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[[ファイル:Roberts Siege and Destruction of Jerusalem.jpg|right|thumb|200px|70年の[[ユダヤ戦争]][[エルサレム攻囲戦 (70年)|エルサレム攻囲戦]]で[[エルサレム神殿]]が崩壊し、[[熱心党]]と[[エッセネ派]]が消滅し、[[パリサイ派]]だけが残った<ref>[[#上山安敏2005|上山安敏2005]],p.265.</ref>。絵画『エルサレムの包囲と破壊』,David Roberts,1850年]]
 
[[File:Judaica.jpg|thumb|200px|[[ユダヤ教]]の祭具、ジュダイカ。ユダヤ教徒にとって[[安息日]](ヘブライ語: שבת‎ シャバット)は聖なる全き休みの日であり、この日に働いた者は殺されるだろうと[[出エジプト記]]ではいわれる<ref>[[出エジプト記]](31:15、35:2)</ref>。[[ヘブライ語聖書]]の[[タナハ]]、楽器[[ショファー]]、[[シトロン]]箱。]]
 
[[Image:The-Last-Supper-large.jpg|thumb|200px|[[イスカリオテのユダ]](右側) 『[[最後の晩餐]]』([[カール・ハインリッヒ・ブロッホ]]作,19世紀)]]
 
[[file:Francisco rizi-auto de fe.jpg|right|thumb|200px|[[マドリード]]の[[マヨール広場 (マドリード)|マヨール広場]]で行われた[[アウト・デ・フェ|異端判決宣告式]]。]]
 
[[File:Frankfurt Main Fettmilch-Aufstand.jpg|thumb|200px|[[1614年]][[8月22日]]の[[フランクフルト]]・[[#フランクフルト・ゲットーとフェットミルヒ|フェットミルヒの略奪(Fettmilch-Aufstand)]]。(ゴットフリート『年代記』<ref name="po-1-283-305"/>)]]
 
[[File:L Agitation-Antisemite.jpg|thumb|200px|[[ドレフュス事件]]の時の[[パリ]]・[[モンマルトル]]での反ユダヤ暴動(Le Petit Parisien,1898年)]]
 
[[File:Auschwitz-birkenau-main track.jpg|thumb|200px|[[アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所|アウシュヴィッツ第二強制収容所]]。[[ポーランド]]・[[ブジェジンカ]](ドイツ語ビルケナウ)]]
 
[[File:2014 Israeli-Gaza confilict collage.png|thumb|200px|[[2014年]]、[[ガザ侵攻 (2014年)|ガザ侵攻]]。[[イスラエル国防軍|イスラエル軍]]が[[パレスチナ自治区]]の[[ガザ地区]]を攻撃。[[反シオニズム|反イスラエル]]のデモが各地で発生した。]]
 
[[File:Hyper Cacher porte de Vincennes attentat 6.jpg|thumb|200px|[[2015年]]、[[パリ]][[20区 (パリ)|20区]]で発生した[[ユダヤ食品店人質事件]]。]]
 
  
'''反ユダヤ主義'''(はんユダヤしゅぎ)とは、[[ユダヤ人]]および[[ユダヤ教]]に対する敵意、憎悪、迫害、偏見を意味する<ref name=se>「反ユダヤ主義」世界大百科事典 第2版</ref>。[[旧約聖書]]の[[エステル記]]に離散したユダヤ人([[ディアスポラ]])に対する反ユダヤ的態度がすでに記述されている。
+
'''反ユダヤ主義'''(はんユダヤしゅぎ)
  
19世紀以降に[[人種]]説に基づく立場を'''反セム主義'''(はんセムしゅぎ)または'''アンティセミティズム'''({{lang-en-short|antisemitism}})と呼び<ref name=se/><ref name="sim101"/>、近代人種差別主義以前のユダヤ人憎悪({{lang-en-short|judeophobia}},{{lang-de-short|Judenhass}})<ref>[[#ポリアコフ 5|ポリアコフ 5巻]],p.5.</ref>とは区別して人種論的反セム主義ともいう<ref name="sim103">[[#下村 1972|下村 1972]], p.103-105.</ref>。セムとは[[セム語派|セム語]]を話す[[セム族 (民族集団)|セム族]]を指し、アラブ人やユダヤ人を含む。19世紀に[[エルネスト・ルナン]]やヴィルヘルム・マルなどによってセム族と[[アーリア人|アーリア族]]が対比され、反ユダヤ主義を「反セム主義」とする用語も定着した{{refnest|group=*|エルネスト・ルナンはHistoire Générale et Systèmes Comparés des Langues Sémitiques. (初版1855、第三版1863)でセム族とアーリア族を人類の決定的区分とし、P.M.Massingは反セム主義を最初に用いたのはルナンとする<ref name="sim101"/>。またヴィルヘルム・マル(Wilhelm Marr)による[[1879年]]の使用が初出ともされる<ref name="ni-mar"/><ref name="sim101">[[#下村 1972|下村 1972]], p.101.</ref><ref>[http://www.etymonline.com/index.php?term=anti-Semitism Definition at the Online Etymology Dictionary.]</ref>}}。
+
ユダヤ人に対する差別主義、とくに集団的・組織的迫害行動のこと。
  
== 古代の反ユダヤ主義 ==
+
原語はanti-Semitismであるが、Semiteとはこの場合、セム人に属するユダヤ人をさしている。
{{See|ユダヤ人#歴史|ユダヤ教}}
 
以下では、反ユダヤ主義の歴史だけでなく、反ユダヤ主義が生まれた背景として、ユダヤ人をとりまく時代ごとの状況、各国各社会のなかでのユダヤ人の取扱いや、またユダヤ側の反応などの歴史を述べる。
 
  
;離散の始まり
+
この語自体は比較的新しく、1879年、ユダヤ人との宗教的対立以上に民族的・社会経済的敵対性を強調するために、ウィルヘルム・マルが用いて以来広まったが、迫害行動そのものは、「[[ディアスポラ]]」(ユダヤ人の離散)以来さまざまな形で行われ、ヨーロッパ各地において、いわゆるユダヤ人問題を引き起こしてきた。
[[紀元前586年]]、[[新バビロニア|新バビロニア王国]]の[[ネブカドネザル2世]]が[[ユダ王国]]を滅ぼす。[[エルサレム神殿]]は破壊され、[[ゼデキヤ (ユダ王)|ゼデキヤ]]王を捕虜として連行され、[[ヘブライ人]]の[[バビロン捕囚]]が行われた。
 
 
 
[[紀元前538年]]、ペルシャ王[[キュロス2世]]がエルサレム神殿再建を許可し、ユダヤ人は、バビロニア捕囚から解放された。この時、一部はパレスチナへ帰還せず、バビロンに留まり散在を始めた<ref name="osw11-30">[[#大澤1991]],p.11-30</ref>。[[紀元前537年]]から[[紀元前332年]]までのペルシャ支配の時代、ユダヤ人の離散([[ディアスポラ]])は発展した<ref name="osw11-30"/>。
 
 
 
[[紀元前4世紀]]の[[ギリシア]]の哲学者アブダラのヘカタイオス{{refnest|group=*|Hecataeus of Abdera}}はモーセは人間らしさと歓待の精神に反する生活様式を打ち立てたと記した<ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.22</ref>。
 
 
 
[[紀元前2世紀]]、[[セレウコス朝]][[シリア]]の王[[アンティオコス4世エピファネス]]は[[エジプト]]の[[プトレマイオス朝]]を打倒したことで、当地のユダヤ人を支配したが、アンティオコス4世はユダヤの種だけは他の民と友好関係を結ぼうとせずにすべてを敵とみなしているため、ユダヤの種を完全に絶やす意図があったと、[[ポセイドニオス|アパメイアのポセイドニオス]]は記録している<ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.15</ref>。
 
 
 
[[紀元前167年]]、[[マカバイ戦争]]が起きた。
 
 
 
=== ローマ帝国と初期キリスト教における反ユダヤ主義 ===
 
[[Image:Marx Reichlich 001.jpg|200px|thumb|『[[石打ち]]に処される[[ステファノ]]』(Marx Reichlich作、1506年)。]]
 
[[File:Saint Paul Ananias Sight Restored.jpg|thumb|200px|『パウロの回心』([[ピエトロ・ダ・コルトーナ]]作、1631年)。ユダヤ人[[パウロ]](ユダヤ名[[サウロ]]{{lang-he|שָׁאוּל}}) は、回心してキリスト教徒となり、[[聖人]]となった。]]
 
[[ファイル:Francesco Hayez 017.jpg|right|thumb|200px|絵画『エルサレム神殿の破壊』[[フランチェスコ・アイエツ]]、1867年]]
 
{{See|初期キリスト教#ローマ帝国におけるキリスト教|古代末期のキリスト教}}
 
[[1世紀]]、[[ユダヤ教]]の堕落に対して[[洗礼者ヨハネ]]が[[洗礼|洗礼運動]]を開始した。洗礼者ヨハネは、[[古代イスラエル]][[ガリラヤ]]のユダヤ王[[ヘロデ・アンティパス]]が異母兄の妻[[ヘロデヤ]]と結婚したことを[[姦淫]]の[[罪]]として非難したので、処刑された<ref>[[マタイ福音書]]14:1-13</ref>。洗礼者ヨハネからを受けた[[ナザレのイエス]]([[イエス・キリスト]])は[[ユダヤ教]]を改革し、これを[[民族宗教]]から[[普遍宗教]]へ変化させた{{Sfn|福田歓一|1985|p=86}}。
 
 
 
ユダヤ人キリスト教徒の[[ステファノ]]はユダヤ教を批判したため、[[35年]]または36年頃に[[ファリサイ派]]によって
 
[[石打ち]]で処刑され、[[キリスト教]]で初めての殉教者となった<ref name="松本2009pp23_25">[[#松本 2009]],p.23-25.</ref>。[[ファリサイ派]]のユダヤ人[[パウロ]]は当初キリスト教徒を弾圧していたが、回心してキリスト教へ改宗した。ユダヤ教を批判したパウロは反ユダヤ主義の源泉、「ユダヤ人の敵」といわれる<ref name="kono15-23">[[#河野 2001]],p15-23.</ref>。
 
 
 
ストア派哲学者[[ルキウス・アンナエウス・セネカ|セネカ]]は、ユダヤ教徒とキリスト教徒を区別せずに一まとめにして「極悪な民族の習慣はますます強固となって、全世界に根を下ろすようになった。被征服者が征服者に法律を定めた」と述べた<ref>[[#ポリアコフ 5|ポリアコフ 5巻]],p.9.</ref>。
 
 
 
[[66年]]、[[ローマ帝国]]の[[ユダヤ属州]]総督のユダヤ迫害に対して、ユダヤ教過激派が反乱を起こして'''[[ユダヤ戦争]]'''が始まった<ref name="松本初期教会1章2節">[[#松本 2009]],pp.31-52.</ref>。[[70年]]の[[エルサレム攻囲戦 (70年)|エルサレム攻囲戦]]に際し、ローマ軍司令官(後[[ローマ皇帝|皇帝]])[[ティトゥス]]はユダヤ教徒とキリスト教徒を徹底的に絶やすためには[[エルサレム神殿]]を取り壊すべきだとして破壊、ローマ軍はユダヤ軍を鎮圧した<ref>[[#ポリアコフ 5|ポリアコフ 5巻]],p.10.</ref><ref name="松本初期教会1章2節"/>。[[フラウィウス・ヨセフス|ヨセフス]]もローマ軍に投降し、[[熱心党]]と[[サドカイ派]]と[[エッセネ派]]のクムラン教団はこの戦争で消滅し、[[パリサイ派]]だけが残った<ref name="uey-265">[[#上山安敏2005|上山安敏2005]],p.265.</ref><ref name=qumran>今野國雄「クムラン教団」日本大百科全書(ニッポニカ)。「クムラン教団」ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典</ref>。ユダヤ戦争後、ユダヤ教は存在を許されたが、エルサレムの神殿体制は崩壊し、[[ファリサイ派]]はヤブネの土地を拠点とした<ref name=qumran/>。10万近いユダヤ人捕虜は、全ローマ帝国に銀貨一枚で奴隷として売られた<ref name="osw11-30"/>。ユダヤ戦争の際にキリスト教徒はユダヤの反乱に加わることはなかったため、これ以降、ユダヤ教徒はキリスト教徒を敵視した<ref name="松本初期教会1章2節"/>。
 
 
 
[[70年]]代に[[パレスチナ]]と[[小アジア]]で成立したキリスト教の[[福音書]]{{refnest|group=*|最古は[[マルコによる福音書]]で、他に[[マタイによる福音書]]と[[ルカによる福音書]]があり、[[90年]]代には[[ヨハネによる福音書|ヨハネ福音書]]やユダヤ教の系譜にある[[ヨハネの黙示録]]が成立した<ref>[[#松本 2009|松本 2009]], pp.53-64.</ref>。}}では、エルサレム攻囲戦で生き残った唯一のユダヤ教集団の[[ファリサイ派|パリサイ派]]が偽善者として批判されている<ref>[[マルコによる福音書]]12:38-40,[[マタイによる福音書]]23:15,[[ルカによる福音書]]11:37-54</ref><ref name="uey-265"/>。[[ヨハネ福音書]]ではイエスはユダヤ人に対して「悪魔から出てきた者」であって、「(悪魔である父)彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない」<ref>ヨハネ8:42-47</ref>と、ユダヤ人をキリスト殺し、悪魔の子と明確に指名し、キリスト教の反ユダヤ主義に神学的表現を与えた<ref name="kono15-23"/>。『[[ヨハネによる福音書]]』で記された[[イスカリオテのユダ]]について、ポリアコフはユダの名前は偶然というよりも意図が働いていたのではないかと疑っている<ref name="po-1-41-46"/>。
 
 
 
[[97年]]頃、[[フラウィウス・ヨセフス]]は『アピオーンへの反駁』で[[リュシマコス]]を引用して、「[[モーセ]]はユダヤ人に対して、何人にも愛想よくしてはならぬ」と説教したと記録されている<ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.22</ref>{{refnest|group=*|『アピオーンへの反駁』は94年以降に書かれた。}}。
 
 
 
[[105年]]、[[タキトゥス]]は『同時代史』でユダヤ人は彼ら以外の人間には敵意と憎悪をいだき、自分たちの間ではすべてを許すと書かれた<ref>Historiae 5-5,5-4. 『同時代史』國原吉之助訳、筑摩書房、1996年、p269-270.</ref><ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.23.</ref>。
 
 
 
[[132年]]-[[135年]]、[[ユダヤ属州]]で[[バル・コクバの乱]]が発生した。135年、[[ハドリアヌス]]皇帝は乱を鎮圧後、ユダヤ教徒による[[割礼]]を禁止した政策をとったが、[[138年]]に[[アントニヌス・ピウス]]皇帝が撤回した<ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.25.p.38-40.</ref>。しかし、アントニヌス・ピウス皇帝もユダヤ教の改宗活動に歯止めをかけるために非ユダヤ人の割礼を禁止した<ref name="po-1-39-40">[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.39-40.</ref>。バル・コクバの乱以後、ユダヤ人がエルサレムに居住することは禁止され、ユダヤ教祭儀の実践は死刑となった<ref name="osw11-30"/>。
 
 
 
[[Image:Gregory of Nyssa.jpg|right|thumb|150px|[[ニュッサのグレゴリオス]]([[335年]]頃 - [[394年]]以降)]]
 
[[3世紀]]のローマ帝国ではユダヤ教よりも新興宗教のキリスト教が迫害された<ref name="po-1-39-40"/>。この当時、キリスト教はまだ制度化されておらず、キリスト教の聖典学者はみな[[ラビ]]に教えを請うていた<ref name="po-1-39-40"/>。しかし、3世紀の頃から、キリスト教神学者からの反ユダヤ主義がみられ、[[オリゲネス]]は『ケルソス駁論』でユダヤ人は救い主に対して陰謀を企てた罪を冒し、そのためにエルサレムは滅亡し、ユダヤの国民は破滅し、神による至福の招きはキリスト教徒に移行したと論じた<ref name="po-1-41-46">[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.41-46.</ref>。
 
 
 
[[313年]]、ローマ帝国皇帝[[リキニウス]]と[[コンスタンティヌス1世]]は「キリスト者およびすべての者らに、何であれその望む宗教に従う自由な権限を与える」との[[ミラノ勅令]]を出した<ref name="松本85-87">[[#松本 2009]],p85-87</ref>。この頃、ユダヤ人は[[ライン川]]流域に奴隷、ローマ軍兵士、商人、職工、農民としてやってきており、[[321年]]の勅令では[[ケルン]]にユダヤ人住民がいると明記されている<ref name="osw11-30"/>。
 
 
 
[[330年]]、コンスタンティヌス1世が[[ローマ]]から[[コンスタンティノープル]]へ[[遷都]]した。やがて、[[西ローマ帝国]]と[[東ローマ帝国]]に分かれていった。
 
 
 
[[380年]]、[[ローマ帝国]]がキリスト教を[[国教]]とし、[[392年]]にはキリスト教以外の宗教、ローマ伝統の[[多神教]]が禁止された<ref name="松本100-103">[[#松本 2009]],p.100-103</ref>。ユダヤ教は多神教でなく一神教なのでこの時に迫害は受けていない。
 
 
 
[[4世紀]]から[[5世紀]]になると、[[ゲルマン人|ゲルマン諸民族]]がヨーロッパに勢力を拡大し、[[西ゴート族]]の[[アラリック1世]]がローマ帝国への侵入を繰り返し、457年には東西ローマ帝国が分離し、[[オレステス]]と[[オドアケル]]の[[クーデター]]によって[[476年]]に[[西ローマ帝国]]が滅亡した。以後、[[東ローマ帝国]]に[[ローマ帝国]]は継承された。
 
 
 
カッパドキア教父[[ニュッサのグレゴリオス]]はユダヤ教徒を悪魔の一味、呪われた者と罵倒した<ref name="po-1-41-46"/>。
 
[[File:Johnchrysostom.jpg|サムネイル|200px|left|ヨアンネス・クリュソストモスの『ユダヤ人に対する説教(Adversus Judaeos)』は、20世紀にナチ党がユダヤ政策を正当化するために頻繁に引かれた<ref name = "Laqueur">Walter Laqueur, ''The Changing Face of Antisemitism: From Ancient Times To The Present Day'' (Oxford University Press: 2006) {{ISBN|0-19-530429-2}}, p. 47-48</ref><ref name="Katz">{{Citation|last=Katz |first=Steven |year=1999 |chapter=Ideology, State Power, and Mass Murder/Genocide |title=Lessons and Legacies: The Meaning of the Holocaust in a Changing World |publisher=Northwestern University Press |url=https://books.google.com/books?id=WEUZNRmi0i4C&pg=PA52&dq=hitler+chrysostom+christian+jewish+policy&sig=zzCuQuNS8V1B90ugUh3115uL8Xs }}</ref>。]]
 
[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンディヌーポリ総主教]][[金口イオアン|ヨアンネス・クリュソストモス]]はユダヤ人は盗賊、野獣、「自分の腹のためだけに生きている」と罵倒した<ref name="po-1-41-46"/>。ヨアンネスは「もしユダヤ教の祭式が神聖で尊いものであるならば、われわれの救いの道が間違っているに違いない。だが、われわれの救いの道が正しいとすれば、ーもちろんわれわれは正しいのではあるがー、彼らの救いの道が間違っているのである」とし、ユダヤ教徒による不信心は狂気であり<ref name="g-64-89">[[#ゴールドハーゲン|ゴールドハーゲン]],pp.64-89.</ref>、「神の御子を十字架に懸け、聖霊の助けを撥ねつけたのなら、シナゴーグは悪魔の住まい」ではないかと述べた<ref name="kono15-23"/>。これ以来、[[東ローマ帝国|ビザンティン帝国]]で反ユダヤ主義の伝統が形成され、1000年後の[[モスクワ大公国|モスクワ公国]]でのユダヤ人恐怖をもたらした<ref name="po-1-41-46"/>。また、ゴールドハーゲンはヨアンネスのような古い事例は近代へもつながり、キリスト教徒にとってのユダヤ教徒は有害で害虫であり、キリスト教徒であることそれ自体がユダヤ人への敵意を生み出し、ユダヤ人を悪の権化、悪魔とみなしていったとする<ref name="g-64-89"/>。
 
 
 
[[東ローマ帝国]]皇帝[[テオドシウス2世]](在位408-50)は、ユダヤ人を公職追放した<ref name="kono15-23"/>。この布告はヨーロッパで受け継がれ、18世紀まで効力を持った<ref name="kono15-23"/>。
 
 
 
[[5世紀]]初頭の『[[神の国 (アウグスティヌス)|神の国]]』で[[アウグスティヌス]]は、ユダヤ人がキリスト教信仰を受け入れるだろうといっている<ref>「神の国」20書30章。[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.201</ref>。また『マニ教への反駁』では、ユダヤ人はイエスを殺したから死に値するが、カイン同様地上を彷徨わせるべきで、キリスト再臨の時、ユダヤ人は過ちを認めてキリスト教に帰依する、さもなければ悪魔の国に落ちるとし、ユダヤ人を悲惨と倫楽の状態のままで生き永らえさせよと主張した<ref name="kono15-23"/>。
 
 
 
キリスト教徒にとってのユダヤ人は、イエスの啓示を否定するとともにイエスを殺害した特別な民族であり、ユダヤ人は神の冒涜者で世界の道徳秩序の破壊者であり、これはキリスト教文化の原理となった<ref name="g-64-89"/>。パークスによれば、4世紀にキリスト教教会が勝利を収めてから中世にいたるまで反ユダヤ主義は断絶しなかった<ref name="g-64-89"/><ref>james parks,antisemitism,1969,p.60.</ref>。
 
 
 
=== ゲルマン諸王国と反ユダヤ主義 ===
 
ヨーロッパのゲルマン諸王国ではカトリックへの改宗が進んだ。[[496年]]には[[メロヴィング朝]][[フランク王国]]の[[クロヴィス1世]]が、またイタリアの[[ランゴバルド王国]]、[[587年]]には[[イスパニア]]の[[西ゴート王国]]がカトリックへ改宗し、[[中世ヨーロッパのキリスト教国家|キリスト教国家]]となった。
 
 
 
;西ゴート王国
 
[[ファイル:Visigoth Kingdom.jpg|サムネイル|西ゴート王国(415年 - 711年)]]
 
[[589年]]に[[西ゴート王国]]はカトリックに改宗したため、これ以降、反ユダヤ政策が展開された。第3回トレド公会議でユダヤ人がキリスト教徒の[[奴隷]]や妻を持つことが禁止された<ref name="Sp61"/>。[[612年]]、シセブート王がユダヤ人にキリスト教の[[洗礼]]を強制し、また第4回トレド公会議では改宗したユダヤ人に訴訟を禁止した<ref name="Sp61"/>。[[639年]]の第6回トレド公会議でユダヤ教儀礼を禁止する誓約書を提出されるキンティラ王の政策を追認した<ref name="Sp61"/>。[[653年]]の第8回トレド公会議で西ゴート法典でユダヤ教の宗教儀礼を禁止した<ref name="Sp61"/>。[[680年]]の第12回トレド公会議でエルウィック王の反ユダヤ法が承認され、ユダヤ人の強制改宗が法的に定められ、違反者は追放、奴隷や財産の没収が課せられた<ref name="Sp61"/>。
 
 
 
[[693年]]、エギカ王が前王の勢力の陰謀に対して、第16回トレド公会議で陰謀に加担した大司教や貴族の財産没収を命じるとともに、キリスト教に改宗しないユダヤ人の財産没収を命じた{{refnest|group=*|西ゴート法典に同文が追加された<ref name="Sp61">「世界歴史体系 スペイン史1」,p61-63</ref>}}。[[694年]]、第17回トレド公会議で、エギカ王はユダヤ人による王国転覆計画が発覚したと告発し、司教たちは「ヒスパニアのユダヤ人を全員[[奴隷]]とする」と議決した<ref name="Sp61"/>。
 
 
 
;フランク王国
 
[[ファイル:Franks expansion.gif|right|thumb|フランク王国の時代別の領土]]
 
[[フランク王国]]では6世紀に、王の御用商人ユダヤ教徒プリスクスなどのユダヤ商人が地中海交易で活躍した<ref>[[トゥールのグレゴリウス]]「フランク史」</ref><ref name="kanno1-16-26">[[#菅野賢治 上巻|菅野賢治 上巻]],p.16-26.</ref>。
 
 
 
[[636年]]、[[東ローマ皇帝]][[ヘラクレイオス]]がイスラム勢力の[[アラブ人]]に敗北すると、[[占星術]]で「キリスト教王国は、[[割礼]]をほどこされた民(イスラム教徒アラブ人、ユダヤ教徒)に滅ぼされる」との予言が出された。ヘラクレイオスから予言を伝えられた[[メロヴィング朝]]フランク王[[ダゴベルト1世]]は王国内のユダヤ教徒に即時改宗か国外退去を命じた<ref name="kanno1-16-26"/><ref name="po-1-50-59">[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.50-59.</ref>。
 
 
 
[[カロリング朝]]でもユダヤ人の大商人が活躍した<ref name="po-1-50-59"/>。カロリング時代には、「ユダヤ人」は「商人」と同義語でもあった<ref name="osw11-30"/>。ユダヤ人は王室の庇護を受けて、キリスト教共同体に対して改宗活動を展開したが、これにキリスト教聖職者は反発した<ref name="po-1-50-59"/>。
 
 
 
8世紀初め、[[ウマイヤ朝]]が西ゴート王国を滅ぼし、フランク王国を征服しようとした時、ユダヤ教徒がイスラムに手を貸したとキリスト教側の記録に記されている<ref name="kanno1-16-26"/>。
 
 
 
[[732年]]にメロヴィング朝フランク王国の[[宮宰]][[カール・マルテル]]によってウマイヤ朝の進撃が食い止められた後、[[ポワチエ]]での定住がユダヤ人に許可され、東方交易に従事した<ref name="kanno1-16-26"/>。
 
 
 
[[759年]]、[[ピピン3世]]が[[サラセン人]]に占領されていた南フランスの[[ナルボンヌ]]を奪回すると、ピピン3世は武器援助をしたユダヤ人にナルボンヌの3分の1の領地に居住を許し、ユダヤ共同体の代表が「ユダヤの王」を名乗るのを許可した<ref name="kanno1-16-26"/><ref name="osw11-30"/>。
 
 
 
『[[サリカ法典]]』の[[8世紀]][[写本]]の序文では、ゲルマン系の[[フランク人|フランク族]]について「神自らつくりたもうた高名な人種、軍事に強く、結束にゆるぎなく、思慮深く、たぐいまれな美しさと白さを持ち、高貴で健康的な身体をもち、勇敢で俊敏な、恐るべき人種」と書かれた<ref>[[#ポリアコフ1985]],p.21-2.</ref>
 
 
 
[[カール大帝]](在位:[[768年]] - [[814年]])は、キリスト教への改宗を国民にも強制したが、ユダヤ人は「聖書の民」であるため、ユダヤ教の信仰を許可した<ref name="osw11-30"/>。また、ユダヤ人は自由通商貿易を許可され、ユダヤ人共同体内での裁判権も許可された<ref name="osw11-30"/>。カール大帝は[[797年]]にアッバース朝へユダヤ人イツハクを派遣した{{refnest|group=*|大澤は、[[801年]]にカール大帝の使節がバグダードのカリフ、ハルン・アル・ラシドと交渉した時は、ユダヤ人イザアクが通訳と交渉をしたとする<ref name="osw11-30"/>}}。またカールはイタリアからユダヤ人商人を招き、[[ライン川]]・[[モーゼル川]]流域に住まわせ、[[シュバイヤー]]、[[ヴォルムス]]、[[マインツ]]に三大ユダヤ共同体が成立し、[[ボン]]や[[ケルン]]にもユダヤ植民地が築かれた<ref name="kanno1-16-26"/>。またカール大帝はバビロニアのマヒールをナルボンヌに招き、「ユダヤの王」称号を名乗ることや[[イェシーバー]]の開設を許可した<ref name="kanno1-16-26"/>。
 
 
 
イスラム教とキリスト教の境界が確定してからは、キリスト教世界にとって東方との交易が難しくなったため、ユダヤ人商人が東方交易に乗り出し、ペルシャ、インド、中国まで進出した<ref name="osw11-30"/>。
 
 
 
[[9世紀]]前半の[[リヨン]]では、ユダヤ人が宮殿に出入りしたり、徴税官になったり、奴隷を所有することもあった<ref name="kanno1-16-26"/>。[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|皇帝ルートヴィヒ1世]](ルイ1世、ルイ敬虔王)はユダヤ教徒に改宗運動を許可した。[[839年]]、宮廷助祭ボード (Bodo) がユダヤ教に改宗。リヨン大司教アゴバール(778-840)はルイ敬虔王にユダヤ人による改宗運動を禁ずるよう訴えたが、王はユダヤ人の特権維持を宣言し、ユダヤ行政官エヴラ−ルが派遣されて、アゴバールは追放され、ユダヤ人の勢力拡大を嘆いた<ref name="po-1-50-59"/>。
 
 
 
ユダヤ人がフランク王国の宮廷や貿易で活躍する一方で、反ユダヤ主義も展開していった。[[843年]]の[[ヴェルダン条約]]で王国が三分割された後、[[848年]]に[[ヴァイキング]]の[[デーン人]]が[[西フランク王国]]の[[ボルドー]]を襲撃した時には、ユダヤ人が裏切ったとされた<ref name="kanno1-16-26"/>。860年頃、リヨン大司教アモロンはユダヤ教の「感染」からキリスト教教徒を守るため、ユダヤ人の食べ物や飲み物を口にすることを禁じ<ref name="po-1-50-59"/>、[[876年]]には[[サンス]]のユダヤ教徒が修道女と関係をもったとして追放された<ref name="kanno1-16-26"/>。
 
 
 
=== ハザール、イスラム ===
 
[[中世ヨーロッパにおける教会と国家|古代・中世ヨーロッパのキリスト教国家]]以外では、[[コーカサス]]・[[黒海]]地域に成立した[[テュルク|トルコ系]]の[[ハザール王国]]では、[[8世紀]]に国王と高官がユダヤ教に改宗した。[[960年]]には[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]のラビ・ハスダイ・イブン・シャープルートがユダヤ教復興に期待してハザール王国に書簡を送った。
 
 
 
[[イスラム王朝]]の[[ファーティマ朝]]では、第6代カリフ[[ハーキム|アル・ハーキム]](在位996年 - 1021年)がキリスト教とユダヤ教を弾圧した<ref name="po-1-50-59"/>。[[1009年]]、[[ファーティマ朝]]が[[聖墳墓教会]]を破壊した<ref name="fr419"/>。
 
 
 
[[1066年]]、イスラム支配下の[[アンダルス]]でベルベル・ユダヤ人が殺害される [[ユダヤ人#歴史|グラナダ虐殺]]が起こった。
 
 
 
北アフリカのイスラム王朝[[ムワッヒド朝]](1130年 - 1269年)でもキリスト教徒とユダヤ教徒が迫害された。
 
 
 
== 中世の反ユダヤ主義 ==
 
[[画像:jerusalem Holy Sepulchre BW 19.JPG|サムネイル|250px|イスラムに破壊された後、再建された聖墳墓教会]]
 
[[カペー朝]][[フランス王国]]では、[[992年]]、[[リモージュ]]ないし[[ル・マン]]で、キリスト教に改宗したセホクがユダヤ共同体から追放された腹いせに、蝋人形をシナゴーグの聖櫃に隠してユダヤ人はキリスト教徒への呪いの儀式を行っていると告発した。<ref name="kanno1-16-26"/>。996年、[[ユーグ・カペー]]が死んだ場所が「ジュイ」であったため、ユダヤ人が死の原因とされた<ref name="kanno1-16-26"/>。1007年頃、[[ロベール2世 (フランス王)|ロベール2世敬虔王]]がユダヤ教徒へ改宗を強制し、従わない者は処刑すると命じた。ユダヤ教徒イェクティエルの直訴を受けた教皇は、フランス王に撤回させた<ref name="kanno1-16-26"/>。
 
 
 
フランスをはじめ西ヨーロッパ諸国で、[[1009年]]の[[ファーティマ朝]]による[[聖墳墓教会]]破壊について、ユダヤ人が教会の破壊をそそのかしたという噂が流布し、局地的に強制改宗や追放がなされた<ref name="fr419">世界歴史体系 フランス史1,p419-422.</ref><ref name="po-1-50-59"/>。修道士ラウル・グラベールは「全てのキリスト教徒が、自分たちの土地と町から全ユダヤ教徒を追放するという点で意見の一致を見た」と記している<ref name="kanno1-16-26"/>。これ以降、イスラム教徒とユダヤ教徒がキリスト教世界の覆滅を共謀しているという見方が一般的なものとなり、[[復活祭]]にはユダヤ共同体の長が[[平手打ち]]を受けるという慣習がはじまった<ref name="fr419"/>。トゥールーズでは[[聖金曜日]]に大聖堂の前でユダヤ教徒への平手打ちがはじまり、12世紀まで続いた<ref name="kanno1-16-26"/>。[[ベジエ]]では[[枝の主日]]にユダヤ居住区への襲撃が司教によって赦された(1161年に禁止)<ref name="kanno1-16-26"/>。
 
 
 
1010年にルーアン、オルレアン、リモージュで、1012年にはマインツやライン川流域の都市、そしてローマなどでユダヤ人が強制改宗や虐殺、追放の対象となった<ref name="po-1-50-59"/>。
 
 
 
[[1066年]]には - フランスのオルレアンで[[異端審問]]が行われ、イスラム支配下のアンダルスで[[ユダヤ人#歴史|グラナダ虐殺]]が起こった。この年、[[ノルマンディー公]][[ウィリアム1世 (イングランド王)|ギヨーム2世]]によるイングランド征服([[ノルマン・コンクエスト|ノルマン征服]])によって、[[ルーアン]]のユダヤ人が経済金融政策を担当した<ref name="kono15-23"/>。当時すでにユダヤ人は高利貸付や信用貸付に長けており、[[ドゥームズデイ・ブック]]にはユダヤ人による土地買収が記録されている<ref name="kono15-23"/>。
 
 
 
[[1084年]]、ドイツの[[シュパイアー]]司教リューディガーは、ユダヤ人にキリスト教徒の下僕や農奴、畑や武器を持つことを許可しており、この時は反ユダヤ主義はまだ激しくはなかった<ref name="po-1-50-59"/>。
 
 
 
=== 十字軍と反ユダヤ主義 ===
 
[[Image:PeoplesCrusadeMassacre.jpg|thumb|200px|[[民衆十字軍]]]]
 
[[ファイル:Peter the Hermit.jpg|thumb|200px|[[隠者ピエール]]率いる民衆十字軍]]
 
 
 
[[1096年]]、[[中世ヨーロッパ]]で聖地[[エルサレム]]を[[イスラム教]]諸国から奪還するための[[十字軍]]の派遣が始まると、キリスト教の敵としてイスラム教とユダヤ教が看做され、反ユダヤ主義が強まり、各地でユダヤ人への襲撃が発生していった<ref name="fr419"/>。
 
 
 
[[民衆十字軍]]を組織したと伝えられる[[隠者ピエール]]は、無駄な暴力を慎み、ユダヤ人には物資と資金を調達させたにとどめた<ref name="po-1-63-74"/>。民衆十字軍からの攻撃に対してユダヤ教徒は買収によってまぬがれた場合もあった<ref name="fr419"/>。[[ルーアン]]の十字軍参加者は東にいる神の敵を打ち負かしに行きたいが、身近にも神の敵であるユダヤ人がいるがこれは本末転倒であると述べ、実際、ルーアンをはじめフランス全土およびヨーロッパ各地でユダヤ人が放逐された<ref name="po-1-63-74">[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.63-74.</ref><ref name="kono15-23"/>。
 
 
 
[[ラインラント]]地方では、ライニンゲンのエーミヒョ伯爵の軍団が、[[ライン川|ライン峡谷]]を下りながら、ユダヤ人集落に対して「洗礼か死か」と二者択一を迫って、襲撃した<ref name="po-1-63-74"/>。[[1096年]][[5月3日]]、エーミヒョ侯軍は[[シュパイアー]]ではユダヤ人11人を殺害し、5月18日から25日にかけて[[ヴォルムス]]でユダヤ人800人を殺害または[[集団自決]]に追い込み<ref name="WORMS"> Gotthard Deutsch, Abraham Lewinsky, Joseph Jacobs, Schulim Ochser,「[http://www.jewishencyclopedia.com/articles/15013-worms#ixzz1KCHABEdj WORMS]」,Jewishencyclopedia([[ジューイッシュ・エンサイクロペディア]]),1906. </ref>、5月27日(28日<ref name="osw11-30"/>)には[[マインツ]]で同じくユダヤ人700人から1014人<ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.75.</ref>を殺害または自決に追い込んだ<ref name="po-1-63-74"/>。このほか、[[7月8日]]に[[ケルン]]、[[7月14日]]にノイス、このほか[[トリーア]]、[[バイエルン]]の[[レーゲンスブルク]]と[[バンベルク]]、[[メス (フランス)|メッツ]]、[[プラハ]]などで襲撃が起こった<ref name="po-1-63-74"/><ref name="osw11-30"/>。各地の領主や司教は時には自らの命をかけてユダヤ人を守ろうとしたが、最下層民は十字軍兵士による虐殺に合流した<ref name="po-1-63-74"/>。ザクセンの年代記作家はこうした十字軍兵士に対して「人類の敵」「偽の兄弟」と叱責している<ref name="po-1-76-90">[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.76-90.</ref>。エックスのアルベールは[[民衆十字軍]]が[[ルーム・セルジューク朝]]に大敗北したのは、神の懲罰であり、ユダヤ人虐殺に対する正当な報いとした<ref name="po-1-76-90"/>。
 
 
 
神聖ローマ皇帝[[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]は、改宗を強制されたユダヤ人にもとの信仰に戻ることを許可した<ref name="po-1-63-74"/>。これが神聖ローマ皇帝とその臣民ユダヤ人という特殊な関係が生まれたきっかけとなった<ref name="po-1-63-74"/>。他方、教皇クレメンス3世は強制改宗の取り消しに強く憤った<ref name="po-1-63-74"/>。
 
 
 
[[1146年]]、エデッサ伯領の喪失を受けてローマ教皇エウゲニウス3世が[[第2回十字軍]]を呼びかけた。[[クリュニー修道院]]長ピエールは、「マホメット教徒の千倍も罪深い」ユダヤ人が身近にいるのに、なぜ遠征するのかと唱え、ドイツの修道僧ルドルフも「今ここ、われわれに交じって暮らしている敵を討つ」べきであると説いた<ref name="po-1-63-74"/>。この時、ケルン、シュパイヤー、マインツ、ヴュルツブルク、フランスのカランタン、ラムリュプト、シュリーでユダヤ人が襲撃された<ref name="po-1-63-74"/>。[[ヴォルムス]]でも襲撃があった<ref name="WORMS"/>。
 
 
 
==== 儀式殺人(血の中傷) ====
 
[[File:Death of William of Norwich.jpg|thumb|200px|ユダヤ人に儀式殺人で殺害されたといわれた[[ノリッチ]]のウィリアムの磔刑。[[ノーフォーク]]ロッドン[[ホーリー・トリニティ教会]]]]
 
[[ファイル:Hostia i komunikanty.JPG|thumb|right|200px|キリスト教教会の[[典礼]]で使われる「[[聖体|聖餅(ホスチア)]]」。小麦粉を薄く焼いたもの。]]
 
 
 
十字軍の時代には、ドイツとイギリス、フランスをはじめ、ヨーロッパ各地でユダヤ人による儀式殺人(meurtre rituel)が告発された<ref name="po-1-63-74"/>。これは[[血の中傷]]といわれる。
 
*[[1144年]]、イングランドの[[ノリッチ]]で、ユダヤ人が儀式のために少年ウィリアムを拷問した後で体から血を抜き、その血を[[過越|過越祭]]のパンに混ぜたという儀式殺人が告発されたが、これが最初の告発であった<ref name="po-1-76-90"/><ref name="kono15-23"/>。告発者のケンブリッジの修道僧シーアボルドはキリスト教の洗礼を受けたばかりの改宗ユダヤ人だった<ref name="po-1-76-90"/>。ユダヤ人名士が一文無しの騎士に殺害される事件も起こった<ref name="po-1-76-90"/>。イギリスでは、[[1168年]]にグロースター、[[1181年]]にはベリー=セイントエドモンズで儀式殺人告発がなされ、ユダヤ人が犠牲となった<ref name="kono15-23"/>。
 
*[[1147年]]、ドイツのヴュルツブルクでユダヤ人数名が儀式殺人で告発され、何名かが殺害された<ref name="po-1-76-90"/>。
 
*[[1150年]]、ケルンで、改宗ユダヤ人の男の子が教会で[[聖体|聖餅(ホスチア)]]を拝領すると、大急ぎで家に帰って、聖餅を土に埋めた<ref name="po-1-76-90"/>。僧侶が穴を掘り返すと、子供の遺体があり、光が下り、子供は天に上ったという話があった<ref name="po-1-76-90"/>。
 
*[[1171年]]、[[ブロワ]]でユダヤ人50人がキリスト教徒の子供を誘拐して儀式殺人を行ったと告発され、焚刑に処された<ref name="kanno1-43-51">[[#菅野賢治 上巻|菅野賢治 上巻]],p.43-51.</ref><ref name="po-1-76-90"/>{{refnest|group=*|『世界歴史大系フランス史』では30人とされる<ref name="fr419"/>。}}。
 
 
 
儀式殺人を行ったとしてユダヤ人を告発する事件はこれ以降も中世ヨーロッパの各地で多発し、[[18世紀]]以降も東欧やロシアなどで発生が続いた{{refnest|group=*|[[18世紀]]以降もポーランド、ロシア、ダマスカス、ハンガリー、ギリシャ、チェコなどでユダヤ人への血の中傷事件が起こったが、これはユダヤ人による儀式殺人の中世の伝説が深く根をおろしていたためであった<ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.90</ref>}}。
 
 
 
==== ユダヤ金融業とユダヤ人の法的規制 ====
 
[[File:UsuryDurer.jpg|サムネイル|200px|高利貸し(Usury)。風刺文学『[[阿呆船]]』([[1494年]])挿絵。[[アルブレヒト・デューラー]]作と伝えられる。]]
 
ユダヤ人が金貸し業をはじめる前は、キリスト教[[修道院]]や[[教会管区]](シュティフト)が営んでおり、はじめは困った人々の支援から始まった金貸しは、やがて修道院金融業としてが大々的に発展していった<ref name="osw32-50">[[#大澤1991]],p.32-50.</ref>。[[フランシスコ会|フランシスコ修道院]]では[[年利]]4〜10%を受けるほどであった{{Sfn|大澤武男|1991|p=34}}。これに対して、13世紀の[[修道院改革]]で、キリスト教徒間の利息をともなう金の貸し借りが厳格に禁止された<ref name="osw32-50"/>。
 
 
 
[[12世紀]]に、教会はユダヤ人の土地取得にともなう十分の一税の補填を要求したため、ユダヤ人は土地を手放すようになり、また都市同業組織はキリスト教兄弟団の性格もあり、手工業はユダヤ共同体内部にとどまった<ref name="fr419"/>。こうしたことを背景に、ユダヤ人は金融に特化していった<ref name="fr419"/>。利子つきの金融をカトリックでは禁止しており、またユダヤ教でも「あなたが、共におるわたしの民の貧しい者に金を貸す時は、これに対して金貸しのようになってはならない。これから利子を取ってはならない。」([[出エジプト記]]22-25)や[[戒律]]で禁止されていたが、ユダヤ教の場合は異教徒への金融は許されていた<ref name="fr419"/>。ユダヤ金融の利子は3[[割]]から4割にも及んだので、多くの債務者は担保物件を失った<ref name="fr419"/>。こうしてユダヤ人金融業への敵意が増大していった<ref name="fr419"/>。第2回十字軍を勧進して回った[[クレルヴォーのベルナルドゥス]]は、金貸し業はユダヤ人の本業(ユダイツァーレ)であるとした<ref name="osw32-50"/>。
 
 
 
フランス王[[フィリップ2世]](在位:1180年 - 1223年)は[[1180年]]にフランス王国内のユダヤ人を逮捕し、身代金と引き換えに釈放し、さらにキリスト教徒の借金を帳消しにし、負債額の2割を国庫に収めさせた<ref name="kanno1-43-51"/>。翌[[1181年]]にはユダヤ人の債権の5分の1を王のものとし、残りを破棄させ<ref name="po-1-107-126"/>、[[1182年]]税を支払えないユダヤ人を王領から追放し、ヨーロッパで行われた最初の組織的なユダヤ人追放となった<ref name="kanno1-43-51"/>。しかし、[[1196年]]にはユダヤ人を王領へ呼び戻した<ref name="fr419"/><ref name="po-1-107-126"/>{{refnest|group=*|適用は王の直轄地に限られた<ref name="po-1-107-126"/>。}}。[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]](在位:1226年 - 1270年)は証文作成や賃借記録提示を義務化などユダヤ金融業を規制し、1254年に十字軍から帰還するとユダヤ人を金融業から追放する勅令を出した<ref name="kanno1-43-51"/>。1235年、ノルマンディーでユダヤ人金融業が禁止され、ヨーロッパ初の行政権によるユダヤ人金融業禁止令となった<ref name="kanno1-43-51"/>。[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]](在位:1285年 - 1314年)もユダヤ金融を規制した<ref name="fr419"/>。[[12世紀]]末から[[13世紀]]初めには、フランス領主が、ユダヤ人を相互に返還する取り決めをしていた<ref name="fr419"/>。
 
 
 
[[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]](在位:1154年 - 1189年)のイングランドには、1096年の十字軍によるヨーロッパでの放逐から逃れてきたユダヤ人移民が多く住み着き、高利貸、医者、金細工師、兵士、商人などの職業に就いた<ref name="kono15-23"/>。ユダヤ人商人は、財務代理人、国王代理人としてイングランド王にたえず貸付を行ったが、ユダヤ人商人の死後、その財産はイギリス王室帰属となった<ref name="kono15-23"/>。このようにイギリスではユダヤ人商人は「王の動産」であり、またユダヤ人は自治上の特権と引き換えに特別税を上納した<ref name="kono15-23"/>。ユダヤ人の貸付利子は年44.33%という高率であったため、債務者からは怨嗟の的となった<ref name="kono15-23"/>。
 
 
 
12世紀末のイングランド財務裁判所にユダヤ財務局(Exchequer of the Jews)が作られ、ユダヤ人金融業が法規制の下におかれ、取引書類は王室官吏立会で行われるようになった<ref name="po-1-107-126">[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.107-126.</ref>。イングランドのユダヤ人は金融業を営み、王侯の付き人として特殊な封臣となっていた<ref name="po-1-107-126"/>。しかし、1210年、[[ジョン (イングランド王)|ジョン欠地王]]在位:1199年 - 1216年)はユダヤ人に法外な納税額を請求し、支払えなかったブリストルのユダヤ商人を幽閉し、歯を抜いて処刑した<ref name="po-1-107-126"/>。ジョン欠地王はユダヤ人を庇護したが財政が悪化すると、ユダヤ人に1万[[イギリスの紙幣と硬貨の一覧|マーク]]の罰金を課し、完済するまで抜歯されたり、目をえぐられたりした<ref name="kono15-23"/>。[[マグナ・カルタ]]の10・11条ではユダヤ人に債務を負う者の死後の弁済に配慮され、ユダヤ人高利貸しには不利なものであった<ref name="kono15-23"/>。
 
 
 
{| class="wikitable"
 
|+ 中世ドイツのユダヤ金貸し業の金利<ref name="osw32-50"/>
 
! 年 !! 場所 !! 年利
 
|-
 
! 1244年
 
| ウィーン || 174%
 
|-
 
! 1255年
 
| [[ライン都市同盟]] || 最高金利年33.3%、週単位の短期貸付の最高年利43.3%
 
|-
 
! 1270年
 
| ミンデン || 86.7%
 
|-
 
! 1273年
 
| ケルン || 78.3%
 
|-
 
! 1276年
 
| アウグスブルク || 86.7%
 
|-
 
! 1338年
 
| フランクフルト ||32.5〜43.3%
 
|-
 
! 1342年
 
| シュヴェービシュハール ||43.3%
 
|-
 
! 1346年
 
| トリエル ||43.3%
 
|-
 
! 1350年
 
| ブレスラウ || 25%
 
|-
 
! 1391年
 
| ニュルンベルク || 10-13.5%〜21.7%
 
|-
 
! 1392年
 
| レーゲンスブルク || 43.3%〜86.7%
 
|}
 
 
 
このように高い[[利息]]によってユダヤ人金貸し業は営まれていたが、やがて世間ではユダヤ人の家には暴利をむさぼる搾取によって不正な財産があり、それは取り返してもよいとするユダヤ人財産略奪の思想が形成されていった<ref name="osw32-50"/>。[[1247年]]には、ユダヤ人から、諸侯や聖職者が財産や金品を不当に奪い取るという訴えがあった<ref name="osw32-50"/>。中世から19世紀までのドイツでのユダヤ地区への略奪は、このような高利貸し業像を源としている<ref name="osw32-50"/>。
 
 
 
=== 異端審問の時代 ===
 
==== アルビジョア十字軍と異端審問の始まり ====
 
[[Image:Cathars expelled.JPG|right|thumb|[[1209年]]、[[カルカソンヌ]]から追放される[[カタリ派]]。『フランス大年代記』(1415)]]
 
 
 
{{See|アルビジョア十字軍|異端審問}}
 
 
 
[[1179年]]3月、ローマで開かれた[[第3ラテラン公会議]]で南フランスの[[カタリ派]]は[[異端]]の宣告を受けて、[[破門]]された。続けて、[[1184年]]、[[リヨン]]の[[ピーター・ワルドー|ピエール・ヴァルドー]]の[[ワルドー派|ヴァルド派]]が教皇ルキウス3世から破門宣告を受けた。こうして、12世紀後半以降、ヨーロッパの教会と国家に広がった[[異端審問]]が開始した<ref name="Inquisition">[[渡辺昌美]]「異端審問」日本大百科全書(ニッポニカ)</ref>。
 
*[[1188年]]、[[第3回十字軍]]でイングランドのロンドン、ヨーク、ノーウィッチ、リンでユダヤ人大虐殺<ref name="po-1-63-74"/>。[[1189年]]、[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]](在位:1189年 - 1199年)が十字軍出陣式場にユダヤ人の入場を禁止したことをユダヤ人への迫害の勅許とみなした群衆が、ユダヤ人の家に放火したり、30人のユダヤ人を殺害する暴動が起こった<ref name="kono15-23"/> 三人が処刑されたが、ユダヤ人と誤ってキリスト教徒の家に放火したり強奪した廉によるものだった<ref name="kono15-23"/>。ダンスタブルではユダヤ人全員がキリスト教に強制改宗させられた<ref name="kono15-23"/>。[[1190年]]、ヨークでは、ユダヤ人高利貸しへの負債を帳消しにするために[[バロン (称号)|バロン(貴族)]]たちが、ユダヤ人に搾取された財産を取り戻すとして、ユダヤ人を襲撃した<ref name="kono15-23"/>。城の塔に閉じ込められたユダヤ人は[[集団自決]]した<ref name="kono15-23"/>。何人かいた生存者も改宗を誓ったが殺害され、債務証書は焼却処分された。ユダヤ人犠牲者は150人となり、住民側は罰金を課せられただけにとどまった<ref name="kono15-23"/>。
 
 
 
*[[1191年]]、ブレ=シュール=セーヌで儀式殺人で告発されたユダヤ人約100人が焚刑に処された<ref name="po-1-76-90"/>。
 
*[[1196年]]、[[ヴォルムス]]でユダヤ人襲撃があった<ref name="WORMS"/>。
 
 
 
[[1201年]]、教皇インノケンティウス3世は、暴力や拷問によってキリスト教の教えに導かれたものでも、キリスト教の刻印を受けたことには変わりはなく、西ゴート王シセブートの治下でのように、神の秘跡とのつながりが確立してしまった以上、強制によって受け入れた信仰にその後も忠実であるよう求められてしかるべきであると教書で述べて、一度改宗したユダヤ人は棄教できないとした<ref name="po-1-63-74"/>。
 
 
 
[[1208年]]、アルルの[[ローヌ川|ローヌ河畔]]で教皇特使ピエール・ド・カステルノーが、カタリ派のレイモン6世の家臣によって暗殺されると、[[教皇|ローマ教皇]][[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]は北フランス諸侯に十字軍を要請して、[[1209年]]、第5代[[レスター伯]][[シモン・ド・モンフォール|シモン4世モンフォール]]に率いられた[[アルビジョア十字軍]]が南フランス諸都市の[[異端]][[カタリ派]]勢力圏の攻略に向かった<ref name="albigeoise">「アルビジョア十字軍」ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、日本大百科全書(ニッポニカ)</ref>{{refnest|group=*|[[レスター伯]]シモンが1218年6月25日に戦死すると、その子アモリ4世モンフォール<ref>Amaury VI de Montfort ,1195–1241</ref>が転戦した<ref name="albigeoise"/>}}。このアルビジョア十字軍で南フランスは荒廃したが、そのなかでユダヤ人も迫害された<ref name="po-1-63-74"/>。
 
 
 
[[1215年]]、それまでカトリック教会はユダヤ人への暴力による改宗を禁じていたが、[[第4ラテラン公会議|第4ラテラノ会議]]でユダヤ人がキリスト教徒と性的関係を持てないように衣服に識別徴章をつけさせ、また法外な利息の取り立てなどユダヤ金融業を規制した<ref name="fr419"/><ref name="po-1-90-101">[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.90-101.</ref>。第4ラテラノ会議ではキリスト教徒に高利貸し業を禁止し、ユダヤ人を公職から追放し<ref>カノン69条</ref>、ユダヤ人はギルドからも締め出された<ref name="osw32-50"/>。バッジ(徴章)による識別はフランスではじまり、ユダヤ章は黄色とされた<ref name="po-1-90-101"/>。以降、違反者には罰金が課せられ、フィリップ4世はユダヤ章を有料として、財源とした<ref name="po-1-90-101"/>。ユダヤ人の服装は[[1179年]]の[[第3ラテラン公会議]]でも規定されていたが守られていなかったため、ローマ教皇の使節は、ドイツ各地の教会に対して、キリスト教徒はユダヤ人との同席飲食の禁止、ユダヤ人の結婚式や祭儀への参加の禁止、ユダヤ人がキリスト教徒の公衆浴場や酒場への入店禁止、ユダヤ人商店で肉や食料を買うことを禁止すると厳しく命じた<ref name="osw32-50"/>。
 
[[File:Juif.JPG|サムネイル|ナチスドイツのイエローバッジ]]
 
[[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]](在位:1216年 - 1272年)治世下のイギリスでは、ユダヤ人とキリスト教徒の商取引と交際を禁止し、イエロー[[バッジ]](Yellow badge)の着用を命じられ、これは20世紀のナチスドイツによるイエローバッジの強制着用の先駆けであった<ref name="kono15-23"/>。また税を滞納して完済しないユダヤ人の財産は王室に没収され、ユダヤ嫌いだった修道僧やカオール人高利貸しさえもユダヤ人の過酷な扱いを憐れんだ<ref name="kono24-34">[[#河野 2001]],p24-34.</ref>。また、ヘンリー3世は、[[1232年]]に改宗施設のドムス・コンウェルソーム(改宗者の家)を建設した<ref name="kono35-45">[[#河野 2001]],p.35-45.</ref>。
 
 
 
