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ベルリンの戦い

ベルリンの戦い
戦争: 第二次世界大戦独ソ戦
年月日: 1945年4月16日 - 5月8日[1]
場所: ベルリンドイツ
結果: 赤軍の勝利
交戦勢力
[[ファイル:テンプレート:Country flag alias Nazi Germany|border|25x20px|テンプレート:Country alias Nazi Germanyの旗|link=]] [[テンプレート:Country alias Nazi Germany|ドイツ]] ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ポーランドの旗 ポーランド
戦力
歩兵 1,000,000
戦車 1,500
航空機 3,300
歩兵 2,062,100[1]
戦車 6,250
航空機 7,500
砲兵 41,600
損害
戦死 150,000〜173,000
戦傷 200,000
捕虜 134,000
民間人死者 152,000
戦死・行方不明 81,116
戦傷 280,251
装甲車輌 1,997
大砲 2,108
航空機 917
[1]

ベルリンの戦い(ベルリンのたたかい)英語Battle of Berlinは、第二次世界大戦末期、1945年4月16日赤軍ゼーロウ高地攻撃開始から、総統地下壕におけるヒトラーの自殺、国会議事堂の陥落、5月2日ドイツ国防軍のベルリン防衛軍司令官ヘルムート・ヴァイトリングの降伏に至るまで、ベルリン周辺で展開された赤軍とドイツ軍の戦闘のことである。

戦いの背景

1944年6月22日、ソビエト赤軍によって開始されたバグラチオン作戦の結果、ドイツ軍はソ連領からほぼ駆逐された。1945年1月20日、赤軍は東プロイセンに侵入、遂にドイツ領内へ進撃した。参謀総長ハインツ・グデーリアンはラジオ放送を通じて「赤軍本土侵攻」を報じ国民の注意を喚起、ヒトラーにベルリン防衛の強化を進言するが、ヒトラーは1月23日の会議でオーストリアとドイツの石油の80%を供給するハンガリーの防衛を優先、ベルリン防衛予定部隊から第6SS装甲軍を抽出してハンガリーに派遣することを決定した(春の目覚め作戦)。しかし、この部隊は派遣先のハンガリーで壊滅した。

3月28日、ヒトラーはキュストリン橋頭堡の失陥をめぐって対立したハインツ・グデーリアンを参謀総長から解任、後任にハンス・クレープスを任命した。状況は悪化しており、首都ベルリンの運命はオーダー河戦線のヴァイクセル軍集団隷下の第3装甲軍第9軍中央軍集団隷下の第4装甲軍に委ねられていた。しかし予備兵力は薄く、書類上は師団でもその戦力は著しく低下しており、国民擲弾兵武装SSの外国人義勇兵など、即席部隊で対応しなければならなかった。また、その即席部隊は末端兵士だけでなく、指揮官も忠誠心の強さのみで取り立てられたものが多かった。そのため、実質的な指揮官は叩き上げの軍人であるヘルムート・ヴァイトリング砲兵大将やヴィルヘルム・モーンケSS少将らに委ねられている状態であった。

オーデル〜ナイセ河の攻防

1945年4月16日、赤軍はベルリン占領を目的とするベルリン作戦を発動した。作戦は午前5時、オーダー川からゲオルギー・ジューコフ元帥率いる第1白ロシア方面軍の30分間にわたる猛砲撃で開始、続いてドイツ軍守備兵の目を晦ませるため140のサーチライトを照射し、渡河攻撃が行われた[2]。しかし、この照射はドイツ軍の目を晦ますどころか、逆にドイツ軍砲兵のために赤軍を照らし出す結果となった。又、ヴァイクセル軍集団の司令官ゴットハルト・ハインリツィ上級大将の命令により、前日、第1線陣地から第2線陣地にドイツ軍守備隊は後退していたため、猛砲撃の効果も無かった。このためオーデル河を渡河した赤軍はゼーロウ高地テオドーア・ブッセ大将率いるドイツ第9軍の頑強な抵抗に遭い、攻撃は頓挫した[3]。一方、イワン・コーネフ元帥率いる第1ウクライナ方面軍も午前6時、ナイセ河から攻撃を開始し、砲撃と煙幕の援護を受け渡河を行った。午前8時35分、133ヶ所の渡河点を確保したコーネフは第3親衛戦車軍English版に命令を送り、南方からベルリンに侵攻する準備を指示した[4]

