再度越前松平家、再度本多家、再度榊原家、再々度越前松平家と目まぐるしく入れ替わる。[[1749年]](寛延2年)に[[上野国|上野]][[前橋城]]より[[酒井氏]]が入城してようやく藩主家が安定する。しかし、姫路城は石高15万石の姫路藩にとっては非常な重荷であり、譜代故の幕府要職の責務も相まって藩の経済を圧迫していた。
 
 
幕末期、[[鳥羽・伏見の戦い]]において姫路城主[[酒井忠惇]]は[[老中]]として幕府方に属し将軍[[徳川慶喜]]とともにあったため、姫路藩も朝敵とされ姫路城は[[岡山藩]]と[[龍野藩]]を主体とする新政府軍の兵1,500人に包囲され、車門・市ノ橋門、清水門に兵を配置されている。この時、輝政の子孫・[[池田茂政]]<ref group="注釈">茂政は輝政の血縁上の子孫ではない。実際は[[徳川斉昭]]の九男であり、[[水戸徳川家]]から養子として岡山池田家を相続した。したがって15代将軍の徳川慶喜とは異母兄弟の間柄である。</ref>の率いる岡山藩の部隊が[[景福寺山]]に設置した大砲で姫路城に向けて数発空砲で威嚇砲撃を行っている。その中に実弾も混じっており、このうち一発が城南西の福中門に命中している。両者の緊張は高まり、新政府軍の姫路城総攻撃は不可避と思われたが、[[摂津国]][[神戸港|兵庫津]]の勤王豪商・[[北風正造|北風荘右衛門貞忠]]が、15万両に及ぶ私財を新政府軍に献上してこれを食い止めた。この間に藩主の留守を預かる家老達は最終的に開城を決定し、城の明け渡しで新政府に恭順する。こうして姫路城を舞台とした攻防戦は回避された。
 
 
=== 明治時代 ===
 
[[ファイル:Japan-hohei10rentai.jpg|thumb|250px|歩兵第10連隊跡の石碑]]
 
[[1871年]](明治4年)に[[廃藩置県]]が実施され陸軍が置かれ[[鎮台#大阪鎮台|大阪鎮台]]の管轄下になった<ref>『姫路城誌』五頁</ref>。さらに[[1873年]](明治6年)の[[全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方|廃城令]]<ref group="注釈">これにおいては姫路城は「存城処分」とされたが、これは陸軍の兵営地とする意味であって城郭の建築物をそのまま維持するという意味ではない。</ref>によって日本の城の多くがもはや不要であるとして破却された。
 
 
姫路城は[[競売]]に付され、城下の米田町に住む金物商の神戸清次郎(かんべ せいじろう)が23円50銭(現在の貨幣価値に換算して約十万円)で落札した。落札の際、酒井忠邦城主より東屋敷庭前に据え置かれた芥田匠作の[[灯籠#灯籠の代表的な種類|雪見灯籠]]を購得し、これを[[1892年]](明治25年)に[[歩兵第10連隊]]本部へ寄贈した際に「撮歴縁起」書と銀杯を拝受した。陸軍省と協力して城の永久保存をするために落札したという説と、城の古鉄または[[瓦]]を売るのが目的であったという説の2つがあるが、後者の説では、瓦を一般家屋に転用するには城の瓦は大きく重いことや解体費用が掛かりすぎるとの理由で結局そのままにされ、権利も消失した。その後[[1927年]](昭和2年)5月末、その息子である神戸清吉が、姫路城の所有権を主張して訴訟を起こそうとしたと報じた新聞があったが、別の新聞が後日取材したところでは提訴する意思がないことを述べており、また同記事で[[1874年]](明治7年)に買い受けた後に陸軍省に買い上げてもらったとしている<ref name="no2">中元孝迪『姫路城 永遠の天守閣』神戸新聞出版センター</ref><ref name="城平井"/>。
 
 
城跡は陣地として好適な場所であったことから陸軍の部隊は城跡に配置される例が多く、姫路城でも[[1874年]](明治7年)に三の丸を中心に[[歩兵第10連隊]]が設置され、この際本城などの三の丸の建物や武蔵野御殿、向屋敷などの数多くの建物が取り壊された。さらに[[1882年]](明治15年)には失火で備前丸を焼失した<ref>『姫路城案内』八頁「水の三門」</ref>。[[1896年]](明治29年)には姫路城南西に[[歩兵第39連隊]]が設置された。この頃の建物は[[第10師団 (日本軍)|第10師団]]兵器庫([[1905年]](明治38年)-[[1913年]](大正2年)。現在の市立美術館)、第10師団師団長官舎([[1924年]](大正13年)。現在の[[淳心会]]本部)、旧[[逓信省]]姫路電信局([[1930年]](昭和5年)。後のNTT西日本兵庫支店姫路2号館、現在の[[姫路モノリス]])などが残っている。中曲輪南東部([[射楯兵主神社]]周辺)には第8旅団司令部や[[偕行社]]<ref group="注釈">1878年(明治11年)から1882年(明治15年)3月までは「山陽博交社」だった。</ref><ref>『姫路紀要』(1912年、姫路紀要編纂会)</ref>が置かれた。
 
 
[[1873年]](明治6年)から[[1876年]](明治9年)にかけて東部外堀の東半分が埋め立てられ、[[生野銀山]]と[[姫路港|飾磨津]]を結ぶ[[生野鉱山寮馬車道]]が整備された。
 
 
[[ファイル:Himeji Castle No09 014.jpg|thumb|180px|城内にある中村大佐顕彰碑]]
 
一方で、明治時代初頭の大変革が一段落付いた[[1877年]](明治10年)頃には、日本の城郭を保存しようという動きが見られるようになった。この頃の姫路城は、屋根は傾いて草が生え、壁や石垣は崩れたまま放置されているような状態だった。明治10年12月、陸軍少佐の[[飛鳥井雅古]]([[飛鳥井家]])が陸軍中将の[[西郷従道]]に宛てて「姫路城天守修繕之義ニ付伺」を提出し承認されている<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/jyokakuken/shirofumi/pdf/09-12.pdf おーい中村君(2)“恩人”の目論み]</ref>。また、陸軍において建築・修繕を担当していた[[中村進一郎|中村重遠]][[工兵]][[大佐]]は、[[1878年]](明治11年)に陸軍卿[[山縣有朋]]に[[名古屋城]]および姫路城の保存を[[太政官]]に上申するよう願い出て、ようやく姫路城の修復は第一歩を踏み出した。姫路城の菱の門内側には中村大佐の顕彰碑が残る。[[1879年]](明治12年)に行われた大天守の地階を補強支柱工事の文書が残っている。だが、肝心の予算はなかなか下りず、陸軍の予算からどうにか捻出された保存費は要求額の半分にも満たないものであった。これによってどうにか応急的な修理を施したもののなおも腐朽は進む一方であり、[[1908年]](明治41年)には市民による白鷺城保存期成同盟の結成や城下各地の有志達の衆議院への陳情によってようやく[[1910年]](明治43年)、国費9万3千円が支給されて「明治の大修理」が行われた<ref>『姫路城誌』九頁</ref>。
 
 
工事は[[1910年]](明治43年)7月10日から[[1911年]](明治44年)7月15日に行われ、修理個所は、大天守・東小天守・西小天守・乾小天守・はの渡櫓・ろの渡櫓・いの渡櫓・にの渡櫓・台所・水の四門・水の五門・水の六門が対象となった。
 
 
=== 大正時代 ===
 
明治の大修理終了後、姫路市は陸軍が使用していない本丸・二の丸と三の丸の一部の城域を借り受け、[[姫路公園|姫山公園]]として整備し、[[1912年]](大正元年)8月から一般公開を始めた<ref>市民の白鷺 三たび輝く 姫路城 国宝指定80年、産経新聞、2011年2月11日</ref>。[[1919年]](大正8年)には[[陸軍省]]が西の丸を修理している。城内にあった[[歩兵第10連隊]]は後に[[岡山市]]へ移転し、[[歩兵第39連隊]]は姫路所在のまま太平洋戦争の終戦を迎えた。1912年(大正元年)から[[1932年]](昭和7年)にかけて南部中堀が埋め立てられ道路とされた<ref>[http://hleader.exblog.jp/23748178/ 11の門 その4~現在の国道2号は中堀跡?~]</ref>(現在の[[国道2号]])。
 
 
=== 昭和時代 ===
 
[[ファイル:Himeji Castle in 1936.jpg|thumb|[[1936年]](昭和11年)の姫路城周辺。陸軍の施設や練兵場が見える。]]
 
[[ファイル:Himejicastle-camouflagenet.jpg|thumb|空襲から守るために黒い網(偽装網)を掛けられた姫路城]]
 
[[ファイル:Himejicastle-camouflagenet2.jpg|thumb|青丸内は黒い網(偽装網)を掛けた鉤金具]]
 
[[1928年]](昭和3年)に姫路城は[[史跡]]に指定され、[[文部省]]の管理となる(実際の管理は姫路市)。次いで[[1931年]](昭和6年)1月、大小天守など8棟が国宝に指定され、同年12月には渡櫓、門、塀等74棟も国宝に指定される。ただしこの時点での「国宝」は「[[国宝#「旧国宝」と「新国宝」|旧国宝]]」と呼ばれるもので、[[1950年]](昭和25年)施行の[[文化財保護法]]における[[重要文化財]]に相当するものである。
 
 
[[1933年]]([[昭和]]8年)、本来は繋がっていない三の丸東部の内船場蔵と喜斎門南の下三方蔵を繋ぐ通路を整備、[[1957年]](昭和32年)に拡幅した。[[1944年]]([[昭和]]19年)、[[中村進一郎|中村重遠]]大佐の[[顕彰碑]]を建立。
 
 
太平洋戦争中、姫路城の白壁は非常に目立ち、また陸軍の部隊が置かれていてかつ[[軍需産業]]の拠点でもあった姫路は[[アメリカ陸軍航空隊|アメリカ軍]]の爆撃対象とされることは明らかであったため、黒く染めた網(擬装網)で城の主要な部分を覆い隠すこととした。しかし、[[1945年]](昭和20年)[[7月3日]]の[[姫路空襲]]で城下は焼き尽くされた<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/seiban/0001197275.shtml 悲劇もう二度と 姫路大空襲から63年] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090605171456/http://www.kobe-np.co.jp/news/seiban/0001197275.shtml |date=2009年6月5日 }}、神戸新聞 2008年7月3日</ref>。城内にも着弾したが本城跡にあった中学校校舎が焼失しただけで、西の丸に着弾した2発は不発あるいはすぐに消火された。また大天守にも焼夷弾が直撃したものの、不発であったこと<ref>2006年7月23日付[[神戸新聞]]記事より。当時、不発弾処理にあたった元士官の証言で明らかになった。</ref>などにより、城郭建築の焼失は免れた。翌朝、焦土の中に無事に建つ姫路城を見て、姫路市民は涙したという<ref name="no2"/>。この空襲の罹災者を西の丸に避難・収容した。擬装網は終戦後に撤去された。
 
 
かつて、姫路城は貴重な[[文化財]]なので爆撃対象とはされなかったと言われていたこともあるが、[[獨協大学]]の四宮満の研究によって否定されている<ref>{{Harvnb|神戸新聞姫路支社|1995|p=179}}</ref>。城内にも実際に着弾したものの、運良く破壊を免れただけのことであり、事前に爆撃対象から外されていたわけではなかったと考えられる。当時の[[B-29 (航空機)|B-29]]の機長だったアーサー・トームズは戦後50年に来日し姫路を訪れた際に「私は城があることすら知らなかった。上官から城について何の指示もなかった。[[レーダー]]から見れば城も輝く点の一つであり、それを歴史的建造物と認識するのは難しい」と語っており、実際の空爆時刻が夜間だったこともあって上空からは姫路城とは視認されず、レーダーには外堀の水が映ったことから姫路城一帯を沼地だと思い、沼地を攻撃しても意味がないと判断したため爆撃しなかったと回顧している<ref>[http://mainichi.jp/select/news/20150702k0000e040289000c.html 姫路空襲70年:カラスになった白鷺城 城内には旧鷺城中]</ref><ref>[https://www.kobe-np.co.jp/news/himeji/201707/0010339719.shtml 城はなぜ残ったか… 姫路大空襲から72年]</ref>。
 
 
この戦争の前後、いわゆる「昭和の修理」が行われた。直接的な契機は1934年(昭和9年)の豪雨で櫓や石垣の一部が損壊したことによる<ref name="yano_p36" />。この年から順次行われた修理は、戦時中の中断をはさんで1964年(昭和39年)まで続き、特に1956年(昭和31年)からの大天守の修理を「昭和の大修理」という<ref name="yano_p36" />(1934年からの修理全体を広義の「昭和の大修理」とする場合もある<ref>{{Harvnb|神戸新聞姫路支社|1995|p=6}}</ref><ref name="kobe2015_p113" />)。一連の修理は全解体を伴う大規模かつ抜本的なものであったことから「昭和の築城」の異名もとる<ref name="kobe2015_p113">{{Harvnb|神戸新聞総合出版センター|2015|p=113}}</ref>(詳しくは[[#昭和の大修理]]参照)。なお、この機会に後出の俗謡にも歌われた城の傾きを改善するために、礎石の取替えが行なわれ、鉄筋コンクリート製の基礎構造物になった<ref>{{Harvnb|世界遺産検定事務局|2016|p=85}}</ref>。
 
 
[[1976年]](昭和51年)から姫路公園整備計画が行われ城北の姫山住宅跡地が公園に整備され野外ステージなどが建てられた<ref>[https://www.city.himeji.lg.jp/kouhou/kouhoushi/backpdf/s50/pdf_s55/19800315609.pdf 進む城周辺の公園化]</ref>。この整備工事の過程で清水門の石垣が発掘された。
 
 
=== 平成時代 ===
 
1992年(平成4年)、日本は[[世界遺産条約]]を批准すると、[[日本の世界遺産#暫定リスト掲載物件|世界遺産暫定リスト]]に姫路城などを記載した。そして姫路城は最初に推薦された物件の一つとなり、[[1993年]](平成5年)12月11日、[[法隆寺地域の仏教建造物]]とともに日本初の世界遺産(文化遺産)に登録された。後述するように、木造建築物であり抜本的な修理工事を経ている姫路城の登録は、文化財のオーセンティシティ(真正性、真実性)をどう評価するかという問題を改めて提起し、その後の世界遺産登録にも大きく影響した「奈良ドキュメント」成立につながった。
 
 
この世界遺産登録を機に制定されたのが「平成中期保存修理計画」である。このときには大天守の修理は昭和の大修理から50年を経て別途検討することとなっていたが、その後の破損などを踏まえて計画が前倒しにされ、2009年(平成21年)から2015年(平成27年)に姫路城大天守保存修理工事が行われることとなった。これがいわゆる「平成の大修理」である<ref>{{Harvnb|神戸新聞総合出版センター|2015|pp=6, 34-38}}</ref>(詳細は[[#平成の修理]]参照)。
 
 
== 構造 ==
 
[[ファイル:Himeji city central.jpg|thumb|250px|姫路市中心部。赤線内が内曲輪、緑線内が中曲輪、青線内が外曲輪。{{国土航空写真}}。]]
 
[[File:Himeji-castletown-plan.jpg|thumb|250px|姫路城下と街道沿いの町割りを描いた「姫路城下絵図」。文化3年(1806年)。]]
 
[[ファイル:Himejicastle-kuruwa.jpg|thumb|250px|手前から、本丸(備前丸)・二の丸(上山里曲輪)・東三の丸(三の丸広場)と階段状の縄張りになっている。]]
 
<!--不鮮明なので--[[ファイル:Himejijo old castile town.jpg|200px|thumb|江戸時代における姫路城とその周辺の様子を示す模型]]--->
 
 
=== 縄張 ===
 
典型的な[[平山城]]で、天守のある[[姫山]]と西の丸のある鷺山を中心として、その周囲の地形を利用し[[城下町]]を内包した[[総構え]](内曲輪は東西465m南北543m、外曲輪は東西1418m南北1854m)を形成している。堀は姫山の北東麓を起点にして左回りに城北東部の野里まで総延長約12.5kmあり、内堀で囲んだ1周目は内曲輪、中堀で囲んだ2周目は中曲輪、外堀で囲んだ3周目は外曲輪といい、3重の螺旋を描くような[[曲輪]]構造で渦郭式縄張を形成している(内曲輪だけに注目すると階郭式)。しかし外堀は城北部の野里で不完全に終わり最後まで閉じていないため姫路城の総構えの欠点になっている。これは輝政が城郭を大規模に整備する頃に野里周辺で力を持っていた[[芥田氏]]に対して強硬な行動を取る事が出来なかったためと推測されている。この欠点を補うために榊原時代に城の守備について描かれた『姫路城防備布陣図』には有事の際に堀を掘る計画が示されている<ref>[http://www.city.himeji.hyogo.jp/event/newsletter/vol_19/index.html お城からの手紙vol.19]</ref>。
 
 
[[1992年]](平成4年)、昭和時代から空[[堀]]になっていた東部中堀を整備し水堀に戻した([[1998年]](平成10年)と[[2007年]](平成19年)には北部中堀も整備)。堀の水は[[船場川]]から取水していて、現代ではポンプを使用して約5日間で循環するようになっている<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/s70/2845684/_10326/_10377.html 東部・西部・北部中濠]</ref>。
 
 
* 内堀 - 長さ約3km、堀幅12m-34m。内堀以内の面積は約23ha(23万平方メートル)<ref>[http://www.gishi.co.jp/home/column_himejijo.htm 数字で見る姫路城]</ref>。
 
* 中堀 - 長さ約4.3km、堀幅約20m。中堀以内の面積は約107ha(107万平方メートル)。
 
* 外堀 - 長さ約5.2km、堀幅約14m。外堀以内の面積は約233ha(233万平方メートル)。
 
各曲輪を仕切る門が以下の通り置かれた。
 
* 内曲輪 - 八頭門・桜門・絵図門(出丸内側に菊門)・喜斎門・北勢隠門・南勢隠門
 
* 中曲輪 - 市ノ橋門・車門・埋門・鵰門(くまたかもん)・中ノ門・総社門・鳥居先門・内京口門・久長門・野里門・清水門(八町毎に1門が置かれた<ref>『姫路誌一班』(四頁)</ref>)
 
* 外曲輪 - 備前門(または備前口門・福中門)・飾磨津門(または飾磨門・飾万門)・北条門・外京口門・竹ノ門
 
大まかには、内曲輪は天守・櫓・御殿など城の中枢、中曲輪は武家屋敷などの武家地、外曲輪は町人地や寺町などの城下町が置かれた。これらの多くが城郭の内にあり、江戸時代の日本では数少ない[[城郭都市]]を構成していた。このような総構えは他に[[江戸城]]や[[小田原城]]などの例がある。明治維新以後の陸軍設置や近代化で堀の埋め立てや建造物の破壊が行われたが、中曲輪・外曲輪は堀と石垣の一部が残っているほか、[[国道372号]]に竹の門交差点、野里街道沿いに野里門郵便局といった形で門の名前が残っている。外曲輪の南側は[[山陽本線]][[姫路駅]]付近にまで達している。[[1888年]](明治21年)に外曲輪の外堀南側に姫路駅が作られ、そこを通る形で[[山陽鉄道]](山陽本線の前身)が敷設された。
 
 
内曲輪以内の面積は23[[ヘクタール|ha]]、外曲輪以内の面積は233haとなっている<ref>[http://www.himeji-kanko.jp/contents/castle/architect.html 姫路観光コンベンションビューロー|ひめのみち:姫路城の達人]、2009年1月27日閲覧。</ref>。現在では内曲輪の範囲が姫路城の範囲として認識されている。
 
 
輝政による築城はちょうど[[関ヶ原の戦い]]と[[大坂の陣]]の間であり、ゆえに極めて実戦本位の縄張となっている。同時に優美さと豪壮さとを兼ね備えた威容は、「西国将軍」輝政の威を示すものでもある。姫路城以降は[[慶長]]20年([[1615年]])の江戸幕府による[[一国一城令]](同年閏6月13日)や[[武家諸法度]](同年7月)によって幕府の許可なく新たな築城や城の改修・補修ができなくなったこともあり、一大名のもので姫路城に続くほどの規模の城は建築されていない。
 
 
==== 石垣 ====
 
[[ファイル:Look_up_Ido_Kuruwa_in_Himeji_Castle.jpg|thumb|200px|池田氏時代の石垣。]]
 
[[ファイル:Himeji Castle No09 167.jpg|thumb|200px|石棺から転用された石垣]]
 
[[石垣]]の積み方や加工の詳細は'''[[石垣の積み方]]'''を参照。
 
*築かれた時代によって大きく5つの時期に分けられる。本多氏以降は城郭の増改修に幕府の許可が必要となったため補修が主になっている。
 
**1期 - 羽柴氏時代、[[1580年]](天正8年)-[[1582年]](天正10年)に築かれた石垣で、二の丸に多く残る。[[石垣の積み方#石の加工程度による分類|野面積み]]。
 
**2期 - 池田氏時代、[[1601年]](慶長6年)-[[1609年]](慶長14年)に築かれた石垣で、本丸に多く残る。[[石垣の積み方#石の加工程度による分類|打ち込み接ぎ]]、[[石垣の積み方#外観による分類|算木積み]]、扇の勾配。
 
**3期 - 本多氏時代、[[1618年]](元和4年頃)に築かれた石垣で、西の丸に多く残る。打ち込み接ぎ、算木積み。
 
**4期 - 江戸時代、[[1867年]](慶応3年)までに行われた三の丸など各所の補修。[[石垣の積み方#石の加工程度による分類|切り込み接ぎ]]。
 
**5期 - 明治時代、1878年(明治7年)以降に行われた西の丸や三の丸(本城)などの補修。
 
*内曲輪の石垣には約10万t超の石材が使用されている。石質は多くの割合を占める[[凝灰岩]]の他、[[花崗岩]]・[[砂岩]]・[[チャート (岩石)|チャート]]がある。石材は近隣の山、[[広峰山]]・[[増位山 (兵庫県)|増位山]]・[[景福寺山]]・[[手柄山]]・[[八丈岩山]]・[[砥堀山]]・[[鬢櫛山]](びんぐしやま)・[[今宿山]]・[[別所谷]]などから採取された他、[[転用石]]として[[五輪塔]]・[[宝篋印塔]]・古墳の[[石棺]]・[[墓石]]・石[[臼]]・石[[灯籠]]の台座などが再利用されている。石材には、地名等の文字、斧や[[五芒星]]等の文様が刻印されたものもあり、54種類117個が確認できる。
 
 
==== 屋根瓦・鯱 ====
 
[[ファイル:Himeji Castle No09 055.jpg|thumb|200px|丸軒瓦と滴水瓦]]
 
建物や塀の屋根に用いられている[[鬼瓦]]や[[軒丸瓦]]などには、その瓦を作った時の城主の[[家紋]]が意匠に使用されており、池田氏の[[家紋の一覧#蝶(ちょう)|揚羽蝶紋]]、羽柴(豊臣)氏の[[桐紋]]、本多氏の[[三つ葉葵|立ち葵]]紋などがよく見られる。家紋の他には、[[モモ|桃]]の実(カの櫓、への渡櫓)、[[イチョウ|銀杏]](井郭櫓)、小[[槌]](への門)、[[波頭]]と十字<ref group="注釈">[[十字架]]のようにも見えるため[[キリシタン大名]]であった[[黒田孝高]]が城主であった頃の名残りと言われている。しかし、『[[フロイス日本史]]』によると孝高が[[キリスト教]]の洗礼を受けたのは[[1583年]]([[天正]]11年)から[[1585年]](天正13年)頃であり、これは黒田家による築城より後で孝高は秀吉に姫路城を譲って国府山城に移っている時期になる。</ref>(にの門)などが意匠に使用されている。また軒平瓦に滴水瓦が使用されているのは現存城郭では姫路城だけである<ref>『姫路城の基礎知識』の「瓦」</ref>。大天守に使われている瓦は昭和の大修理時に集計した約8万枚とされてきたが平成の修理時に再集計したところ1割ほど少ない約7万5000枚であることが分かった<ref name="kawara75k" />。姫路市城周辺整備室では昭和の大修理での数字は葺き直した瓦の枚数ではなく取り外した枚数ではないかと推測している。
 
