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アボリジニ

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アボリジニの農民たち(1858年)

アボリジニ: Aborigine)は、オーストラリア大陸と周辺島嶼タスマニア島など。ニューギニアニュージーランドなどは含まない)の先住民である。イギリスを中心とするヨーロッパ人たちによる植民地化の以前からオーストラリア大陸やその周辺諸島に居住していた先住民の子孫たちである。オーストラリア先住民という場合はトレス海峡諸島民を含む。

「アボリジニ」に差別的な響きが強いうえ、言語集団が分かれていたオーストラリア先住民の多様性への配慮から、近年のオーストラリアでは呼称としてほとんど使われなくなった[1]。代わりに現在ではアボリジナルアボリジナル・ピープルアボリジナル・オーストラリアンAboriginal Australians)またはオーストラリア先住民(オーストラリアせんじゅうみん、英語: Indigenous Australians)という表現が一般化しつつある。

概要

オーストラリアで発見されている最古の人類の化石は、およそ4万年前のものと考えられているムンゴマンとムンゴレディであるが[2]、先住民たちの先祖がいつ頃この大陸に到来したのかは、研究者の間でも意見が分かれており、熱ルミネッセンス法English版による年代測定では、61,000年から52,000年前とも[3]、125,000年前とも考えられている[4]

オーストラリアにおける先住民は、多様なコミュニティや社会を構成しており、文化、習慣、言語などもそれぞれが独自の編成を持っている。現代のオーストラリアでは、先住民集団は地域コミュニティごとにさらに細分化されている[5]。ヨーロッパ人たちの植民が始まった当初には、250種類以上の言語が存在していたとされるが、現在も存続しているのはそのうちの120ないし145種類であり、さらに危機に瀕する言語とされていないのはわずか13種類に過ぎない[6][7]。現代のアボリジニたちは大多数が英語を話し、アボリジニ諸言語に由来する言い回しや語彙が加えられてオーストラリア・アボリジニ英語English版が生み出されており、音韻文法の面でも先住民諸言語の明白な痕跡を残している。ヨーロッパ人たちの入植当初におけるオーストラリア先住民の人口は、おおむね318,000人程度から[8]、 1,000,000人程度[9]の間であったものと考えられており、その分布は、現在のオーストラリアの人口分布と同じように、大多数はマレー川を中心とした南東部に居住していた[10]

1995年以来、アボリジニの旗English版トレス海峡諸島民の旗English版が、オーストラリアの公式の旗として承認されている。

歴史

起源

アボリジニの先祖がオーストラリア大陸に上陸した時期は、遺物などの分析から5万年ないし12万年以上前(議論中で定まっていない)とされているが、それ以降にも段階的に人的流入があったとされている。外部地域と隔絶されたのは、遺伝子の研究によりそれほど古くないことが明らかになってきているほか、その祖先の系譜が解明されつつある。かつては形質人類学的にも不明確な部分が多く、骨格的特長から南インド系とする説や、スンダランド経由で渡来したとする説、またはアフリカから等々、諸説入り乱れていた時代があったが、現在では南インド系とする説が有力である。2014年時点で発見されているオーストラリア最古の人類の化石は、約4万年前のムンゴマンと呼ばれる男性である。

なおオーストラリア大陸は1万8千年前の最も近年の氷期においてユーラシア大陸と飛び石のように連なる島々により、現在よりもはるかに渡りやすい地域(これをサフル大陸とも呼ぶ)だったとも考えられている(国家としてのオーストラリア参照)。また、アボリジニはデニソワ人の遺伝子を受け継ぐ数少ない現生人類とも言われている[11]

オーストラリア大陸が現在のような状況になって以降は、ヨーロッパ人の到来まで、オーストラリアは外界から隔絶された場所だったという認識が強い。しかし、近年はこれを覆す研究結果がいくつかある。約4000年前には豪州大陸へと渡った古代のインド人とアボリジニとが混血していたという研究結果がある[12]。アボリジニの伝承には、ヨーロッパ人の来訪以前からも、どこからかやってきた黒人や白人たちと交流があったとの話が伝わっており、中東アフリカからオーストラリア北部を訪れる船乗りがいたと推測する者もいる[13]。アボリジニが残した壁画には、インドネシア方面の特徴を有する帆船が描かれており、交流があったことを示唆している[14]