4月17日、ジューコフはゼーロウ高地のドイツ軍防衛陣地を破り、18日早朝までに同高地を占領し、ミュンヒェベルクDeutsch版へ向け第8親衛軍English版第1親衛戦車軍English版を進めた。しかし、ドイツ空軍の支援を受けたミュンヒェベルク装甲師団Deutsch版[注釈 1]が、これ等の赤軍を叩き、大損害を与えた。だが、19日にはドイツ第9軍の戦線は突破され、第CI軍団は北へ、第LVI装甲軍団English版はベルリンに、SS第IX装甲軍団とSS第V山岳軍団、フランクフルト・アン・デア・オーダー守備隊はブッセ直接指揮のもと、南へ後退した[5]

ベルリンからの脱出

ナチス高官のベルリン脱出

4月20日、ヒトラーの誕生日を祝うために、軍高官およびナチス高官が総統官邸に集まった。この日開催された軍事会議で、アメリカ軍と赤軍がエルベ河で合流した場合に備えドイツ北部をカール・デーニッツ元帥が指揮することとなった。又、各種政府機関も即時ベルリンを退去することが決まった。会議が終わると、政府の大部分はベルリンを立ち退き、ヘルマン・ゲーリングエーリヒ・レーダー等も立ち去っていった[6]

一方、ベルリン防衛司令官ヘルムート・ライマン中将の事務室には、ナチスの幹部が口実を設け、ベルリン立ち退きの許可証を求め集まってきた。ベルリン防衛責任者のヨーゼフ・ゲッベルスは、武器を持てる者は一人もベルリンを離れてはならないと布告しており、ベルリン防衛司令部の許可証が無ければベルリンを退去することができなかったためであったが、これをライマンの副官は嘲笑していた[7]。結局、ライマンは彼等に2000枚以上の許可証を発行した[6]

日本の要請

4月15日、ドイツの崩壊を見越し東京海軍軍令部はベルリン脱出寸前の阿部勝雄中将宛に緊急電報を発信し、「残存するUボートをできるだけ多く日本に回航するようドイツ海軍に要請し、その実現に努力せよ」との指令を行った。この要請に海軍総司令官デーニッツ元帥は、燃料不足を理由に拒絶の意を示した。しかし、指令を果たすために、阿部はその後、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相と折衝を行い再度交渉を行ったが、デーニッツからは要望には応じられない旨、4月20日に最終的な回答を受けた。

その日、阿部は総統官邸に赴き、ヒトラーの誕生日を祝う記帳を行った後、デーニッツからの最終回答とベルリンから脱出する旨打電し、ベルリン包囲網が閉じる寸前に、ハンブルク方面へ脱出した[8]。なお多くの大使館員と民間人はベルリン郊外に避難したほか、一部は大使館内に残った。

ベルリンの包囲

4月20日、コーネフはさしたる抵抗を受けることも無く、バールートを陥落させ、ドイツ陸軍総司令部のあるツォッセンDeutsch版に達しようとしていた。一方ジューコフは、ドイツ第LVI装甲軍団の抵抗もあり思うように進撃できていなかったが、21日には第1機械化軍団がベルリン郊外のヴァイセンゼーDeutsch版に突入し、ベルリン中心部へ向け重砲による砲撃を始めた。翌22日、第3親衛戦車軍と第4親衛戦車軍テルトウ運河Deutsch版に到達し、23日にはベルリン郊外市街地へ突入を始める[9]