 
天守以外の櫓の屋根にも鯱が載せられている。
 
 
*江戸時代の鯱:[[1687年]]([[貞享]]4年)と[[1803年]]([[享和]]3年)の刻印がされた物、2種類が残っている。貞享4年刻印の鯱は昭和の大修理の時に大天守3階の屋根裏から発見された物。享和3年刻印の鯱は江戸時代の取り替えの際に[[圓教寺]]が城主から賜り保管してきた物。
 
*明治時代の鯱:[[1910年]]([[明治]]43年)の刻印があり「明治の大修理」の時に製作・据えられた鯱。
 
*昭和時代の鯱:1687年(貞享4年)の鯱を元に「昭和の大修理」の時に製作・据えられた鯱。通常、鯱は雌雄一対([[阿吽]])だが、元にした貞享の鯱が雌(吽)だったため大天守に据える11の鯱は全て雌となっている<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201409/0007331451.shtml 大天守の“殿”不在の謎 しゃちほこは全て雌? 姫路城]</ref>。
 
*平成時代の鯱:昭和時代の鯱と同様に、貞享4年(1687年)の鯱を元に「平成の修理」の時に製作・据えられた鯱。
 
 
==== 防御設備 ====
 
城壁には[[狭間]](さま)という射撃用の窓が総数997個<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sougou/011225ke34920.html 姫路城のすべてを1冊に 3年かけ主婦グループ] 神戸新聞 2001年12月25日</ref>(往時は城郭全体で数千とも<ref group="注釈">史料によって3,000 - 4,000の開きあり。</ref>)残っており、開口部の内側と外側に角度を付けることで敵を狙いやすく、敵には狙われにくくしている。また城壁を折り曲げて設置している箇所では死角がより少なくなる。形は丸・三角・長方形の穴が開いており長方形のものが「矢狭間」、ほかが「鉄砲狭間」である。長方形の狭間はほかの城にもよく見られるが、さまざまな形の狭間をアクセントとして配置してあるのは独特である。狭間は姫路市内においても公共施設のデザインに組み込まれている<ref group="注釈">例えば橋の欄干、車止めブロックなどに丸・三角・四角の模様や穴が見られる。</ref>。さらに天守の壁に隠した隠狭間<ref group="注釈">普段は木の蓋で塞がれているが、非常時にのみ開かれる。</ref>、門や壁の中に仕込まれた[[石落とし]]など、数多くの防御機構がその優美な姿の中に秘められている。大天守と小天守を繋ぐ渡櫓、小天守同士を繋ぐ渡櫓の各廊下には頑丈な扉が設けられ、大天守、小天守それぞれ独自に敵を防ぎ、籠城できるように造られている。
 
;城門の開閉と通行
 
:榊原時代の[[宝永]]3年([[1706年]])正月付では、城主在城時は大扉は卯の刻(午前6時)に開門し酉の刻(午後6時)に閉門、[[潜り戸]]は酉の刻(午後6時)に開門し戌の刻(午後8時)閉門となっていた。
 
:酒井時代は市ノ橋門・車門・埋門・鵰門(くまたかもん)・中ノ門・総社門・鳥居先門・内京口門・久長門・野里門・清水門において「御門、明六ツ打候は直ちに番所の戸を開く。御在城中は明六時打候は御門開、暮六時打候は締めくくり、戸明置五ツ時に至りくくり共に閉める。」とされた。門の出入りは身分や所属と名前を確認したうえで許可された。女性の通行については主人の手形を持っている者に限り、理由のない女性は通行が禁じられた。
 
<gallery>
 
ファイル:Himejijo_sama.jpg|狭間
 
ファイル:Himeji Castle No09 059.jpg|石落とし
 
ファイル:Himeji Castle No09 019.jpg|石落とし(内側)
 
ファイル:Himeji Castle No09 124.jpg|天守内部にある内室(隠し部屋)
 
</gallery>
 
 
==== 城主の居館 ====
 
城主の居館は当初、天守台の下にある本丸にあって「備前丸」といった。これは[[池田輝政]]の所領[[備前国]]にちなむ名である。しかし、備前丸も山上で使いづらいため、[[本多忠政]]は三の丸に'''本城'''と称する館を建てて住んだ。以降の城主は本城、あるいは中曲輪の市の橋門内の西屋敷に居住している。[[徳川吉宗]]の時代の城主・[[榊原政岑]]が[[吉原遊廓|吉原]]から[[高尾太夫]]を落籍し住まわせたのもこの西屋敷である。西屋敷跡およびその一帯は現在では姫路城西御屋敷跡庭園「[[好古園]]」として整備されている。
 
 
=== 内曲輪 ===
 
[[File:Burg Himeji Gesamtplan.jpg|250px|thumb|内曲輪の江戸時代の配置図]]
 
[[ファイル:Himejijo Uchikuruwa.jpg|250px|thumb|内曲輪の航空写真。{{国土航空写真}}]]
 
[[ファイル:Himejicastle-meiji.jpg|thumb|250px|取り壊し以前の桜門・太鼓櫓(明治初期)]]
 
[[ファイル:Himeji Castle seen from north.jpg|thumb|250px|姫路城を北方から望む。天守手前に姫山原生林が見える]]
 
内曲輪は大きく分けて本丸・二の丸・三の丸・西の丸・出丸(御作事所)・勢隠曲輪の多重構造になっている。さらに内部は、いの門・ろの門など[[いろは順]]に名付けられた門などによって水曲輪・腰曲輪・帯曲輪などの曲輪に細かく区切られている。内曲輪における櫓や門の位置関係については[[:ファイル:Himejijo Uchikuruwa.jpg|右の画像の説明文]]を参照。内曲輪には天守や櫓群などの軍事と、御殿や屋敷などの政務の中枢が置かれた。
 
 
姫山北部には樹木が生い茂る「姫山原生林」がある。この[[原生林]]の中には、本丸からの隠し通路の出口があるという噂があるが<ref name="no4"/>、その存在は確認されていない。姫山の西を流れる[[船場川]]は、内堀に寄り添う形で流れており、堀同様の役割を果たしている。江戸時代にはその名の通り[[水運]]のために利用されていた。
 
 
;内曲輪の通路と門
 
内曲輪の通路は迷路のように曲がりくねり、広くなったり狭くなったり、さらには天守へまっすぐ進めないようになっている。本来の地形や秀吉時代の縄張を生かしたものと考えられている。門もいくつかは一人ずつ通るのがやっとの狭さであったり、また、分かりにくい場所・構造をしていたりと、ともかく進みづらい構造をしている。これは防御のためのものであり、敵を迷わせ分散させ、袋小路で挟み撃ちにするための工夫である。
 
 
たとえば、現在の登城口(三の丸北側)から入ってすぐの「菱の門」からは、まっすぐ「いの門」・「ろの門」・「はの門」の順に進めば天守への近道のように見えるが、実際は菱の門から三国濠の脇を右手に進んで石垣の中に隠された穴門である「るの門」から進むのが近い。<!--るの門は土砂で封鎖してしまえる埋門(うずみもん)でもあった。← 中曲輪の「埋門」と区別するため削除。現地説明版でも「穴門」。また、土砂で封鎖したという実例はない。不意打ち・挟撃のためのものであったとも考えられる。-->「はの門」から「にの門」へ至る通路は守り手側に背を向けなければ進めない。「ほの門」は極端に狭い鉄扉である。その後は天守群の周りを一周しなければ大天守へはたどり着けないようになっている。「はの門」へ続く坂道は「将軍坂」と呼ばれている<ref>[http://www.jalan.net/theme/isan/himeji/ 白漆喰の城壁が美しい、日本有数の名城]</ref><ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/topic/photobank/_18123/_18406.html 姫路城(点景写真)]</ref>。
 
 
「菱の門」は[[伏見城]]から移されたという伝承があり、長押形の壁に[[火灯窓]]を配した古式な姿を残している。また、「との一門」は[[置塩城]]から移築したという伝承があり、壁が板張りであって、門の下側にいる敵を弓矢や[[槍]]などで攻撃できる「石落し」がないなど古風な様式で、城内に現存する門の中でも異色の存在である。
 
 
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ファイル:Kiri Ni No Mon 02.jpg|現在の大手門(桐二の門)
 
ファイル:Kitasegakushi-mon-gate.jpg|北勢隠門の石垣
 
ファイル:Minamisegakushi-mon-gate.jpg|南勢隠門の石垣
 
ファイル:Kisai-mon-gate.jpg|喜斎門の石垣
 
ファイル:Hattou-mon-gate.jpg|八頭門の石垣
 
ファイル:Himeji kisaimon gate 2.JPG|喜斎門石垣(内側)
 
ファイル:Himeji castle06 1024.jpg|にの門
 
ファイル:Himeji castle07 1024.jpg|にの門(内部)
 
ファイル:Himeji castle02 1024.jpg|ホの櫓
 
ファイル:Himeji castle05 1024.jpg|との一門
 
ファイル:Himeji Castle No09 163.jpg|折廻櫓と備前門
 
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==== 本丸 ====
 
[[ファイル:Himeji Castle on time in evening.jpg|thumb|250px|姫路城北西にある[[男山]]から。中央奥に大天守、左に東小天守、中央手前に乾小天守、右に西小天守。]]
 
[[ファイル:Himeji Castle No09 152.jpg|thumb|250px|連立天守群の中心部]]
 
[[File:Himeji-castle-taiko-yagura.jpg|thumb|250px|太鼓櫓と石垣。]]
 
;天守丸・備前丸
 
天守丸は連立した天守群によって構成され、天守南の備前丸には御殿や対面所があり池田氏時代には政務の場であった。御殿や御対面所などは明治時代に焼失している。
 
 
姫路城の[[天守]]は江戸時代のままの姿で現在まで残っている12の[[現存天守]]の一つで、その中で最大の規模を持つ、まさしく姫路の象徴といえる建物である。姫路城の天守群は姫山(標高45.6[[メートル|m]])の上に建っており、姫路城自体の高さは、石垣が14.85m、大天守が31.5mなので合計すると海抜92mになる<ref name="shisei9" />。天守の総重量は、現在はおよそ5,700[[トン|t]]である。かつては6,200tほどであったとされるが、「昭和の大修理」に際して過去の補修であてられた補強材の撤去や瓦などの軽量化が図られた。天守内には姫路城にまつわる様々な物品が展示されている。
 
 
姫路城の最初の天守は[[1580年]](天正8年)の春、羽柴秀吉によって姫山の頂上、現在の大天守の位置に3重で建てられた。この天守は[[池田輝政]]により解体され、用材は乾小天守に転用された。
 
 
2代目の天守は池田輝政により建てられ、5重6階天守台地下1階(計7階)の'''大天守'''と3重の小天守3基('''東小天守'''・'''西小天守'''・'''乾小天守''')、その各天守の間を2重の渡櫓で結んでいる「[[天守#縄張り|連立式天守]]」<ref group="注釈">[[現存天守#現存12天守|現存12天守]]では[[松山城 (伊予国)|松山城]]([[伊予国]])が同じ構成である。</ref>である。天守は全て2重の[[入母屋造]]の建物を基部とする望楼型で、建設時期や構成からさらに[[天守#望楼型|後期望楼型]]に分類されることもある。壁面は全体が白漆喰総塗籠(しろしっくい そうぬりごめ)の[[大壁|大壁造]]で造られており、防火・耐火・[[鉄砲]]への防御に加え、美観を兼ね備える意図があったと考えられている。折廻櫓には編目格子が施されている。
 
 
;水曲輪・腰曲輪
 
天守の下は岩盤で井戸が掘れず、そのため天守と腰曲輪の間の補給の便のため水曲輪を設け、「水一門」から「水五門」までの門を設けている。
 
 
天守の北側にある腰曲輪(こしくるわ)には、籠城のための井戸や米蔵・塩蔵が設けられている。なお平時に用いる蔵は姫山の周囲に設けられていた。腰曲輪の中、ほの門内側、水一門脇に5.2[[メートル|m]]分だけ、油塀(あぶらべい)と呼ばれる塀がある。白漆喰で塗られた土塀ではなく、真壁造りの[[築地塀]]である。製法については油、もしくはもち米の煮汁を壁材に練りこんだと考えられている<ref name="つくり方">三浦正幸著『城のつくり方図典』小学館 2005年</ref>。理由については、秀吉時代の遺構という説がある<ref name="no1"/>が、防備の上で特に高い塀を必要としたという説<ref name="つくり方"/>もある。
 
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ファイル:Himeji Castle No09 156.jpg|御対面所の石垣
 
ファイル:Himejicastle-koshikuruwa.jpg|腰曲輪の「ハの渡櫓」(連立天守の「ハの渡櫓」とは別の建物)
 
ファイル:Himeji castle03 960.jpg|腰曲輪の油壁
 
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===== 大天守 =====
 
;外観意匠
 
[[ファイル:Himejicastle-shachihoko.jpg|thumb|250px|姫路城歴代の鯱]]
 
[[File:Himeji Castle No09 151.jpg|thumb|180px|大天守西面(右)と北面(左)]]
 
外観は最上部以外の壁面は[[大壁]]塗りで、屋根の意匠は複数層にまたがる巨大な入母屋[[破風]]に加えて、緩やかな曲線を描く唐破風(からはふ)、山なりの千鳥破風(ちどりはふ)に[[破風#懸魚|懸魚]]が施され多様性に富んでいる。最上階を除く窓はほとんどで格子がはめ込まれている。
 
*初重目 - 方杖付きの腰屋根を四方に、東面中央に軒唐破風と下に幅4間の出格子窓(でごうしまど)、北東・南東・南西の隅に[[石落とし]]を設置している。
 
*2重目 - 南面中央に軒唐破風と下に幅5間の出格子窓を設けている。東西に3重目屋根と交わる大入母屋破風を設置している。
 
*3重目 - 南面・北面に[[比翼入母屋造|比翼入母屋]]破風、2重目から大入母屋破風が交わっている。
 
*4重目 - 南面・北面に千鳥破風、東面・西面に軒唐破風
 
*5重目 - 最上部。南北に軒唐破風、東西に入母屋屋根、壁面は他の壁面とは違って柱などが浮き出る[[真壁 (建築)|真壁]]になっている。
 
 
;内部構造
 
各階の床と屋根は天守を支えるため少しずつ逓減され、荷重を分散させている。大天守の心柱は東西方向に2本並んで地下から6階床下まで貫き、太さは根元で直径95[[センチメートル|cm]]高さ24.6mの木材が使用されている。うち、西大柱は従来の材が継がれたものであったため一本材に取り替えようとしたが、その際に折れてしまったので3階床下付近で継いでいる。東西の旧大柱は、目通りは東大柱十尺、末口は五尺三寸の杉木材。西大柱も同様の木材ではあるが三重目あたりで松に継いであり、根元から二尺に継ぎ目に補修した「貞享保四年丁卯の六月」の墨書きがあった。その他の柱用材は[[ケヤキ|欅]]・[[マツ|松]]・[[犬桜]]など堅い樹種を二寸角にして使用している<ref>『姫路城案内』十頁「大天守の地階」</ref>。敷居・鴨居は一尺二寸幅で[[舞良戸]]をはめていたが現在は[[建具]]は取り付けられていない。
 
 
*地下 - 東西約11間半・南北約8間半。穴蔵と呼ばれている。[[簀の子]]の洗い場(流し台)と台所を付属させ、[[便所|厠]]を3箇所設置している。
 
*1階 - 東西約13間・南北約10間。北側に東小天守と接続するイの渡櫓、西側に西小天守と接続するニの渡櫓。
 
*2階 - 1階とほぼ同様の構造。地下から2階は身舎の周りに[[犬走り#城郭の犬走り|武者走り]]を廻し、[[鉄砲]]や[[槍]]などが掛けられる武具掛が付けられている。
 
*3階 - 東西11間・南北8間。武者走りがあるが、それに加えて破風部屋と武者隠(むしゃがくし)と呼ばれる小部屋が数箇所設けられている。また、石打棚(いしうちだな)という中段を窓際に設けて、屋根で高い位置に開けられた窓が使えるように高さを補っている。
 
*4階 - 東西9間・南北6間。3階同様に[[塀 (城郭)#土塀|石打棚]]がある。武具掛けのある比翼入母屋破風の間が南北に2箇所ずつ(計4箇所)ある。
 
*5階 - 東西9間・南北6間。大広間一室で4重目の屋根裏部屋に相当する。大柱はこの階の天井まで通っている。
 
*6階 - 最上階。東西7間・南北5間。一段高い[[身舎]]周囲に[[入側]]を巡らしている。部屋の中央に柱を立てず、[[書院造]]の要素を取り入れ[[長押]]や[[天井|棹縁天井]]など書院風の意匠を用いている。[[長壁神社]]が[[分霊|分祀]]されている。[[頼山陽]]が詠んだ漢詩も展示されている。”五畳の城楼 晩霞を挿む 瓦紋 時に見る 桐花を刻するを 袞州 曽つて啓く 阿瞞の業 淮鎮 興すに堪えたり 匡胤の家 甸服 昔時 臂指に随い 勲藩 今日 喉牙を扼す 猶思う 山陰道を 経略せしを 北 因州に走る 路叉を作す”。
 
 
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ファイル:Inside the Main Tower (2856041800).jpg|大天守内廊下
 
ファイル:Himeji Castle No09 102.jpg|洗い場(流し台)
 
ファイル:Château de Himeji03.jpg|石打棚
 
ファイル:Himeji Castle No09 116.jpg|武具掛
 
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===== 小天守・渡櫓 =====
 
[[ファイル:Himeji Castle No09 145.jpg|thumb|200px|東小天守1階内部]]
 
[[ファイル:Himeji Castle No09 099.jpg|thumb|200px|ニの渡櫓と水の五門]]
 
3基の小天守の最上階は蟻壁長押、竿縁猿頬天井の[[書院造|書院]]風意匠になっている。釣鐘のような形の[[火灯窓]]を西小天守、乾小天守の最上階に多用している。火灯窓は同様の後期望楼型天守である[[彦根城]]天守や[[松江城]]天守などにも見られる。乾小天守の火灯窓には、「物事は満つれば後は欠けて行く」という考え方に基づき未完成状態(発展途上状態)を保つため格子を入れていないという。
 
 
;東小天守
 
3重3階・地下1階で天守丸の北東に位置する。西小天守や乾小天守のような火灯窓や軒唐破風はない。建設当初は丑寅櫓(うしとらやぐら)と呼ばれていた。
 
;乾小天守
 
3重4階・地下1階で天守丸の北西に位置する。建設当初は乾櫓(いぬいやぐら)と呼ばれていた。秀吉が築城した三重天守であったという説があり「昭和の大修理」では秀吉時代の木材が転用された事が分かっている<ref>『日本名城図鑑―同一縮尺で見る城郭規模の比較』姫路城の項</ref>。
 
;西小天守
 
3重3階・地下2階で天守丸の南西に位置する。水の六門が付属している。建設当初は未申櫓(ひつじさるやぐら)と呼ばれていた。[[2002年]](平成14年)、西小天守の修理が完了した<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/event/newsletter/vol_36/oshiro-info/index.html 45年ぶりの本格修理、いよいよ着工間近]</ref>。
 
;イ・ロ・ハ・ニの渡櫓
 
大天守と各小天守を連結している渡櫓。イ・ロ・ハの渡櫓はいずれも2重2階・地下1階、ニの渡櫓は水の五門が付属して2重2階の櫓門になっている。天守群と渡櫓群で囲まれた内側に台所櫓があり大天守地階とロの渡櫓1階を繋いでいる<ref>『姫路城の基礎知識』の「天守」の項目</ref>。
 
 
==== 二の丸 ====
 
秀吉時代の縄張りを活かした雛壇状の作りになっており通路は迷路のように入り組んでいる。
 
 
;三国堀
 
:姫山と鷺山の間にあった谷を利用して作られた捨て堀で輝政の所領、[[播磨国|播磨]]・[[淡路国|淡路]]・[[備前国|備前]]の三国に由来する。姫山と鷺山から流れた雨水を濾過する役割があったとも、秀吉の時代は空堀であったともいわれている<ref>『姫路城の基礎知識』の「堀」の項目</ref><ref>『姫路城案内』二頁「三国堀」</ref>。
 
 
;菱の門
 
[[ファイル:Himeji castle04 1024.jpg|thumb|菱の門]]
 
:二の丸入口にある櫓門で現在では正面登閣口から入って最初に通る門。西側にある石垣と土塀で[[虎口#枡形虎口|枡形虎口]]を形成し門の片側が石垣に乗る変則的な櫓門で、西側部分に番所詰所、東側部分に馬見所がある。城内の現存の門では唯一、柱・[[組物#基本的分類|舟肘木]]・長押を表面に出した[[真壁造り]]で安土桃山時代の意匠を残している。櫓二階部分の中央に黒漆と金箔<!--金(きん)の金具?-->で装飾された格子窓と両側に同じ装飾の火灯窓、その右手に庇出格子窓がある。<ref>『姫路城の基礎知識』の「門」の項目</ref>門名は[[冠木]]に木製の[[花菱]]模様が装飾されている事や築城以前に流れていた菱川に由来する<ref>『姫路城案内』二頁「菱の門」</ref>。
 
 
;帯曲輪(腹切丸)
 
[[ファイル:Himejijo harakirimaru.jpg|thumb|200px|帯郭櫓(腹切丸)]]
 
:天守の南東にある[[曲輪#曲輪の用途|帯曲輪]](おびくるわ)は城の防御において射撃などを行う場所として築かれた。帯郭櫓は2重2階で1階2階ともに3部屋に区切られ、1階には石打棚がある。帯の櫓は1重1階(地下1階)で約23mの石垣の上にコの字型に建てられている。外側から見ると平櫓であるが地下に井戸があるため内側からは2重の多門櫓に見える。内部は座敷部屋や[[床の間]]も設けられている。[[櫓 (城郭)#用途による種類|太鼓櫓]]は1重1階で折れ曲がり西・南・北の3部屋がある。歪みのある石垣上に建てられたため西部屋は傾斜がある。江戸時代は「への櫓」と呼ばれた<ref>『姫路城の基礎知識』の「建造物配置図」</ref>。太鼓櫓の西側には「りの門」があり帯曲輪と上山里曲輪を区切っている。「りの門」は脇戸付[[高麗門]]で「慶長四ねん大工五人」と書かれた墨書が発見されており、解体や移築の痕跡もなく[[木下家定]]の時代の建築と判明している。
 
:帯曲輪が俗に「腹切丸」と呼ばれる由来としては、建物の形状やその薄暗い雰囲気などから切腹の場を連想させることにより呼ばれるようになったと見られているが、通常では処刑場は城外にあり、藩主の屋敷付近や井戸付近では実際に[[切腹]]が行われたことは考えにくいという<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/guide/castle/various.html 姫路市|雑学・姫路城]</ref>。
 
 
;上山里曲輪
 
*ぬの門 - 脇戸付きの鉄板張り二重櫓門。一層目は鉄格子窓、二層目は出格子窓。東側石垣に巨石を置き鏡石としている。
 
*「お菊井戸」が残っている。
 
 
==== 三の丸 ====
 
[[ファイル:Himejijo sannomaru.jpg|thumb|200px|三の丸広場]]
 
[[ファイル:Himejicastle-musashinogoten-ato.jpg|thumb|200px|千姫が居住した武蔵野御殿の跡]]
 
江戸時代、三の丸西側には御殿や屋敷があり本城(御居城)と呼ばれ、東側には向屋敷と庭園があり本多氏以降の政務の中心の場であった。
 
 
本城には、
 
*大広間(鶴之間):151畳
 
*虎之間:36畳
 
*雁之間:23畳半
 
*蜜柑之間:40畳
 
*小書院:70畳
 
*新書院4:7畳半
 
*装束の間:18畳
 
*評定之間:43畳半
 
*時計之間:25畳
 
*勝手之間:52畳
 
*御使者の間:12畳
 
*用人詰所:12畳
 
*他に御居間、能舞台、湯殿、便所、台所
 
などの御殿建築があった<ref>『池田光政公伝 上巻』百九十三頁</ref><ref>[http://www.city.himeji.hyogo.jp/event/newsletter/vol_29/oshiro-info/index.html お城からの手紙vol.29]</ref>。
 