オーストラリア大陸は、農耕に適した種類の食物となる植物がユーラシア、南北アメリカ、アフリカと比べ遥かに少なく、家畜に適した固有の動物も一切存在しなかった(アボリジニはユーラシア大陸から原始的なイヌのみを導入し、家畜としていた。この原始的なイヌの子孫が現在のディンゴである)。また極度の乾燥地帯で、気候の変動も一年周期とは限らず不規則であるなど、他に類をみない過酷な条件が揃う大陸でもあり、文化的に孤立を余儀なくされた。その地理的条件から、人種的に他の大陸と隔絶され、それらが混血を繰り返しながらオーストラリア全土に広まる過程で、様々な固有文化が派生したとされる。今日ではオーストラリア到着以後も、一部の集団ではポリネシア人やパプア人オーストロネシア人との部分的混血が見られる。

一括りにアボリジニといっても、多数の部族から成立っており、言語的な調査から26〜28程の系統に分類されているが、相互の文化的差異は多い。主な部族に、アナング族(エアーズ・ロック近辺に先住)やジャプカイ族ケアンズキュランダ地域に先住)がある。

アボリジニのY染色体ハプログループは、出アフリカ後インドを経由したやってきたC1b2b(C-M347)が60%、ニューギニアなどに多いK系統が22%見られる[15]

生活史

ヨーロッパ人による植民地化以前、先住民の生活は洞窟等を住居とし、一定範囲を巡回しながら食料を得る採取狩猟型であった。ブーメラン毒物を利用した狩猟を行い、オーストラリア固有植物を取ったり、乾燥した地面を掘って木の根等を食べる大型のイモムシの一種を採取して焼いて食べたりといった生活をしていた。これらの食文化はブッシュ・タッカーと呼ばれ、1970年代からはシドニーのレストランでも応用メニューの提供が始まり、オーストラリア陸軍の特殊空挺部隊(SASR)にも食糧確保ノウハウとして取り入れられている。

白豪主義とアボリジニの悲劇

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先住民族図, The New Student's Reference Work, 1914年出版より

西洋人がオーストラリアを「発見」した段階では、50万人から100万人ほどのアボリジニがオーストラリア内に生活していた[16]言語だけでも250、部族数に至っては、700を超えていた。しかし1920年には約7万人にまで減少した。人口減少の最大の要因はヨーロッパ人が旧大陸から持ち込んだ伝染病(天然痘や梅毒、インフルエンザ、麻疹など)の流行によるものと考えられている。それまでオーストラリアは旧大陸とはほぼ隔絶されていたため、アボリジニはこれらに対する免疫を持っていなかったのである。[17]

1788年からのイギリスによる植民地化によって、初期イギリス移民の多くを占めた流刑囚はスポーツハンティングとして多くのアボリジニを虐殺した[18]。「今日はアボリジニ狩りにいって17匹をやった」と記された日記がサウスウエールズ州の図書館に実際に残されている[19]

1803年にはタスマニアへの植民が始まる。入植当時3000〜7000人の人口であったが、1830年までには約300人にまで減少した[20]。虐殺の手段は、同じくスポーツハンティングや毒殺、組織的なアボリジニー襲撃隊も編成されたという[21]。数千の集団を離島に置き去りにして餓死させたり、水場に毒を流したりするといったことなども行われた[22]

また、1828年には開拓地に入り込むアボリジニを、イギリス人兵士が自由に捕獲・殺害する権利を与える法律が施行された。捕らえられたアボリジニ達は、ブルニー島キャンプに収容され、食糧事情が悪かった事や病気が流行した事から、多くの死者が出た。

これによりアボリジニ人口は90%以上減少し、ヴィクトリアとニューサウスウェールズのアボリジナルの人口は、10分の1以下になった[23]。さらに1876年には、タスマニア・アボリジナル最後の生存者である女性のトルガニニが死亡して、多い時期で約3万7千人ほどいた純血のタスマニアン・アボリジニが絶滅した[24]