翌24日、第LVI装甲軍団の司令官ヘルムート・ヴァイトリング大将が急遽ベルリン防衛軍司令官に任ぜられ[10][注釈 2]、率いる残余部隊をベルリン市街の各所に配置した。政府機関に近いアンハルト駅Deutsch版付近に第11SS義勇装甲擲弾兵師団 ノルトラント総統官邸付近はヴィルヘルム・モーンケSS少将が率いる武装親衛隊ヴィルマースドルフDeutsch版付近にはミュンヒェベルク装甲師団、ヴァンゼーDeutsch版ポツダムグルーネヴァルトDeutsch版ハーレンゼーDeutsch版方面には第20装甲擲弾兵師団、フリードリヒ通り駅付近に第9降下猟兵師団が配置、第18装甲擲弾兵師団が予備とされた。しかし、どの師団も定数を下回る寄せ集めであり、50万人近い赤軍の前に包囲網は狭まっていった。

4月25日、コーネフの第4親衛戦車軍はポツダム郊外へ達し、ベルリンは包囲された[11]

ベルリン市街戦

4月初頭のベルリンでは赤軍がいつ攻め込んでくるか解らぬ状況で、市内は熱病にとりつかれたような恐怖と絶望に包まれていた。ナチス党員は降伏すれば即決裁判で処刑されるのは確実であったため、狂信的な決意をもって1人でも多くのソビエト軍将兵を道連れにする事を考えていた。ヒトラーは助かる道は完全に閉ざされていたため、ドイツの人種、文化、建造物まで全てを道連れにする覚悟を決めていた[12]

赤軍の砲撃が市内に直接届く段階になると、市民の多くはベルリン市内のティーアガルテンフンボルトハイン市民公園Deutsch版フリードリヒスハイン市民公園Deutsch版の3箇所に建てられた高射砲塔(通称「G塔」、詳細はベルリンの高射砲塔Deutsch版を参照)をはじめ、軍が構築したコンクリート製の大型防空壕や、地下鉄の駅構内、下水道、個人宅の庭に掘った防空壕、個人宅の地下室など、身を潜められる所にはどこでも避難したが、動くことすらままならず水道も断水され衛生状況は悪かった。

そのうち送電が断たれたためラジオ放送すら聴くことが不可能になった。情報を求める市民の間では、もうすぐアメリカ軍が救援のために味方してくれるなどの信憑性に乏しい噂が流れた。戦争の終盤になってもナチスの宣伝省は相変わらず愛国の為に徹底抗戦を訴えるプロパガンダを放送していたが、多くの市民にとっては既にどうでもよい事柄で、生き残ることだけを考えていた。白旗を掲げる家では親衛隊に狙撃され、何もしなければソビエト兵に殺される状態であり、もはや助かる道はアメリカ軍に降伏する以外になかった[13]

戦いが長引くにつれ地下壕や病院は負傷兵で一杯になった。医薬品も麻酔薬も不足していた為、負傷兵は傷を負ったまま放置された。そこら中に四肢が欠けて骨がむき出しになった兵士や、血まみれで包帯が巻かれた負傷兵や死体が横たわっていた。既に戦闘不可能な負傷兵が集う場所も砲撃に晒された為、ある野戦病院では看護婦がシーツと口紅で赤十字の旗を作って掲げたが、戦時国際法の基礎的な教育すら受けていない農民主体の無教養なソ連軍の砲撃が止む事はなかった。生き残ったドイツ人は「ベルリンは地獄と化していた」と記している[14]

ヒトラーの自殺

4月29日親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラー西側連合国に対し降伏を申し出たことがBBCを通じて世界中に放送され、ヒトラーに最後の打撃を与えた。終末が近づいたことを悟った彼は、個人的、政治的遺書の口述を行い、遺書の中ではデーニッツを大統領、ゲッベルスを首相にそれぞれ任命して政府の管理を委ねることになっていた。そして、ヒトラーはエヴァ・ブラウンと結婚した[15]