 
東側の向屋敷には[[回遊式庭園|池泉式庭園]]・[[築山]]・[[茶室]]が設けられ、北側には御用米蔵や上三方蔵があった。[[本多忠刻]]・[[千姫]]夫妻が居住していた武蔵野御殿は金箔や銀箔を張った[[戸襖]]に千姫が幼少のころに過ごした[[武蔵野]]を偲んで一面に[[緑青]]で[[ススキ]]の絵が描かれていたことに由来する<ref>[http://www.city.himeji.hyogo.jp/event/newsletter/vol_29/oshiro-info/index.html お城からの手紙vol.29]</ref>。三の丸からは西の丸の石垣下にある鷺山口門が内堀に通じていた。江戸時代の建物や庭園は明治時代に取り壊され現存していない。[[1998年]](平成10年)、姫路藩主・本多家の家老であった中根家の子孫宅から第二次本多時代([[1682年]](天和2年)、[[本多忠国]]から[[1704年]](宝永元年)、[[本多忠孝]]まで)の姫路城内曲輪を詳細に描いた『播州姫路城図』が発見された<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/jyokakuken/issue/zuroku/ 姫路城絵図展図録-雄藩姫路の城下と城郭-]</ref>。この絵図から[[兼六園]]のように広くはないが三の丸・向屋敷にも[[大名庭園]]があったことが分かるなど、失われた御殿や屋敷など往時の様子を偲ばせる貴重な史料となった。
 
 
[[1939年]](昭和14年)4月、旧制の姫路市立鷺城中学校(現[[姫路市立姫路高等学校]])が設置されたが[[1945年]](昭和20年)の[[姫路空襲]]で焼失した<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/koho/press/_28474/_28858/_29025.html 姫路市立鷺城中学校(旧制)の写真52枚見つかる〜戦時下に創立、空襲に焼け落ちた悲運の学舎(まなびや)〜]</ref>。三の丸跡のうち本城跡は千姫ぼたん園に、向屋敷跡は三の丸広場に整備された。三の丸広場は市民の憩いの場となっており、[[花見]]や各種のイベントスペースとしても使用されている。三の丸の東部と東側に位置する出丸(御作事所)は姫路動物園の一部になっている。[[1947年]](昭和22年)、三の丸に[[野球場]]と[[相撲]]場が建設された。
 
 
[[2014年]](平成26年)11月6日、姫路市教育委員会が三の丸の発掘調査で大手から菱の門前まで通じる南北200m、幅21mの三の丸大路の跡や礎石の跡などを確認したと発表した<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/koho/press/_30718/_32738/_32910.html 特別史跡姫路城跡(三の丸大路)発掘調査現地説明会を開催します]</ref><ref>[http://www.sankei.com/region/news/141107/rgn1411070051-n1.html 姫路城跡「三の丸大路」跡を確認 江戸期の道幅は21メートル]</ref><ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201411/0007481875.shtml 姫路城「三の丸大路」の遺構発見 登城への南北通路]</ref>。また三の丸西にあった御居城への通路の幅も約8mと分かった。『播州姫路城図』に描かれていた当時の様子が明らかになりつつある。9日に現地説明会が行われた。
 
 
;下山里曲輪
 
:三の丸北部、二の丸の上山里曲輪の南側下段にある曲輪。西側から南側の石垣に土塀が築かれ東側に門があった。[[1955年]](昭和30年)までは「下山里展望台」となっていた。その後の「昭和の大修理」の時に発見された墓石・石像などが祀られ、春と秋の[[彼岸]]、[[お盆|旧盆]]には[[正明寺]]と姫路城を守る会によって供養が行われている。
 
;大手門(桜門)
 
:現在「大手門」と呼ばれている大型の[[高麗門]]は[[1937年]](昭和12年)に「桐二の門」があった場所に再建した門で江戸時代の意匠とは異なる<ref>『日本名城図鑑―同一縮尺で見る城郭規模の比較』姫路城の項</ref>。本来の大手口は入り口から桜門・桐二の門・桐一の門と続き、それらを三重の太鼓櫓・多聞櫓・ねの櫓で囲み、6回曲がらなければ天守方面へ行けない厳重な二重枡形を形成していたが、建物は明治時代の陸軍設置の際に取り壊されて現存しない。[[2007年]](平成19年)に桜門橋を復元している<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/s70/2845684/_10326/_10381.html 桜門橋(さくらもんばし)]</ref><ref>[http://www.geocities.jp/uki_3xm01/99_blank030.html 桜門橋の発掘・復元工事]</ref>。
 
 
==== 西の丸 ====
 
西の丸は[[本多忠政]]が[[伊勢国|伊勢]][[桑名藩|桑名]]から移ってきた時に整備・拡張された曲輪。北端に位置する化粧櫓及び櫓群と、これらを結ぶ渡櫓(長局)が残っている。
 
 
;渡櫓(長局)
 
:渡櫓の城外側は幅1間の廊下が「カの渡櫓」から「レの渡櫓」まで長さ約121間(約240m)に渡って連なっており「百間廊下」と呼ばれている。城外に向けて[[石落とし]]や[[狭間]]、鉄砲の煙出しの窓も付設されている。城内側は[[侍女]]達の部屋があり主室と付属室などに区分され長局を構成している<ref>[http://www.city.himeji.hyogo.jp/event/newsletter/vol_29/oshiro-info/index.html お城からの手紙vol.29]</ref>。昭和の大修理の際に、草花模様で彩色した痕跡のある柱が発見されている。
 
 
;化粧櫓
 
:化粧櫓は、[[千姫]]が忠政の嫡男・[[本多忠刻|忠刻]]に輿入れする際の[[化粧田|化粧料]]10万石で[[1618年]](元和4年)に建てられたものである。外観は二重二階、内部は畳が敷かれた座敷部屋が3室に区分され[[床の間]]がある奥御殿になっている<ref group="注釈">天守南東部の「帯の櫓」にも座敷・床の間がある。</ref>。戦前の修理までは、化粧櫓にはその名の通り当時の化粧品の跡が残っていたという。
 
 
千姫は西の丸内に設けられた中書丸<ref group="注釈">忠政の息子で千姫の夫、忠刻の役職「中務大輔(唐名中書)」に由来する。</ref>(天樹院丸<ref group="注釈">千姫の号「天樹院」に由来する。</ref>)と三の丸脇の武蔵野御殿に住んでいたが、いずれも現在は失われている。
 
 
[[ファイル:Himejijou castle grounds.jpg|thumb|640px|none|姫路城天守から西の丸を望む。]]
 
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ファイル:Himeji Castle No09 049.jpg|化粧櫓
 
ファイル:Himeji Castle No09 028.jpg|ルの櫓とヨの渡櫓
 
ファイル:Himeji Castle No09 033.jpg|ヨの渡櫓の通路
 
ファイル:Himeji Castle No09 035.jpg|カの渡櫓の侍女部屋
 
ファイル:Himejicastle-ishiotoshi2.jpg|西の丸櫓内の石落としと狭間
 
Himejicastle-wa-ka-no-yagura.jpg|本城跡から見た西の丸にあるワの櫓・カの櫓・土塀。
 
ファイル:Himejijo sakura3.jpg|西の丸から望む天守
 
</gallery>
 
 
==== 勢隠曲輪 ====
 
天守東部の搦め手から北部一帯の広い曲輪で喜斎門・八頭門・北勢隠門・南勢隠門で仕切られていたが、いずれの門も建築物は無く石垣が残っている。内堀に面する北側は屏風折れに石垣が組まれ死角を少なくしている。「ゐの櫓」・内船場蔵・下三方蔵があった。[[酒井忠実]]の時代にはこの曲輪内で南部産の馬を飼育していた<ref>『姫路城案内』四十三頁「南勢隠門」</ref>。東端区域は[[姫路神社 (姫路市)|姫路神社]]になっている。大正時代に一般公開されてから終戦までは搦め手の登城口から入城していた。勢隠曲輪と三の丸は本来は繋がっていなかったが、[[1933年]](昭和8年)、三の丸東部の内船場蔵と喜斎門南の下三方蔵を繋ぐ通路が整備され、[[1957年]](昭和32年)に拡幅した。[[2017年]]([[平成]]29年)の石垣修復による調査で竪堀の跡や新たな刻印の発見などがあった<ref>[http://www.sankei.com/region/news/170125/rgn1701250063-n1.html 姫路城で江戸初期の石垣発見 一部には刻印確認]</ref><ref>[https://twitter.com/i/web/status/827436229134209024 千田嘉博_奈良大学]</ref>。
 
 
=== 中曲輪 ===
 
[[ファイル:Old map of Himeji castle.jpg|thumb|姫路古地図]]
 
中曲輪は武家地で、城主が居住する東屋敷・西屋敷(樹木屋敷)、家老などの上級武士の侍屋敷などが建ち並んでいた。内曲輪の正面(南側)やそこに近いほど役職が高く広い屋敷を与えられた。東部から北部にかけては中級から下級武士の屋敷、南部には姫路[[藩校]]の[[好古堂]]、東部端には桐の馬場があった。明治維新後から太平洋戦争終了まで帝国陸軍が置かれ軍の建物や広大な練兵場になっていた。桜門へ通じる大手筋があった城南部は城南練兵場に、城北部は姫山練兵場になり、城南西部は[[歩兵第39連隊]]が、城東部は[[第10師団 (日本軍)|第10師団]]司令部や衛生病院が建設されていた。終戦後は城の北東部に市役所(現在の市立美術館)、裁判所、検察庁、労働基準局、保健所などの官公庁があった。[[酒井氏]]時代の筆頭[[家老]]・[[高須隼人]]の屋敷があった場所は平成になって『姫路侍屋敷図』を元に大手筋の復元や飲食店や土産物販売をする家老屋敷館(い・ろ・は・にの屋敷)が建てられた家老屋敷跡公園に整備された。家老屋敷館の[[シャッター]](36箇所・全長134m)には『行軍横図 鉄砲洲警衛絵巻』(姫路市所蔵)が描かれている<ref>[http://www.bunka-s.co.jp/corporate/cult_sports/cult_sports_himeji.html シャッター壁画 姫路藩鉄砲洲警衛絵巻]:[[文化シヤッター]]</ref><ref>[http://hsuishin.exblog.jp/8513625/ シャッター壁画 お披露目]:姫路市広報ブログ</ref>。
 
 
==== 中曲輪の門 ====
 
内曲輪の南勢隠門から堀が続く中曲輪には11の門があり、中曲輪西部の市ノ橋門から反時計回りに車門・埋門・鵰門(くまたかもん)・中ノ門・総社門・鳥居先門・内京口門・久長門・野里門・清水門となっている。いずれも門や櫓などの建物はなく石垣や土塁が残っている。
 
*市ノ橋門
 
:中曲輪の西側で、外堀に最も接近した門であり、外堀の外へ通じている。門のすぐ西にある市ノ橋に由来する。
 
*車門
 
:中曲輪の西側、船場川沿いにあった門で、北に車([[荷車]])が通行する車道門があったことに由来する。普段は車道門を使わず南側の枡形門を使っていた。第一門は西向き、第二門は南向きでいずれも脇門付高麗門、内門は南向きで脇門付櫓門の3つの門で二重枡形を構成していた。第一門の横には[[番所]]が置かれていた。[[木橋]]が架けられており、外側の船場川とは[[水門]]で繋がっており船溜まりがあった。枡形は2つの門で構成される事が多いが、車門の枡形は西国方面への攻守両面に備えて3つの門で構成した厳重な二重枡形になっている。石垣は池田輝政の築城時に築かれたものと推定されている。
 
*埋門(うずみもん)
 
:中曲輪の南西隅櫓の傍ら、船場川沿いにあった門。城から見て[[鬼門|裏鬼門]]の方角(南西)に当たることに由来する。内門(脇門付櫓門)と外門(脇門付高麗門)はともに南向きで中堀には土橋を架けていた。
 
*鵰門(くまたかもん)
 
:中堀南部の西側、[[本町 (姫路市)|本町]]と[[坂元町 (姫路市)|坂元町]]との境にあった門で、城主交代の際、ここで鷹を手渡す儀式が行われたことに由来する。内門(脇門付櫓門)と外門(脇門付高麗門)はともに南向きで中堀には[[土橋]]を架け、外門を入った所には番所があった。門外に鷹の世話をした人の町・鷹匠町(たかじょうまち)の地名が残っている。
 
*中ノ門
 
:中堀南部中央にあった門。外曲輪の飾磨門から内曲輪の桜門へ通じる大手筋にあった。終戦後に[[大手前通り (姫路市)|大手前通り]]が整備されるまでは大手筋は、江戸時代から明治末期は中ノ門筋(現在の大手前通りの西側)、明治末期から昭和30年代は[[みゆき通り (姫路市)|みゆき通り]](現在の大手前通りの東側)であった<ref>[http://hleader.exblog.jp/24624106/ 11の門 その5~江戸時代のメインストリートは中ノ門~]</ref>。中曲輪の正面五門の中央であることに由来する。
 
*総社門
 
:中堀南部(中ノ門の東)にあった門。[[射楯兵主神社|播磨国総社]]の西門に通じていることに由来する。
 
*鳥居先門
 
:総社門の東にあった門。播磨国総社の南鳥居の前にあったことに由来する。祭事以外では開けることがなかったので、不開門(あかずのもん)とも言われた。石垣など遺構は残っていない。
 
*内京口門
 
:中堀東南にあった門。外曲輪の外京口門とともに京都方面に通じることに由来する。戦後は賢明女子学院の裏門になっている。
 
*久長門(きゅうちょうもん)
 
:中堀東側にあった門。[[久長町]]にあることに由来する。内門(脇門付櫓門)と外門(脇門付高麗門)はともに東向きで中堀に土橋が架けられ、外門の内側に番所があった。石垣の一部は残っている。
 
*野里門
 
:中堀北東にあった門。[[野里]]への出入口にあることに由来する。内門(脇門付櫓門)は北向き、外門(脇門付高麗門)は東向きで中堀に土橋を架け横矢を仕掛けるため堀を鍵型に屈曲させていた。土塁は残っているが石垣は残っていない。
 
*清水門
 
:北面の北勢隠にあった門。「鷺の清水」と呼ばれる井戸があることに由来する。中堀と外堀の合流地点。枡形内にある鷺の清水跡は、[[播磨十水]]の一つに数えられ、『[[播磨鑑]]』には京都の名水「[[柳の水]]」と飲み比べられたという記述の他、歴代城主が[[茶道|茶の湯]]などにも利用した井戸の跡であり、平成になって『人口幾蔵姫路城図』([[1823年]](文政6年))などを参考に上屋形が復元された<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/kouhou/kouhoushi/backpdf/h00/pdf_h04/19921101765.pdf 広報ひめじ]</ref>。
 
 
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ファイル:Ichinohashi-mon-gate.jpg|市ノ橋門跡
 
ファイル:Kuruma-mon-gate.jpg|車門跡
 
ファイル:Uzumi-mon-gate.jpg|埋門跡
 
ファイル:Kumataka-mon-gate.jpg|鵰門跡
 
ファイル:Nakano-mon-gate.jpg|中ノ門跡
 
ファイル:Sousha-mon-gate.jpg|総社門跡
 
ファイル:Uchikyouguchi-mon-gate.jpg|内京口門跡
 
ファイル:Kyuuchou-mon-gate.jpg|久長門跡
 
ファイル:Nozato-mon-gate-gate.jpg|野里門跡
 
ファイル:Shimizu-mon-gate.jpg|清水門跡
 
</gallery>
 
 
=== 外曲輪 ===
 
外曲輪には下級武士や町人の居住区・寺院などが置かれた。[[広峰山]]を山あて(目印)にした立町筋(竪町筋)を中心に、78町に町割りした城下町(姫路町)が形成された。姫路市中心部に現在も残る町名として、鍛冶町・白銀町・金屋町・材木町・紺屋町などの職人の町、呉服町・綿町・米屋町・塩町・魚町・博労町などの商人の町、小姓町・鷹匠町・同心町・坊主町など身分に因む町名、上寺町・下寺町などの寺社の町がある。[[二階町 (姫路市)|二階町]]には国府寺[[本陣]]や[[脇本陣]]、家老の[[河合道臣]]が藩の財政を立て直すために作った木綿会所・切手会所、札の辻などがあった。
 
 
2012年9月28日、市内平野町での住宅建設工事における調査で17世紀初め頃の外曲輪の武家屋敷跡が発見されたと姫路市埋蔵文化財センターが発表した<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/koho/press/_26228/_27787/_28016.html 姫路城城下町跡(平野町)発掘調査の成果について]</ref><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/homeguide/news/20120928-OYT8T00391.htm 築城直後の井戸や排水溝跡を確認]:読売新聞[[2012年]][[2月28日]]</ref>。池田時代の外曲輪の遺構が見つかるのは初めて。江戸時代後期の絵図では川合又四郎の屋敷にあたり井戸・溝跡などの遺構の他、「[[安永 (元号)|安永]]九年」([[1780年]])と書かれた茶碗など17世紀から幕末にかけての土器・陶磁器なども発見された。
 
 
==== 外曲輪の門 ====
 
中曲輪の清水門から続く外曲輪には5つの門があり、外曲輪南西部の備前門から反時計回りに飾磨津門・北条門・外京口門・竹ノ門となっている<ref>[https://www.himeji-kanko.jp/files/pdf/pamphlet/p02_09.pdf 姫路観光ナビ「姫路城外堀めぐり」(PDF)]</ref>。いずれも門や櫓などの建物はなく石垣や土塁も破壊または地中に埋められている。
 
*備前門(または備前口門・福中門)
 
:外堀南西にあった門。西の[[備前国]]へ通じることに由来する。中堀・外堀に面していた。[[2014年]](平成26年)[[9月17日]]、県道整備に伴う調査で市内博労町付近の外堀に掛かっていた備前門橋の礎石と外堀の両岸にあった石垣を発掘したと[[兵庫県立考古博物館]]と姫路市教育委員会が発表した。外堀に掛かっていた橋は5つあったが遺構が発見されたのは初めてで[[絵図]]や[[屏風]]絵などの資料と一致する。橋の礎石は長さ1.2mから1.4mの直方体の石が4本、欄干の礎石は45cm四方で15cmの穴が開いていることから角材と推測される。調査に立ち会った広島大学大学院教授の[[三浦正幸]]によると「江戸時代に備前門にかかっていた木橋の一部に間違いない。橋は幅約3間(5.4m)以上あり、西国街道が通る立派な木橋だったと推定できる。当時の木橋は幅1間(約1.8m)。メーンストリートである西国街道から西日本最大級の城下町への入り口として、極めて大きな橋が架けられたことが実証できた。」とのこと。また城から南東の[[神屋町 (姫路市)|神屋町]]で見つかった外堀(堀幅は約17m)の石垣は逆L字に石垣が屈曲する部分で、城内側は南北約5m、東西約1.8mが出土した。石垣は幅60cmから90cmセンチ、厚さ20cmから40cmの凝灰岩を2m以上積み上げていた。対岸の石垣は南北約5.5m、高さ約0.7mが残っていた。形状や加工方法から築城当初の物と判断でき、江戸時代の水害で補修した跡も見つかった<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/koho/press/_30718/_32415/_32561.html 姫路城外堀の発掘調査成果について]</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=-mx_gD_ddpc 姫路城外堀発掘調査で橋の遺構確認]</ref><ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201409/0007340402.shtml 姫路城下の全容浮かぶ 石垣で囲い、入り口に巨大な橋]</ref><ref>[http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140918-00000016-san-l28 姫路城外堀、橋の一部発見 初の構造物、新たに石垣も]</ref>。現地説明会も行われた。[[平成29年]]9月、備前門の石垣跡が発掘された<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/maibun-center/gensetsu.html 姫路城城下町跡(備前門)の現地説明会のご案内]</ref><ref>[http://www.iza.ne.jp/kiji/life/news/170921/lif17092110110003-n1.html 姫路城の備前門跡から石垣発見 外曲輪か]</ref><ref>[http://www.asahi.com/articles/ASK9N439DK9NPIHB00M.html 兵庫)姫路城 まぼろしの「備前門」石垣を確認]</ref>。私有地であるため調査後は埋め戻された。
 
*飾磨津門(または飾磨門・飾万門)
 
:外堀南部にあった門。中ノ門筋から南の飾磨津([[姫路港]])へ通じる事に由来する。東西60m南北80mの門があった。[[山陽姫路駅]]建設時に埋め立てられた。
 
*北条門
 
:外堀南東部にあった門。城南東部の北条地域へ通じることに由来する。[[兵庫信用金庫]]本店前[[交差点]]付近にあった。[[2013年]](平成25年)11月、発掘調査により城下南東部にあった北条口門付近で下級武士の建物跡とみられる掘立柱建物の跡や柱穴列などが発掘された<ref>[http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/131123/wlf13112312070021-n1.htm 武家屋敷配置に一定の計画性 姫路城城下町跡の発掘]</ref>。[[2014年]](平成26年)11月26日には、江戸時代の姫路城城下町跡(市内北条口)で武士の居住区と町人の居住区を分けた溝が初めて見つかった<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/himeji/201411/0007536403.shtml 武家屋敷と町屋、江戸時代の区分けの溝確認 姫路城城下町跡]</ref><ref>[http://www.asahi.com/articles/ASGCT4C94GCTPIHB00J.html 兵庫)姫路城下に江戸初期の溝 武家屋敷と町家の境界か]</ref>。中世の溝を踏襲した形で溝の北側が町人、南側が武士の居住区となっていた絵図と合致する。
 
 
*外京口門
 
:外堀東部にあった門。中曲輪の内京口門とともに京都方面に通じることに由来する。[[姫路市立東光中学校]]の体育館床下に石垣が保存されている<ref>[http://hleader.exblog.jp/23798177/ 11の門 番外編~体育館の地下に眠る外京口門~]</ref>。この門が面していた外堀東部の東半分が明治時代に埋め立てられ、[[生野銀山]]と[[姫路港|飾磨港]]を結ぶ[[生野鉱山寮馬車道]](銀の馬車道)が整備された。
 
*竹ノ門
 
:外堀北東部にあった門。城の北東、鬼門に当たるため「他家→竹」としたことに由来する。北西に進み[[野里堀留町]]で堀の終点となる。
 
 
2012年[[11月15日]]、市内[[白銀町 (姫路市)|白銀町]](当時の町屋と[[浄恩寺]]があった場所に相当)での発掘調査で[[礎石]]・石組・井戸・土坑・[[かまど]]などの跡が発見されたと姫路市埋蔵文化財センターが発表した<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/koho/press/_26228/_28092/_28269.html 姫路城城下町跡(白銀町)発掘調査の成果について]:姫路市埋蔵文化センター2012年11月15日</ref><ref>[http://mainichi.jp/feature/news/20121116ddlk28040424000c.html 姫路城城下町跡:礎石見つかる 町屋の構造知る手がかりに]:毎日新聞2012年11月16日</ref>。
 
 
=== 野里・船場・外縁 ===
 
[[File:Himejicity-nozato-nokogiriyokocho.jpg|thumb|250px|野里の「ノコギリ横丁」。]]
 
城北の野里(野里町)や城西の船場(龍野町)は外堀の外縁にあって総構えには含まれてはいないが、築城以前からある町で、野里は[[但馬道]]、船場は山陽道や[[船場川]]と通じており流通や交通で栄えた。野里や船場の建物は三叉路や街路に対し斜めに配置されたノコギリ横丁と呼ばれている<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/event/newsletter/vol_32/oshiro-info/index.html ユニークな形状で城を防御する「のこぎり横町」]</ref>。城下に攻め込まれた場合にも斜めに配置することで死角に身を隠すことが出来た。
 
{{-}}
 
 
== 修理の歴史 ==
 
=== 江戸時代の修理 ===
 
大天守の大規模な補強修理は、[[1656年]]([[明暦]]2年)に東・西大柱の腐った根元を取り除き栂材をはめ込み、更に帯鉄を巻き添え柱を建てる根継ぎ補強工事、[[1684年]]([[貞享]]元年)と[[1700年]]([[元禄]]13年)の梁などへの補強支柱の組み入れの他、1692年(元禄5年)、1743年([[寛保]]3年)にも行われている。小規模な修理では、軸部の補強修理19回、屋根や軒廻りの修理17回が墨書などにより確認されている<ref>『姫路城の基礎知識』の「江戸時代の保存工事」</ref><ref>[http://www.bunkenkyo.or.jp/news/2013/11/post-14.html 工事進捗情報 2013.11.11 姫路城大天守(兵庫県)]</ref>。酒井氏時代には「姫路城は広大で修繕する箇所が多い」、「壁の塗り直し以外にも基礎の手入れを怠らぬように」といった趣旨の記録が残っている<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/event/newsletter/vol_37/oshiro-info/index.html お城からの手紙vol.37]</ref>。姫路城は江戸時代にもたびたび修理が行われてきたが、当時の技術では天守の重量に[[礎石]]が耐えられず沈み込んでいくのを食い止めることは難しかった。加えて柱や梁などの変形も激しく、<!--江戸時代後期には-->俗謡に『東に傾く姫路の城は、花のお江戸が恋しいか』などと歌われる有様であった<ref name="no1">加藤得二『日本城郭史研究叢書9 姫路城の建築と構造』名著出版</ref>。
 