特に東海岸沿岸部等の植物相の豊かな地域に居住していたアボリジニは、当初はイギリス移民との平和関係を保っていたものの、後の保護政策に名を借りた強制的な移住もあり、この入植者達によるハンティングという惨劇を語り継ぐ者をも残さず姿を消している。

20世紀前半には、アボリジナルは絶滅寸前の人種(死にゆく人種、死にゆく民族)として分類されるようになる[25]。この死に行く民族という規定は、1937年まで続く。死に行く民族という規定が廃止されると、今度は積極的に白人社会に同化させる方針が強化される[26]

イギリス人らの入植開始当初は50万-100万人いたアボリジナル人口は、1920年頃には約7万人にまで減少していた[27]。同1920年、時のオーストラリア政府は先住民族の保護政策を始め、彼等を白人の影響の濃い地域から外れた保護区域に移住させたが、これはむしろ人種隔離政策的な性質があったようである。元々オーストラリアに移住した白人は、犯罪者が大半を占めていた。そして、徹底的な人種差別政策、いわゆる白豪主義をもって、移民の制限及びアボリジニへの弾圧政策を続けた。

また、1869年から公式的には1969年までの間、アボリジニの子供や混血児(ハーフ・カーストと呼ばれ売春婦として利用される事があった)[28]を親元から引き離し白人家庭や寄宿舎で養育するという政策が行なわれた。様々な州法などにより、アボリジニの親権は悉く否定され、アボリジニの子供も「進んだ文化」の元で立派に育てられるべきという考え方に基づくものと建前上は定義されていたが、実際はアボリジニの文化を絶やしアボリジニの存在自体を消滅させるのが目的であった。政府や教会が主導して行なわれたこの政策で子供のおよそ1割が連れ去られ、彼らの行き先は実際には白人家庭でも寄宿舎でもなく、強制収容所や孤児院などの隔離施設であった。そして、隔離施設から保護を放棄されたり、虐待を受けたり、遺棄された者も少なくはなかった。結果として彼らからアボリジニとしてのアイデンティティを喪失させることとなった。彼らは"Stolen Generation"(盗まれた世代)、または"Stolen Children" (盗まれた子供達)と呼ばれている。尚、「盗まれた世代」の政策が実際に徹底されて行われていたか、またどの程度の規模だったのかは、未だにわかっていない。1920年から1930年の間だけで、混血も含む10万人のアボリジニの児童が親元から引き離されて、故郷から数百キロ、時に千キロ以上も離れた、監獄とも言える劣悪な強制収容所に送り込まれた[29]

無論、アボリジニも全くの無抵抗だったわけではなかった。これらの政策に対してのデモや暴動を起こすものも少なくなかったが、結果としては白人たちの敵愾心を煽るにとどまった。逮捕者の中には、まともな裁判を受けることなく、そのまま死刑に処せられた者もいたほどである。

一方、不毛な乾燥地域である内陸部のアボリジニは周辺の厳しい自然環境に守られながらどうにか固有文化を維持し続けた。今日でもアボリジニ文化の史跡は沿岸部都市より隔絶された内陸地に多く残る。近代のアボリジニ激減と、文字文化を持たなかった事から文化的痕跡を残さず消滅した部族も多く、彼等の言語や文化の系統を調査する試みは進んでいない。音声的に完全に失われた言語も多く、それらの民俗学的調査は「既に大半のピースが失われたパズル」に准えられている。

その後、アボリジナル人口は徐々に回復し、1996年には約35万人になった。これはオーストラリア総人口の約2%である[30]

権利回復

アボリジニの市民権は、1967年にようやく認められた[31]

1993年には先住権が認められ、元々のアボリジニ居住地域の所有権が認められている。今日ではアボリジニの大半が都市部に住んでいるが、政府から支給された住宅に住みながら、一定の伝統的生活を嗜む人もいる。白人主流社会に同化仕事を持つ一方で、伝統舞踊に興じる人もおり、今日では伝統と欧米文明の双方を独自に組み合わせた生活をする人が大半である。