[[1361年]]にはジャン2世がユダヤ章を赤と白の2色に変更し、また旅行中はバッジを着用しなくてもよいとされた<ref name="po-1-90-101"/>。ドイツでは、識別は頭巾や円錐形の黄色や赤色の帽子でなされ、ポーランドでも緑の帽子、イングランドでは二枚の布を胸に縫い付けることが義務化され、スペインとイタリアでは円形の章(ルエル)が義務づけられた<ref name="po-1-90-101"/>。
 
*[[1225年]]、『[[ザクセンシュピーゲル|ザクセン法鑑]]』ではユダヤ人はまだ自由人であり、武器の携帯も許可されていた<ref name="po-1-107-126"/>{{refnest|group=*|1275年の『シュヴァーベン法鑑』でのユダヤ人への厳しい記載とは対照的である。}}。
 
 
 
フランス王[[ルイ8世 (フランス王)|獅子王ルイ8世]](在位1223〜1226)は[[1223年]]、ユダヤ人は王に帰属する権利を持つとする勅令を王領地以外のフランス全土に拡大した<ref name="po-1-107-126"/>。ルイ8世は[[1226年]]に[[アルビジョア十字軍]]を引き継ぎ、[[1229年]]に[[レーモン7世 (トゥールーズ伯)|トゥールーズ伯レーモン7世]]を破り、[[パリ条約 (1229年)|パリ条約]]によりレーモン領東部が王領化された<ref name="albigeoise"/>{{refnest|group=*|獅子王ルイ8世はパリへの帰路死亡した。}}。南フランスには[[異端審問]]裁判所が設置された。ただし、アルビジョア十字軍は、[[カペー家]]など北フランス諸侯による南フランス征圧戦という性格もあり、単なる異端狩り戦争ではなかった<ref>「ラングドック」世界大百科事典</ref>。第6・7回アルビジョア十字軍はフランス西部で推定2500人のユダヤ人を殺害した<ref name="kanno1-43-51"/>。
 
 
 
続く[[ルイ9世 (フランス王)|聖王ルイ9世]](在位:1226年 - 1270年)はユダヤ人の改宗政策を行った<ref name="fr419"/>。[[1230年]]、ルイ9世はムランの勅令で、ユダヤ人の借用証書は法的価値を有しないと宣言し、ユダヤ人の金貸し業者は農民や職人などの庶民に限られるようになり、大口の取引はロンバルディア人やカオール人が行うようになり、高利貸しの代名詞と考えられるようになった<ref name="po-1-107-126"/><ref>「ロンバルディア人」世界大百科事典 第2版</ref>。
 
 
 
[[1232年]]、教皇[[グレゴリウス9世 (ローマ教皇)|グレゴリウス9世]](在位1227年 - 1241年)はフランス王にユダヤ人虐殺の首謀者の処刑と略奪した財産の返還を求めた<ref name="kanno1-43-51"/>。一方、[[勅書]]で教皇直属の異端審問法廷を設置して、地方の司教や世俗権力はドミニコ会とフランチェスコ会士の審問官に協力することが命じられた<ref name="Inquisition"/>。自白、または2名の証言のみで有罪判決が可能で、[[拷問]]が公認され、[[密告]]が奨励された<ref name="Inquisition"/>。このグレゴリウス9世勅書と、アルビジョア十字軍で獅子王ルイ8世が南フランスを制圧した[[1229年]]のトゥールーズ教会会議によって、[[異端審問]]制度が確立した<ref name="Inquisition"/>。
 
 
 
==== ユダヤ書籍の焚書と「皇帝奴隷」 ====
 
[[1234年]]、フランスのモンペリエとパリで、マイモニデスを異端とするユダヤ教ラビのシュロモ・ベン・アブラハムの要請によって[[モーシェ・ベン=マイモーン|マイモニデス]]の著作が焚書された<ref name="po-1-90-101"/>。
 
 
 
[[1236年]]、[[第6回十字軍]]でフランス、イギリス、スペインでユダヤ人虐殺が起こった<ref name="po-1-63-74"/>。この年、ドイツで儀式殺人事件が数件発生した<ref name="po-1-76-90"/>。神聖ローマ皇帝[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]](在位:1220年 - 1250年)は、改宗ユダヤ人による諮問委員会に儀式殺人の究明を命じると、ユダヤ教で人間の血を儀式で使用する根拠はどこにもなく、それどころか、ユダヤ教では人間の血をなにかに使用することは禁止されているとの報告がなされた<ref name="po-1-76-90"/>。1236年7月、フリードリヒ2世は[[金印勅書]]でユダヤ人を「皇帝奴隷」として[[血の中傷]]から守った<ref name="po-1-76-90"/><ref name="po-1-107-126"/>。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、ドイツのユダヤ人が皇帝の国庫(カイザリッへ・カンマー)に属すると宣言した最初の皇帝となった<ref name="osw11-30"/>。
 
 
 
[[1240年]]、フランス全土で[[タルムード]]が押収され焚書された<ref name="po-1-90-101"/><ref name="fr419"/>。改宗ユダヤ人のニコラ・ドナンがタルムードを背徳的であると告発し、教皇の要請でフランスの聖ルイ王(ルイ9世)がタルムードについての公開論争が繰り広げらた結果であった<ref name="po-1-90-101"/>。
 
 
 
[[1246年]]、ベジエ公会議でユダヤ人医師にかかることが禁止された{{refnest|group=*|この禁止は1254年のアルビ公会議、1267年のウィーン公会議、1301年のパリ大学意見書などでも繰り返し採択された<ref name="po-1-183-192"/>}}。一説では、シャルル禿頭王、ユーグ・カペー、シャルルマーニュ皇帝もユダヤ人医師によって殺害されたといわれた<ref name="po-1-183-192"/>。一方で、ユダヤ人医師は人気を博しており、教皇のアレクサンドル3世や16世紀の教皇パウルス3世まで、伝統的にキリスト教指導者の主治医でもあった<ref name="po-1-183-192"/>。また、ポワティエ伯アルフォンスもベジエ公会議を支持する一方で、ユダヤ人医師にかかった<ref name="po-1-183-192"/>。
 
 
 
[[1247年]]、教皇[[インノケンティウス4世 (ローマ教皇)|インノケンティウス4世]]がユダヤ人に過越祭で子供の心臓を分け合っているという誤った告発がなされているという教書を公布し<ref name="po-1-76-90"/>、[[1252年]]に教皇は取り調べに[[拷問]]を取り入れた。
 
 
 
[[1248年]]、ドミニコ会士[[アルベルトゥス・マグヌス]]はタルムード異端裁判での判決は正当とし、翌年ケルンの説教で普遍博士マグヌスはタルムードを弾劾した<ref name="po-1-90-101"/>。
 
 
 
[[1255年]]、イングランドのリンカンにて儀式殺人。北フランスで異端審問。
 
 
 
[[1261年]]、神学者[[トマス・アクィナス]]は、ユダヤ人は[[イエス・キリスト]]がメシアであることを拒否するために災難にあうのであるとし、ユダヤ人を永遠なる隷属に置くことは法に照らして正しいとした<ref> Thomas Aquinas, De regimine Judaeorum,1261,[[トマス・アクィナス]]「ユダヤ人の処し方について」,[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.383.</ref><ref name="Thomas Aquinas">Robert Michael & Philip Rosen,Dictionary of Antisemitism from the Earliest Times to the Present,p.32.The Scarecrow Press,2007. Henk School and Pim Valkenberg, Thomas Aquinas and Judaism,Modern Theology 20,no.1.January 2004. トマス・アクィナスの著作におけるユダヤ教への言及については、Crawford Howell Toy, Isaac Broydé, [http://www.jewishencyclopedia.com/articles/1678-aquinas-thomas AQUINAS, THOMAS],Jewishencyclopedia. </ref>。。また、国王はユダヤ人を所有物(財産)として保有でき、また諸侯はユダヤ人の財産を国家に帰属するものとみなすことができる、ただしユダヤ人の生活に必要な物資を奪ってはならない、また、ユダヤの習慣になかったような奉仕を強要してはならないと論じた<ref name="po-1-107-126"/>
 
 
 
[[1267年]]、教皇クレメンス4世は勅書で、キリスト教へ改宗した者をユダヤ教徒へ回帰させようとするユダヤ人、タルムード所持者にも異端審問官の手が及ぶようになった。それまでは異端審問所の対象はキリスト教徒に限定されていた<ref name="kanno1-43-51"/>。同年、ウィーン公会議やブレスラウ公会議で、ユダヤ人が密かに毒を盛リかねないという恐れから、ユダヤ人の店で食料を買うことがキリスト教徒に禁止された<ref name="po-1-129-137" />。
 
 
 
[[1268年]]、ヴュルツブルクの吟遊詩人コンラート(コンラート=フォン=ビュルツブルク)は「卑怯にして、聞く耳を持たないユダヤ人に災いあれ。彼らは邪な人々」で、タルムードによって愚かになったと歌い、またジークフリート・ヘルプリングはタルムードは「偽りにしておぞましき書」で焚書にできれば申し分ないと歌った<ref name="po-1-90-101"/>。
 
 
 
イングランドのローマ法学者[[ヘンリー・ブラクトン|ヘンリー・デ・ブラクトン]]は『イングランドの法と慣習法』で「ユダヤ人はみずから何も所有することはできない。ユダヤ人が手に入れるものすべてが王の所有物となる」とした<ref>Henry de Bracton,De Legibus et Consuetudinibus Angliae.,[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.105.</ref><ref>Robert Michael、Philip Rosen,Dictionary of Antisemitism from the Earliest Times to the Present,p.71.The Scarecrow Press,2007.</ref>。
 
 
 
[[1273年]]にローマ教皇は儀式殺人による告発を戒める教書を公布した<ref name="po-1-76-90"/>。
 
 
 
[[1274年]]-[[1276年]]のシュヴァーベン法書では、キリスト教徒とユダヤ人との性交は火あぶりの刑によって処罰するとされ<ref name="osw32-50"/>、ユダヤ人は「永遠なる隷属」にあると書かれた<ref name="po-1-107-126"/>{{refnest|group=*|シュヴァーベン法書は『シュヴァーベン法鑑(Schwabenspiegel)』ともいう<ref name="po-1-107-126"/>。[[1225年]]の『[[ザクセンシュピーゲル|ザクセン法鑑]]』のおけるユダヤ人の自由と対照的である。}}。
 
 
 
==== ヨーロッパ各地でのユダヤ人追放 ====
 
[[File:Aaron,SonOfDevil.jpg|サムネイル|left|反ユダヤ[[カリカチュア]]『悪魔の子アーロン(Aaron, Son of the Devil)』(1277年、[[エセックス]])]]
 
[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]](在位1272年 - 1307年)の時代のイギリスでは、イギリス化(ノルマンとサクソンの融合)が進むとユダヤ人はさらに孤立し、ユダヤ人の子供も課税され、教会はユダヤ人への食品販売を禁止したため餓死者もでた<ref name="kono24-34"/> ユダヤ人医師による医療行為も禁止され、ユダヤ人による高利貸し独占を妨害するために教皇はカオール人など南フランス人、北イタリアの金融業者をロンドンへ進出させた。また[[1275年]]、ユダヤ法(Statute of the Jewry)によって高利貸付は禁止された<ref name="kono24-34"/>。ユダヤ人が生活苦によって貨幣変造をしたことが発覚すると、ユダヤ人全員が投獄され、そのうち263人が絞首刑のうえ[[首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑|四つ裂きの刑]]に処せされた。また、改宗施設に行くことを拒否したユダヤ人は財産没収の上、国外へ追放された<ref name="kono24-34"/>。[[1290年]]、イングランドでロンバルディア商人が勢力を伸ばすと、ユダヤ人の特権は失われ、ユダヤ人商人は放逐された<ref name="po-1-107-126"/>。
 
 
 
[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世端麗王]](在位:1285年 - 1314年)の時代のフランスでは、[[1288年]]トロワでの異端審問裁判で13名のユダヤ人が儀式殺人で火刑に処せられれた。トロワで犠牲になったイツハク・シャトランを称えた詩では、「復讐の神よ、妬み深き神よ、これら不実の輩に復讐せよ」と書かれた<ref name="po-1-107-126"/>。
 
 
 
[[File:Hubert Robert - Démolition de l'église Saint-Jean-en-Grève - Musée Carnavalet.jpg|サムネイル|200px|サン・ジャン・アン・グレーヴ教会(Église Saint-Jean-en-Grève )は[[フランス革命]]で教区が消滅し、[[1800年]]に解体された。後にサン・ジャン・サン・フランソワ教会として再建された。]]
 
 
 
[[1290年]]、ビエット街事件が発生した。パリでヨナタスというユダヤ人債権者が、債務者のキリスト教徒にサン・メリー教会([[4区 (パリ)|4区]])から聖餅(ホスチア)を盗めば借金のかたを返すといって、聖餅を手に入れた<ref name="ビエット"/>。帰宅して聖餅をナイフで刺すと、血が流れ、熱湯に入れても血が流れ続けた。ヨナタスは隣のキリスト教徒の家に逃げて罪を告白し、聖餅はサン・ジャン・アン・グレーヴ教会司祭の手に渡り、ヨナタスは火刑となった{{refnest|group=*|パリのユダヤ人の居住地域の[[ル・マレ|マレ地区]]のカルメル教会(ビエット教会)のステンドグラスにこのビエット街事件は描かれた<ref name="ビエット">[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.229,p.420-421.訳注</ref>}}。同年、パリでユダヤ人がキリスト教徒の子供を誘拐して儀式的殺人を行ったとしてユダヤ人が告発された<ref name="fr419"/>。
 
 
 
[[1306年]]、フィリップ4世は財政窮乏に苦しんだため、ユダヤ人とロンバルド人(イタリア)商人の財産を没収して国外追放し、一部は南フランスへ移住した<ref>世界歴史体系 フランス史1,p220</ref><ref name="fr419"/><ref name="kanno1-43-51"/>。これ以前にもフィリップ2世、聖ルイ王などもユダヤ人追放を計画したことはあったが、フィリップ4世によってフランス史上初のユダヤ人追放となった<ref name="po-1-145-152"/>。追放令について年代記では、神聖ローマ皇帝[[アルブレヒト1世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト1世]]は「皇帝奴隷」であるユダヤ人の返還を求めたためフランス王はこれに応じたとされている<ref name="po-1-107-126"/>{{refnest|group=*|[[神聖ローマ帝国]]では、皇帝庇護の見返りとしてユダヤ人に課税したが、共同体を課税単位としたため、ドイツではユダヤ共同体組織は強固なものとなった<ref name="po-1-107-126"/>}}。フランスの庶民はキリスト教徒の金貸し業者よりも親切なユダヤ人金貸し業者を懐かしんだという記録もある<ref name="po-1-107-126"/>。
 
 
 
[[1294年]]、スイスのベルンで儀式殺人事件が告発され、ユダヤ人が追放された<ref name="po-1-76-90"/>。
 
 
 
[[1298年]]4月、レッティンゲンで聖餅(ホスチア)事件。聖餅を冒涜したとして、名士リントフライシュが復讐を叫び、ユダヤ人集落を襲撃して、殺害した<ref name="po-1-129-137" >[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.129-137.</ref>。リントフライシュ率いる暴徒集団は、フランケン地方、バイエルン地方で「ユダヤの殺戮者」を名乗って、ユダヤ人の町を襲撃して、洗礼を受け入れた者以外を9月までの数ヶ月間に虐殺を続けて、ユダヤ人の犠牲者は数千人から10万人に及んだ<ref name="po-1-129-137" />。同1298年、ヴュルツブルクでも迫害が起きた<ref name="osw11-30"/>。
 
 
 
[[1309年]] - 十字軍計画が計画倒れになった際、ドイツのケルン、オランダ、バラバンでユダヤ人虐殺事件が起こった<ref name="po-1-63-74"/>。
 
 
 
[[1311年]]、ウィーン公会議で金利貸しを裁判にかける権限が[[異端審問]]裁判所に認められた<ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.104.</ref>。
 
 
 
=== 中世のユダヤ人学者の著作 ===
 
中世のユダヤ人学者の著作では、十字軍時代での迫害の記憶から、「キリスト」を「救いようのない男」「追放者の息子」、「教会」を「不浄の家」「忌み」、「十字架」を「悪しき印」などと言い換えた<ref name="po-1-107-126"/>。シュロモ・ベン・シメオンは、「罪深きローマ教皇」と呼んだり、迫害者エーミヒョの骨を呪ったりしたあとで、「復讐の神よ、姿を現したまえ」、隣人に罵りを7倍にして返せと書き、エリエゼル・ベン・ナタンはキリスト教徒に対して「彼らに悲しみと苦しみをもたらしたまえ。彼らに汝の呪いを差し向けたまえ。彼らを滅ぼしたまえ」と書いた<ref name="po-1-107-126"/>。
 
 
 
ナフマニデス(Nahmanides 1194–1270)は、[[イザヤ書]]:2-4の「彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない」を論拠にして、ユダヤ教は平和の宗教であるのに対して、キリスト教は夥しい血を流させてきて、戦争が主人として君臨していると論じた<ref>モーシェ・ベン・ ナフマン(Moshe ben Nahman Gerondi)、[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.210.</ref>。
 
 
 
[[13世紀]]末、敬虔者イェフダ−(イェフダ−・へ・ハシッド)の『敬虔なる者の書』では、ユダヤ教徒は非ユダヤ教徒と二人きりになってはいけない、キリスト教の音楽で子供を寝かせてはならない、また盗みをすると、ユダヤ人が盗人であり詐欺師であるといわれるから、してはならない、などと教訓が説かれた<ref name="po-1-107-126"/>。
 
 
 
中世のユダヤ人ラビは、イエスを詐欺師とみたり、また敬虔なユダヤ教徒であったが、弟子たちがイエスを聖人として新しい宗教を作ったとみた<ref>[[#上山安敏2005|上山安敏2005]],p.266.</ref>。このようにユダヤ教においても、キリスト教への憎悪がむき出しになっていた<ref name="uey-267-8">[[#上山安敏2005|上山安敏2005]],p.267-268.</ref>。
 
 
 
== 中世後期の反ユダヤ主義:14〜15世紀 ==
 
[[ファイル:Chevalier Roze à la Tourette - 1720.PNG|300px|サムネイル|ペストを描いた絵画]]
 
 
 
[[14世紀]]から[[15世紀]]([[1300年]]-[[1500年]])にかけての[[中世後期]]のヨーロッパは戦争、飢饉、[[ペスト]]の流行など危機と災厄に襲われた時代であった{{refnest|group=*|ポリアコフは[[14世紀]]は、ヨーロッパ史上頻繁に危機と災厄に襲われた時代であり、[[20世紀]]に比較しうる時代であったとする<ref name="po-1-129-137" />}}。フランスとイングランドは[[百年戦争]](1337年 - 1453年)を戦った。フランスが勝利したが内乱が発生し、イギリスでは[[薔薇戦争]]へ続いた。ドイツは恒常的な無政府状態が続いた<ref name="po-1-129-137" />。百年戦争の長期化による略奪や課税強化などを理由として、フランスで[[ジャックリーの乱|ジャクリーの乱]]([[1358年]])、イングランドでは[[ワット・タイラーの乱]]([[1381年]])が起こった。[[飢饉の一覧|1315年から1317年の大飢饉]]や、[[ペスト]]の流行([[1348年]] - [[1349年]])、そして世紀後半には[[魔女狩り]]がはじまった<ref name="po-1-129-137" />。他方で[[イタリア]]では[[ルネサンス]]がはじまった。この時代には、聖体冒涜事件([[血の中傷]])がヨーロッパ各地で頻発し、フランス、ドイツ、スペインなどヨーロッパの各地でユダヤ人追放令が出され、またユダヤ人はペストの原因であるとして迫害された。
 
 
 
=== 大飢饉と羊飼い十字軍 ===
 
[[1315年]]から[[1317年]]にかけての[[:en:Great Famine of 1315–1317|ヨーロッパ大飢饉]]では、パリやアントワープでは何百人もの死体が街路に散乱した<ref name="po-1-129-137" />。飢えのために、各地で[[カニバリズム|人食(カニバリズム)]]が行われた<ref name="po-1-129-137" />。[[ルイ10世]]は、フィリップ4世のユダヤ追放令(1306)は王国の経済にとって打撃となっていたため、1315年に高額賦課と引き換えにユダヤ人に2年の帰還を許可した<ref name="kanno1-43-51"/><ref name="fr419"/>。しかし、大飢饉の発生によって、1317年には[[シノン]]でユダヤ居住区が襲撃され、1319年には[[リュネル]]でユダヤ人が儀式殺人で告発された<ref name="kanno1-43-51"/>。
 
 
 
[[1320年]]、貧窮に耐えかねたフランス北部の農民や修道僧は行き先のない行進をはじめた<ref name="po-1-129-137" />。一人の若い羊飼いが、奇跡の鳥が生娘に姿を変えて、不信心者を打ち据えに行けと促した<ref name="po-1-129-137" />。これによって、羊飼い十字軍(パストゥロー十字軍、牧童十字軍)がはじまり、フランス南西部、ボルドー、トゥールーズ、アルビ、さらにスペインで、ユダヤ人が襲撃される大規模な[[ポグロム]]が発生した<ref name="po-1-63-74"/>。ユダヤ人は襲撃に抵抗したが、やがて集団自決を選び、ヴェルダン=シュール=ガロンヌでは500人が自決し、羊飼い十字軍によって、140のユダヤ居住地が絶滅した<ref name="po-1-129-137" />。襲撃するユダヤ人がいなくなると、羊飼い十字軍は聖職者に矛先を向けていったため、教皇ヨハネ22世は羊飼い十字軍をたしなめ、年末にはフィリップ5世がフランス軍を出動して制圧した<ref name="po-1-129-137" />。
 
 
 
[[File:Cathédrale Le Puy-en-Velay.JPEG|サムネイル|200px|[[ル・ピュイ=アン=ヴレ|ル・ピュイ]]の大聖堂]]
 
 
 
同じ1320年、フランス南部[[オート=ロワール県]]の[[ル・ピュイ=アン=ヴレ|ル・ピュイ]]で起こった儀式殺人事件では、ユダヤ人が聖歌隊員を殺害して、民衆が取調を待たずに殺したために、1325年、シャルル4世は聖歌隊にユダヤ人に関する司法権を委ねた<ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.229,p.421.訳注</ref>。
 
 
 
[[File:Schedel judenfeindlichkeit2.jpg|サムネイル|[[血の中傷|聖体冒涜]]で焼かれるユダヤ人。1338年、[[バイエルン州|バイエルン]]・[[デッゲンドルフ郡|デッゲンドルフ]]。]]
 
翌[[1321年]]、アキテーヌでユダヤ人がキリスト教徒を殺すために井戸に毒を入れたという噂が流れ、実際に井戸に毒が流された<ref name="po-1-129-137" />。パルトゥネーの[[癩病]]患者がユダヤ人から謝礼をもらって井戸にキリストの聖体(聖餅)と混ぜて毒を入れたと告白したという事件が起きた<ref name="po-1-129-137" />。フィリップ5世は調査を命じて、フランス全土でユダヤ人が逮捕、告発され、シャンパーニュ地方のヴィトリ−=ル=フランソワでは40人のユダヤ人が獄中で自殺し、トゥレーヌ地方シノンでは160人のユダヤ人が焚刑に処された<ref name="po-1-129-137" />。[[1322年]]、フランス王国で再びユダヤ追放令が出された<ref name="fr419"/>。ポリアコフは、ユダヤ人が綿密な陰謀でキリスト教徒の滅亡を図るという、罪のなすりつけが行われたのはこれが初めてであり、また王権がユダヤ人の財産を没収するために行ったと説明することもできるが、ナチスが「潜在的な復讐屋」としてユダヤ人殺害を正当化するメカニズムと同一のものとする<ref name="po-1-129-137" />。これ以降、1361年までの40年間、フランスの資料、年代記で、フランス王国のユダヤ人の存在について言及するものはないため、フランスのユダヤ人はほとんどいなくなったとみられる<ref name="po-1-145-152"/>。
 
 
 
*[[1336年]]、アルザス、シュヴァーベンでユダヤ人虐殺<ref name="po-1-129-137" />。その直後、バイエルンのデッケンドルフ、オーストリアのブルカで聖体冒涜事件が発生<ref name="po-1-129-137" />。
 
*[[1343年]]、[[神聖ローマ皇帝]][[バイエルン公]]ルートヴィヒ4世は、12歳以上のユダヤ人に人頭税を課した<ref name="po-1-145-152"/>。ルートヴィヒ4世は、ニュルンベルクのユダヤ人に対して、ユダヤ人はその身体や財産は皇帝が保有すると宣言した<ref name="po-1-145-152"/>。
 
*[[1345年]]、ボヘミア王[[ヨハン・フォン・ルクセンブルク]]は、レグニツァ、ヴロツワフで、ユダヤ人の墓地を壊して、その墓石で町の城壁を補修するよう命じた<ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.137.</ref>。
 
 
 
=== ペストと反ユダヤ主義 ===
 
[[1347年]]([[1348年]])から[[1350年]]([[1349年]])にかけての黒死病([[ペスト]])大流行ではヨーロッパの人口の3分の1以上が被害となったが、その[[スケープゴート]]としてユダヤ人迫害が各地で発生した<ref name="t">[[#立川昭二1971]],85頁</ref><ref name="fr419"/><ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.138-139.ではペストの期間を[[1347年]]から[[1350年]]としている。</ref>。フランス王国ではユダヤ人による毒散布の噂が広まり、最大規模のポグロムが起きて、フランス王国内のユダヤ人共同体はほぼ消滅した<ref name="fr419"/>。改宗しなかったユダヤ人家族は火刑台の火が見えてくると皆で歌いだして、歌いながら火に飛び込んでいったといわれ、こうしたことの背景には、集団自殺の契約、また[[殉教者]]としての固い決意があったとされる<ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.202-203</ref>{{refnest|group=*|ユダヤ教では、[[アブラハム]]が一人息子[[イサク]]を生贄に捧げるよう神に命じられる[[イサクの燔祭]]が信仰されており、アケダーと呼ばれる<ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.203. p.416 訳注によれば、アケダーは燔祭用の動物の足を縛ること、イサクの犠牲を意味する。</ref>}}。
 
 
 
[[1348年]]、[[ジュネーヴ]]にてペストの原因としてユダヤ人が迫害される<ref name="t"/>。9月、教皇はユダヤ人もペストの被害にあっていると発布したが、ユダヤ人への襲撃はやまなかった<ref name="po-1-140-144">[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.140-144.</ref>。[[1349年]]、[[ベルン]]でペストの原因としてユダヤ人が迫害され<ref name="t"/>、[[ストラスブール]]では暴徒による内乱状態が三ヶ月間続き、市当局がユダヤ人にペストの罪咎はないと発表すると、市政府は転覆され、新しい市政府が2000人のユダヤ人を逮捕し、[[1349年]][[2月14]]に全員を[[火刑]]に処して、ユダヤ人の財産をキリスト教徒住民に分配した<ref name="po-1-140-144"/>。おなじような事件がヴォルムス、オッペンハイムでも発生して、ユダヤ人が集団自決をし、フランクフルト、エアフルト、ケルン、ハノーファーでユダヤ人が虐殺されたり、追放された<ref name="po-1-140-144"/>。イギリスやフランスでのペストにともなう迫害によって、ユダヤ人は[[東欧]]へ逃れた<ref name="maruyama1988">[[#丸山1988]],pp.411-438.</ref>。
 
 
 
[[ファイル:Flagellants.png|thumb|300px|鞭打苦行者。]]
 
また、ドイツやフランスでは苦行と改悔のために公衆の面前で自分を鞭打つ「鞭打苦行者」が現れた<ref name="po-1-140-144"/><ref name="muchi">「むち打ち苦行者(鞭打ち苦行者) Flagellant」世界大百科事典 第2版</ref>。1261年に鞭打苦行は異端として禁止されていたが、ペストの時代に大規模に展開した<ref name="muchi"/>。鞭打苦行者は自分たちの儀礼と歌の方が、教会の聖職者よりも美しく、威厳があると主張した<ref name="po-1-140-144"/>。この鞭打苦行者の通過後に病死や病気が止まなかったことから、人々は疫病はユダヤ人がキリスト教世界に毒を行き渡らせるために流行させたと信じられて、ユダヤ人虐殺事件が発生した<ref name="po-1-140-144"/>。ユダヤ人がまったくいなかったチュートン[[騎士修道会]]の地方では、ユダヤ起源を疑われたキリスト教徒が虐殺された<ref name="po-1-140-144"/>。
 
 
 
=== ユダヤ人への課税と保護政策 ===
 
神聖ローマ皇帝は、ユダヤ人への徴税権を担保にして種々の取引を行い、[[1308年]]には[[ルクセンブルク家]]の神聖ローマ皇帝[[ハインリヒ7世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ7世]]は、マインツ大司教に皇帝選挙で当選したらユダヤ人税を贈与すると約束している<ref name="osw11-30"/>。[[神聖ローマ皇帝]][[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルードヴィヒ4世]](在位1314-47)は「汝らは身も持ち物も全て我らのものなり。我らは望むまま、思いのままに汝らを処遇する」とユダヤ人を皇帝の財産であると述べた。[[封建制]]下で授封や贈与によって皇帝の収入が減るほど、ユダヤ人からの税収入は重視されたが、皇帝権が動揺するとユダヤ人への徴税権は次第に諸侯や司教、都市の手に移っていった<ref name="osw11-30"/>。ユダヤ人は共同体として支払う税、個人で支払う税、滞在許可、結婚許可税など30種類の納税義務を負っていた<ref name="osw11-30"/>。
 
 
 
14世紀半ばには、ドイツやフランスでユダヤ人保護政策がとられた。[[1352年]]、ドイツのシュパイヤーではユダヤ人を呼び戻すことが叫ばれ、『マイセン法書』ではユダヤ人のシナゴーグと墓地が攻撃から保護された<ref name="po-1-140-144"/>。1369年から1394年の間には、マインツ、フランクフルトなどでユダヤ人医師が厚遇されていたことが分かっている<ref name="po-1-183-192"/>。
 
 
 
[[1337年]]からの[[百年戦争]]で[[イングランド王国]]に敗戦したフランスは{{refnest|group=*|[[1346年]]の[[クレシーの戦い]]や[[1356年]]の[[ポワティエの戦い]]で敗戦}}、[[ジャン2世 (フランス王)|ジャン2世善良王]]をロンドンへ捕囚され、身代金を要求された。戦争による荒廃で、[[1358年]]にはフランス北東部の農村で[[ジャックリーの乱|ジャクリーの乱]]が起きた。[[1361年]]にフランスで王国財政が壊滅的になるとジャン善良王の身代金も払えないほどの事態になったため、[[シャルル5世 (フランス王)|王太子シャルル]]は、[[人頭税]]と引き換えにユダヤ人の家屋と地所の所有を認めて、さらに高利貸しでの87%という高利も許可して、「ユダヤ人護衛官」として王の遠戚ルイ・デタンプを就任させるなどの以前よりはるかによい条件でユダヤ人の呼び戻しを行った<ref name="po-1-145-152">[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.145-152.</ref>{{refnest|group=*|『世界歴史大系』では[[1359年]]にフランス王国はユダヤ人呼び戻しをして、多少のユダヤ人が戻ったとする<ref name="fr419"/>。}}。これより20年間、フランスのユダヤ人は平穏な生活を取り戻すが、かつての親しみのある金貸し業者というよりも、忌み嫌われる金融ブローカーと見なされるようになっていった<ref name="po-1-145-152"/>。
 
 
 
*1370年、ブリュッセルの聖体冒涜事件でユダヤ人20人が火刑<ref name="po-1-76-90"/>。
 
 
 
[[File:Ludolf von Sachsen, Vita Christi Vol. 1, folio 1r.jpg|thumb|200px|ザクセンのルードルフ(Ludolf von Sachsen, 1295-1378)の『Vita Christi(キリスト伝)』は[[イグナチオ・デ・ロヨラ]]に影響を与えた<ref>「カトリック改革」世界大百科事典。Ludolf von Sachsen ,Vita Christi,1374.</ref><ref name="po-Ludolf von Sachsen"/>]]
 
 
 
[[カルトジオ会]]修道士ザクセンのルードルフが[[1374年]]に書き終えた『キリスト伝』は、ユダヤ人共同体から追放された者に唾を吐きかけるのがユダヤの習慣であり、イエスも唾を吐きかけられ、また髭や髪を引っ張られ、「ピラトは、そうした屈辱的であることこの上ない非人間的な状態に置かれたままの姿で、イエスをユダヤの民全員の前に引き出すように命じ」、そして「悪魔の子」であるユダヤの民は、イエスを十字架につけよ、と叫んだ、と[[キリストの磔刑|イエスの処刑]]について解説し、ユダヤ人は神の報いとして世界各地に散らばり、隷属状態に置かれていると説教した<ref name="po-Ludolf von Sachsen">『キリスト伝』の引用は、A. Lecoy de la Marcheによる『キリスト伝』翻案(1870)による。[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.226-227.p.394. </ref>。
 
 
 
[[1378年]]、キリスト教に改宗したユダヤ人によって、改宗しなかったユダヤ人が糾弾され、告発されるようになると、1380年代にフランスで再び大規模なユダヤ襲撃が起こり<ref name="po-1-145-152"/>、1380年、1382年、パリとイル=ド=フランスで暴動が多発、ユダヤ人は証書や質草を根こそぎ略奪された<ref name="kanno1-43-51"/>。[[シャルル6世 (フランス王)|シャルル6世]]はユダヤ人保護に成功するが、ユダヤ人への課税が重くなる一方で、ユダヤ人の特権も並行して拡大していった<ref name="po-1-145-152"/>。
 
 
 
ドイツでは、ユダヤ人保護政策が続いていたが、[[1384年]]、南ドイツのアウクスブルクとニュルンベルクでユダヤ人が収監され、莫大な身代金で釈放された<ref name="po-1-145-152"/>。[[1385年]]には、ドイツ38の都市代表がウルム会議で、ユダヤ人の債権を全面的に破棄して、キリスト教徒の債務者を解放した<ref name="po-1-145-152"/>。[[1388年]]には、シュトラスブルクでユダヤ人が一斉に追放された<ref name="po-1-145-152"/>。
 
 
 
=== フランス王国のユダヤ追放令 ===
 
[[1389年]]2月のフランス王国[[勅令]]で、キリスト教徒とユダヤ人との間の紛争は「ユダヤ護衛官」が担当し、またユダヤ人には債務者を収監する権利が認められた<ref name="po-1-145-152"/>。しかし、王国では反ユダヤ勢力が強くなっていったため、[[シャルル6世 (フランス王)|シャルル6世]]は、ユダヤ教の「贖罪の日(ヨム・キプール)」と同じ日の[[1394年]][[9月17日]]にフランス王国で最終的なユダヤ追放令を発令した<ref name="fr419"/><ref name="po-1-145-152"/>。このユダヤ追放令は1615年にも更新された<ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.219.</ref>。
 
 
 
ただし、フランス王国以外の教皇領やプロヴァンス伯領ではユダヤ共同体が存続した<ref name="fr419"/>。しかし、[[プロヴァンス伯領]]でも[[1420年]]代からポグロムが発生した<ref name="fr419"/>。[[ルネ・ダンジュ−]][[プロヴァンス伯]]はユダヤ財力を利用するためにユダヤ人を保護したが、1473年以降教会と民衆のユダヤへの反感ははげしくなった<ref name="fr419"/>。ダンジュ−死後[[1481年]]にプロヴァンス伯領はフランス王国へ合併されたため、ユダヤ人は離散した<ref name="fr419"/>。
 
 
 
[[1394年]]のフランスでのユダヤ追放令以降は、ユダヤ人は領土が細分化していた[[神聖ローマ帝国]]に移っていったが、そこでもまた追放が続いた<ref name="po-1-145-152"/>。
 
 
 
=== 中世の宗教劇、彫刻、絵画、文学におけるユダヤ人 ===
 
[[ファイル:Sainte Apolline.jpg|サムネイル|[[アポロニア (聖人)|聖アポロニアの殉難]]。[[ジャン・フーケ]]の[[装飾写本]] Livre d'heures d'Étienne Chevalier(1452 -1460)]]
 
中世宗教劇の[[神秘劇]]、聖史劇、奇跡劇などでは、ユダヤ人は悪人として描かれ、『聖餅の聖史劇』ではユダヤ人高利貸しがキリスト教徒の女をたぶらかし、聖餅を盗み出させた後、聖餅を石で踏みつけたりしても聖餅は血を流すのみで、この奇跡によって、ユダヤ人は改宗するが、有罪判決となって、焚刑に処されるという筋書きであった<ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.159-160.</ref>。[[神秘劇|ドイツ聖史劇]]の『アルスフェルトの受難劇』では、悪魔がイエスの謀殺を14人のユダヤ人にゆだねて、ユダヤ人集団は拍手喝采しながら、イエスを罵倒しながら[[キリストの磔刑|イエス磔刑]]を行うが、釘打ちや縄縛りなどが原文で700行以上費やされ、また舞台上では赤い液体が用いられて迫真な演技が行われた<ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.161-163.</ref>。フランスのジュアン・ミシュレの受難劇では、ユダヤ人がイエスを拷問し、イエスの髪や髭が肉ごと引き抜かれ、イエスの体に担当ごとに投打が加えられた<ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.163-165.</ref>。イギリスの聖史劇、[[聖体の祝日|聖体祝日]]に行われたコーパス・クリスティ祝祭劇では、「ノアの方舟」を船大工ギルド、「最後の晩餐」をパン職人ギルド、など各ギルド(ミステリー)が分担した<ref name="kono24-34"/>。キリスト受難は釘師ギルドによって担当され、残酷なシーンで演者の釘師が失神したり、観客には発狂するものもいた<ref name="kono24-34"/> こうした聖史劇ではユダヤ人は黒布をまとった血に飢えたサディストとしてグロテスクに描かれた<ref name="kono24-34"/>。
 
 
 
[[神秘劇|奇跡劇]]では、ユダヤ人が自分の財宝を守るためにキリスト教聖人聖ニコラに助けを求めて改宗する筋が描かれた<ref name="po-1-76-90"/>。ゴーティエ・ド・コワンシ−(1177-1236)の[[神秘劇|奇跡劇]]では、「獣よりも獣に近いユダヤ人」について「神もまた彼らを憎みたもう。よって誰しもが彼らを憎まなければならない」と書いた<ref name="po-1-76-90"/>。
 
 
 
[[ファイル:Statues 'L'Église' et 'La Synagogue' de la Cathédrale de Strasbourg, original gothique conservé au Musée de l'Oeuvre Notre-Dame.JPG|thumb|right|200px|[[ストラスブール大聖堂]]にあったシナゴーガ像とエククレーシア像。ノートルダム美術館蔵。]]
 
 
 
[[ストラスブール大聖堂]]などの教会では[[:en:Ecclesia and Synagoga|シナゴーガ像とエククレーシア像]]が対比され、ユダヤ教会を表すシナゴーガ像は折れた槍を持ち、目隠しをされ、キリスト教会を表すエククレーシア像は十字架と聖杯を持つ<ref name="po-1-166-172">[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.166-172.</ref>{{refnest|group=*|シナゴーガ像とエククレーシア像は1225年から1439年までに建設された[[ストラスブール大聖堂]]の彫刻や、[[1235年]]から[[1340年]]までに建設された[[聖エリザベート教会 (マールブルク)|マールブルクのエリザベート教会]]のステンドグラスなどがある<ref name="po-1-166-172"/>}}。
 
 
 
14世紀末にはイタリア絵画で、ユダヤ人が蠍になぞらえられた<ref name="po-1-166-172"/>。ドイツやオランダでは雌豚に育てられたユダヤ人という図案が教会石碑に刻まれ、レーゲンスブルク教会やヴィッテンベルク教会では豚の乳を飲むユダヤ人の壁面彫刻が飾られた<ref name="po-1-166-172"/><ref>[[#フックス|フックス]],p114-121.</ref>。ヴィッテンベルク教会の豚の乳を飲むユダヤ人の壁面彫刻については、[[ルター]]がユダヤを攻撃した時に描写した<ref name="po-1-166-172"/>。また、14世紀以降には、頭に角を生やしたユダヤ人が、オーシュ大聖堂のステンドグラス、[[パオロ・ヴェロネーゼ|ヴェロネーゼ]]のキリスト受難などで登場した<ref name="po-1-166-172"/>。
 
 
 
[[1378年]]、フィレンツェの作家ジョヴァンニ・フィオレンティーノは『粗忽者(イル・ペコローネ』は、「人肉一ポンド」を抵当にするユダヤ人高利貸しを登場させ、[[シェイクスピア]]が『[[ヴェニスの商人]]』の底本とした<ref name="po-1-152-7"/>。
 
 
 
[[1386年]]、[[ジェフリー・チョーサー]]の『[[カンタベリー物語]]』尼寺長の話で、「リンカーンのヒュー」という少年がユダヤ人によって殺され肥溜めへ放り込まれたとある<ref>『[[カンタベリー物語]]』中巻、岩波文庫、p347-358.</ref><ref name="kono24-34"/>。これは1255年の儀式殺人についての『ヒュー殿、あるいはユダヤ人の娘』という14世紀に流布したバラッドからの影響とされる<ref name="po-1-152-7"/>。チョーサーはまた、小アジアのユダヤ人ゲットーを「忌むべき金貸し業や道ならぬ金儲けのための区画」と描写した<ref name="kono24-34"/>。
 
*1399年、プラハでユダヤ人迫害<ref name="po-1-152-7">[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.152.</ref>。
 
 
 
=== ゲットーの形成 ===
 
[[15世紀]]初頭の[[1412年]]頃、バレンシアのドミニコ会士[[ビセンテ・フェレール]]が鞭打苦行者の先頭にたって、トレド、サラゴサ、バレンシア、トルトサなどスペインやフランス各地で反ユダヤ説教を繰り返し、シナゴーグに入ってトーラーを捨て、十字架を受け入れよとユダヤ人に改宗を迫った<ref name="po-Ferrer">[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.182-183.</ref>。しかし、フェレールは「刃でなく、言葉でユダヤ人を殺すべきである」として暴力は批判し、またユダヤ人であるという理由だけで毛嫌いする理由はないとして、キリストもユダヤ人であったとして「ユダヤ人を卑しめる者は、ユダヤ人として死ぬ者と同様の罰を受ける」とした<ref name="po-Ferrer"/>。しかし、フェレールは改宗できないユダヤ人は隔離状態に置くべきであるとして、[[1412年]]にはスペインで初めての[[ゲットー]]が築かれた<ref name="po-Ferrer"/>。
 
 
 
スペインをはじめとして、[[中世後期|中世末期]]には従来のユダヤ人居住地が、[[ゲットー]]へと変化していった<ref name="po-1-206-211">[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.206.</ref>。[[1432年]]にドイツの[[フランクフルト]]において、教会や市民の要望で繁華街に住んでいたユダヤ人を都市城壁の外に隔離する計画が始まり、[[1462年]]、皇帝[[フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ3世]]命で市が建設した[[フランクフルト・ゲットー]]が完成し、ユダヤ人が強制移住させられた<ref name="osw32-50"/>。ゲットーには門が設けられ、ユダヤ人は昼間の間だけキリスト教徒の街区に出入りすることが許され、夕刻になるとゲットーの門は夜警によって施錠された<ref name="po-1-206-211"/><ref name="osw32-50"/>。また、[[日曜日]]やキリスト教祭日もゲットーからキリスト教徒の街区への外出は禁止され、外出が可能な日でもユダヤ人であると識別するユダヤ服を着衣しなければならず、また二人以上徒党を組んで歩くことは禁止された<ref name="osw32-50"/>。
 
 
 
各地のゲットーのユダヤ人住民は厳密に規定された質素で敬虔な生活を送った<ref name="po-1-206-211"/>。ゲットーの生活は、キリスト教修道院の生活に似ており、周囲から隔絶され、神への奉仕をもっぱらとし、敬虔と自己犠牲、知的作業に染め抜かれた<ref name="po-1-206-211"/>。
 
 
 
=== 修道士の反ユダヤ主義と各地でのユダヤ人追放 ===
 
*[[1413年]]-[[1414年]] - [[対立教皇]][[ベネディクトゥス13世 (対立教皇)|ベネディクトクス13世]]が[[カタルーニャ州|カタルーニャ]]の[[トゥルトーザ]]で69回に亘る会議を開催、[[ナザレのイエス]]が[[メシア]]であることをユダヤ教徒に説得しようとしたが、失敗。のち公開勅書により、キリスト教徒が[[タルムード]]を研究することを禁止した。
 
 
 
[[1420年]]、オーストリア、マインツではマインツ大司教によって、ユダヤ人追放令が出された<ref name="po-1-145-152"/>。同年、アルザスのリクヴィルでは、領主の許可なしに住民たちが、自発的にユダヤ人を拉致して、殺害したり、追放した<ref name="po-1-145-152"/>。[[1424年]]にはフライブルクとチューリヒ、ケルンから高利貸しの取り立てを理由に、ユダヤ人が追放された<ref name="po-1-145-152"/>。フライブルクでは[[1401年]]からユダヤ人はキリスト教徒の血に飢えているため追放請願運動が行われてきた<ref name="po-1-145-152"/>。以降、[[1432年]]のザクセン、[[1439年]]のアウクスブルク、[[1453年]]のヴュルツブルク、[[1454年]]のブレスラウとドイツ各地でユダヤ人が追放されていった<ref name="po-1-145-152"/>。[[1434年]]のバーゼル公会議では、大学での研究にユダヤ人が従事することを禁止し、またユダヤ人を改宗させるために強制説教(predica coattiva)の必要が定められた<ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.152.</ref>。
 
 
 
[[ファイル:Saint Bernardino of Siena.PNG|サムネイル|100px|left|シエナのベルナルディーノ(Bernardino of Siena, 1380-1444)]]
 
[[ファイル:82Johannes von Capestrano.jpg|サムネイル|100px|left|[[フランシスコ会]]修道士カピストラーノの聖ジョヴァンニ]]
 
[[Image:GirolamoSavonarola.jpg|200px|thumb|100px|left|ドミニコ会修道士[[ジロラモ・サヴォナローラ]]。[[フラ・バルトロメオ]]作]]
 
 
 
シエナのベルナルディーノは1427年の[[オルヴィエート]]での説教などで、ユダヤ人が金貸しと医学によってキリスト教への陰謀を企んでいると断じた<ref name="po-1-183-192"/>。これは、アヴィニョンのユダヤ人医者が生涯を通じて毒薬を薬として渡して数千人のキリスト教徒を殺害してきたのは喜びであったという自白に基づいたものであった<ref name="po-1-183-192"/>。
 
 
 
イタリアとドイツで伝道活動した[[フランシスコ会]]修道士カピストラーノのジョヴァンニ<ref>San Giovanni da Capestrano, 1386 – 1456</ref>は、ユダヤ人を保護している領主に神の怒りが降り注がれると脅して、[[1453年]]から[[1454年]]にかけてシュレージエンの儀式殺人裁判を演出し、ポーランドのユダヤ人の特権を停止することに成功した<ref name="po-1-183-192">[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.183-192.</ref>。
 
 
 
ドミニコ会修道士で[[フィレンツェ共和国]]の政治顧問[[ジロラモ・サヴォナローラ|サヴォナローラ]]{{refnest|group=*|サヴォナローラはフィレンツェの[[メディチ家]]による独裁体制を批判し、信仰に立ち返るよう訴え、また[[1494年]]の[[イタリア戦争]]においてフランス王[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]のイタリア侵入を預言したことで、[[フィレンツェ共和国]]の政治顧問になり、司法制度を改革した。}}は、ユダヤ人を追放して、公営の質屋を開設した<ref name="po-1-183-192"/>。しかし、教皇を批判したため[[1497年]]に破門され、1498年に処刑された。
 
 
 
[[1470年]]、ドイツのバイエルンのエンディンゲンで儀式殺人事件がおこった<ref name="po-1-76-90"/>。翌[[1471年]]、マインツ大司教が再びユダヤ人追放令が出された<ref name="po-1-145-152"/>。マインツでは追放令が出されたあと、撤回されたり、再度追放令が出されるなどした<ref name="po-1-145-152"/>。[[1476年]]にはレーゲンスブルクでも儀式殺人を理由にユダヤ人が追放されたが、神聖ローマ皇帝から信頼されていたレーゲンスブルクのユダヤ人共同体の密使が宮廷に嘆願して一度取り消しに成功したが、[[1519年]]にはレーゲンスブルクからユダヤ人が追放された<ref name="po-1-145-152"/>。[[1477年]]にはアルザス諸都市で[[スイスの歴史#原初同盟の成立(1291年-1523年)|スイス同盟]]兵士がユダヤ人を襲撃するので、あらかじめユダヤ人を追放するよう請願した<ref name="po-1-145-152"/>。
 
*[[1476年]]のマドリガル、[[1480年]]のトレドの議会で、ユダヤ人の居住制限、公職追放、ユダヤ人標識の表示、キリスト教召使の雇用禁止、農地購入などが制限されたが、これは伝統的政策の踏襲であって、あくまでも国王隷属民としてのユダヤ人を保護するためのものだった<ref name="Sp256"/>。
 
 
 
[[File:Schedel judenfeindlichkeit.jpg|サムネイル|300px|[[1475年]]にイタリアの[[トレント (イタリア)|トレント]]で起きた少年シモンの儀式殺害事件。ハルトマン・シェーデル『世界年代記』(1493年)挿絵。]]
 
[[フェルトレ]]の福者ベルナルディーノ<ref>Bernardino da Feltre、1439 – 1494</ref>は、「ユダヤ人高利貸しは貧者の喉を掻き切り、貧者の蓄えによって肥え太る」 と説教したり、[[1475年]]、[[チロル]]の[[トレント (イタリア)|トレント]](イタリアの[[トレント自治県]])ではユダヤ禍が来れば分かるだろうと説教した<ref name="po-1-183-192"/>。その数日後に'''シモン少年儀式殺人事件'''が起きた<ref name="po-1-183-192"/>。この事件では、9人のユダヤ人が拷問を受け、少年の殺害を自白したユダヤ人たちは処刑された<ref name="po-1-76-90"/><ref>[[#ポチャシャー|ポチャシャー]]</ref>。このユダヤ人の自白によって、ユダヤ人への中傷は広がり、オーストリア、イタリアでも儀式殺人と血の中傷事件が起こり、トレントには[[殉教者]]少年シモン(Simon of Trent)を記念する礼拝堂が建設され、1582年には教皇シクストゥス5世 によって[[列福]]された<ref name="po-1-76-90"/>{{refnest|group=*|1965年に教皇[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]が聖シモンを[[殉教者]]から外した。}}。フェルトレの福者ベルナルディーノは、儀式殺人事件について広める一方で、高利貸しへの反対運動も行い、15世紀末には[[フランシスコ会]]がイタリアの主要都市で公営質屋モンテ・ディ・ピエタ(哀れみの山)を開設し、フランス、ドイツにも開設された<ref name="po-1-183-192"/>。
 
 
 
*[[1494年]]、スロバキア西部のティルナウ(トルナバ)で発生した儀式殺人事件では、ユダヤ人はキリスト教徒の血を儀式や薬として使っていると告発された<ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.180.</ref>。
 
 
 
=== スペイン・イベリアからの追放 ===
 
[[ファイル:Enrique II de Castilla.jpg|サムネイル|200px|エンリケ2世]]
 
[[スペイン]]では、[[718年]]からの[[レコンキスタ]](イスラム勢力からの再征服)の過程で、[[十字軍]]のようにキリスト教国家の意識が高まっており、[[イスラム教]]への敵視から、ユダヤ教への敵視も強まっていった。
 
 
 
[[1366年]]以降、[[トラスタマラ朝]]の[[カスティーリャ王国]]の[[エンリケ2世 (カスティーリャ王)|エンリケ2世]]が武装蜂起すると、エンリケ2世は、ユダヤ人を登用した前王[[ペドロ1世 (カスティーリャ王)|ペドロ1世]]に対して、前王はユダヤ人と王妃との不義の子である、キリスト教徒の犠牲の上にユダヤ人を保護する残忍王であるとの反ユダヤのプロパガンダを行った<ref name="Sp172">「世界歴史体系 スペイン史1」,p172-174</ref>{{refnest|group=*|エンリケ2世首席国璽尚書官ロペス・デ・アヤラの『ペドロ一世年代記』でも、ペドロ1世はユダヤ人やムスリムなどの敵と同盟して教会を冒涜したとされた<ref name="Sp172"/>}}。[[1370年]]以降、スペインの[[エシハ]]聖堂助祭フェラント・マルティネスが激しい反ユダヤ演説を繰り返した<ref name="Sp188"/>。
 
 
 
[[1391年]][[6月9日]]、[[カスティーリャ王国]]の[[セビリア|セビーリャ]]で反ユダヤ運動が起こった<ref name="Sp188">「世界歴史体系 スペイン史1」,p188-190.[[増田義郎]]『コロンブス』岩波新書 (1979/8/20) pp.131-136.</ref>。[[ペスト]]の原因はユダヤ人とする反ユダヤ運動はカスティーリャ王国の[[ブルゴス]]、[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]、[[トレド]]、[[バレンシア王国]]、[[カタルーニャ君主国]]の[[バルセロナ]]、[[アラゴン王国]]の[[バレアレス諸島]]に飛び火し、各地で虐殺([[ポグロム]])を引き起こして、ユダヤ人共同体は潰滅的な打撃をうけて、キリスト教への改宗を強制され、また国外へ追放された<ref name="Sp188"/>。改宗者は[[コンベルソ]]と呼ばれた。
 
 
 
[[ファイル:Pedro_Berruguete_Saint_Dominic_Presiding_over_an_Auto-da-fe_1495.jpg|right|thumb|200px|スペイン[[アビラ]]の[[アウト・デ・フェ|異端判決宣告式]]]]
 
[[1480年]]以降、[[スペイン異端審問|スペイン異端審問裁判所]]がスペイン各地で作られ、2000人のユダヤ人の改宗者[[コンベルソ]]{{refnest|group=*|スペイン語でユダヤ教からキリスト教への改宗者<ref name="Sp188"/>。}}が処刑され、1万5000人が悔罪した<ref name="Sp256">「世界歴史体系 スペイン史1」,p256-257.</ref>。1491年、スペインのラ・グアルディアでユダヤ人が儀式殺人で処刑された。
 
 
 
[[1492年]]、スペインでユダヤ人追放令<ref name="kt255">[[#北原 2008]],p255</ref><ref name="Sp256"/>。これによって8万から15万のユダヤ人がスペインを退去し<ref name="Sp256"/>、他のヨーロッパ国家や[[オスマン帝国]]に逃れた<ref name="kt255"/><ref name="maruyama1988"/>。[[オスマン帝国]]は[[1453年]]に[[コンスタンティノポリス]]を占領し、[[東ローマ帝国]]を滅ぼした。多くのユダヤ人は新都市[[イスタンブール]]に移住した。ここでは、[[ムスリム]]が絶対的な優位を占め、キリスト教徒、ユダヤ教徒は差別を受けたものの、概ね共存が維持された。[[1497年]]には、[[ポルトガル]]でもユダヤ追放令が出された<ref name="kt255"/>。
 
 
 
[[1499年]]、トレドで、ユダヤ人の改宗者[[コンベルソ]]の商人が課税をフアン2世に献策すると、キリスト教民衆が激昂して、コンベルソ商人の自宅を焼き討ちした<ref name="Sp188"/>。
 
 
 