 
=== 明治の大修理 ===
 
==== 第一期工事 ====
 
工事は[[1910年]](明治43年)7月10日から[[1911年]](明治44年)7月15日に行われ、修理個所は、大天守・東小天守・西小天守・乾小天守・はの渡櫓・ろの渡櫓・いの渡櫓・にの渡櫓・台所・水の四門・水の五門・水の六門が対象となった。
 
 
[[1910年]](明治43年)6月24日、[[第10師団 (日本軍)|第10師団]]経理部で工事入札が行われ、中村祐七(姫路)、松村雄吉(福知山)、中村勘次郎(神戸)、澁谷治三郎(京都)、大溝組(大坂)が参加、中村祐七が当時の額5万6900円で落札した<ref>『姫路城誌』九頁</ref>。同年7月10日から工事が行われ、まず資材の搬入出をするために大天守の東側の喜斎門側から全長150m、幅4mの桟橋が架けられた。桟橋にはモーターで巻き上げるワイヤーロープが設置され[[トロッコ]]で資材を運び、天守の周りには1万本の木材を組んで足場が組まれた<ref>『姫路城誌』十頁</ref>。[[筋交い]]を2層目に3本、3層目に6本、4層から7層目には8本入れ、支柱を2層と3層目の東南部分に各14本入れた。破損や腐食のある[[梁 (建築)|梁]]・桁・隅木・棟木・根太・床板・[[破風]]は取り換えられた。瓦は全て取り外され半数は洗浄の後に再利用された<ref group="注釈">新たな瓦は西谷増吉、福永正太郎、林営松らの瓦師によって制作された。</ref>。葺き替えの際には屋根漆喰は5回の重ね塗りが行われた。
 
 
木材は大天守の各階の壁面に[[筋交い]]柱として組み入れボルトで締められた。同時に大天守の屋根修理と壁漆喰の塗り直しも施された。しかし、明治の大修理では天守の傾きを根本的に修正するには費用が足りず、傾きが進行するのを食い止めるに留まった。
 
 
==== 第二期工事 ====
 
修理個所は、井郭櫓・折曲櫓・帯郭櫓・帯渡櫓・菱の門・喜斎門・各門(に・ほ・へ・と・ち・り・ぬ)・各櫓と渡櫓(い・ろ・は・に・ほ・ち・り・を)・土塀各所が対象となった他、場内の通路整備などが行われた<ref>『姫路城誌』十一頁</ref>。
 
 
[[1910年]](明治43年)10月25日、第一期工事と同じ場所と参加人で工事入札が行われ、松村雄吉が2万9015円で落札した<ref>『姫路城誌』十一頁</ref>。同年11月5日から第一期工事の資材を再利用して工事が始まった。
 
 
=== 昭和の大修理 ===
 
昭和の大修理は、[[1934年]](昭和9年)6月20日、西の丸の「タの渡櫓」から「ヲの櫓」が豪雨のため石垣もろとも崩壊したことに端を発する<ref name="repair">歴史群像シリーズ「よみがえる日本の城」第4巻 P38</ref>。[[1935年]](昭和10年)2月から修復工事が始まったが同年8月の雨で「ルの櫓」の石垣が崩落する。これを受けて修理計画を見直し西の丸全域の修理を国直轄事業で進め、全ての建物を一度解体してから部材を修復し再度組み立て直すという方法が採られることとなった。大工棟梁は和田通夫<ref>息子の和田達也は姫路城管理事務所長。</ref>。建築物の修復の他、石垣の修復も行われたが、その際に作業員が死亡している<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/event/newsletter/vol_39/oshiro-info/index.html 昭和の築城とも呼ばれ、延べ25万人が 従事した「昭和の大修理」]</ref>。
 
 
==== 第一期工事 ====
 
第一期工事は1935年(昭和10年)から[[1950年]](昭和25年)3月まで行われることとなり<ref name="repair"/>、まず天守以外の建物のある西の丸及び北腰曲輪の櫓群や門・土塀などがその対象となった。[[1938年]](昭和13年)に西の丸の解体修理が終わり北腰曲輪の修理に取り掛かるが[[1944年]](昭和19年)、太平洋戦争での日本の戦局悪化により中断を余儀なくされた。
 
 
==== 第二期工事 ====
 
[[姫路空襲]]による焼失の危機を免れると、[[1949年]](昭和24年)、姫路市長らが「白鷺城修築期成同盟」を結成し市民の署名とともに『姫路城補修、保護施設費国庫補助請願』を政府に提出し、衆議院本会議において採択された。国からの1300万円(当初予算1千万円と災害費300万円)と、県と市を併せて300万円の合計1600万円(金額は全て当時の額)の予算が組まれ[[文部省]]直轄事業で行われた<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/kouhou/kouhoushi/backpdf/s20/pdf_s26/19510101016.pdf 『広報ひめじ16号』(昭和26年1月)](PDF)</ref>。[[1950年]](昭和25年)に大修理が再開され、第二期修理計画は第一次と第二次に分かれて行われた。
 
 
;第一次六カ年計画(昭和25年度 - 昭和30年度)
 
:菱の門<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/kouhou/kouhoushi/backpdf/s20/pdf_s26/19511010034.pdf 『広報ひめじ34号』(昭和26年10月)](PDF)</ref>・帯の櫓・帯郭櫓などの櫓8棟のほか、門7棟、土塀13箇所、石垣3箇所が解体修理され、[[1956年]](昭和31年)3月末までに<ref name="repair"/>天守以外の修理を完了した。第一次修理では当時の額で約1億円を要した。
 
;第二次八カ年計画(昭和31年度 - 昭和39年度)
 
:大天守・東小天守・西小天守・乾小天守とイ・ロ・ハ・ニの各渡櫓などの解体修理が行われた。一般で言われている昭和の大修理は、この第二次修理を指している。
 
[[ファイル:Himejicastel-soseki.jpg|thumb|三の丸に移設展示されている築城当時の礎石]]
 
:1956年(昭和31年)より天守大修理に着手することとなる<ref group="注釈">1964年までの工事を第2期第2次工事と呼ぶ。</ref>。特に天守においては、その全体に木材で足場を組み巨大な素屋根を掛けて解体・修復工事が行われた。姫路城より先に解体修理が行われた[[松本城]]<ref group="注釈">松本城の解体修理は[[1950年]](昭和25年)から[[1955年]](昭和30年)。</ref>で使われていた素屋根の丸太も再利用された<ref>[http://www.city.matsumoto.nagano.jp/miryoku/siro/history/rekishi.html 松本市公式サイト「松本城の歴史」]</ref>。解体修理によって柱や桁などの構造物に書き込まれていた様々な墨書や文書、備前丸の御殿跡などの発見があり姫路城の研究に大きく役立てられた。[[基礎]]部分は工事前の調査で南東に44cm地盤沈下していると判明し、礎石のままでは天守の重量を支えきれないため礎石を撤去し<ref group="注釈">三の丸広場北方にそのままの配置で移動された。</ref>、新たに十弁式定盤基礎という[[鉄筋コンクリート]]製の強固な基礎構造物が姫山の岩盤上に直接構築された。この時、羽柴秀吉が城主だった頃築かれた天守の礎石や石垣が地下から発見された。
 
 
[[ファイル:Himejijo west central-pillar.jpg|thumb|保存展示されている旧・西心柱(西大柱)]]
 
:天守を解体した時、これを支えていた東西の「心柱」のうち、西の心柱が芯から腐って再利用不能であると判断され、ただちにこれに替わる巨木探しが始まった。兵庫県[[神崎郡]][[市川町]]の[[笠形神社]]境内の[[ヒノキ|檜]]が検討されたが、上部に曲がりがあり、また、根元にも腐っている疑いがあり保留になった。[[1959年]](昭和34年)になってようやく[[岐阜県]][[恵那郡]][[付知町]](現[[中津川市]])の山中に最適な檜が発見されたが、これは切り出す途中に折れてしまい、その近くで発見されたもう1本は[[森林鉄道]]を用いて運搬する途中でそのあまりの長さゆえに折れてしまった<ref group="注釈">森林鉄道では運材台車と呼ばれる2台1組の首振り機構のついた2軸トロッコの上に木材をまたがらせて輸送する。このため、極端に長い木材の場合、中央部に支えがなく、また木材自体を機関車の牽引力伝達に用いることから、停車時の衝撃や自身の重みなどで折れてしまう恐れがあった。</ref>。窮余の策として、折れた2本目の根本側と笠形神社の檜とを継ぎ合わせて使用されることとなった。実は修理以前の西心柱は元々二本継ぎで作られており、修理開始の段階ではその理由が判明しておらず、そのため分割なしの1本の柱を立てることが計画されたのであるが、交換部材が前述のアクシデントで2本継ぎとされることが決まり、実際に組み立て作業が行われる段階になって、これは構造上中央部で2分割しないと立ち上げ時に先に立てられた東心柱に干渉し、狭い作業空間内で正しく組み上げられないことが判明した。これらの檜は姫路市民総出で[[大手前通り (姫路市)|大手前通り]]を祝い引きされ、姫路城内へと運び込まれた。
 
:天守の修理に当たっては、他に重量低減のため特に工夫を加えて焼成された軽量瓦や、耐震補強のための金具類が新たに使用されている。一方で石垣などそのままで差し支えないと判断されたものはほとんど手を加えられていない。天守の修理は[[1964年]](昭和39年)竣工(完了)した<ref name="shisei1" />。
 
:天守の工事費は約5億3000万円であった。のべ25万人の人員と戦前修理分の費用を物価換算して戦後の費用と合計すれば、1964年当時の価格で約10億円に相当すると考えられている。
 
 
=== 平成の修理 ===
 
[[ファイル:Himeji Castle The Keep Towers.jpg|thumb|250px|小天守修理後。平成の修理(平成17年)以前の天守群]]
 
[[ファイル:Himeji Castle 2013-05-26 834.JPG|thumb|平成の修理のため覆われた姫路城(2013年5月26日)]]
 
[[ファイル:2014-09-14-Himeji-Castle.JPG|thumb|平成の修理を終えた姫路城。<br>漆喰にカビが発生していないため全体的に白く見える。]]
 
工事正式名称は「'''国宝姫路城大天守保存修理工事'''」で工事期間は[[2009年]][[6月27日]]着工から[[2015年]][[3月18日]]竣工。事業費は28億円(素屋根工事費 12億6千万円、補修工事費 15億4千万円)と見積もられている<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/s110/2212786/_11311.html 広報ひめじ2008年5月号特集]</ref>。施工は[[鹿島建設]]・神崎組・立建設[[共同企業体|JV]]。「昭和の大修理」により「50年は保つ」と言われていたが、大修理から45年が経過した時点で予想以上に[[漆喰]]や[[木材]]の劣化が進んでいたため、大天守の白漆喰の塗り替え・瓦の葺き替え・耐震補強を重点とした補修工事が進められている<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/s70/2845684/_11311.html 姫路城大天守保存修理事業について]</ref>。漆喰はカビが原因で黒ずみが発生するため防カビ強化剤が塗布された<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0005133324.shtml 姫路城の漆喰に防カビ強化剤 白鷺、白いままで]神戸新聞2012年6月13日</ref><ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201407/0007139091.shtml 社会|姫路城白過ぎ!? 「違和感」の声も… 漆喰一新「本来の姿」]</ref>。天守台入り口付近・上山里下段・清水門・車門・内京口門各所の石垣修復には[[竜山石採石遺跡|竜山石]]が使われた<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201501/0007703615.shtml 文化財修復で脚光 1700年の歴史持つ高砂・竜山石]</ref>。
 
 
[[2009年]](平成21年)[[4月6日]]から保存修理を目的にした「平成の「姥が石」愛城募金」が行われている<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/s70/2845684/_19615.html 姫路城大天守保存修理事業への寄附金を募集します(平成の「姥が石」愛城募金)]</ref>。
 
 
*素屋根工事 - 大天守を覆う工事作業用の8階建物の建設と解体工事。素屋根を設置する場所も[[史跡]]内であるため杭を打ち込むなどの工事は出来ず自重で固定・建っていた。また木造建築がある史跡内では火が使えないため溶接ではなく[[ボルト (部品)|ボルト]]締めで組み立てられていた<ref>[http://www.iza.ne.jp/kiji/life/news/140514/lif14051412430018-n1.html 大修理佳境の姫路城 “平成の白鷺”の姿あわらに]</ref><ref>[http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140712-00000002-pseven-soci 姫路城「平成の大修理」が最終段階 担当者が困難な作業語る]</ref>。資材搬入や作業用足場、見学部屋などを設置していた。
 
*屋根修理 - 瓦の全面葺き直し。瓦は検査をした上で使える物は再利用し、再利用ができない分は新しい瓦に取り替えられた。平瓦は全て[[ステンレス鋼]]製[[釘]]で、丸瓦は3枚に1枚を[[銅]]線で瓦留めをして目地漆喰を塗り直された。
 
*壁面修理 - 1-4層は、表面の漆喰を塗り直し、軒揚・破風・[[破風#懸魚|懸魚]]は傷み具合によって上塗りまたは下地から修理。5層は下地の土壁から塗り直す全面修理。破風下の窓には[[鳩]]避けの[[ピアノ線]]が張られた<ref>[http://kojodan.jp/blog/2013/10/316.html 姫路城の保存修理工事エリア見学会に参加してきました]</ref>。
 
*構造補強 - 柱・床に最小限度の耐震補強工事。
 
昭和の大修理のような大規模解体修理ではないため、工期中も工事や安全に支障がない範囲で大天守内部と周辺の公開は続けられていた。大天守を覆う素屋根は徐々に設置・解体されるために工事の進み具合で見え方は異なった。[[2010年]](平成22年)春頃までは大天守の外観を見ることができたが、[[2011年]](平成23年)春頃からは大天守からの展望や外観の展望が完全に望めなくなっていた。また大修理のことを知らずに旅行で日本を訪れ、現地で大天守に登ることができないことを知り落胆する外国人観光客が後を絶たないとも報じられた<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100601-OYT1T00484.htm キイテナイデス姫路城大修理…外国人観光客]{{リンク切れ|date=2012年5月}}、YOMIURI ONLINE([[読売新聞]])、2010年6月1日</ref>。素屋根の撤去が進んだ[[2014年]](平成26年)5月初旬には大天守の姿が見え始め、6月中旬にはほぼ全体が見えるようになっていた<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=aRPXvw6OsbQ 姿を現した姫路城の大天守]</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=xRDusgV_dsI 「平成の大修理」進む姫路城]</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=U8m8nNaWgnQ 白鷺の輝き再びまぶしく 姫路城の囲い、ほぼ撤去]</ref>。
 
 
*[[2009年]]
 
**5月:鹿島建設・神崎組・立建設JVが16億2千万円で落札。
 
**8月8日:起工式・安全祈願祭を開催。
 
**10月9日:工事着工。
 
**11月16日から工事完了まで搦手口からの入城ができなくなる。
 
*[[2012年]]
 
**[[4月7日]]:新調する大天守の[[鯱]]が[[姫路駅]]から三の丸広場まで祝曳された<ref>[http://www.asahi.com/national/update/0407/OSK201204070041.html 姫路城の「鯱瓦」が新調 市内でお披露目パレード]:朝日新聞(2012年4月8日)</ref><ref>[http://www.youtube.com/watch?v=LDBBPMI756g 姫路城鯱瓦祝曳き(産経新聞動画)]</ref>。奈良県の[[山本瓦工業]]で新調されたのは鯱4尾で、高さは約190cm、重量は約300kg。それぞれに播州一郎、次郎、三郎、四郎と名前が付けられた。一郎と次郎は大天守に据え付けられ三郎は2015年2月に姫路市に寄贈された<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/himeji/201502/0007751153.shtml 姫路城「平成の大修理」の鯱瓦1尾寄贈 奈良の棟梁]</ref>。
 
**6月:大天守最上層の屋根に新調した鯱2対が据え付けられた<ref>[http://www.asahi.com/national/update/0605/OSK201206050029.html 姫路城、守り神堂々と 新調の鯱瓦を据え付け作業を公開]:朝日新聞(2012年6月5日)</ref><ref>[http://www.youtube.com/watch?v=RnX3tTnQBRM 姫路城大天守で鯱瓦の設置完了(産経新聞動画)]</ref>。
 
**11月:大天守の瓦の葺き替えが終了したと22日に報道された。葺き替えの対象となった約8万枚(後に約7万5000枚に修正<ref name="kawara75k">{{Cite news |title=姫路城大天守の瓦「7万5千枚」に 再集計で判明 |url=http://www.kobe-np.co.jp/news/himeji/201502/0007773324.shtml |date=2015-02-26 |newspaper=神戸新聞 |publisher=神戸新聞社 |accessdate=2015-02-27}}</ref>)のうちおよそ80%は再利用され、残りの20%程は奈良県の[[日本伝統瓦技術保存会]]によって新調され葺き替えられた<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201211/0005546267.shtml 姫路城「平成の大修理」 大天守の瓦葺き替え完了]:神戸新聞(2012年11月22日)</ref><ref>[http://www.47news.jp/CN/201211/CN2012112201001532.html 姫路城の大天守、白壁よみがえる 最上層の修理終了]:47NEWS(2012年11月22日)</ref>。大天守の工事が完了し、これより素屋根の撤去作業を開始した。
 
*[[2013年]](平成25年)[[12月7日]]から[[2014年]](平成26年)[[3月7日]]まで、上山里下段石垣の修理が行われた。石材の抜け落ち割れや石の隙間に入れた間詰石の脱落があるため、石材の補強と間詰石の補充が行われ、修理完了年の[[2月9日]]にはこの修理工事の現地説明会が行われた<ref>[http://www.city.himeji.hyogo.jp/koho/press/_30718/_30855/_30918.html 姫路城跡上山里下段石垣の修理について]</ref><ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/koho/press/_28474/_29062/_29181.html 羽柴秀吉時代の石垣(姫路城上山里下段)修理について]</ref><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hyogo/news/20140206-OYT8T01514.htm 秀吉の石垣修復完了へ 姫路城]</ref><ref>[http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140207/wlf14020707360001-n1.htm 官兵衛が築いた?「野面積み」 姫路城石垣の保存修理工事ほぼ完了 9日に現地説明会]</ref><ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/himeji/201402/0006690549.shtml 姫路城、秀吉時代の石垣修理 9日現地で説明会(動画)]</ref>。
 
*[[2014年]]
 
**10月8日:工事用素屋根の解体・撤去が終了<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201410/0007402440.shtml 姫路城「平成の大修理」 素屋根の解体作業完了]</ref>。
 
**10月31日:姫路市は再公開後の3月27日から5月10日までの期間で安全管理のために1日の入場者数を1万5千人までに限定すると発表した<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/koho/press/_30718/_32630/_32893.html 大天守グランドオープンに伴う来場者安全対策について]</ref><ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201410/0007466445.shtml 姫路城、来年登閣再開 安全確保へ初の整理券配布]</ref>。開城閉城時間の変更や、整理券の配布や電光掲示板での告知が行われる予定。
 
*修理過程での発見
 
**最上階北側にある詳細不明の[[家紋]]<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/seiban/0004480195.shtml 姫路城に家紋の謎 「平成の大修理」で発見](神戸新聞2011年9月19日)</ref>。
 
**最上階で使用されないまま壁として塗り込められた窓枠の跡が東西南北それぞれ2箇所の合計8箇所あったことが判明している<ref>[http://mainichi.jp/graph/2012/11/12/20121112org00m040002000c/006.html 幻の窓をコンピューターグラフィックスで合成した姫路城]:毎日新聞(2012年11月12日)</ref><ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0004628204.shtml 姫路城大天守に幻の窓「大修理」で8カ所発見](神戸新聞2011年11月19日)</ref><ref>[http://www.asahi.com/national/update/1118/OSK201111180206.html 姫路城大天守に「幻の窓」8カ所](朝日新聞2011年11月19日)</ref><ref>[http://mainichi.jp/select/wadai/news/20111119k0000m040133000c.html 幻の窓8個、修理で発見…耐震補強で塗りこめか] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20111125164544/http://mainichi.jp/select/wadai/news/20111119k0000m040133000c.html |date=2011年11月25日 }}(毎日新聞2011年11月19日)</ref>。窓枠の跡については「昭和の大修理」の際にも確認されていたと当時の記録に残っているが公表はされていなかった<ref>[http://mainichi.jp/area/hyogo/news/20111119ddlk28040459000c.html 姫路城:「まさかあったとは」幻の窓、昭和大修理で確認も未公表] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20111121224238/http://mainichi.jp/area/hyogo/news/20111119ddlk28040459000c.html |date=2011年11月21日 }}(毎日新聞2011年11月19日)</ref>。
 
**池田氏の家紋「揚羽蝶」が逆さになった瓦が発見され修理施設内で展示されていた<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0005208339.shtml 姫路城で「逆揚羽」の瓦 城主池田氏の家紋が逆さに]:神戸新聞2012年7月12日</ref><ref>[http://www.himejijo-syuri.jp/news/2012/07/post_33.html 「天空の白鷺」展示の鬼瓦を当初瓦に!! 逆揚羽紋の瓦もあわせて展示]:天空の白鷺サイト2012年07月19日</ref><ref>[http://mainichi.jp/area/hyogo/news/20120715ddlk28040250000c.html 姫路城:安泰祈る逆家紋、2枚発見 瓦の「揚羽」、天地反対に 見学施設「天空の白鷺」で展示]:毎日新聞2012年7月15日</ref>。
 
**[[3月26日]]:姫路城大天守保存修理完成記念式典が開かれ[[ブルーインパルス]]による祝賀飛行も行われた<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/koho/press/_30718/_31609/_31892.html ブルーインパルスの祝賀飛行の決定について]</ref><ref>[http://himeji.keizai.biz/headline/1373/ ブルーインパルス姫路城空を舞う-修理完成記念式典、華やかに]</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=aC2yRTm9B54 ブルーインパルス姫路城空を華麗に舞う!(修理完成祝賀飛行)]</ref>。
 
**[[3月27日]]:大天守の修理事業が完了し再公開が始まる。[[拡張現実]](AR)機能を使っての城内解説やWi-Fiの運用が開始される<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/var/rev0/0064/7689/2014111214105.jpg 姫路城大天守がグランドオープン]</ref><ref>[http://www.sankei.com/west/news/150307/wst1503070036-n1.html 姫路城内で「Wi-Fi(ワイファイ)」サービス開始]</ref>。修理完了後は入城者が殺到することが予想され、姫路市では3月27日から5月10日とお盆、秋の行楽期間は整理券を配布し大天守登城の人数を抑制する他に、入城時間の繰り上げや駐車場の整備などの対策が行われた<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/koho/press/_30718/_32630/_32893.html 大天守グランドオープンに伴う来場者安全対策について]</ref>。
 
*[[2016年]](平成28年)1月7日、平成27年11月から平成29年3月(予定)まで行われている「リの一渡櫓」と「リの二渡櫓」の修理の見学ができるようになった<ref>[https://www.himeji-kanko.jp/files/pdf/top/rinoichi_rinoni.pdf 姫路城リの一・リの二渡櫓保存修理工事の見学施設について(お知らせ)]</ref><ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201601/0008700717.shtml 姫路城渡櫓の修理を間近で 見学デッキ設置]</ref><ref>[http://mainichi.jp/articles/20160107/ddl/k28/040/516000c 屋根まで2メートル 渡り櫓保存修理、見学デッキ公開 きょうから /兵庫]</ref><ref>[http://www.sankei.com/region/news/151126/rgn1511260052-n1.html 姫路城・渡櫓の修理作業を間近で 来年1月から見学用デッキ設置]</ref>。
 
 
<gallery style="font-size:80%">
 
ファイル:Himeji Castle 姫路城平成の修理 7040009.JPG|素屋根の設置工事(2010年7月4日)
 
ファイル:Himejicastle-restoration-roof2011.jpg|瓦を取り外して下地が見える屋根(2011年8月)
 
ファイル:Himejicastle-restoration-wall2011.jpg|漆喰をはがされ下地が見える壁面(2011年8月)
 
ファイル:Himejicastle-restoration-roof2012.jpg|屋根の瓦の葺き直しと漆喰の塗り直し途中(2012年8月)
 
ファイル:Himejicastle-restoration-wall2012.jpg|壁面修理の様子(2012年8月)
 
ファイル:Castillo de Himeji.jpg|修理素屋根の解体中(2014年8月)
 