翌30日の15時20分、ヒトラーとエヴァは、総統地下壕の居間でピストル及び毒薬を使用して自殺した。遺骸は官邸の庭に運び出され、ガソリンを注がれ焼かれた後、砲弾穴へ葬られた[16]

ベルリンの無条件降伏

ヒトラーの遺言で任命された新ドイツ政府の首相ゲッベルスは、ソ連と講和交渉を行うため、参謀総長ハンス・クレープス大将を軍使として派遣し、2時間に亘る停戦の申し入れを行ったが、赤軍はその申し入れを退け、ベルリンの無条件降伏を要求した。ゲッベルスはこの要求を拒絶し、代わりにベルリン守備隊による赤軍のベルリン包囲網を突破する作戦の敢行を許可した。しかし、既に包囲網突破は不可能な状態であり、5月1日から2日にかけ、守備隊は降伏した[17]

なおそれまで徹底抗戦を訴え続けていたゲッベルスは、赤軍との停戦交渉が失敗に終わると、デーニッツにヒトラー死去の知らせを送り、その後、妻と子供6人を道連れに自殺した[18]

終焉

ファイル:ElbeDay1945 (NARA ww2-121).jpg
エルベ川で合流したアメリカ軍と赤軍の兵士(1945年4月25日)

ドイツ無条件降伏

ドイツ南部にはまだ武装したドイツ軍部隊が多く、5月1日にヒトラーの後継者として大統領に指名されたデーニッツの隷下にあった。彼は、5月6日に全権委任したアルフレート・ヨードルフランスランスの連合軍最高司令官アイゼンハワーの司令部に派遣、赤軍に包囲されたバルト海沿岸のドイツ東部から避難民を海路ドイツ西部に受け入れるまでの時間的猶予を交渉、48時間の猶予を許され、発効を5月9日零時として5月7日にドイツ国防軍全軍の無条件降伏文書に署名した。それでも多くの避難民は赤軍の手に落ち、悲惨な運命をたどることになった。

余波

ドイツ人への報復

ファイル:German women doing their washing.jpg
終戦後のベルリン市街地(1945年7月3日)

ソビエト軍の報復は苛烈を極め、多くの女性がソビエト軍将兵により強姦され、数多くの市民が自殺した。ゲルハルト・ライヒリング博士に拠ると、当時ベルリンの女性の平均人口は149万5500人と推計され、その6.7%に相当する10万人が赤軍兵士による性暴力の被害者となり、うち10%前後が性病に罹ったとされている。強姦された女性は心理的外傷を負い、10万人のうち1万人前後が死亡した。

これはベルリンに限ったことではなく、赤軍に占領されたドイツの町や村の多くで起こった[19]。ソ連の作家イリヤ・エレンブルクは1964年に出版した回想録に「ブロンドのドイツ娘をさらえ、それは諸君の戦利品だ!」と赤軍兵士を煽ったことで非難されたことを記している[20]。なおこのような赤軍兵士による「報復」は、その後政治将校がベルリンに到着し綱紀粛正が行われるとともに減少した。政治将校の中には、治安を乱す赤軍兵士を即座に射殺することもあった。

また、ソ連は戦利品部隊を占領下ドイツに送り込み、ベルリンの博物館島や、ドイツ各地の博物館、美術館、個人収集品から250万点にも及ぶ絵画、彫刻等の美術品を戦利品として劫掠した。ハインリヒ・シュリーマンが発見した「トロイアの黄金」も劫掠された一つである。この内、約100万点は今なおドイツに返還されていない[21]