== 近世の反ユダヤ主義 ==
 
=== 近世ドイツ ===
 
==== 近世ドイツの人文主義 ====
 
[[File:Medieval manuscript-Jews identified by rouelle are being burned at stake.jpg|サムネイル|燃やされるユダヤ人(Luzerner Schilling,1515年、ドイツ)]]
 
[[1490年]]から[[1510年]]にかけて[[アルザス]]で成立した(発見されたのは1893年)匿名(高地ラインの革命家)の『百章からなる本』では[[アダム]]はドイツ人であったとし、自由人であり貴族であるドイツ人は世界を支配し、ドイツ人以外の民を奴隷化し、ローマ・カトリックの聖職者を虐殺することを提唱した<ref name="p-A-103-105">[[#ポリアコフ1985]],p.103-105.</ref><ref>Norman Cohn,Les fanatiques de l'Apocalypse,1962,p.119.</ref>。背景には、[[ブルターニュ公国]]を巡る[[ハプスブルク家]][[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン]]と[[フランス王]][[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]の対立があり{{refnest|group=*|[[ブルターニュ公国]]の[[アンヌ・ド・ブルターニュ|アンヌ公女]]が1490年に[[ハプスブルク家]][[ローマ王|ローマ王(ドイツ王)]](のち[[神聖ローマ皇帝]])[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン]]と代理結婚した。また、フランス王[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]は[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン]]の娘[[マルグリット・ドートリッシュ|マルグリット]]と婚約していた。しかし1491年、シャルル8世がアンヌ公女との結婚を強行したため、マクシミリアンは[[ブルゴーニュ伯|ブルゴーニュ伯領]]に侵攻した。ここからオーストリアハプスブルク家とフランスの対立が始まり、1756年の[[外交革命]]まで対立は続いた。}}、ヴィムフェリングやセバスティアン・ブラントなどのユマニストもフランスを攻撃した<ref>[[#ポリアコフ1985]],p.116.</ref>。
 
 
 
[[15世紀]]末、ドイツは経済的に繁栄し、[[バイエルン公国]]の[[アウクスブルク]]では鉱山・金融業の富豪[[フッガー家]]、金融業の富豪[[ヴェルザー家]]、イムホーフ家(Imhoff)、ホーホシュテッター家(Hochstetter)などが巨万の富を築いた<ref name="po-1-262-268">[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.262-268.</ref>。そうした経済の大物に対して庶民は「クリスト=ユーデ(ユダヤ人のようなキリスト教徒)」と呼んだ<ref name="po-1-262-268"/>。セバスティアン・ブラントは『[[阿呆船]]』([[1494年]])で、「ユダヤの高利貸しはまだよいが、それでも町には留まれぬ。自分の暴利を棚に上げ、ユダヤの高利貸しを追い出すクリスト=ユーデども」と皮肉った<ref>Sebastian Brant,Das Narrenschiff.</ref><ref name="po-1-262-268"/>。
 
 
 
ドイツの人文学者ヨハネス・ロイヒリン<ref>Johann Reuchlin(1455 – 1522)</ref>は[[1505年]]の『回状』でユダヤ人は日々、イエスの御身において神を侮辱し冒涜している、イエスを罪人、魔術師、首吊り人と呼んで憚らず、キリスト教徒を愚かな異教徒と見下していると説教した<ref>Johann Reuchlin, Tutsch missive,warumb die Juden so lang im ellend sind.</ref><ref name="po-1-262-268"/>。ロイヒリンは、宗教改革で活躍した[[フィリップ・メランヒトン|メランヒトン]]の大伯父であったが、ルターの改革は支持しなかった<ref>常葉謙二「ロイヒリン」日本大百科全書(ニッポニカ)、「ロイヒリン」ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典</ref>。
 
 
 
[[ファイル:Hutten.jpg|thumb|[[ウルリヒ・フォン・フッテン]](1488年 - 1523年)]]
 
 
 
[[1508年]]、改宗ユダヤ人のドミニコ会修道士プフェファーコルンがユダヤ人の偏屈さの原因は[[タルムード]]にあると告発し、タルムードの廃棄を『ユダヤ人の鑑』で主張した<ref>ヨハンネス・プフェファーコルン:Johannes Pfefferkorn(1469 – 1523),Judenspiegel (1508)</ref><ref name="po-1-262-268"/>。プフェファーコルンは神聖ローマ皇帝[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]に謁見し、勅令でタルムード廃棄が命じられた<ref name="po-1-262-268"/>。プフェファーコルンは、フランクフルトのマインツ大司教からタルムード調査委員会による調査の権限を取り付けた<ref name="po-1-262-268"/>。タルムード調査委員会にはドイツ唯一のヘブライ学者だったヨハネス・ロイヒリンがおり、タルムードやカバラーを擁護すると、1511年、ロイヒリンとプフェファーコルンは論争をした<ref name="po-1-262-268"/>。論争は国際的なものとなり、[[エラスムス]]たち人文主義者はロイヒリンを支持し、パリ大学神学部はプフェファーコルンを支持した<ref name="po-1-262-268"/>。ただし、両者とも反ユダヤ的であるという点では同じであり、ロイヒリンはプフェファーコルンに対して「彼は先祖たるユダヤ人の精神のあり方をそのままに、嬉々として不敬の復讐に打ってでた」といい、ロイヒリン支持者でカトリック教会を激しく批判した人文主義者の[[ウルリヒ・フォン・フッテン|フッテン]]はプフェファーコルンがドイツ人でなかったことは不幸中の幸いで、「彼の両親はユダヤ人だった。彼自身、どんなにその恥辱の肉体をキリストの洗礼水に浸そうと、依然としてユダヤ人であることに変わりはないのである」と批判した<ref name="po-1-262-268"/>。[[デジデリウス・エラスムス|エラスムス]]も「プフェファーコルンは真のユダヤ人であり、まさにその種にふさわしい姿を公然とさらしている。彼の先祖たちは、たった一人のキリストを相手に猛り狂った。プフェファーコルンがその同宗者のために行うことのできる最良の貢献は、みずからキリスト教徒になったと偽善的に言い張ることによって、キリストの神性を裏切ってみせることなのだ」と批判した<ref name="po-1-262-268"/>。
 
 
 
アルザスの人文学者ベアートゥス・レナーヌス<ref>Beatus Rhenanus 1485-1547</ref>は、「ユダヤ人ほど他者を憎み、また他者に嫌悪を催させる民はほかに存在しない」と述べた<ref name="po-1-262-268"/>。ドイツの人文学者コンラート・ツェルテス<ref>Conrad Celtis, 1459 – 1508)</ref>はユダヤ人は「人類の社会を侵し、混乱に招き入れる」と述べた<ref name="po-1-262-268"/>。
 
 
 
ドイツの修道院長[[ヨハンネス・トリテミウス|ヤーコプ・トリテミウス]](1462 - 1516年)は高利貸しのユダヤ人には激しい怒りを覚える、その不法な搾取から守るための法的措置が必要で、「異国の民が、われわれの土地で権勢を振るうなどということが許されてよいものだろうか」と述べ、またガイラー・フォン・カイザーベルク<ref>Johann Geiler von Kaysersberg, 1445 -1510)</ref> は「ユダヤ人は、みずから手を汚しての労働を欲しない」「金貸しを生業とすることは労働の名に値しない」と批判した<ref name="po-1-262-268"/>。
 
 
 
一方、プファルツ領邦宮中伯フリードリヒ1世のハイデルベルク宮廷にいた人文主義者ヤーコプ・ヴィムフェリング<ref>Jakob Wimpfeling, 1450-1528</ref>は、「唾棄すべきなのは、ユダヤ人と、ユダヤ人よりもさらに質の悪い一部のキリスト教徒が手を染めている高利貸しなのである」と、キリスト教徒の高利貸しのことも非難した<ref name="po-1-262-268"/><ref>ハイデルベルク宮廷については、田口正樹 「中世後期ドイツにおけるライン宮中伯の領邦支配とヘゲモニー(1)」『北大法学論集』64(3), 2013年 9月30日,北海道大学大学院法学研究科,p.28.</ref>。
 
 
 
*[[1516年]] - [[教皇領|教皇国家]][[アンコーナ]]でユダヤ人に商業特権を与えた<ref name="kt255"/>。
 
*[[1516年]] - [[ヴェネツィア]]にユダヤ教徒強制居留地(「[[ゲットー]]」)が設置される。
 
 
 
ロースハイムのヨーゼル<ref>Josel von Rosheim (1476-1554)</ref>は[[1520年]]以降、神聖ローマ皇帝・スペイン国王の[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]](在位:1519年 - 1556年)より「帝国ユダヤ人指揮官ならびに統治者」の称号を与えられ、ドイツユダヤ人全共同体の代表となった<ref name="po-1-283-305"/>{{refnest|group=*|ヨーゼルは死ぬまでカール5世に寵遇された<ref name="po-1-283-305"/>。}}。ヨーゼルは、アウクスブルク国会で、改宗ユダヤ人のアントニウス・マルガリータ{{refnest|group=*|マルガリータはラビの息子だったが、レーゲンスブルクのユダヤ共同体を公権力に告発し、1522年にカトリックに改宗し、プフェファーコルンを模範としたユダヤ教批判を行った<ref name="po-1-283-305"/>。}}を論敵とし、ヨーゼルが「ユダヤ教の背教者によるユダヤ教の主張は根拠を持たない」と主張すると、マルガリータは有罪としてアウクスブルクから追放され、ハンガリーとボヘミアのユダヤ追放令は廃案となった<ref name="po-1-283-305"/>。しかし、アントニウス・マルガリータの著書はルターが最大の典拠の一つとするなど、影響力を持った<ref name="po-1-283-305"/>。ヨーゼルはユダヤ人が法外に高い金利を要求しないこと、利子に粉飾をほどこさないこと、キリスト教徒への支払いを逃れようとするユダヤ人債務者を破門にして追放することなど、ユダヤ人商人が商業モラルを遵守するよう要求した<ref name="po-1-283-305"/>。
 
 
 
==== ルターの反ユダヤ主義 ====
 
[[ファイル:Lucas Cranach (I) workshop - Martin Luther (Uffizi).jpg|200px|サムネイル|[[マルティン・ルター]]([[1483年]] - [[1546年]])]]
 
[[1517年]]に[[宗教改革]]をはじめた[[マルティン・ルター]]は、反ユダヤ主義的な意識を持っていたことでも知られる<ref name="po-1-269-283"/><ref name="sim-108">[[#下村 1972|下村 1972]], p.107-8.</ref>。初期のルターは、ユダヤ教徒を反教皇運動の援軍とみなしていた。ヴォルムス国会の期間中にユダヤ人と討論したルターは、[[1523年]]に『イエスはユダヤ人として生まれた』などの小冊子を著して、愚者とうすのろのロバの教皇党たちが、ユダヤ人にひどい振る舞いをしてきたため、心正しきキリスト者はいっそユダヤ人になりたいほどだ、と述べたり、ユダヤ人は主と同族血統であるから、ユダヤ人はメシアであるイエスに敬意を表明し、キリストを神の子として認めるよう改宗を勧めた<ref name="osw55-75">[[#大澤1991]],p.55-75</ref><ref name="po-1-269-283"/>。他方で、教皇がドイツ人を利用して第二のローマ帝国を築いたが、その名を持っているのはドイツ人であり、神はこの帝国がドイツのキリスト教徒の王によって統治されることを望んでいると述べたり<ref>『ドイツ国民のキリスト教貴族に与う』(1520)</ref>、1521年に「私はドイツ人のために生まれた」と述べるなどドイツ人の国民意識に立った発言を繰り返した<ref name="p-A-109-111">[[#ポリアコフ1985]],p.109-111.</ref><ref>「宗教改革」世界大百科事典,平凡社.</ref>。さらに[[騎士戦争]]や、ルター派の[[トマス・ミュンツァー|ミュンツァー]]による[[ドイツ農民戦争|農民戦争]]が起きると、ルターは反乱勢力を批判し、それ以来ルターは人間世界のいたらなさや、政治的責任を強く感じるようになり、人間の内的自由に、神によってもたらせた地上の事物の秩序が対置され、服従の義務を唱え、キリスト教徒は従順で忠実な臣下でなければならないと説くようになった<ref name="po-1-269-283"/>。そのうちにルターは、不首尾の原因をユダヤ人のなせる業とみなすようになっていく<ref name="po-1-269-283"/>。ユダヤ人の改宗者はごくわずかで、改宗した者もほとんどが間をおかずしてユダヤ教に回帰したためか、[[1532年]]には「あのあくどい連中は、改宗するなどと称して、われわれとわれわれの宗教をちょっとからかってやろうというぐらいにしか思っていない」と述べている<ref name="po-1-269-283"/>。同年、「ドイツほど軽蔑されている民族はない」としてイタリア、フランス、イギリスはドイツをあざけっていると述べている<ref name="p-A-109-111"/>。[[1538年]]、ロースハイムのヨーゼルに対してルターは、私の心はいまもユダヤ人への善意に満ちあふれているが、それはユダヤ人が改宗するために発揮されると述べた<ref name="po-1-269-283"/>。その後まもなく、ボヘミアの改革派がユダヤ人の教唆のもとユダヤ教に改宗し、[[割礼]]を受けて、シャバトを祝ったという知らせが入ると、ルターは[[1539年]][[12月31日]]には「私はユダヤ人を改宗させることができない。われらが主、イエス・キリストさえ、それには成功しなかったのだから。しかし、私にも、彼らが今後地面を這い回ることしかできないように、その嘴を閉じさせるぐらいのことはできるだろう」と述べた<ref name="po-1-269-283"/>。
 
 
 
[[ファイル:1543 On the Jews and Their Lies by Martin Luther.jpg|サムネイル|110px|ルター『[[ユダヤ人と彼らの嘘について]]』]]
 
[[1543年]]にルターはユダヤ人を批判する『[[ユダヤ人と彼らの嘘について]]』を発表し、7つの提案を行った<ref name="osw55-75"/><ref name="sim-108"/>。
 
#シナゴーグや学校([[イェシーバー]])の永久破壊
 
#ユダヤ人家を打ち壊し、ジプシーのようにバラックか馬小屋のようなところへの集団移住
 
#ユダヤ教の書物の没収
 
#ラビの伝道の禁止
 
#ユダヤ人護送の保護の取消
 
#高利貸し業の禁止。金銀の没収。
 
#若いユダヤ人男女に斧、つるはし、押し車を与え、額に汗して働かせること。
 
 
 
ルターは「ユダヤ人はわれわれの金銭と財を手中にしている。われらの国にあって、彼らの離散の地にあって、彼らはわれわれの主になったのだ」として、ユダヤ人は労働に従事していないし、ドイツ人もユダヤ人に贈与していなのだから、ユダヤ人による物の所有を禁じて、彼らの財産はドイツに返還されるべきであると主張した<ref name="po-1-269-283">[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p269-283.</ref>。ユダヤ人はドイツにとっての災厄、悪疫、凶事であり、誰もユダヤ人にいて欲しいなどとは思っていない、その証拠にフランスでも、スペインでも、ボヘミアでも、レーゲンスブルクでもマグデブルグでも追放されたとして、ドイツ人はユダヤ人に宿を提供し、飲食も許しているが、ユダヤ人の子供をさらったり殺したりはしないし、彼らの泉に毒を撒いたり、彼らの血で喉の渇きを癒やそうともしていない、ドイツ人はユダヤ人の激しい怒り、妬み、憎しみに値することは何かしただろうか、と論じた<ref name="po-1-269-283"/>。ルターは、大悪魔を別にすればキリスト(キリスト教徒)が「恐れなければならない敵はただ一人、真にユダヤ的であろうとする意志を備えた真のユダヤ人である」とし、ユダヤ人を家に迎え入れ、悪魔の末裔に手を貸す者は、「最後の審判の日、その行いに対し、キリストは地獄の業火をもって応えてくださるであろう。その者は、業火のなかでユダヤ人とともに焼かれるであろう」述べた<ref name="po-1-269-283"/>。数ヶ月後の冊子『シェム・ハメフォラス』<ref>Vom Schem Hamphoras.[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]]p.273では、「シェム・ハメフォラス(口にするまでもない名前)について」と訳されている。</ref>でユダヤ人の改宗は、悪魔に改宗させるのと同じぐらい困難な業であり、ユダヤ人の福音書外典は四福音書が正統であるのに対して偽書であり、悪魔の使いのユダヤ人は「悪魔の群れよりもさらに悪辣」で、「神よ、私は、あなたの呪われた敵、悪魔とユダヤ人に抗しながら、必死の思いで、これほどまでの恥じらいとともにあなたの神々しき永遠の威厳を語らねばならないのです」と論じて、最後に「私はこれ以上、ユダヤ人と関わりを持ちたくないし、彼らについて、彼らに抗して、何かを書くつもりもまったくない」と閉じた<ref name="po-1-269-283"/>。ルターは死の四日前の2月18日の最後の説教では、ドイツ全土からユダヤ人を追放することが必要であると訴えた<ref name="po-1-269-283"/>。また晩年のルターは無敵の常備軍を持った統一ドイツ帝国を夢見ていた<ref name="p-A-109-111"/>。
 
 
 
ルター晩年のユダヤ攻撃に対しては、ルターの協力者[[フィリップ・メランヒトン|メランヒトン]]、スイスの[[フルドリッヒ・ツヴィングリ|ツヴィングリ]]の後継者の[[ハインリヒ・ブリンガー|ブリンガー]]、ユダヤ人のロースハイムのヨ−ゼルらが批判した<ref name="po-1-269-283"/>。なお、ルターは神を「最大級の愚か者<ref>stultissimus</ref>」「キリストは淫乱であったかもしれない」と述べたり、教皇に対してはユダヤ人攻撃の時よりももっと汚い言葉を使って罵詈雑言を浴びせた<ref name="po-1-269-283"/>。ルターの反ユダヤ主義は、タルススのパウロス(聖パウロ)やムハンマドと同様の転機を経て、ユダヤに対する深い憎悪となった<ref name="po-1-269-283"/>。ルターの反ユダヤ文書はルター死後あまり重視されなかったが、ヒトラー政権になって一般向けの再販が出てよく読まれた<ref name="po-1-269-283"/>。
 
 
 
*[[1555年]] - [[教皇領|教皇国家]][[アンコーナ]]で隠れユダヤ教徒の弾圧<ref>[[#北原 2008]],p233</ref>。
 
*[[1562年]] - [[1598年]]、フランスのカトリックとプロテスタントの[[ユグノー]]が[[ユグノー戦争]]。
 
*[[1572年]][[8月24日]]、[[サン・バルテルミの虐殺]]でフランスのカトリックがプロテスタントの[[ユグノー]]を虐殺。
 
*[[1594年]] - [[1597年]] [[ウィリアム・シェイクスピア]]が『[[ヴェニスの商人]]』でユダヤ人の金貸しシャイロックを登場させる。
 
 
 
==== フランクフルト・ゲットーとフェットミルヒの暴動 ====
 
[[File:Pluenderung der Judengasse 1614.jpg |thumb|250px|1614年8月22日のフランクフルト・フェットミルヒの略奪(Fettmilch-Aufstand)。ユダヤ人が居住する[[フランクフルト・ゲットー]]が襲撃された。]]
 
[[File:Vertreibung der Juden 1614.jpg|thumb|250px|フランクフルトを退去するユダヤ人]]
 
 
 
[[1614年]][[8月22日]]、[[フランクフルト]]の豚肉商フェットミルヒたち職人層がユダヤ人の[[フランクフルト・ゲットー|ゲットー]]を襲撃し、暴徒は金品を強奪し、借用証書とトーラーを焼き払うために火を放った<ref name="po-1-283-305"/>。ユダヤ人住民は命の犠牲は免れたが、財産を奪われ、また、他の土地へ移っていった<ref name="po-1-283-305"/>。数ヶ月後、ヴォルムスでもユダヤ人ゲットーが同様の襲撃事件が起きた<ref name="po-1-283-305"/>。地方政府も帝国政府も和解につとめたが、暴動の首謀者は熱烈な歓呼に包まれた<ref name="po-1-283-305"/>。ドイツの大学法学部は「今回の襲撃は昼間の襲撃であったが松明をもって行われており、法範疇に属さないため、罪科の対象とはならない」と判断した<ref name="po-1-283-305"/>。その後、神聖ローマ皇帝[[マティアス (神聖ローマ皇帝)|マティーアス]]によってユダヤ人は神聖ローマ帝国軍の厳重な護衛のもと、フランクフルトに戻った<ref name="po-1-283-305"/>。このフランクフルト騒動後、国家権力によってユダヤ人は保護され、ドイツにおける反ユダヤの実力行使は途絶えた<ref name="po-1-283-305"/>。その後数世紀、反ユダヤ主義を主張する多くの作家、思想家が登場したが、ドイツのユダヤ人には一定の平和が訪れた<ref name="po-1-283-305"/>。
 
 
 
[[17世紀]]、ユダヤ人虐殺事件は少ないものの、フランクフルト市では、ユダヤ人識別章の着用が義務化され、キリスト教徒の下僕の雇用禁止、明確な目的になしに街路を通行することの禁止、キリスト教祭日や君主の滞在期間中の外出禁止、市場ではキリスト教徒が買い物を済ませた後でなければ買い物はできなかったなど、制限されていた<ref name="po-1-283-305"/>。ユダヤ人はフランクフルトの「市民」ではなく、「被保護者」または「臣民」と規定され、これはナチスドイツ時代も採用した区分であった<ref name="po-1-283-305"/>。
 
 
 
=== マラーノ ===
 
16世紀、スペインやポルトガル出身の改宗ユダヤ人([[マラーノ]])が、オランダ、イタリアの金融市場、大西洋貿易、東方貿易の開拓者となっていった<ref name="po-1-283-305">[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.283-305.</ref>。スペイン支配下の[[アムステルダム]]は大西洋貿易の中心地となった<ref name="kono35-45"/>。
 
 
 
マラーノが権勢を誇る一方で、ドイツのユダヤ人は生活の基盤を失われ苦しんでいたため、マラーノを「純粋ユダヤ人ではない」とする状況になった<ref name="po-1-283-305"/>。[[1531年]]、アルザスのユダヤ人ロースハイムのヨーゼルは、富裕なマラーノの入植地が根を張っていたアントワープに対して、ここにはユダヤ人がいないと書いた<ref name="po-1-283-305"/>。
 
 
 
=== 近世フランス王国 ===
 
[[1614年]]、[[フランシスコ会]]修道士ジャン・ブーシェはユダヤ人を「かつて祝福の対象とされながら、今では呪いの対象とされている種」「世界の四方を惨めにさまよい歩いている種」として、トルコ人はユダヤへの憎悪の結果、[[聖墳墓教会|ゴルゴダの教会広場]]でユダヤ人を見かけたキリスト教徒はユダヤ人を殺しても罪に問われなかったし、またユダヤ人が1291年にイングランドで、フランスで1182年に[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世尊厳王]]、1306年に[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世美麗王]]、1322年に[[フィリップ5世 (フランス王)|フィリップ5世長躯王]]によって、スペインで[[1492年]]に[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルディナンド2世]]によって追放されたのは、ユダヤ人がキリスト教徒に対して不敬の態度を示し讒言を差し向けたからであると述べた<ref>ジャン・ブーシェ『聖なる花束と聖地への旅』, Jean Boucher, [http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k6341533f Le Bouquet sacré ou le voyage de la Terre sainte: composé des roses du calvaire, des lys de Bethléem et des hiacinthes d'olivet]. 1614(ポリアコフが用いたのは1620年刊、[[反ユダヤ主義#ポリアコフ 1|ポリアコフ1巻p]].394.). Nabu Press (2011)、ISBN 978-1270947950.</ref><ref name="po-1-221-229"/>。
 
 
 
[[1615年]][[5月12日]]、14歳のフランス王[[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]とその母で摂政の[[マリー・ド・メディシス]]が数年来、ユダヤ人が身分を偽って王国に入り込んだとして、[[1394年]]のユダヤ人追放令([[シャルル6世 (フランス王)|シャルル6世]]による)を更新した<ref name="po-1-219-220">[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.219-220.</ref>。ただし、ボルドーとバイヨンヌのマラーノには適用されなかった<ref name="po-1-219-220"/>。[[1615年]]について年代記作家は、「不信心と良俗紊乱」の一年であり、「[[魔法使い]]、ユダヤ人、呪術師が堂々と[[シャバト]]([[安息日]])を祝い、シナゴーグでの儀式を行った」と記録している<ref name="po-1-219-220"/>。[[魔女]]は[[シナゴーグ]]とも呼ばれ、また[[安息日]]を意味する[[ヘブライ語]]のシェバトから[[サバト (魔女)|サバト]]とも呼ばれるようになった。
 
 
 
==== 三十年戦争と絶対王政フランスの覇権 ====
 
{{See|ヨーロッパにおける政教分離の歴史#主権国家体制の成立と政教関係の新展開}}
 
[[1618年]]から[[1648年]]にかけて、[[宗教改革]]による新教派([[プロテスタント]])と[[カトリック教会|カトリック]]との対立のなか展開された最後で最大の[[宗教戦争]]といわれる[[三十年戦争]]が起こった<ref name="Sigfrid"/><ref name="nakamura"/>。この戦争で、オーストリア・スペインの東西[[ハプスブルク家]]は打撃を受けた一方で、[[ブルボン家]]のフランスはヨーロッパ最強国家となった<ref name="nakamura"/>。また、[[神聖ローマ皇帝]]と[[ローマ教皇]]を政治的・宗教的[[首長]]とする「[[中世ヨーロッパにおける教会と国家|キリスト教共同体]]」は崩壊し、ヨーロッパ世界では一つの国家の[[主権]]と独立とが原則となった<ref name="Sigfrid">[[#Sigfrid 1973|Sigfrid 1973]]</ref>。
 
 
 
中世以来の[[神聖ローマ帝国]]では、[[教皇]]と[[皇帝]]の対立の結果、特に[[金印勅書]]により、[[選帝侯]]の自治権が認められ、地方分権的な[[領邦|領邦国家]]体制が形成されていたが<ref name="Landesstaat">「領邦国家」ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典</ref><ref name="Dann">[[#ダン]],[[#竹田和子2016]]</ref><ref name="I-E">[[#池上俊一1997]]
 
,pp.324-7.</ref>、三十年戦争によってドイツでは[[領邦]]の[[主権]]は確固たるものとなり、[[神聖ローマ帝国]]は名目的な存在となった<ref name="nakamura">[[中村賢二郎 (歴史学者)|中村賢二郎]]「三十年戦争」日本大百科全書(ニッポニカ)。[[中村賢二郎 (歴史学者)|中村賢二郎]]「三十年戦争」世界大百科事典 第2版</ref><ref name="Sigfrid"/><ref name="D-2">[[#木村・成瀬・山田編 1996|木村・成瀬・山田編 1996]]</ref>。フランスが[[中央集権]]的[[絶対王政]]を確立したのに反して、ドイツではこの地方分権的な[[領邦|領邦国家]]体制によって、[[国民主義]]的統一が遅れた<ref name="Landesstaat"/>。神聖ローマ帝国内では諸侯たちが自分たちを領邦を代表する「[[国民]]」 と意識していたが、諸侯の共通言語は[[フランス語]]であり、民族よりも身分が重視されるなど、[[国民国家]]の形成は妨げられていた<ref name="Dann"/>。こうしたドイツ領邦国家体制に対する反発が、近代の啓蒙と合理主義の影響で18世紀以降のドイツにおける[[国民主義]]([[ナショナリズム]])を形成していくことになる<ref name="Dann"/>。
 
 
 
[[1627年]]、詩人マレルブは最晩年にユダヤ教は[[ヨルダン川]]の岸辺におしとどめられるのが望ましいが、ユダヤ教徒はセーヌ川流域まで勢力を広げているとして「私はどこにいても神を頼みとして戦う」と書いた<ref>François de Malherbe(1555 - 1628), Œuvres, Hachette, 1862, 序文,xxix.</ref><ref name="po-1-221-229">[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.221-229.</ref>。
 
 
 
[[1648年]]、当時フランス王国は、10歳の国王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]](在位:1643年 - 1715年)の[[摂政]]として[[ジュール・マザラン|マザラン]]が集権体制を強化させたが、マザランに反発した高等法院官僚や[[法服貴族 (フランス)|法服貴族]]が反乱を起こして、[[フロンドの乱]]が起こった<ref name="Frond">「フロンドの乱」「マザラン」ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典</ref>。フランスは一時は無政府状態となり、王家は国外へ脱出する。[[1648年]][[10月24日]]に[[ヴェストファーレン条約]]が締結され[[三十年戦争]]が終結すると、フランス軍[[コンデ公]][[ルイ2世 (コンデ公)|ルイ2世]]がフロンド派を制圧するが、ルイ2世もマザランに対抗したが、1653年にマザランが勝利した<ref name="Frond"/>。フロンドの乱に依ってフランスは[[王権]]による[[中央集権]]体制が確立されていった<ref name="Frond"/>。
 
 
 
フロンドの乱の最中の[[1652年]][[8月15日]]、トネルリーの古着商集団に対して、ジャン・ブルジョワ青年が「シナゴーグの殿方連のお通りだよ」とからかったところ、古着商集団は青年を矛槍とマスケット銃で滅多打ちにしたうえ、賠償金も払わせた<ref name="po-1-ジャン・ブルジョワ">[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.239-247.</ref>。青年は代官に告発したが、古着商集団は青年をおびき出し、拷問の果てに殺害するという事件が発生しており、このような小規模な局地戦はいくつか発生していた<ref name="po-1-ジャン・ブルジョワ"/>。このジャン・ブルジョワ殺人事件の後、ユダヤ問題が世論で論争となり、ユダヤ人が高利貸しに手を染め、嘘偽りと不実の行いによって腐敗が撒き散らされてきたとユダヤ人を非難する文書と、古着商集団を弁護する文書が現れ、『ユダヤ人に対する憤怒』という文書では、ユダヤ人に識別するための印をつけるべきだと主張され、『シナゴーグに対する判決文』という文書ではユダヤ人全員を[[去勢]]すべきだと主張された<ref name="po-1-ジャン・ブルジョワ"/>。こうした文書の横溢によって、古着商は隠れユダヤ教徒、マラーノであったのかという疑いを持ったが、事件における古着商集団は被害者も加害者もカトリック・キリスト教徒であった<ref name="po-1-ジャン・ブルジョワ"/>。
 
 
 
[[ファイル:Jacques-Bénigne Bossuet 2.jpg|right|220px|thumb|[[ジャック=ベニーニュ・ボシュエ]](1627年 - 1704年)、[[イアサント・リゴー]]画、[[ルーヴル美術館]]蔵]]
 
 
 
マザラン没後の[[1661年]]に23歳の[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世太陽王]]は親政を開始し、宮廷説教師[[ジャック=ベニーニュ・ボシュエ|ボシュエ]]{{refnest|group=*|[[ジャック=ベニーニュ・ボシュエ|ボシュエ]]は[[1657年]]、[[アンヌ・ドートリッシュ]]への説教で宮廷説教師となった。}}は[[王権神授説]]とフランス教会のローマからの独立([[ガリカニスム]])を提唱、ローマ教皇よりもフランス国王の権力を強化して[[絶対君主制]]を確立した<ref name="po-1-229-238"/>。ボシュエはユダヤ人を「誰からも哀れまれることなく、その悲惨のなかにあって、一種の呪いによりもっとも卑しき人々からも嘲笑の的とされるにいたった民」とし、ユダヤ人の最大の罪はイエスの処刑ではなく、処刑後に、悔い改めない姿勢であると述べる[[オラトリオ会]]修道士であった<ref name="po-1-229-238">[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.229-238.</ref>。ルイ14世は「唯一の王、唯一の法、唯一の宗教」を方針として、「最大のキリスト教徒の王」を自負し、異端の[[ジャンセニスム|ジャンセニスト]]{{refnest|group=*|[[ジャンセニスム|ジャンセニスト]]とは、オランダの神学者[[コルネリウス・ヤンセン|ヤンセン]]が『アウグスティヌス』(1640)で[[アウグスティヌス]]は人間の自由意志よりも神の恩恵を重視し人間の無力さを強調したと論じた。ヤンセンの説を信奉したサン・シラン修道院長のジャン・デュベルジエ・ド・オランヌ(1581―1643)や、[[ポール・ロワイヤル修道院]]でジャンセニスムが教えられたが、[[イエズス会]]と[[教皇庁]]はヤンセンを異端として攻撃した<ref name="jansen">「ジャンセニスム」大辞林 第三版、日本大百科全書(ニッポニカ)</ref>。[[1711年]]、[[ポール・ロワイヤル修道院]]はルイ14世王命により破壊された<ref name="jansen"/>}}や[[ユグノー]]を抑圧した<ref name="Louis XIV"/>。[[ジャンセニスム]]を信奉した哲学者[[ブレーズ・パスカル|パスカル]]は、遺稿『[[パンセ]]』で「栄誉に抗して純一であり、それがゆえに死んでゆく、ユダヤ人」とユダヤ人を称賛した<ref name="Richard Simon"/>。
 
 
 
[[1657年]]、東方への野心を持ったルイ14世は、軍馬調達、駐屯地への補給のために[[アルザス地域圏|アルザス]]=[[ロレーヌ地域圏|ロレーヌ]]地域のユダヤ人を利用しようとして[[メス (フランス)|メッス]]のシナゴーグを訪れ、アンリ4世とルイ13世がユダヤ人に与えた勅許状を更新し、古物だけでなく新物を商う権利を付与した<ref name="arita-98-181">[[#有田 1998]],p.181,194.</ref>。しかし、[[1670年]]にメッスで儀式殺人事件と裁判が繰り広げられ{{refnest|group=*|メッスの高等法院とキリスト教徒商人は反ユダヤ感情を利用して儀式殺人裁判でユダヤ人ラファエル・レヴィが処刑された<ref name="arita-98-181"/>。[[#有田 1998|有田 1998]]では[[1669年]]とされる<ref name="arita-98-181"/>。}}、パリで行方不明になった若者について、ユダヤ人が連れ去ったという噂が流れた<ref name="po-1-ジャン・ブルジョワ"/>。
 
これに対して、聖書学者リシャール・シモン<ref>Richard Simon 1638-1712</ref>が1670年のメッス儀式殺人裁判について匿名でユダヤ人を擁護し<ref name="arita-98-181"/>、1674年にはヴィネチアのラビ、レオン・ダ・モデナの著作を翻訳して、その序文で「新約聖書を書いたのはユダヤ人であった」と主張し、またユダヤ教徒の信仰心の篤さを賞賛した<ref name="Richard Simon"/><ref>Leon Modena(1571–1648)、Richard Simon訳、Cérémonies et coutumes qui s'observent aujourd'hui parmi les juifs .1674.</ref>。しかし[[1684年]]になると、シモンは手紙でモデナ訳書の序文について好意的なことを書きすぎたと反省して、「ユダヤ人が救いようのない民であるということを、私はその後、彼らのうちの幾人かと付き合ってみてはじめて理解した。彼らはいまだにわれわれのことを深く憎悪している」と述べた<ref name="Richard Simon"/>。シモンは1678年、近代聖書文献学のさきがけとされる『旧約聖書の批判的歴史』を著作したが、宮廷説教師ボシュエの激しい怒りを買い、1687年に発禁処分に至り、死ぬまで周囲から激しい攻撃を受けた<ref name="Richard Simon"/><ref name="伊藤玄吾">[[#伊藤玄吾2012]],pp.313-351.</ref><ref name="Richard Simon">[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.249-253.</ref>。
 
 
 
*[[1675年]]〜[[1680年]]頃 [[サヴォイア公国]][[ピエモンテ]]で数年間の凶作によって救済保護政策のなかで、プロテスタントからの改宗者、貧民、ユダヤ人をゲットーに強制移住させて、管理を強めた<ref>[[#北原 2008]],p281</ref>。
 
 
 
ルイ14世は、1680年代に[[ユグノー]]弾圧を開始。1682年新築のベルサイユ宮殿に移り、[[1685年]]、[[フォンテーヌブローの勅令]]で[[信教の自由]]を約した[[ナントの勅令]]を廃止した<ref name="Louis XIV">千葉治男「ルイ(14世)」日本大百科全書(ニッポニカ)、「ルイ14世」ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典</ref>。[[1688年]]から[[1697年]]にかけて[[ストラスブール]]占領などフランスの拡大政策{{refnest|group=*|ルイ14世は[[ネーデルラント継承戦争|フランドル戦争]]、[[仏蘭戦争]]の後に領土拡大を図り、1681年に[[ストラスブール]]を占領して併合した。}}に反発したドイツ、スペイン諸国が結成した[[アウクスブルク同盟]]と[[フランス王国]]との間で、[[大同盟戦争]]。1689年に[[名誉革命]]でウィレム3世がイングランド王になると、イングランドとオランダも同盟に参加した。講和条約[[レイスウェイク条約]]でフランスは1678年からの占領地の殆どを返還した。
 
*1693年–1694年 - フランスで飢饉。
 
*1701年 - 1714年、[[スペイン継承戦争]]。
 
*1702 - 1709年、南フランスのユグノーが[[カミザールの乱]]。
 
*1709年、大厳冬の飢饉<ref name="Louis XIV"/>。
 
 
 
==== フランス・カトリックの反ユダヤ主義 ====
 
[[File:Bourdaloue portrait gravé.jpg|thumb|left|110px|[[イエズス会|イエズス会士]]・[[オラトリオ会]]修道院説教師ルイ・ ブルダルー]]
 
 
 
[[1671年]]、アドリアン・ガンバールは[[カテキズム]]で、聖体を拝領することは全ての罪のなかで最も重い罪であり、それによって、「ユダやユダヤ人たちと同じように、イエス・キリストの肉と血に対する罪を犯すことになる」とした<ref>Adrien Gambart(1600-1668), Le bon partage des pauvres en la doctrine chrétienne et connaissance du salut. 1671.</ref><ref name="po-1-221-229"/>。
 
 
 
[[イエズス会|イエズス会士]]・[[オラトリオ会]]修道院説教師ブルダルー<ref>ルイ・ ブルダルー(Louis Bourdaloue, 1632-1704)</ref>は、[[ステファノ]]を石で撲殺したユダヤ人は、「神秘の石」であるステファノを殴打して、神の慈悲と神の愛の火花を散らしたといい、「罪のうちに死ぬこと」をユダヤ人は天からくだされていると説教した<ref name="po-1-229-238"/>。
 
 
 
[[File:Esprit Fléchier.jpg|サムネイル|left|110px|ニーム司教エスプリ・フレシエ]]
 
 
 
ニーム司教フレシエ<ref>エスプリ・フレシエ(Esprit Fléchier,1632-1710)</ref>は、不信心者のユダヤ人は神の正しき裁きによって、この世が終わり、神がイスラエルの残骸を集める時まで、あらゆる民から眉をひそめられる存在であり続けると説教した<ref name="po-1-229-238"/>。
 
 
 
クロード・フルーリー神父(1640-1723)は[[カテキズム]]『歴史公教要理』で、イエスの敵は肉的なユダヤ人、ユダヤ人はイエスを死に至らしめたために隷属状態となり、離散させられた、と解説した<ref>Claude Fleury,Catechisme Historique, contenant en abregé l'histoire sainte et la doctrine Cretienne (1683)19課、27課。</ref><ref name="po-1-221-229"/>。
 
 
 
[[File:Jean-Baptiste Massillon.jpg|サムネイル|left|110px|宮廷説教者ジャン・バティスト・マシヨン(Jean Baptiste Massillon, 1663-1742)]]
 
クレルモン司教でベルサイユ宮廷説教者マシヨンは「血の罪の刻印」を受けて「見境を失った民」のユダヤ人は、「盲目的な敵愾心」で怒り狂い、「イエスの血がみずからとみずからの末裔の頭上に降り注ぐことを望んでいる」、ユダヤ人は「世界の恥辱とみなされたまま、さまよい、逃げまどい、軽侮され続けている」と説教した<ref name="po-1-229-238"/>。
 
 
 
しかし、16世紀においては、反ユダヤ的な暴動はみられない<ref name="po-1-229-238"/>。それは、宗教改革とそれに続く宗教戦争において、プロテスタント側がユダヤ人に近い立場に立たされ、憎悪が向けられたからであった<ref name="po-1-229-238"/>。カトリック派は、改革派の秘密集会を蔑み、悪意に満ちた話に尾ひれをつけて触れ回った<ref>[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.238.</ref>。
 
 
 
=== 宮廷ユダヤ人とユダヤ人強盗団 ===
 
[[1670年]]、神聖ローマ皇帝[[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]](在位1658年 - 1705年)はウィーンからユダヤ人を追放したが、[[1673年]]、同じ神聖ローマ皇帝レオポルト1世が、ハイデルベルクのユダヤ人[[ザームエル・オッペンハイマー]]を帝国軍の補給係に任命して、[[1683年]]のトルコ軍の[[第二次ウィーン包囲|ウィーン包囲]]やフランスとの戦争などを通じて食料、武器、輸送用の牛馬を提供して、首尾上々に任務を遂行した<ref name="po-1-283-305"/>。当時は、外交取引に[[宮廷ユダヤ人]]が活躍し、ハノーファーのレフマン・ベーレンツはルイ14世とハノーファー公の間を取り持った<ref name="po-1-283-305"/>{{refnest|group=*|Leffmann Behrends(Liepmann Cohen) of Hanover(1630年頃 - 1714年)。ただし、ベーレンツの孫たちは借財を背負って牢獄で過ごした<ref name="po-1-283-305"/>}}。ハルバーシュタットの宮廷ユダヤ人ベーレント・レーマン<ref>Issachar Berend Lehmann 1661年 - 1730年</ref>は、ザクセン選帝侯アウグストをポーランド王位につかせたが、息子はザクセンから追放された<ref name="po-1-283-305"/>。[[ヨーゼフ・ズュース・オッペンハイマー]]はヴュルテンベルク公[[カール・アレクサンダー (ヴュルテンベルク公)|カール・アレクサンダー]]の宮廷ユダヤ人として財政と行政を立て直し、権勢を誇ったが、最後は絞首刑に処された<ref name="po-1-283-305"/>。宮廷ユダヤ人は豪勢な家屋敷を構え、ミュンヘンの銀行家ヴォルフ・ヴェルトハンマーが開いた狩猟競技会ではイングランド大使や貴族が参加した<ref name="po-1-283-305"/>{{refnest|group=*|グリュッケル・フォン・ハーメルン(Glückel of Hameln)は『回想録』で宮廷ユダヤ人の婚礼を描いた<ref name="po-1-283-305"/><ref>『ゲットーに生きて―あるユダヤ婦人の手記 』林 瑞枝訳、新樹社、1974年</ref>。}}。宮廷ユダヤ人の大部分はユダヤ教を遵守していたが、シュタドラン(世話役)として、滞在禁止命令を追放令を解除させたり、ユダヤ人共同体を統轄して、ユダヤ人の敵対分子を牢獄につながせた<ref name="po-1-283-305"/>。
 
 
 
この頃、[[オーストリア]]の[[説教者]][[アーブラハム・ア・ザンクタ・クラーラ]]は[[1683年]]の[[第二次ウィーン包囲|トルコ軍によるウィーン包囲]]に際して、[[トルコ人]]は「貪欲な虎、呪われた世界破壊者」、ユダヤ人は「恥知らずで、罪深く、良心を持たず、悪辣で、軽率で、卑劣でいまいましい輩、悪党」として、[[ペスト]]はユダヤ人、墓掘り人、魔女によって引き起こされたと説教し{{Sfn|ヴィクトル・ファリアス|1990|pp=54-57}}<ref>著書『ウィーン覚書』</ref>、また「イエスを司直に売り渡したあのユダヤ人の子孫は、その後永劫の罰を受けねばならない」と説教した<ref>『幕屋II』</ref>{{Sfn|ヴィクトル・ファリアス|1990|p=334}}。
 
 
 
プロイセン王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]](在位1713 - 1740)は、ユダヤ人代表団の謁見に際して、「主を十字架にかけた悪党」とは面会しないと断ったが、侍従がユダヤ人からの高価な贈り物があると聞くと、王は、「主が十字架にかけられた時は、彼らはその場にいなかった」のだから、謁見を許可したという逸話が伝えられる<ref name="po-1-283-305"/>。
 
 
 
一方で、ユダヤ人強盗団もおり、1499年の『放浪者たちの書』の盗賊仲間隠語集にはヘブライ語起源が多くを占めており、17世紀以降には、組織的ユダヤ人強盗団の記録がある<ref name="po-1-283-305"/>。18世紀ドイツには強盗団首領ドーミアン・ヘッセルが死刑になった<ref name="po-1-283-305"/>。しかし、宮廷ユダヤ人もユダヤ人強盗団も例外の部類であり、大多数のユダヤ人は、中世的な風習にこだわり、しきたりを忠実に守りながら暮らした<ref name="po-1-283-305"/>。
 
 
 
=== 近世イングランド ===
 
イングランドでは1290年にユダヤ人は追放されたため、イギリスに来るユダヤ人商人は王立の改宗者収容施設「ドムス・コンウェルソーム(Domus Conversorum)」(1234年創建)に滞在した<ref name="po-1-UK"/>。14世紀、15世紀には未改宗のユダヤ人も改宗ユダヤ人を偽って宿泊した<ref name="po-1-UK"/>。
 
 
 
[[1492年]]のスペインからの追放で、ユダヤ人が「スペイン人」としてイギリスにも来た<ref name="kono35-45"/>。しかし、ヘンリー7世が、息子とアラゴン王女カザリンとの結婚に際して、ユダヤ人の立入りを禁じた<ref name="po-1-UK"/>。しかし、この禁止令は部分的にしか守られなかった<ref name="po-1-UK"/>。
 
 
 
[[ヘンリー8世]](在位:1509年 - 1547年)治世下の[[1540年]]、ロンドンに37家族の[[マラーノ]]による植民地が形成されたが、[[1542年]]に解散させられた<ref name="po-1-UK">[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.254-261.</ref>。なお、ヘンリー8世は亡兄ウェールズ公に嫁いだ[[キャサリン・オブ・アラゴン|アラゴン王女カザリン]]と結婚していたが、カザリンとの離婚の根拠を探すために、イタリアの[[ラビ]]に問い合わせている{{refnest|group=*|相談の結果、[[レビ記]]18-16「あなたの兄弟の妻を犯してはならない。それはあなたの兄弟をはずかしめることだからである」に基づく結婚の無効の訴えに対して、[[申命記]]25-5での「兄弟が一緒に住んでいて、そのうちのひとりが死んで子のない時は、その死んだ者の妻は出て、他人にとついではならない。その夫の兄弟が彼女の所にはいり、めとって妻とし、夫の兄弟としての道を彼女につくさなければならない」の方が重んじられた<ref name="po-1-UK"/>}}。
 
 
 
[[エリザベス1世]]時代(1558年 - 1603年)には、ユダヤ人集会も公然と行われるようになり、ユダヤ人貿易商人エクトル・ヌネスはヨーロッパ大陸の機密情報をイギリス政府に伝えた<ref name="kono35-45"/>。一方で、反ユダヤ主義も高まり、劇作家[[クリストファー・マーロウ]]の『[[マルタ島のユダヤ人]]』(1590)では財産を没収されたユダヤ人が復讐する<ref name="kono35-45"/>。ただしこれには無神論者だったマーロウがユダヤ人の悪魔が吐く台詞によってキリスト教体制の偽善を批判したという見方もある<ref name="kono35-45"/>。[[1594年]]にはユダヤ人医師ロデリーゴ・ロペスがエリザベス女王毒殺の廉で裁判にかけられ処刑される事件が起きた<ref name="kono35-45"/>。同じ頃、シェイクスピアも「ヴェニスの商人」(1596)を執筆した。
 
 
 
[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェイムズ1世]]時代(1603- 1625年)には、ユダヤ人同志の内紛で「ユダヤ教徒」という嫌疑をかけられたポルトガル系ユダヤ商人が国外追放された<ref name="kono35-45"/>。
 
 
 
[[1649年]]の[[清教徒革命]]では、市民階級の清教徒が「イスラエルよ、汝らの幕屋に戻れ!」を合言葉とした<ref name="po-1-UK"/>。清教徒革命は王室と癒着した教会への攻撃でもあり、クロムウェルはユダヤ教徒と非国教派を保護した<ref name="kono46-51"/>。また、至福千年説が流行し、ユダヤ人を解放してキリスト教に改宗させることがメシア降臨の条件とみなされるようになった<ref name="kono46-51">[[#河野 2001]],p.46-51.</ref>。[[清教徒]]の至福千年派は、ユダヤ人の改宗のためにユダヤ人をパレスチナに呼び戻すべきだと主張した<ref name="po-1-UK"/>。こうしたことから、クロムウェルの出自はユダヤ人ではないかと囁かれ、またクロムウェルはセントポール大聖堂を80万ポンドでユダヤ人に売却しようとしているという噂が流れた<ref name="po-1-UK"/>。
 
 
 
一方、[[イングランド国教会の分離派|非国教会の分離派]]は、イギリスの内乱は過去のユダヤ人迫害への天罰であるとみなした<ref name="kono46-51"/>。分離派に励まされたアムステルダムのラビ、マナセ・ベン・イスラエル(1604‐57)はユダヤ人のイギリス入国を請願した<ref name="kono46-51"/>。マナセは[[1650年]]にアムステルダムで刊行した『イスラエルの希望』{{refnest|group=*|6ヶ国語に翻訳、[[1652年]]ロンドンで出版。}}において、終末の到来を確かならしめるためには、ユダヤ人の拡散を完全のものとして、世界の末端であるイングランド(アングル・ド・ラ・テール 地の角)をユダヤ人の植民地と化するべきだと主張した<ref>Menasseh Ben Israel, ''[https://archive.org/stream/menassehbenisrae00manauoft#page/16/mode/2up Hope of Israel]'' (London 1652). [[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.398(13).</ref><ref name="po-1-UK"/>。背景には[[1648年]]のポーランドでのコサック反乱によるユダヤ人難民の存在があった<ref name="kono46-51"/>。マナセは著書をイギリス議会に献呈し、ユダヤ人を迎え入れれば貿易が盛んになり繁栄すると力説した<ref name="kono46-51"/>。クロムウェルは、キリスト教を否定する者に寛容を貫くのは本末転倒であると退けながら、イギリス商業の保護と発展のためにユダヤ人国際ネットワークを利用することのメリットに理解を示した<ref name="kono46-51"/>。またクロムウェルはスペインの植民地を奪取するための協力をユダヤ人マラーノから期待していた<ref name="po-1-UK"/>。メナセは[[1655年]]9月の渡英に先立って「卑見(Humble Address)」を起草、シナゴーグの建設許可や、反ユダヤ法の改正を請求するとともに、ユダヤ人の商才、高潔な血統を強調、キリスト教徒幼児の殺害は中傷だと否定した<ref name="kono46-51"/>。11月、クロムウェルはこの請願を議会にかけたが、王党派は「王を殺した者が、救世主を殺した者と手を握った」と非難した<ref name="kono46-51"/>。貴族マンモス伯はシナゴーグ建設案に不快感を示し、またロンドンでは傷痍軍人が「わしらも全員ユダヤ人になるしかあるまい」と噂し、商人は恐るべき競争相手と警戒し、聖職者は社会転覆の危険を見た<ref name="po-1-UK"/>。パンフレット作家で[[王党派]]の政治家[[ウィリアム・プリン]]は、[[1634年]]に演劇の観客は「悪魔、不敬の怪物、無神論的ユダの化身である。彼らはみずからの宗教に対しては喉を掻き切る殺人鬼」と述べ、仮面劇を支援した王妃[[ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス]]への誹謗中傷と名誉毀損の罪によって、両耳を切断され、左右の頬に煽動的誹毀者(seditious libeller)を意味する「S.L.」の烙印が押されたが、民衆の絶大な人気を博していた<ref name="po-1-UK"/>。[[1655年]]にプリンは、イングランド政府によるユダヤ人の召喚計画に反対して『ユダヤ人のイングランド移入に関する簡潔な異議申し立て』を書いて、一週間で完売した<ref name="po-1-UK"/>。このほか、クレメント・ウォーカー『イングランドの無政府状態』やアレクサンダー・ロス『ユダヤ人の宗教』などでユダヤ人召喚への反対が主張された<ref name="po-1-UK"/>。
 
 
 
[[1655年]][[12月18日]]の一般公開議場ではユダヤ人受け入れに反対する者が多数詰めかけ、クロムウェルは諮問委員会の解散を宣言し、さらに、演説では、ユダヤ人の改宗は聖書に予告されており、そのためにはユダヤ人が聖地に住むことが唯一の手段であると述べ、閉会した<ref name="po-1-UK"/><ref name="kono46-51"/>。
 
 
 
マナセ・ベン・イスラエルは[[1656年]]に『ユダヤ人からの要求』を書き<ref>Menasseh Ben Israel, Vindiciae Judaeorum, Or, A Letter in Answer to Certain Questions Propounded by a Nobel and Learned Gentleman: Touching the Reproaches Cast on the Nation of the Jews ; Wherein All Objections are Candidly, and Yet Fully Clear'd. Amsterdam 1656.</ref>、これに影響された[[ユニテリアン主義|ユニテリアン派]]のトマス・コリアー(1615 – 1691)は、ユダヤ人によるイエス殺害は神の意志を実現するためであり、それによってキリスト教を誕生させるためであったと論じた<ref>Thomas Collier, ‘A Brief Answer to some of the Objections and Demurs made against the coming in and inhabiting of the Jews in this Commonwealth,’ London 1656.</ref><ref name="po-1-UK"/>。
 
 
 
[[英西戦争]]の悪化によって1655年秋に在英スペイン人の財産は没収された<ref name="kono46-51"/>。在英ユダヤ人のほとんどはスペイン出身であり、法的にはスペイン人であったため、ユダヤ人の財産も没収された。裕福な商人ロブレスは自分はポルトガル人であるとして財産返却を請願し、異端審問の過酷さを主張してイギリスの反スペイン・反カトリック感情に訴え、財産没収の取り消しに成功、これによりイギリスでの[[マラーノ]]の身分が保証される結果となった<ref name="kono46-51"/>。
 
 
 
以後、イングランドでは公的な入国許可はなかったが、非公式の寛容政策によってロンドンのマラーノ入植地では、シナゴーグも建設され、イギリス国内の事実上の小国家となっていった<ref name="po-1-UK"/>。1657年イギリス最初のシナゴーグがクリーチャーチレインに建立された<ref name="kono51-54">[[#河野 2001]],p.51-54.</ref>。
 
 
 
1659年の[[王政復古]]で復位した[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]は親ユダヤ的で、ユダヤ人の権益を保護した<ref name="kono46-51"/>。王室の庇護を受けたためにユダヤ人は安定した地位を保ち、セファルディー系ユダヤ人が18世紀初頭にベヴィスマークにシナゴーグを建設、アシュケナージ系ユダヤ人も再入国が認められ、1690年には自派のシナゴーグを建設した<ref name="kono51-54"/>。
 
 
 
なお、1661に成立した騎兵議会では、王党派によって、清教徒の一掃を企図するクラレンドン法典、市町村の役員に国教徒であることを義務づけた地方自治体令(Corporation Act)、非国教徒4人以上の会合を禁止したコンヴェンティクル条例(Conventicle Act)などが可決した<ref name="kono46-51"/>。
 
 
 
日記で知られる海軍秘書[[サミュエル・ピープス]]は1663年にシナゴーグを訪問し、そこで見たシムハット・トーラの礼拝での騒ぎに対して嫌悪感を書いている<ref name="kono51-54"/>。
 
 
 
[[1718年]]にはイギリス産まれのユダヤ人であれば土地所有が可能となった<ref name="kono51-54"/>。
 
 
 