</gallery>
 
 
==== 天空の白鷺 ====
 
[[ファイル:Himejicastle-restoration-tenkunoshirasagi1.jpg|thumb|250px|天空の白鷺]]
 
[[ファイル:Himejicastle-restoration-tenkunoshirasagi2.jpg|thumb|250px|天空の白鷺1階展示]]
 
===== 施設概要 =====
 
*工期中は「'''天空の白鷺'''」(英語表記:"Egret's Eye View" at Himeji Castle/Special visitor facilities for the restration)<ref>公募によって297件から選ばれた。[http://www.city.himeji.lg.jp/s70/2845684/_11311/_22382.html 姫路城大天守修理見学施設の愛称が決まりました!!](姫路市公式サイト)</ref><ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/var/rev0/0019/4847/201081515555.pdf 愛称応募結果について(姫路市PDF)]</ref>と名付けられた大天守を覆っている素屋根の施設から大天守上層部の修復作業を見学できた<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/kouhou/kouhoushi/backnumber/200805/tokushu01.html 姫路城大天守保存修理事業について]</ref>。素屋根建物の南面と東面には大天守実物大の線画が描かれていた。8階建てだが一般利用者が入館できるのは1階・7階・8階となっていた。見学者用[[エレベーター]]が2基設置され、大天守方向はガラス張りになっているためエレベーターでの昇降の際に大天守南面の石垣・壁面・屋根の様子を見ることができた。[[2014年]][[1月15日]]まで公開され、その後、素屋根の解体作業に取り掛かる<ref>[http://www.himejijo-syuri.jp/news/2012/12/26115.html 「天空の白鷺」平成26年1月15日まで運営決定!]:天空の白鷺硬式ニュース(2012年12月12日)</ref><ref>[http://himeji.keizai.biz/headline/794/ 姫路城、世界遺産登録から19年-「天空の白鷺」公開は2014年1月まで]:姫路経済新聞(2012年12月12日)</ref>。
 
*1階 - 大天守石垣部分。東側は施設入口とエレベーターの待合室、西側は出口と修理全般に関する展示と映像上映。
 
*7階 - 大天守5階(最上階)の壁と4層屋根部分。壁面修理の見学と壁面修理(漆喰など)に関する展示と映像上映、市街周辺を見渡せる展望窓。
 
*8階 - 大天守5層目(最上層)の屋根部分。屋根修理の見学と屋根修理に関する展示と映像上映、市街周辺を見渡せる展望窓。
 
 
===== 施設沿革 =====
 
*[[2011年]](平成23年)[[3月26日]] - 「天空の白鷺」一般公開を開始<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/s70/2845684/_11311/_23477.html 姫路城大天守修理見学施設「天空の白鷺」について]:姫路市公式サイト</ref>。
 
*同年[[5月17日]] - 入館者数10万人突破<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/koho/press/_23638/_24691/_24882.html 姫路城大天守修理見学施設「天空の白鷺」の入館者数が10万人を突破しました]:姫路市公式サイト</ref>。
 
*同年[[10月2日]] - 30万人突破<ref>[http://hleader.exblog.jp/16384238/ 姫路市幹部職員ブログ]</ref>。
 
*[[2012年]](平成24年)[[2月19日]] - 50万人突破<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0004827251.shtml 入館者50万人突破 姫路城修理見学施設「天空の白鷺」]:神戸新聞2012年2月19日</ref>。
 
*同年(平成24年)[[11月27日]] - 100万人突破<ref>[http://www.himejijo-syuri.jp/news/2012/11/100.html 本日、入館者が"100万人"突破しました!!]:天空の白鷺(2012年11月27日)</ref>
 
*[[2013年]](平成25年)[[2月6日]]から[[2月9日]] - 最上部の工事作業エリア内(通常の天空の白鷺で見学できるより更に中)の見学が事前に応募した人数限定で行われた<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/koho/press/_26228/_28092/_28331.html 世界文化遺産・国宝姫路城 保存修理工事エリア見学会について]:(姫路市、平成24年11月22日)</ref><ref>[http://www.himejijo-syuri.jp/news/2012/11/post_36.html 姫路城保存修理工事エリア見学会参加者募集について]:(天空の白鷺、平成24年11月23日)</ref>。
 
*同年[[3月2日]]から[[3月3日]] - 漆喰作業見学会と作業体験会が1階西側で行われた<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/koho/press/_28474/_28475/_28738.html 世界文化遺産・国宝姫路城 「天空の白鷺」漆喰作業見学会について]:(姫路市、平成25年1月30日)</ref><ref>[http://www.himejijo-syuri.jp/news/2013/02/post_38.html 姫路城「天空の白鷺」漆喰作業見学会について]:(姫路市、平成25年2月13日)</ref>。
 
*同年[[7月2日]]から[[7月3日]] - 第2回保存修理工事エリア見学会(通常の天空の白鷺で見学できるより更に内部での見学)が事前に応募した人数限定で行われた<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/s70/2845684/_11311/_28327.html 世界文化遺産・国宝姫路城 保存修理工事エリア見学会について]:(姫路市)</ref><ref>[http://www.himejijo-syuri.jp/news/2013/04/_2.html " 第2回保存修理工事エリア見学会 " 参加者募集について。本年2月の見学会が好評いただいたため、2回目の工事エリア見学会を開催します。]:(天空の白鷺、平成25年4月23日)</ref>。
 
*同年[[10月27日]]から[[10月29日]] - 第3回保存修理工事エリア見学会(通常の天空の白鷺で見学できるより更に内部での見学)が事前に応募した人数限定で行われた<ref>[http://www.himejijo-syuri.jp/news/2013/08/3.html " 第3回保存修理工事エリア見学会 "参加者募集について]</ref><ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/koho/press/_28474/_29790/_29934.html 世界文化遺産・国宝姫路城 第3回 保存修理工事エリア見学会について]</ref>。過去2回の見学会の範囲に加えて7階部分の見学も行われた。
 
*[[2014年]](平成26年)[[1月15日]]:公開終了。延べ入館者数は184万3406人だった<ref>[http://himeji.keizai.biz/headline/1132/ 最終日迎えた姫路城「天空の白鷺」-184万人の来館に「ありがとう」]</ref>。これ以後、工事用素屋根の解体が始まった。
 
 
===== その他 =====
 
*修復作業見学室に入るには、通常の入城料金(大人600円)とは別に上乗せ料金200円程度を徴収することを姫路市が検討していたが<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090506-OYT1T00096.htm 姫路城入場料プラス200円、大修理見学に別料金!?] 読売新聞 2009年5月6日</ref>、工期中の入城料は大人400円・子供100円に減額され、見学希望者は減額された料金に見学施設の入場料(大人200円・子供100円)を加えることで決着した。
 
 
== 世界遺産登録・文化財指定 ==
 
=== 世界遺産 ===
 
{{世界遺産概要表
 
|site_img = ファイル:Himeji Castle No09 093.jpg
 
|site_img_capt = 天守
 
|site_img_width = 275px
 
|ja_name = 姫路城
 
|en_name = Himeji-jo<!--英仏ともこれが公式登録名-->
 
|fr_name = Himeji-jo
 
|area = 107 [[ヘクタール|ha]] (緩衝地域 143 ha)
 
|country = 日本
 
|category = 建造物群
 
|criterion_c = (1), (4)
 
|rg_year = 1993年
 
|ex_rg_year =
 
|remarks =
 
|url_no = 661
 
|map_img = ファイル:LocMap of WH Himeji-jo.png
 
|map_img_width = 275px
 
}}
 
日本の[[世界遺産条約]]締約は[[1992年]]([[平成]]4年)のことであり、姫路城はその年の10月1日に正式推薦された<ref>{{Harvnb|ICOMOS|1993|p=22}}</ref>。[[世界遺産委員会]]の諮問機関である[[国際記念物遺跡会議]] (ICOMOS) は推薦に先立つ同年9月と、推薦後の[[1993年]](平成5年)4月と8月に現地調査を行なった<ref name="ICOMOS_p25">{{Harvnb|ICOMOS|1993|p=25}}</ref>(なお、これとは別に後述するオーセンティシティの評価のため、ICOMOS事務総長が同年5月に視察した<ref name="masuda_p14">益田兼房「『世界文化遺産奈良コンファレンス』へいたる道」(『月刊文化財』377号、1995年2月)pp.14-15</ref>)。その結果を踏まえ、同年10月に「登録」が勧告された<ref name="ICOMOS_p25" />。そこで評価されたのは、
 
* [[木構造 (建築)|木造建築]]物として、白漆喰の城壁を持つ優れた美と実用的機能を兼ね備えていること。
 
*明治以前の[[封建制]]度の象徴であること。
 
*日本の木造城郭建造物として最高のものであること。
 
といった点であった<ref name="ICOMOS_p25" />。そして、同年12月の第17回世界遺産委員会([[カルタヘナ (コロンビア)|カルタヘナ]])で、「[[法隆寺地域の仏教建造物]]」とともに日本初の[[文化遺産 (世界遺産)|世界文化遺産]]として正式登録された<ref name="yano_p36">{{Harvnb|矢野|2011|p=36}}</ref>。
 
 
資産としての登録地域は、中曲輪より内側となっており、その範囲は特別史跡指定地域と重なっている<ref name="yano_p36" />。さらにその周囲が[[緩衝地帯|緩衝地域]](バッファーゾーン)に指定されている。従来、緩衝地域の規制は緩やかなものであったが、1993年に中壕通り都市景観形成地区(都市景観条例による)が指定され、2008年には資産部分を含め、姫路城周辺風景形成地域の指定が行われた<ref>{{Harvnb|矢野|2011|p=37}}</ref>。2012年の[[第36回世界遺産委員会]]に際して、登録範囲の明確化が行われた<ref>[http://whc.unesco.org/en/decisions/4840 Decision : 36 COM 8D Clarifications of property boundaries and areas by States Parties in response to the Retrospective Inventory](世界遺産センター、2015年11月30日閲覧)</ref>。
 
 
==== 登録基準 ====
 
{{世界遺産基準|1}}
 
**ユネスコ[[世界遺産センター]]によれば、この基準の適用理由は「姫路城は木造建築の傑作」であり、「実用的機能と優れた美的外観とを兼ね備えている」<ref name="criteria">[http://whc.unesco.org/en/list/661/ Himeji-jo](World Heritage Centre) より、翻訳の上で引用。</ref>ことなどである。
 
{{世界遺産基準||||4|||||||11}}
 
**同じくこちらの基準の適用理由は、「日本の木造城郭建築の最高点を示しており、重要な特徴を全て無傷で保存している」<ref name="criteria" />ことである。
 
なお、上述の通り、ICOMOSの勧告の時点では封建制の象徴という側面も評価されており、それによる基準 (3) の適用が勧告されていたが<ref name="ICOMOS_p25" />、正式登録では採用されなかった。
 
 
==== 影響 ====
 
かつて、世界遺産登録に際しての[[世界遺産#完全性と真正性|オーセンティシティ]](真正性、真実性)の評価は[[ヴェネツィア憲章]]に基礎を置いていた<ref name="nara+20">文化庁記念物課世界文化遺産室「奈良文書二〇周年記念会合および成果文書『奈良+20』について」『月刊文化財』616号(2015年1月号)、pp.36-39</ref>。しかし、その概念はヨーロッパに多く見られる「石の文化」にはよく当てはまるが、解体修理を行う日本的な「木の文化」を正当に評価できない恐れがあった<ref name="nara+20" />。日本の条約締約および姫路城・法隆寺の推薦・登録は、その再検討の必要性を世界遺産委員会に認識させることになったのである<ref name="masuda_p14" />。それが翌年の世界文化遺産奈良コンファレンスの開催、およびそこで採択された「オーセンティシティに関する奈良ドキュメント」(真実性に関する奈良文書)に繋がった<ref name="masuda_p14" />。これは、アジア、アフリカの文化遺産登録にとってきわめて重要な意義を持つことになった文書である<ref>日本ユネスコ協会連盟(編)『世界遺産年報2010』p.22</ref>。
 
 
なお、姫路市では世界遺産条約採択40周年記念事業の一環として、2012年に奈良ドキュメント見直しを視野に入れて、オーセンティシティと現実社会の関連を討議する国際会議「姫路会合」が開かれた<ref>『月刊文化財』595号(2013年4月号)、p.2</ref>。
 
 
=== 国宝 ===
 
以下の5件8棟が[[1951年]](昭和26年)6月9日に[[文化財保護法]]に基づき[[国宝]]に指定されている。
 
*大天守(だいてんしゅ)
 
*東小天守(ひがしこてんしゅ)
 
*西小天守(にしこてんしゅ)
 
*乾小天守(いぬいこてんしゅ)<ref group="注釈">「北」は「敗北」に通ずるので、北西に築いた小天守を「北西小天守」ではなく「乾小天守」と称している。乾=北西の方角。</ref>
 
*イ・ロ・ハ・ニの渡櫓 4棟(附指定:台所1棟)
 
上記の天守と渡櫓計8棟は、[[1931年]](昭和6年)1月19日、[[国宝保存法]]に基づき、当時の国宝([[国宝#「旧国宝」と「新国宝」|旧国宝]]、文化財保護法における「[[重要文化財]]」に相当)に指定され<ref name="shisei1" />、同12月14日には渡櫓、門、塀等74棟も国宝(旧国宝)に指定された。その後、[[1950年]](昭和25年)8月29日の文化財保護法施行に伴い「旧国宝」は「重要文化財」とみなされることとなった(文化財保護法附則第3条)。[[1951年]](昭和26年)6月9日付けで、文化財保護法および国宝及び重要文化財指定基準(昭和26年5月10日文化財保護委員会告示第2号)に基づき、上記の大天守以下の5件(8棟)が改めて国宝(新国宝)に指定された<ref>官報告示は[[1952年]]1月12日(文化財保護委員会告示第2号)</ref>。
 
 
=== 重要文化財 ===
 
;姫路城
 
:重要文化財(建造物/城郭):1931年(昭和6年)12月14日指定(国宝保存法に基づく「旧国宝」指定)。
 
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
 
*イの渡櫓
 
*ロの渡櫓
 
*ハの渡櫓
 
*ニの渡櫓
 
*ホの櫓
 
*ヘの渡櫓
 
*トの櫓
 
*チの櫓
 
*リの一渡櫓
 
*リの二渡櫓
 
*折廻り櫓
 
*井郭櫓
 
*帯の櫓
 
*帯郭櫓
 
*太鼓櫓</div>
 
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
 
*ニの櫓
 
*ロの櫓
 
*化粧櫓
 
*カの渡櫓
 
*ヌの櫓
 
*ヨの渡櫓
 
*ルの櫓
 
*タの渡櫓
 
*ヲの櫓
 
*レの渡櫓
 
*ワの櫓
 
*カの櫓
 
*菱の門
 
*いの門
 
*ろの門</div>
 
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
 
*はの門
 
*にの門
 
*への門
 
*との一門
 
*との二門
 
*との四門
 
*ちの門
 
*りの門
 
*ぬの門
 
*水の一門
 
*水の二門
 
*備前門
 
*との四門東方土塀
 
*との四門西方土塀
 
*との二門東方土塀</div>
 
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
 
*との一門東方土塀
 
*への門東方土塀
 
*への門西方土塀
 
*水の一門北方築地塀
 
*水の一門西方土塀
 
*ニの櫓南方土塀
 
*水の五門南方土塀
 
*イの渡櫓南方土塀:
 
*にの門東方上土塀
 
*にの門東方下土塀
 
*ロの櫓東方土塀
 
*ロの櫓西方土塀
 
*はの門東方土塀
 
*はの門西方土塀
 
*はの門南方土塀</div>
 
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
 
*ろの門東方土塀
 
*ろの門西南方土塀
 
*化粧櫓南方土塀
 
*ワの櫓東方土塀
 
*カの櫓北方土塀
 
*菱の門西方土塀
 
*菱の門南方土塀
 
*菱の門東方土塀
 
*いの門東方土塀
 
*太鼓櫓南方土塀
 
*太鼓櫓北方土塀
 
*帯郭櫓北方土塀
 
*井郭櫓南方土塀
 
*トの櫓南方土塀</div>
 
{{clear}}
 
*計74棟
 
* 重要文化財の「イの渡櫓」は、国宝の「イの渡櫓」とは別の建物である。前者は本丸北側の腰曲輪にあり、後者は連立天守の一部である(ロの渡櫓・ハの渡櫓・ニの渡櫓についても同様)。
 
* 以下の門は、門単独では重要文化財に指定されていない。また、「との三門」は現存しない。
 
** ほの門(「イの渡櫓南方土塀」の付属)
 
** るの門(「いの門東方土塀」の付属)
 
** 水の三門(「ニの櫓南方土塀」の付属)
 
** 水の四門(「水の五門南方土塀」の付属)
 
** 水の五門(国宝の「ニの渡櫓」の一部)
 
<gallery>
 
ファイル:Himeji Castle No09 051.jpg|乾小天守(西面、右はハの渡櫓)
 
ファイル:Himeji Castle No09 096.jpg|西小天守(南面、右はニの渡櫓、手前の塀は水の五門南方土塀)
 
ファイル:Himeji Castle No09 152.jpg|東小天守(左奥)、イの渡櫓(その右)。右奥は大天守。
 
File:090411 Himeji Castle Hyogo pref Japan06s5.jpg|乾小天守(中央奥)、台所(その手前の低い建物)、ロの渡櫓(右)。左は大天守。
 
File:Roofwork (2855205867).jpg|手前は「ニの櫓」、背後は連立天守西面(左から乾小天守、大天守、西小天守)
 
ファイル:Himeji Castle No09 013.jpg|いの門(脇戸付高麗門)。二の丸入口の「菱の門」を抜けて最初の門。ここから先、天守へ至る道は「上道」と「下道」に分かれる。
 
ファイル:Himeji Castle No09 053.jpg|ろの門(脇戸付高麗門)。この門を通って、右の坂道を行けば「はの門」、左へ行けば西の丸。
 
ファイル:Himeji Castle No09 056.jpg|はの門。天守へ至る「上道」途中に建つ櫓門
 
ファイル:GateatHimejiCastle.JPG|への門(高麗門)。
 
ファイル:Himeji castle-to-no-2mon.jpg|との二門。姫山東麓の搦手道の石段途中に建つ脇戸付高麗門。
 
ファイル:Himeji castle-to-no-4mon.jpg|との四門(脇戸付高麗門)。天守東側の搦手口の第一の門。
 
ファイル:Himeji castle-chi-no-mon.jpg|ちの門。大天守東側の「折曲り櫓」に接して建つ棟門。
 
ファイル:Himeji castle-ri-no-mon.jpg|りの門。「上山里」の東側、太鼓櫓に接して建ち、枡形を構成する脇戸付高麗門。
 
ファイル:Himeji Castle No09 173.jpg|ぬの門。備前丸南方を通って天守へ至る「下道」の途中、「上山里」西側に建つ脇戸付櫓門。
 
ファイル:JP-Himeji-Burg Det.jpg|水の二門(右は乾小天守)。連立天守西側に建つ棟門。「上山里」西側に建つ櫓群。
 
File:Himeji Castle M4690.jpg|手前右からチの櫓、リの一櫓(低屋根)、リの二櫓、背後は大天守南面
 
ファイル:Himeji Castle M4718.jpg|ワの櫓。西の丸西南角の隅櫓。
 
File:Himeji castle April 16.jpg|カの櫓。西の丸東南角の隅櫓。
 
ファイル:Himeji Castle No09 042.jpg|ヌの櫓(左はヨの渡櫓、右はカの渡櫓)。西の丸北面に位置する。
 
ファイル:HimejiCastleAccess.JPG|はの門南方土塀(正面は「はの門」)
 
ファイル:Himeji Castle Aburakabe.jpg|水の一門北方築地塀(左は「水の一門」)
 
</gallery>
 
 
=== 特別史跡 ===
 
;姫路城跡
 
:[[史跡|史蹟]]:[[1928年]](昭和3年)9月20日指定([[史蹟名勝天然紀念物保存法]]による)<ref name="shisei1" />。
 
:[[史跡#特別史跡|特別史跡]]:[[1956年]](昭和31年)11月26日指定(文化財保護法による)。
 
 
=== 受賞歴・選出歴 ===
 
文化財指定などとは異なるが、以下のように様々な観点からの賞の授与や評価がなされている。
 
*[[2004年]](平成16年)、「姫路城中濠沿い散策路」が整備され、第6回「人間サイズのまちづくり賞」を受賞<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/s80/2212440/_5643/_9413.html 「姫路城中濠(なかぼり)沿い散策路」が「人間サイズのまちづくり賞」を受賞!]</ref>。
 
*[[2006年]](平成18年)4月6日、[[日本100名城]](59番)に選定された。
 
*[[2009年]](平成21年)3月、[[ミシュランガイド]](観光地)日本編において最高評価の3つ星に選定された。
 
*[[2012年]](平成24年)9月、[[トリップアドバイザー]]の企画「バケットリスト」の「世界の名城25選」に選ばれた<ref>[http://www.tripadvisor.jp/pages/Castle.html 死ぬまでに行きたい世界の名城25]</ref>。
 
*[[2014年]](平成26年)11月18日、「2014年[[アジア都市景観賞]]」を受賞<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/s70/2212583/_7890/_22543/_33256.html 「2014年アジア都市景観賞」を受賞しました!]</ref><ref>[http://www.city.fukuoka.lg.jp/data/open/cnt/3/50546/1/toshikeikansyou.pdf 2015 年アジア都市景観賞授賞式を開催します]</ref><ref>[http://hleader.exblog.jp/23768632/ 2014年 アジア都市景観賞の受賞について]</ref>。
 
*[[2015年]](平成27年)[[1月16日]]、第8回[[国土交通省]]バリアフリー化推進功労者大臣表彰を受賞。「平成の修理」の見学施設や城内通路の[[バリアフリー]]化が評価された<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/koho/press/_30718/_32957/_33231.html 第8回 国土交通省バリアフリー化推進功労者大臣表彰の受賞について]</ref><ref>[http://hleader.exblog.jp/23974742/ 国土交通省バリアフリー化推進功労者大臣表彰の受賞について]</ref><ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/himeji/201501/0007645596.shtml 姫路城バリアフリー化で国交相表彰へ 市の対応評価]</ref><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/otona/travel/tnews/kinki/20150105-OYT8T50159.html 姫路城バリアフリー、大臣表彰]</ref>。城郭の受賞は初めて(受賞発表は前年[[12月25日]])。
 
*2015年11月4日、「平成の修理」での展示・設計が評価され[[アジアデザイン賞]]2015の大賞(最高賞)と環境デザイン部門の金賞を受賞した<ref>[https://www.nomurakougei.co.jp/news/prerelease/p3499/ 【2015 デザイン賞】 4年で2度目、アジアデザイン賞「大賞」と「金賞」をダブル受賞]</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=e-MPEPeSeLQ DFA Design for Asia Awards 2015 (Grand Award) – Himeji Castle Restoration Project]</ref><ref>[http://www.dfaa.dfaawards.com/#!2015-grand/c12lv Design for Asia Awards - Grand Award 1. Himeji Castle Restoration Project: Exhibition & Sign Design]</ref><ref>[http://www.dfaa.dfaawards.com/#!2015/c242x Winners]</ref>。
 
*[[2016年]](平成28年)1月21日:[[関西元気文化圏|関西元気文化圏賞]]の大賞を受賞<ref>[http://www.kankeiren.or.jp/topics/2016/02/post-413.html 「関西元気文化圏賞贈呈式」開催]</ref><ref>[http://mainichi.jp/articles/20160123/ddl/k28/040/520000c 姫路城が大賞、市長「大変名誉」 /兵庫]</ref><ref>[http://portal.kiss-fm.co.jp/news/detail/2963/ 「関西元気文化圏賞」大賞は姫路城]</ref>。
 
このほか、平成の大修理中の2011年[[12月6日]]には、見学施設の実物大線画や国宝建築の修理を公開したことなどが評価され、第45回[[SDA賞]]の演出サイン部門サインデザイン優秀賞([[日本サインデザイン協会]])と、[[ディスプレイデザイン賞]]2011の企画・研究特別賞([[日本ディスプレイデザイン協会]])を受賞した<ref>[http://www.himejijo-syuri.jp/news/2012/01/2_1.html 天空の白鷺ニュース]:2012年[[1月5日]]</ref>。
 
 
==== 姫路城が選ばれている百選 ====
 
*[[日本100名城]]
 
*[[平成百景]]
 
*[[美しい日本の歴史的風土100選]]
 