在留邦人の運命

避難組

1945年4月当時ベルリンには、駐独日本大使館があったほか、同盟国ドイツやドイツ軍との連絡、新兵器技術を研修・習得するため多くの民間人技術者や技術将校が所属する陸軍武官事務所、海軍武官事務所があった。またその他に軍需メーカーの関係者、大倉商事三菱商事などの商社関係者、同盟通信毎日新聞朝日新聞などの報道関係者、芸術家、留学生などおよそ400人から500人ほどの日本人が在住していた。これらの民間人の多くは4月に入るとベルリン郊外に避難した。ベルリンの南西80km のマールスドルフにある城に120名の日本人が篭城した。このような避難所は他にもベルツィヒなどベルリン郊外に数ヵ所あり、それぞれに大使館関係者が帯同した。

4月13日に、ドイツの航空機体調査を担当している海軍武官事務所の永盛義夫技術中佐、樽谷由吉技術大尉は車でベルリンを離れ、ペーネミュンデ南方のロストックにあるハインケル社の工場で、ジェット機の技術資料を入手し、4月末まで同地に留まった後、中立国スウェーデンへ脱出した。

4月14日には、ドイツ外務省とヨアヒム・リッベントロップ外相からの要請を受けて、駐独日本大使の大島浩以下大使館関係者の多くと大使館付武官も自動車11台に分乗してベルリンを離れ、ドレスデンザルツブルグを経由してバート・ガスタイン(現オーストリア)へ避難した[22]

5月8日には早くも、日本と交戦しているイギリス軍アメリカ軍がバート・ガスタインに到着し、大島大使や武官を含む大使館関係者は滞在していたアストリアホテルにおいてアメリカ軍の軟禁下に置かれた。7月1日にはフランス経由でアメリカに送られ、その後百数十人の民間人も同じくアメリカに移送された後11月に日本へ向かった。

残留組

大使館に残留した河原酸一郎参事官以下少数の大使館員(2人のドイツ人女性タイピストを含む)と民間人は、地下壕に前もって備蓄されていた100人が2か月間暮らせるだけの食料と地下に掘られた井戸ローソクなどを頼りに籠城を続けたが、ベルリン陥落の危機が迫る中、4月22日には機密書類などを廃棄した。その後水と電気が止まったためにローソクと備蓄食料を頼りに生活せざるを得なくなった。

その後ソ連軍が入城すると、5月2日にはロシア語ができる大使館員らの制止を無視して、日ソ中立条約により中立関係にある大使館に押し入り、大使館員の時計や食料などを強奪するに至った。これに対して残留していた大使館員がソ連軍司令部に抗議をしたため、後に大使館入り口に警備兵が立つことになった。しかしその後もソ連軍は、司令部に訪れた日本大使館員を数日間監禁し、リッベントロップ外相の行方などについて尋問するという国際法を違反する行為を行った。

さらにドイツの降伏を受けて、イギリス軍やアメリカ軍がベルリンに入城してくることが決まったため、5月18日には、全ての残留大使館関係者とベルリン郊外のソ連占領区域に避難していた民間人に対して退去が命じられ、20日にはモスクワ経由でシベリア鉄道で帰国させられた。なおこれには、スウェーデンに在留していた日本人も合流した。

脚注

注釈

  1. 1945年3月5日に編成が発令された、クンマースドルフ戦車大隊1個からなる装甲師団。同師団は、1945年初頭、編成途中のままヴァイクセル軍集団に編入、ゼーロウ高地で戦い、その後ベルリン市街戦に加わる。師団の最後の車輌は5月1日に撃破され、翌日赤軍に降伏した(マクシム・コロミーエツ『1945年のドイツ国防軍戦車部隊』、小松徳仁 訳・高橋慶史 監修、大日本絵画、pp.78-79)。
  2. ヴァイトリングがベルリン防衛軍司令官の任命されたのは24日であったが、前日の4月23日よりベルリン東地区と南東地区の指揮を担当していた(H・エーベルレ『ヒトラー・コード』高木玲 訳、講談社、2006年、ISBN 4-06-213266-4、p.396)。また、高橋慶史によれば25日となっている(高橋慶史『続 ラスト・オブ・カンプフグルッペ』p.309)。