[[1753年]]、[[ヘンリー・ペラム]]政権は、ユダヤ人帰化の条件を緩和する法案を提出したが、世論の反発を受けて撤廃した<ref>『世界歴史体系 イギリス史2』,p.309.1990年.</ref>。ユダヤ人帰化法が失敗すると、[[ベンジャミン・ディズレーリ|ディズレーリ家]]、リカルドー家、バーセーヴィ家などの上流ユダヤ人はイギリス国教に改宗した<ref name="kono51-54"/>。
 
 
 
>>[[#19世紀イギリス|19世紀イギリスへ]]
 
 
 
=== 理神論・合理主義とスピノザの反ユダヤ主義 ===
 
[[ファイル:Spinoza.jpg|サムネイル|200px|[[バールーフ・デ・スピノザ]](1632 - 1677年)は匿名でユダヤの神を憎しみの神であると論じ、この見方は[[啓蒙思想]]に広がっていった<ref name="po-1-6-7"/>。]]
 
[[ファイル: John Toland.jpg|サムネイル|200px|[[理神論]]哲学者ジョン・トーランド(1670 – 1722) は当時イギリスで唯一ユダヤ人を擁護した<ref name="po84-95"/><ref name="po96-98"/>。]]
 
[[宗教改革]]と宗教戦争を経て、[[16世紀]]の[[ソッツィーニ派]]は[[聖書]]の[[権威]]を批判し、[[三位一体説]]や[[予定説]]、キリストの[[神性]]を否定し、[[教会]]と[[国家]]の分離([[政教分離]])を主張し、神だけの神性を主張し,イエスの神性を否定する[[ユニテリアン]]に影響を与えた<ref name="sozzini">「ソッツィーニ」ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、「ユニテリアン」世界大百科事典 第2版</ref>。やがて、この潮流はチャーベリーのハーバート卿やトーランドなどイギリスの自由思想家によって[[理神論]](自然宗教)という[[理性]]に基づく[[合理主義]]的な[[有神論]]となった。ハーバート卿の『真理について』([[1624年]])は哲学者[[デカルト]]に影響を与えた<ref>Edward Herbert, 1st Baron Herbert of Cherbury, De Veritate, prout distinguitur a revelatione, a verisimili, a possibili, et a falso(On Truth, as it is Distinguished from Revelation, the Probable, the Possible, and the False).</ref><ref>「ハーバート・オブ・チャーベリー」ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典</ref>。
 
 
 
オランダの[[セファルディム|ユダヤ・セファルディム]]系哲学者[[バールーフ・デ・スピノザ|スピノザ]]にとってユダヤ教は確かな論拠と証明に基いていないのでそれがユダヤ共同体から離れる原因となり、さらにユダヤ人の男に短剣で襲撃されたことでスピノザはユダヤ共同体と絶縁し、さらに破門され追放された<ref name="spi">[[#リュカス|リュカス]]、p.99-100.p.108.</ref>。その後、スピノザは匿名で[[1670年]]に『神学・政治論』を書き、ヘブライ人の宗教は他の民族とは絶対に相反的なものであり、ユダヤ教において他の民族への憎しみは敬神と敬虔から生じた神聖なものと信じられていると、ユダヤ教について激しく攻撃的に論じ<ref name="po-1-6-7">[[#ポリアコフ 1]],p.6-7</ref><ref name="spi2">[[#リュカス|リュカス]]、p.119.</ref>。スピノザはコレジアント派(ソッツィーニ派、メンノ派)の解釈に倣って、ユダヤ教における隣人をユダヤ民族に限定した<ref name="goda"/>。スピノザの聖書批判はキリスト教神学者の間でも反発を呼んだ<ref> [[#リュカス|リュカス]]、p.128-135.</ref>。[[ピエール・ベール]]は『歴史批評辞典』 (1696年)でスピノザの聖書批判を紹介しフランスやイギリスでも知られるようになり<ref name="po84-95"/>、スピノザによってユダヤの神は憎しみの神であるという考え方、そしてユダヤ教は迷信にすぎないといった見方が[[啓蒙思想]]やイギリス理神論、ドイツの哲学者カントやヘーゲルまで広がっていった<ref name="po-1-6-7"/><ref name="goda">[[#合田2006]],p.111-114.</ref>。ゴルディンやポリアコフは、スピノザは近代の反ユダヤ主義の形成において重要な役割を果たしたと論じている<ref name="po-1-6-7"/>{{refnest|group=*|ポリアコフはヤーコプ・ゴルディンの1935年の論文「スピノザの事例」に影響を受けた<ref name="goda"/>}}。
 
 
 
[[1696年]]に自由思想家で[[合理主義]](理神論)哲学者ジョン・トーランドは、教父たちは真のキリスト教を堕落させてきたとして、「理に適った」(合理的な)教説を説き、キリスト教はもとはユダヤ教徒であったと論じた<ref name="po84-95"/><ref>ジョン・トーランド『キリスト教は秘蹟的ならず』:John Toland, Christianity Not Mysterious: A Treatise Shewing, That there is nothing in the Gospel Contrary to Reason, Nor Above It: And that no Christian Doctrine can be properly called A Mystery (1696)</ref>。トーランドは[[1714年]]にユダヤ人を擁護し、ヨーロッパ大陸からユダヤ人を受け入れるよう主張した<ref>『ユダヤ人帰化論、および全ての偏見に対してのユダヤ人の擁護』:John Toland, Reasons for Naturalising the Jews in Great Britain and Ireland on the same foot with all Other Nations. Containing also, A Defense of the Jews, Against All Vulgar Prejudices in all Countries. (1714)</ref><ref name="po84-95"/>。また[[1718年]]にトーランドは、「ユダヤ教徒が奉じる真のキリスト教」はローマ帝国の異教徒たちによって圧殺され、また[[教皇]]制度はキリスト教を歪める一方で、ユダヤ教の儀式を非難してきたが、こうしたことの根拠は聖書には書かれていないと論じた<ref>『ナザレ人』:John Toland, Nazarenus: or Jewish, Gentile and Mahometan Christianity, containing the history of the ancient gospel of Barnabas. Also the Original Plan of Christianity explained in the history of the Nazarens with a summary of ancient Irish Christianity.(1718)</ref><ref name="po84-95"/>。トーランドは、これまでのキリスト教世界を批判する一方で、ユダヤ人を擁護した<ref name="po84-95"/>。
 
 
 
トマス・ウールストンは1705年の著作『ユダヤ人と復活した異邦人に対するキリスト教の真実のための古い弁明』以来の著作やパンフレットで、ユダヤ人は「騒音と悪臭の根本」であり、「世界はユダヤ人の毒に満ちている」と論じた<ref>Thomas Woolstonの著作はThe Old Apology for the Truth of the Christian Religion against the Jews and Gentiles Revived (1705)、The Moderator between an Infidel and an Apostate (1725)</ref><ref name="po84-95"/>。ウールストンの著作は何万部も刷られ、ヴォルテールはウールストンの著作を典拠にした<ref name="po84-95"/>。
 
 
 
[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]の推薦で[[ルーカス教授職]]に就いた[[ウィリアム・ホイストン]]は[[1722年]]の『旧約聖書再現試論』でユダヤ人は旧約聖書の写本を歪め、故意に改悪したと論じた<ref>William Whiston, An Essay Towards Restoring the True Text of the Old Testament: And for Vindicating the Citations Made Thence in the New Testament.</ref><ref name="po84-95"/>。[[ポール=アンリ・ティリ・ドルバック|ドルバック伯爵]]に影響を与えたアンソニー・コリンズは『キリスト教基礎論』(1724)でユダヤ教は民族宗教にすぎないと主張した<ref>Anthony Collins, Discourse of the Grounds and Reasons of the Christian Religion, with An Apology for Free Debate and Liberty of Writing , 1724.</ref><ref name="po84-95"/>。マシュー・ティンダルの『天地創造と同じ古さを持つキリスト教、あるいは自然宗教の福音』([[1730年]])は理神論のバイブルといわれたが、ユダヤ人の悪しき影響力を論じたものでもあった<ref>Matthew Tindal, Christianity as Old as the Creation; or, the Gospel a Republication of the Religion of Nature (London, 1730)</ref><ref name="po84-95"/><ref>「ティンダル」ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典</ref>。トマス・モーガンは『キリスト教徒の理神論者フィレラテスとキリスト教徒ユダヤ人テオファネスとの対話のなかの道徳哲学者』([[1737年]])で、[[スピノザ]]に基づきイスラエルの神は戦の神であり、その土地の民族の神にすぎないとして、理神論者がキリスト教徒ユダヤ人に打ち勝つと描いた<ref>Thomas Morgan, The Moral Philosohy in a dialogue between Philalethes a Christian Deist, and Theophanes a Christian Jew. 1737.</ref><ref name="po84-95"/>。ウィリアム・ウォーバートンの『モーセの聖使節』([[1737年]]-[[1741年]])では、神が最も粗野で卑しい民族を選んだということが[[啓示]]の根拠であると論じた<ref>William Warburton, The Divine Legation of Moses.1737-1741.</ref><ref name="po84-95"/>。[[ヘンリー・シンジョン (初代ボリングブルック子爵)|ボーリングブルック]]はユダヤ人とキリスト教教父たちはキリスト教を悪質なものへと変えたと非難した<ref name="po84-95"/>。
 
 
 
こうしたイギリス理神論は、ユダヤ人に取り憑かれたように非難していたわけではなかった<ref name="po96-98">[[#ポリアコフ III]],pp.96-98.</ref>。しかし、ジョン・トーランドを唯一の例外としてほとんどのイギリス理神論者が伝統的なキリスト教的な反ユダヤ主義を保持し続け、ユダヤ教とキリスト教の窮屈さや[[旧約聖書]]の[[排外主義|排他主義]]を批判し、文明や人類の起源を[[エジプト]]やインドに求めていくようになり、これが後年の「アーリア神話」に行き着くことになった<ref name="po96-98"/>。イギリス理神論は、フランスの[[ヴォルテール]]や[[ルソー]]などヨーロッパの思想に大きな影響を与えた<ref>「理神論」ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典</ref><ref name="po84-95">[[#ポリアコフ III]],pp.84-95.</ref>。
 
 
 
=== 近世の人種学 ===
 
すでに述べたように自民族を高貴な民族とみなす考え方は8世紀の『[[サリカ法典]]』にもみられるが、[[1434年]]の[[バーゼル公会議]]でスウェーデンのラーグヴァルトッソン司教が述べた「[[スウェーデン王国]]は最も古く高貴な王国であり、スカンディナビアは人類発祥の土地である」という発言には近代的な人種主義的ナショナリズムの萌芽がみられる<ref>[[#ポリアコフ1985]],p.105</ref>。
 
 
 
[[16世紀]]後半、ドミニコ会の哲学者[[ジョルダーノ・ブルーノ|ブルーノ]]は、インディアン、エチオピア人、ネプチューンの洞窟の住民、ピグミー、巨人は、人間と同じ出自ではなく、神の創造したものではないとした<ref>[[#ポリアコフ1985]],p.174-9.</ref>。
 
 
 
[[マラーノ]]のアイザック・ラ・ペイレールは[[1655年]]の『前アダム人』で、聖書はユダヤ史のみを取り扱っているにすぎず、アダム以前に数百万の前アダム人がおり、またユダヤ史は「アダムからイエスまでの選びの時代」と「イエスから17世紀までの排除の時代」であったとし、その後にユダヤ人の復活の時代が訪れ、ユダヤ人(アダム人)以外の民も含めた万人が救済されるとした<ref>Isaac La Peyrère (1596–1676),Prae-Adamitae,1655.[[#高田紘二1997]], pp.25-34</ref>。
 
 
 
[[1689年]]、哲学者[[ジョン・ロック]]は『[[人間知性論]]』において、子供が人間の観念を形成する際に周囲の白人の肌色から白色が人間という複雑な観念の内の単純観念の一つとなるので黒色のニグロは人間ではないと判断する、と論じた<ref>JOHN LOCKE,AN ESSAY CONCERNING HUMAN UNDERSTANDING,BOOK IV,CHAPTER VII,16.</ref><ref name="p-A-194-195">[[#ポリアコフ1985]],p.194-195.</ref>。
 
 
 
[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]は『人間知性新論』で「動物の習性とも見なしうるほどの残忍さにみちたアメリカの蛮人の習慣を認めるには、彼らと同じほど愚鈍でなければならない」と述べた<ref>『人間知性新論』1704 (出版は1765). Nouveaux essais sur l'entendement humain,I,II,§9.</ref><ref name="p-A-194-195"/>
 
 
 
博物学者[[ジョン・レイ (博物学者)|ジョン・レイ]]は、色の違う花が異なる種に属すように、ニグロとヨーロッパ人は異なる種に属すと論じた<ref>John Ray(1627 – 1705) , A discourse on the Specific Differences of plants.[[#ポリアコフ1985]],p.208.</ref>
 
 
 
スウェーデンの博物学者[[カール・フォン・リンネ|リンネ]]は[[1735年]]の『自然の体系』で人間を4つに分類し、白いヨーロッパ人は発明の才に富み、法によって統治され、赤いアメリカ人は自由で短気で習慣によって統治され、黄色いアジア人は高慢で貪欲で世論によって統治され、黒いアフリカ人は無気力で主人の恣意的な意志によって統治されているとし<ref>Linnaeus, Carolus (1735). Systema naturae, sive regna tria naturae systematice proposita per classes, ordines, genera, & species. Leiden.</ref>{{refnest|group=*| 白いヨーロッパ人は"Europæus albus" , 赤いアメリカ人は"Americanus rubescens" , 茶色のアジア人は"Asiaticus fuscus"、黒いアフリカ人は
 
"Africanus Niger"で、『自然の体系』初版でアジア人は茶色とされ、10版以降は黄色とされた。またヨーロッパ人とホッテントット人は同一の起源を持つと信じることは難しいとした<ref name="p-A-211-216"/>
 
}}。
 
 
 
[[デイヴィッド・ヒューム|ヒューム]]は[[1742年]]、黒人などの白人以外の文明化されていない人種は、白人種のような独創的な製品、芸術、科学を作り出せないとし<ref>Essays, Moral, Political, and Literary,Part I, Essay XXI:OF NATIONAL CHARACTER,注10.[[#高田紘二2002]],pp=91-92.</ref>、非白人による文明民族は存在したことはないとした<ref>[[#ポリアコフ1985]],p.235.</ref>。
 
 
 
科学者[[ピエール・ルイ・モーペルテュイ|モーペルテュイ]]は、黒人から白い子供が突然生まれるのに対して、その逆はないことから、人間の最初の色は白であると論じた<ref>Pierre Louis Moreau de Maupertuis,Dissertation physique à l'occasion du nègre blanc,1745.[[#ポリアコフ1985]],p.219.</ref>。
 
 
 
ドイツの哲学者G.F.マイアー<ref>Georg Friedrich Meier(1718-1777)</ref>は、最初の人間[[アダム]]は脇腹にすべての人間をたずさえ、その中の[[アブラハム]]の精子にはすべてのユダヤ人が含まれていたとした<ref name="p-A-211-216"/>
 
 
 
解剖学者[[ヨハン・フリードリヒ・メッケル|メッケル]]は[[1757年]]にニグロを解剖した結果、彼らの脳も血液も黒いため、白人とは別の人種であるとした<ref name="p-A-211-216"/>。解剖学者[[ペトルス・カンパー|カンペル]]<ref>Petrus Camper(1722ー89)</ref>は、ユダヤ人には色の黒いポルトガル系や、白い[[テウトネス族|チュートン系]]もいて、皮膚の色が違っても始祖は同じ[[アダム]]であり、ニグロも人間であるとメッケルを批判した<ref name="p-A-211-216"/>。カンペルはヨーロッパ人、カルムイク人(蒙古人)、ニグロ、猿の順に「顔面角」が減少していくとした<ref name="p-A-211-216"/>。
 
 
 
博物学者[[ジョルジュ=ルイ・ルクレール・ド・ビュフォン|ビュフォン]]は『[[博物誌 (ビュフォン)|博物誌]](1749-1788)』において、ロバが退化した馬であり馬に属するようにニグロは人間に属する、あるいは、白人が人間であるとすれば、ニグロは人間でなく猿のような別の動物であるとした<ref name="p-A-220-232"/>。
 
 
 
[[ヴォルテール]]は、ニグロが猿より優れているように、白人はニグロより優れているとし、ニグロは猿との性交から生まれた怪物の種であるとした<ref name="p-A-234-238">[[#ポリアコフ1985]],p.234-238.</ref>
 
 
 
[[カント]]は[[1764年]]の『美と崇高との感情性に関する観察』で「アフリカの黒人は、本性上、子供っぽさを超えるいかなる感情も持っていない」し、また東洋の住民は誤った趣味を持っているのに対して、ヨーロッパ人は[[美]]と[[崇高]]の正しい[[趣味]]を作り上げ、[[コスモポリタニズム|世界市民 (コスモポリタン)]]の人倫的感情を高めたと論じた<ref>[[#カント 2000]],p.378-383。</ref>。カントは[[1777年]]の「様々な人種について」では人間は共通の祖先を持つとしたが<ref>福田喜一郎訳「様々な人種について」『カント全集 第3巻』岩波書店 2001年</ref>、『自然地理学』(1756-96年)で白色人種によって人類は最大の完全性に到達するとした<ref>『自然地理学』第2部第1編第4節,[[#カント自然地理学]],p.227.</ref>。
 
 
 
[[1799年]]、医者チャールズ・ホワイトは白いヨーロッパ人は人類の最も見事な産物であり、ヨーロッパ人以外にこれほど美しい頭の形、これほど大きな頭脳をどこに見出すことができるだろうかと書いた<ref>Charles White (1728 – 1813), An Account of the Regular Gradation in Man, and in different Animals and Vegetables, C. Dilly,(1799).</ref><ref name="p-A-211-216">[[#ポリアコフ1985]],p.211-216.</ref>。
 
 
 
エドワード・ロングは、ヒト種を、ヨーロッパ人、ニグロ、オランウータンの3つに分けて、白人とニグロの混血児もニグロとオランウータンの混血児も生殖能力を持たないとした<ref name="p-A-234-238"/>。
 
 
 
クリストフ・マイナース<ref>Christoph Meiners (1747–1810)</ref>は「美しい白人種」と「醜い黒人種」の二つに分け、白人、特にケルト民族だけが真の勇気などの美徳を持っており、黒人は無情で無感覚な恐ろしい悪徳を持っているとした<ref>[[#ポリアコフ1985]],p.238.</ref>。
 
 
 
<nowiki>>></nowiki> [[#近代人種学|「近代人種学」へ]]
 
 
 
=== 近世ポーランド・ウクライナ ===
 
ポーランドのユダヤ人は、ユダヤ教国[[ハザール|ハザール帝国]]や、ビザンティウムから来たと考えられている<ref name="po-1-306-339">[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.306-339.</ref>。伝承では、一日だけユダヤ人がポーランドの王位に即位したといわれ、中世11世紀、12世紀の貨幣にヘブライ語で「ミエシュコ大王」「アブラハム・ドゥハス」などの銘が刻まれている<ref name="po-1-306-339"/>。
 
 
 
ポーランドではユダヤ人への優遇政策は進んでいた。[[1264年]]、ポーランドのカリシュのボレスワフ王(1221-79)は、ドイツ諸侯のようなユダヤ勅許状を出した<ref name="po-1-306-339"/>。しかし、1267年、ブラスラウ公会議は12条でポーランドはキリスト教徒の新しい入植地であるため、ユダヤ人の迷信や悪習からの影響を懸念した<ref name="po-1-306-339"/>。1279年、ユダヤ人識別章が計画されたが実現しなかった<ref name="po-1-306-339"/>。[[1364年]]、カジミェシュ王(1310-70)はユダヤ人を貴族と同等の扱いとして、ユダヤ人に危害を加えた者を罰した<ref name="po-1-306-339"/>。しかし、14世紀末、ポーランドで聖体冒涜事件と儀式殺人事件が起こった。[[1454年]]、カピストラーノのジョバンニの影響で、ヤギェウォ朝のカジミェシュ4世がユダヤ人の特権を一部撤回した<ref name="po-1-306-339"/>。[[1565年]]、ポーランドのユダヤ人は卑しい職業に従事しているわけでもなく、土地を所有し、医学、占星術を研究し、大きな富を蓄えて、武器の携帯も認められている、と教皇使節が報告しており、他国の境遇との隔たりがあった<ref name="po-1-306-339"/>。当時、ポーランドのユダヤ人は商業、行政、森林開拓、岩塩採掘、農業、銀行、ポーランド貴族の御用商人、宮廷ユダヤ人など、多岐にわたって浸透しており、ユダヤ人から利益を得ていたポーランド貴族はユダヤ人を庇護した<ref name="po-1-306-339"/>。他方で、ポーランドの聖職者はユダヤ人を攻撃し、イエズス会のスカルガ<ref>ピョトル・スカルガ(Piotr Skarga 1536‐1612)</ref>は、トレントのシモン少年儀式殺人事件や、聖餅冒涜裁判の原告にもなった<ref name="po-1-306-339"/>。イエズス会の神学生はユダヤ人へのポグロムを繰り返し、またポーランドの農民は農民が稼いだ金でユダヤ人は腹を満たすとして、「ユダヤ人、ドイツ人、悪魔」の三人兄弟のうち、悪魔が一番ましという諺もあった<ref name="po-1-306-339"/>。
 
 
 
[[ポーランド・リトアニア共和国]]の支配下にあった[[ウクライナ]]{{refnest|group=*|1569年、ウクライナの北部・中部は[[ポーランド・リトアニア共和国]]領となり、その後コサック国家([[ヘーチマン国家]])が誕生したが、[[ロシア・ポーランド戦争 (1654年-1667年)|ロシア・ポーランド戦争]]の和約[[アンドルソヴォ条約]](1667)と、[[永遠平和条約]](1689)でウクライナは分割された。}}において、[[ギリシア正教]]を奉じるウクライナ農民にとってカトリックの領主とその家令ユダヤ人は憎悪の対象であった<ref name="po-1-306-339"/>。[[1648年]]、ギリシア正教徒[[ボフダン・フメリニツキー]]は「ギリシア人」を名乗り、「ポーランド人とそのお抱えの家令、仲買人たるユダヤ人から受けた屈辱を忘れまい」と叫び、ユダヤ人、ポーランド人の別なく改宗を迫ったり殺害し、イエズス会士も追放された<ref name="po-1-306-339"/><ref name="krokawa"/>。この[[フメリニツキーの乱]](1648年 - 1657年)はやがて[[ロシア・ポーランド戦争 (1654年-1667年)|ロシアとポーランドの戦争]](1654年-1667年)となり、ロシア軍もユダヤ人を殺害した<ref name="po-1-306-339"/>。この戦乱でユダヤ人は奴隷としてトルコに売られていった<ref name="po-1-306-339"/>。この[[大洪水時代]]によって、ポーランドは荒廃し、ポーランドのユダヤ人も致命的な打撃を受けて、17世紀後半にはポーランドのユダヤ人は銀行家の地位を追われ、[[1765年]]、ポーランド政府は、従来の集団単位の課税から人頭税に切り替え、ユダヤ人の組織「四邦議会」を廃止した<ref name="po-1-306-339"/>。多くのユダヤ人が国外のハンガリーやルーマニアへ逃亡し、またポーランドのユダヤ難民を救済するための募金活動が各地のユダヤ社会で行われた<ref name="po-1-306-339"/>。[[1768年]]、ポーランド領ウクライナでハイダマク(ハイダマキ運動)による[[ポグロム]]が発生した<ref name="krokawa"/>。
 
 
 
[[1648年]]、偽メシアの[[シャブタイ・ツヴィ]]がトルコのスミルナに現れると、ヨーロッパ各地のラビは歓迎して、ユダヤ人は財産を売って、コンスタンティノープルへの船に乗ろうとしたほどであった<ref name="po-1-283-305"/><ref name="po-1-306-339"/>。しかし、[[1666年]]、ツヴィはオスマン帝国において逮捕されイスラム教への改宗を選択した。なお、カバラー学者は1666年をメシア到来の時と解釈していた<ref name="po-1-306-339"/>。
 
 
 
[[ウクライナ]]の[[ガリツィア]]の[[イスラエル・ベン・エリエゼル]](バアル・シェム・トーブ)は、奇跡の治癒と悪魔祓いを行いながら、自然に聖なる花火として偏在する神の存在を説いて、[[ハシディズム]]運動を起こし、ポーランド、東ヨーロッパ各地に広まった<ref name="po-1-306-339"/>。しかし伝統的なユダヤ教ラビはハシディズムを異端として排斥した<ref name="po-1-306-339"/>。
 
 
 
[[ウクライナ・ロシア戦争 (1658年-1659年)]]の時、バシリ・ヴォシュトシロは、不実のユダヤ人が暴行、殺人、略奪を平気で犯し、キリスト教徒の女性を侵している、かくして「余は、キリスト教の聖なる信仰にたいする熱意に駆られ、数名の清廉の士を同士として、ユダヤの呪われた民を根絶やしにする決意を固めた」と宣告した<ref name="po-1-306-339"/>。
 
 
 
[[1772年]]、第一次[[ポーランド分割]]前夜には、ポーランドの暴徒たちが、エカチュリナ大帝の皇帝勅書をふりかざし、全スラヴ的信仰を旗印として、ユダヤ人とポーランド領主に対する組織的な絶滅作戦を展開した<ref name="po-1-306-339"/>。しかし、この皇帝勅書は、ロシア正教のメルヒセデブ神父が作成したとみられる偽の皇帝勅書であり、そこには、ポーランド人とユダヤ人が全スラヴ的信仰に対して軽侮しており、冒涜者たるポーランド人とユダヤ人を根絶やしにすることが目的であると書かれていた<ref name="po-1-306-339"/>。
 
 
 
18世紀には、儀式殺人事件が多発した<ref name="po-1-306-339"/>。リトアニアのラビであった改宗ユダヤ人のミハイル・ネオフィートはユダヤ教では儀式殺人が掟であり、自分はかつてキリスト教徒の子供を殺したと自白したが、このネオフィートの証言記録はポーランドやロシアで反ユダヤ主義の典拠となった<ref name="po-1-306-339"/>。
 
 
 
=== 近世ロシア ===
 
[[タタールのくびき|モンゴルのくびき]]から解放された[[イヴァン3世]](在位1462年 - 1505年)が[[モスクワ大公国]]を四倍に拡大した時代、ユダヤ人はモスクワ大公国に足を踏み入れた<ref name="po-1-340-348">[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.340-348.</ref>。
 
 
 
[[1470年]]頃、スハリヤという男がノヴゴロドでユダヤ教の優位を説教し、キリスト教聖職者もユダヤ教へ改宗したが、布教活動が公然と行われるようになると記録が途絶えた<ref name="po-1-340-348"/>。しかし、スハリヤユダヤ教団は「ユダヤ教まがいのキリスト教徒」<ref>Жидовствующие(ジドヴストヴュユシュニィエ), Zhidovstvuyuschiye,Sect of Skhariya the Jew. </ref>として密かに活動を続け、イエスはモーセと同じ位格であり、父なる神と同格ではないと主張したが、これは4世紀の東ローマ帝国アンキラのマルケロス派(Markellos of Ankyra)、フォティノス派(Photinus)の教えと同じであった<ref name="po-1-340-348"/>。この「ユダヤ教」の教えはロシアで広まったが、全スラブ主義者が勝利して、[[イヴァン4世]](在位1533年 - 1547年)治世下の[[1540年]]、スハリヤユダヤ教団の指導者たちは処刑された<ref name="po-1-340-348"/>。スハリヤユダヤ教団事件以降、[[モスクワ大公国]]では異邦人は特別居住区に住まわせられ、ユダヤ人への隔離政策も行われた<ref name="po-1-340-348"/>。
 
 
 
[[1550年]]、イワン雷帝は、ポーランド王ジグムンド=アウグストからユダヤ人商人のモスクワ入りの許可を求められると、毒薬を持ち込むユダヤ人を入国することはできないと拒否した<ref name="po-1-340-348"/>。
 
 
 
[[1698年]]、ピョートル大帝がアムステルダム市長ウィトセンからユダヤ人商人のモスクワ滞在の許可を求められると、自由思想の持ち主であったピョートル大帝は時期尚早と断った<ref name="po-1-340-348"/>。
 
 
 
ピョートル大帝死後の皇后[[エカチェリーナ2世]]は、ウクライナ、ロシアからのユダヤ人全員を追放し、以後入国も禁止した<ref name="po-1-340-348"/>。[[1743年]]には元老院がユダヤ人商人の市場参加で帝国国庫がいかに潤うかを報告しても、女帝はキリストの敵からの利益は不要であると認めなかった<ref name="po-1-340-348"/>。
 
 
 
[[パーヴェル1世]](在位:1796年 - 1801年)は、ガヴリ−ナ・デルジャーヴィンにポーランドのユダヤ人調査を命じて、デルジャーヴィンは、シナゴーグは迷信と反キリスト教的憎悪の巣以外の何物でもない、ユダヤ人自治機構カハルは危険な国家内国家であり、ユダヤ人は隣人の財産を奪い取ることを目的としていると報告した<ref name="po-4-105-109">[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],pp.105-109.</ref>。
 
 
 
=== オーストリア・ハプスブルク帝国 ===
 
神聖ローマ皇帝[[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]](在位:1711年 - 1740年)のウィーンではユダヤ人の人口増加を防ぐために、[[1726年]]の法で、正式に結婚できるのは長男だけとされた<ref name="po-1-283-305"/>。この結婚制限法は、ボヘミア、モラビア、プロイセン、パラティナ、アルザスでも適用された<ref name="po-1-283-305"/>。この結果、多くのユダヤ人若者がポーランドやハンガリに流出した<ref name="po-1-283-305"/>。
 
 
 
[[印刷術]]の発達によって、18世紀初頭には反ユダヤ的著作は毎年のように夥しい量が出版されるようになった{{refnest|group=*|書誌学者ヨハン・クリストフ・ヴォルフの『ビブリオテカ・ヘブラエア』(1715-1733 全四巻)では反ユダヤ的著作が1000点以上掲載された<ref name="po-1-283-305"/>。}}。
 
 
 
[[ハイデルベルク大学]]の東洋学・ヘブライ学者アイゼンメンガーは[[1700年]]に『暴かれたユダヤ教』を著したが<ref>ヨハン・アンドレアス・アイゼンメンガー(Johann Andreas Eisenmenger,1654 –1704),Entdecktes Judenthum,2巻.</ref>、オーストリア[[宮廷ユダヤ人]]の[[ザームエル・オッペンハイマー]]によって発禁処分となり、アイゼンメンガーは無念のうちに4年後に死んだ<ref name="po-1-283-305"/>。しかし、アイゼンメンガー死後まもなくして、プロイセン王フリードリヒ1世の後ろ盾を得て、遺族が再刊し、以後、ドイツの反ユダヤ主義の枕頭の書となった<ref name="po-1-283-305"/>。
 
 
 
[[オーストリア継承戦争]]でユダヤ人がプロイセンのスパイとして活動したということから、[[1744年]]、[[オーストリア大公]][[マリア・テレジア]]がボヘミアでユダヤ追放令を出した<ref name="po-1-283-305"/>。しかし、ヴォルフ・ヴェルトハイマーがユダヤ人の国際連帯活動を行い、フランクフルト、アムステルダム、ロンドン、ヴェネツィアのユダヤ人居住地は警戒態勢を敷き、ローマのゲットーには教皇に働きかけるよう指示があり、宮廷ユダヤ人の国際ネットワークの力によって、イギリスとオランダがマリアテレジアへ抗議して、マリアテレジアは追放令を解除した<ref name="po-1-283-305"/>。このウィーンでのユダヤ追放令が国家による大規模な追放政策としては最後のものとなった<ref name="po-1-283-305"/>。
 
 
 
== 近代の反ユダヤ主義 ==
 
=== 啓蒙思想と反ユダヤ主義 ===
 
[[File:Voltaire.jpg| 200px|サムネイル|right|[[啓蒙思想|啓蒙思想家]][[ヴォルテール]]は反ユダヤ主義者でもあった<ref name="sim111"/><ref>[[#ポリアコフ III]],pp.124-142.</ref>]]
 
[[ヴォルテール]]、カント、フィヒテなど[[啓蒙思想|啓蒙思想家]]のなかでも反ユダヤ主義は多くみられた<ref name="sim111">[[#下村 1972|下村 1972]], p.111-112.</ref>。また、それはドイツの啓蒙思想、[[ドイツ観念論]]でも同様であった。
 
 
 
==== フランス啓蒙思想 ====
 
[[1762年]]、[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]は『[[エミール (ルソー)|エミール]]』で、ユダヤ人を「もっとも卑屈な民」と称し、ユダヤの神は怒り、嫉妬、復讐、不公平、憎悪、戦争、闘争、破壊、威嚇の神であり、「はじめにただ一つの国民だけを選んで、そのほかの人類を追放するような神は、人間共通の父ではない」とした<ref>[[#ポリアコフ III]],p.147. 「エミール」中巻、岩波文庫、p.192,210</ref>。
 
 
 
同じ1762年、[[ヴォルテール]]はユダヤ人のイザーク・ピントへの批判に対して「シボレットを発音できなかったからといって4万2千人の人間を殺したり、ミディアン人の女と寝たからといって2万4千人の人間を殺したり、といったことだけはなさらないでください」と「キリスト者ヴォルテール」と署名して答えた<ref name="po131">[[#ポリアコフ III]],pp.131.</ref>{{Refnest|group="*"|[[士師記]]12-4-6で[[ギレアド|ギレアデ族]]が[[エフライム族]]を殺害した一節、[[民数記]]25-6-9を指すが、後者については故意の誤解によるものかと訳者は指摘している<ref>[[#ポリアコフ III]],p.698.</ref>。}}。[[1764年]]の『哲学辞典』では[[ヴォルテール]]は、ユダヤ人は「地上で最も憎むべき民」「もっとも忌まわしい迷信にもっとも悪辣な吝嗇を混ぜ合せた民」等と非難した<ref>[[#ポリアコフ III]],pp.124-128.</ref>。しかし、ヴォルテールは啓蒙主義の進展に寄与したため、当時のユダヤ人側から厳しい評価が寄せられなかった<ref>[[#ポリアコフ III]],p.141-142.</ref>。
 
 
 
[[シャルル・ド・モンテスキュー|モンテスキュー]]はオランダ人の一部の人以上にユダヤ的なユダヤ人はいないと旅行記で述べた<ref name="po78">[[#ポリアコフ III]],p.78-79.</ref>。
 
 
 
無神論者[[ポール=アンリ・ティリ・ドルバック|ドルバック]]はユダヤ人は脆弱でみじめな存在であり、その熱狂的、非社交的な宗教と常軌を逸した法の犠牲者で、迷信的な無分別の結果であるとし、卑しく常軌を逸した迷信は愚鈍なヘブライ人や堕落したアジア人にまかせておけばいいと論じた<ref name="p-A-220-232">[[#ポリアコフ1985]],p.220-232.</ref>。
 
 
 
==== ドイツ啓蒙思想とユダヤ人解放論 ====
 
[[1776年]]、[[自由主義神学|自由主義神学者]]のゼムラーは「無能にして不信心なユダヤ人」は「誠実なるギリシア人やローマ人とは比較の対象にすらならない」として、旧約聖書、とりわけ[[エズラ記|エズラ書]]と[[ネヘミヤ記|ネヘミヤ書]]にはキリスト教的精神が欠如しており、聖書として永遠に必要不可欠なものであるのかと問いかけた<ref>ヨーハン・ザロモ・ゼムラー(Johann Salomo Semler),Abhandlung von freier Untersuchung des Canon(正典自由研究),4 Bde., 1771–1775. ポリアコフの脚注では1776年.Vol.1.p.32,89,102-103を引用。</ref><ref>[[#ポリアコフ III]],p.261.</ref>。
 
 
 
[[1779年]]、フランソワ・エルが[[アルザス]]のユダヤ人を「国家内国家」として非難した<ref name="aritaIsraliet1"/>。「国家内国家」という表現は[[ユグノー]]に対して使われたもので、[[1685年]]には[[ナントの勅令]]が廃止された<ref name="aritaIsraliet1"/>。
 
 
 
[[File:Potsdam - Schloss Sanssouci.jpg|サムネイル|[[サンスーシ宮殿]]([[1747年]])。サンスーシはフランス語で「憂いのない」を意味する。]]
 
[[ファイル:Friedrich_Zweite_Alt.jpg|thumb|180px|「フリードリヒ2世 プロイセン王」アントン・グラフ(Anton Graff)[[1781年]]画。[[アドルフ・ヒトラー]]は強力な軍事力でプロイセンの領土を拡大させていったフリードリヒ2世を理想の人物と仰ぎ、官邸に大王の肖像画を掛けていた<ref name="osw55-75"/>。しかし、フリードリヒ2世の顧問ドームはユダヤ人の解放を主張していた<ref name="osw55-75"/><ref name="aritaIsraliet1"/>。]]
 
 
 
当時の[[プロイセン]]では宮廷ではドイツ語でなくフランス語が使われており、[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]は、[[ロココ|フランス・ロココ様式]]の[[サンスーシ宮殿]]を築き、フランスの思想家ヴォルテールを招いて庇護した<ref name="wtnbSig"/>。フリードリヒ2世は、[[1780年]]に『ドイツ文学について、非難されるべき欠点、その原因と改善策』 をフランス語で著述し、ドイツ文学の惨状の原因として戦争の影響があり、またドイツが政治的な統一国家を作れないこと、さらにドイツ語が多種の異なる方言をもつ未発達な言語であり統一言語がないことなどにあるとした<ref name="wtnbSig"/>{{refnest|group=*|Frédéric le Grand, De la Littérature allemande, des défauts qu'on peut lui reprocher, quelles en sont les causes, et par quels moyens on peut les corriger. プロイセン王国枢密顧問官のクリスティアン・コンラート・ヴィルヘルム・ドーム(1751-1820)がドイツ語に翻訳した。Friedrich der Große, Über die deutsche Litteratur, die Mängel die man ihr vorwerfen kann, die Ursachen derselben und die Mittel sie zu verbessern. Aus dem Französischen übersetzt (Übers. Christian Konrad Wilhelm Dohm) (1780) <ref name="wtnbSig">[[#渡部重美]]</ref>。フリードリヒ2世は、ドイツ文学で評価できるは[[クリスティアン・ゲッレールト|ゲラート]]の寓話<ref>Christian Fürchtegott Gellert(1715-1769)</ref>、エヴァルト・クリスティアン・フォン・クライスト<ref>Ewald Christian von Kleist(1715-1759)</ref>、ザロモン・ゲスナーの『牧歌』<ref>Salomon Geßner(1730-88),Idyllen,1756.</ref>、アイレンホフの『郵便馬車』<ref>Cornelius Hermann von Ayrenhoff(1733-1819),Der Postzug (1769)</ref>ぐらいで、他はシェークスピアや[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の『[[ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン (ゲーテ)|ゲッツ]]』のように芸術の規則を無視したものばかりであるとする<ref name="wtnbSig"/>。}}。クラインは、フリードリヒ大王のプロイセンでは、言論の自由が保障されているが、服従が国家の核心にあったと述べ、またカントは日常の職務では自由を制約されると論じて、ハーマンはこれを批判した<ref name="wtnbSig"/>。
 
 
 
プロイセン王国枢密顧問官クリスティアン・コンラート・ヴィルヘルム・ドーム<ref>Christian Konrad Wilhelm Dohm(1751-1820)</ref>は、エルのユダヤ人非難文書に刺激されて、ユダヤ系哲学者[[モーゼス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]とともにユダヤ人の解放と信教の自由を訴え、[[1781年]]9月に『ユダヤ人の市民的改善について』を発表し、ユダヤ人が特別な許可がなくては結婚もできず、課税は重く、仕事や活動が制限されていることを批判した<ref> Über die bürgerliche Verbesserung der Juden. 1781.</ref><ref name="osw55-75"/><ref name="aritaIsraliet1"/>。ただし、ドームはユダヤ教の棄教を解放の条件とした<ref name="m98-171-7"/>。
 
 
 
ゲッティンゲンのルター派神学者・ヘブライ学者ヨハン・ダーフィト・ミヒャエーリスは、悪徳で不誠実な人間であるユダヤ人は背が低く、兵士としても役立たずで、国家公民になる能力を欠いており、さらにその信仰は誤った宗教であるのに、ドームは職業選択の自由だけでなくユダヤ人が固有の掟に従うことまでを許しているとして、ドームを批判して、ユダヤ人解放を拒否した<ref>「Michaelis,Johann David (1717 – 91) 」, Heiner F. Klemme、Manfred Kuehn 編「The Bloomsbury Dictionary of Eighteenth-Century German Philosophers」, Bloomsbury Publishing,2016, p.536-537.</ref><ref>Jonathan M. Hess,Johann David Michaelis and the Colonial Imaginary: Orientalism and the Emergence of Racial Antisemitism in Eighteenth-Century Germany,Jewish Social Studies 6.2 (2000) 56-101</ref><ref>[[#ポリアコフ III]],p.245-246.</ref><ref name="aritaIsraliet1"/>。ミヒャエーリスは聖書と[[普遍史]]を批判したことでも高名だが、すべての言語が一つの言語、特にヘブライ語であったとは証明されていないとした<ref name="p-A-249-258"/>。
 
 
 
[[1782年]]、オーストリアの神聖ローマ皇帝[[ヨーゼフ2世]]がボヘミアとオーストリアのユダヤ人の市民権を改善する寛容令を公布した<ref name="aritaIsraliet1"/>。
 
 
 
ユダヤ人の工場経営者で哲学者であった[[モーゼス・メンデルスゾーン]]はユダヤ啓蒙運動を展開して、詩篇とモーセ五書をドイツ語に翻訳し、ユダヤ人子弟の教育では従来の律法重視を改めて世俗的な科目や職業訓練を訴えて、ユダヤ人のキリスト教社会への同化を進めた<ref name="aritaIsraliet1">[[#有田 1998上|有田 1998(上)]] </ref>。[[1770年]]にはメンデルスゾーンは街路を歩くと罵声を浴びせかけられるのが日常であったため、外出しないようにしていた<ref>[[#ポリアコフ III]],p.76.</ref>。[[1782年]]、メンデルスゾーンは[[#近世イングランド|マナセ・ベン・イスラエルの『イスラエルの希望』(1652年)]]のドイツ語訳前書きで、国家が宗教への介入をやめるという[[政教分離原則]]を主張しながら、ユダヤ人社会の宗教的権威から独自の裁判権を放棄するよう求めた<ref name="aritaIsraliet1"/>。
 
 
 
=== フランス革命と革命戦争の時代 ===
 
[[1789年]]、[[フランス革命]]が勃発し、[[フランス人権宣言|人権宣言]]が出された。[[フランス革命戦争]](1792年-1802年)とそれに続く[[ナポレオン戦争]](1803年–1815年)で、[[オーストリア帝国]]、[[プロイセン王国]]がフランスに敗れ、[[神聖ローマ帝国]]が崩壊した。
 
 
 
==== フランス革命とユダヤ人問題 ====
 
フランスの[[アルザス]]では、[[1784年]]、地方領主が徴収していたユダヤ人通行税が廃止され、同年7月にはユダヤ人への農地所有が認められた<ref name="aritaIsraliet1"/>。これは外国人のユダヤ教徒の排除が目的であり、ユダヤ人の当地の人口を抑制するための政策であった<ref name="aritaIsraliet1"/>。
 
 
 
[[1787年]]、[[メッス]]の王立学芸協会は「ユダヤ人をフランスでよりいっそう有益かつ幸福にする手段は存在するか」で論文を公募し、アンリ・グレゴワール神父(Henri Grégoire)とザルキント・ウルウィッツのユダヤ人擁護論が表彰された<ref name="aritaIsraliet1"/><ref>Henri Grégoire, [http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k481031.r=Henri+Grégoire.langFR Essai sur la régénération physique, morale et politique des juifs] : ouvrage couronné par la Société royale des sciences et des arts de Metz, le 23 août 1788.</ref><ref>[[#有田 1998|有田 1998]],p.192(31).</ref>。グレゴワール神父は1789年ジャコバン派の三部会議員となり、ユダヤ人解放に尽力し、ウルウィッツは著書『ユダヤ人擁護論』を書いて、ミラボーに注目された<ref name="aritaIsraliet1"/><ref>Zalkind Hourwitz (1751–1812),Apologie des Juifs (1789) . Rita Hermon-Belot, « Zalkind Hourwitz, Apologie des Juifs (1789) », Archives de sciences sociales des religions, 120 | 2002, 63-126.</ref>。
 
 
 
[[image:Honoré-Gabriel Riqueti, marquis de Mirabeau.PNG|thumb|200px|right|[[フイヤン派]]の[[オノーレ・ミラボー|ミラボー伯爵オノレ・ガブリエル・ド・リケッティ]]はフランス革命で、ユダヤ人解放を実現した。]]
 
 
 
[[オノーレ・ミラボー|ミラボー伯爵]]はドームとベルリンの[[サロン]]で親交して影響を受けて、[[フランス革命]]でユダヤ人解放を実現した<ref name="osw55-75"/>。[[1791年]][[1月28日]]、[[フランス革命]]中のフランスでは、イベリアから移住したポルトガル系ユダヤ人と、アヴィニョン教皇領の[[セファルディム|セファラディーム]]の職業と居住地が保障された<ref>[[#有田 1998]],p.193.</ref>。[[1791年]][[9月27日]]に反対者によって国民議会は分裂寸前となったが、ユダヤ人解放令は議決し、[[1791年]]11月に発効した<ref name="osw55-75"/>。しかし、[[フランス革命]]の動乱でユダヤ人が解放されることはなく、ユダヤ人の解放政策が進展したのはナポレオン時代以後のことであった<ref name="po309"/>。
 
 
 
[[ファイル:EdmundBurke1771.jpg|サムネイル|[[エドマンド・バーク]]は『[[フランス革命の省察]]』でフランス革命を批判して、ドイツにも影響を与えた。]]
 
[[ファイル:Retour Varennes 1791.jpg|thumb|250px|[[ヴァレンヌ事件]]。ヴァレンヌからパリへ連れ戻される[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]国王一家。]]
 
[[ファイル:Kucharski's Marie Antoinette.jpg|right|thumb|200px|1791年のパリ脱出時の[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]王妃[[マリー・アントワネット]]。王妃は[[神聖ローマ皇帝]][[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]]と[[マリア・テレジア]]の娘で、[[神聖ローマ皇帝]][[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]の妹だった。1793年に斬首された。]]
 
 
 
フランスの覇権が拡大するなか、ドイツではドイツ至上主義・ゲルマン主義が台頭すると同時に、反フランス主義と反ユダヤ主義が高まっていった。ドイツの教養市民は[[ゲーテ]]を例外として、フランス革命を「理性の革命」として熱狂的に歓迎した<ref name="Deu2-129-140">[[#ドイツ史 2|ドイツ史 2]],p.129-140.</ref>。しかし、フランス革命の[[恐怖政治]]が現出するとやがてドイツの知識人は革命を憎悪するようになり、反革命へと転化した<ref name="Deu2-129-140"/>。詩人クロプシュトックはフランス革命を称えた数年後に「愚民の血の支配」「人類の大逆犯」としてフランスを糾弾した<ref name="Deu2-129-140"/>。同じく革命発生時には称賛したフリードリヒ・ゲンツは[[1790年]]に[[エドマンド・バーク|バーク]]の『[[フランス革命の省察]]』をドイツ語に翻訳した<ref name="Deu2-129-140"/>。プロイセンではヴェルナー宗教令への反対者は「ジャコバン派(革命派)」として糾弾され、シュレージエンでは革命について語っただけで逮捕され。オーストリアでは外国人の入国が制限された<ref name="Deu2-129-140"/>。フランス以外の国が反革命国家となった要因としては、[[シャルル10世 (フランス王)|アルトワ伯]]などのフランスの亡命貴族たちの活躍があった<ref name="Deu2-129-140"/>。[[シャルル10世 (フランス王)|アルトワ伯]]はコーブレンツに亡命宮廷をひらき、[[ラインラント]]を拠点として反革命運動を策動した<ref name="Deu2-129-140"/>。
 
 
 
[[1791年]]6月、[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]と[[マリー・アントワネット]]国王一家がフランスを逃亡しようとしたが、国境付近で逮捕された[[ヴァレンヌ事件]]が起きた。[[啓蒙専制君主|啓蒙君主]]であった[[神聖ローマ皇帝]][[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]は妹のマリー・アントワネットを危惧し、[[プロイセン国王|プロイセン王]][[フリードリヒ・ヴィルヘルム2世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム2世]]と共に[[ピルニッツ宣言]]を行い、フランスに王権復旧を要求した<ref name="Deu2-129-140"/>。[[神聖ローマ帝国]]とプロイセンの反革命宣言はフランスへの挑発となって、[[1792年]]3月1日、フランスの好戦派はオーストリアに宣戦布告し、プロイセンもオーストリアの同盟国として参加して、[[フランス革命戦争|革命戦争]]がはじまった<ref name="Deu2-129-140"/>。フランスの革命勢力は、外国の反革命勢力を倒し、また「自由の十字軍」として好戦的であり、ジロンド党のブリソは「戦争は自由をかためるために必要である」と演説した<ref name="Deu2-129-140"/><ref name="RevoWar">山上正太郎「革命戦争」日本大百科全書(ニッポニカ)</ref>。革命側は短期決戦による勝利を期したが、軍の貴族将校の半数が亡命しており、フランス軍は敗退すると、革命派は国王一家がオーストリア・プロイセン軍と内通しているとみなして宮殿を襲撃して国王一家を幽閉する[[8月10日事件]]が起こった<ref name="RevoWar"/>。また、反革命派1200人が虐殺される[[九月虐殺]]が起こった<ref name="RevoWar"/><ref>柴田 三千雄, 樺山 紘一, 福井憲彦編『世界歴史体系 フランス史2』山川出版社、1996年</ref><ref>「九月虐殺」ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典</ref>。9月、フランス[[国民軍]]は[[ヴァルミーの戦い]]で[[傭兵]]を中心としたプロイセン軍に勝利して、フランスで[[ナショナリズム]]が高揚した<ref name="RevoWar"/>。ヴァルミーの戦いでのフランスの勝利によって、革命戦争が革命対反革命の戦争から、フランスの大陸制覇戦争へと性格を変えていった<ref name="Deu2-129-140"/>。
 
 
 
[[1793年]]1月に[[ルイ16世]]が処刑されると、ドイツ側にイギリス、スペイン、イタリアなどの反革命諸国家が参加し、[[第一次対仏大同盟]]が形成された<ref name="RevoWar"/>。[[フランス]]は[[1793年]][[8月23日]]の[[国家総動員法]]を発令し、[[徴兵制度]]を施行し、史上初の[[国民総動員]]体制をもって[[恐怖政治]]のもとに戦時下の非常処置がとられた<ref name="RevoWar"/>。戦争はフランス軍有利な情勢となり、1794年9月、フランス軍はオランダへ侵攻し、[[ネーデルラント連邦共和国]]は崩壊、1795年1月にはフランスの傀儡国([[姉妹共和国]])として[[バタヴィア共和国]]が宣言された。バタヴィア共和国ではユダヤ人にも公民権を授与した<ref name="po309">[[#ポリアコフ III]],p.309-311.</ref>。[[1795年]]4月、フランスはプロイセンを破り、またプロイセンは[[ポーランド分割]]に関心を向け、[[バーゼルの和約]]でプロイセンはフランス革命政府による[[ラインラント]]併合を承認して、対フランス連合から退いた<ref name="Deu2-129-140"/>。[[1794年]]から[[1795年]]にかけてウィーンでは、「ドイツ・ジャコバン派」が処刑された<ref name="Deu2-129-140"/>。[[ゲオルク・フォルスター]]たちは[[マインツ共和国]]をつくったが、マインツがプロイセンとオーストリアの連合軍に占領され、崩壊した<ref name="Deu2-129-140"/>。
 
 
 
プロイセンの対フランス連合脱落によって、オーストリアは単独でフランスと対峙した<ref name="Deu2-129-140"/>。[[1796年]]以来、[[ナポレオン・ボナパルト]]率いるフランス軍はオーストリア軍を連破し、[[1797年]]10月、[[カンポ・フォルミオ条約]]によって、フランスは[[イオニア諸島]]と[[ネーデルラント]]、ライン川左岸地区を保有し、オーストリアは[[ヴェネツィア共和国]]を領有した<ref>「カンポ・フォルミオ条約」日本大百科全書(ニッポニカ)</ref>。これによって、対仏大同盟は崩れ、各地にフランスの衛星国がつくられた<ref name="RevoWar"/>。
 
 
 
[[カンポ・フォルミオ条約]]後、ゲットーが解体された。ナポレオンはイタリア、ローマ教皇領のユダヤ人の市民権を認めて解放し、ライン地方のユダヤ人も市民権を授与され解放された<ref name="po309"/>。しかし、アムステルダムの[[セファルディ]]はそれ以前の身分制度に満足していたため、市民権を不必要であるとしてユダヤ共同体も分裂状態となった<ref name="po309"/>。こうしてナポレオンとフランスはユダヤ人解放者としての名声を確立した<ref name="po309"/>。しかし、そのナポレオンもユダヤ人の非ユダヤ教化を望んでおり、またユダヤ人に対してはイナゴの大群のような臆病で卑屈な民族であるとして、ユダヤ人の「解放」は、これ以上他人に害悪を広めることができない状態に置いてやりたいだけであると述べ、ユダヤ人とフランス人との婚姻を進めれば、ユダヤ人の血も特殊な性質を失うはずだと、ユダヤ人種の抹消を目標としていた<ref name="po309"/>。また、ナポレオンのユダヤ政策の作成過程では、「ユダヤ人」は好ましくない偏見があるので、公文書から「ユダヤ人」の名称を一掃することが提案されたこともあった<ref name="po78"/>。ドイツ諸邦では行政の場では「モーゼ人(Mosaiste)」が奨励されたが定着しなかった<ref name="po78"/>。
 
 
 
[[1798年]]、ロシア、トルコが参戦し、オーストリアも戦列に復帰して[[第二次対仏大同盟]]が結ばれ、[[1799年]]11月、ナポレオンがクーデターによって政権を握った<ref name="RevoWar"/>。
 
 
 
==== ドイツ観念論と反ユダヤ主義 ====
 
[[File:Immanuel Kant (painted portrait).jpg|サムネイル|170px|哲学者[[イマニュエル・カント]]は、ユダヤ人がキリスト教を公に受け入れれば、ユダヤ教は[[安楽死]]できると述べた<ref name="p-kant">カント全集18巻、岩波書店、p.73-74.</ref><ref name="p-3-kant"/>。]]
 
[[ファイル:Johann gottlieb fichte.jpg|サムネイル|170px|[[ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ]]はユダヤ人の害から身を守るには、ユダヤ人全員を約束の地に送り込むしかないと論じた<ref name="p-3-kant"/>。またナポレオン占領下のベルリンで『ドイツ国民に告ぐ』([[1807年]]-[[1808年]])を講演して反響を呼び、ドイツ国民運動の祖となった。]]
 
[[ファイル:Hegel portrait by Schlesinger 1831.jpg|サムネイル|170px|[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル]]は自己内へ押し込められ無限の苦痛にあるユダヤ民族に対して、ゲルマン民族は客観的真理と自由を宥和させると論じた<ref name="p-3-kant"/>。]]
 
 
 