*[[人と自然が織りなす日本の風景百選]]
 
*[[日本さくら名所100選]]
 
*[[日本の歴史公園100選]]([[姫路公園]])
 
*[[日本遺産・百選]]
 
 
== その他の城内施設 ==
 
[[ファイル:Himejicastle-geihinkan.jpg|thumb|200px|迎賓館]]
 
*姫路城管理事務所 -2000年に設置<ref name="etoc">[http://www.etoc.cc/detail/index.cfm?shop_id=187 じもP]</ref>。
 
* 姫路城防災センター - 2001年に設置<ref name="etoc" />。[[火災報知機|自動火災報知設備]]・[[監視カメラ]]など管理システム。
 
*迎賓館 - [[1951年]](昭和26年)建築、木造平屋瓦葺。[[和室]]2部屋、[[洋室]]1部屋、[[厨房]]などを備えている<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/kouhou/kouhoushi/backpdf/s20/pdf_s26/19510625027.pdf 『広報ひめじ』27号(昭和26年6月)](PDF)</ref>。
 
*姫路城見学資料室 - 大手入城口近く。
 
*姫路城情報センター - 大手前通り大手前公園近く。
 
*ひめじの黒田官兵衛 大河ドラマ館(2014年[[1月12日]]から[[2015年]][[1月10日]]):『[[軍師官兵衛]]』の関連施設<ref>[http://himeji-kanbee.jp/drama/ 大河ドラマ館]</ref>。約61万人の入館者数を記録した<ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?k=201501/2015011500279&g=soc 大河ドラマ館、61万人訪れ閉館=兵庫県姫路市〔地域〕]</ref><ref>[http://www.sankei.com/west/news/150111/wst1501110016-n1.html 「かんべえくん」から「しろまるひめ」へ…姫路の大河ドラマ館61万人を動員して閉館]</ref>。
 
 
== 伝承 ==
 
[[ファイル:Himeji Castle No09 136.jpg|thumb|200px|大天守最上階の刑部神社]]
 
[[ファイル:Himeji Castle No09 073.jpg|thumb|200px|姥が石]]
 
[[ファイル:Himejijo Okiku well.jpg|thumb|200px|お菊井戸]]
 
;刑部明神(おさかべみょうじん)(長壁明神とも)
 
:姫路城の[[守護神]]。もとは[[刑部氏]]の[[氏神]]であった。大天守最上階に祀られている他に、旧中曲輪の[[長壁神社]]や[[射楯兵主神社|播磨国総社]]にも祀られている。輝政の時代には城内の八天堂に祀られていた。
 
;[[長壁姫]](おさかべひめ)
 
:姫路城に隠れ住むといわれる日本の妖怪。様々な伝説がある。
 
;開かずの間
 
:大天守3階から4階へと続く階段の下にある小部屋。吉川英治の小説『宮本武蔵』内の光明蔵の章に武蔵が姫路城の天守に3年間幽閉され精神修養をしたという表現があるが、これは創作とされ本来は倉庫として使われていた可能性が高い。[[1912年]](大正元年)に一般公開されて以来、非公開であったが大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』が放送されるにあたり、[[2002年]](平成14年)9月1日から[[2003年]](平成15年)5月5日まで特別公開され武蔵の人形が置いてあった<ref>[http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/9711/2002/a020830.htm 姫路城開かずの間公開で「姫路と武蔵」をPR] 朝日新聞 2002年8月30日</ref>。小説での池田輝政との関わりも創作とされるが藩主の[[本多忠刻]]とは関わりがあったとされる。<!--現在、姫路城での扱いや公開の有無については不明-->
 
;にの門の十字紋瓦
 
:にの門の破風の上には十字架を描いた瓦があり、羽柴秀吉築城時にキリシタンであった黒田孝高を評価して作らせたものであるとされている<ref>歴史雑誌「歴史人」の記事・[http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20131223-00010002-rekishi-life  「十字紋瓦」は戦国のクリスチャン黒田官兵衛の遺構?]</ref>。
 
;姥が石(うばがいし)
 
:羽柴秀吉が姫山に3層の天守を築城の折、城の石垣として使う石集めに苦労していた。城下で焼き餅を売っていた貧しい老婆がこれを知ると、石臼を秀吉に差し出した。秀吉は老婆の志に大変喜んだ。この話はたちまち評判となり、人々が競って石を寄進したという。石垣は[[孕み]](脹らみ)や、これが悪化して崩落する事が恐れられているため、「姥=老女=孕まない(妊娠しない)」事にかけた言い伝え。実際に乾小天守北側の石垣には石臼が見られるが、この石垣は秀吉時代に構築されたものではない。他にも古代の石棺を石垣として使用している。「平成の修理」ではこの伝承を基に「平成の姥が石 愛城募金」を募っている<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/s70/2845684/_19615 姫路城大天守保存修理事業への寄附金を募集します(平成の「姥が石」愛城募金)]</ref>。
 
;[[棟梁]]桜井源兵衛の自害
 
:築城後まもなく、城下に「お城が東南に傾いている」との噂が立った。奉行も噂を放置できなくなり、天主から下げ振りを降ろして測定したところ、実際に城が傾いていることが分かった。この事に責任を感じた棟梁の桜井源兵衛は、鑿をくわえて城から飛び降り自殺したという伝承がある。しかし史実にはそのような記述はなく、清水門そばにある石碑は源兵衛の墓だと伝わっていたが、この石碑は寛永元年に本多忠政が船場川を改修した際に建立された船場川改修の碑である。城が東南方向に傾いているのは古くからいわれていたことで「昭和の大修理」では実際に城が傾いていることが確認された。原因は軟弱な地盤の上に築城したため、礎石が構造物の重量で沈下したためであった。
 
;播州皿屋敷
 
:[[浄瑠璃]]などの元となったと言われるが、原型となった話は現在の姫路城ができる以前のものと言われる。本丸上山里内に「お菊井戸」が残る。[[皿屋敷]]・[[十二所神社 (姫路市)|お菊神社]]を参照。
 
;[[四神相応]]
 
:姫路城の東に[[市川 (兵庫県)|市川]]・西に[[山陽道]]・北に[[広峰山]]・南に[[播磨灘]]という配置から、それぞれに関わる[[四神]]の利益を得られる四神相応の地として見立てられることがあり、さらにそれが播磨ゆかりの[[陰陽師]]・[[道摩法師]]によって見出だされたという伝説がある。
 
 
== 姫路市本町68番地 ==
 
姫路城所在地の姫路市本町68番地は、高校・病院・美術館さらには県営住宅や民家をも含む総面積107.73[[ヘクタール|ha]]の面積を持ち、単独の番地としては([[皇居]]のある)千代田区千代田1番地の約150haに次ぐ広さといわれる。本町68番地は内曲輪および中曲輪の範囲に相当し、[[明治]]・[[大正]]時代には陸軍[[歩兵第10連隊]]が配置されていた。[[姫路空襲]]でこの一体は焼け野原になり、中心市街地として開発された戦後になっても、番地は分割されずにそのまま残った<ref>
 
{{cite news
 
|title = 【ふるさとNo.1】107.73ヘクタール 兵庫・姫路→本町68番地
 
|publisher = 産経新聞大阪朝刊
 
|page = 9
 
|date = 2007年3月11日
 
}}</ref>。分割されなかったのは戦後の混乱に起因するという<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/chiiki/himeji04/0213jk17150.html 本町68番地の謎に迫る 市文化センターで催し]、神戸新聞朝刊姫路版(26頁)、2004年2月13日</ref>。1980年代以降、この一帯の整備および再開発事業が行われ、[[#周囲の文化施設・観光名所|様々な文化施設・観光名所]]が立ち並ぶ一帯となっている。
 
 
=== 周囲の文化施設・観光名所 ===
 
*[[兵庫県立歴史博物館]] - 姫路城など日本各地の城郭を紹介する展示室がある。
 
*[[姫路市立美術館]] - 当初は陸軍の建物で、後に[[姫路市役所]]。姫路城・好古園との共通入館券もある。
 
*[[日本城郭研究センター]] - [[姫路市立図書館]](城内図書館)を併設。
 
*[[姫路市立動物園]] - 三の丸広場の東隣、出丸(御作事所)跡に設けられ、「お城の動物園」とも呼ばれる。
 
*姫路城西御屋敷跡庭園「[[好古園]]」 - 名前は酒井家が設けた[[藩校]]「好古堂」に因む。
 
*[[姫路公園]] - 概ね中曲輪以内に相当する。市の催しやイベントなどにも利用されている。
 
**家老屋敷跡公園 - 土産物屋などが配置されている。
 
**大手前公園
 
**東御屋敷跡公園
 
**城見台公園
 
**シロトピア記念公園 - [[1989年]](平成元年)、姫路市制100周年を記念して開かれたイベント「[[姫路百祭シロトピア]]」の記念公園。
 
以上は全て姫路市本町68番地の内である。本町68番地には他に[[国立病院機構姫路医療センター|姫路医療センター]]・[[兵庫県立姫路東高等学校|姫路東高校]]・[[淳心学院中学校・高等学校|淳心学院]]・[[賢明女子学院中学校・高等学校|賢明女子学院]]・[[兵庫県立姫路聴覚特別支援学校|姫路聴覚特別支援学校]]など多数の施設が存在している([[2009年]]までは[[姫路警察署]]も位置していたが市内[[市之郷]]に移転、同地は観光駐車場となった)。
 
*[[姫路文学館]]
 
*[[男山 (兵庫県)|男山]]([[男山八幡宮 (姫路市)|男山八幡宮]]・[[千姫天満宮]]・[[水尾神社]])
 
*[[射楯兵主神社|播磨国総社]]
 
*[[兵庫縣姫路護國神社]]
 
*[[姫路神社 (姫路市)|姫路神社]]
 
*[[長壁神社]]
 
*[[十二所神社 (姫路市)|十二所神社]](お菊神社)
 
 
==== 姫路城十景 ====
 
[[1994年]](平成6年)3月、世界遺産登録を記念して公募・選定された姫路城が見える10箇所。「誰でも自由に行くことができ、お城を取り巻く方向にある」という観点から選ばれた<ref>{{Cite press release |title=ご存じですか? 世界遺産姫路城十景 |publisher=姫路市 |date=2015-03-01 |url=http://www.city.himeji.lg.jp/kouhou/kouhoushi/tokushu05.html |accessdate=2015-02-27}}</ref>。この他、選定後に新しく建てられた[[イーグレひめじ]]の屋上からの眺めも人気がある。
 
*シロトピア記念公園ふるさとの森
 
*[[景福寺 (姫路市)|景福寺]]公園
 
*[[名古山霊苑]] 高台公園
 
*[[手柄山中央公園]]緑の相談所広場
 
*姫路城 三の丸広場
 
*姫路市立美術館 前庭
 
*[[増位山 (兵庫県)|増位山]] 市道白国増位線ポケットパーク
 
*JR姫路駅前 [[大手前通り (姫路市)|大手前通り]]
 
*城見台公園
 
*[[男山 (兵庫県)|男山配水池公園]]
 
 
== 整備計画 ==
 
*他の城に先駆けて2003年から石垣の積み方や種類等の記録を取り、崩落の危険度や修復の資料としている<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201606/0009210492.shtml 「石垣カルテ」地震で脚光 姫路城は07年作成]</ref>。
 
*城郭の景観を江戸時代の物に近づけるためや、樹木の生長及び外来植物の繁殖による景観や文化財(特に石垣)・生態系への影響を考慮して、「樹木パトロール」を組織して樹木の[[伐採]]・[[剪定]]が計画され、下山里曲輪など城郭の一部区域では作業が進められている<ref>[http://hleader.exblog.jp/18785934/ 姫路市幹部職員ブログ(2012年8月6日)]</ref><ref>[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/540443/ 「白鷺」の美景取り戻せ 姫路城周囲の樹木を伐採と剪定へ]産経新聞2011年12月31日</ref><ref>[http://netmh.seesaa.net/article/250128824.html ネットメディア姫路(2012年2月3日)]</ref><ref>[http://mainichi.jp/area/hyogo/news/20120802ddlk28040443000c.html 姫路城:城内「樹木パトロール」初会合 石垣のクズなどの除去検討]:毎日新聞2012年8月2日</ref><ref>[http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120824/wlf12082412270010-n1.htm 領土のみか生物界も蹂躙!世界遺産・姫路城の石垣に中国産植物が大繁茂]:産経新聞2012年8月24日</ref><ref>[http://mytown.asahi.com/hyogo/news.php?k_id=29000001208250003 外来植物ニワウルシ 試験伐採始める]:朝日新聞2012年8月25日</ref>。姫山原生林で明治以降に植生した植種は原則伐採される。[[1969年]]と[[2010年]]の植生調査を比べると29種類増えており、外来種の[[シュロ]]や[[トウネズミモチ]]、[[ニワウルシ]]、[[ニセアカシア]]などブラックリストにある種も含まれている。
 
*姫路城管理事務所では、城内とその周辺に生えている樹木について、倒木の恐れがあると判断した物の伐採を[[2008年]]から開始し、さらに[[2014年]]には、大天守南側の石垣とその周辺の樹木についても独自基準で剪定した。ところが剪定の際、幹を残し枝のみを払うというやり方を取ったため、樹木が異様な形となり、市民から「美観を損なう」などのクレームが市に多数寄せられる事態となった。これを受け市文化財課は、管理事務所に対し伐採の中止を指示した<ref>[http://mainichi.jp/select/news/20140728k0000e040241000c.html 姫路城:世界遺産 立ち木悲惨 切りすぎ? 批判受け中止] 毎日新聞 2014年7月28日</ref>。しかしこれは伐採計画の途中段階であって、一斉に根こそぎ伐採すると樹木の根の保持力がなくなり土の崩落の恐れがあるために樹木は残しつつ日当たりを良くして下草を充分に育成させてから伐採に移るための処置であると管理事務所は説明した<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=egsV3Q6NDFo “白すぎる”姫路城、今度は「スカスカすぎる」(14/07/30)]</ref>。
 
*出丸(御作事所)跡にある市立動物園の移転が検討されている<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/dobutuen/arikatakenntoukai/index.html 動物園のあり方に関する検討会について](姫路市立動物園サイト内)</ref>。
 
*三の丸御殿の復元に向けての測量・発掘各種調査や図面や写真などへの謝礼金を用意して資料の収集をしている<ref>[https://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201702/0009939061.shtml 姫路城「三の丸御殿」復元へ 構造情報提供に謝礼]</ref><ref>[http://www.sankei.com/region/news/170223/rgn1702230004-n1.html 姫路城三の丸御殿の復元調査に着手へ 市が29年度当初予算案に計上]</ref><ref>[http://www.asahi.com/articles/ASK2K6D44K2KPIHB02F.html 姫路城、謎の屋敷群復元へ 謝礼500万円、情報求む]</ref>。これに関連して現存しない城郭建築や城下町を再現したCGが製作され公開された<ref>[https://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201703/0009967556.shtml 江戸期の姫路城、CGで復元 県立大など5日公開]</ref><ref>[http://mainichi.jp/articles/20170308/ddl/k28/040/387000c 江戸期、CGで復元へ 「鶴の間」「城下町」リアル 県立大研究者ら、現存絵図類基に /兵庫]</ref>。
 
 
== 管理上の諸問題 ==
 
;外来種による被害
 
:堀の水棲生物や、姫山原生林・城内の植物の植生で[[外来種]]の増加により[[在来種]]への影響や石垣を浸食するなど文化財への悪影響が出ている。
 
:2016年5月、姫路城西側の中堀で特定外来生物の[[ヌートリア]]が初めて発見されたが、水辺に穴を掘って巣を作る習性があることから、石垣の強度低下による崩落が懸念されており継続的に駆除されている<ref>{{Cite news|url=http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201607/0009306527.shtml|title=国宝姫路城に“天敵”ヌートリア 石垣崩落の恐れも|newspaper =[[神戸新聞]]|date=2016-07-21|accessdate=2016-07-24}}</ref>。
 
 
;禁止区域での釣り
 
:堀での釣りは禁止<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/info/faq/detail.html?faqId=1505 姫路市FAQ「姫路城の濠で釣りをしてもいいですか?」]</ref>されているにも関わらず釣りをしたり釣り糸などのゴミを放置する問題が起きている<ref>[http://sankei.jp.msn.com/life/trend/100826/trd1008261205005-n1.htm 世界遺産で魚釣り。姫路城、禁止もいたちごっこ]:産経新聞2010年8月26日</ref><ref>[http://www.basswave.jp/bwlog/?p=6110 釣り人いたちごっこ]</ref>。
 
;落書き
 
:[[2009年]]までに、西の丸を中心とした城内に、人名などを掘り込む[[落書き]]が、100件以上発見された。いずれも、[[監視カメラ]]からは死角となっていたという。姫路市では、落書きの上から着色して目立ちにくくする方法などを検討している<ref>[http://www.asahi.com/national/update/0305/OSK200903040093.html 姫路城に落書き100件超 防犯カメラの死角 観光客か] 朝日新聞 2009年3月5日</ref>。これらの落書きは、最終的には609ヵ所にも及ぶことが明らかとなり、姫路市では対策として、2010年4月以降、西の丸の「百間廊下」(重要文化財)への立入りについて、28部屋のうちの25室に柵とセンサーを設置し立入を禁止し、城内の監視カメラが増設された<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0002283149.shtml 姫路城の百間廊下 落書き対策で立ち入り制限へ] 神戸新聞 2009年8月28日</ref>。
 
:周辺の世界遺産区域内の樹木に対しても、多数の同様な落書きが発見されていることが判明している。姫路市では、「樹木にまでは手が回らない」として、調査などは行わないとしているが、この姿勢に対しては、「落書きを容認しているのと同じだ」と批判、心配する意見が強い<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090622-OYT1T00689.htm 世界遺産・姫路城の落書き、樹木でも見つかる…予防策見えず] 読売新聞 2009年6月22日</ref>。
 
;ドローンの使用と衝突
 
:姫路城以外にも文化財や祭りなどで[[無人航空機]](ドローン)を使った撮影が行われ問題視されている。姫路城では[[2015年]][[5月3日]]に未成年の少年がドローンを飛行させ任意同行を求められる事があった<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASH5720SQH57PIHB001.html ドローンで逮捕の少年、姫路城でも? 2年で10件確認]</ref><ref>[http://www.sankei.com/west/news/150526/wst1505260020-n1.html ドローン少年 姫路城でも? 上空飛行規制に苦慮する兵庫・姫路市]</ref>。また同年[[9月19日]]の早朝、姫路城の大天守の6階部分に、[[無人航空機]](ドローン)が衝突しドローンは5階の屋根に落下した。ドローンの衝突の影響で窓枠の水切りの銅板に数ヵ所の損傷が発見され[[兵庫県警察]]では[[文化財保護法]]違反容疑で捜査を行っていたが<ref>[http://mainichi.jp/shimen/news/20150920ddm041040106000c.html ドローン:姫路城大天守に衝突 窓枠に擦り傷5カ所 兵庫] 毎日新聞 2015年9月20日</ref>、翌日には男性が出頭した<ref>[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150920/k10010243181000.html 姫路城大天守にドローン衝突 男性が出頭]</ref><ref>[http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20150921-00000001-nnn-soci 姫路城にドローン衝突 男性が出頭、謝罪]</ref><ref>[http://www.iza.ne.jp/kiji/events/photos/150920/evt15092022450020-p1.html 「機体見えなくなった」姫路城ドローン衝突事故、操縦の男性名乗り出る]</ref><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/national/20150920-OYT1T50085.html 姫路城ドローン衝突、操縦の会社役員が出頭]</ref><ref>[https://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201509/0008414125.shtml 姫路城にドローン衝突 操縦者が名乗り出る 兵庫県警]</ref>。
 
:また、[[2016年]][[11月17日]]にも、大天守にドローンが衝突する事件があった。外国人観光客が操作していたものと見られている<ref>[http://mainichi.jp/articles/20161117/k00/00e/040/298000c ドローン 姫路城の大天守に衝突 外国人グループ操作か] 毎日新聞 2016年11月17日</ref>。
 
 
== 現地情報 ==
 
[[ファイル:Castle Himeji sakura01.jpg|thumb|200px|桜の季節の姫路城を南東より望む]]
 
[[ファイル:Himeji City Museum of Art04s3872.jpg|thumb|200px|姫路城と姫路市立美術館]]
 
姫路市の姫路城管理事務所が置かれているが<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/s60/2851146.html 姫路城管理事務所]姫路市ホームページ(2017年12月21日閲覧)</ref>、外国人の来訪が多い(2016年度は約211万人のうち約36万5000人)こともあり、外国語を含めた観光客への案内やホームページ作成といった実際の運営は企業に委託されている。2017年12月時点では[[乃村工藝社]]が請け負っており、2018年3月以降は[[近畿日本ツーリスト]](KNT)関西が担当する<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO24621250U7A211C1000000/ 姫路城の運営 近ツーが来春から 訪日客対応、スタッフ50人]『[[日経産業新聞]]』2017年12月15日(日用品・食品・サービス面)</ref>。
 
*所在地 - 姫路市本町68番地
 
*ライトアップ - 毎日、日没から午前0時まで点灯している。季節や行事によって色が変わることもある。
 
*スタンプ - 日本100名城のスタンプは管理事務所横に、世界遺産スタンプは大天守最上階に置いてある。
 
 
=== 交通アクセス ===
 
*[[西日本旅客鉄道]](JR西日本):[[山陽新幹線]]・[[山陽本線]]・[[姫新線]]・[[播但線]] [[姫路駅]]北口より徒歩約20分。
 
*[[山陽電気鉄道]]:[[山陽電気鉄道本線|本線]] [[山陽姫路駅]]より徒歩約15分。
 
*[[神姫バス]]「姫路城大手門前」下車すぐ。12 - 2月は[[土曜日|土日]]・[[祝祭日]]、3 - 11月は毎日、[[平日]]は30分に1本、土日・祝祭日は15分に1本[[神姫バス]]により「姫路城ループバス」も運転される。
 
*有料公営駐車場が城周辺に5箇所合わせて約1,600台分、駅周辺に5箇所合わせて約1,100台分、有料公営駐輪場が駅から城の区域に3箇所合わせて自転車約2,900台分、単車約600台分ある<ref>[http://himeji-machishin.jp/parking/index.html 姫路市都市整備公社 駐車場・駐輪場]</ref>。
 
 
=== 開城時間・料金 ===
 
; 開城時間
 
* 通常:9時 - 16時(17時閉城)、夏季:9時 - 17時(18時閉城)
 
* 休城日:12月29日、12月30日<ref group = "注釈">2015年7月17日、[[平成27年台風第11号|台風11号]]の影響による観光客の安全を考慮したため、年末の休城以外では初の休城となった([http://www3.nhk.or.jp/lnews/kobe/2023418852.html 姫路城 台風で初の休城]、[http://www.himeji-kanko.jp/news/index.php?act=detl&id=124 姫路観光情報|【7月17日(金)】姫路城は終日休城いたします。])。</ref>。
 
; 料金
 
* 大人:1,000円、子供(小学生から高校生):300円、団体(30人以上):一律2割引<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/s60/2851146/_6909/_32712.html 平成27年3月27日より入城料が変更になります]</ref><ref>[http://castle-himeji.com/2014/10/himeji-castle-fee-price-increase/ 姫路城の入城料が再公開より値上げになります]</ref><ref>[http://www.sankei.com/west/news/140214/wst1402140013-n1.html 姫路城入場料日本一高い1000円へ 現行の600円から「平成の大修理」完了後来年3月]</ref><ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201402/0006709091.shtml 姫路城の入城料が1000円に 国内の城郭で最高額]</ref><ref>[http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140214/wlf14021420570035-n1.htm 姫路城入場料日本一高い1000円へ 現行の600円から「平成の大修理」完了後来年3月]</ref><ref>{{Cite press release |title=いよいよ始まる大天守の一般公開 |publisher=姫路市 |date=2015-03-01 |url=http://www.city.himeji.lg.jp/kouhou/kouhoushi/tokushu02.html |accessdate=2015-02-27}}</ref>。
 
** 姫路市在住者は姫路市内在住の4歳から中学3年生に配布されるどんぐりカード<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/s110/2212766/_26571.html どんぐりカードの配付について]</ref>、姫路市に住民票がある65歳以上に配布される高齢者福祉優待カード<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/s50/2212306/_7929/_7945/_7946.html 高齢者福祉優待カードの交付]</ref>を提示すれば無料となる。
 