出典

  1. 1.0 1.1 1.2 『詳細 独ソ戦全史 「史上最大の地上戦」の実像』デビット・M・グランツ、ジョナサン・M・ハウス共著 守屋純訳 P600
  2. 作戦の詳細は、ゲ・カ・ジューコフ『ジューコフ元帥回想録 革命★大戦★平和』清川勇吉・相場正三久・大沢正 共訳、朝日新聞社、pp.497-512を参照。
  3. コーネリアス・ライアン『ヒトラー最後の戦闘 [下]』木村忠雄 訳、早川書房<ハヤカワ文庫>、pp.92-95,p.104。
  4. コーネリアス・ライアン『ヒトラー最後の戦闘 [下]』木村忠雄 訳、早川書房<ハヤカワ文庫>、p.95-100。
  5. ピーター・アンティル『世界の戦場イラストレイテッド1  ベルリンの戦い 1945』三貴雅智 訳、大日本絵画、p.53。
  6. 6.0 6.1 コーネリアス・ライアン『ヒトラー最後の戦闘 [下]』木村忠雄 訳、早川書房<ハヤカワ文庫>、pp.157-161。
  7. アントニー・ビーヴァー『ベルリン陥落1945』川上洸 訳 白水社 P399
  8. 吉村昭『深海の使者』、文藝春秋<文春文庫>、pp.332-337
  9. ピーター・アンティル『世界の戦場イラストレイテッド1  ベルリンの戦い 1945』三貴雅智 訳、大日本絵画、pp.40-48,p.55。
  10. コーネリアス・ライアン『ヒトラー最後の戦闘 [下]』木村忠雄 訳、早川書房<ハヤカワ文庫>、pp.209-217。
  11. ピーター・アンティル『世界の戦場イラストレイテッド1  ベルリンの戦い 1945』三貴雅智 訳、大日本絵画、p.55,p.56。
  12. アントニー・ビーヴァー『ベルリン陥落1945』川上洸 訳、白水社、p.275。
  13. アントニー・ビーヴァー『ベルリン陥落1945』川上洸 訳、白水社、p.424。
  14. アントニー・ビーヴァー『ベルリン陥落1945』川上洸 訳、白水社、森林戦。
  15. コーネリアス・ライアン『ヒトラー最後の戦闘 [下]』木村忠雄 訳、早川書房<ハヤカワ文庫>、pp.277-279。
  16. ピーター・アンティル『世界の戦場イラストレイテッド1  ベルリンの戦い 1945』三貴雅智 訳、大日本絵画、p.83。
  17. V・K・ヴィノグラードフ,Ya・F・ポゴーニィ,N・V・チェプツォフ 編『KGB秘調書 ヒトラー最後の真実』 佐々木洋子,貝澤哉,鴻英奈 訳、光文社、2001年、ISBN 4-334-96113-4、pp.409-412。
  18. ピーター・アンティル『世界の戦場イラストレイテッド1  ベルリンの戦い 1945』三貴雅智 訳、大日本絵画、p.85。
  19. ヘルケ・ザンダー / バーバラ・ヨール『1945年・ベルリン解放の真実 戦争・強姦・子ども』寺崎あき子・伊藤明子 訳、現代書館、1996年、ISBN 4-7684-7772-0 pp.66-76。
  20. イリヤ・エレンブルク『わが回想 人間・歳月・生活』第五部、木村浩 訳、朝日新聞社、1969年、pp.33-44。
  21. コンスタンチン・アキンシャ & グリゴリイ・コズロフ 著/木原武一 訳『消えた略奪美術品』、新潮社、1997年、ISBN 4-10-535201-6。
  22. 吉村昭『深海の使者』、文藝春秋<文春文庫>、pp.330-331。