しかし、政府から支給された公的扶助を糧に堕落した生活に陥るという、他の少数民族同様の社会問題も見られる。また、白人との経済格差を解消するため、大学進学における優遇などの差別是正措置も講じられている。このような特典を得るため、実際にはアボリジニでないものが、アボリジニを詐称することも多く、問題となっている。

ケビン・ラッド首相は、2008年2月13日の議会で、先住民アボリジニに政府として初めて公式に謝罪した。同日の議会には約100人の先住民らが傍聴する中で、同首相は「Sorry」の語を3度使い謝罪した。議事堂の外には全国から詰めかけた数千人がテレビを通じて謝罪の言葉を聞いた。この謝罪は、昨年11月の総選挙でラッド率いる労働党公約を実現したものであった。これらは教育や医療、経済面における、アボリジニとその他豪州国民との格差是正に全力で取り組むという趣旨のもので、補償金の支払いについては応じない方針を明らかにしていた。自由党の下院議員5名と上院議員1名は、ラッド首相の公式謝罪に反対し、出席しなかった[32]

文化

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アボリジナル・アート
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アボリジナル・アート
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アボリジナル・アート
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アボリジニの使う道具

信仰

自然崇拝や精霊が存在するとする信仰を持ってきた。先住民が聖地とする場所が多くあり、その例として岩山ウルル(エアーズロック)、カタ・ジュタ、デビルズマーブルなどがある[33][34]

音楽

約1500〜2000年前(成立は2〜3万年前とする説もあるがディジュリドゥの分布を見ても伝統的に使われる地域の古くからある歌には伴奏が付かない事からもまずありえないだろう)には存在していたと考えられている管楽器ディジュリドゥ(長さ1〜1.5m)を使用した独自の音楽文化を持っている。

この楽器は、シロアリによって中空になった木を利用して作られる。美しく装飾された物も多い。この楽器は、振動を管内で反響させ、独特の低音を発生させる。この低音には霊的効果があると考えられており、呪術医治療に利用する事もある。乳児夜泣きには、重低音などによる振動が成長に伴う痛みを緩和する効果があるという民間療法もあるので、その類型である可能性もある。この楽器は古く男性のみに使用が許された。

これらの楽器を一括りにした「ディジュリドゥ」という呼び方は、白人である Herbert Basedow によって1926年に付けられたもので、演奏中の音色が「ディジュリドゥ〜、ディジュリドゥ〜」と聞こえたことにちなむ。先住民族たちは各々の部族ごとに固有の、それぞれの名で呼んでいた模様である[35]

その他の文化

「スキンネーム」と呼ばれる一定の範囲内で共通の名前を、本来の名前とは別に持っている。これは近親婚を避ける意図で用いられていたようであり、日本のに相当するが、数種類程度しか存在しない。

飲酒文化は元々無かったが、後に白人が持ち込んだに興味を覚え、これに耽溺する人も出て社会問題となっている(詳細は後述)。ガソリンを吸引し酩酊を楽しむペトロールスニッフィングも同様に社会問題になっている[36][37]

アボリジニは、様々な壁画を残している。これらの壁画は、文字文化を持たないアボリジニの歴史を知る重要な手がかりである[14]

人種

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南オーストラリアのオーストラロイド

アボリジニは人種的にはオーストラロイドに分類される。すなわち、黒人(ネグロイド)とも黄色人種(モンゴロイド)とも白人(コーカソイド)とも異なる人種であるとされているが、近年は「人種」という概念の科学的有効性に対して疑問も提示され、人類を「人種」ではなく約1万年前の居住地域を基準とした地域集団として捉える考え方が提唱されており、その場合はサフール人とされる。体毛は濃く、の色は「黒人」と同様に極めて濃色である。また、非常に特徴的であるが、女性や子どもの髪の色が肌の色とは対照的に金髪をしていることがよく見受けられる。親知らずがきちんと生えるという特徴を持つ[38][39]

現在でも、白豪主義の影響は地方に根強く、アボリジニを含む有色人種への差別事件が時折発生しており、社会問題となっている。また、現在では、白人やアジア人との混血が進んでいて「純粋なアボリジニ」と言える人は少ない。親子兄弟親戚で容姿が大きく異なる場合も珍しくない。アボリジニを支援するNGOに運動員として応募したアボリジニが、肌が白すぎるという理由で不採用になった事例もある[40]