[[ドイツ観念論]]の哲学者[[イマヌエル・カント]]は、[[モーゼス・メンデルスゾーン]]などユダヤ人哲学者と交流していたが著作では反ユダヤ主義的な見解を繰り返し述べており、『単なる理性の限界内での宗教』([[1793年]]) で、「ユダヤ教は全人類をその共同体から締め出し、自分たちだけがイェホヴァ−に選ばれた民だとして、他のすべての民を敵視したし、その見返りに他のいかなる民からも敵視されたのである」<ref name="p-3-kant">[[#ポリアコフ III|ポリアコフ3巻]],p.248-260.</ref><ref>カント全集10巻、岩波書店、p168-169.</ref>と述べ、また晩年の『実用的見地における人間学』(1798年)でも、「パレスティナ人(ユダヤ人)は、追放以来身につけた高利貸し精神のせいで、彼らのほとんど大部分がそうなのだが、欺瞞的だという、根拠がなくもない世評を被ってきた」と書き<ref name="p-3-kant"/><ref>カント全集15、p138-139.</ref>、『諸学部の争い』ではユダヤ人がキリスト教を公に受け入れればユダヤ教とキリスト教の区別が消滅し、ユダヤ教は[[安楽死]]できると述べている<ref name="p-kant"/>。カントは、啓蒙思想によるユダヤ人解放を唱えながら、儀礼に拘束されたモーセ教(ユダヤ教)を拒否した<ref>[[#上山安敏2005]],p.80-84.</ref>。他方の[[モーゼス・メンデルスゾーン]]はラファータ−論争でキリスト教への改宗を断じて拒否した<ref>[[#上山安敏2005]],p.93.</ref>。また、カントは、フランス革命を賛美しつつも、教会や圧政などの「外界からの自由」というフランス革命の自由観を批判して、自律的な自己決定という概念によって、外界の影響に左右されない「完全な自由」観を生み出した<ref name="kedri">[[#ケドゥーリー]],[[#原百年]]</ref>。カントは、人間は外なる世界ではなく、自己の内なる世界、自律的な精神の中の道徳律に従うときに自由であると論じたが、このようなカントの哲学が政治に適用されると、自律性と自己決定をもって道徳に従う政治がよい政治とされ、自決権の獲得が政治目標となる<ref name="kedri"/>。こうしたカントの思想はフィヒテによって継承された。
 
 
 
当初、フランス革命の熱心な支持者であったドイツの哲学者[[ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ|フィヒテ]]は「フランス革命についての大衆の判断を正すための寄与」([[1793年]])<ref>Beiträge zur Berichtigung der Urteile des Publikums über die Französische Revolution. フィヒテ全集2、1997年. [[#ドイツ史 2|ドイツ史 2]]では「フランス革命に対する公衆の判断を正すための寄与」と訳。</ref>で革命を理論的に根拠づけるとともに、ユダヤ人がドイツにもたらす害について述べた<ref name="p-3-kant"/><ref name="Deu2-174">[[#ドイツ史 2|ドイツ史 2]],p.174.</ref>。フィヒテは「ユダヤ人から身を守るには、彼等のために約束の地を手に入れてやり、全員をそこに送り込むしかない」<ref>フィヒテ全集2、1997年、p.198.</ref>「ユダヤ人がこんなに恐ろしいのは、一つの孤立し固く結束した国家を形作っているからではなくて、この国家が人類全体への憎しみを担って作られているからだ」とし、ユダヤ人に市民権を与えるにしても彼らの頭を切り取り、ユダヤ的観念の入ってない別の頭を付け替えることを唯一絶対の条件とした<ref name="p-3-kant"/>。フィヒテは、世界は有機的な全体であり、その部分はその他の全ての存在がなければ存在できないとされ、個人の自由は全体の中の部分であり、個人より高いレベルの存在である[[国家]]は個人に優先すると論じて、個人は国家と一体になっ たときに初めてその自由を実現すると、主張した<ref name="kedri"/>。このようなフィヒテの国家観はシェリング、ミューラー、シライエルマッハーによって支持され<ref name="kedri"/>、他方20世紀初期の[[シオニスト]]もフィヒテを国民としての強い自覚によって道徳性を高める思想の先駆者とみなし、反シオニストのユダヤ系哲学者[[ヘルマン・コーエン]]もフィヒテは国民が全体の自由に奉仕するという旧約聖書の理想を認めたと称賛した<ref name="ms-96-73-93"/>。
 
 
 
フィヒテと同じく当時はまだフランス革命の熱心な支持者であった[[フリードリヒ・シュレーゲル]]は「共和主義の概念にかんする試論」([[1793年]])で民主的な「世界共和国」を論じて、革命的民主主義に疑念を呈したカントの『[[永遠平和のために]]』([[1795年]])を乗り越えようとしたが、シュレーゲルもナポレオン時代にはドイツ国民意識を鼓舞する役割を果たした<ref name="Deu2-174"/>。
 
 
 
[[1799年]]、[[自由主義神学|自由主義神学者]][[ヨーハン・ザロモ・ゼムラー|ゼムラー]]の弟子[[フリードリヒ・シュライアマハー|シュライアマハー]]は宗教論第5講話で、ユダヤ教は聖典が簡潔し、エホバとその民との対話が終わったときに死んだと述べた<ref>[[#シュライエルマッハー]],p.225-228.</ref><ref>[[#ポリアコフ III]],p.262.</ref>。また1804年、国家は道徳的権威であり祖国は生きることに最高の意味を与えてくれると論じた<ref name="ms-96-16-32"/>。
 
 
 
[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]はユダヤ人解放を支持した<ref name="p-A-319-339"/>。しかし、『宗教哲学講義』でユダヤ人の奴隷的意識と排他性について論じ<ref>ヘーゲル全集16巻、岩波書店、p.321-322.</ref>、『[[精神現象学]]』([[1807年]])でユダヤ人は「見さげられつくした民族であり、またそういう民族であった」<ref>ヘーゲル全集4巻、岩波書店、p.343.</ref>、[[1821年]]の『[[法の哲学]]』ではイスラエル民族は自己内へ押し込められ無限の苦痛にあるのに対して、ゲルマン民族は客観的真理と自由を宥和させるとした<ref>『法の哲学』第358章、[[高峯一愚]]訳、創元社、1961年、下巻、p.256.</ref><ref name="p-3-kant"/>。『キリスト教の精神とその運命』ではユダヤ人は「自分の神々によって遂には見捨てられ、自分の信仰において粉々に砕かれなければならなかった」「無限な精神は牢獄に等しいユダヤ人の心の中には住めない」と批判した<ref>ヘルマン・ノール編「ヘーゲル初期神学論集Ⅱ」 [[久野昭]]、[[中埜肇]]訳、以文社 (1974)、p.121-138,214-215</ref><ref name="p-3-kant"/>。さらにヘーゲルは、ニグロはあらゆる野蛮性を持った自然人であり、その性格の中に人間を思い起こさせるものは何もないとした<ref name="p-A-319-339"/>。ヘーゲルによれば、世界史はアジアに始まり、ヨーロッパに終わるが、アフリカは世界史の外にとどまる。東洋ではひとりだけが自由であり、ギリシア・ローマ世界は幾人かが自由であるのに対して、ゲルマン世界ではすべての者が自由であるとした<ref name="p-A-319-339"/>。ゲルマン民族は純粋な内在性を持ったため精神が解放された。しかし、ラテン民族は分裂を保持していたため魂という精神の全体性がないため、自己の最も深いところで自己にとって外的存在なのであるとした<ref name="p-A-319-339"/>。またヘーゲルは若い頃の未刊論文で「キリスト教はヴァルハラをさびれさせてしまい、神聖は小森を伐採し、民衆の空想を恥ずべき迷信、悪魔的な毒として窒息させた」と書いた<ref name="p-A-319-339"/>。
 
 
 
哲学者[[フリードリヒ・シェリング|シェリング]]は白人種は最も高貴な人種であり、「ヤペテの、プロメテウスの、コーカサスの人種の祖先のみが、その行為によって観念(イデー)の世界の中に入り込むことできる唯一の人間である」とし、他の人種は奴隷になるか絶滅する運命にあると論じた<ref name="p-A-319-339">[[#ポリアコフ1985]],p.319-339.</ref>。また、ユダヤ人は民族をなさず、純粋な人類の代表であり、他の者よりも観念の世界に近づくことができるとした<ref name="p-A-319-339"/>。
 
 
 
哲学者[[アルトゥル・ショーペンハウアー|ショーペンハウアー]]は白人種と新約聖書の起源は[[インド]]であるとし、「インドの知恵から出たキリスト教の教義は、粗雑なユダヤ教というまったく異質な古い幹をおおった」「人類は、アダムにおいて誤りを犯し、その時以来罪、堕落、苦悩、死の絆の中に捕らえられていたが、救世主によって罪をあがなわれた。これがキリスト教や仏教の見方である。世界はもはや『すべては良い』としていたユダヤの楽観主義の光の中に現れることはない」と述べた<ref name="p-A-319-339"/><ref>ショーペンハウアー『余録と補遺』2巻15章「宗教について」、ショーペンハウアー全集13巻、白水社、1973年、p.208-209.</ref><ref name="po-4-15-29"/>{{refnest|group=*|みずからの[[被造物]]をよしとする[[造物主]]という発想をショーペンハウアーは受け入れなかった<ref name="po-4-15-29"/>}}。ショーペンハウアーにとって、シナゴーグも哲学の講堂も本質的に大差はないが、ユダヤ人はヘーゲル派よりも質が悪いと考えていた<ref>ショーペンハウアー全集13巻、白水社、1973年、p.200.</ref><ref name="po-4-15-29"/>。ショーペンハウアーは「ユダヤ人は彼らの神の選ばれた民であり、神はその民の神である。そしてそれは、別にほかのだれにも関係のないことである」と述べている<ref>ショーペンハウアー「哲学史のための断章」ショーペンハウアー全集10巻、白水社、p.188.</ref><ref name="po-4-15-29"/>。またショーペンハウアーは、西欧はユダヤの悪臭によって窒息させられており、ユダヤ思想の影響を呪い、「いつかヨーロッパがあらゆるユダヤ神話から純化される。おそらくアジア起源のヤペテ系の人びとが彼らの生地の聖なる宗教を再び見出す世紀が近づいている」と述べた<ref name="p-A-319-339"/>。ショーペンハウアーはアーリア主義とセム主義の二元的な対照をドイツで普及させた<ref name="p-A-319-339"/>。
 
 
 
==== ナポレオン戦争と神聖ローマ帝国の崩壊 ====
 
[[ファイル:Bataille de Hohenlinden.jpg|left|170px|サムネイル|1800年12月3日[[ホーエンリンデンの戦い]]。ナポレオン軍がハプスブルク帝国オーストリア軍に勝利し、この後、[[神聖ローマ帝国]]は崩壊していく。]]
 
[[ファイル:Rhineland.jpg|thumb|170px|left|[[神聖ローマ帝国]]が喪失した[[ラインラント]]。[[1815年]]の[[ウィーン議定書]]でプロイセンに割譲される。]]
 
{{Main|ナポレオン戦争}}
 
[[1800年]]、ナポレオンが[[マレンゴの戦い]]や[[ホーエンリンデンの戦い]]でオーストリア軍を撃破し、[[1801年]]の[[リュネヴィルの和約]]で[[神聖ローマ帝国]]はライン川西岸の[[ラインラント]]を喪失した<ref name="Deu2-129-140"/>{{refnest|group=*|リュネヴィルの和約によって、ドイツ世俗諸侯による聖界領の接収という[[世俗化]]の原則と、諸侯が領邦国家としての自立性と皇帝直属の臣下の身分を剥奪されて、他国の支配下に入る[[陪臣化]]の原則が打ち立てられた<ref name="Deu2-129-140"/>}}。講和後に作家[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]はドイツ帝国とドイツ国民は別であり、「ドイツ帝国が滅びようと、ドイツの尊厳がおかされることはない」と述べた<ref name="Deu2-213-219">[[#ドイツ史 2|ドイツ史 2]],p.213-219.</ref>。
 
 
 
[[1803年]][[2月25日]]の[[帝国代表者会議主要決議]]により、帝国騎士領は全て取り潰され、聖界諸侯ではマインツ選帝侯のみレーゲンスブルクに所領を得たが、ケルン、トリーアの聖界諸侯は消滅した<ref name="Deu2-129-140"/>。[[アウクスブルク]]、[[ニュルンベルク]]、[[フランクフルト・アム・マイン]]、[[ブレーメン]]、[[ハンブルク]]および[[リューベック]]の6都市と、ライン左岸4都市をのぞく41の[[帝国自由都市]]が[[陪臣化]]された<ref name="Deu2-129-140"/>。ナポレオンは西南ドイツを自立させて、プロイセンとオーストリアに対する政策をとった<ref name="Deu2-129-140"/>。バーデン、ヴュルテンベルク、バイエルンなど西南ドイツ諸国は、失ったライン左岸の補償として領地を拡大することとなった<ref name="Deu2-129-140"/>。
 
 
 
[[1803年]]、イギリスとフランスは再び開戦し、[[ナポレオン戦争]](1803年–1815年)がはじまる。イギリスは、[[オーストリア帝国]]、ロシアなどと[[第三次対仏大同盟]]を結成した。
 
 
 
[[1804年]]、ナポレオンが[[フランス第一帝政|フランス皇帝]]を称したのに対してフランツ2世は[[オーストリア皇帝]]を称した([[オーストリア帝国]])<ref name="Deu2-129-140"/>。この1804年、[[オーストリア帝国]]外相[[クレメンス・フォン・メッテルニヒ|メッテルニヒ]]の秘書官を務めたフリードリヒ・フォン・ゲンツ(Friedrich von Gentz,1764-1832)は、ユダヤ人サロンの常連であったが、「近代世界のすべての害悪が最終的にすべてユダヤ人に起因している」と書簡で本音を述べた<ref>[[#ポリアコフ III]],p.395.</ref>。ゲンツは、フランス革命が起きた時には、「理性の革命」であり、「哲学の最初の勝利」として熱狂的に歓迎したが、やがて反革命の騎手となっていた<ref name="Deu2-129-140"/>。
 
 
 
[[1805年]]からの[[第三次対仏大同盟|第三次対仏大同盟戦争]]で、フランス軍は[[1805年]]10月の[[ウルム戦役]]でオーストリアを降伏させ、12月[[アウステルリッツの戦い]](三帝会戦)でオーストリア・ロシア連合軍に勝利した<ref name="Deu2-129-140"/>。[[プレスブルクの和約]]でドイツは「帝国」ではなく「連盟」と呼ばれ、皇帝は「ローマ=ドイツ皇帝」でなく、「「ローマ=オーストリア皇帝」を名乗り、また、フランスの同盟国であった[[バイエルン王国|バイエルン]]と[[ヴュルテンベルク王国|ヴュルテンベルク]]と[[バーデン (領邦)|バーデン]]は選帝侯国から王国・大公国に昇格し、[[バイエルン王国]]にはオーストリア領[[チロル]]、[[バーデン (領邦)|バーデン大公国]]にブライスガウが割譲された<ref name="Deu2-129-140"/>。
 
 
 
[[1806年]][[7月12日]]、[[バイエルン王国|バイエルン]]、[[ヴュルテンベルク王国|ヴュルテンベルク]]、[[バーデン (領邦)|バーデン]]など西南ドイツの16領邦諸国家はナポレオンを保護者とする[[ライン同盟|ライン同盟(ラインブント)]]を結成し、帝国脱退を宣言した<ref name="Deu2-129-140"/>。[[1806年]]10月、フランツ2世はオーストリア皇帝の称号は保持したまま、[[神聖ローマ皇帝]]としての退位を宣言し、こうして1512年以来の「[[神聖ローマ帝国|ドイツ国民の神聖ローマ帝国]]」は終焉を迎えた<ref name="Deu2-129-140"/><ref>「神聖ローマ帝国」日本大百科全書(ニッポニカ)</ref>。この頃のドイツは大半がフランスの支配下にあり、[[マインツ]]、[[ケルン]]、[[トリーア]]などのライン左岸地域は[[1794年]]以来フランス軍政下にあり、[[1801年]]にフランスに割譲された<ref name="Deu2-181-188">[[#ドイツ史 2|ドイツ史 2]],p.181-188.</ref>。ナポレオンは[[ライン同盟]]をプロイセンやオーストリアに対する緩衝地帯として、またフランスはライン同盟と軍事援助協定を結んで、ライン同盟からの軍事協力を確保した<ref name="Deu2-181-188"/>。ライン同盟はその後、ナポレオンの傀儡国家である[[ヴェストファーレン王国]]、[[ザクセン王国]]など39のドイツ連邦が加盟した<ref name="Deu2-181-188"/>{{refnest|group=*|ライン同盟はプロイセンとオーストリアとデンマーク領ホルシュタイン、スウェーデン領ポメルン以外のすべてのドイツ連邦がこれに属した<ref name="Deu2-181-188"/>}}。
 
 
 
=== フランス占領下のドイツとドイツ解放 ===
 
[[1806年]]にプロイセンが、そして[[1807年]]にプロイセンの同盟国ロシアがフランスに敗北した{{refnest|group=*|[[プロイセン]]は[[1805年]]のフランスとの条約で[[ハノーファー]]を獲得していたたが、[[1806年]]になると、ナポレオンはハノーファーをイギリスに返還しようとしたため、プロイセンはイギリス、ロシア、スウェーデン、[[ザクセン王国]]、[[スウェーデン]]と[[第四次対仏大同盟]]を結成し、1806年10月9日にフランスへ宣戦した<ref name="Deu2-181-188"/>。しかし、10月14日の[[イエナ・アウエルシュタットの戦い]]でプロイセン軍は壊滅的な敗北を喫し、ナポレオンはベルリンへ進軍し、[[大陸封鎖令]]を発布する<ref name="Deu2-181-188"/>。プロイセン軍は同盟国ロシアに頼ったが、[[1807年]][[6月14日]][[フリートラントの戦い]]でフランス軍はロシア軍を撃滅し、ロシアはフランスと7月の[[ティルジットの和約]]で講和した<ref name="Deu2-181-188"/>}}。[[ティルジットの和約]]によってプロイセンは、[[エルベ川]]以西の領土とポーランドを失い、国の面積は半分以下となり{{refnest|group=*|プロイセンは、ブランデンブルグ、東西プロイセン、ポメルン、シュレージエンの4州に縮小した<ref name="Deu2-181-188"/>。}}、巨額の賠償金を課せられたうえに、15万のフランス軍が進駐した<ref name="Deu2-181-188"/>。プロイセン旧領の北西諸邦にはナポレオンの弟[[ジェローム・ボナパルト|ジェローム]]を王とする[[ヴェストファーレン王国]]が置かれた<ref name="Deu2-181-188"/>。
 
 
 
[[1807年]]にプロイセンがフランスに敗北するとオーストリアは独力で模索することとなり、[[1808年]]には一般兵役義務制度が導入され、正規軍とならんで民兵制が施行された<ref name="Deu2-181-188"/>{{refnest|group=*|この頃、[[半島戦争]](スペイン独立戦争)でフランスがスペインに苦戦すると、オーストリアは会戦準備を始めた<ref name="Deu2-181-188"/>}}。オーストリア外相シュターディオン伯爵は国内で愛国主義キャンペーンを実施して、バークの『フランス革命についての省察』を翻訳していた政論家ゲンツや、[[フリードリヒ・シュレーゲル]]もこのキャンペーンに協力した<ref name="Deu2-181-188"/>。しかし[[1809年]]、オーストリアはフランスに敗れ、[[シェーンブルンの和約]]でオーストリアはザルツブルク、ガリツィア、チロルを放棄し、巨額の賠償金を課せられた<ref name="Deu2-181-188"/>{{refnest|group=*|1809年3月、オーストリアは[[半島戦争|スペイン独立戦争]]でのスペイン国民の反フランス戦争のようにドイツ国民が決起するのを期待して、単独でフランスと開戦した<ref name="Deu2-181-188"/>。しかし、期待されたような民衆蜂起はチロルを除いて起こらず、7月の[[ヴァグラムの戦い]]でオーストリア軍はフランスに敗れ、10月14日の[[シェーンブルンの和約]]を結んだ<ref name="Deu2-181-188"/>}}。
 
 
 
ナポレオン占領地域では、反フランス的報道は厳しく弾圧され、バーデンでは1810 年に新聞発行が停止され、プロイセンでは検閲局が作られ、ラインラント新聞はフランス語との2言語表記が義務づけられた<ref name="Dann"/>。ニュルンベルクの書店主パルムは『奈落の底にあるドイツ』 というビラを配ったために1806年に銃殺された<ref>Johann Philipp Palm ,“Deutschland in seiner tiefsten Erniedrigung” </ref><ref name="Dann"/>。ナポレオンにライン左岸を奪われ、神聖ローマ帝国が解体し、40のドイツ[[領邦]]が支配され、新聞や出版の統制が進むと、ドイツ人は自分たちの弱さを自覚し、失望が広がるとともに、反ナポレオン運動はドイツ国家とドイツ民族を復古させるドイツ[[国民]]運動となっていった<ref name="Dann"/>。
 
 
 
他方、戦勝国のフランスでは、[[1807年]]にユダヤ陰謀説が取沙汰されるようになり、その後、[[フリーメイソン#通説|フリーメイソン陰謀説]]と交代して取沙汰されていき、これが19世紀以降の反ユダヤ主義の潮流と合流していった<ref name="po-4-49-59"/>。
 
 
 
プロイセンでは1810年から宰相[[カール・アウグスト・フォン・ハルデンベルク|ハルデンベルク]]指導のもと、改革が進められた<ref name="Deu2-198-212">[[#ドイツ史 2|ドイツ史 2]],p.198-212.</ref>。ハルデンベルクは「リガ覚書」で「不死鳥よ、灰の中からよみがえれ」と書き、君主政治における民主的原則の実現が目指された<ref name="Deu2-198-212"/>。プロイセン改革では、フランス革命の刺激を積極的に受け止められ、自由と平等が主張されたが、「フランス革命の血まみれの怪物どもがその犯罪の隠れみのした『自由と平等』」ではなく、君主国の賢明な方法によると説かれた<ref name="Deu2-198-212"/>。
 
 
 
==== ユダヤ教徒解放令 ====
 
[[File:Mendelssohn, Lessing, Lavater.jpg|オッペンハイム作『[[モーゼス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]、[[ゴットホルト・エフライム・レッシング|レッシング]]、[[ヨハン・カスパー・ラヴァーター|ラヴァーター]]』|サムネイル|140px|left]]
 
[[1812年]] - [[プロイセン王国]]が[[ユダヤ教徒解放勅令]]を出す<ref name=uem>[[#植村邦彦1999]]</ref>。前年の1811年にハルデンベルクの改革でユダヤ人の土地所有権が認められると、プロイセン王国の貴族は、国家の敵であるユダヤ人はやがて国の土地を買い占め、プロイセンをユダヤ人国家にしてしまうと抗議した<ref>[[#ポリアコフ III]],p.388.</ref>。[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]はユダヤ人解放はドイツ人の家庭の倫理を台無しにすると批判し、ユダヤ人解放の背後に[[ロスチャイルド家]]を見ていた<ref>[[#ポリアコフ III]],p.383.</ref>。法学者[[フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニー|サヴィニー]]も[[1815年]]にユダヤ人解放令を批判して、従来のユダヤ人例外措置を復活して、ユダヤ人をゲットーに再送するべきだと主張した<ref name="po-519-526"/>。
 
 
 
一方、ドイツのユダヤ人は、理性を使えば誰でも人間性を高めることができるとする啓蒙思想と、ドイツ社会に融和しようとドイツの[[ビルドゥング]]([[教養]]、形成)を新しい信仰心として受けいれた<ref name="ms-96-16-32">[[#モッセ1996]],p.16-32.</ref>。しかし、ユダヤ人はドイツの神話や感情の世界を退けがちであったためユダヤ人はドイツの民衆から孤立していった<ref name="ms-96-16-32"/>。またドイツでのユダヤ人解放は、ユダヤ人のドイツ人への同化とキリスト教への改宗を前提にしており、[[1822年]]に創立された「ユダヤ人・キリスト教普及協会」が改宗を後押しした<ref name="uey-302-318"/>。
 
 
 
==== ドイツロマン派とゲルマン主義 ====
 
[[ファイル:Ernst Moritz Arndt.gif |thumb|200px|right|エルンスト・アルントは自由で誠実なゲルマン人の血は純粋であると論じた。]]
 
[[ファイル:Friedrich Ludwig Jahn.jpg | thumb|200px|right|教育者でドイツ国民運動家のフリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーン(Friedrich Ludwig Jahn)は原始ゲルマン人の末裔であるドイツ人と古代ギリシア人だけが聖なる民であると論じた。1817年のヴァルトブルク祭の立役者となった。]]
 
 
 
[[ロマン主義|ドイツ・ロマン主義]]では[[啓蒙思想|フランスの啓蒙主義]]に対抗して、ドイツ固有の国民文学の創造が主張された<ref>「ロマン主義」世界大百科事典 </ref>。1799年の『キリスト教世界あるいはヨーロッパ』でフランス革命は神聖なるものを根こそぎにしたと考えた[[ノヴァーリス]]<ref>[[#八田1964]],p.87.</ref>、[[ヘルダーリン]]にも「選民としてのドイツ人」という概念が見られた<ref name="po-505-509"/>。
 
 
 
[[フィヒテ]]の思想的影響を受けた作家[[エルンスト・アルント|エルンスト・モーリツ・アルント]]は[[農奴制]]廃絶運動を行った後、[[1806年]]の著書『時代の精神』や[[1813年]]の歌「ドイツの祖国とは何か」などで、[[ナポレオン]]のドイツ支配を批判した。アルントはナポレオン批判のなかで、ゲルマン人種が[[選民]]であると論じ、自由で誠実なゲルマン人の血の純粋さの根拠として、[[タキトゥス]]や[[創世記]]を引き合いに出して、主の怒りである[[大洪水]]は雑種化に対するものであったとする<ref name="po-505-509">[[#ポリアコフ III]],p.505-509.</ref>。ただし、アルントはドイツ人種への脅威としては主に「フランス人種」を見ており、ユダヤ人に対しては、ユダヤ系ポーランド人のドイツ受け入れには反対したものの、ユダヤ人は改宗すれば消滅すると考えていた<ref name="po-505-509"/>。アルントの「ゲルマン人の血」の思想は、[[ハインリヒ・フォン・クライスト]]、ケルナー、愛国詩人のマックス・フォン・シェンケンドルフ(Max von Schenkendorf)と並んでドイツ国民に武器を取るよう促したが、他方のフランスでも革命後の[[国歌]]「[[ラ・マルセイエーズ]]」の歌詞では「汚れた血」についてあるなど、民族の血を優劣でみることに両国で違いはなかった<ref name="po-505-509"/>。[[ナポレオン戦争]]での敗北がドイツ人にとって屈辱的であったことから、ゲルマン性への狂信が教科書でも載せられるようになっていった<ref name="po-505-509"/>。教育家コールラウシュ<ref>Heinrich Friedrich Theodor Kohlrausch 1780-1867</ref>の教科書「ドイツ史」(1816年)ではドイツ人の純潔性が、ユダヤ人、ギリシア人、ラテン人とは好対照をなすとされた<ref name="po-505-509"/>。
 
 
 
政治経済学者のアダム・ミュラーは[[エドマンド・バーク]]を[[タキトゥス]]と並べて賞賛し、また[[ノヴァーリス]]はゲルマン詩の精神によって世界を征服しようとしたと称賛して、宗教改革とフランス革命によって崩壊していく中世的ゲルマン的な世界と中世の普遍的な団体「ゲマインデ」を賛美した<ref name="takahara-adam"/>。ミュラーは「いつの日か、ヨーロッパ諸民族からなる一大連邦が築かれるであろうが、その色調はなおドイツ的なものとなるであろう」と予言して、ヨーロッパの政体の偉大なものはすべてドイツに由来すると主張した<ref name="po-505-509"/>。アダム・ミュラーはナポレオン支配に対してドイツ民衆の抵抗運動(ヘルマンの戦い)を呼びかけ、また[[カール・アウグスト・フォン・ハルデンベルク|ハルデンベルク]]の改革を批判した<ref name="takahara-adam">[[#竹原1975]],p.10.</ref>。ミュラーは[[1811年]]にウィーンに亡命して、メッテルニヒに仕えた。
 
 
 
[[1806年]]から[[1815年]]にかけて、作家の[[クレメンス・ブレンターノ|ブレンターノ]]、[[アヒム・フォン・アルニム|アルニム]]、『ドイツ民衆本』を刊行したヨハン・フォン・ゲレス、[[グリム兄弟]]たちが寄り集まった[[ハイデルベルク]]でドイツ民族主義の「ドイツの火」が点火された<ref name="Deu2-213-219"/>。アルニムとブレンターノはドイツの民謡をあつめて『少年の魔法の角笛』(1806-8)を出版した<ref name="ItoWag"/>。ゲレスは『ドイツの没落とその再生の条件』([[1810年]])で、かつての[[イスラエル王国|ユダヤ王国]]のようにドイツは現在の聖なる土地であるとした<ref>Johann Joseph von Görres ,Über den Fall Teutschlands und die Bedingungen seiner Wiedergeburt (1810).</ref><ref name="po-505-509"/>。[[グリム兄弟]]は民話を蒐集し、『子供と家庭のための童話』(1812-1822)、『ドイツの伝説』(1816 -18)を出版し、『ドイツ語辞典』(1852)ではユダヤ人を「利得ずくで、暴利を貪り、不潔である」と解説した<ref name="po-1-283-305"/>。<ref name="ItoWag"/>。[[ヤーコプ・グリム]]は[[1835年]]に『ドイツ神話学』を刊行し、ワーグナーにも影響を与え<ref>Jacob Grimm,Deutsche Mythologie, 1835.</ref>、また[[1848年革命]]でのドイツ憲法動議では、ドイツ憲法はドイツフォルクの信条でなくてはならないと述べた<ref name="nagataJGrimm">[[#永田善久]]</ref>。
 
 
 
[[1807年]]12月から翌1808年にかけてフランス軍占領下のベルリン学士院講堂において、哲学者[[フィヒテ]]は『ドイツ国民に告ぐ』を連続講演し、フランス文化に対するドイツ国民文化の優秀さを説き、また、ドイツ国民の統一、ドイツ人の内的自由、商業上の独立を主張し、ドイツ国民精神を発揚しドイツ解放戦争を準備する力となった<ref name="Deu2-213-219"/>。フィヒテはすでに、個人は、個人より高い存在である国家と一体化することによって自由を実現すると論じていたが、『ドイツ国民に告ぐ』では、民族・国民(ネーション)に個人が没入することによって自由を達成すると論じられ、唯一正統な統治形態は国民による自治であると主張した<ref name="kedri"/>。ドイツでは[[出版の自由]]が著しく制限されていたが、フィヒテの講演や、シュライエルマッハーの説教は、[[口コミ]]で反響が広がり、文書よりも口頭でのコミュニケーションが重要な役割を演じていた<ref name="Dann"/>。
 
 
 
[[1808年]]、ベルリンで[[ハインリヒ・フォン・クライスト|クライスト]]が『ヘルマンの戦い』を書き、ナポレオンへの憎悪とドイツ民族の蜂起を託し、ドイツの解放戦争が期待された<ref name="Deu2-213-219"/>。
 
 
 
進歩主義的な教育者フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンはアルント、フィヒテ、シュライアーマッハーとならんでドイツ国民運動の有名な組織者であった<ref name="kamazaki2"/>。ヤーンは1810年に[[秘密結社]]ドイツ同盟(Deutscher Bund)を結成しドイツ全域にわたる愛国組織の模範となり、またトゥルネンというドイツ国民体育を始めた<ref name="kamazaki2">[[#釜崎太2011]],p. 107-121.ヤーンとトゥルネン運動に関する研究書には、小原淳『フォルクと帝国創設 19世紀ドイツにおけるトゥルネン運動の史的考察』彩流社、2011年8月もある。</ref>。ヤーンは、1810年に著わした『ドイツの国民性』で、ドイツの国民性に基づいた全人教育をめざして体育を提唱するなかで、「混血の民は国民再生産の力を失う」として、フランスの影響力を排除する国民革命を目指して、ドイツ語からの外国起源の人名の抹消、民族衣装の着用などの民族浄化を訴え、原始ゲルマン人の末裔であるドイツ人と古代ギリシア人だけが聖なる民であると論じた<ref>Friedrich Ludwig Jahn, [http://www.mdz-nbn-resolving.de/urn/resolver.pl?urn=urn:nbn:de:bvb:12-bsb10016165-7 ''Deutsches Volksthum''],1810. Digitalisat der Bayerischen Staatsbibliothek</ref><ref name="po-509-518">[[#ポリアコフ III]],p.509-518.</ref><ref>[[#森田信博]]</ref><ref name="kamazaki1">[[#釜崎太2007]],p.56.</ref>。ヤーンに先立って教育学者[[ヨハン・クリストフ・グーツ・ムーツ]]が[[1793年]]にルソーの影響下に執筆した『青少年のための体育』において原始ゲルマン人の身体を理想的な目標として称賛した<ref name="kamazaki1"/>。ヤーンは「ドイツを救うことができるのはドイツ人のみである。異邦の救い主はドイツ人を破滅に導くことしかできない」とした<ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.201.</ref>。
 
 
 
[[1813年]]、言語学者でプロイセン政府大使であった[[ヴィルヘルム・フォン・フンボルト|フンボルト]]は、「ドイツはひとつの国民、ひとつの民族、ひとつの国家である」と断言し、ドイツは自由で強力でなければならない、「ただ外にむかって強力な国民のみが、すべての内的聖化がそこから流れ出る精神を内に蔵することができる」と宣明した<ref name="Deu2-213-219"/>。
 
 
 
==== ドイツ解放戦争 ====
 
[[File:Battle of Leipzig 11.jpg|サムネイル|left|250px|[[1813年]]の[[ライプツィヒの戦い]](諸国民の戦い)でのオーストリア・プロイセン・ロシア連合軍]]
 
{{See|1812年ロシア戦役|解放戦争 (ドイツ)}}
 
 
 
フランスの支配下にあったプロイセンでは反ナポレオン感情が保持され、[[解放戦争 (ドイツ)|ドイツ解放戦争(ナポレオン戦争)]]となった。[[1812年]]、ナポレオンは60万の大陸軍を率いて[[1812年ロシア遠征|ロシア遠征]]を開始した<ref name="Deu2-213-219"/>。ナポレオン軍の3分の1は、ライン同盟諸邦、プロイセン、オーストリアなどのドイツ人であった<ref name="Deu2-213-219"/>。ドイツ軍のなかではナポレオン側に立つことを潔しとせずに寝返る者もおり、『[[戦争論]]』で知られるプロイセン将校[[カール・フォン・クラウゼヴィッツ|クラウゼヴィッツ]]はロシア軍へ身を投じた<ref name="Deu2-213-219"/>。[[1812年]][[12月30日]]、プロイセン将校[[ルートヴィヒ・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク|ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク(ヨルク)]]将軍は、国王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ウィルヘルム3世]]の同意を待たずに専断して、ロシア軍とタウロッゲン協定を結んで部隊を中立化し、ナポレオン軍から離脱した<ref name="Deu2-213-219"/>。
 
 
 
プロイセンとロシアが停戦すると、ヨルク軍が入った[[東プロイセン]]から北ドイツ諸邦でフランスの支配への蜂起に繋がっていき、[[プロイセン王国]]の元首相で[[ロシア帝国]]の皇帝顧問カール・シュタインがロシアを説得して[[1813年]][[2月27日]]にプロイセンとロシアが同盟した<ref name="Deu2-213-219"/>。プロイセンでは一般兵役義務が布告され、国軍と[[義勇軍]]が組織された<ref name="Deu2-213-219"/>。[[3月16日]]に、フランスへ宣戦が布告され、翌日プロイセンでは国王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ウィルヘルム3世]]が「わが国民へ」で祖国解放のための国民の決起が訴えられた<ref name="Deu2-213-219"/>。[[3月25日]]のカーリッシュ宣言では、ライン同盟の解散が宣言され、「ドイツ国民の本源的精神からうまれる、若返った、強力な、統一されたドイツ帝国」の再興が約束された<ref name="Deu2-213-219"/>。ドイツ解放戦争の中心にいたのはシュタインであり、「祖国はただひとつドイツ」とするシュタインはライン同盟諸君主を軽蔑し憎悪し、ライン同盟諸国家の主権剥奪を計画した<ref name="Deu2-213-219"/>。愛国記者アルントはシュタインとともにして、フランスの殲滅を鼓吹し、戦死した詩人ケルナーはドイツの聖戦を歌った<ref name="Deu2-213-219"/>。そして、学生、手工業者、農民の若者たちが、身銭を切って武装し、志願兵団や義勇兵団に身を投じ、反ナポレオン感情がこれまでになく高まった<ref name="Deu2-213-219"/>。[[解放戦争 (ドイツ)|ドイツ解放戦争]]で教育者フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンは1813年、[[ルートヴィヒ・アドルフ・フォン・リュッツォウ|リュッツォウ]]少佐と抗仏組織[[リュッツォウ義勇部隊 (解放戦争)|リュツォー義勇団]]を創設し、[[体操]]など[[体育]]教育を普及させ、「体操の父」としてドイツの国民的英雄となった<ref name="po-509-518"/>。ヤーンの傘下には学生結社[[ブルシェンシャフト]]もあった<ref name="po-509-518"/>。ただし、リュツォー義勇団にはユダヤ人の参加者もおり、ユダヤ人を排斥していたわけではない<ref name="po-509-518"/>。
 
 
 
[[1813年]]6月にイギリスが、7月に[[スウェーデン]]の[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|ベルナドット]]がプロイセンとロシアの同盟に参加し、8月11日、オーストリアもフランスへ宣戦して、[[第六次対仏大同盟]]が成立した<ref name="Deu2-213-219"/>。10月の最大規模の戦闘[[ライプツィヒの戦い]](諸国民の戦い)で、36万の対仏連合軍は[[アウグスト・フォン・グナイゼナウ|グナイゼナウ]]の指揮下、19万のフランス軍を破った<ref name="Deu2-213-219"/>。メッテルニヒはライン川で講和しようとしたが、アルントはライン川はドイツの川で、国境ではないと論じ、ゲレスも反ナポレオンの論陣を張った<ref name="Deu2-213-219"/>。[[1814年]]にメットラーカンプと共同して[[ハンブルク市民軍]]を創設したフリードリヒ・クリストフ・ペルテス(Friedrich Christoph Perthes) はゲレスへの手紙で「ドイツ人は選ばれた民、人類を代表する民である」と述べた<ref name="po-505-509"/>。対仏連合軍は[[1814年]][[3月30日]]に[[パリ]]へ入城し、ナポレオンはエルバ島に流され、こうしてナポレオンのドイツ支配は打倒された<ref name="Deu2-213-219"/>。
 
 
 
=== ウィーン体制(1815-1848)の時代 ===
 
ナポレオンの敗北以降の[[1814年]][[9月1日]]から[[1815年]][[6月9日]]まで開催された[[ウィーン会議]]では1792年より以前の状態に戻すことと勢力均衡が原則とされた<ref>[[#ドイツ史 2|ドイツ史 2]],p.221.</ref>。ウィーン会議以降の国際秩序を[[ウィーン体制]]と呼び、[[1848年革命]]に崩壊するまでの時代を指す<ref name="wien"/>。[[ナポレオン戦争]]に勝利したオーストリア、ロシア、プロイセンの復古勢力は革命の再発を防ぐために、1815年にキリスト教的友愛による平和を提唱する[[神聖同盟]]を締結、さらに[[1818年]]にイギリスと敗戦国フランスを加えた[[四国同盟 (1815年)|五国同盟]]を締結して[[ウィーン体制]]を確立した<ref name="wien">百瀬宏「ウィーン体制」「五国同盟」,石井摩耶子「アンタント・コルディアル」(真摯協商)、岡崎勝世「神聖同盟」、日本大百科全書(ニッポニカ)小学館。</ref>。オーストリアの宰相メッテルニヒが主導した五国は、1818年にドイツの自由主義運動を弾圧した<ref name="wien"/>。
 
 
 
スペインではナポレオン軍の敗北により[[ジョゼフ・ボナパルト]]は追放され、[[スペイン・ブルボン朝|スペイン・ブルボン復古王政]]の[[フェルナンド7世 (スペイン王)|フェルナンド7世]]が復位した。これに対して自由主義者[[ラファエル・デル・リエゴ|リエゴ]]が[[スペイン立憲革命]]を起こし、イタリアでも[[カルボナリ|カルボナリ党]]がスペインを模倣して[[カルボナリ#蜂起|ナポリ・ピエモンテで蜂起した]]が、革命の波及を恐れた五国同盟によって両者は鎮圧された<ref name="wien"/>。
 
 
 
他方で、1810年代から1820年代を通じて[[ラテンアメリカ]]諸国が相次いで[[スペイン帝国]]からの独立を果たし、スペインは中南米植民地を失っていった{{refnest|group=*|[[1810年]]5月に[[ブエノスアイレス]]が[[五月革命 (アルゼンチン)|五月革命]]で自治宣言(1816年独立、1825年に[[アルゼンチン]]へ改名)。1810年9月に[[メキシコ独立革命]]が始まった(1821年[[メキシコ]]独立)。[[1811年]]には[[パラグアイ#独立とカウディージョの専制統治|パラグアイ共和国]]、[[ベネズエラの歴史#解放戦争とシモン・ボリーバル|ベネズエラ・アメリカ合衆国]]がスペインから独立([[ベネズエラ#独立戦争|ベネズエラ]]1821年6月独立)。1816年7月にはラプラタ連合(現在のアルゼンチン)、1818年に[[チリ]]、1819年に[[コロンビア共和国|コロンビア共和国(大コロンビア)]]が独立。1822年9月には[[ポルトガル]]から[[ブラジル独立|ブラジルが独立した]]。
 
<br>
 
[[1823年]]12月アメリカ合衆国[[ジェームズ・モンロー|モンロー]]大統領は、独立した[[ラテンアメリカ]]に対して神聖同盟諸国が干渉すること、および[[西半球]]におけるヨーロッパの植民地拡大へ反対すると表明した<ref>「[[モンロー主義]]」世界大百科事典</ref>。[[1824年]]に[[ペルー独立戦争|ペルー]]、1825年[[ボリビア]]([[アルト・ペルー]])が独立した。}}。
 
 
 
[[1821年]]には[[オスマン帝国]]からの独立を目指して[[ギリシャ独立戦争]]が始まり、これをめぐる諸国の利害衝突によりウィーン体制は揺らいだ。当初ウィーン体制は[[正統主義]]を主張してギリシャの独立を否定していたが、ロシアが正教会弾圧を理由に介入を開始し、さらにイギリスとフランスが介入、[[ナヴァリノの海戦]]や[[露土戦争 (1828年-1829年)|露土戦争]]で連合軍に敗北したオスマン帝国は1832年[[コンスタンティノープル条約 (1832年)|ギリシャ独立]]を認めた。列強はバイエルン王子オットーをギリシャ王[[オソン1世]]とする[[ギリシャ王国]]を樹立した。
 
 
 
一方、[[1830年]]の[[フランス7月革命]]に対抗してロシア、オーストリア、プロイセンが1832年10月に旧秩序維持を再確認したが、革命干渉を忌避したイギリスとフランスは真摯協商を結んだことでウィーン体制は分裂し、さらに各国での[[1848年革命]]によってウィーン体制は崩壊した<ref name="wien"/>。
 
 
 
==== ウィーン体制下のドイツ ====
 
===== ブルシェンシャフト運動とヴァルトブルク祭 =====
 
[[ファイル:Battle Of The Nations-Monument.jpg|thumb|left|120px|ライプツィヒの「諸国民の戦い記念碑」]]
 
[[ウィーン会議]]で承認された[[ウィーン議定書]]によって出現した[[ウィーン体制]]により、[[オーストリア帝国]]主導でかつての[[神聖ローマ帝国]]の領域にほぼ合致した[[ドイツ連邦]](Deutscher Bund)が成立した<ref name="Dann"/>。しかし、ドイツ連邦はかつての[[神聖ローマ帝国]]の再興とはいいがたく、ナポレオン統治下の[[陪臣化]]で消滅した群小諸邦の君侯は復位できなかった<ref>[[#ドイツ史 2|ドイツ史 2]],p.222.</ref>。また、ドイツ国民にとっての新体制ドイツ連邦は、従来の領邦国家体制と変わらず、対ナポレオン戦争=ドイツ解放戦争で一体となって戦い、国民的な国家を期待していたドイツ国民は失望した<ref name="Dann"/>。ライン川西岸一帯の[[ラインラント]]は[[プロイセン王国]]に割譲され、また、プロイセンはオーストリア主導に反発を強めた。ウィーン体制は[[1848年革命]]で崩壊した。
 
 
 
[[エルンスト・アルント]]の発案で[[1814年]]10月に[[ライプツィヒの戦い|諸国民戦争(ライプツィヒの戦い)]]1周年記念式典が催され、最初のドイツ国民祝祭となった<ref name="Dann"/>。式ではユダヤ人も参加した<ref name="ms-96-16-32"/>。
 
 
 
[[画像:Jakob Friedrich Fries 2.jpg |thumb|200px|[[新カント派|カント主義]]哲学者フリースは[[1816年]]にユダヤ人を「根こそぎ絶滅」に追いやると訴えた<ref name="po-fries"/>。]]
 
 
 
ドイツ解放戦争に志願兵として参加した学生たちはドイツ国民の統一国家を期待していたが、ウィーン体制ではドイツの君主国諸国家への分裂を固定化されたため、祖国の現状に不満を抱いて、学生結社[[ブルシェンシャフト]]運動を展開した<ref name="Deu2-228-233"/>。[[1815年]]に結成されたブルシェンシャフト主流派のイエナ大学の結社は愛国心の涵養と心身練磨をはかり、ギーセン大学のカール・フォレンはドイツに自由で平等な共和国を目指した<ref name="Deu2-228-233"/>。
 
 
 
[[1816年]]、[[新カント派|カント主義]]の哲学者ヤーコプ・フリースは『ユダヤ人を通じてもたらされるドイツ人の富ならびに国民性の危機について』において、「ユダヤ人のカーストを根こそぎ絶滅に追いやること」を訴えた<ref name="po-fries">Jakob Friedrich Fries(1773-1843), Über die Gefährdung des Wohlstandes und Charakters der Deutschen durch die Juden.(ユダヤ人を通じてもたらされるドイツ人の富ならびに国民性の危機について). [[#ポリアコフ III]],p.400.</ref>。
 
 
 
[[画像:Wartburg aus Suedwest.jpg|thumb|200px|right|[[ヴァルトブルク城]]。]]
 
[[1817年]][[10月18日]]、[[マルティン・ルター|ルター]]が[[新約聖書]]をドイツ語に翻訳した[[アイゼナハ]]の[[ヴァルトブルク城]]で、宗教改革300周年のヴァルトブルク祭が学生結社[[ブルシェンシャフト]]によって開催された<ref name="sug">[[#杉浦忠夫1993]]</ref><ref name="Dann"/><ref name="Deu2-228-233">[[#ドイツ史 2|ドイツ史 2]],p.228-233.</ref>。ヴァルトブルク祭には全ドイツから460人以上のブルシェンシャフトの学生運動家が結集し、祖国ドイツへの愛と、ドイツ統一とドイツの自由と正義とが高唱された<ref name="Deu2-228-233"/><ref name="Dann"/>。教育者でドイツ国民運動家のヤーンは、反ユダヤ主義者の新カント派哲学者ヤーコプ・フリースとともにこのヴァルトブルク祭の立役者であった<ref name="po-509-518"/>。祭典にはヤーコプ・フリース、医学者キーザー、科学者オーケン、法学者シュバイツァーが来賓として参列した<ref name="sug"/>。フリースの門下生レーディガーは「祖国のために血を流すことのできる者は,どうすれば最もよく平和のときに祖国に尽くすかについても語ることができるのだ。こうして我々は自由な空のもとに立ち,真理と正義を声高に口にする。何となればもはやドイツ人が狡猜な密偵や暴君の首切り斧をおそれることなく,またドイツ人が聖なるものと真理を語るときに誰も気兼ねする必要のない、そんな時代が有難いことにやって来たのだ。......我々はすべての学問が祖国に仕えるべきであり,同時にまた人類の生活に仕えるべきであるということを決して忘れまい」と演説し、この演説は国務大臣で文豪の[[ゲーテ]]も称賛した<ref name="sug"/>。この祭典では、反ドイツ的とされた書物が[[焚書]]され、ユダヤ系作家ザウル・アシャーの『ゲルマン狂』も焼かれ、後年の[[ナチス・ドイツの焚書]]の先駆けともなった<ref name="po-509-518"/><ref name="sug"/>。こうしてドイツの大学を温床として、人種差別的な[[汎ゲルマン主義]]が生まれていった<ref name="po-509-518"/>。メッテルニヒはこうした過激化した学生運動に警戒を強めた<ref name="Deu2-228-233"/>。
 
 
 
===== コツェブー事件とヘップヘップ暴動 =====
 
[[File:Hep-hep riots.jpg|thumb|200px|left|1819年フランクフルトのヘップヘップ暴動。]]
 
[[1819年]]3月には、[[ブルシェンシャフト]]の自由主義と愛国思想を雑誌で揶揄していた作家アウグスト・フォン・コツェブー(August von Kotzebue)が、ロシアのスパイとして[[過激派]]の学生に暗殺された<ref name="po-509-518"/><ref name="Kotzebue">「コツェブー」世界大百科事典 第2版</ref><ref name="Dann"/>。
 
 
 
コツェブー暗殺事件の発生によって、メッテルニヒは[[1819年]][[9月20日]]の[[カールスバート決議]]で、学生運動と自由主義運動の弾圧を決定し、出版法による[[検閲]]制度、大学法、捜査法などによる革命運動の取締りを[[ドイツ連邦]]全土で強化した<ref name="Dann"/><ref name="Deu2-228-233"/>。マインツには革命的陰謀や煽動的結社運動を監視する委員会が置かれた<ref name="Deu2-228-233"/>。こうしてドイツ政府は学生運動の取締りに乗り出し、フリースやアルントやヴェルガ−兄弟など著名な教授は大学から追放され、ヤーンは[[大逆罪]]で幽囚され、シュタインやグナイゼナウなどの改革派も政界から追放された<ref name="Deu2-228-233"/><ref name="po-509-518"/>。1848年の3 月革命まで出版が自由化されることはなく、新聞や雑誌の発行部数は激減したが、出版に代わって祝典や集会が盛んに行われるようになった<ref name="Dann"/>。また急進派は地下に潜り、1833年4月にはフランクフルトで衛生兵襲撃事件が起こった<ref name="Deu2-228-233"/>。
 
 
 
[[1819年]]8月から10月にかけて、プロイセン以外のヴュルツブルクなど全ドイツの各州、ボヘミア、アルザス、オランダ、デンマークで反ユダヤ暴動が発生し、ユダヤ人が暴行を受け、シナゴーグや住宅は略奪された<ref name="po405">[[#ポリアコフ III]],p.400-405.</ref>。暴動では1096年に十字軍兵士が叫んでいたとされる「ヒエロソリマ・エスト・ペルディータ(Hierosolyma Est Perdita)」(エルサレムは滅んだ)という言葉に因んで「Hep! Hep!」という合言葉が使われたため、「ヘップヘップ暴動」もいう<ref name="po405"/>。この暴動で、[[アメリカ合衆国]]へのユダヤ人移住が活発になった<ref name="po405"/>。[[ユダヤ教徒]]で[[サロン]]主催者の[[ラーヘル・ファルンハーゲン・フォン・エンゼ|ラーエル・ファルンハーゲン=レーヴィネ]]は暴動の責任は作家[[アヒム・フォン・アルニム|アルニム]]や[[クレメンス・ブレンターノ|ブレンターノ]]一派にあると見た<ref name="po405"/>。
 
 
 
[[1819年]]11月からの連邦議会で、メッテルニヒはドイツ連邦は自由都市をのぞいて君主国であり、すべての国家権力はドイツ連邦国元首のもとに統轄されるという[[1820年]]5月15日のウィーン最終規約を定めた<ref name="Deu2-228-233"/>。これによって、ドイツ各邦は国民代表制的な運用に歯止めをかけて、各邦を連邦政府の監視下におく君主制原理が貫徹された<ref name="Deu2-228-233"/>。
 
 
 
1819年、フント・ラドヴスキは、16世紀にタルムードの廃棄を皇帝に提案した[[#近世ドイツの人文主義|改宗ユダヤ人ドミニコ会修道士プフェファーコルン]]と同題の『ユーデンシュピーゲル(ユダヤの鑑)』でユダヤ男は去勢し、ユダヤ女は売春婦になれと主張した<ref>Hartwig von Hundt-Radowsky,Judenspiegel – Ein Schand- und Sittengemälde alter und neuer Zeit,1819.</ref><ref>[[#神田順司2012|神田順司2012]],p.900.</ref>。『ユダヤの鑑』という同題の著作は、1862年にヴィルヘルム・マル、1883年にルーマニア出身の改宗ユダヤ人ブリマン<ref>Aron Israel Brimann,Der Judenspiegel (1883)(筆名Dr. Justus)</ref>、1884年にプラハ大学教授アウグスト・ローリング神父、1921年にドイツ民族防衛同盟員の詩人フィッシャー=フリーゼンハウゼンが出版した<ref>Friedrich Fischer-Friesenhausen,Der Judenspiegel (1921) </ref>。
 
 
 
[[1820年]]、作家[[アヒム・フォン・アルニム|アルニム]]は小説「世襲領主」では、高貴な世襲領主が斜陽になっていくなか、路地から這い出てきた強欲なユダヤ人が描かれた<ref name="po389">[[#ポリアコフ III]],p.389.</ref>。アルニムは義兄の[[クレメンス・ブレンターノ]]とともに、ベルリンで「ドイツキリスト教晩餐会」を開催し、ユダヤ人は改宗者であっても入会禁止とした<ref name="po389"/>。
 
 
 
[[1820年]]、オスマン帝国からの独立を目指して[[ギリシア]]が[[ギリシャ独立戦争|独立戦争]]をはじめた。[[ギリシア]]では、フランス革命やドイツロマン主義の影響でナショナリズムが台頭していた。当初ウィーン体制下のヨーロッパ諸国は[[レジティミスム|正統主義]]によってオスマン帝国を支持したが、ロシアがロシア正教を攻撃したオスマン帝国へ国交断絶を通告し、1828年にロシアは[[露土戦争 (1828年-1829年)|露土戦争]]を始めた。ロシアの影響拡大を恐れたイギリスやフランスも介入して、[[1830年]]に[[ロンドン議定書]]でギリシアの独立が承認された。
 
 
 
[[1823年]]にはベルリンのユダヤ人の半数がキリスト教に改宗した<ref>[[#ポリアコフ III]],p.359.</ref>。
 
 
 
[[ファイル:Walhalla aussen.jpg|thumb|[[ヴァルハラ神殿]](1807ー1842)]]
 
[[ファイル:Walhalla innen.jpg|thumb|ヴァルハラ神殿の広間にはドイツの著名人130体の胸像が飾られている。]]
 
 
 
[[1824年]]、[[バイエルン王国]]皇太子[[ルートヴィヒ1世 (バイエルン王)|ルートヴィヒ1世]]はドイツの偉人を祀った[[ヴァルハラ神殿]]を建設した<ref>「世界の観光地名がわかる事典」講談社、[[コトバンク]]。</ref>。ヴァルハラ神殿にはドイツ2000年の歴史を示す偉人、例えば[[ローマ帝国]]による[[ゲルマニア]]征服を阻止した[[アルミニウス (ゲルマン人)|アルミニウス]]から、西ゴート族の王[[アラリック1世]]、[[フランク王国]]の王[[クロヴィス1世]]、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]などの[[銘板]]や[[胸像]]が収められている。
 