参考資料

参考文献

ノンフィクション

  • H.R.トレヴァ=ローパー『ヒトラー最後の日』橋本福夫 訳、雄鶏社、1951年。
  • コーネリアス・ライアン『ヒトラー最後の戦闘』木村忠雄 訳、朝日新聞社、1966年。
  • 吉村昭『深海の使者』文藝春秋<文春文庫>、1976年、ISBN 4-16-716901-0。
  • ジョン・トーランド『アドルフ・ヒトラー』永井淳 訳、集英社、1979年。
  • Wolfgang Paul 『最終戦 1945年ドイツ松谷健二 訳、フジ出版社、1979年。
  • T・プリーヴィエ 『ベルリン』金森誠也・安藤勉 訳、論創社、1992年。
  • エイダ ペトロヴァ / ピーター ワトソン『ヒトラー最後の日 50年目の真実』藤井留美 訳、原書房、1996年、ISBN 4-562-02861-0。
  • アントニー・ビーヴァー『ベルリン陥落 1945』川上洸 訳、白水社、2004年、ISBN 4-56-002600-9。
  • ヨアヒム・フェスト『ヒトラー・最後の12日間』鈴木直 訳、岩波書店、2005年、ISBN 4-00-001934-1。
  • 高橋慶史『続 ラスト・オブ・カンプフグルッペ』大日本絵画、2005年、ISBN 4-499-22748-8。
  • H・エーベルレ、M・ウール 編『ヒトラー・コード』高木玲 訳、講談社、2006年、ISBN 4-06-213266-4。

回顧録

  • ワシーリー・チュイコフ 『ナチス第三帝国の崩壊 スターリングラードからベルリンへ』小城正 訳、読売新聞社、1973年。
  • Gerhard Boldt 『ヒトラー最後の十日間』松谷健二 訳、TBS出版会、1974年。
  • Christian Graf von Knockow 『女たちの時 ドイツ崩壊の淵で 1944-1947』大貫敦子 訳、平凡社、1991年、ISBN 4-582-37317-8。
  • トラウデル・ユンゲ『私はヒトラーの秘書だった』足立ラーベ加代・高島市子 訳、草思社、2004年、ISBN 4-7942-1276-3。
  • 『ベルリン終戦日記―ある女性の記録』山本浩司 訳、白水社、2008年、新版2017年。 - 2008年に映画化(邦題「ベルリン陥落1945」)

Pictorials

  • Tony Le Tissier  Berlin,Then and Now, Battle of Britain Prints International Limited, ISBN 0-900913-72X, 1997
  • 中村雅夫 編『ベルリン攻防戦』学習研究社、1999年、ISBN 4-05-602060-4。

在留邦人の記録

  • 衣奈多喜男(朝日新聞特派員)『敗北のヨーロッパ特電』朝日ソノラマ、1973年。
  • 湯浅年子(フランスから避難した物理学者)『パリ随想』みすず書房、1973年。
  • 与謝野秀(外交官) 『一外交官の思い出のヨーロッパ』筑摩書房、1981年。
  • 新関欽哉 (最後まで大使館に残留した外交官)『第二次大戦下ベルリン最後の日 ある外交官の記録』日本放送出版協会、1988年、ISBN 4-14-001548-9。
  • 藤山楢一(外交官)『一青年外交官の太平洋戦争 日米開戦のワシントンからベルリン陥落』新潮社、1989年、ISBN 4-10-373101-X。
  • 邦正美 (ベルリン攻防戦の前後を自身で体験した留学生)『ベルリン戦争』朝日新聞社、1993年、ISBN 4-02-259573-6。
  • 江尻進(同盟通信特派員)『ベルリン特電』共同通信社、1995年、ISBN 4-7641-0347-8。
  • 館澤貢次 『大戦秘史 リーツェンの桜』ぱる出版、1995年、ISBN 4-89386-474-2。
  • 四本忠俊(内務省ベルリン事務所翻訳官)『マールスドルフ篭城記』明治大学教養論集 通巻第185号。

映画

外部リンク