2010年1月14日、国連が、先住民と非先住民の寿命の違いに関する調査結果を公表した。アボリジニは、非先住民との寿命の開きが20年ほどもあり、調査対象となった先住民の中で、最も非先住民との寿命の開きが大きい集団と評価された。国連は先住民に対して、経済・社会・文化における権利がいまだに限定されている可能性を指摘している[41]

飲酒文化を持たず、また遺伝的にもアルコール耐性が極めて低い。特にアルコール分解酵素がまったく無いか極端に少ないため、体質的に少量の酒で泥酔しやすい。他の先住民族問題においてもアルコール依存症は深刻な社会現象だが、特にアボリジニ居住区にアルコール飲料を持ち込む行為はオーストラリアの法律で禁止されており、持ち込んだ場合には罰金が科せられる。

その一方、長らく広大な平原で暮らしていた事から閉所恐怖症を患う人も多く、治療のために伝統的生活に回帰する人も見られる。

キャシー・フリーマン

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キャシー・フリーマン

キャシー・フリーマンオーストラリアクイーンズランド州生まれの女子陸上競技選手で、主に400メートル競走を専門とした。

2000年9月25日に、シドニー五輪金メダルを獲得した後のトラック一周の際に、アボリジニのオーストラリアの国旗の2つで身を包んだが、これが当時のオーストラリアで議論を呼んだ。

彼女をめぐる逸話は、2004年度[42]から日本の高校の英語の教科書にも取り上げられている[43]

主な民族

アボリジニを題材とした作品

文芸

  • ブルース・チャトウィンソングライン』 芹沢真理子訳、めるくまーる、1994年/北田絵里子訳、石川直樹解説、英治出版、2009年 - オーストラリア全土に広がるアボリジニのソングライン(歌の道)をたどる旅行記。