 
 
1820年代後半以降には、出版に代わって祝典や集会が盛んに行われるようになり、[[アルブレヒト・デューラー|デューラー]]300年記念祭(1829)、ハンバッハ祭(1832)、グーテンベルク祭(1837、1840)、シラー記念祭(1839 )、ドイツ合唱祭(1845)などが開催され、政府による取締を逃れてドイツ民族の英雄が称賛され、ドイツ統一と国民連帯を要求することができた<ref name="Dann"/>。また1841年からは記念碑が作られる運動が高まり、ジャン・パウル、モーツァルト、ボニファティウス、バッハ、ゲーテなどの記念碑が作られていった<ref name="Dann"/>。
 
 
 
[[1830年]]と[[1834年]]にもドイツで反ユダヤ暴動が発生した<ref name="po405"/>。
 
 
 
===== ハンバッハ祭とドイツ国民運動 =====
 
[[ファイル:Hambacher Fest 1832.jpg|サムネイル|1832年のハンバッハ祭。3万人が集まり、1817年ヴァルトブルク祭の規模を超える盛況となった。]]
 
[[ファイル : ADL Hambacher Tuch Philipp Jakob Siebenpfeiffer.jpg|サムネイル|100px|ハンバッハ祭を計画した記者ジーベンプファイファー(Philipp Jakob Siebenpfeiffer)]]
 
[[ファイル:Johann-Georg-August-Wirth-2.jpg|サムネイル|100px|ハンバッハ祭を計画した出版者のヴィルト(Johann Georg August Wirth)]]
 
 
 
1818年に公布された[[バイエルン憲法]]では出版の自由も明記されるなど、ナポレオン法典で認められていた権利が保証されていたが、[[1830年]]の[[フランス7月革命]]以降、バイエルン政府は検閲を強化した<ref name="okumura-Hambacher"/>。ジャーナリストのヤコブ・ジーベンプファイファーとゲオルク・ヴィルトはドイツの再統一のために自由な言論は唯一の手段であるとする「自由な出版を支援するためのドイツ祖国協会(出版祖国協会)」を結成したが、プロイセン政府やハンブルク、バイエルンなどの国でも禁止された
 
<ref name="okumura-Hambacher"/><ref>Deutscher Vaterlandsverein zur Unterstutzung der freien Press(自由な出版を支援するためのドイツ祖国協会)はDeutscher Preß- und Vaterlandsverein (PVV)と省略される。</ref>。このようななか、バイエルン憲法記念祭計画について情報を得たジーベンプファイファーは憲法記念祭に代わって「民族祭(Volksfest)」としての祭典を計画して、[[5月27日]]に「ドイツ5月祭」をハンバッハ城で開催することを宣伝した<ref name="okumura-Hambacher"/>。ハンバッハ祭は「内的 ・外的な暴力廃止のための祝祭」であり、「法律に保証された自由とドイツの国家としての尊厳の獲得」を目的とした<ref name="okumura-Hambacher"/>。ライン・バイエルン政府では、フランス占領時代から集会は禁止されていたが、祝典(Festmahl)や民族祭典(Volksfest)は許可されていた<ref name="okumura-Hambacher"/>。しかし、ライン・バイエルン政府は「ドイツ5月祭」を禁止しようとして、集会を禁止しようとしたが、参事会の反対もあり、政府が禁止命令を撤回したが、こうした撤回は前代未聞であり、政府の敗北とみなされた<ref name="okumura-Hambacher"/>。
 
 
 
こうしてバイエルン王国のプファルツ地方で[[1832年]][[5月27日]]から[[6月1日]]まで3万余が集まった「ドイツ5月祭=ハンバッハ祭」が開催され、ドイツ統一と諸民族の解放、人民主権や共和制の樹立などが叫ばれた<ref>[[#ドイツ史 2|ドイツ史 2]],p.245. [[#ドイツ史 2|ドイツ史 2]]ではHambacher Festは「ハンバハ祭」と表記されている。</ref><ref name="okumura-Hambacher">[[#奥村淳]]</ref>。参加者は「ドイツ祖国とは何か」「輝きの渦のなかの祖国」といった歌(リート)を歌いながら行進し、医師ヘップはドイツ統一とドイツの自由によってドイツは再生すると演説した<ref name="okumura-Hambacher"/>。ハンバッハ祭には、ユダヤ系の[[ルートヴィヒ・ベルネ]]がパリから参加した<ref name="okumura-Hambacher"/>。ベルネの著書『パリ便り』は禁書になっていたがは大きな反響をプロイセンで呼んでおり、ドイツの自由の守護神として学生たちから歓迎された<ref name="okumura-Hambacher"/>。ベルネは、[[11月蜂起|ポーランド・ロシア戦争]]でユダヤ人3万人がポーランド支援のためにかけつけ、ポーランドという祖国を戦い取ろうとしているのに対して、「ユダヤ人をひどく軽蔑している誇り高く、傲慢なドイツ人には祖国が未だない」と述べている<ref>『パリ便り』1,Nr.43. 1831年3月17日。</ref><ref name="okumura-Hambacher"/>。また、[[フリッツ・ロイター]]も参加した。
 
 
 
ジーベンプファイファーは演説で「国民と呼ばれるうじ虫は地べたをうごめきまわっている」と述べ、祖国の統一を望むことさえ犯罪になるのだと主張し、34人のドイツ諸国家の君主を「国民の虐殺者」と罵り、君主が王位を去り市民になることを求めた<ref name="okumura-Hambacher"/>。ヴィルトは祖国の自由のための戦いには、外国の介入なしで独力でなされなければならないと愛国主義を演説した<ref name="okumura-Hambacher"/>。しかし、その後の演説では、革命を望まないという商人の演説がなされる一方で、弁護士ハルアウァーは臆病な奴隷でいるよりも名誉の戦死を訴えたり、ブラシ職人ヨハン・フィリップ・ベッカーは武装した市民だけが祖国を守ると演説するなど、慎重な意見と急進派とで意見が分かれた<ref name="okumura-Hambacher"/>。祝祭後、指導的な参加者はノイシュタット町で臨時政府国民会議の結成を模索したが、結局、ドイツ祖国出版協会の名前が「ドイツ改革協会」に変わることで会議は終わった<ref name="okumura-Hambacher"/>。パリにいた[[ハイネ]]はドイツ革命もドイツ共和国の誕生もそんなに早くはこない、というのも、ドイツの本質は王党主義であり、ドイツは共和国ではありえないと同情しながら批判した<ref name="okumura-Hambacher"/>。なお、ハイネは1840年の『ベルネ論』で革命を説くベルネに対して「テロリスト的な心情告白」として批判し、ベルネの演説が「最下層の人々の[[デマゴーグ]]」になったのは、「人生において何もなしえなかった男の自暴自棄な行動」と非難した<ref name="okumura-Hambacher"/>。
 
 
 
ハンバッハ祭の後、ドイツ各地で倉庫や市場が過激派によって襲撃されるなど、混乱が広まったため、1832年6月24日、バイエルン政府軍は首都シュパイエルに進駐し、[[戒厳令]]下においた<ref name="okumura-Hambacher"/>。メッテルニヒは革命がドイツ全土に拡大するのを恐れて、弾圧を強化し、集会や祭典は禁止され、ヴィルトやジーベンプファイファーなど多くの活動家が逮捕拘禁されて有罪判決を受けた<ref name="D2-247-248">[[#ドイツ史 2|ドイツ史 2]],p.247-248. </ref><ref name="okumura-Hambacher"/>。1833年4月には「出版祖国協会」過激派の地下組織の50人がフランクフルトで警察を襲撃したが、これによって1800人が逮捕された<ref name="D2-247-248"/>。こうしてドイツ国民運動は弾圧されたが、国民運動は非政治的な協会の姿をとって持続して、10万人以上のメンバーを持った男性合唱協会はドイツ語の民謡を普及させ、またヤーンの体操協会なども、ドイツ国民意識の形成に大きな役割を持った<ref name="D2-247-248"/>。
 
 
 
===== 青年ドイツ派の発禁処分 =====
 
[[File:Moritz Daniel Oppenheim - The Return of the Volunteer from the Wars of Liberation to His Family Still Living in Accordance wit... - Google Art Project.jpg|サムネイル|画家オッペンハイム『ドイツ解放戦争から帰宅したユダヤ人志願兵』(1833-4)]]
 
[[1834年]]にハイネは「キリスト教は、あの残忍なゲルマン的好戦心を幾分和らげたが、しかしけっして打ち砕くことはできなかった」として、カント主義者、フィヒテ主義者などの哲学者に気をつけるように警告して、ゲルマン主義者から大きな憤慨を買った<ref>[[#ポリアコフ III]],p.531-532.</ref>。他方でハイネは同年、われわれドイツ人は最も強く知的な民であり、ヨーロッパの王位を占めており、わがロスチャイルドは世界のあらゆる財源を支配していると書いた<ref>Zur Geschichte der Religion und Philosophie in Deutschland,Erstes Buch, 1834.</ref><ref name="p-A-319-339"/>。
 
 
 
ロスチャイルド家を[[パトロン]]としていたユダヤ人画家モーリッツ・オッペンハイムは、ドイツ解放戦争から帰宅したユダヤ人志願兵についての[[絵画]]を製作し、ドイツ史上初めてドイツ愛国心を持つユダヤ人を描いた<ref>[[#モッセ1996]],p.23,168.</ref>。
 
 
 
[[1835年]]、フランクフルト議会は、[[カール・グツコー|グツコー]]、ハインリヒ・ラウベ、ムント<ref>Theodor Mundt (1808-1861) </ref>、ヴィーンバルク<ref>Ludolf Wienbarg (1802-1872) </ref>や、ユダヤ系作家の[[ハインリヒ・ハイネ|ハイネ]]と[[ルートヴィヒ・ベルネ|ベルネ]]なども参加していた[[青年ドイツ|青年ドイツ派]]の作品を禁書処分にした<ref name="po534">[[#ポリアコフ III|ポリアコフ III巻]],p.534.</ref>。青年ドイツ派はユダヤ系サロンの主催者[[ラーヘル・ファルンハーゲン・フォン・エンゼ|ラーエル・ファルンハーゲン=レーヴィネ]]の影響を受けていた<ref name="po534"/>。[[青年ドイツ|青年ドイツ派]]であったがゲルマン主義の文芸批評家メンツェル<ref>Wolfgang Menzel(1798–1873)</ref>は青年ドイツ派を「青年パレスティナ派」と評して告発した<ref name="po534"/>。メンツェルは、ドイツ人は地球史上最も好戦的な民族であり、ローマ帝国を解体し、全ヨーロッパを支配したと述べた<ref name="p-A-319-339"/>。青年ドイツのH・ラウベは親ユダヤ的だったが、1847年にユダヤ系作曲家マイアーベーアから盗作の嫌疑で告訴されてからユダヤ人を嫌うようになった<ref>[[#ポリアコフ III|ポリアコフ III巻]],p.536.</ref>。
 
 
 
[[1835年]]、作家[[ルートヴィヒ・ティーク|ティーク]]はユダヤ人は国家内異分子であり、ドイツ文芸を独占してしまったと述べた<ref name="po537">[[#ポリアコフ III|ポリアコフ III巻]],p.537.</ref>。作家[[カール・インマーマン|インマーマン]]の『エピゴーネン』(1836年)では、ヤーンが指定した服装を着ていた登場人物が迫害されるが、ドイツ人に化けたユダヤ人の追い剥ぎであった<ref name="po537"/>。この作中でユダヤ人は「何かを手に入れようとしてうちは恭しく、きわめて低姿勢だが、いったんそれを手に入れると居丈高になる」と描かれた<ref name="po537"/>。
 
 
 
[[1842年]]、[[プロイセン国王]][[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]](在位:1840 - 1861)は忌まわしいユダヤ人はドイツを混沌とした無秩序状態におとしめようとしていると述べた<ref>[[#ポリアコフ III]],p.397.</ref>。若い頃にドイツ解放戦争(対ナポレオン戦争)に加わったフリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、キリスト教ゲルマン主義を信奉し、王の養育係はユダヤ人をゲットーに再送すべきであると考えていた法学者[[フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニー|サヴィニー]]だった<ref name="po-519-526">[[#ポリアコフ III]],p.519-526.</ref>。フリードリヒ・ヴィルヘルム4世はヤーンに[[鉄十字|鉄十字章]]を授与し、アルントの大学への復帰など名誉回復を行った<ref name="po-519-526"/>。フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、ユダヤ人に対して兵役義務を免除すると同時に公職から退け、王の庇護下にある「隔離民族」としたが、ユダヤ人共同体からのドイツへの愛国心をアピールした抗議が相次ぎ、この政策は実現しなかった<ref name="po-519-526"/>。1840年代初頭、プロイセン政府はユダヤ人をユダヤ人共同体に囲い込む法案を提出した<ref name="kanda2012-899-900"/>。1842年2月にラビのフィリップゾーンが批判すると、法案を支持するカール・ヘルメス<ref>Karl Heinrich Hermes (1800-1856)
 
</ref>が、プロイセンはキリスト教国家である以上、キリスト教徒とユダヤ教徒との法的平等を要求することは自己矛盾になるとユダヤ人の「解放」を批判した<ref name="kanda2012-899-900">[[#神田順司2012|神田順司2012]],p.899-900.</ref>。ヘルメスは無神論哲学者[[ブルーノ・バウアー]]に対してもキリスト教の敵として批判した<ref name="kanda2012-899-900"/>。
 
 
 
[[1844年]]、ドイツで反ユダヤ暴動が発生した<ref name="po405"/>。[[1845年]]、小説家シェジーはユダヤ人がドイツ国民を隷属状態に置くために解放運動に精を出していると描いた<ref>ヴィルヘルム・テオドア・フォン・シェジー『敬虔なユダヤ人』,Wilhelm Theodor von Chézy, Der fromme Jude.</ref><ref>[[#ポリアコフ III|ポリアコフ III巻]],p.536-537.</ref>。
 
 
 
[[1847年]]、プロイセン連合州議会代議士[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]はフランクフルト市議会で、ユダヤ人が国王になると考えただけで深い当惑と屈辱の感情が沸き上がってくるし、フランクフルトの[[アムシェル・マイアー・フォン・ロートシルト]]は「正真正銘の悪徳ユダヤ商人<ref>Schacherjude</ref>」であるが、気に入ったと好意を寄せることも述べた<ref>[[#ポリアコフ III]],p.396.</ref>。
 
 
 
==== ウィーン体制下のフランス ====
 
===== フランス7月革命とドゥーズ事件 =====
 
[[Image:François-René de Chateaubriand.jpg|thumb|120px|[[フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン]]はユダヤ人を「大いなる裏切り者」とした<ref name="po451"/>。]]
 
[[ファイル:Bonnat Hugo001z.jpg|サムネイル|120px|[[ヴィクトル・ユゴー]]はユダヤ人を「世界の恥辱」と評した<ref name="po451"/>。]]
 
 
 
[[1830年]]の[[フランス7月革命]]で[[オルレアン家]]の[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]が国王になり、[[ブルボン家]]はイギリスへ逃れた。[[1832年]]、ブルボン家の元国王[[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]]の息子の妻[[ベリー公|ベリー公爵]]夫人[[マリー・カロリーヌ・ド・ブルボン]]が、改宗ユダヤ人シモン・ドゥーズの密告によって、ルイ・フィリップ政府に引き渡された<ref name="po451"/>。
 
 
 
これに対して作家[[フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン|シャトーブリアン]]や[[ヴィクトル・ユゴー|ユゴー]]はユダヤ人を批判した<ref name="po451"/>。シャトーブリアンは「大いなる裏切り者と、サタンに取り憑かれたイスカリオテのユダの末裔」と述べ、ユゴーは「卑しき異教徒、変節漢、世界の恥辱、屑ともいえるような輩」である「さまよえるユダヤ人」と述べて非難した<ref name="po451"/>。ユゴーはまた「クロムウェル」(1827)「マリー・チュードル」(1833)では大量のキリスト教徒の血が流れるのを望むユダヤ人を描き、「嘘と盗み」がユダヤ人のすべてであるというセリフがあった<ref name="po472-479">[[#ポリアコフ III]],p.472-479.</ref>。ユゴーは1882年の「トルケマダ」でイスラエルに謝罪した<ref name="po472-479"/>。
 
 
 
===== 「さまよえるユダヤ人」 =====
 
[[ファイル:Juif errant.jpg |サムネイル|150px|フランソワ・ジョルジャン(François Georgin)「さまよえるユダヤ人」1830年]]
 
[[ファイル:Le Juif errant Gavarni.jpg|サムネイル|150px|ポール・ガヴァルニ「さまよえるユダヤ人」1845年]]
 
[[File:Wandering jew.jpg|200px|thumb|right|150px|[[ギュスターヴ・ドレ]]画「さまよえるユダヤ人」1856年]]
 
[[File:Nazi Wandering Jew propaganda by David Shankbone.jpg|thumb|right|upright|150px|ナチス時代の「さまよえるユダヤ人」1937–1938年。]]
 
 
 
「さまよえるユダヤ人」の伝説は近世にさかのぼる。[[1602年]]、ドイツのクリストフ・クロイツァーが『アハスウェルスという名のユダヤ人をめぐる短い物語』で、ユダヤ人はイエス磔刑の証人としてイエス再臨(最後の審判の)までさまよい歩くという劫罰を言い渡されたという「さまよえるユダヤ人」の伝説を出版した<ref name="po-1-283-305"/>。この伝説の背景には、[[1208年]]のインノケンティウス3世の勅書での「イエスの血の叫びを身に受けてやまないユダヤ人たちはキリスト教徒の民が神の掟を忘れないようにするため、決して殺されてはならない」が、ユダヤ人はキリスト教徒が主の名を探し求める時代が来るまで地上のさすらい人であり続けなければならないという記述がある<ref name="po-1-283-305"/>。
 
 
 
「さまよえるユダヤ人」という主題は16世紀以来の伝説で、ゲーテ、シューバルト、シュレーゲル、ブレンターノ、シャミッソー、グツコー、バイロン、シェリー、ワーズワースたちが扱い、1833年には共和党左派の歴史家エドガール・キネが『さまよえるユダヤ人―アースヴェリュス』で労苦にあえぐ[[プロメテウス]]や[[ファウスト]]の象徴を援用した<ref name="po463-471"/>。[[1844年]]、[[ウージェーヌ・シュー|シュー]]は「さまよえるユダヤ人」を連載した<ref name="po463-471">[[#ポリアコフ III]],p.463-471.</ref>。こうしてユダヤ人への神話的なイメージは、裏切り者であった「[[イスカリオテのユダ]]」から、「さまよえるユダヤ人」に変わっていった<ref name="po463-471"/>。
 
 
 
世紀末には精神科医[[ジャン=マルタン・シャルコー|シャルコー]]がユダヤ人は放浪生活という[[神経疾患]]にかかりやすいと考え、助手のアンリ・メージュ<ref>Henry Meige(1866-1940)</ref>に「さまよえるユダヤ人」の研究を委託し、メージュはユダヤ人の放浪癖、旅行病は人種的な神経疾患であると結論した<ref name="p-A-363-380"/>。
 
 
 
===== ダマスクス事件 =====
 
[[1840年]]2月、シリアの[[ダマスカス|ダマスクス]]で[[カプチン・フランシスコ修道会|カプチン会]]修道士トマ神父が失踪した<ref name="po456-461">[[#ポリアコフ III]],p.456-461.</ref>。フランス領事は地元のユダヤ教徒たちが事件の黒幕と断定し、ユダヤ教徒たちを儀式殺人の容疑で告訴した<ref name="po456-461"/>。ユダヤ教徒たち2名がオーストリア国籍であったため、オーストリア領事はユダヤ人を救援しようとした<ref name="po456-461"/>。当時[[エジプト・トルコ戦争]](1831年〜1840年)で[[オスマン帝国]]とエジプトが対立しており、[[東方問題]]としてヨーロッパ各国の外交問題ともなっていた。エジプト・トルコ戦争の講和条約[[ロンドン条約 (1840年)|ロンドン条約]]でイギリス、ロシア帝国、オーストリア帝国、プロイセン王国各国は[[オスマン帝国]]を支持し、エジプトの[[ムハンマド・アリー]]のシリア領有放棄とエジプト総督就任を認める一方で、フランスの[[アドルフ・ティエール|ティエール]]政府はエジプト総督[[ムハンマド・アリー]]を支持しており、ダマスクス事件の対処でも対立した<ref name="po456-461"/>。ダマスクス事件によって、フランス国内では、東方ユダヤではいまなお儀式殺人という迷信をユダヤ教徒の義務として定めており、カプチン神父はユダヤ人に食べられたなど、反ユダヤ主義と愛国主義が流布した<ref name="po456-461"/>。
 
 
 
イギリスではフランスへの反発もあって、ロンドン市長がユダヤ人モンテフィオーレ卿(Moïse Montefiore)、フランスの[[アドルフ・クレミュー]]とムンクの特使団を派遣した<ref name="po456-461"/><ref>DAMASCUS AFFAIR:Jewish Encyclopedia.</ref>。[[アドルフ・ティエール]]が解任されたことで、国際紛争は幕切れとなった<ref name="po456-461"/>。この解任にはロスチャイルド家のジャムが働きかけたという見方もある<ref name="po456-461"/>。
 
 
 
この事件後、クレミューは国際組織「[[:fr:Alliance israélite universelle|世界イスラリエット同盟(AIU, L'Alliance israélite universelle)]]」を創立し、[[1842年]]にはクレミュー、セルフベール、フールドの3人のユダヤ人が[[国民議会 (フランス)|フランス下院]]議員となった<ref name="po456-461"/>。ユダヤ新聞「イスラリエット古文書」は、もはや分裂の種も、宗教の差異も、永年の憎悪もなくなった、「ユダヤ民族なるものはもはやフランスの土地には存在しない」と報道した<ref name="po462">[[#ポリアコフ III]],p.462.</ref>。
 
 
 
=== 1848年革命とユダヤ人解放 ===
 
[[ファイル:Image Germania (painting).jpg|thumb|1848年の[[フランクフルト国民議会]]で掲げられたフィリップ・ファイトの絵画『[[ゲルマニア (擬人化)|ゲルマニア]]』。[[ドイツにおける1848年革命|ドイツ三月革命]]では[[ドイツ連邦]]の国家統一を目指して[[汎ゲルマン主義]]が鼓舞された。]]
 
 
 
{{See|1848年革命|ドイツにおける1848年革命|1848年のフランス革命}}
 
[[1848年]]、イタリア、フランス、オーストリア、ハンガリー、ボヘミア、ドイツ、デンマーク、スイスなどのヨーロッパ各地で[[1848年革命]]が起こった。
 
 
 
[[ドイツにおける1848年革命|ドイツ三月革命]]では、[[ドイツ連邦]]の国家統一と憲法制定を目指して、民族的自由を獲得することが目指された<ref>「三月革命」ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,[[#山田晟]]p.6-7. [[#山岸2014]],柳澤治『ドイツ三月革命の研究』岩波書店,1974年</ref>。ドイツ三月革命の目標は、フランスが革命で実現した「国民」、つまり、階級や宗教にかかわりなく人民の権利が保障される共同体としての「国民」を、ドイツで実現することであった<ref name="y-w-71-83"/>。ドイツ三月革命によってユダヤ人に参政権が認められた<ref name=uem/>。統一的な選挙規則のないままであったが、選出された議員による憲法制定国民議会では四人のユダヤ教徒の議員がいた<ref name=uem/>。そのユダヤ教徒の一人[[ガブリエル・リーサー]]は「イスラエル民族」は虚構にすぎないと指摘して、「ユダヤ教徒は公正な法律の下で、ますます熱烈な、そしてますます愛国的なドイツの信奉者となるでしょう」と演説し、満場の拍手で迎えられた<ref name=uem/>。また[[オットー・フォン・ビスマルク]]議員(のち宰相)は「私はユダヤ教徒の敵ではない。また、彼らが私の敵であろうとも、私は彼らを許す。どんな場合にも、私は彼らを愛する。私は彼らに対してどんな権利も惜しまない。ただ彼らがキリスト教国家における行政上の官職に就く権利だけは認めるわけにはいかない」と演説した<ref name=uem/>。こうして、自由主義的な統一ドイツ国家を創出した[[三月革命]]の大義の下、「ユダヤ教徒の解放」はドイツのナショナリズムと幸福な結合として位置づけられる<ref name=uem/>。しかし、同年9月28日には[[バーデン大公国]]ヴァルデルン市から「ユダヤ教徒の解放は断じて民族の声ではなく、ドイツ民族はドイツカトリック教徒との同権を要求していない」と請願が出された<ref name=uem/>。また、同じ[[1848年]]に、ドイツで反ユダヤ暴動が発生した<ref name="po405"/>。
 
 
 
一方、ドイツとデンマークが[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題]]で争うようになり、デンマークが[[シュレースヴィヒ公国]]を併合すると、[[1848年]]にドイツ民族主義者が叛乱し、キール臨時政府を樹立した<ref name="k-1-2">[[#ケテラー2006|ケテラー2006]],p.1-2.</ref>。ドイツがキール臨時政府に援軍を派遣すると、バルト海に利害を持つロシアとイギリスが介入し、[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]となった。1848年8月26日、ドイツとデンマークは休戦協定を締結し、ドイツ連邦軍は撤退し、キール臨時政府は解散した<ref name="k-1-2"/>。しかし、急進派は休戦に反発して[[1848年]][[9月18日]]フランクフルトで暴動を起こし、自由主義穏健派であったカジノ派の[[フェリックス・フォン・リヒノフスキー|リヒノフスキー侯爵]]とアウアスヴァルト将軍を暗殺した<ref name="k-1-2"/>。
 
 
 
[[ファイル:Dresdner Maiaufstand.jpg|thumb|ドレスデン五月蜂起。]]
 
翌年の[[1849年]]3月28日、[[フランクフルト国民議会]]が[[パウロ教会憲法|統一ドイツ憲法]]を採択し、プロイセン王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]]を統一ドイツ皇帝に選出したが、王は人民主権の原則を持つ憲法を「犬の首輪」として嫌い、帝冠も憲法も拒否した<ref name="d-Ft">[[#ドイツ史 2|ドイツ史 2巻]],p.320-322,339.</ref>。その後、ドイツ各地の邦国で帝国憲法を承認することを求める帝国憲法闘争が展開するなか、フランクフルト国民議会は解体した<ref name="d-Ft"/>。4月末、ザクセンでは祖国協会などの革命派が帝国憲法の承認を求めたが、ザクセン王[[フリードリヒ・アウグスト2世 (ザクセン王)|フリードリヒ・アウグスト2世]]は拒否し、上下両院を解散させた<ref name="y-w-84-91"/>。このため、5月3日に[[バクーニン]]が指揮した[[ドイツにおける1848年革命#1849年の革命の経過|ドレスデン五月蜂起]]が起きた<ref name="y-w-84-91"/>。しかし、ザクセン王はプロイセン軍を派遣して蜂起を鎮圧した<ref name="y-w-84-91"/>。革命の失敗後、「ユダヤ教徒解放」は撤回された<ref name=uem/>。しかし、ザクセン、ワイマール、アイゼナハなどではユダヤ教徒の法的平等が実現し、ユダヤ教徒が大学教授や裁判官に就任するなど、ユダヤ教徒の解放は進展した<ref name=uem/>。また、フランクフルト国民会議の議員20名が、プロイセン外交官ラドヴィツ指導の超党派組織としてカトリック・クラブを結成し、フランクフルト憲法に「教会の自由」を保障するよう訴え、実現した<ref name="ket-ii-vii"/>。
 
 
 
[[1848年革命]]の失敗によって、それまでコスモポリタン的で寛容なユートピア的なものであった愛国主義が変容し、1850年代にはヨーロッパのナショナリズムは排外的で自己中心的なものとなっていった<ref>ハンス・コーン「ナショナリズム」『西洋思想大事典3』平凡社,p.435-448.</ref>。
 
 
 
=== 19世紀イギリス ===
 
[[File:Lionel Nathan de Rothschild by Moritz Daniel Oppenheim.jpg|サムネイル|150px|ライオネル・ド・ロスチャイルド]]
 
[[File:Sir Walter Scott - Raeburn.jpg|サムネイル|150px|ウォルター・スコット]]
 
[[File:Dickens Gurney head.jpg|サムネイル|150px|チャールズ・ディケンズ]]
 
[[1828年]]、非国教徒を制限していた審査律と地方自治体令が撤廃され、カトリック教徒が解放された。[[1830年]]、ユダヤ教徒もカトリック教徒と同等の地位を持つことが請願されたが、失敗に終わった<ref name="kono51-54"/>。
 
 
 
1830年頃、ユダヤ人はロンドンで店舗を開けなかったし、法曹界にも議員にも大学にも入ることはできなかった<ref name="kono57-71"/>。ロンドンのユダヤ人の半数は中東欧のアシュケナージで、産業界から締め出されていたために犯罪に走りやすく、詐欺や盗品売買が横行した<ref name="kono57-71"/>。
 
 
 
また、ユダヤ人は投票権もあり、議員に立候補もできたが、キリスト教徒宣誓を述べなければならなかった。このため[[1847年]]に[[ライオネル・ド・ロスチャイルド]]男爵は当選したが着席できなかった<ref name="kono51-54"/>。[[1866年]]の公共宣誓令によって、ユダヤ教徒の議員就任が完全に認可された<ref name="kono51-54"/>。
 
 
 
作家[[ウォルター・スコット]]の『[[アイヴァンホー]]』(1820)ではユダヤ人アイザックが卑屈な吝嗇家として喜劇的に描写されるが、その娘はレベッカは美人とされ、ユダヤ人の家族愛も描写された<ref name="kono57-71">[[#河野 2001]],p.57-71.</ref>。スコットはユダヤ人は金儲けを本職とするので彼らは心が狭くなると考えていた<ref name="kono57-71"/>。また『医者の娘』ではユダヤ人ミドルマスが愛人のメニーをインドで[[人身売買|売却]]しようとするが象に踏み殺されると描いた<ref name="kono57-71"/>。
 
 
 
作家[[チャールズ・ディケンズ]]は『[[オリバー・ツイスト]]』(1838)でユダヤ人強盗団の頭目フェイギンを、餌にする腐肉を探す「いやらしい爬虫類」と喩えた<ref name="kono57-71"/>。この小説に抗議したユダヤ人に対してディケンズは「フェイギンがユダヤ人であるのは、物語の背景となった時代に、残念ながらあの類の犯罪者のほとんどが実際ユダヤ人であったからです」とし、ユダヤ人がこの小説を不当な仕打ちと受け止めたとしたら、そうしたユダヤ人は分別にかけ、公正ではないと申さねばならない、と返答した<ref name="kono57-71"/>。ただし、ディケンズは改訂版で「ユダヤ人」を「フェイギン」と書き換えた{{refnest|group=*|小池滋訳:講談社、ちくま文庫は初版<ref name="kono57-71"/>。}}。また[[1854年]]にディケンズはユダヤ系の学校での講演で「ユダヤ人がなぜ私のことを『反ユダヤ的』とみなし得るのか、わたしには見当もつかない」と述べた<ref name="kono57-71"/>。しかし、晩年の『共通の友』(1865)で、ユダヤ人ライアーは、キリスト教徒高利貸しのフロント役として利用されるが、キリスト教徒の娘を救うユダヤ人を描写した<ref name="kono57-71"/>。
 
 
 
作家[[ジョージ・エリオット]]はディズレーリの『タンクレッド』に反発する1848年の手紙で、ヴォルテールの反ユダヤ罵倒に呼応したい、ヘブライの詩にはすばらしいものもあるがユダヤの神話と歴史は不快極まりないとした<ref name="kono71-95">[[#河野 2001]],p.71-95.</ref>。しかし[[1866年]]にユダヤ人学者ドイッチュとめぐりあってからは、ユダヤ人に可能な限りでの同情を持つべきだと述べたり、『ダニエル・デロンダ』(1876)ではユダヤ民族の復興を描写し、ロシアではヘブライ語訳でユダヤ人に読まれ、シオニストに影響を与えた<ref name="kono71-95"/>。
 
 
 
イギリスではドイツ思想に詳しい評論家[[トーマス・カーライル|カーライル]]や教育家[[トーマス・アーノルド|トマス・アーノルド]]によってゲルマン至上主義が広まっていた<ref name="po435"/>。アーノルドは、ギリシャ人、ローマ人のあと、ゲルマン人によってキリスト教ヨーロッパ文化は飛躍したし、サクソン人とチュートン人の祖先の国であるドイツは史上最も道徳的で、非暴力的で、最も美しい国であるとした<ref name="p-A-300-318"/>。
 
 
 
[[エドワード・ブルワー=リットン|ブルワー・リットン]]の小説『ザノニ』 (1842)では、キリスト教世界のギリシア人が世界の主人となるために生まれたとされた<ref name="p-A-273-286"/>。
 
 
 
医師[[ロバート・ノックス]]は、最も才能に恵まれたのはゴート人とスラヴ人で、次がサクソン人とケルト人で、対極に黒人が置かれた<ref name="p-A-300-318"/>。ヘブライ人は寄生的であり、文化的に不毛であるとした<ref name="p-A-300-318"/>。
 
 
 
==== アングロ・イスラエリズム ====
 
[[File:Richard Brothers.jpg|サムネイル|100px|left|リチャード・ブラザーズ(1757–1824)]]
 
アングロ・イスラエリズム(ANGLO-ISRAELISM)またはブリティッシュ・イスラエリズム(British Israelism)では、[[アングロ・サクソン人]]が[[イスラエルの失われた10支族]]とする<ref name="ANGLO-ISRAELISM"> Joseph Jacobs,[http://jewishencyclopedia.com/articles/1524-anglo-israelism ANGLO-ISRAELISM],Jewish Encyclopedia,1906.</ref><ref>[[#ポリアコフ1985]],p.57-8.</ref>。
 
 
 
[[ニューファンドランド島]]出身の作家リチャード・ブラザーズは著作『暴かれた預言の知』([[1794年]])や『新エルサレム』で、自らを全能者の子孫、[[ダビデ|ダビデ王]]の子孫であるとし、ヘブライ王子としてパレスチナに新エルサレム王国を建設すると述べた<ref>Richard Brothers,A REVEALED KNOWLEDGE OF THE PROPHECIES AND TIMES,1794.A Description of the New Jerusalem(1801). Joseph Jacobs,BROTHERS, RICHARD:Jewish Encyclopedia,1906.</ref>。ブラザーズは[[1822年]]に『イスラエルの失われた10支族の末裔としてのイギリス人から見たイングランド征服』を発表し、アングロ・イスラエリズムの始祖とされた<ref>Richard Brothers,Correct Account of the Invasion of England by the Saxons, Showing the English Nation to be Descendants of the Lost Ten Tribes.
 
</ref><ref name="ANGLO-ISRAELISM"/>。ブラザーズに続いて[[1840年]]にジョン・ウィルソンが『イスラエル起源のイギリス』を刊行した<ref>John Wilson,Our Israelitish Origin:Lectures on Ancient Israel, and the Israelitish Origin of the Modern Nations of Europe,1840.</ref><ref name="ANGLO-ISRAELISM"/>。
 
 
 
[[1861年]]にはグローバーが『ユダの末裔』を刊行<ref>F. R. A. Glover,England, the Remnant of Judah, and the Israel of Ephraim.1861.</ref>、[[1864年]]には[[スコットランド王室天文官]]で[[ピラミッド]]学者のチャールズ・ピアッツィ・スミスが古代エジプト人とユダヤ人の研究にあたって、イギリス人の重要性を論じた<ref>Smyth, Charles Piazzi (1864). The Our Inheritance in the Great Pyramid.</ref><ref name="ANGLO-ISRAELISM"/>。[[1871年]]にはエドワード・ハインが『失われたイスラエル族としてのイギリス国民』を刊行し、週刊誌や月刊誌『死後の世界』などを創刊して、アングロ・イスラエリズムの主導者となった<ref>Edward Hine,The British Nation identified with Lost Israel,1871.</ref><ref name="ANGLO-ISRAELISM"/>。[[1874年]]には神学者ウィリアム・カーペンター<ref>William Carpenter,The Israelites Found in the Anglo-Saxons (London: George Kenning, 1874)</ref>、[[1879年]]には[[トロント]]でウィリアム・プールが同種の書籍を刊行した<ref>William H. Poole,Anglo-Israel; or, The British Nation the Lost Tribes of Israel,1879,[[トロント]]。</ref><ref name="ANGLO-ISRAELISM"/>。[[1880年]]にはアメリカでG.W.グリーンウッドが月刊誌『世界の遺産』を創刊してアメリカにおけるアングロ・イスラエリズムの主導者となった<ref>G. W. Greenwood, monthly journal, "Heir of the World," New York, 1880.</ref><ref name="ANGLO-ISRAELISM"/>。
 
 
 
ドイツではバックハウスが『セム族としてのゲルマン人』を出版したが、反響はなかった<ref>S. Backhaus, "Die Germanen ein Semitischer Volksstamm,",Berlin,1878.</ref><ref name="ANGLO-ISRAELISM"/>。日本でも[[イスラエルの失われた10支族]]による[[日ユ同祖論]]がある。
 
 
 
==== ディズレーリのユダヤ主義 ====
 
[[File:Benjamin Disraeli by Cornelius Jabez Hughes, 1878.jpg|thumb|[[セファルディム]]系ユダヤ人の[[ベンジャミン・ディズレーリ]]は小説家から政治家へ、さらに急進派から[[保守党 (イギリス)|保守党]]へ転身し、[[イギリスの首相|イギリス首相]](在任:[[1868年]]、[[1874年]] - [[1880年]])となった。ディズレーリのユダヤ主義的発言は、反ユダヤ主義者によるユダヤ陰謀論の典拠ともなった<ref name="po446"/>。]]
 
 
 
イタリア系[[セファルディム]]のユダヤ系イギリス人の政治家・小説家の[[ベンジャミン・ディズレーリ]]は1844年の[[ロバート・ピール]]を批判した『カニングスビー』(1844)や『シビル(女預言者)』(1845)などで、ヨーロッパの修道院や大学には[[マラーノ]]などのユダヤ人がひしめき、ヨーロッパではユダヤ的精神が多大な影響力を行使していることを描いて、ゲルマン至上主義の逆を突いた<ref name="po435">[[#ポリアコフ III]],p.434-437.</ref>。『カニングスビー』でディズレーリは「ユダヤ人が大きく加わっていないようなヨーロッパにおける知的な大運動はない。最初のイエズス会修道士たちはユダヤ人だった。西ヨーロッパを大いに混乱させているロシアの謎めいた外交は主にユダヤ人によって導かれている。現在ドイツにおいて準備され、イギリスではあまり知られていない強力な革命は第二のより広大な宗教改革運動になるであろうが、これは全体としてユダヤ人の賛助のもとで発展しているのである」と書いた<ref>Coningsby,1844,p.182-3.</ref><ref name="p-A-300-318"/>。『タンクレッド』(1847)では「思い上がりではりきれんばかり、叩いてみて響きだけはよい革袋のような鼻のひしゃげた[[フランク人]]([[ゲルマン人]])」を揶揄し、セム的精神(ユダヤ精神)を称揚し、セム的精神が光明をもたらすことがなかったらゲルマン民族は共食いで滅亡していたと、いった<ref name="po435"/>。同時に、ディズレーリはみずからの人種を恥とみなしていたユダヤ人を批判し<ref name="po435"/>、ユダヤ人はコーカサス人種であると考えていた<ref name="p-A-300-318"/>。
 
 
 
[[1847年]]下院での国会演説でディズレーリは、初期のキリスト教徒はユダヤ人であったし、キリスト教を普及させたのはまぎれもなくユダヤ人であったし、カントやナポレオンもユダヤ人であり、そのことを忘れて迷信に左右されているのが現在のヨーロッパとイギリスであると演説し、議会では憤怒のさざ波が行き渡った<ref name="po446">[[#ポリアコフ III]],p.438-446.</ref>。[[トーマス・カーライル|カーライル]]はディズレーリの演説に憤慨し、ロバート・ノックスは、ディズレーリが挙げたユダヤ人一覧には一人もユダヤ的特徴を示している者はいないと批判した<ref>Robert Knox, 『人間の種』([https://www.bl.uk/collection-items/the-races-of-men-19th-century-racial-theory The Races of Men]),1850.</ref><ref name="po446"/>。
 
 
 
[[1848年革命]]についてディズレーリは、この全ヨーロッパ的暴動の指導者はユダヤ人だと述べ、その狙いは[[選民]]たるユダヤ人種がヨーロッパのあらゆる人種もどき、あらゆる下賤の民に手を差し伸べ、恩知らずのキリスト教を破壊し尽くすことであると主張した<ref>Benjamin Disraeli,Lord George Bentinck : A Political Biography, Colburn,1852.(『[[ジョージ・ベンティンク|ジョージ・ベンティンク卿:政治的伝記]]』)</ref><ref name="po435"/>。ディズレーリは歴史の原動力について「すべては人種であり、他の真理はない」と述べるなど、ユダヤ主義に基づく人種主義者でもあった<ref name="p-A-300-318"/>。
 
 
 
ディズレーリのユダヤ主義的な歴史観は、フランスの反ユダヤ主義者ムソーやドリュモンによってユダヤ人の秘密外交の証拠として好意的に引用された<ref name="po446"/>。また、ナポレオンを嫌っていた歴史学者の[[ミシュレ]]も、ディズレーリのナポレオンユダヤ人説に梃入れした<ref name="po446"/>。
 
 
 
=== イタリア統一と教皇領の消滅 ===
 
{{See|イタリア統一運動|ローマ問題|教皇領}}
 
 
 
[[1848年]]初頭、ローマの司祭アンブロゾーリがユダヤ人の解放を訴え、教皇[[ピウス9世 (ローマ教皇)|ピウス9世]]が1848年4月にゲットーの壁を取り壊した<ref name="po-Mortara"/>。しかし、11月に[[ローマ共和国 (19世紀)|ローマ革命]]が起ると、教皇は[[ガエータ]]に避難した<ref name="po-Mortara"/>。1849年7月に[[ナポレオン3世]]のフランスが[[ローマ共和国 (19世紀)|ローマ共和国革命政府]]を制圧すると、教皇は1850年にローマに戻るが以後はユダヤ人対策を差し控えるようになった<ref name="po-Mortara"/>。
 
 
 
[[1858年]]、イタリアのボローニャでユダヤ人の6歳の少年[[エドガルド・モルターラ]]が異端審問所警察によって連れ去られ、カトリック教徒として育てらて、司祭となった<ref name="po-Mortara">[[#ポリアコフ 2|ポリアコフ 2巻]],p.387-391.</ref>。カトリック教徒の[[家政婦]]が極秘に洗礼を受けさせていたためであった<ref name="po-Mortara"/>。ヨーロッパ全土のユダヤ人がこのモルターラ事件に抗議して、ローマのゲットー代表と教皇が交渉した<ref name="po-Mortara"/>。教皇は、私はユダヤ人にもっと大きな苦しむを与えることもできるが、ユダヤ人を憐れむためにこうした抗議を赦すと述べ、ユダヤ人代表は感動して、1848年革命の時にはローマのユダヤ人は教皇に忠実であったことを確認し、モルターラ事件で騒ぐのは政治的情念を充足させる下心しかないと述べて、和解した<ref name="po-Mortara"/>。1864年にはモルターラ事件に似たフォルトゥナート・コーヘン少年の洗礼事件も起きた<ref name="po-Mortara"/>。
 
 
 
[[1859年]]、[[オーストリア帝国]]からの[[イタリア統一運動#第2次イタリア独立戦争|イタリア独立戦争]]で、[[サルデーニャ王国]]は[[ナポレオン3世]]と同盟し、[[ソルフェリーノの戦い]]でサルデーニャ・フランス連合軍はオーストリア軍に勝利した<ref name="morita-Italy-153-159">[[#森田 イタリア史|森田 イタリア史]],p.153-159.</ref>。しかし、ロマーニャ・トスカーナなどイタリア各地で教皇支配からサルデーニャ王国への合併運動が展開すると、フランス国内のカトリック派も戦争に冷淡であり、またプロイセンも干渉の気配を見せたことなどから、[[ナポレオン3世]]はサルデーニャ王国に黙ってオーストリアと[[ヴィッラフランカの休戦|ヴィッラフランカ]]で単独で講和して、オーストリアが[[ヴェネト州]]を保持して、トスカーナなど亡命君主の復位も約束された<ref name="morita-Italy-153-159"/>。フランスの単独講和にサルデーニャ王国は戦争継続を希望したが、やむなく容認し、仮条約に署名した<ref name="morita-Italy-153-159"/>。[[1860年]]、ナポレオン3世は[[サヴォイ]]と[[ニース]]のフランスへの割譲を条件に、サルデーニャ王国による[[中央統合諸州|中部イタリア]]併合を承認した<ref name="morita-Italy-153-159"/>。1860年4月、共和主義者[[ジュゼッペ・ガリバルディ|ガリバルディ]]率いる[[義勇兵|義勇軍]][[赤シャツ隊]]が[[両シチリア王国]]を滅ぼしてローマに進軍したが、サルデーニャ王国は赤シャツ隊によるローマ制圧を恐れ、先んじて[[教皇領]]と[[ナポリ王国]]軍を撃破した<ref name="morita-Italy-153-159"/>。やむなくガリバルディは征服した南イタリアをサルデーニャ王[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世]]に献上し、両者は並んでローマに入城した<ref name="morita-Italy-153-159"/>。[[1861年]]に、ローマと[[ヴェネト州]]をのぞく[[イタリア王国]]が[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世]]イタリア王の下に成立した<ref name="morita-Italy-153-159"/>。[[1866年]]、[[普墺戦争|プロイセン・オーストリア戦争]]で、イタリアはプロイセンと同盟を結んで参戦するが、イタリア軍は指揮官の党派的反目で機動的作戦が妨げられ、敗戦を重ねた<ref name="morita-Italy-153-159"/>。プロイセンはイタリアに無通告でオーストリアと休戦し、イタリアは国民的恥辱のうちにあったが、[[ヴェネト州]]を回収できた<ref name="morita-Italy-153-159"/>。
 
 
 
[[1867年]]フランス軍がローマを撤退する{{refnest|group=*|ローマに駐留したフランス軍については[[1864年]]に2年以内に撤退するという「9月協定」がイタリアとフランス間で締結されていた<ref name="morita-Italy-153-159"/>。}}と、反教皇派のガリバルディがローマ占領を試みるが、再派遣されたフランス軍によって撃破され、その後もフランス軍はローマに駐留した<ref name="morita-Italy-153-159"/>。[[1870年]]9月、[[普仏戦争|プロイセン=フランス戦争]]の[[セダンの戦い]]でフランスが降伏すると、イタリア王国は共和主義者[[ジュゼッペ・マッツィーニ|マッツィーニ派]]によるローマ奪回に先んじて、イタリア軍は9月19日に簡単な砲撃戦の後、ローマを占領した<ref name="morita-Italy-164-166"/>。教皇は教皇の世俗権力の廃棄に関与するすべてのものを[[破門]]にすると宣告したが、10月2日の住民投票では、ローマのイタリア王国への併合が圧倒的に賛成され、可決した<ref name="morita-Italy-164-166"/>。翌[[1871年]]5月、イタリア王国は教皇保障法(Legge delle Guarentigie)を制定し、教皇は反対したが、政府は一方的に成立させ、イタリア統一を完成させた<ref name="morita-Italy-164-166">[[#森田 イタリア史|森田 イタリア史]],p.164-166.</ref>。
 
 
 
=== ロスチャイルド家と反ロスチャイルド、反ユダヤ的感情 ===
 
[[File:Chateau de Ferrieres.jpg|thumb|1854年にフランスのジャム・ド・ロチルド分家が[[セーヌ=エ=マルヌ県]]に建造した19世紀最大の別荘[[:en:Chateau de Ferrieres|フェリエール邸]]。]]
 
[[File:Grüneburgweg und Einfahrt zum Rothschild'schen.jpg|thumb| ドイツ・フランクフルトのロスチャイルド分家[[アムシェル・マイアー・フォン・ロートシルト|アムシェル]]が1845年に建てた[[:de:Grüneburgpark|Grüneburgschlößchen|グリューネブルク邸]]。]]
 
 
 
[[フランクフルト・ゲットー]]出身の[[銀行家]][[マイアー・アムシェル・ロートシルト]]が[[宮廷ユダヤ人]]となり、[[ロスチャイルド家|ロートシルト家(ロスチャイルド家)]])の基礎を築くと、ロスチャイルド家は19世紀ヨーロッパの政界と金融界を支配し、栄華を誇り、「ユダヤ人の王にして諸王のなかのユダヤ人」と呼ばれた<ref name="po451">[[#ポリアコフ III]],p.451-456.</ref>。[[1807年]]のベルリンの銀行52のうち30がユダヤ人が経営するようになっていた<ref name="po-519-526"/>。その他、ドイツの百貨店、[[シレジア|シュレージエン地方]]の[[鉱床]]などもユダヤ系事業が大部分を占めた<ref name="po-519-526"/>。フランスではマイアーの五男でオーストリア領事でもあった[[ジャコブ・マイエール・ド・ロチルド|ジャム・ド・ロチルド]]がロスチャイルド家の筆頭格となった<ref name="po451"/>。ジャムはフランスに帰化することはなかった<ref name="po451"/>。[[ロスチャイルド家|ロチルド家(ロスチャイルド家)]]は、[[フランス銀行|フランス中央銀行]]の大株主の200家族の1族であり、[[フランス銀行#200家族|金融貴族(Haut Banque オート・バンク)]]と呼ばれた<ref>[[#梅津2006]],p.101.</ref>。
 
 
 
ロチルド家以外のユダヤ人銀行家としては、[[アンリ・ド・サン=シモン|サン・シモン主義]]のペレール兄弟がおり、[[ナポレオン3世]]の金融改革と殖産興業政策を援助して、[[1852年]]にペレール兄弟はアシーユ・フール(Achille Fould)とともに[[投資銀行]]クレディ・モビリエを創設した<ref name="fr-11-12"/>。1860年代にはクレディ・リヨネと[[ソシエテ・ジェネラル]]が創設された<ref name="fr-11-12">[[#フランス史3|フランス史第3巻]] p.11-12.</ref>。
 
 
 
しかし、ロスチャイルド家の栄華は、その後数世代にわたって反ユダヤ主義宣伝活動の餌食となっていった<ref name="po451"/>。
 
 
 
[[1848年]]、[[フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン]]は『墓の彼方からの回想』(没後出版)で「人類はユダヤ人種を癩病院に隔離した」と述べたり、「今日のキリスト教世界を牛耳っているユダヤ人よ」と述べたり、ロスチャイルド家が原因で自らが政治家として不首尾に終わったとみなしていた<ref name="po472-479"/>。
 
 
 
[[アルフレッド・ド・ヴィニー]]は、ユダヤ人を金にがめつい唯物的な人種として嫌悪し、1822年の『ヘレナ』では「ユダの息子たちにはすべてが許され、彼らの財宝箱にはすべてが受け入れられる」と書き、1847年にユダヤ人アルフェンがパリ2区区長に任命されると驚くなど、世界が「ユダヤ化」ことを諦念をもって眺めた<ref name="po-vigny">[[#ポリアコフ III]],p.479-484.</ref>。1837年には[[フランス7月革命|7月革命]]をユダヤ人は金で購ったと書いている<ref name="po-vigny"/>。1837年に書かれた小説『ダフネ』(生前未発表)ではユダヤ人銀行家について「現在、一人のユダヤ人が、教皇の上、キリスト教の上に君臨している。彼は君主に金を渡し、諸国民を買収する」と、ロスチャイルド家について記した<ref name="po-vigny"/>。しかし、ヴィニーは改宗ユダヤ人ルイ・ラティスボンヌと友人になると、1856年にはユダヤ人は原初の光、原初の調和に満ちており、芸術の分野で頂点を極め、学業も優秀と述べるにいたった<ref name="po-vigny"/>。
 
 
 
歴史家[[ジュール・ミシュレ]]は『フランス史』(1833-1873)において、自分はユダヤ人が好きだが、「汚らわしきユダヤ人」は「いつのまにか世界の王座に就いてしまった」、ユダヤ人は地球上で「最良の奴隷」だったと述べた<ref>「フランス史」第5書第3章「金、租税、テンプル騎士団」、藤原書店</ref><ref name="po451"/>。
 
 
 
1900年にはドイツの人口の1%にすぎないユダヤ人が、大企業、金融会社の取締役会の25%を占めており、こうしたユダヤ人の経済界での活躍が、ユダヤ人による侵略や支配という印象を深めることになった<ref name="po-519-526"/>。こうした状況は、ロシアでも同様であった<ref name="po-519-526"/>。ロスチャイルド家や政界に進出するユダヤ人などが活躍していくにつれて、「ユダヤ人に支配された世界」という見方が広まり、フランスやドイツなどでは、「ユダヤ人からの解放」を訴える主張が多数出されていくようになった。
 
 
 
=== 近代人種学 ===
 
<nowiki>>></nowiki> [[#近世の人種学|「近世の人種学」も参照]]
 
==== インドと「アーリア人」の発見 ====
 
啓蒙思想の進展によって、ユダヤ教とキリスト教的な世界観から徐々に抜け出していくとともに、人類と文明の発祥の土地として[[インド]]が浮上していった<ref>[[#ポリアコフ1985]],p.243.</ref>。
 
 
 
フランスの[[東洋学者]][[アブラアム=ヤサント・アンクティル=デュペロン|アンクティル=デュペロン]](1731-1805)は「[[アーリア人]]」をヘロドトスから取ってペルシア人とメディア人を指すために用いていた<ref name="p-A-249-258"/>。
 
 
 
文化的多元主義の[[ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー|ヘルダー]]は民族の形成には地理的条件や歴史的条件があるため、どのような民族も神に選ばれたということはできないとユダヤ民族の[[選民|選民思想]]を否定し、また「自称神の唯一の民」もドイツ人も選民ではないとした<ref name="or-60-9">[[#オランデール|オランデール]],p.60-69.</ref>。しかしヘルダーはルター派であり、歴史は神によって統制され、文明は東から西へ向かって進展しているので必然的に文明はヨーロッパに集中しているのであり、ヨーロッパは優位にあるとした<ref name="or-60-9"/>。また[[シナ人]]はユダヤ人のように他民族との混合を免れたために幼いまま停止しているとみた<ref name="or-60-9"/>。また『人類史哲学考』(1791)で「人種」という語を批判し、ヨーロッパ人がニグロを悪として扱うのと同じように、ニグロはヨーロッパ人を白い悪魔と侮蔑する権利を有すとしながら、ニグロはヨーロッパ人のために何一つ発明しなかったとも述べている<ref name="p-A-220-232"/>。また、人種的にドイツ人とペルシア人は近く、またインド人は自然の徳、穏やかさ、礼儀正しさ、優美さを持っているが、地上の民族すべてをヘブライ人の末裔にするような話はもう沢山であり、人類が最初に居を定めたのはアジアの原初の山であるとした<ref>Johann Gottfried Herder,Ideen zur Philosophie der Geschichte der Menschheit.[[#ポリアコフ1985]],p.247-248.</ref>。一方で同書第四部では、古代ユダヤが崩壊して、キリスト教世界を優位に立たせようと決めたのは神の[[摂理 (神学)|摂理]]であるとした<ref name="or-60-9"/>。ヘルダーはショーペンハウアーに影響を与えた<ref name="p-A-249-258">[[#ポリアコフ1985]],p.249-258.</ref>。
 