** [[障害者手帳]]所持者は、本人と介助者1名が無料となる。車いす利用の場合は、本人と介助者3名までが無料となる<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/guide/castle/information.html ご利用案内]</ref>。
 
** 平成の修理完了後の2015年3月27日から入城料が改定された。改定前は大人600円、子供(5歳から中学生)200円だった、団体は30人以上1割引、100人以上2割引、300人以上3割引だった。平成の修理工事期間中(2010年4月12日から2015年3月末)は大人400円、小人100円に減額され、修理見学施設に入るには大人200円・子供100円の追加料金が必要であった。
 
** 2015年7月の1か月間、平成の修理が完成したことを祝って、姫路市民は[[運転免許証]]や[[健康保険証]]など住所と名前が確認できるものを提示することで入城料が無料となった<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/himejimarathon/news/201502/0007742125.shtml 姫路城の修理完成祝う 7月は市民入城無料]</ref>。
 
* 割引共通券(姫路城と好古園、姫路城と博物館と美術館)や、姫路城と周辺施設の入場券をセットにし通常価格より割安の料金で姫路の観光ができる姫路観光パスポート<ref>[http://www.himeji-kanko.jp/index.php/Topics/View/ID/67 姫路観光パスポート]</ref>(姫路城周遊コースと姫路城・書写山周遊コースの2種類)も販売されている。
 
[[2016年]](平成28年)2月1日から、クレジットカードでの入城券購入が可能となった<ref>[http://www.sankei.com/region/news/160123/rgn1601230056-n1.html 姫路城の「入城券」来月からクレジット購入OK! 外国人観光客取り込みへ]</ref><ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/himeji/201601/0008762962.shtml 姫路城入城券、クレジットカード払い導入]</ref>。対応するのは[[ビザ]]と[[マスターカード]]。
 
 
=== 登城 ===
 
入り口は正面登閣口と東門登閣口の2つある。城の東側にある姫山駐車場と城の北側にある城の北駐車場からは東門登閣口の方が近い。正面登閣口から大天守最上階へ登って下りてくる最短順路であれば約1時間、順路通りに回れば1時間半 - 2時間を要する。城の搦め手(裏門)に当たる東門登閣口からの順路は急な上り坂と段差のある石段になっているが登閣口からの時間にすると約25分で大天守最上階まで行ける。混雑していない状況での時間の目安は、大手門から正面登閣口まで約10分、正面登閣口から備前丸まで10 - 15分、東門登閣口から備前丸まで5 - 10分、備前丸から大天守最上階まで約20分である。
 
 
天守入り口でスリッパと自分の履き物を入れる袋が無料で貸し出される。階段が急なため、スリッパでは登りにくい上に自分の履き物を入れた袋が邪魔になるため手荷物の多い人、子供や足腰に不安のある人は注意が必要である。
 
 
車椅子でも介助者数名が同伴し段差をなるべく避けるようにすれば本丸(備前丸)までは登城可能である<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/info/faq/detail.html?faqId=1538 姫路城は車いすで登閣できますか?]</ref><ref>[http://www.youtube.com/watch?v=IvACPVZ62QY 車椅子で姫路城へ(動画)]</ref>。[[身体障害者補助犬]]([[盲導犬]]・[[聴導犬]]・[[介助犬]])は天守・櫓など建物内への同伴はできないが、それ以外の有料区域内への同伴は許可されている<ref>姫路城管理事務所に問い合わせ確認。</ref>。
 
;城内ガイド
 
:姫路城シルバー観光ガイドと外国語ボランティアガイド<ref>[http://www.e-himeji.com/VAGA/ 姫路城外国語ガイド協会]</ref>が応対しており、三の丸広場北側にある姫路城管理事務所とJR姫路駅構内にある姫路市観光案内所(なびポート)で受け付けている。シルバーガイドは日本語のみで、ガイド1人2000円、1時間半 - 2時間かけて案内する。拡声器を使わないので20名前後が定員となる。外国語ガイドは英語・中国語・韓国語に対応し無料となっている。外国語パンフレットは英語・フランス語・韓国語・中国語(北京語と台湾語)が配布されている。この他、ゴールデンウィークなど観光客が多い時期の土・日・祝祭日には殿様や姫様に扮した殿様ガイド(4代目)・姫様ガイドが登場する<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hyogo/feature/kobe1262270576558_02/news/20100106-OYT8T00077.htm 愛情脈々と400年 姫路城]</ref>。
 
;公衆便所
 
:公衆便所は、登閣口より入った有料区域内には菱の門付近・西の丸東側中程・備前丸西側奥の3箇所、内曲輪無料区域には三の丸広場などに5箇所、設置されている。
 
;通信
 
:城内20箇所以上での[[Wi-Fi]]接続利用が可能<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/koho/press/_33150/_33509/_33708.html 姫路城でWi-Fiサービスを開始しました。]</ref><ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/var/rev0/0068/3162/201535203133.gif Wi-Fi電波エリア]</ref>。
 
 
=== 観光和船 ===
 
*2011年12月、「姫路藩和船建造委員会」発足。
 
*2012年3月17日から29日の間、観光用和船が試験運用され<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0004890892.shtml お堀を船で巡ろう きょうから試験運航 姫路]神戸新聞2012年3月17日</ref><ref>[http://photo.sankei.jp.msn.com/highlight/data/2012/03/17/17himeji/ 姫路城、和船から楽しんで]:産経新聞2012年3月17日</ref>、好評だった<ref>[http://mainichi.jp/area/hyogo/news/20120505ddlk28040221000c.html 姫路城:内堀での和船の試験運航、市がアンケ 乗船者、全員「良かった」]毎日新聞2012年5月5日</ref>ため[[2013年]](平成25年)の春を目標に和船の建造を開始<ref>[http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120803/wlf12080307480002-n1.htm 姫路城のお堀に浮かべる和船 建造作業始まる]産経新聞2012年8月3日</ref>。絵図や文献を元に地元の船[[大工]]やオクムラボートが木造(一部モーター)で復元し、「はりま」と命名された。全長は約9.5m、最大幅は約2.3m。船頭・ガイドを含め12人が乗船できる<ref>[http://himeji.keizai.biz/headline/848/ お堀に浮かぶ和船復活-姫路城で進水式、3月16日から限定運航]姫路経済新聞2013年3月5日</ref><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/otona/tripnews/08/hyogo/20130228-OYT8T00321.htm 姫路城、和船ゆったり 内堀で復元お披露目]:読売新聞2013年2月28日</ref><ref>[http://blog.livedoor.jp/oshironojyoou45/archives/25586958.html 姫路藩和船の乗船体験のお知らせ]:第45代姫路お城の女王のブログ(2013年3月14日)</ref>。
 
*2013年3月1日、水進式が行われ、同年3月16日から正式運行が開始された<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/s60/2873652/_18374/_29004.html 姫路市公式サイト 姫路藩文化観光学習船を運航します]</ref><ref>[http://www.himeji-kanko.jp/event/index.php?act=detl&id=461 ひめのみち 姫路藩和船の乗船体験]</ref>。内堀西部から南西部にかけて1日12便、1.5kmを30分かけて運行している<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/var/rev0/0044/9787/201321594115.pdf 姫路藩文化観光学習船航路図(PDF)]</ref>。
 
*運行 - 3月初めから11月末まで1日10便以上運行されているが繁忙期以外は平日の運航や便数が少なくなる<ref>[http://www.himeji-kanko.jp/event/index.php?act=detl&id=638 世界遺産姫路城で和船を楽しむ]</ref>。平成の修理後も運航される<ref>[http://www.sankei.com/region/news/150311/rgn1503110043-n1.html 姫路藩の和船「はりま」、今年も姫路城内堀で旅客運航]</ref>。
 
*料金 - 大人1,000円、子供500円
 
 
=== イベント ===
 
[[ファイル:Himeji Oshiro Matsuri August09 191.jpg|thumb|200px|[[姫路お城祭]]]]
 
[[ファイル:Himejijo Kangetsukai Oct09 198.JPG|thumb|200px|観月会でライトアップされた姫路城]]
 
 
;元日無料登閣(1月1日)
 
:毎年、元日は入城無料とされるのが通例となっており開城・閉城時間が早くなる。
 
;姫路城下町マラソン大会(1月)
 
:内曲輪を1.5km、2.5km、3km、5kmの部門別に分けて競争する<ref>[http://himeji-machishin.jp/sports/event/map-2.PDF 種目別コース図]</ref>。[[1992年]]から開催されている。
 
;姫路城駅伝大会(2月)
 
:内曲輪を5区間で競争する<ref>[http://yume.tloem.jp/toppage/2012MAP.pdf (PDF)]</ref>。[[2010年]]から開催されている。
 
;しろの日([[4月6日]])
 
:姫路市制100周年を記念した「ふるさと創生事業」を実施するため市民から公募し、[[1990年]](平成2年)より行われている。普段は非公開となっている部分が'''春の特別公開'''として5月頃まで公開されるほか、多数のイベントが催される。姫路城内の[[サクラ|桜]]の花が開花する頃であり、地域を代表する花見スポットとなる。制定以来、この日には城を含め指定の周辺施設が入場無料とされていた。しかし桜の開花時期とも重なり来場者数が増加、入場制限を行うなどしていたが安全管理を考慮し無料開放は[[2007年]](平成19年)4月6日をもって終了した。
 
;姫路城観桜会(4月上旬)<ref name="shisei9">{{Cite web |url=http://www.city.himeji.lg.jp/var/rev0/0075/1567/9-kankou.pdf |title=観光交流 |format=PDF |work=市政の概要 平成27年版 |publisher=姫路市 |accessdate=2015-09-26}}</ref>
 
:[[和太鼓]]・琴などの演奏や姉妹都市からの出展など。
 
;姫路城夜桜会(4月上旬)<ref name="shisei9" />
 
:西の丸庭園で夜に開催。光の回廊や音楽コンサートなど。
 
;千姫ぼたん祭り(4月下旬)
 
:三の丸西(本城跡)で開催。「千姫様お輿入れ行列」や句会など。
 
;姫路お城祭り(8月上旬)
 
:姫路城薪能(三の丸広場)、「お城の女王」などによる大手前通りのパレードなど。
 
;姫路城観月会(9月下旬)<ref name="shisei9" />
 
:筝曲・舞踊や月観測、地酒や月見団子の出店など。
 
;姫路城菊花展(10月中旬から11月中旬にかけて)<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/topic/flower/_3852/_10201.html 姫路城菊花展の詳細情報]</ref>
 
:1000点近い菊の展示。
 
;秋の特別公開(11月上旬)
 
:非公開部分を1週間ほど期間限定で公開。
 
;姫路城世界文化遺産登録記念日([[12月11日]])
 
:世界遺産登録日を記念して[[2008年]](平成20年)制定された。上記の「しろの日」に替えて城と指定された周辺施設が入場無料となる<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/s60/2873652/_10298/_10537.html 姫路城等施設の無料開放日について]</ref>。
 
;年末年始
 
:城内の松に[[こも巻き]]を施したり、巨大門松を飾る他、姫路城クリーン作戦と題された清掃事業が[[1976年]](昭和51年)から毎年12月中旬に行われてきた。[[陸上自衛隊]][[姫路駐屯地]]の隊員による訓練の一環で、車両やボートなども使って通常では清掃が困難な石垣や堀などを重点に清掃している。ただし、[[こも巻き]]については逆効果であるなどの理由により、2015年から中止された<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASHCZ4T5FHCZPIHB00Y.html 害虫より益虫駆除だから…姫路城の恒例「こも巻き」廃止]</ref><ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201511/0008602493.shtml 姫路城の冬の風物詩中止 松の「こも巻き」逆効果]</ref>。
 
 
その他、定期的な大規模清掃や市民有志による月例清掃会<ref>[http://www.com21.or.jp/activity/souji/main.html 姫路城清掃会]</ref>など。
 
 
==== 過去のイベント ====
 
* [[1996年]](平成8年)[[3月24日]]から[[8月25日]]まで、迎賓館で[[大河ドラマ]]『[[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]]』に関する「秀吉と姫路展」が行われた<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/kouhou/kouhoushi/backpdf/h00/pdf_h08/19960301805.pdf 広報ひめじ(1996年3月号)]</ref>。入場料は、大人(16歳以上)が200円、子供(5歳から15歳)が100円で、姫路城への登問者・身体障害者手帳・老人福祉手帳・療育手帳を提示した市民は無料だった。
 
[[File:Ningen shogi himeji.jpg|thumb|250px|平成27年11月28日、姫路城[[姫路公園|大手前公園]]で行われた[[人間将棋]]。[[村田智穂]] 対 [[長谷川優貴]]。]]
 
* [[2015年]](平成27年)[[5月3日]]・[[5月4日|4日]]・[[5月5日|5日]]に、大天守や櫓、石垣などに[[プロジェクションマッピング]]を映す行事が行われた<ref>[http://www.himejicastlemapping.jp/ 3Dプロジェクションマッピングショー 姫路光絵巻『HAKUA』-新たなる羽ばたきー]</ref><ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/contents/oshirofes/3d/ 姫路城3Dプロジェクションマッピング]</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=4R-leE4Bjl8 【公式動画・本編】【Himeji Castle Mapping】姫路城プロジェクションマッピング【姫路光絵巻 HAKUA -新たなる羽ばたき-】HAKUA]</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=vBC5Dy4e50Q 世界遺産・姫路城で3Dプロジェクションマッピング]</ref><ref>[http://www.sankei.com/photo/movie/news/150503/mov1505030001-n1.html 【動画】姫路城大天守に歴史絵巻 3Dプロジェクションマッピング]</ref><ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201505/0007978302.shtml 白亜の大天守に光絵巻 姫路城でプロジェクションマッピング]</ref>。
 
* 2015年9月17日から19日には備前丸で[[ボローニャ市立劇場]]のオペラ公演「道化師」の公演が行われ<ref>[http://www.sawakami-opera.org/performance 2015日伊国際共同制作オペラ「道化師」 姫路公演(野外オペラ)]</ref><ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/himeji/201509/0008375777.shtml 姫路城とオペラ楽しんで 当日立ち見券千円で発売]</ref>[[吉田裕史]]が指揮を執った<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/koho/press/_33150/_34463/_34657.html 「オペラ『道化師』を100倍楽しむために」開催のお知らせ]</ref><ref>[https://twitter.com/maestro_hiro/status/629982208808218624 【姫路城、京都国立博物館!】]</ref>。
 
* 2015年[[11月28日]]と[[11月29日]]に姫路城[[姫路公園|大手前公園]]で西日本では初めて人間将棋が開催された<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201511/0008603904.shtml 盤上で“戦国合戦” 姫路城で「人間将棋」 西日本初]</ref><ref>[http://www.sankei.com/west/news/151128/wst1511280079-n1.html 姫路城で「人間将棋」 白亜の大天守を背景に熱戦 平成の大修理終了記念]</ref><ref>[http://www.news24.jp/articles/2015/11/29/07316047.html 姫路城で「人間将棋」 平成の大修理完了]</ref><ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/s60/2873652/_18179/_35463.html 姫路城グランドオープン記念!「祝賀・人間将棋 姫路の陣」開催結果のお知らせ]</ref>。出演棋士は、28日が[[東和男]]、[[神吉宏充]]、[[稲葉陽]]、[[船江恒平]]、[[村田智穂]]、[[長谷川優貴]]、29日が[[井上慶太]]、[[福崎文吾]]、[[久保利明]]、[[山崎隆之]]、[[若松政和]]、[[室谷由紀]]<ref>[http://www.shogi.or.jp/topics/event/2015/11/post_1309.html 姫路城グランドオープン記念!祝賀・人間将棋 姫路の陣]</ref>。11月28日は村田智穂=長谷川優貴の対戦で村田の勝利、11月29日は久保利明=山崎隆之の対戦で山崎の勝利となった。この他、対談や指導対局などが行われた。
 
* [[2016年]][[11月5日]]・[[11月6日]]:「人間将棋 姫路の陣」が行われた<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/s60/2873652/_18179/_35463.html 「人間将棋 姫路の陣」開催結果のお知らせ]</ref>。1日目は[[北村桂香]]と[[山口絵美菜]]、2日目は[[糸谷哲郎]]と[[稲葉陽]]が対戦した。
 
* [[2016年]][[12月2日]]から[[12月11日]]まで姫路城ナイトアドベンチャー「煌めき=KIRAMEKI=」が行われた<ref>[http://www.himejicastle-kirameki.jp/index.html 世界文化遺産 姫路城 ナイトアドベンチャー 煌 ~KIRAMEKI~]</ref>。普段は入れない夜間に入城でき城内各所でプロジェクションマッピング上映された。
 
* [[2017年]][[5月20日]]:[[電王戦]]([[佐藤天彦]] 対 [[PONANZA]] )がチの櫓で行われた<ref>[https://japanese.engadget.com/2017/05/20/2-ponanza/ 速報:電王戦第2局もPonanzaが勝利。序盤は佐藤叡王が優勢で進んだものの、受けきれず惨敗]</ref><ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/koho/press/_38379/_38503/_38932.html 「第2期電王戦」第2局の舞台が姫路城に決定!]</ref>。
 
 
=== 入城者数 ===
 
*[[1964年]](昭和39年)度 - 173万8000人(統計以降の歴代2位・「昭和の大修理」竣工年)
 
*2009年(平成21年)4月14日 - 「昭和の大修理」以降の累計入城者数が4000万人を突破した<ref>[http://www.47news.jp/CN/200904/CN2009041401000201.html 姫路城、入場者4000万人突破 昭和の大修理から45年で](共同通信2009年4月14日)</ref>。
 
*2015年(平成27年) - 修理終了後に公開してからの入城者が7月には100万人を超え<ref>[http://www.sankei.com/west/news/150715/wst1507150017-n1.html 「平成の白鷺城」大人気―姫路城大修理後の入場者100万人突破 年間なら300万人も…]</ref><ref>[http://www.sankei.com/region/news/150715/rgn1507150033-n1.html 姫路城の入場者100万人突破 「昭和の大修理」後を上回る勢い]</ref>、9月には150万人を超えた<ref>[http://www.sankei.com/west/news/150926/wst1509260038-n1.html “白すぎ”姫路城150万人突破 「死ぬまでに行きたい世界の城」2位で外国人も急増]</ref>。11月9日には200万人を超え<ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?k=201511/2015111100208&g=soc 姫路城、大天守修理後からの入城者200万人達成=兵庫県姫路市〔地域〕]</ref><ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201511/0008552207.shtml 姫路城、入城者200万人突破 改修後8カ月で]</ref>、12月9日には入城者数が8か月で222万人を超え、年間221万人だった熊本城を抜き城郭入城者数の歴代1位になった<ref>[http://www.sankei.com/west/news/151209/wst1512090110-n1.html 姫路城の年間入場者222万人突破 熊本城を抜いて“日本一”に]</ref><ref>[http://mainichi.jp/articles/20151210/ddl/k28/040/511000c 入城者数222万人突破 今年度、通常時最高記録 /兵庫]</ref><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/stream/?id=2948677 姫路城の入場者222万人 城郭として最多]</ref><ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201512/0008634264.shtml 姫路城の入城者数、日本一に 熊本城の記録抜く]</ref><ref>[http://hsuishin.exblog.jp/25042236/ 日本初!~姫路城入城者数222万人突破!~]</ref><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/national/20151211-OYT1T50112.html 姫路城の今年度入場者、222万人で日本一に]</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=8Sa148-cwjM 姫路城「入城者」222万人 年間記録を更新]</ref><ref>[http://www.news24.jp/articles/2015/12/10/07317024.html 姫路城の入場者222万人 城郭として最多]</ref>。[[2015年]](平成27年)度の入城者数は286万人を超えた<ref>[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160404/k10010467391000.html 姫路城に去年286万人 全国の城で最多]</ref>。
 
 
平成以降の年度別入城者数(概数)<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/toukei/ 姫路市統計情報]</ref>
 
{{col|
 
*[[1989年]](平成元年)度 - 119万7000人
 
*[[1990年]](平成2年)度 - 81万1000人
 
*[[1991年]](平成3年)度 - 87万1000人
 
*[[1992年]](平成4年)度 - 88万5000人
 
*[[1993年]](平成5年)度 - 101万9000人
 
*[[1994年]](平成6年)度 - 98万3000人
 
*[[1995年]](平成7年)度 - 69万5000人
 
*[[1996年]](平成8年)度 - 86万1000人
 
*[[1997年]](平成9年)度 - 71万6000人
 
*[[1998年]](平成10年)度 - 79万2000人
 
*[[1999年]](平成11年)度 - 71万3000人
 
*[[2000年]](平成12年)度 - 66万2000人
 
*[[2001年]](平成13年)度 - 70万8000人
 
*[[2002年]](平成14年)度 - 72万9000人
 
*[[2003年]](平成15年)度 - 81万4000人
 
*[[2004年]](平成16年)度 - 77万1000人
 
*[[2005年]](平成17年)度 - 77万8000人
 
*[[2006年]](平成18年)度 - 89万9000人
 
*[[2007年]](平成19年)度 - 102万3000人
 
*[[2008年]](平成20年)度 - 119万5000人
 
|
 
*[[2009年]](平成21年)度 - 156万1000人
 
*[[2010年]](平成22年)度 - 45万8000人(平成の修理着工)
 
*[[2011年]](平成23年)度 - 61万1000人
 
*[[2012年]](平成24年)度 - 71万1000人
 
*[[2015年]](平成27年)度 - 286万7100人<ref>[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160404/k10010467391000.html 姫路城に去年286万人 全国の城で最多]</ref>
 
*[[2016年]](平成28年)度 - 211万2100人<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/koho/press/_38379/_38905/_39215.html 平成28年度姫路城の入城者数について]</ref>
 
}}
 
 
== 作品 ==
 
=== 小説 ===
 
;『[[天守物語]]』 [[1917年]] [[泉鏡花]]
 
:1955年に映画化。天守の中に秘められた異世界の住人達と、切腹を命じられた末にその中に入り込んだ若侍の物語。
 
;『宮本武蔵』 [[1936年]] [[吉川英治]]
 
:暴れん坊であった新免武蔵(しんめん・たけぞう)は[[沢庵宗彭|沢庵和尚]]の計らいにより、姫路城の天守内の一室に3年間幽閉され、ここで兵法書などの書物に接し教養を身につけた。成長した武蔵に池田輝政は「宮本武蔵」(みやもと・むさし)の名を与えた。
 
;『黒田如水』 [[1943年]] 吉川英治
 
:後年、[[豊臣秀吉]]の右腕として活躍した[[黒田孝高]](如水)の若き日を描く。当時の周囲の勢力図や、いかにして秀吉の居城となったかを知ることができる。
 
;『姫路城の切腹丸(古城物語)』 [[1961年]] [[南條範夫]]
 
:切腹丸と異名を残す帯郭櫓(おびくるわやぐら)の名の由来を「鷺城私記」によって再現したとする歴史ミステリー小説。
 
;『[[播磨灘物語]]』 [[1973年]] [[司馬遼太郎]]
 
:播磨出身の戦国武将、黒田孝高(如水)の活躍を描く。毛利陣営と織田陣営の間で、せめぎ合いの地域となった播磨地域の当時の様子を描いている。姫路城がある姫山地域の城の様子も描写。
 
;『姫路城物語・日本の名城』 [[1985年]] [[松本幸子]]
 
:姫路城に関係する女性たちの愛憎劇を描く。
 
 
=== 漫画 ===
 
*[[キン肉マン]]:「キン肉星王位争奪編」ではキン肉マンチームと[[キン肉マンゼブラ]]チームの試合が姫路城で行われた。また、名古屋城とともに空中を飛び合体し関ヶ原に着地して関ヶ原格闘城として試合の舞台になった。
 
*[http://kurage-bunch.com/manga/himeji_castle/ 姫路城リビングデッド](くらげバンチ・単行本は[[新潮社]]) - 原作は漆原玖。江戸時代の姫路城を舞台に信長や信玄など死んだはずの武将が死人の兵隊を率いて姫路城に攻めてくるという物語。
 
 
=== 絵画・写真・その他 ===
 
;『城』 [[1955年]]<ref>[http://www.yamatane-shop.com/product/300 奥村土牛「城」]</ref><ref>[https://www.google.com/culturalinstitute/asset-viewer/himeji-castle/EwFRAPF3k5SEoA?hl=ja Okumura Togyū | Yamatane Museum of Art]</ref><ref>[https://twitter.com/yamatanemuseum/status/629850733186150401/photo/1 山種美術館]</ref>、『門』 [[1967年]]<ref>[http://www.yamatane-shop.com/product/324 奥村土牛「門」]</ref>:[[奥村土牛]]
 