映画

アボリジニの文化を扱う博物館

ギャラリー

出典

脚注

  1. 先住民 従来の呼称「アボリジニー」使わず【世界発2018】豪州の日 入植は侵略か『朝日新聞』朝刊2018年2月1日(国際面)
  2. design@grafx.com.au, Richard Czeiger:. “Mungo Lady and Mungo Man | Share Mungo Culture | Visit Mungo National Park”. www.visitmungo.com.au. . 2016閲覧.
  3. Australia: The Land Where Time Began
  4. Bindon, P. A. (1997). “Aboriginal people and granite domes”. Journal of the Royal Society of Western Australia (80): 173–179. http://www.rswa.org.au/publications/Journal/80%283%29/80%283%29bindon.pdf . 2016閲覧.. 
  5. Hodge, Robert (1990). “Aboriginal truth and white media: Eric Michaels meets the spirit of Aboriginalism”. The Australian Journal of Media & Culture 3 (3). http://wwwmcc.murdoch.edu.au/ReadingRoom/3.2/Hodge.html. 
  6. LANGUAGES OF ABORIGINAL AND TORRES STRAIT ISLANDER PEOPLES - A UNIQUELY AUSTRALIAN HERITAGE”. Australian Bureau of Statistics. Australian Bureau of Statistics. . 2015 -05-26閲覧.
  7. "Community, identity, wellbeing: The report of the Second National Indigenous Languages Survey" AIATSIS, 2014. Retrieved 18 May 2015.
  8. 1301.0 – Year Book Australia, 2002 Australian Bureau of Statistics 25 January 2002
  9. Gough, Myles (11 May 2011) Prehistoric Australian Aboriginal populations were growing. Cosmos Magazine.
  10. Pardoe, C. (2006). “Becoming Australian”. Before Farming 2006: 1–21. doi:10.3828/bfarm.2006.1.4. 
  11. “デニソワ人の遺伝子の痕跡があるのは?”. ナショナルジオグラフィック. (2013年7月). http://nationalgeographic.jp/nng/article/20130705/357095/index2.shtml . 2014閲覧. 
  12. “古代インド人の豪州大陸への移住は約4000年前、新研究”. AFPBB News. (2013年1月15日). http://www.afpbb.com/articles/-/2920779 . 2014閲覧. 
  13. “900年前のアフリカ硬貨がひも解くオーストラリア史”. AFPBB News. (2013年8月23日). http://www.afpbb.com/articles/-/2963247 . 2014閲覧. 
  14. 14.0 14.1 Carolyn Barry (2008年10月22日). “アボリジニの壁画、歴史を塗り変える?”. ナショナルジオグラフィック. http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=40208223 . 2014閲覧. 
  15. Hudjashov, G.; Kivisild, T.; Underhill, P. A.; Endicott, P.; Sanchez, J. J.; Lin, A. A.; Shen, P.; Oefner, P.; Renfrew, C.; Villems, R.; Forster, P. (2007). "Revealing the prehistoric settlement of Australia by Y chromosome and mtDNA analysis". Proceedings of the National Academy of Sciences 104 (21): 8726–30. doi:10.1073/pnas.0702928104. PMC 1885570. PMID 17496137.
  16. 『オセアニア史』山川出版社2000年、pp79-80
  17. 『オーストラリアの歴史 多文化社会の歴史の可能性を探る』藤川隆男[編] 夕斐閣アルマ P.45
  18. “【鈍機翁のため息】(47)間奏 Ⅱ 人間は進歩しない”. 産経新聞. (2014年2月27日). http://sankei.jp.msn.com/life/news/140227/art14022708580000-n1.htm . 2014閲覧. 
  19. 高山正之『白い人が仕掛けた黒い罠』
  20. 「世界差別問題叢書 5 増補 アボリジニー」明石書店1993年
  21. 「世界差別問題叢書 5 増補 アボリジニー」明石書店1993年、p42
  22. 高山正之『白い人が仕掛けた黒い罠』
  23. 『オセアニア史』山川出版社2000年、pp79-80
  24. 『オセアニア史』山川出版社2000年、pp79-80。「世界差別問題叢書 5 増補 アボリジニー」明石書店1993年、p42
  25. 藤川隆男教授. “オーストラリア小史 第1章 先住民の歴史”. 大阪大学大学院. . 2014閲覧.
  26. 佐藤富美. “アボリジニ”. 京都産業大学. . 2014閲覧.
  27. 『オセアニア史』山川出版社2000年、pp79-80
  28. 出典: 新保満 著 『悲しきブーメラン』
  29. “収容所から脱出し、1600キロを徒歩で逃げたアボリジニ3少女”. ナショナルジオグラフィック. (2014年3月10日). http://nationalgeographic.jp/nng/article/20140310/387267/ . 2014閲覧. 
  30. 『オセアニア史』山川出版社2000年、pp79-80
  31. アボリジニ社会の復興に向けて”. 愛知淑徳大学文化創造学部 多元文化専攻. . 2014閲覧.
  32. http://www.theaustralian.com.au/news/nation/lib-mp-denies-stolen-generations-exist/story-e6frg6nf-1111115544009
  33. カタジュタ デジタル大辞泉の解説”. コトバンク. . 2018閲覧.
  34. デビルズマーブル デジタル大辞泉の解説”. コトバンク. . 2018閲覧.
  35. [1]
  36. Rainbow from Down Under: もうひとつのオパール。。。
  37. BBC NEWS | Asia-Pacific | Aborigine petrol-sniffing 'rises'
  38. 親知らずが生えてきた?
  39. いちご歯科クリニック
  40. “豪アボリジニ女性、「肌が白すぎる」ため支援団体に不採用”. AFPBB News. (2010年11月5日). http://www.afpbb.com/articles/-/277292 . 2014閲覧. 
  41. “先住民は非先住民より20年寿命が短い、国連報告書”. AFPBB News. (2010年1月15日). http://www.afpbb.com/articles/-/2682854 . 2014閲覧. 
  42. “高2以上の教科書検定 「表現力重視」悩む現場 受験対策は読み書き中心”. 読売新聞 朝刊 (東京): pp. 35. (2003年4月21日) 
  43. 新興出版社啓林館 "Tomorrow English Course II"

関連項目

外部リンク