 
 
[[ヨハン・フリードリヒ・ブルーメンバッハ|ブルーメンバッハ]](1752-1840)は白人を最も美しい人種であり、最も美しい人種のグルジア人のいる[[コーカサス山脈|コーカサス山]]に因み[[コーカソイド]]という名を白人に与え、白い色はもともとの人類の肌の色であるが、容易に黒っぽく退化するとした<ref name="p-A-220-232"/>
 
 
 
ルートヴィッヒ・フォン・シュレーツァー<ref>August Ludwig von Schlözer(1753 - 1809)</ref>は[[セム|セム系言語]]と[[ヤペテ|ヤペテ系言語]](アルメニア語やペルシア語)との区別を提案し、[[ヤペテ]]はヨーロッパの白人の先祖とした<ref name="p-A-249-258"/>。
 
 
 
[[1788年]]、イギリスの言語学者[[ウィリアム・ジョーンズ (言語学者)|ウィリアム・ジョーンズ]]はインドのサンスクリットとギリシャ語、ラテン語、ゴート語、ケルト語の強い近親性を発見して、[[インド・ヨーロッパ語族]]が発見された<ref name="p-A-249-258"/>。
 
 
 
社会主義者[[アンリ・ド・サン=シモン|サン=シモン]]は[[1803年]]、ニグロは体質ゆえに平等に教育してもヨーロッパ人の高い知性に達しないとした<ref name="p-A-287-299"/>。ヨーロッパ人は[[アベル]]の子孫で、有色人種は[[カイン]]の末裔であるとし、アフリカ人は残忍で、アジア人は怠惰であるとした<ref name="p-A-287-299"/>。
 
 
 
ドイツにおけるインド趣味はシュレーゲル兄弟の影響が大きかった。[[アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル]]は[[1804年]]、「東洋が人類の再生が起こった地域だとすれば、ドイツはヨーロッパの東洋とみなされなければならない」と書いた<ref name="p-A-249-258"/>。アウグストの弟[[フリードリヒ・シュレーゲル|フリードリヒ]]はモーゼス・メンデルスゾーンの娘[[ドロテーア・シュレーゲル|ドロテーア]]と結婚し、ユダヤ人解放のために闘った進歩派であったが、「すべてがインドに端を発している」と述べ、エジプト文明はインドの使節によって形成されたし、エジプトはユダヤの地に文明的な植民地を築いたが、ユダヤ人はインドの真理を不完全に吸収したとした<ref name="p-A-249-258"/>。フリードリヒは[[1808年]]の著書『インド人の言語と英知』で、偉大なインド人がいかにスカンジナビアに達したのかと述べ、ゲルマン人との関連を示唆し、[[1819年]]には「アーリア人」を種族の意味で用い、語根の「アリ」をゲルマン語の「エール(名誉)」と結びつけた<ref name="p-A-249-258"/>。なお、[[ヤーコプ・グリム]]もヨーロッパ人のすべては太古にアジアから移住してきたとしたが、「アーリア人」という用語は使っていない<ref name="p-A-261-271"/>。
 
 
 
生物学者[[ジャン=バティスト・ラマルク|ラマルク]]は[[1809年]]の著作『動物哲学』で、改良された人種が他の人種を支配し、この人種に適したすべての地を占拠すると述べた<ref name="p-A-287-299">[[#ポリアコフ1985]],p.287-299.</ref>。ここでは白人種を名指したわけではなかったが、当時のフランスの膨張と関連した発言であった<ref name="p-A-287-299"/>。博物学者[[ジョルジュ・キュヴィエ|キュヴィエ]]は『動物界』([[1817年]])<ref>Le Règne Animal</ref>で、ニグロ人種は猿に近く野蛮であるとし、文明の進歩はコーカサス人種の特性であるとした<ref name="p-A-287-299"/>。
 
 
 
[[1810年]]、考古学者クロイツァーはユダヤ教以前の[[バラモン教|原始バラモン教]]が真の自然宗教であり、アブラハムは[[ブラフマー]]、[[サラ]]は[[サラスヴァティー|サラスワディ]]で、両者とも[[バラモン]]であったとした<ref>Friedrich Creuzer(1771-1858),『ギリシア人をはじめとした古代民族の象徴と神話』Symbolik und Mythologie der alten Völker, besonders der Griechen. Leipzig 1810.</ref><ref name="p-A-249-258"/>。
 
 
 
[[1811年]]、自然哲学者[[ローレンツ・オーケン]]は黒人種は猿、白人種は輝く人間、モンゴル人は空気、アメリカインディアンは水に対応するとした<ref>[[#ポリアコフ1985]],p.321.</ref><ref>Lehrbuch der Naturphilosophie. Dritter Theil. 1811</ref>。自然哲学者[[カール・グスタフ・カルス]]は1849年から1861年にかけての著作で、黄色人種は夜明けの人種で胃の人種、白人種は昼の人種で脳の人種、赤色人種は夕暮れの人種で肺の人種、黒人種は夜の人種で生殖の人種とした<ref>[[#ポリアコフ1985]],pp.333-4.</ref>。
 
 
 
J.C.プリチャード<ref>James Cowles Prichard(1786 –1848) </ref>は『人類の自然史』(1813-47)で人類単一起源説を唱え、アダムとイヴは黒人であったとした<ref name="p-A-273-286"/>。また、ハム人種(エジプト)、セム人種(シリア、アラブ)、ヤペテ=アーリア人種という三分類を行った<ref name="p-A-273-286"/>。ただし、プリチャードはヤペテ=アーリア人種に卓越性を付与したわけではなく、セム人種を第一とした<ref name="p-A-273-286"/>。[[1816年]]、トーマス・ヤングが「インド-ヨーロッパ人」という用語を作った<ref name="p-A-249-258"/>。
 
 
 
人種決定論や人種主義がフランスなどで盛んになったのに対してイギリスでは[[ジョン・スチュアート・ミル|J.S.ミル]]や[[ヘンリー・バックル|バックル]]のように人種や文化を気候や生活様式の多様性に帰着させる環境主義が説かれていた<ref name="p-A-287-299"/>。19世紀前半イギリスでは聖書崇拝や[[生気論]]が強く、フランス流の[[唯物論]]や[[遺伝学|遺伝説]]には反感が持たれ、[[無神論]]であると批判された<ref name="p-A-287-299"/>。解剖学者ウィリアム・ローレンス[[準男爵]]<ref>Sir William Lawrence, 1st Baronet(1783 - 1867)</ref>が[[1816年]]に精神を脳の機能とした講義を出版すると、[[生気論]]のジョン・アバーネシーは唯物論と批判した。ローレンスの『人類の自然史』(1819)は人間と動物における知的性質を決定する法則が同一であるとしたことや遺伝についての記述も無神論と批判された<ref name="p-A-287-299"/><ref>H. Stanley Thompson, William Lawrence and the English Ophthalmology Textbooks of the 1830s and 1840s,Arch Ophthalmol. 2012;130(5):639-644.doi:10.1001/archophthalmol.2011.1761</ref>。
 
 
 
[[1823年]]、東洋学者[[ユリウス・ハインリヒ・クラプロート|クラプロート]]が「インドーゲルマン人」という用語を作り、たちまち普及した<ref name="p-A-249-258"/>。19世紀後半までのドイツでは「アーリア人」よりも「ゲルマン」「インド=ゲルマン」という用語がよく使われた<ref name="p-A-340-363"/>。
 
 
 
[[1824年]],シュレーゲルに影響を受けた改宗ユダヤ人エクシュタイン男爵<ref>Le Baron Eckstein,Ferdinand Eckstein(1790-1861)</ref>が[[王党派]]雑誌『Le Catholique』を創刊し、ヨーロッパは血と文化をゲルマン人に負っており、インドと東洋の神秘について宣伝し、ユゴー、ラマルティーヌ、[[フェリシテ・ド・ラムネー|ラムネー]]、歴史家ミシュレ、[[オーギュスタン・ティエリ|ティエリ]]、アンリ・マルタン<ref>Henri Martin</ref>などに影響を与え、ハイネはエクシュタインを「ブッダ男爵」と呼んだ<ref name="p-A-261-271"/>。ユゴーはドイツをひとつのインドと呼んだ<ref name="p-A-261-271"/>。
 
 
 
博物学者[[ジャン・バティスト・ボリ・ド・サン=ヴァンサン|ボリ・ド・サン=ヴァンサン]]は[[1827年]]『人類の動物学的研究』で最高の人種はヤペテ人種(白人種)、第二はアダム人種(アラブ)、最低はオーストラリア人種であるとした<ref name="p-A-287-299"/>。
 
 
 
社会学者[[オーギュスト・コント]]は白人種は人類の選良であり、特権を与えられており、西欧白人の歴史の研究だけが利益になるため、オリエント研究は無駄であるとした<ref name="p-A-287-299"/>。
 
 
 
博物学者カトルファージュ<ref>ジャン・ルイ・アルマン・ド・カトルファージュJean Louis Armand de Quatrefages de Bréau(1810-92)</ref>は奴隷制反対論者だったが[[1842年]]にアメリカ合衆国へ旅行直後、ニグロは、知性の形成が途中で止まった白人であり、知的な畸型であるとし、黒人にあっては精神の高貴な産物が動物的な機能にとって替わられているとした<ref name="p-A-287-299"/>。
 
 
 
==== 「セム人」とアーリア主義 ====
 
19世紀には[[アーリア人]]と[[セム人]]という二分法が研究者によって受け入れられた<ref name="p-A-340-363">[[#ポリアコフ1985]],p.340-363.</ref>。
 
 
 
歴史家[[ジュール・ミシュレ]]は『ローマ史<ref>Histoire Romaine</ref>』(1831)でセム人とインド-ゲルマン人との長い戦いについて語り、またインドを人種と宗教の発祥地であるとし<ref name="p-A-261-271"/>、『人類の聖書』(1864)<ref>Bible de l'Humanité </ref>では、われわれの祖先であるアーリア人・インド人・ペルシア人・ギリシア人は太陽の下で生まれた光の息子であるとし、他方の[[メンフィス (エジプト)|メンフィス (エジプト)人]]・カルタゴ・[[ティルス|ティール]]とユダヤ人は南部の暗い性格であり、ユダヤの聖書は偉大ではあるが陰気でやっかいな曖昧さに満ちていると書いた<ref name="p-A-273-286"/>。また、ミシュレはユダヤ人は純粋な人種であり、ユダヤの不幸はこの純粋さにあるとみなした<ref name="p-A-300-318">[[#ポリアコフ1985]],p.300-318.</ref>。それに対しドイツはスイス、スウェーデンにズエーヴェン人を、スペインに[[ゴート族|ゴート人]]を、[[ロンバルディア]]に[[ランゴバルド人]]を、イギリスに[[アングロサクソン人]]を、フランスに[[フランク人]]を与えたようにドイツ人はすすんで自国から出て、また自分の国に快く外国人を受け入れ歓待する<ref name="p-a-42-3"/><ref>『フランス史』序文(1833)</ref>。ドイツ人のエゴイズムを捨て去る自己犠牲の精神を「南部の人たち」は嘲笑するが、これがゲルマン人種を偉大にしたとミシュレは論じた<ref name="p-a-42-3">[[#ポリアコフ1985]],p.42-3</ref>。
 
 
 
[[オノレ・ド・バルザック|バルザック]]の『ルイ・ランベール』(1832)では「モーゼの書は恐怖の刻印が押されている」とし、破局のもとで生きのびるた人が避難したのはアジアの高原であり、聖書の民はヒマラヤとコーカサスにぶらさがっていた人間の巣箱からの一群にすぎない、と書いた<ref name="p-A-261-271"/>。
 
 
 
[[1843年]]、人類学者グスタフ・クレム<ref>Gustav Klemm(1802– 67)</ref>は、人類を能動的人種と受動的人種に分けて、人類が完全になるのはこの二つの人種の混合によるとした<ref name="p-a-337-8">[[#ポリアコフ1985]],pp.337-8.</ref>。受動的人種にはスラブ人、ロシア人があり、能動的人種にはラテン人が入るが、ゲルマン人はそのラテン人をつねに打ち負かし、ヨーロッパの王位を占めているとした<ref name="p-a-337-8"/>。
 
 
 
[[1845年]]、インド学者クリスチャン・ラッセンは、エゴイストで排他的なセム人はインド-ゲルマン人を特徴づけている魂の調和のとれた均衡を持っていないし、哲学はセム人のものでなく、インド-ゲルマン人から借り受けただけだとした<ref name="p-A-261-271">[[#ポリアコフ1985]],p.261-271.</ref>。同1845年、スウェーデンの[[骨相学|頭蓋学者]]アンドレーアス・レツィウスは、すぐれた魂の能力を持っているのはスカンジナビア人、ドイツ人、イギリス人、フランス人の長頭の人種で、ラプランド人、フィン人、スラブ-フィン人、ブルトン人のような短頭人種は遅れた民であるとした<ref name="p-A-340-363"/>。
 
 
 
フランスは人種決定論の発祥の地であり、キリスト教から解放された科学法則によって、人種の研究が進展した<ref name="p-A-300-318"/>。フランス系イギリス人の博物学者W.F.エドワーズはユダヤ人を人種とみなした<ref name="p-A-300-318"/>。バルテルミ・デュノワイエは人種の不平等を嘆きながら、チュートン人・ゲルマン人は優秀人種であるとした<ref name="p-A-300-318"/>。[[ジョゼフ・ド・メーストル]]は、野蛮人を改良不可能の生まれながらの犯罪者であるとし、その祖先はなんらかの前代未聞の罪を犯したとして、人間は神の前で平等でなはいとした<ref name="p-A-300-318"/>。東洋学者エミール・ビュルヌフ<ref>Émile-Louis Burnouf,1821-1907.[[ウジェーヌ・ビュルヌフ]]のいとこ。</ref>はセム人や中国人はキリスト教や形而上学の美しさを理解できないとした<ref name="p-A-363-380">[[#ポリアコフ1985]],p.363-380.</ref>。
 
 
 
1850年代にはルーカスやトゥール{{refnest|group=*|プロスパー・ルーカス(Prosper Lucas),Traité philosophique et physiologique de l'hérédité naturelle dans les états de santé et de maladie du système nerveux(1847-1850),Jacques-Joseph Moreau de Tours,『病理心理学』(La psychologie morbide dans ses rapports avec la philosophie de l'histoire, ou De l'influence des névropathies sur le dynamisme intellectuel), 1859.}}、『変質論』(1857)を刊行した[[ベネディクト・モレル]]らの[[遺伝学]]が流行したが、その背景には革命を起こしたブルジョワジーが労働者を抑圧し、自らの普遍性を標榜できなくなっていたため、遺伝学によってブルジョワジーの権力と財産の相続権を正当化することがあった<ref name="matsuoTakeshi">[[#松尾剛|松尾剛]]</ref>。
 
 
 
[[アンリ・ド・サン=シモン|サン=シモン主義者]][[ピエール・ルルー]]はヨーロッパ人の祖先の地はアジアの高原であるのだから、「われわれは今どうしてユダヤの万神殿にとどまっている必要があるだろうか」「キリスト教、モーゼの啓示、イエスの啓示と呼ばれている切り離された分枝のみを人類の中にみるのだろうか」として、「われわれはイエスの息子でもモーゼの息子でもない。人類の息子なのだ」と述べた<ref name="p-A-261-271"/>。同じくサン=シモン主義者クルテ・ド・リル<ref>ヴィクトル・クルテ・ド・リル Victor Courtet de l'Isle (1813-1867)</ref>はゲルマン人を至高の人種とみるブロンドの賛美者であり、人種の質は支配能力によって決定されるのでヨーロッパ人は混血しても地球規模で優秀であることが証明されるの対して、黒人は異人種を支配したことがなく、彼ら自身の間で隷属しあっているため絶対的な劣等性が証明されているとした<ref name="p-A-300-318"/>。また、血の混合は産業と進歩の観点から見てよいものとした<ref name="p-A-300-318"/>。
 
 
 
クルテ・ド・リルの弟子だった<ref name="p-A-273-286"/>[[アルテュール・ド・ゴビノー]]伯爵は『人種不平等論』(1853-56)で、[[黒人]]は全人種の最下位にあり、[[黄色人種]]は体力は弱く無気力の傾向にあり自分たちで社会を創造できないとして、この二つの人種は「歴史における残骸」であるが、これに対して[[白人|白人種]]だけが文明化の能力と思慮を備えたエネルギーを持つ歴史的な人種であるとし、インド・エジプト・アッシリア・中国・ギリシアなど歴史上の文明はすべて白人種の[[アーリアン学説|アーリア民族]]によるイニシアチブによってのみ可能であったとした<ref name="hsgbino">[[#長谷川一年2000]], pp. 133-160</ref>。アーリア人の血は、ローマ人、ギリシャ人、セム人と混合して溶けていき、白人種は混交によって世界の表面から消えたとした<ref name="p-A-300-318"/>{{refnest|group=*|すでに見てきたように[[ヒューム]]や[[カント]]なども白人種を最優秀として非白人種を劣等としており{{Sfn|Jon M. Mikkelsen|2013| p=3}}{{Sfn|Charles W. Mills|2017|p=716}}、ゴビノーの主張は特殊な主張ではない。}}。ゴビノーによれば、白人種には[[セム人]]、[[ハム|ハム人]]、ヤペテ([[アーリア人]])がいるが、このなかで[[アーリア民族]]はセムやハムとは違って純血を保ち、金髪、碧眼、白い肌を持っており、卓越している<ref name="hsgbino"/>。しかし、古代ギリシャはセム化によって単一化し、ローマ帝国もセムの血が流入したため、中背で褐色の肌をした「凡庸で取り柄のない人間」「横柄で、卑屈で、無知で、手癖が悪く、堕落しており、いつでも妹、娘、妻、国、主人を売り飛ばす用意ができていて、貧困、苦痛、疲労、死をむやみに怖がる」退廃的な人間を産出した<ref name="hsgbino"/>。ただし、この「セム化」はこれまで反ユダヤ主義として嫌疑がかけられてきたが、これは白人の血に黒人の血が混入することを指しており、ユダヤ人による世界支配を批判したわけではなかった<ref name="hsgbino"/>。ゴビノーは有色人種を軽蔑していたわけではなく、黒人は力強い普遍的な想像力を持っているとしたし、ユダヤ人は自由で強く知的な民であるとした<ref name="p-A-300-318"/>。これは歴史家[[ジュール・ミシュレ|ミシュレ]]が「黒人であることは人種というより、病いである」といったのに比べれば抑制がきいたものであった<ref name="hsgbino"/>。ワーグナーはゴビノーと固い友情で結ばれていた<ref name="po585-595"/>。ゴビノーは同時代では影響力はなかったが<ref name="p-A-273-286">[[#ポリアコフ1985]],p.273-286.</ref>、[[1894年]]にルートヴィヒ・シェーマンがドイツとフランスでゴビノー協会を設立し、ワーグナー派に支援された<ref name="m98-129"/>。シェーマンの友人ルートヴィヒ・ヴィルザーは「ゲルマン人」(1914)などで北方ゲルマン人は太陽の子どもであるとした<ref>[[#モッセ1998]],p.144.</ref>
 
 
 
[[File:Ernest Renan 1876-84.jpg|サムネイル|150px|エルネスト・ルナン]]
 
影響力の少なかったゴビノーに対して、宗教史家[[エルネスト・ルナン]]は第三共和制の公式のイデオローグとなり、アーリア主義の宣伝者として大きな影響力を誇った<ref name="p-A-273-286"/>。[[1855年]]『セム系言語の一般史および比較体系』でルナンはアーリア人種が数千年の努力の末に自分の住む惑星の主人となるとき、偉大な人種を創始した聖なるイマユス山を探検するだろうと書き<ref>Histoire Générale et Systèmes Comparés des Langues Sémitiques.</ref><ref name="p-A-273-286"/>、また『近代社会の宗教の未来』(1860)で「セム人には、もはやおこなうべき基本的なものは何もない。ゲルマン人でありケルト人でありつづけよう」「セム人種は使命(一神教)を達成すると急速におとろえ、アーリア人種のみが人類の運命の先頭を歩む」と書いた<ref>Ernest Renan,De l’Avenir religieux des sociétés modernes.</ref><ref name="p-A-273-286"/>。ルナンによれば、セム人とアーリア人の間には深い溝があり、「世界で最も陰気な土地」であるユダヤの地は極端な一神教を生み、他方のキリスト教を作った北のガリラヤは快活で寛容でさほど厳格でない<ref name="or-95-109"/>。キリスト教の人類愛([[アガペー]])は、自分の兵の妻バテシバと姦淫しその夫を戦場で討死させた[[ダビデ]]の利己主義や、前王ヨラムを殺し、異教神バアルを廃した虐殺者イスラエル王エヒウ(Jehu)からではなく、異教徒であったアーリア人の祖先が産んだとした<ref name="or-95-109"/>。イエスの思想はユダヤ教から得たものでなく、完全にイエスの偉大な魂が単独で創造したのであり、イエスにはユダヤ的なものは何もなく、キリスト教とはアーリア人の宗教であり、「文明化された民族の宗教」であるキリスト教だけがヨーロッパ共通の倫理と美学を提供できるとした<ref name="or-95-109">[[#オランデール|オランデール]],p.95-109.</ref>。ルナンは、有害なイスラム教がユダヤ教を継承したと論じた<ref name="or-95-109"/>。[[1863年]]、化学者[[マルセラン・ベルテロ|マルスラン・ベルトゥロ]]はルナンへの手紙で「われわれの祖先のアーリア人」と述べ、[[イポリット・テーヌ]]は「血と精神の共同体」であるアーリアの民を賛美した<ref name="p-A-340-363"/>。他方、R・F・グラウ<ref>Rudolf Friedrich Grau (1835-93)</ref>はルナンを批判して、学芸・政治の男性的な能力を持つインド・ゲルマン人に対して、セム人は宗教を独占する女性的存在であり、神はセム的精神とインドゲルマン的性質の結婚を決定しており、この夫婦は世界を支配すると論じた<ref name="or-139-154"/>。また、[[ゴルトツィーエル・イグナーツ|イグナツ・イサーク・イェフダ・ゴルトツィーハー]]は「セム人は神話を持たない」とするルナンを批判し、ヘブライ神話もあるし、ヘブライ人もアーリア人と同様に人類史の建設者であったとし、ユダヤ人をヨーロッパ文化に同化させることを要求した<ref name="or-155-187">[[#オランデール|オランデール]],p.155-187.</ref>。
 
 
 
東洋学者で急進的保守主義者の[[パウル・ド・ラガルド]]は1850年代から合理主義や近代主義の侵入によってドイツ精神が腐食しているなどとして、プロイセンの[[ユンカー]]支配、官僚制、資本主義化を批判しドイツ人によるドイツ信仰を主張した<ref name="p-5-410-7"/>。『ドイツ書』(1878)では「ドイツ性は血の中にではなく、気質の中にある」として、内面的・霊的態度によるドイツ国民の[[スピリチュアリティ|霊的再生]]と、ドイツ民族の活性化によるドイツ統一を目指した<ref name="m98-53-60">[[#モッセ1998]],pp.53-60.</ref>。ラガルドは、パウロによってキリスト教はヘブライの律法のなかに閉じ込められ、ルター派は「腐った遺物」であり、カトリックは「あらゆる国家とあらゆる民族の敵」であると伝統的キリスト教を批判した<ref name="p-5-410-7"/><ref name="m98-53-60"/>。ラガルドは「神の王国とは民族にある」として、原始キリストの[[霊性]]にもとづくゲルマン的キリスト教を主張した<ref name="m98-53-60"/>。ラガルドは初期ヘブライ人を称賛したが、ユダヤ人は律法と教義によって化石化され、近代のユダヤ人は真の宗教を欠落させ、物質主義的な欲望によって陰謀をめぐらすような悪に転落したと批判し<ref name="m98-53-60"/>、ユダヤ教の破壊を主張した<ref name="p-5-410-7"/>。また、ユダヤ人がドイツ人になりたいのなら、なぜ霊的価値のないユダヤ教を棄てないのかと述べ<ref name="m98-53-60"/>、人間は[[バシラス属|バチルス菌]]や[[旋毛虫症|旋毛虫]]と談判するのではなく根絶するのだとし、ユダヤ人を[[マダガスカル島]]への追放を主張した<ref name="p-5-410-7"/>。このラガルドの提案は、ナチスの[[マダガスカル計画]]に影響を与えた<ref name="p-5-410-7"/>。ただし、ラガルドは宗教的な見地からの反ユダヤであり、人種的な見地からではなかったとモッセはいう<ref name="m98-53-60"/>。ラガルドはユダヤ人以外にも、スラブ人は滅ぶべきだし、トゥラン人種であるハンガリー人は滅ぶだろうとした<ref name="p-5-410-7">[[#ポリアコフ 5|ポリアコフ 5巻]],pp.410-7.</ref>。ラガルドは世紀末ドイツの青年運動、ヒトラー、ローゼンベルグに影響を与え<ref name="tada">[[#多田,32号]]</ref>、[[トーマス・マン]]はラガルドを「ゲルマニアの教師」と称賛し、[[トマス・カーライル|カーライル]]、[[バーナード・ショー|ショー]]、[[パウル・ナトルプ|ナトルプ]]、[[トマーシュ・マサリク|マサリク]]もラガルドを称賛した<ref name="p-5-410-7"/>。
 
 
 
アーリア主義が高まる一方で、ユダヤ人の人種的な強さについても論じられていった。ジャン・クリスチャン・ブダンは『医学地理学・医学統計学』(1857)でユダヤ人は長寿で死亡率が低く、あらゆる気候に適応できる「唯一のコスモポリタン民族」であるとした<ref name="p-A-363-380"/><ref>Jean Christian Marc François Joseph Boudin (1806-1867),Traité de géographie et de statistique médicales et des maladies endémiques.</ref>。自然科学者カール・フォークトは『人間学講義』(1863)でブダンを参照してユダヤ人は土着の人種の助けなしに暮らしていける唯一の人種であるとした<ref>Karl Vogt(1817 – 1895),Vorlesungen über den Menschen, seine Stellung in der Schöpfung und in der Geschichte der Erde.(1863);Leçons sur l'homme(1865)</ref><ref name="p-A-363-380"/>。人類起源多系統説のフォークトは、人間の形態の系列はニグロから始まってゲルマン人によって絶頂に達したとした<ref name="p-A-363-380"/>。一方、フィルヒョウはゲルマン人種は熱帯に適応できないと確証していた<ref name="p-A-363-380"/>。ドリュモンも『ユダヤのフランス』で、ユダヤ人だけがあらゆる気候のもとで生きる先天的能力を持っているが、「同時に他人に害を与えずに自らを維持することができない」とした<ref name="p-A-363-380"/>。地理学者リヒャルト・アンドレーは、ユダヤ人は遺伝的に伝えられる古いユダヤ精神を保持するために外部の血の注入や輸血に打ち勝つことができたとした<ref>Richard Andree(1835-1912),Zur Volkskunde der Juden. 1881.</ref><ref name="p-A-363-380"/>。
 
 
 
スイスの言語学者アドルフ・ピクテ<ref>Adolphe Pictet(1799 – 1875) </ref>は、[[1859年]]『言語古生物学』で原始アーリア人の故地をイランとし、アーリア人は「血統から来る美しさと知性によって他のすべての人種に優越して」おり、神の企図を担うとした<ref name="p-A-340-363"/>。ピクテによれば、アーリア人は文明化の能力を賦与されており、発展させる自由を持ち、展開し適応する受容性を持つのに対して、ヘブライ人は文明化の能力に欠けており、保守と不寛容を特徴とする<ref name="or-139-154">[[#オランデール|オランデール]],p.139-154.</ref>。
 
 
 
アーリア主義の宣伝者としてルナンよりも影響力があったのが、[[フリードリヒ・マックス・ミュラー]]である<ref>[[#ポリアコフ1985]],p.274.</ref>。ミュラーは[[1860年]]、自分はアーリアという用語をインド=ヨーロッパという意味で用いた責任者であると述べ<ref name="p-A-261-271"/>、ミュラーはインド人、ペルシア人、ギリシア人、ローマ人、スラヴ人、ケルト人、ゲルマン人は同一の祖先であり、そのなかでアーリア人はセム人や[[トゥーラーン|トゥラン]]人種との戦いを続けて歴史の主人となったとした<ref name="p-A-273-286"/>。しかし、1872年、ミュラーは[[ストラスブール大学]]講演でドイツへの愛国心を明らかにし、貨幣の支配と民族主義の肥大化に警戒しながら、ドイツは昔の素朴な美徳を失いつつあるとしたうえで、アーリア人種説は非化科学的であるとした<ref name="p-A-273-286"/>。
 
 
 
[[1862年]],解剖学者[[ピエール・ポール・ブローカ|ポール・ブロカ]]はアーリア理論は確実性のあるものではないが、「アーリア人種」という用語は完全に科学的であるとした<ref name="p-A-340-363"/>。セム人種という用語は大きな誤りであるとし、ヘブライの民について「ヘブロイド」という新語を提案した<ref name="p-A-340-363"/>。またブロカは[[骨相学|頭蓋測定]]器具を数多く作った<ref name="p-A-340-363"/>。当時の[[骨相学|頭蓋学]]ではヨーロッパ人の頭蓋は複雑な凹凸を持ち、劣等人種よりも優秀であるとされた<ref name="p-A-340-363"/>。ブローカの弟子のトピナール<ref>Paul Topinard (1830-1911)</ref>は、フランス人は純血アーリア人ではないとしながら、有色人種は数えることに遺伝的生理学的な不適性があり、アーリア人は数学への適性を持つとした<ref name="p-A-340-363"/>。[[1893年]]にトピナールは、ガリア人は金髪で長頭の征服者と、褐色の髪で背の低い短頭の被征服者から成り立っているとして、金髪の戦死は商人や実業家になったが、短頭人は多産で将来フランスは彼らのものになるのではないかと述べた<ref name="p-A-340-363"/>。
 
 
 
[[1867年]]、聖職者ダンバー・ヒース卿はセム人種はキリストを悪魔とみたが、アーリア人種はキリストに神をみたと述べた<ref name="p-A-340-363"/>。アーリア人種はキリスト教の教義を作ったが、三位一体はセム人の本能に無縁であったとして、キリスト教はあらゆる点でアーリア的な宗教であるとした<ref name="p-A-340-363"/>。
 
 
 
ルイ・ジャコリオの『インドにおけるバイブル<ref>Louis Jacolliot,La Bible dans l'Inde, Vie de Iezeus Christna (1869)</ref>』(1868)でモーゼは[[インド神話]]の[[マヌ]]であり、イエスはゼウスで、旧約は迷信の寄せ集めにすぎず、ユダヤ人は堕落した民であり、モーゼはファラオの慈悲で育てられた狂信的な奴隷であるとした<ref name="p-A-273-286"/>。イギリスの政治家(首相)[[ウィリアム・グラッドストン|グラッドストーン]]はジャコリオの信奉者であった<ref name="p-A-273-286"/>。ニーチェは『悲劇の誕生』(1871)でアーリア的本質とセム的本質を区別した<ref name="p-A-340-363"/>。
 
 
 
アメリカの奴隷制支持者のノットとグリッドン<ref>J.C.Nott,G.R.Gliddon</ref>は『人類の類型』(1854)でユダヤ人種や黒人種は別個に作られたとした<ref name="p-A-363-380"/>。文化人類学[[エドワード・バーネット・タイラー|エドワード・タイラー]]は、言語と人種は正確に一致しないと警戒しながら、「わがアーリアの祖先」について語った<ref name="p-A-340-363"/>。オーストリアの文化史学者ユリウス・リッペルト<ref>Julius Lippert (1839–1909)</ref>はアーリア人を農耕民族とし、セム人は遊牧民族で農業の能力がなく、白人種の「枯れた小枝」とした<ref name="p-A-363-380"/>。
 
 
 
フランスの博物学者カトルファージュは[[普仏戦争]](1870-71)でパリが包囲された時、[[プロイセン]]による野蛮はアーリア人に先行する原始住民のものでしかありえない、[[プロイセン|プロシア人]]は真のゲルマン人ではなく、[[フィン人]]またはスラブ-フィン人であり、高い文明に対するフィン人の暗い恨みによってパリの美術館は砲撃されたとした<ref>[[#ポリアコフ1985]],p.348.</ref>。カトルファージュの説に対してドイツ、イタリア、イギリスの学者は非難した<ref name="p-A-340-363"/>。ドイツの民族学者アドルフ・バスティアンは、プロイセンにはフィン人もスラブ人もいないし、ゲルマン人はこれらを完全に吸収して解体してしまったとし、東へ進むドイツ人は強者の法則、生存闘争の法則に従って弱い人種を仮借なく放逐したし、ゲルマン人はケルト-ラテンのおしゃべりによって心をくもらされる必要はなかったとした<ref name="p-A-340-363"/>。
 
 
 
解剖学者[[ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・フィルヒョウ|ルドルフ・フィルヒョウ]]は[[1871年]]、統一ドイツの全域で兵士の頭蓋測定を試みたが軍が拒否したため、髪、眼、顔色などの特徴の生徒の調査へと変更し、オーストリア、ベルギー、スイスの協力も得られた<ref name="p-A-340-363"/>。調査ではユダヤ人は除かれた<ref name="p-A-340-363"/>。10年間の調査では生徒1500万が対象となり、またフィルヒョウは[[1885年]]にフィンランドも調査した<ref name="p-A-340-363"/>。フィンランドが一般の意見と逆に圧倒的な比重で金髪であったため、フランスのカトルファージュの説は無に帰した<ref name="p-A-340-363"/>。フィルヒョウの調査で、西へ向かったゴート人、フランク人、ブルグンド人などのゲルマン人は土着の住民のなかに埋まってしまったが、東へ向かったゲルマン人は「純粋にドイツ的な新しい民族性」を形成し、またスラヴ人の侵入も確認されなかった<ref name="p-A-340-363"/>。なお、フィルヒョウはゲルマン民族主義者ではなく、汎ゲルマン主義や反ユダヤ主義を批判して警告していた<ref name="p-A-340-363"/>。
 
 
 
エルンスト・フォン・ブンゼン<ref>Ernst Christian Ludwig von Bunsen (1819 – 1903) </ref>は[[1889年]]、アダムはアーリア人であり、セム人は蛇であるとした<ref name="p-5-410-7"/>。哲学者[[アルフレッド・フイエ|フイエ]]は[[1895年]]、フランス人はアーリア的要素が減少してケルト-スラヴ人またはトゥラン人種になりつつあり、ヨーロッパはゆっくりとロシア化していると警告した<ref name="p-A-340-363"/>。
 
 
 
19世紀までのドイツの学者、ペシェ、ペンカ、ヘーン、リンデンシュミットらは原始アーリア人を金髪で青い目をした長頭人種とした<ref name="p-A-340-363"/>。他方、フランスのシャヴェ、ド・モルティユ、ウィヴァルフィらは原始アーリア人をガリア人のような短頭人種であるとした<ref name="p-A-340-363"/>。これらの大陸の理論に対してイギリスの言語学者アイザック・テイラーは[[1890年]]に、原始アーリア人はウラル・アルタイの短頭人種であるとした<ref name="p-A-340-363"/>。
 
 
 
19世紀末になるとアーリア説について懐疑的な見解が出されるようになり、[[1892年]]、考古学者サロモン・ライナハは原始アーリア人についての説は根拠のない仮説で、それが今も存在しているかのように語ることはばかげたことだと述べた<ref name="p-A-340-363"/>。
 
 
 
フリードリヒ・フォン・ヘルヴァルトは『文化史』(1896-98)<ref>Friedrich von Hellwald,Kulturgeschichte in ihrer natürlichen Entwicklung bis zur Gegenwart (1896-98).</ref>において、ユダヤ教とキリスト教の矛盾はセム人とアーリア人の矛盾に帰着されるとした<ref name="p-A-363-380"/>。
 
 
 
==== 進化論から優生学・人種衛生学へ ====
 
{{Main|進化論|優生学}}
 
[[ネアンデルタール人]]をフールロットと共同で発見した解剖学者シャーフハウゼン<ref>Hermann Schaaffhausen。発見は1856年。</ref>は、宗教の高度な思想を受け入れることのできない土着民は動物に近く、またアジアとアフリカの猿は土着の人種に類似していることから、[[人類の進化#多地域進化説|人類多重起源説]]を主張した<ref name="p-A-363-380"/>。
 
 
 
[[1864年]]、[[アルフレッド・ラッセル・ウォレス|ウォレス]]は[[自然選択]]説から導かれることとして、精神組織が発達した知性の高いゲルマン人種のような優等人種は増加する一方で、劣等人種は逐次消滅してきたとし、人間の進化は有色人種の消滅まで続くとした<ref name="p-A-381-405"/><ref>『自然選択理論から導かれる人種の起源』The Origin of Human Races and the Antiquity of Man Deduced from the Theory of "Natural Selection",(1864)</ref>。
 
 
 
『[[種の起源]]』(1859)で高名になった[[チャールズ・ダーウィン|ダーウィン]]は、異なった人種の交配による退化を認め、その原因は交配によって決められる隔世遺伝のせいであると論じ<ref>The Variation of Animals and Plants under Domestication.1868.</ref><ref name="p-A-363-380"/>、また『人間の由来』(1871)で前面には出していないが人種の優劣を当然とみなしていた<ref name="p-A-381-405"/>。イギリスではアーリア主義が[[進化論]]によって普及していったが、フランスやドイツのような反ユダヤキャンペーンとはならなかった<ref name="p-A-273-286"/>。ダーウィンを弁護した[[トマス・ヘンリー・ハクスリー|ハクスリー]]はアーリア人は芸術と科学を作り、[[セム人]]はヨーロッパの宗教の基本を作ったとした<ref name="p-A-273-286"/>。ただし、ハクスリーは女性とニグロの解放に好意を示しながらも双方の遺伝的劣等を確信していた<ref name="p-A-363-380"/>。
 
 
 
ドイツの生物学者[[エルンスト・ヘッケル]]は『自然創世史』(1868)で病弱の幼児を殺害した古代スパルタ人に見られるような[[人為選択|人為淘汰]]を肯定した<ref name="sano98">[[#佐野1998]]</ref>。
 
 
 
ダーウィンの従兄弟の遺伝学者[[フランシス・ゴルトン|ゴルトン]]は『遺伝的天才』(1869)で知性は血統によって遺伝的なもので、白人種はニグロやオーストラリア人種よりも優秀であり、また適切な政策で高度な人種を作り出すことができるとした<ref name="p-A-381-405"/>。これは人間に[[人為選択]]を施すことで改良することを意味した。ゴルトンは、聖職者に独身を強要したり異端裁判で大胆な種子を弾圧してきたカトリック教会や新教徒を弾圧したルイ14世を非難する一方で、イギリスは[[移民]]によって利益を得てきたとしてロシアからのユダヤ人移民を好意的に扱うなど反ユダヤ主義者ではなかった<ref name="p-A-381-405"/>。しかし、ゴルトンは共同体の良い血統を残すために、わが人種の能力を弱体化させる習慣や偏見に対する聖戦を宣言する時が来るだろうとした<ref name="p-A-381-405"/>。ゴルトンは[[1883年]]に[[優生学]](Eugenics)を造語した<ref name="sano98"/>。フランスの解剖学者ブローカも雑種現象は生物学的に有害としていた<ref name="p-A-363-380"/>。
 
 
 
進化論は、[[適者生存]]の法則によって人類は白人種の下に進化していくとした社会学者[[ハーバート・スペンサー|スペンサー]]{{refnest|group=*|Principles of Biology,1864<ref name="p-A-381-405"/>}}や[[ウィリアム・グラハム・サムナー|サムナー]]、ヘッケルによって[[社会進化論]]へと発展した。スペンサー、ウォレス、サムナーも優良人種の保持は自然淘汰によって実現すると楽観していた<ref name="p-A-381-405"/>。一方、社会主義者であると同時に優生学者でもあった統計学者[[カール・ピアソン|ピアソン]]は、アーリア人種とキリスト教徒は奴隷として見下してきた人々によって押し返されて目を覚ますだろうと悲観的に見た<ref name="p-A-381-405"/>。イギリスではピアソンや[[ロナルド・フィッシャー]]などの[[ネオダーウィニズム]]へと発展していった。
 
 
 
[[1873年]]、[[スイス]]の植物学者[[アルフォンス・ドゥ・カンドール|カンドル]]は遺伝の絶大な力を説明するなか、ヨーロッパにユダヤ人のみが住んでいれば戦争はなくなり、道徳感覚が傷つけられることも人々の失業もなくなり、文芸や科学は前進していく、しかしユダヤ人の理想都市は、ギリシア人、ラテン人、カンタブル人(古代スペイン)、ケルト人、ゲルマン人、スラブ人の末裔によって略奪されるだろう、これが自然史の法則であると論じた<ref name="p-A-363-380"/><ref>カンドル『科学と科学者の歴史』</ref>。カンドルは他の箇所では、厳しい旧約聖書に対して新約聖書には優しさ、思いやり、謙虚さがあり、宗教教育だけで育成したイスラエル人は暴力的であるとした<ref name="p-A-363-380"/>。哲学者[[テォデュール・アルマンド・リボー|リボー]]は『遺伝-心理学的研究』(1873) でユダヤ人種は文明への憎悪に満ちており、悪徳を宗教のように愛しており、彼らの最大の野心はキリスト教徒から盗むことであると論じた<ref>L'hérédité. Étude psychologique(1873) </ref><ref name="p-A-363-380"/>。ニーチェは、プラトンやアリストテレスが「理想国家」にとって無用な者の遺棄を肯定し、古代ギリシアでは不具の新生児遺棄は普通のことであったことから「不具の子供を生かしておく方がもっと残忍なことだ」という聖者を書いた<ref name="sano98"/><ref>プラトン『国家』5-9。アリストテレス『政治学』7-16。『悦ばしき知識』「聖なる残忍」</ref>。
 
 
 
進化論や社会ダーウィニズムは、ドイツ帝国やアングロサクソン諸国で力の福音が説かれる際に権威となった<ref name="p-A-381-405"/>。トライチュケは諸民族は生存競争によってしか繁栄できないとし、また戦争が永久になくなってしまえば、人間の魂の至高の力が減退し、エゴイズムが支配すると論じた<ref name="p-A-381-405"/>。ドイツのジャーナリストのベータは『ダーウィン、ドイツおよびユダヤ人、またはユダヤ-イエズス会』(1876)で寄生的なセム人と生産的なゲルマン=アーリア人との間での生存競争に対して、反ユダヤ法の公布を要求し<ref name="p-A-381-405"/><ref>Ottomar Beta:Darwin,Deutschland und die Juden oder Juda-Jesuitismus. [http://www.mdz-nbn-resolving.de/urn/resolver.pl?urn=urn:nbn:de:bvb:12-bsb11316641-0]</ref>、ゲルマンの民族精神を退化させる「寄生生物の根絶」を主張した<ref>W.ベンツ『第三帝国の歴史』現代書館2014,p.141</ref>。農業家アレクサンダー・ティレは社会進化のために醜い人間の結婚を禁止すべきだと説いた<ref name="sano98"/>。アメリカ大統領[[セオドア・ルーズベルト]](任期1901-9)は絶えず生存闘争を語った<ref name="p-A-381-405"/>。
 
 
 
[[1899年]]、遺伝学者・人類学者ヴァシェ・ド・ラプージュ<ref>Georges Vacher de Lapouge(1854-1936)</ref>は、フランス革命は破産したが、それは権力者が金髪の長頭人から短頭人に代わったためであったとして、このまま民主主義が進展すればもっとも短い頭の短頭人種の下層階級に権力が集中していき、フランスの偉大さを作った長頭人種のアーリア人はほとんど消滅していくと述べ、生まれながらの奴隷である短頭人種は犬のように自分の主人を探すためアーリア人がいないところでは中国人やユダヤ人の支配下で生きるとした<ref name="p-A-340-363"/>。そして、20世紀には頭指数が高いか低いかのために数百万の人々が殺し合い、大量虐殺を目の当たりにするだろうと予言した<ref name="p-A-340-363"/>。ラプージュは「悪貨は良貨を駆逐する」の[[グレシャムの法則]]を援用して「悪い血は良い血を駆逐する」とも述べた<ref name="p-A-363-380"/>。ラプージュは反ユダヤ主義者というよりも、劣等の短頭人種を「アルプス人」とし、長頭人種のアーリア人を「ヨーロッパ人」と定義した<ref name="matsuoTakeshi"/>。ラプージュはアーリア人の退化の原因である短頭人種と長頭人種の混血を避けるために[[優生学]]によって退化した者の断種、生殖能力の剥奪を提唱した<ref name="matsuoTakeshi"/>。法学者でもあったラプージュは遺産の相続と遺伝について考察し、父権を否定しながら、近親交配が遺伝の力をひきあげるし、優れた人種が死ねば国家は死滅するとした<ref name="matsuoTakeshi"/>。またラプージュは、子に去勢を強いる父である神とキリスト教を否定して、太陽と男根を崇拝する宗教を提唱した<ref name="matsuoTakeshi"/>{{refnest|group=*|ノーマン・コーンは、西欧社会にとって唯一神を創設したユダヤ人は「父」であり、「悪い父」であったと指摘している<ref name="matsuoTakeshi"/>}}。ラプージュの信奉者はヨーロッパ諸国におり、ヴィルヘルム2世も「フランスの唯一の偉人」と称賛した<ref name="p-A-340-363"/>。
 
 
 
優生学者アルフレート・プレーツ<ref>Alfred Ploetz (1860 – 1940) </ref>は、人種の感覚を鈍らせた原因としてキリスト教と民主主義を批判した<ref name="p-A-381-405"/>。カウツキーの社会主義やフェリクス・ダーンの人種主義に影響されたプレーツは『我々の人種の能力と弱者の保護:人種衛生学と社会主義的理想の研究』(1895)において、遺伝子次元での不適切な要素を除去することによって適者生存と社会主義の調和を図り、アーリア人種を保護するための[[人種衛生学]](民族衛生学)を提唱した<ref>Die Tüchtigkeit unserer Rasse und der Schutz der Schwachen. Ein Versuch über Rassenhygiene und ihr Verhältnis zu den humanen Idealen, besonders zum Socialismus. [[#今野元]].p.216-7.</ref>。ただし、ユダヤ人もアーリア起源とした<ref name="p-A-381-405"/>。1904年、プレーツは社会学者A・ ノルデンホルツや動物学者L・ プラーテらと世界初の優生学専門誌『人種社会生物学』を創刊し<ref name="sano98"/>、第二次世界大戦前後には攻撃的な生物学思想の主要機関誌となった<ref name="p-A-381-405"/>。1905年、プレーツは人種衛生学会を作り、ヘッケル、[[アウグスト・ヴァイスマン|ヴァイスマン]]、ゴルトンが加わった<ref name="p-A-381-405"/>{{refnest|group=*|ポリアコフは[[#ポリアコフ 5|『反ユダヤ主義の歴史』5巻,p395-6]]で、プレーツが反ユダヤ主義者のテオドール・フリッチュや、オーストリアの[[アドルフ・ヨーゼフ・ランツ|ランツ]]を称賛し、1908年にはフリッチュとドイツ再生のための協会を創設したとしているが、解剖学者Gustav Theodor Fritsch(1838 - 1927)と反ユダヤ主義者Emil Theodor Fritsche(1852 - 1933)を間違えている可能性がある。}}。1907年には北方協会(Ring der Norda)を創設した<ref name="p-A-381-405"/><ref>Robert Proctor,Racial Hygiene: Medicine Under the Nazis,Harvard University Press,1990,p.24-6.</ref>。社会学者[[マックス・ヴェーバー]]によって[[1910年]]の第一回社会学者大会へ招待されたプレーツは講演「人種概念と社会概念」で、社会発展の鈍化の原因は社会的弱者の保護政策や生存闘争に基づく自然淘汰の低減にあるとし、民族衛生学的な解決策としては、性的淘汰によって劣悪な遺伝子の継承を防ぐこと、そして「究極的な解決策」としては生殖細胞の段階への淘汰によって劣等な生殖細胞を消滅させること(後の[[遺伝子操作]])を提唱した<ref name="sano98"/>。ヴェーバーはプレーツの講演を聞くと人種概念が曖昧であり<ref name="konno">[[#今野元]]</ref>、「(新しい科学の民族生物学が)それ固有の問題の実質的な限界を踏みはずすようなことがあってはならない」と批判した<ref name="sano98"/>。ただし、ヴェーバーも黒人やインディアンにも知的な上層部がいるが白人種と混血が多く、また知的に未熟な黒人を「半猿ども」と表すように白人種の優越を認めていた<ref name="konno"/>。一方で、外見が白人なのに黒人の混血であることを重視するアメリカ人を批判した<ref name="konno"/>。またヴェーバーは「職業としての学問」(1917)では重態の患者や精神障害者の家族が安楽死を嘆願した場合でも医師は患者の命を保持しようとするが、「生命が保持に値するかどうか」は医学の問うところではないとした<ref name="sano98"/>。
 
 
 
人種衛生学はプレーツの他に人類学者オット・アモン<ref>Otto Ammon『人間における自然淘汰』(1893)『社会秩序とその自然的基礎』(1895)</ref>、シャルマイヤー<ref>Wilhelm Schallmayer『社会学的・政治的意義における遺伝と淘汰』(1903)</ref>らが展開した<ref name="sano98"/>。1892年にはスイスの精神科医オーギュスト・フォレルが民族衛生学の観点から精神障害者の女性に対して[[断種]]手術を施し、1897年にはドイツで婦人科医エルヴィン・ケーラーが遺伝病の女性の断種手術([[卵管]]切除)を行った<ref name="sano98"/>。法律家アドルフ・ヨストは『死への権利』(1895)で、不治の病人は安楽死への権利をもつし、不治の精神病患者の殺害は本人の意思表示がなくとも医師の判断によって可能とした<ref name="sano98"/>。
 
 
 
1908年にはイギリスで優生教育委員会、1910年にはアメリカで優生記録局が作られた<ref name="p-A-381-405"/>。アメリカでは優生学者[[チャールズ・ダベンポート|ダベンポート]]が[[1911年]]には『人種改良学』を発表した<ref>Heredity in Relation to Eugenics.『人種改良学』大日本文明協会事務所 (1914)</ref>。ゴルトンの優生学では常習犯の隔離や精神障害者の生殖の制限も主張され、アメリカでは1907年以降各州で[[断種法]]が制定され、移民排斥法や[[禁酒法]]などにも影響が見られた<ref name="sano98"/>。
 
 
 
=== ワーグナーと反ユダヤ主義 ===
 
[[ファイル:ワーグナーの写真(1871年).jpg|サムネイル|180px|ワーグナー]]
 
[[ファイル: Giacomo Meyerbeer nuorempana.jpg |サムネイル|180px|ワーグナーを庇護したユダヤ人作曲家[[ジャコモ・マイアベーア|マイアベーア]]。]]
 
 
 
作曲家[[リヒャルト・ワーグナー]]は若い頃には青年ドイツ派の影響を受けて、新しい音楽はイタリア的でもフランス的でもドイツ的でもないところから生まれると論じていた{{refnest|group=*|ワーグナーは21歳で書いた[[1834年]]の最初の論文『ドイツのオペラ』では、歌唱美を持つイタリア音楽や、イタリアオペラの欠点を補ったグルックなどのフランス音楽に比して、ドイツ音楽は学識的(gelehrt)であり、民衆の声や真実の生活からかけ離れており、「ドイツなど世界のひとかけらにすぎない」と感じていた<ref>[[#吉田 2009]],p.46-49.</ref>}}。
 
 
 
[[1837年]]から[[1840年]]頃までワーグナーは、パリで成功したユダヤ人作曲家[[ジャコモ・マイアベーア]]の庇護を受けた{{refnest|group=*|マイアベーアはパリで[[1824年]]に『{{仮リンク|エジプトの十字軍|en|Il crociato in Egitto}}』を成功させ、『[[悪魔のロベール]]』(1831年)、[[サン・バルテルミの虐殺]]に基づく[[グランド・オペラ]]『[[ユグノー教徒 (オペラ)|ユグノー教徒]]』(1836年)の大ヒットなどで名声を博し、[[1842年]]には[[ベルリン国立歌劇場|ベルリン宮廷歌劇場]]音楽監督に就任した。ワーグナーは生活費の工面や『[[リエンツィ]]』や『[[さまよえるオランダ人]]』の上演の庇護をマイアベーアから受けた<ref name="po574-585"/>}}。ワーグナーもマイアベーアはグルック、ヘンデル、モーツァルトと同じくドイツ人であり、ドイツの遺産、感情の素朴さ、音楽上の新奇さに対する恥じらい、曇りのない良心を保持しており、フランスとドイツのオペラを美しく統一した作曲家であると称賛した<ref name="po574-585"/><ref name="y-w-56-66">[[#吉田 2009]],p.56-66.</ref>。また、マイアベーアは多くのユダヤ人がキリスト教に改宗する時代において、改宗を拒否した唯一の例であった<ref>[[#ポリアコフ III]],p.359-360.</ref>。一方でマイアベーアは聴衆のほとんどは反ユダヤ主義であるとハイネへの手紙で述べている<ref name="po574-585"/>。[[1840年]]の「ドイツの音楽について」でワーグナーは、ドイツ国はいくつもの王国や選帝侯国、公国、自由帝国都市に分断されており、[[国民]]が存在しないために音楽家も地域的なものにとどまっていると嘆いたうえで、しかしドイツはモーツァルトのように、外国のものを普遍的なものにつくりかえる才能があると論じた<ref name="y-w-56-66"/>。同年、反フランス的なドイツ愛国運動「ライン危機」がドイツで広がり愛国歌謡が作られたが、ワーグナーはこれを嫌悪した{{refnest|group=*|[[1840年]]にフランスのティエ−ル内閣がライン川を国境とすべきだとドイツに要求すると、これを「ライン危機」とする反フランス的な愛国運動がドイツで広がり、「ドイツのライン」「ラインの守り」「ドイツの歌」などの愛国歌謡が作られたが、ワーグナーはこれには吐き気を催すといって共感しなかった<ref name="y-w-70-71">[[#吉田 2009]],p.70-71.</ref>}}。
 
 
 
しかし、1839年から1842年春までパリに住んだワーグナーは、パリの音楽界に反感を持つようになり、偽名で発表したエッセイ「ドイツ人のパリ受難記」(1841)では「パリでドイツ人であることは総じてきわめて不快である」と書き、ドイツ人は社交界から排除されているのに対して、パリのユダヤ系ドイツ人はドイツ人の国民性を捨て去っており、銀行家はパリでは何でもできる、と書いた<ref name="y-w-56-66"/>。ワーグナーの身近にいたマイアベーアは事実、[[サクラ (おとり)|偽客(サクラ)]]を動員したり、ジャーナリストを買収するなどしており、ハイネもそうして獲得したマイアベーアの名声に対して「金に糸目をつけずにでっちあげた」と批判していた<ref name="y-w-56-66"/>。成功しないワーグナーは次第にマイアベーアが妨害していると思い込むようになり、[[1842年]]頃には、ワーグナーは[[ロベルト・シューマン|シューマン]]への手紙でマイアベーアを「計算ずくのペテン師」と呼ぶようになった<ref name="po574-585"/>。この頃、[[ハインリヒ・ハイネ|ハイネ]]から素材をとり『さまよえるオランダ人』(1842年)を作成した<ref name="ItoWag"/>。ワーグナーはハイネと親しく、ハイネがユダヤ系の[[ルートヴィヒ・ベルネ]]を『ベルネ覚書』で批判すると、ワーグナーはハイネを擁護した<ref name="ItoWag"/>。[[1843年]]にワーグナーは、イタリア人は「無節操」で、フランス人は「軽佻浮薄」であり、真面目で誠実なドイツ人と対比させた{{refnest|group=*|[[1843年]]の「自伝スケッチ」。こうしたドイツの評価にはパリでの不遇が背景にあるといわれる<ref name="po574-585"/>}}。
 