:『城』は昭和の大修理直前の大天守を、『門』は「はの門」を内側から描いている。『門』は当時78歳の高齢で夏の炎天下、長時間スケッチしたと言われている<ref>[http://www.yamatane-shop.com/product-group/5 奥村土牛]</ref>。
 
;[[北村泰生]]([[2012年]]死去)による写真集など
 
:半世紀近く姫路城の写真を撮り続けた写真家<ref>[http://www.47news.jp/CI/201210/CI-20121008-00727.html 姫路城撮り続け50年 写真家北村泰生氏が死去 ]</ref><ref>[http://www.city.himeji.hyogo.jp/event/newsletter/vol_06/shiro_info/index.html 姫路城を撮り続ける写真家に聞く、お城の魅力]</ref><ref>[http://www.asahi.com/articles/ASGCG3519GCGPIHB002.html 兵庫)姫路城カレンダー2015発売 故北村さんの遺志]</ref><ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201411/0007501367.shtml 姫路城カレンダー 写真家・故北村さんの作品厳選]</ref>。自身が手掛けた写真集やカレンダーの他、撮影した写真は書籍、情報誌、広報誌などにも採用された。
 
;しらさぎ本丸ゴシック
 
:姫路城(白鷺城)を連想させる[[丸ゴシック体]]<ref>[http://forest.watch.impress.co.jp/docs/review/1036095.html 姫路城の優美さを体現した丸ゴシック体のフォント「しらさぎ本丸ゴシック」]</ref><ref>[https://www.flopdesign.com/marugothic/shirasagi-font.html しらさぎ本丸ゴシック]</ref>。
 
 
===楽曲===
 
*『白鷺の城』([[1963年]]):[[村田英雄]]、作詞・[[星野哲郎]]、作曲・[[市川昭介]]。
 
*『姫路ブルース』([[1968年]])<ref>[http://columbia.jp/artist-info/aoyama/COCP-38155.html スター☆デラックス 青山和子 ~愛と死をみつめて]</ref>:[[青山和子]]、作詞・作曲[[じょうみやけ]]
 
*『城下にて』([[2013年]])<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=uwN_t5Zipxs&t=17s きいちろ♪故郷姫路のFM"genki"79.3MHz出演(2013.8.31)]</ref>:[[きいちろ]]、作詞・作曲[[きいちろ]]
 
*『姫路城と初デート』([[2016年]])<ref>[http://www.nhk.or.jp/bijutsu/bijutune/ びじゅチューン!]</ref>:[[井上涼]]
 
 
=== 映像作品 ===
 
*[[VR]]ソフト『日本驚嘆百景 白亜の要塞~姫路城~』<ref>[http://www.jp.playstation.com/software/title/jp1941cusa06750_00000000000v001000.html 日本驚嘆百景 白亜の要塞~姫路城~]</ref>
 
 
下記の他にも世界遺産関連の番組や[[姫路フィルムコミッション]]の活動によって、映画やドラマ、CM<ref group="注釈"> 『[[日産・スカイライン]](白鷺篇)』 [[1973年]] いわゆるケンメリと呼ばれる[[日産・スカイライン#4代目(C110型系、1972年-1977年)|C110系スカイライン]]のCMシリーズに使用された。</ref>や子供向けの番組<ref group="注釈">『[[変身忍者 嵐]]』 [[1972年]] MBS系特撮テレビ番組(東映製作)1972年11月24日(34話)、12月1日(35話)放送など。</ref>まで、多くの撮影が行われており、特に[[時代劇]]では[[東映京都撮影所]]や[[松竹撮影所|京都映画撮影所]]から場所が近いことから、[[彦根城]]とともにロケが頻繁に行われている。『[[暴れん坊将軍]]』、『[[水戸黄門]]』、『[[大奥 (フジテレビの時代劇)|大奥]]』など、[[江戸城]]という設定で撮影されている場合が多い<ref group="注釈">史実では[[江戸城#天守|江戸城天守]]は[[1657年]](明暦3年)の[[明暦の大火]]で焼失後、天守台は築かれたものの天守そのものは再建されなかったので、明暦の大火以降を描いた時代劇に江戸城天守が登場した場合、史実に即しているとはいえない。姫路城の天守は健在であり、往時の江戸城に見立てて撮影がなされているが、実際にはこれより後の時代設定であっても作中で天守が映っている場合が多く、撮影の際に天守を写さない、消すなどの処置が行われていない場合が多い。むしろ積極的に画面に映している場合も見られ、意図的な[[時代考証]]無視がなされている。</ref>。[[1964年]]に公開された映画『[[モスラ対ゴジラ]]』では当初[[ゴジラ (架空の怪獣)|ゴジラ]]が姫路城を破壊するシーンが撮影される予定であったが、劇中では[[名古屋城]]に変更されている。
 
 
==== 映画 ====
 
[[黒澤明]]の『[[乱 (映画)|乱]]([[1985年]])』の他に多くの作品がある。
 
;『大阪夏の陣』 [[1937年]]
 
:[[衣笠貞之助]]監督の時代劇映画。この撮影において城内で爆破シーンの撮影を行ったところ、「ろの門」が破損し飛散した石で死傷者を出す事故が起こっている。
 
;『[[フランケンシュタイン対地底怪獣]]』 [[1965年]]
 
:フランケンシュタインが食べた家畜の骨をここに隠していた。
 
;『[[007は二度死ぬ]]』 [[1967年]]
 
:[[ジェームズ・ボンド]]がヘリコプターより降り立ったのは三の丸広場である。なおこの撮影では、撮影中に城壁に[[手裏剣]]を投げつけて城壁の一部を破損させてしまう事故もあった。この事が原因で、姫路城は日本国外からのロケはお断りであると言われていたが、実際には撮影許可はされている。
 
;『[[影武者 (映画)|影武者]]』 [[1980年]]
 
:[[武田信玄]]が狙撃されたとされる「野田城伝説」を引用。信玄を狙撃した兵士([[鳥居三左衛門]])から狙撃時の状況を聴くシーンで[[野田城 (三河国)|野田城]]の城内として撮影に使用<ref>城の外観のみ[[熊本城]]でのロケ</ref>された他、天守の外観は[[織田信長]]の居城<ref group="注釈">劇中で明確に語られていないが、時系列から[[稲葉山城]]との設定と思われる。</ref>として使用された。
 
;『[[ラストサムライ]]』[[2003年]]
 
:西御屋敷跡に整備された[[好古園]]で若き日の[[明治天皇]]が登場するシーンが撮影された。この他にも[[書写山]][[圓教寺]]において撮影が行われた。
 
 
==== テレビ番組====
 
;『[[日本沈没]]』 [[1974年]] TBS系
 
: ♯1「飛び散る海」、♯4「海の崩れる時」の劇中、播磨灘地震に伴い大倒壊(この場合はミニチュア)。また主題歌・タイトルバック映像でも流用された(これは実物)。
 
;『[[プロジェクトX〜挑戦者たち〜]]』 [[2001年]] NHKドキュメンタリー番組
 
:[[2001年]](平成13年)9月11日放送分において「昭和の大修理」のエピソードが取り上げられた。この放送終了直後の[[NHKニュース10]]で[[アメリカ同時多発テロ事件]]のニュースが報じられた。
 
;『[[武蔵 MUSASHI]]』 [[2003年]] NHK[[大河ドラマ]]
 
:吉川英治の『宮本武蔵』をドラマ化したもの。創作である可能性が高いが作品内の光明蔵の章に宮本武蔵が姫路城天守の小部屋に3年間幽閉されたという表現がある。
 
;『世界遺産・姫路城白鷺(さぎ)の迷宮・400年の物語』 [[2004年]] NHK[[ハイビジョン特集]]<ref>[http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009050003_00000 ハイビジョン特集 世界遺産 姫路城 白鷺の迷宮・400年の物語 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス]</ref>
 
:[[2004年]](平成16年)6月14日、[[NHKデジタル衛星ハイビジョン]] にて初放送された。出演:[[中越典子]] 語り:[[中村梅雀]]
 
 
== その他 ==
 
=== 姉妹・友好提携 ===
 
フランス・パリ近郊[[シャンティイ]]市にある[[シャンティイ城]]と姫路城は、1989年に姉妹城提携を結んでいる<ref name="shisei9" />。シャンティイ城は[[ルネサンス]]期の壮麗な建築様式を代表する建築物として知られる。
 
 
また、ドイツ南部[[バイエルン州]]にある[[ノイシュヴァンシュタイン城]]と姫路城は、2015年に観光友好交流協定を結んでいる<ref name="shisei1">{{Cite web |url=http://www.city.himeji.lg.jp/var/rev0/0075/1559/1-enkaku.pdf |title=市勢沿革 |format=PDF |work=市政の概要 平成27年版 |publisher=姫路市 |accessdate=2015-09-17}}</ref>。
 
 
尚、姫路城と同じ国宝の[[松本城]]とは姉妹城提携はないが姫路市と[[松本市]]は姉妹都市提携を結んでいる<ref name="shisei1" />。
 
 
=== ミニチュア姫路城 ===
 
[[ファイル:Himeji Castle in Tobu World Square.jpg|thumb|東武ワールドスクウェアにある姫路城の1/25の模型]]
 
[[三重県]][[伊勢市]]にある実物の1/23の鉄筋コンクリート製ミニチュア模型<ref>[http://iseshima.keizai.biz/headline/160/ 自宅の庭に本物そっくりの「姫路城」再現-23分の1で忠実に] [[伊勢志摩経済新聞]] 2007年4月6日</ref><ref>
 
[https://www.toonippo.co.jp/tokushuu/scramble/scramble2007/20070606.html 伊勢に姫路城の巨大模型/69歳男性が19年かけ完成] 東奥日報 2007年6月6日</ref><ref>
 
[http://ptomadon.exblog.jp/11487944/ ミニチュア姫路城写真]</ref>。
 
 
伊勢在住の男性が19年の歳月と土地代・材料費を含め約2000万円の私費を投じて自宅の庭に製作、[[2007年]](平成19年)3月完成した。製作にあたっては、近くに他の建物がないことなどを考慮したうえで土地を選び、自ら姫路城に足を運び狭間の並びや階段の段数などを調査、姫路城から特別に許可を得た図面などを元に内曲輪の現存の建物は勿論、現存しない御殿や櫓など多くを再現している。実際の姫路城の石垣では野面積みや打ち込み接ぎが多く、この模型では全面的に切り込み接ぎで石垣が再現してあるなどの相違点はあるものの、[[日本城郭研究センター|姫路市立城郭研究室]]の学芸員の評価も高く<ref>[http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140809/wlf14080912000004-n1.htm 素人が創った1/23「ミニ姫路城」の感嘆すべき精緻さ、城郭研究家も絶賛…19年かけ1800万円投じた情熱が結実]</ref>、[[2007年]](平成19年)6月1日、姫路市は製作者を「ひめじ観光大使」に任命している。見学料金・駐車料金は無料で年間数万人の見学者が訪れるほどになっているが私有地であるため、製作者はマナーなどの配慮を求めている。
 
 
この他、[[東武ワールドスクウェア]]にも1/25のミニチュアがある。市販されている模型には、1/150の木製模型([[ウッディジョー]])、[[プラモデル]]では1/300([[フジミ模型]])や1/380、1/500、1/800([[童友社]])、その他[[ペーパークラフト]]など多種販売されている。
 
 
=== イメージキャラクター ===
 
*[[しろまるひめ]]:姫路市制120周年、姫路城築城400周年、姫路港開港50周年を記念し公募で選出されたキャラクター<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/s60/2873652/_18179/_20384.html 姫路市のイメージキャラクター「しろまるひめ」のご紹介]</ref><ref>[http://www.shiromaruhime.jp/contents/profile/index.html しろまるひめプロフィール]</ref>。
 
*ジョー★ヒメジ:姫路の耐震化推進事業のキャラクター<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/s70/2212544/_8807/_25324/_25327.html ジョー★ヒメジについて]</ref><ref>[http://hsuishin.exblog.jp/18151685/ 「ジョー★ヒメジ」現る!!]</ref>。
 
*[[鶴竜力三郎|鶴竜]]の[[廻し#化粧廻し|化粧廻し]]に姫路城があしらわれている<ref>[http://www.nikkansports.com/sports/sumo/news/p-sp-tp3-20140611-1315721.html 鶴竜新化粧まわし 姫路城と白鷺]</ref><ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201406/0007041517.shtml 横綱鶴竜関に化粧まわし贈呈 高砂の白陵中・高]</ref>。
 
 
=== 小惑星への命名 ===
 
2010年09月30日、日本のアマチュア[[天文家]]の[[関勉]]が発見した2つの[[小惑星]]のうち1つに「白鷺城(Hakurojo、姫路城の別名)」と命名し[[国際天文学連合]][[小惑星センター]]に登録された([[小惑星番号]][[小惑星の一覧 (29001-30000)#301|29337]]<ref>[http://www.city.himeji.hyogo.jp/atom/wadai/manako/447_t.pdf 科学の眼]</ref>)。もう1つは「Konjikido(金色堂)」と命名された<ref>[http://www.47news.jp/CN/201009/CN2010093001000445.html アマ天文家が白鷺城、金色堂命名 自身で発見の小惑星]</ref>。
 
 
== 発行物 ==
 
*1964年4月20日、姫路城修理完成記念の切手が一種(10円)、発行された。
 
*[[平成24年]]、千円プレミアム銀貨が発行された<ref>[https://web.pref.hyogo.lg.jp/kk08/kinenkahei.html ふるさとひょうご記念貨幣の発行について(五百円貨幣の引換開始時期の決定)]</ref>。
 
*「平成の修理」終了後に記念切手が2種類、発行された<ref>[http://www.post.japanpost.jp/notification/pressrelease/2015/09_kinki/0224_02.html オリジナル フレーム切手『よみがえる国宝 姫路城 平成の大修理 其之壱』と『よみがえる国宝 姫路城 平成の大修理 其之弐』の販売開始と贈呈式の開催]</ref>。
 
  
 
== 注釈 ==
 
== 注釈 ==
 
{{Reflist|group="注釈"}}
 
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== 出典・参照 ==
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{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*『兵庫県管内史談大要』(小野利教、文林堂、明治27年)
 
*『姫路城誌』(大浦濤花、明治44年7月)
 
*『姫路誌』(姫路市、大正元年10月)
 
*『姫路城図』(砂川雄健、播磨史談会、大正2年)
 
*『池田光政公伝(上巻)』(石坂善次郎、昭和7年)
 
*『姫路城案内』(史蹟姫路城管理事務所、昭和9年)
 
*『日本史蹟大系(第10巻)』(熊田葦城、平凡社、昭和11年4月
 
*『姫路城史』橋本政次(上巻、中巻、下巻) 姫路城史刊行会、1953年(臨川書店、1994年復刻 ISBN 4653027951)
 
*『姫路城の話』橋本政次社団法人姫路観光協会、1993年、ISBN 4875210493
 
*『日本名城図鑑 同一縮尺で見る城郭規模の比較』1993年(日本城郭史学会)
 
* {{Citation|和書|editor=神戸新聞姫路支社|year=1995|title=検証 姫路城|publisher=神戸新聞総合出版センター|isbn=4875214871}}
 
*『姫路城―世界に誇る白亜の天守』 [[学研ホールディングス|学習研究社]]〈「[[歴史群像]]」名城シリーズ 〉、1996年(2000年新装版、ISBN 4054012019)
 
* NHKプロジェクトX制作班編 『プロジェクトX 挑戦者たち (11) 新たなる伝説、世界へ』 [[NHK出版|日本放送出版協会]]、2002年、ISBN 4140806796
 
* 歴史群像シリーズ「よみがえる日本の城」第4巻、学習研究社、2004年 ISBN 4056034427
 
*『姫路城の基礎知識』([[日本城郭研究センター]]姫路市立城郭研究室が編集・発行・販売、2009年)
 
* {{Citation|和書|editor=神戸新聞出版総合センター|year=2015|title=姫路城 平成の大修理|publisher= 神戸新聞出版総合センター|isbn=9784343008459}}
 
* {{Citation|和書|author=世界遺産検定事務局|author-link=世界遺産検定|year=2016|title=すべてがわかる世界遺産大事典〈上〉|publisher=[[マイナビ出版]]|isbn=9784839958114}}([[世界遺産アカデミー]]監修)
 
*『姫路城の石垣』日本城郭研究センター姫路市立城郭研究室、城内の配布冊子
 
*『姫路城の漆喰』日本城郭研究センター姫路市立城郭研究室、城内の配布冊子
 
*『天空の白鷺』(施設の配布冊子)
 
* {{Citation|和書|last=矢野|first=和之|contribution=日本の世界遺産5 姫路城|year=2011|title=世界遺産年報2011|pages=35-37}}
 
* {{Citation|author=ICOMOS|year=1993|title=Himeji-jo (Advisory Body Evaluation)|url=http://whc.unesco.org/archive/advisory_body_evaluation/661.pdf}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commons&cat|姫路城|Himeji Castle}}
 
{{osm box|w|23707900}}
 
*[[しろまるひめ]] - 姫路城をモデルにした姫路市のイメージキャラクター。
 
*[[酒見寺]] - 姫路城の守護寺
 
*[[現存天守]]・[[天守の一覧]]
 
*[[三名城]]・[[日本三大一覧#城|三大平山城・三大連立式平山城]]
 
*[[八代城]] - 熊本県八代市にある城。別名「白鷺城(しらさぎじょう)」。
 
 
 
== 外部リンク ==
 
*[http://www.city.himeji.hyogo.jp/guide/castle/ 姫路城大図鑑] - 姫路市姫路観光ガイド
 
*[http://www.himeji-kanko.jp/contents/castle/ 姫路観光協会/姫路城の達人]
 
*[http://www.city.himeji.lg.jp/koukoen/ 姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」] - 財団法人姫路市緑化協会
 
*[http://www.wikimapia.org/s/#y=34838868&x=134693906&z=16&l=0&m=s&v=1 姫路城] - [[ウィキマピア]] 航空写真
 
*[http://www.google.co.jp/maps?f=q&source=s_q&hl=ja&geocode=&q=%E5%A7%AB%E8%B7%AF%E5%9F%8E&aq=&sll=34.297032,132.31839&sspn=0.002225,0.004823&brcurrent=3,0x3554e0049ab35969:0xb110b6ff1c12ddfe,1&ie=UTF8&hq=%E5%A7%AB%E8%B7%AF%E5%9F%8E&hnear=%E5%A7%AB%E8%B7%AF%E5%9F%8E&layer=c&cbll=34.838708,134.692541&panoid=ThOMs4JxHqYBstIgUDOfPQ&cbp=12,55.42,,0,-18.13&ll=34.838708,134.692541&spn=0.00199,0.004168&z=18&utm_campaign=en&utm_medium=et&utm_source=en-et-na-us-gns-svn 姫路城ストリートビュー]
 
*[http://pragma-i.com/wasen/ 姫路藩和船建造委員会]
 
*[http://kojodan.jp/castle/1/ 姫路城の観光ガイド]
 
修理事業について
 
*[https://web.archive.org/web/20120514030255/http://www.city.himeji.lg.jp/s70/2845684/_11311/_17981.html 姫路城大天守保存修理事業について(事業完了) - 姫路市]
 
* [http://www.kajima.co.jp/tech/himeji_castle/index-j.html 姫路城大天守修理工事 - 鹿島建設]
 
* [http://www.kk-kanzaki.jp/castle/ 姫路城との歩み - 神崎組]
 
 
 
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2018/8/6/ (月) 06:48時点における版

姫路城
兵庫県
別名 白鷺城
城郭構造 渦郭式平山城[1]
天守構造 連立式望楼型
5重6階地下1階[2][3][4][5]
築城主 赤松貞範[6]
築城年 1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)
主な改修者 黒田重隆羽柴秀吉池田輝政
主な城主 小寺氏黒田氏池田氏本多氏松平氏榊原氏酒井氏
廃城年 1871年明治4年)
遺構 現存天守・門・塀
石垣土塁・庭園
指定文化財 国宝(大小天守と渡櫓等8棟)
重要文化財
(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)[7]
特別史跡
ユネスコ世界遺産
位置 北緯34度50分21.76秒
東経134度41分38.75秒
地図
姫路城の位置
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姫路城
代表紋章:揚羽蝶

姫路城(ひめじじょう)は、兵庫県姫路市にある日本の城江戸時代初期に建てられた天守等の主要建築物が現存し、国宝重要文化財に指定されている。また、主郭部を含む中堀の内側は「姫路城跡」として国の特別史跡に指定されている[8][9]。また、ユネスコ世界遺産リストにも登録され[10][11]日本100名城[12]などに選定されている。別名を白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう。詳細は名称の由来と別名を参照)という。

概要

姫路城は播磨国飾東郡姫路、現在の姫路市街の北側にある姫山および鷺山を中心に築かれた平山城で、日本における近世城郭の代表的な遺構である。江戸時代以前に建設された天守が残る現存12天守の一つで、中堀以内のほとんどの城域が特別史跡に、現存建築物の内、大天守・小天守・渡櫓等8棟が国宝に、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に、それぞれ指定されている。1993年平成5年)12月にはユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された[13]。この他、「国宝五城」[注釈 1]や「三名城」、「三大平山城・三大連立式平山城」の一つにも数えられている。

姫路城の始まりは、1346年南朝正平元年、北朝貞和2年)の赤松貞範による築城とする説が有力で、『姫路城史』や姫路市ではこの説を採っている。一方で赤松氏時代のものは砦や館のような小規模なもので、城郭に相当する規模の構築物としては戦国時代後期に西播磨地域で勢力を持っていた小寺氏[注釈 2]の家臣、黒田重隆職隆父子による築城を最初とする説もある[14]

戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏羽柴氏城代になると、山陽道上の交通の要衝・姫路に置かれた姫路城は本格的な城郭に拡張され、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張された。

江戸時代には姫路藩藩庁となり、更に西国外様大名監視のために西国探題が設置されたが、城主が幼少・病弱・無能な場合には牽制任務を果たせないために城主となる大名が頻繁に交替している。池田氏に始まり譜代大名本多氏榊原氏酒井氏親藩松平氏が配属され、池田輝政から明治新政府による版籍奉還が行われた時の酒井忠邦まで約270年間、6氏31代(赤松氏から数えると約530年間、13氏48代)が城主を務めた。

明治時代には維新の初期に払い下げが行われ、百円で落札されたが、取り壊し費用が莫大であったことから落札者が願い下げした[15]。その後陸軍の兵営地となり、歩兵第10連隊が駐屯していた。この際に多くの建物が取り壊されたが、陸軍の中村重遠工兵大佐の働きかけによって大小天守群・櫓群などが名古屋城とともに国費によって保存される処置がとられた[2]

昭和に入り、太平洋戦争において姫路も2度の空襲被害があったものの、大天守最上階に落ちた焼夷弾不発弾となる幸運もあり奇跡的に焼失を免れ、現在に至るまで大天守をはじめ多くの城郭建築の姿を残している。昭和の大修理を経て、姫路公園の中心として周辺一帯も含めた整備が進められ、祭りや行事の開催、市民や観光客の憩いの場になっているほか、戦国時代江戸時代を舞台にした時代劇などの映像作品の撮影が行われることも多く、姫路市の観光・文化の中核となっている。


注釈

  1. 国宝指定の現存天守を持つ5箇所の城郭、姫路城・松本城彦根城犬山城松江城を指す。
  2. 赤松氏の傍系を先祖に持つ。

  1. 『姫路城の基礎知識』の「螺旋状の堀と総構式」
  2. 2.0 2.1 平井聖監修『城 6.中国編』
  3. 財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』
  4. 三浦正幸監修『【決定版】図説・天守のすべて』
  5. 『姫路城の基礎知識』の「天守」
  6. 『姫路城の基礎知識』の「最初の築城説」
  7. 『姫路城の基礎知識』の「国宝・重要文化財建造物一覧」
  8. 中井均・三浦正幸監修 学習研究社編『歴史群像 よみがえる日本の城 4 姫路城』学習研究社 2004年
  9. 姫路城跡文化庁文化遺産オンライン
  10. 姫路城文化庁 世界遺産と無形文化遺産 文化遺産オンライン
  11. Himeji-jo -UNESCO World Heritage Centre-、2008年9月4日閲覧
  12. 日本城郭協会「日本100名城」
  13. http://www.himeji-kanko.jp/castle/
  14. 『歴史群像名城シリーズ 姫路城』
  15. 『岩波講座日本歴史. 廃仏毀釈』p50国史研究会 (岩波書店, 1935)