 
 
[[1842年]]、ワーグナーはパリを去って[[ザクセン王国]]に戻り、[[ドレスデン]]の[[シュターツカペレ・ドレスデン|ザクセン国立歌劇場管弦楽団]]指揮者となる<ref name="po574-585"/>。当時のワーグナーはドレスデン宮廷歌劇場監督で社会主義者のアウグスト・レッケルの影響で、プルードン、[[フォイエルバッハ]]、[[バクーニン]]など[[アナーキズム]]や社会主義に感化されており、国家を廃棄して[[アソシエーショニズム|自由協同社会(アソシエーション)]]を望んでいた<ref name="y-w-71-83">[[#吉田 2009]],p.71-83.</ref>。ワーグナーは[[1846年]]、ザクセン王立楽団の労働条件の改善や団員の増強や合理的な編成を要求したが、総監督リュッティヒャウ男爵はすべて却下し、さらに翌[[1847年]]にワーグナーは宮廷演劇顧問のカール・グツコーの無理解な専制を上訴したが、取り合ってもらえなかったため、辞任した<ref name="y-w-71-83"/>。1847年夏には、[[ヤーコプ・グリム]]の『ドイツ神話学』に触発され、古代ゲルマン神話を研究した<ref>[[#吉田 2009]],p.173.</ref>。
 
 
 
[[1848年]]3月のフランスのような「国民」をドイツで実現することを目指した[[ドイツにおける1848年革命|ドイツ三月革命]]では、レッケルがドレスデンで「祖国協会」を組織し、公職を追放されたが、宮廷楽長ワーグナーはこの協会に加入していた<ref name="y-w-71-83"/>。ワーグナーは5月に宮廷劇場に代わる「国民劇場」を大臣に提案したが、劇場監督が反対したため却下された<ref name="y-w-71-83"/>。6月には祖国協会で、共和主義の目標は貴族政治を消し去ることであり、階級の撤廃と、すべての成人と女性にも参政権を与えるべきであるとして、プロイセンやオーストリアの君主制は崩壊すると、演説で述べた<ref name="y-w-84-91">[[#吉田 2009]],p.84-91.</ref>。さらに、美しく自由な新ドイツ国を建設して、人類を解放すべきであると述べたが、この演説は、共和主義者と王党主義者からも攻撃された<ref name="y-w-84-91"/>。また、この演説では金権とユダヤ人からの解放について演説したともいわれる<ref name="ItoWag"/>。7月にはヘーゲルの歴史哲学に影響を受けて、「ヴィーベルンゲン、伝説に発した世界史」や「ジークフリートの死」の執筆をはじめた<ref name="y-w-84-91"/>。ワーグナーは、レッケルを通じてバクーニンと知り合い、[[1849年]][[4月8日]]の「革命」論文では、革命は崇高な女神であり、人間は平等であるため、一人の人間が持つ支配権を粉砕すると主張した<ref name="y-w-84-91"/>{{refnest|group=*|ただし、この文書の作者がワーグナーであることは証明されていない<ref>[[#吉田 2009]],p.94.</ref>。}}。
 
 
 
1849年5月の[[#1848年革命とユダヤ人解放|ドレスデン蜂起]]でワーグナーもバリケードの前線で主導的な役割を果たした<ref name="y-w-84-91"/>。ワーグナーはドレスデンを脱出したが、指名手配を受けて[[スイス]]の[[チューリッヒ]]に亡命した<ref name="y-w-84-91"/>。チューリッヒでワーグナーは『芸術と革命』(1849)を著作し、古代ギリシャ悲劇を理想としたが、アテネも利己的な方向に共同体精神が分裂したため衰退し、ローマ人は残忍な世界征服者で実際的な現実にだけ快感を覚え、またキリスト教は生命ある芸術を生み出すことはできなかったとキリスト教芸術のすべてを否定した<ref name="y-w-97-140">[[#吉田 2009]],p.97-140.</ref>。一方、ローマ滅亡後のゲルマン諸民族はローマ教会への抵抗に終始したし、またルネサンスは産業となって堕落したとする<ref name="y-w-97-140"/>。さらに近代芸術は、その本質は産業であり、金儲けを倫理的目標としていると批判した上で、未来の芸術はあらゆる国民性を超越した自由な人類の精神を包含する、と論じた<ref name="y-w-97-140"/>。また、同年の『未来の芸術作品』では、共通の苦境を知っている民衆(Volk)と、真の苦境を感じずに利己主義的な「民衆の敵」とを対比させて、「人間を機械として使うために人間を殺している現代の産業」や国家を批判して、未来の芸術家は音楽家でなく民衆である、と論じた<ref name="y-w-97-140"/>。
 
 
 
亡命先の[[スイス]]で[[ゲルマン神話]]への考察を深め、1849年には『ヴィーベルンゲン 伝説から導き出された世界史』で伝説は歴史よりも真実に近いとして、ドイツ民族の開祖は神の子であり、ジークフリートは他の民族からはキリストと呼ばれ、ジークフリートの力を受け継いだニーベルンゲンはすべての民族を代表して世界支配を要求する義務がある、とする神話について論じた<ref>Die Wibelungen. Weltgeschichte aus der Sage (1849)</ref><ref name="y-w-163-9">[[#吉田 2009]],p.163-9.</ref><ref name="po574-585"/>。[[1848年革命]]の失敗によって、コスモポリタン的な愛国主義は、1850年代には排外的なものへと変容したが、ワーグナーも同時期にドイツ的なものを追求するようになっていった<ref name="y-w-163-9"/>。
 
 
 
[[1849年]]、テーオドーア・ウーリクがマイアベーアの『{{仮リンク|預言者 (オペラ)|label=預言者|en|Le Prophète (opéra)}}』を批判した。翌[[1850年]]、ワーグナーが変名で『[[音楽におけるユダヤ性]]』を発表し、ユダヤ人は模倣しているだけで芸術を作り出せないし、芸術はユダヤ人によって嗜好品へと堕落したと主張した<ref name="ItoWag">[[#伊藤嘉啓1981]],pp.1-19. </ref><ref name="aritaWag">[[#有田亘]],p31-42</ref>。また、「ユダヤ人は現に支配しているし、金が権力である限り、いつまでも支配し続けるだろう」とも述べた<ref name="ItoWag"/>。ワーグナーは1850年以前はユダヤ人の完全解放を目指す運動に与していた<ref name="po574-585">[[#ポリアコフ III]],p.574-585.</ref>。ワーグナーは『音楽におけるユダヤ性』で、マイアベーアを名指しでは攻撃せずに、ユダヤ系作曲家[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン・バルトルディ]]を攻撃し、またユダヤ解放運動は抽象的な思想に動かされてのもので、それは自由主義が民衆の自由を唱えながら民衆と接することを嫌うようなものであり、ユダヤ化された現代芸術の「ユダヤ主義の重圧からの解放」が急務であると論じた<ref name="po574-585"/>。ただし、ワーグナーは[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]を『[[フィンガルの洞窟 (メンデルスゾーン)|ヘブリデス]]』序曲(1830年)を称賛し、完全な芸術家であるとも評価していた<ref name="po574-585"/>。『音楽におけるユダヤ性』を発表して以降、ワーグナーはマイアベーアの陰謀で法外な非難を受けたと述べ、1851年にワーグナーは[[フランツ・リスト|リスト]]に向けて、以前からユダヤ経済を憎んでいたと述べ<ref name="ItoWag"/>、[[1853年]]にはユダヤ人への罵詈雑言をリストの前で述べるようになっていた<ref name="po574-585"/>。他方で、ワーグナーはユダヤ人奏者を庇護したり、起用することも行った{{refnest|group=*|ウクライナのユダヤ人ピアノ奏者ヨーゼフ・ルービンシュタインはワーグナーの『音楽におけるユダヤ性』には一点の疑義もないが、自殺するか、ワーグナーに師事するかしか残されていないと述べて、ワーグナーはルービンシュタインを庇護し、専属奏者とした<ref name="po585-595">[[#ポリアコフ III]],p.585-595.</ref>。同じくカール・タウジヒもユダヤ人でワーグナーの庇護下にあったし、ワーグナーが[[ローエングリン]]と[[ジークフリート (楽劇)|ジークフリート]]役に好んで起用した歌手で後に[[プラハ国立歌劇場|プラハ新ドイツ劇場]]監督になるアンゲロ・ノイマンもユダヤ人であった<ref name="po585-595"/>}}。
 
 
 
[[1851年]]の『オペラとドラマ』でワーグナーは、古代ギリシャ人の芸術を再生できるのはドイツ人であると論じ、また死滅したラテン語にむすびついたイタリア語やフランス語とは違って、ドイツ語は「言語の根」とむすびついており、ドイツ語だけが完璧な劇作品を成就できる、と論じた<ref>[[#吉田 2009]],p.155-160.</ref>。1851年12月にフランスで[[ナポレオン3世|ナポレオン3世のクーデター]]が起きると、ワーグナーは革命を期待したが、翌年末にフランス帝政が宣言されると、落胆して、ドイツへの帰国を考えるようになった<ref>[[#吉田 2009]],p.172.</ref>。
 
 
 
[[1855年]]、ワーグナーの知り合いでもあった自由主義者の作家[[グスタフ・フライターク|フライターク]]の小説「借方と貸方」では、ドイツ人商人が浪費癖の強いドイツ人貴族を助けて、ドイツへの憎しみに燃えるユダヤ人商人は没落し最後には汚い川で溺死するという話で、ドイツの長編小説の中で最も読まれたといわれ影響力があった<ref>Soll und Haben</ref><ref name="sim110"/>。
 
 
 
[[1861年]]にはワーグナーが実名で『音楽におけるユダヤ性の解説』を刊行した。[[1865年]]、ワーグナーは[[バイエルン国王]][[ルートヴィヒ2世 (バイエルン公)|ルートヴィヒ2世]]のために『[[パルジファル]]』を書き、「ゲルマン=キリスト教世界の神聖なる舞台作品」と呼んだ<ref name="po585-595"/>。同[[1865年]][[9月11日]]の日記では「私はもっともドイツ的な人間であり、ドイツ精神である」と書いた<ref>[[#吉田 2009]],p.197.</ref>。ワーグナーは『[[パルジファル]]』にあたって、大ドイツ主義者の聖書学者グフレーラーの『原始キリスト教』に影響を受けた<ref>[[#上山安敏2005|上山安敏2005]],p.276-277.</ref>。
 
 
 
[[1867年]]にワーグナーは、フランス文明は退廃的な物質主義であり、優美を礼儀作法に変形させ、すべてを均一化させ死に至らしめるものであり、この物質的文明から逃れることができるのがドイツであり、[[古代末期]]に[[ローマ帝国]]を滅ぼして新生ヨーロッパを作ったゲルマン民族と同じ国民である、と論じた{{refnest|group=*|南ドイツ新報に連載した「ドイツ芸術とドイツ政治」<ref>[[#吉田 2009]],p.236-238.</ref>}}。『[[ニュルンベルクのマイスタージンガー]]』([[1868年]])では「たとえ神聖ローマ帝国は雲散霧消しても、最後にこの手に神聖なドイツの芸術が残る」(3幕5場)と述べられた<ref>[[#吉田 2009]],p.255.</ref>。しかし、この作中でユダヤ人は出てこない<ref name="aritaWag"/>。
 
 
 
[[1869年]]に[[北ドイツ連邦]]で宗教同権法(宗教の違いに関係ないドイツ市民同権法)が承認され、[[1871年]]に[[ドイツ帝国]]全域で施行されると、反ユダヤ主義運動が高まりを見せたが、ワーグナーは同時代の反ユダヤ主義には同調しなかった<ref name="y-w-336-354">[[#吉田 2009]],p.336-354.</ref>。他方でユダヤ人資本家、宮廷ユダヤ人によって操られているプロイセン政府を軽率な国家権力として批判した<ref>[[#吉田 2009]],p.358.</ref>。またワーグナーはマルやデューリングの反ユダヤ主義は評価しなかったが、ユダヤ人の儀式殺人をとりあげたプラハ大学教授のアウグスト・ローリング神父の『タルムードのユダヤ人』(1871年)<ref>August Rohling,Der Talmudjude. Zur Beherzigung für Juden und Christen aller Stände, Münster 1871</ref>を愛読した<ref name="po596-607"/>。
 
 
 
[[普仏戦争]]の始まった[[1870年]]にワーグナーは著書『ベートーヴェン』で、フランス近代芸術は独創性を完全に欠如させているが、芸術を売りさばくことで計り知れない利潤をあげているが、ベートーヴェンがフランス的な流行([[モード]])の支配から音楽を解放したように、ドイツ音楽の精神は人類を解放する、と論じた<ref>[[#吉田 2009]],p.278-285.</ref>。
 
 
 
[[1873年]]には[[ビスマルク]]の反カトリック政策である[[文化闘争]]を支持し、さらにカトリックだけではなく、横暴なフランス精神との闘争を主張した<ref name="y-w-315-320"/>。しかし、ビスマルクがワーグナーの劇場計画や支援要請を拒否すると、ワーグナーはビスマルクとプロイセンに失望し、今日のドイツの軍事的優位は一時的なものにすぎず、「アメリカ合衆国とロシアこそが未来である」と妻に述べ、[[1874年]]に「私はドイツ精神なるものに何の希望も持っていない」とアメリカの雑誌記者デクスター・スミスへの手紙で述べた<ref name="y-w-315-320">[[#吉田 2009]],p.315-320.</ref>。[[1877年]]にはバイロイトを売却して、アメリカ合衆国に移住する計画をフォイステルに述べた<ref name="y-w-315-320"/>。
 
 
 
ワーグナーは[[1880年]]の論文「宗教と芸術」で、音楽は世界に救いをもたらす宗教であると論じて、キリスト教からユダヤ教的な混雑物を慎重に取り除き、崇高な宗教であるインドのバラモン教や仏教などを参照して、純粋なキリスト教を復元しなくてはならないとし、失われた楽園を再発見するのは、菜食主義と動物愛護、節酒にあるとし、南米大陸への民族移動を提案した<ref name="y-w-336-354"/>。この論文では、「ドイツ」は一語も登場しない<ref name="y-w-336-354"/>。ワーグナーに影響を与えたショーペンハウアーは、キリスト教の誤謬は自然に逆らって動物と人間を分離したことにあるが、これは動物を人間が利用するための被造物とみなしたユダヤ教的見解に依拠する、と論じた<ref name="y-w-336-354"/>。ワーグナーの菜食主義は、[[アドルフ・ヒトラーのベジタリアニズム|ヒトラーの菜食主義]]にも影響を与えた<ref>[[#ポリアコフ III]],p.595-596</ref>。また、ワーグナーは[[動物実験]]の禁止を主張した<ref name="po596-607">[[#ポリアコフ III]],p.596-607.</ref>。また、[[1880年]]には哲学者[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]の妹[[エリーザベト・フェルスター=ニーチェ|エリーザベト]]の夫[[ベルンハルト・フェルスター]]によって、ユダヤ人の[[公職追放]]や入国禁止を訴えるベルリン運動(Berliner Bewegung)が展開され、26万5千人の署名が集まった<ref name="ItoWag"/>。しかし、ワーグナーはベルリン運動への署名は拒否した<ref name="y-w-336-354"/>。
 
 
 
晩年の[[1881年]]2月の論文「汝自身を知れ」において、ワーグナーは現在の反ユダヤ運動は俗受けのする粗雑な調子にあると批判し、ドイツ人は[[古代ギリシア]]の[[格言]]「[[汝自身を知れ]]」を貫徹すれば、ユダヤ人問題は解決できると論じた<ref name="y-w-336-354"/>。ワーグナーの目標はユダヤ人を経済から現実に排斥することでなく、現代文明におけるユダヤ性(Judenthum)全般を批判し、フランスの流行や文化産業と一体化したものとして批判した<ref name="y-w-336-354"/>。ワーグナーにとって、ユダヤ人は「人類の退廃の化身であるデーモン」であり「われわれの時代の不毛性」であり、ユダヤへの批判はキリスト教徒に課せられた自己反省を意味し、またユダヤ教は現世の生活にのみ関わる信仰であり、現世と時間を超越した宗教ではないとした<ref name="y-w-336-354"/>。
 
 
 
[[1881年]]9月の論文「英雄精神とキリスト教」では、人類の救済者は純血を保った人種から現れるし、ドイツ人は中世以来そうした種族であったが、ポーランドやハンガリーからのユダヤ人の侵入によって衰退させられたとして、ドイツの宮廷ユダヤ人によってドイツ人の誇りが担保に入れられて、慢心や貪欲と交換されてしまったとワーグナーは論じた<ref name="y-w-356-369">[[#吉田 2009]],p.356-369.</ref>。ユダヤ人は祖国も母語も持たず、混血してもユダヤ人種の絶対的特異性が損なわれることがなく、「これまで世界史に現れた最も驚くべき種族保存の実例」であるに対して、純血人種のドイツ人は不利な立場にあるとされた<ref name="y-w-356-369"/>。なお、ワーグナーはユダヤ系の養父ルートヴィヒ・ガイアーが自分の実の父親であるかもしれないという疑惑を持っていた<ref name="y-w-356-369"/>。
 
 
 
[[1881年]]、ワーグナーは[[バイエルン国王]][[ルートヴィヒ2世 (バイエルン公)|ルートヴィヒ2世]]への手紙でユダヤ人種は「人類ならびになべて高貴なるものに対する生来の敵」であり、ドイツ人がユダヤ人によって滅ぼされるのは確実であると述べている<ref name="po585-595"/>。しかし、同じ年に、ユダヤ人歌手アンゲロ・ノイマンが反ユダヤ主義者に攻撃を受けると、ノイマンを擁護してもいる<ref name="po585-595"/>。
 
 
 
[[1882年]]、ウィーンのリング劇場で800人が犠牲となった火災事故に対してワーグナーは「人間が集団で滅びるとは、その人間たちが嘆くに値しないほどの悪人だったということだ。あんな劇場に人間の屑ばかり集めて一体何の意味があるというのか」と述べ、鉱山で労働者が犠牲になった時こそ胸を痛めると述べた<ref name="po585-595"/>{{refnest|group=*|ポリアコフはカール・フリードリヒ・グラーゼナップ『リヒャルト・ワーグナーの生涯』(全6巻、1894-1911)の6巻、p.551.を典拠としている<ref>[[#ポリアコフ III|ポリアコフ 3巻]],p.588 注(208);p.688.</ref>。}}。また、ワーグナーは「人類が滅びること自体はそれほど惜しむべきことではない。ただ、人類がユダヤ人によって滅ぶことだけはどうしても受け入れがたい恥辱である」と述べている<ref name="po585-595"/>。
 
 
 
1882年夏、ワーグナーの崇拝者であったユダヤ人[[指揮者]][[ヘルマン・レーヴィ]]はルートヴィヒ2世の命によって、『[[パルジファル]]』の[[バイロイト祝祭劇場]]初演を指揮した<ref name="po585-595"/><ref name="y-w-356-369"/>。『[[パルジファル]]』でワーグナーはインドの仏教や[[ラーマーヤナ]]をモチーフにしたが、「キリスト教世界の外部」の中世スペインとして設定された<ref name="y-w-336-354"/>。宗教と芸術の一致を目標としてたワーグナーは、ユダヤ人のレーヴィをキリスト教に改宗せずに指揮してはならないと言ったが、レーヴィは拒否した<ref name="y-w-356-369"/>。レーヴィはワーグナーの論文「汝自身を知れ」に感銘し、ワーグナーのユダヤとの戦いは崇高な動機からのものであり、低俗なユダヤ人憎悪とは無縁であると考えた<ref name="y-w-356-369"/>。前年の1881年6月には匿名でユダヤ人に指揮させないでほしいという懇願とともに、そのユダヤ人はワーグナーの妻[[コジマ・ワーグナー|コジマ]]と不義の関係にあるとする手紙がワーグナーのもとに届いた<ref name="po585-595"/>。ワーグナーが手紙をレヴィに見せると、レーヴィは指揮の辞退を申し出たが、ワーグナーは指揮をするよう言った<ref name="po585-595"/>。ワーグナーの娘婿でイギリス人反ユダヤ主義者[[ヒューストン・ステュアート・チェンバレン|チェンバレン]]は終生ワーグナーに忠実であったレーヴィを例外的ユダヤ人として称賛した<ref name="po585-595"/>。ワーグナーは[[1883年]]に死ぬ直前に「われわれはすべてをユダヤ人から借り出し、荷鞍を乗せて歩くロバのような存在である」と述べた<ref name="po585-595"/>。
 
 
 
フランスでは[[ボードレール]]、[[マラルメ]]、[[モーリス・バレス]]がワーグナーに熱狂し、カチェル・マンデスはパルジファルに巨大で輝かしいアーリアの神々が浮かび上がるのを見た<ref name="p-5-410-7"/>。1886年、ヴォルツォーゲン男爵<ref>Baron Hans Paul von Wolzogen (1848 – 1938)</ref>は、ドイツ人とフランス人はアーリア人種であり、アーリア芸術を称賛した<ref name="p-5-410-7"/>。雑誌『ルヴュ・ヴァグネリアン』の発行者で作家のエドゥアール・デュジャルダン<ref>Édouard Dujardin</ref>はヴァーグナーは宗教を創始し、パルジファルは第三のアダムで、イエスが世界の終わりに現れるときにとる姿であるとした<ref name="p-5-410-7"/>。ワーグナーは[[#新異教主義(ネオパガニズム)とアーリア神話|新異教主義(パガニズム)]]に大きな影響力を持ち、ヒトラーもワーグナーの崇拝者であった。
 
 
 
=== 社会主義・無神論と反ユダヤ主義 ===
 
==== フーリエ、トゥスネル ====
 
[[ファイル:Fourier.gif|サムネイル|[[シャルル・フーリエ]]はユダヤ人解放政策は金儲け精神によるもので、やがてフランスはシナゴーグとなり、ロトシルト(ロスチャイルド)王朝が創始されると論じた<ref name="po-Fourier"/>]]
 
フランスの反ユダヤ主義は、フランス革命の後遺症とみなすこともできるとポリアコフはいう<ref name="po-4-49-59"/>。なかでも、フランスの社会主義者は[[アンリ・ド・サン=シモン|サン=シモン主義者]]を唯一の例外として反ユダヤ主義に染まっていった<ref name="po-4-49-59">[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.49-59.</ref>{{refnest|group=*|社会主義の反ユダヤ主義についてMarc Crapez,L'antisémitisme de gauche au XIXème siècleでは、フーリエ(1772-1837)、Alphonse Toussenel (1803-1885)、プルードン (1809-1865)、Gustave Flourens (1838-1871)、ギュスタヴ・トリドン (1841-1871)、Eugène Gellion-Danglar (1829-1882)、Auguste Chirac (1838- ?)、Francis Laur (1844-1934)、Charles-Ange Laisant (1841-1920)、Clovis Hugues (1851-1907)、Augustin Hamon (1862-1945)、Albert Regnard (1836- ?)、Paul Renaud (1838- ?)、Georges Vacher de Lapouge (1854-1936)、Maurice Allard (1860-1942)、Urbain Gohier (1862-1951)
 
Robert Louzon (1882-1976)、André Colomer (1886-1931)について論じている。}}。
 
 
 
[[1808年]]、社会思想家[[シャルル・フーリエ]]は人々を破産に追い込み稼いだユダヤ人についての教訓話を書き、ユダヤ人がフランスに拡散すると、フランスは巨大な[[シナゴーグ]]になると論じた<ref name="po-Fourier">[[#ポリアコフ III]],p.489-493.</ref>。[[1829年]]、フーリエはユダヤ人解放政策は金儲け精神の助長であり悪政であるとして、「高利貸しの民族」であるユダヤ人は文明化を遂げていないと論じた<ref name="po-Fourier"/>。しかし、フーリエは1838年には『偽りの産業』で[[ロスチャイルド家]]を[[旧約聖書]]の[[エズラ]]、[[セルバベル]]になぞらえ、[[ダビデ]]、[[ソロモン]]の王を復活させ、ロトシルト(ロスチャイルド)王朝を創始できると称賛しており、ポリアコフはフーリエはロスチャイルド家の共感をとりつけようとしたのではないかと指摘している<ref name="po-Fourier"/>。しかし、フーリエの思想に共鳴したフーリエ主義者は[[第二共和政]]時にユダヤ人議員クレミューが司法省にいることは脅威であるといったり、[[ドレフュス事件]]では反ユダヤ主義を標榜し、またフーリエから影響を受けたロシアの小説家[[ドストエフスキー]]もユダヤ嫌いであった<ref name="po-Fourier"/>。
 
 
 
[[1845年]]、フランスで[[シャルル・フーリエ]]の弟子アルフォンス・トゥースネルが『ユダヤ人、時代の王 - 金融封建制度の研究』を刊行した<ref>Le Juifs, rois de l’époque.[[#鈴木 2014|鈴木 2014]],p19</ref>。トゥスネルは[[産業革命]]のもとで生じた[[7月王政]]期の議会の腐敗や社会不安について、フランスが道徳的に無気力に陥り堕落したのはユダヤの金融資本家を中心とした「金融的封建支配」のせいだと主張し、大臣たちはフランスをユダヤ人に売ったと非難し、「貨幣の貴族支配」を除去するため王と人民との結合を主張した<ref name="nakataniFRIII"/>。トゥスネルは「ユダヤ人」を「他人の資材と労働を食い物にしている通貨の取引人すべて、みずから生産に従事しない寄生者のすべて」といい、ここに[[プロテスタント]]、神の意思を読み取るのにユダヤ人と同じ書物を読むイギリス人、オランダ人、ジュネーヴ人も指し示しているという<ref name="po-493-496"/>。トゥスネルのこの本は、ドリュモンの『ユダヤ人のフランス』(1886)が登場するまでは反ユダヤ主義の古典となった<ref name="po-493-496">[[#ポリアコフ III]],p.493-496.</ref>。
 
 
 
[[1846年]]、[[キリスト教社会主義]]の[[ピエール・ルルー]]はトゥースネルと同じ題の『ユダヤ人、時代の王』をものし、「ユダヤ人」とは高利貸し、貪欲に金を稼ぐことに熱意を示す人間すべてを意味するが、ユダヤ人の病は人類の病であり、投機売買と資本によってイエスは磔刑に処されていると論じ、敵は「ユダヤ的精神」であり、個々のユダヤ人ではないといった<ref name="po-493-496"/>。
 
 
 
[[File:Фердинанд Лассаль.jpg|thumb|140px|社会主義共和政の統一ドイツを目指した[[フェルディナント・ラッサール]]]]
 
プロイセンの[[フェルディナント・ラッサール]]はユダヤ人の社会主義者・労働運動指導者だったが、奴隷として生まれついたユダヤ人に対して正しい復讐がわかっていない、と自己指弾し、「私はユダヤ人のことをまったく好きになれない」と述べた<ref name="po537-538">[[#ポリアコフ III|ポリアコフ III巻]],p.537-538.</ref>。
 
 
 
==== ヘーゲル左派と反ユダヤ主義 ====
 
[[ヘーゲル左派]](ヘーゲル青年派)のユダヤ系社会主義者[[モーゼス・ヘス]]はユダヤ人は魂のないミイラ、さまよい歩く幽霊のような存在であり、「ユダヤ教とキリスト教の神秘が、ユダヤ=キリスト教徒の商店主の世界に開示された」と述べるなどしていたが、後年、人種主義者となり、[[1862年]]の『ローマとイェルサレム』などでヨーロッパ社会にユダヤ人は同化できないとして、[[シオニズム]]の[[テオドール・ヘルツル]]に影響を与えた<ref name="po540">[[#ポリアコフ III|ポリアコフ III巻]],p.540.</ref>
 
 
 
[[1847年]]、[[理神論|理神論者]]のゲオルク・フリードリヒ・ダウマーは『キリスト教古代の秘密』で[[聖書への批判|聖書批判]]を行い、過去数世紀にわたってキリスト教徒による儀式殺人を列挙した<ref>Georg Friedrich Daumer, Die Geheimnisse des christlichen Altertums (Hamburg, 1847). </ref><ref name="po542-548">[[#ポリアコフ III|ポリアコフ III巻]],p.542-548.</ref>。儀式殺人はユダヤ教徒によってなされたとみなされてきたもので、[[血の中傷]]ともよばれるが、ダウマーは[[ハーメルンの笛吹き男]]などの中世の幼児誘拐事件、[[異端審問]]、[[魔女裁判]]、[[サン・バルテルミの虐殺]]、ユダヤ人の大量虐殺などもキリスト教徒による儀式殺人であったと論じた<ref name="po542-548"/>。これは厳密な証拠ではなく、漠然とした疑いで書かれたものであったが、[[共産主義]][[秘密結社]]「[[正義者同盟|義人同盟]]」のパリ代表ヘルマン・エーヴァ−ベック(August Hermann Ewerbec)はダウマーの『キリスト教古代の秘密』をフランス語に訳し、1848年にロンドンにいた[[カール・マルクス]]はダウマーによってキリスト教儀式で人間の肉や血を食べたことが実証され、これは「キリスト教に加えられた最後の一撃」であると評価した<ref>『マルクス=エンゲルス全集』補巻1、大月書店、p.522-523.</ref><ref name="po542-548"/>。ダウマーはキリスト教側から攻撃を受けて、ユダヤ教に近づき、1855年には『ユダヤ人の知恵』を書いて、ユダヤ人共同体への加入を表明したが、ユダヤ共同体側は断っている<ref name="po542-548"/>。ダウマーの弟子フリードリヒ・ウィルヘルム・ギラニ−はダマスクス事件以後、ユダヤ人の食人風習を告発した<ref name="po542-548"/>。
 
 
 
[[無神論]]哲学者[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|フォイエルバッハ]]はダウマーの親友であり、ダウマーから影響を受けていた<ref name="po542-548"/>。フォイエルバッハは『キリスト教の本質』でユダヤ人の原理は[[利己主義]]と述べている<ref name="po542-548"/>。
 
 
 
レオン・ポリアコフは、ヴォルテールの反宗教キャンペーンから、ソ連の反宗教政策まで、反キリスト教を掲げる無神論の十字軍は、ダウマーと同種の思考様式が共通して見いだせると指摘している<ref>[[#ポリアコフ III]],p.546.</ref>。ハイネは「無神論の狂信的な修道士たち」と述べている<ref>ハイネ「告白」(1854)、[[#ポリアコフ III]]訳注, p.723.</ref>。
 
 
 
[[アーノルド・ルーゲ|アルノルト・ルーゲ]]はゲルマン主義の学生運動の活動家であったが、[[青年ヘーゲル派]]となり、1838年に機関誌『ハレ年報』を創刊した<ref name="po550">[[#ポリアコフ III]], p.550-551.</ref>。ルーゲは1839年、『ハレ年報』で「キリスト教世界というチーズのなかに巣くったウジ虫ともいうべきユダヤ人」は無神論的であると論じた<ref>「デュッセルドルフの絵画教室」『ハレ年報』2号</ref><ref name="po550"/>。ルーゲはマルクスと悶着した際に「恥知らずのユダヤ人」と言い、社会主義運動を「忌まわしきユダヤ魂の寄り合い」と非難している<ref name="po550"/>。ルーゲは後年、ビスマルク支持者となった<ref name="po550"/>。
 
 
 
[[マックス・シュティルナー]]は、人類の歴史の第一の時期にニグロ的な性質が棄てられ、第二のモンゴル(中国)の時期は暴力によって終わらせねばならないとした。そのためにあらゆる既成の信仰を転覆し、コーカサスの血をモンゴルの禍から解放して、コーカサス人のみのものとされる天を征服することを提唱した<ref name="p-A-319-339"/>。
 
 
 
==== ブルーノ・バウアーの反キリスト教・反ユダヤ主義 ====
 
[[Image:Bruno Bauer.jpg|thumb|200px|[[ブルーノ・バウアー]]。バウアーの著書『ユダヤ人問題』は19世紀の最も知的で鋭い反ユダヤ主義の著作と評される<ref name="shinohara1992"/>。]]
 
[[ヘーゲル左派]]の哲学者で[[無神論]]を根底に据えた[[ブルーノ・バウアー]]は1841年、『無神論者・反キリスト教徒ヘーゲルに対する最後の審判ラッパ』で神への信仰は普遍的自己意識の獲得を阻害するとして批判し、また[[神聖同盟]]下のドイツにおける[[政教一致|教会と国家の結合]]を批判した<ref>Die Posaune des Jüngsten Gerichts über Hegel den Atheisten und Antichristen. Ein Ultimatum Leipzig 1841</ref><ref name="MurakamiBauer"/>。しかし、プロイセン政府の検閲によってバウアーは[[1842年]]春にボン大学講師職を剥奪された<ref name="MurakamiBauer"/>。また、同年、バウアーは福音書を「神話」とした[[ダーウィト・シュトラウス]]の「イエスの生涯」(1835年)にバウアーは影響を受けて福音書をマタイ・マルコ・ルカによる創作とした<ref>バウアー『共観福音史家とヨハネの福音史批判』</ref>。
 
 
 
[[1843年]]の『暴かれたキリスト教』でバウアーは、神への拝跪による思考喪失を批判して、キリスト教からの人間の解放を主張し、発禁処分となった<ref name="shinohara1992"/><ref name="po553"/><ref>Bruno Bauer,Das entdeckte Christentum.</ref><ref name="MurakamiBauer"/>{{refnest|group=*|バウアーは1850年代にも福音書や使徒行伝、パウロ書簡などを批判する本を出版した<ref>Kritik der Evangelien und Geschichte ihres Ursprungs, 3 vols. (1850–51),Kritik der paulinischen Briefe.</ref><ref name="shinohara1992"/>}}。同年、社会主義者で無神論者のヴィルヘルム・マルが『暴かれたキリスト教』の縮約版を刊行した<ref>Franz Ammann, Wilhelm Marr編,Das entdeckte und das unentdeckte Christenthum in Zürich und ein Traum. Eine Bagatelle. Auszüge aus der in Zürich confiscierten Bauer’schen Schrift enthaltend und dem christlichen Dr. Bluntschli gewidmet vom Antichrist. Druck und Verlag von Jenni, Sohn, Bern 1843.</ref>。後年マルは「反セム主義(Antisemitismus)」を造語した<ref name="po553"/>。
 
 
 
同年の[[1843年]]の『ユダヤ人問題』でバウアーは、ユダヤ人への圧迫の原因はユダヤ教の偏狭な民族精神にあり、律法の命じる愚かしい儀礼がユダヤ人を歴史の運動の外におき、他の諸民族から切り離したとして、ユダヤ教徒が「空想上の民族性」にしがみつこうとする限り、ユダヤ教徒の解放はありえないし、それはキリスト教が自分の特権を保持しようとする限り解放されないのと同じだと批判した<ref>Bruno Bauer,Die Judenfrage,1843.</ref><ref>[[#神田順司2012]],p.900.</ref><ref name="shinohara1992">[[#篠原敏昭1992|篠原敏昭1992]],p.291-321.</ref>。またユダヤ人は市民社会の隙間に巣くい、不安定要素から暴利をむさぼり、普遍的人権を受け入れないし、ユダヤ人は金融でも政治でも一大権力をほしいままにしているとした<ref name="po553"/><ref name="shinohara1992"/>。バウアーはすべての人間が宗教から解放されなけれならないのに、ユダヤ人だけを解放の対象とみなすことに反意を表明して、ユダヤ人解放論へ反論した<ref name="po553">[[#ポリアコフ III]], p.553-555.</ref>。バルニコルは、バウアーの『ユダヤ人問題』は19世紀の最も知的で鋭い反ユダヤ主義の著作であると評した<ref name="shinohara1992"/>。また1843年から1844年にかけてバウアーは傍観者である「[[大衆]]」に対して、怠惰で自己満足であり「精神の敵」であると批判した<ref name="MurakamiBauer"/>。
 
 
 
1848年革命の翌年の1849年に発表した『ドイツ市民革命論』でバウアーは、ドイツ3月革命について市民階級が国王と妥協して労働者を締め出したし、フランクフルト国民議会も旧体制の連邦議会を再生したものと批判し、「ドイツ市民」を思考喪失者として批判した<ref>Bruno Bauer,Die bürgerliche Revolution in Deutschland seit dem Anfang der deutsch-katholischen Bewegung bis zur Gegenwart (Berlin 1849)『ドイツ市民革命 - ドイツ・カトリック運動の開始から現在まで』</ref><ref name="MurakamiBauer">[[#村上俊介1992]],pp.267-285.</ref>。ローマ教会を批判してドイツ・カトリック運動を起こした[[シレジア]]の司祭ヨハネス・ロンゲ(Johannes Ronge)を市民は[[理性]]を救う者として歓迎したが、バウアーは理性は自由な聖書解釈を行うとしてドイツ・カトリック運動を批判した<ref name="MurakamiBauer"/>。またバウアーはプロテスタントの自由ゲマインデ運動についても、領邦教会制度を批判せずに「愛と真理」といった空言を繰り返すだけで、ドイツ・カトリック運動と同じく聖書の自由研究を許していないと批判した<ref name="MurakamiBauer"/>。バウアーは[[モーゼス・ヘス]]たちの社会主義についても「凡庸な宗教」として、社会主義者はすでにある労働者組織に追随しているだけだと批判した<ref name="MurakamiBauer"/>。
 
 
 
[[1853年]]の『ロシアとゲルマン』でバウアーは、1848年革命以後、フランスは立憲主義から帝政主義へ変化し、帝政ロシアと対立し、ドイツは統一に失敗して分立しており、ヨーロッパは分裂と対立の時代となったとし、また、イギリスのユダヤ人首相ディズレーリ、フランスのユダヤ人銀行家フルドなどヨーロッパはユダヤ人に支配されており、ヨーロッパ諸民族の精神的宇宙は奈落に沈没したと論じた<ref>Russland und das Germanenthum. 2 Bände, Egbert Bauer, Charlottenburg 1853.</ref><ref name="shinohara1992"/>。
 
 
 
[[1863年]]、バウアーは『異郷のユダヤ』で、ユダヤ人によるドイツの支配は「人道主義的に軟化した瞬間に我々がユダヤ教徒を同等なものとして取り扱った」ことにあり、キリスト教徒にその責任があるとした<ref>Das Judenthum in der Fremde. F. Heinicke, Berlin 1863.</ref><ref name=uem/><ref name="shinohara1992"/>。「我々がユダヤ人に対して自らを防衛しなければならないことの責任は、我々のみに、とりわけ我々ドイツ人にある。ユダヤ人が一時的に手に入れた勝利は、彼らが闘い取ったものではなく、我々が彼らにプレゼントしたものなのだ。彼らではなく、我々こそが現代にそのユダヤ的性格を刻印したのだ」と述べ、しかし「我々の責任であるがゆえに、我々はまだ負けてはいない」と述べた<ref name="shinohara1992"/><ref name=uem/>。
 
 
 
また、1848年ドイツ革命ではフランクフルト国民議会副議長リーサ−、治安委員会議長フェッシュホーフ、ジーモン議員、ヤコービ議員などユダヤ人政治家が活躍した<ref>Gabriel Riesser,Adolf Fischhof,Heinrich Simon,Johann Jacoby.</ref><ref name="shinohara1992"/>。バウアーによれば、フェッシュホーフは皇帝位に代わって立ち、キリスト教を冗談とみなし、ウィーンをタルムードの占領権によって所有し、ジーモンを革命代表者とする顕彰運動のドイツ民族は代表者を生み出せず、歴史の目印をドイツ人はユダヤ人に借りなければならないという主張は厚かましいと批判した<ref name="shinohara1992"/>。バウアーは「革命は新しいものはなにも生み出さない。少なくとも、その怒りの爆発の瞬間には。それは、古い血の沸騰、歴史の下層の堆積物の露出、新しい時代のなかへの古代の闖入にすぎない」と[[革命|革命思想]]を批判し、ユダヤ人が革命に期待しているのは自分の古代、自分自身だけであるとした<ref name="shinohara1992"/>。
 
 
 
バウアーはユダヤ的なあり方(Judentum)は単に宗教的教会だけでなく、人種的性質でもあるとし、ユダヤ人は[[扁平足]]で下半身は[[ニグロ]]同様弱いのでしっかり立てず、分厚い皮膚と炎症性の血液からユダヤ人は「白いニグロ」といえるが、黒人の頑強さにも欠けており、「われわれは、ドイツの労苦とドイツの血でもって築かれているドイツ国家のなかのドイツ人にすぎない。そして、われわれはドイツ国家の名前を、世界の最も不良化した者たちの更生施設として貸すつもりは絶対にない」と主張した<ref name="shinohara1992"/>。バウアーによれば、ユダヤ的なあり方(Judentum)とは「現代の世界威力」「キリスト教世界の均一化」「一党派の手中にある議会の決定」を指し、キリスト教徒の政治家がその代表とされた<ref name="shinohara1992"/>。
 
 
 
晩年のバウアーは『キリストと皇帝たち』(1877年)で、キリスト教はローマ帝政期の[[ストア派|ストア哲学]]の精神からユダヤ教を骨格として誕生したものとし、現代を紀元後1-2世紀のローマ帝政期にユダヤ人の寵臣が[[アウグストゥス]]、[[ティベリウス]]、[[カリグラ]]皇帝を取り巻き、ユダヤ教が勝利を誇っていた時代と重ね合わせ<ref>Christus und die Cäsaren. Der Ursprung des Christentums aus dem römischen Griechentum. Grosser, Berlin 1877.</ref>、『ディズレーリのロマン主義的帝国主義とビスマルクの社会主義的帝国主義』などで[[ビスマルク]]やディズレーリを論じ<ref>Zur Orientierung über die Bismarcksche Ära(1880,『ビスマルク時代のへの入門』).Disraelis romantischer und Bismarcks sozialistischer Imperialismus (1882)</ref>、反ユダヤ雑誌の創刊にも関わった<ref>Schmeitzner's Internationale Monatsschrift" - 1882 (Paul Widemann) </ref><ref name="shinohara1992"/>。
 
 
 
==== マルクスと反ユダヤ主義 ====
 
[[File:Karl Marx.jpg|200px|thumb|思想家[[カール・マルクス]]はユダヤ系であったが、反ユダヤ主義者でもあった<ref name="poMarx556-568"/><ref name="huruta"/>。マルクスには「ユダヤ的自己嫌悪」があったとキュンツリは指摘している<ref name="Künzli"/>。]]
 
 
 
社会思想家[[カール・マルクス]]はラッサールと同じくユダヤ系であったが、ラッサールを嫌ってラッサールは黒人、ユダヤ人、ドイツ人の交配から生まれた「ユダヤ人のニグロ」とエンゲルスへの書簡で述べるなど、反ユダヤ主義的でもあった<ref name="po537-538"/>。[[1843年]]、マルクスは『[[ユダヤ人問題によせて]]』において、ユダヤ教の基礎は、実際的な欲求と利己主義であるとする<ref name="poMarx556-568"/>。そして、ユダヤ教の世俗的祭祀は商売であり、その世俗的な神は貨幣であるとして、商売とあくどい貨幣からの解放が、現実的なユダヤ教からの解放であり、自己解放となり、「ユダヤ人の解放は、その究極的な意味において、ユダヤ教からの人類の解放である」と論じた<ref name="poMarx556-568">[[#ポリアコフ III]], p.556-568.</ref>。マルクスは「貨幣は世界の支配権力となり、実際的なユダヤ精神がキリスト教的諸国民の実際的精神になった」、「貨幣はイスラエルの妬み深い神」であり、[[手形]]はユダヤ人の現実的な神である、ユダヤ人の民族性は金銭的人間の民族性であるなどと論じた<ref name="poMarx556-568"/>。マルクスは生涯を通じてみずからをユダヤ人と認識することを拒み、ユダヤ人による社会主義を快く思わなかった<ref name="poMarx556-568"/>。マルクスは「ユダヤ人」を他人を批判するときに使っており、ユダヤ教学者[[ハイマン・シュタインタール|シュタインタール]]、ウィーンのジャーナリストフリートレンダー(Max Friedländer)を「呪われたユダヤ人」、銀行家ルートヴィヒ・バンベルガー (Ludwig Bamberger) を「パリの証券シナゴーグ」の一員と呼んだり、また「[[ニューヨーク・トリビューン|ニューヨーク・デイリー・トリビューン]]」では匿名で金の商人は大部分ユダヤ人であるなどと書いた<ref name="poMarx556-568"/>。マルクスにとってユダヤ主義は資本主義や利己主義の別名であり、ユダヤ人は高利貸しの別名であった<ref name="huruta">[[#古田1972]]p.222-223. </ref><ref name="Künzli">Arnold Künzli,Karl Marx. Eine Psychographie. Wien/Frankfurt am Main/Zürich 1966. [[#古田1972|古田耕作]]とポリアコフはアルノルト・キュンツリ『カール・マルクス - 心理的属性』(1966)の研究を参照している([[#ポリアコフ III|ポリアコフ III]], p.563)。</ref>。またマルクスはロシア人はモンゴル起源であるというドゥヒニスキーの説によって、ロシア人はスラブ人でなく、インド=ゲルマン人種に属してはおらず侵入者であると述べた<ref name="p-A-319-339"/>。
 
 
 
[[フリードリヒ・エンゲルス]]はセム人とアーリア人は最も進化した人種であるが、黒人は数学を先天的に理解できないし、下等な野蛮人は動物の状態にかなり近いとした<ref name="p-A-319-339"/>。
 
 
 
1848年にマルクスが編集長となった[[新ライン新聞]]の特派員エードゥアルト・テレリングは、[[1848年革命]]後、テレリングはプロイセン政府の御用記者となり、1850年に小冊子「来るべきマルクスとエンゲルスによるドイツ独裁制の前兆」でマルクスを批判した<ref name="poMarx556-568"/><ref> Eduard von Müller-Tellering, Vorgeschmack in die künftige deutsche Diktatur von Marx und Engels, Cologne, 1850. Werner Blumenberg, "Eduard von Mueller-Tellering, Verfasser des ersten antisemitischen Pamphlets gegen Marx", Bulletin of the International Institute of Social History, Amsterdam, vol. VI 1951 pp. 178-197.</ref>。テレリングは反ユダヤ主義と反マルクス主義の一大勢力の前兆であった<ref name="poMarx556-568"/>。
 
 
 
==== プルードンと反ユダヤ主義 ====
 
[[ファイル:Portrait of Pierre Joseph Proudhon 1865.jpg|サムネイル|200px|社会主義・無政府主義者プルードンは金利に通暁したユダヤ人は[[サタン]]であると非難し、その反ユダヤ主義は生涯続いた<ref name="po-496-504"/>。]]
 
フランスの[[社会主義]]・[[無政府主義者]][[ピエール・ジョゼフ・プルードン|プルードン]]はユダヤ人は「でっちあげ、模倣、ごまかしをもって事に当たる」、ユダヤ人は金利の上昇と下降、需要と供給の気まぐれに通称しており、まさに「悪しき原則、サタン、アーリマン」であると非難した<ref name="po-496-504">[[#ポリアコフ III]],p.496-504.</ref>。[[1858年]]に出版したプルードンの主著『革命の正義と教会の正義』では近代世界の退廃はユダヤ人が原因であると論じた<ref name="po-496-504"/>。プルードンは、カトリシズムという有害な迷信の生みの親であるユダヤ人は頑迷で救いようがなく、進歩派の行動指針としては、ユダヤ人のフランスからの追放、シナゴーグの廃止、いかなる職業への従事も認めず、最終的にユダヤ信仰を廃棄させるとしたうえで、「ユダヤ人は人類の敵である。この人種をアジアに追い返すか、さもなくば[[絶滅]]にいたらしめなければならない」と手帳に記した<ref name="po-496-504"/>。プルードンは、ユダヤ人だけでなく、[[外国人労働者]]に対しても憎悪と懸念を抱いており、「彼らは国の住民ではないのだ。彼らは単に利益を手に入れようとして国に入ってくるだけである。こうして政府自体が外国人を優遇することで得をし、外国の人種がわれわれの人種を目に見えないかたちで追い払っているのだ」と見ていた<ref name="po-496-504"/>。プルードンは、ベルギー人、ドイツ人、イギリス人、スイス人、スペイン人などの[[外国人労働者]]がフランスに侵入して、フランスの労働者に取って代わることを嘆き、フランス革命、人権宣言、[[1848年革命]]の[[自由主義]]も、外国人に利益をもたらすのみであったとし、「私は自分の民族に原初の自然を帰してやりたい」と述べて、フランスの民族はこれまでにギリシア人、ローマ人、バルバロイ、ユダヤ人、イギリス人によって支配されてきたことを嘆いた<ref name="po-496-504"/>。プルードンにとって、ユダヤ人作家[[ハインリヒ・ハイネ]]、アレクサンドル・ウェイルは密偵であり、ロトシルト、クレミュー、[[カール・マルクス|マルクス]]、フールドは妬み深く刺々しく、フランス人を憎悪している<ref name="po-496-504"/>。またプルードンは、[[フェミニズム|女性解放運動]]に対して激しく攻撃する男性至上主義者でもあった<ref name="po-496-504"/>。ポリアコフは、こうしたプルードンには20世紀のファシストの原型として[[権威主義的パーソナリティ|権威主義的人格]]の先駆けを見て間違いないとしている<ref name="po-496-504"/>。
 
 
 
パリでプルードンに感銘を受けて政治活動を展開した[[無政府主義者]]で[[無神論者]]のロシア人[[革命家]][[ミハイル・バクーニン]]は、ドイツ人とユダヤ人を憎悪する反ドイツ・反ユダヤ主義者であった<ref>[[#勝田]],p.7,57-58.</ref>。
 
 
 
19世紀末までに社会主義、反資本主義と反ユダヤ主義とが密接に関連していくことで反ユダヤの言説が強大になっていった<ref name="nakataniFRIII">[[#中谷2002|中谷2002]]</ref>。[[#世界大不況の時代 (1873年-1896年) とユダヤ資本主義論|社会主義と反ユダヤ主義のむすびつきは、1873年からの世界大不況の時代にさらに大きく展開していった]]。
 
 
 
====キリスト教社会運動====
 
19世紀の労働者の貧困問題については、1848年革命やマルクス主義よりも、キリスト教社会運動が解決に大きく貢献した<ref name="ket-ii-vii">[[#ケテラー2006|ケテラー2006]],p.ii-vii.</ref><ref>経済史家ヘニング F.W.Henning, Die Industrialisierung in Deutschland 1800 bis 1914,Paderborn,8.Aufl.,1993,S.204.[[#ケテラー2006|ケテラー2006]],p.ii。</ref>。[[1837年]][[4月25日]]に国際法学者で議員のヨゼフ・ブス<ref>Franz Joseph von Buß(1803-1878)</ref>が「工場演説」で労働時間の短縮、日曜労働の禁止などの動議を提出した<ref name="ket-ii-vii"/>{{refnest|group=*|ブスは1840年代、バーデンでピウス協会を設立した<ref name="ket-ii-vii"/>。1848年10月、マインツで第一回カトリック教徒大会が開催、ブスは会長となった<ref name="ket-ii-vii"/>}}。1840年代にはケルンのアドルフ・コルピングが職人組合運動を開始、カトリック労働者同盟が組織された<ref name="ket-ii-vii"/>。1862年、ヴェストハーレン農民組合が結成された。
 
 
 
[[1848年]]の[[フェリックス・フォン・リヒノフスキー|リヒノフスキー侯爵]]とアウアスヴァルト将軍暗殺事件についてマインツ司教ケテラーは、犯人は気高い朴訥なドイツ国民ではなく、キリスト教をあざ笑い、口汚く罵っている者、革命を原理として家庭を破壊しようとしている者、邪神の前に国民を拝ませようとしている者こそが真犯人であると演説し、評判になった<ref>[[#ケテラー2006|ケテラー2006]],p.6-7.</ref>。「労働者の司教」と呼ばれたマインツ司教ケテラー<ref>Wilhelm Emmanuel von Ketteler,1811-77</ref>は、[[1864年]]の『労働者問題とキリスト教』で労働者窮乏化の原因を労働に対する資本の優位に求め<ref>[[#ケテラー2006|ケテラー2006]],p.i,p.180.</ref>、[[1869年]]の演説{{refnest|group=*|[[1869年]][[7月25日]]の「キリスト教労働者運動のマグナカルタ」演説<ref name="k-46-47"/>。}}で、フランス革命以降、国民経済が各国へ浸透した結果、労働者は自由になったが孤立し、労働者が肉体しか持たない一方で、金銭は大金持ちに集中し、資本は適性に配分されていないし、ロスチャイルド家とはこうした国民経済の産物であり、労働者は恐るべき悲惨な境遇に陥ると述べ<ref name="k-46-47">[[#ケテラー2006|ケテラー2006]],p.46-47.</ref>、労働時間の短縮、安息日の確保、児童労働の禁止、女性・少女の工場労働の禁止を要求した<ref>[[#ケテラー2006|ケテラー2006]],p.53-63.</ref>。
 
 
 
当時は、労働者運動はキリスト教社会運動が主導していたが、[[マルクス]]が[[1875年]]に[[ドイツ社会主義労働者党]]の[[ゴータ綱領批判|ゴータ綱領を批判]]、特に[[1891年]]のエルフルト綱領を革命的ではなくて改良主義的で[[日和見主義]]であると批判して以降、[[マルクス主義]]が労働者運動の主導権を握っていった<ref name="ket-ii-vii"/><ref>[[#堀江英一]].「エルフルト綱領」ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア</ref>。ケテラーは未完の原稿で、ゴータ綱領について、労働者の状況を改善する実践的な要求、結社の自由などに賛成する一方で、人工的で強制的な設計による結社では、サンジュストの「立法の任務は、こうあれ、と自分たちが望むように人間を造りかえることにある」という言葉のように、自分たちを理性の化身とし、敵は無知蒙昧の反理性であり、人間改造を受け入れない者は抹殺されてしまうため、結社は自生的なものでなければならないし、また労働者の結社は政治扇動や夢想ではなく、経済的改善を目指すべきであると批判した<ref name="k-185-200"/>。ケテラーはゴータ綱領は、具体的で実践的な要求が後退しているし、労働者の求めていない空想的な制度転覆やユートピアの夢想、そして暴力は暴力を呼び、不当であり、憎悪と報復の上に築かれた社会は自己崩壊するとして、労使協調を訴えて批判した<ref name="k-185-200"/>。また、ケテラーは社会主義はすべての人が充分な餌を与えられる完全な福祉国家を提唱するが、それは奴隷国家であり、家畜小屋には精神的な自由も行動の自由もないと批判した<ref name="k-185-200"/>。
 
 
 
キリスト教社会運動は、1880年に労働者福祉会、1882年全ドイツ的農民組合、1890年ドイツ・カトリック国民協会を結成し、カトリック国民協会は1913年には会員87万人でドイツ最大規模の団体になった<ref name="ket-ii-vii"/>。他方、反ユダヤ主義を掲げキリスト教社会党を結党したアドルフ・シュテッカー、またオーストリア・キリスト教社会党を率いた[[カール・ルエーガー]]もキリスト教社会運動の影響を受けた。
 
 
 
[[1891年]]、[[レオ13世 (ローマ教皇)|レオ13世]]が[[回勅]]『[[レールム・ノヴァールム|レールム・ノヴァールム(新しき事:資本主義の弊害と社会主義の幻想)]]』<ref name="ket-ii-vii"/>。この社会回勅で、労働者の境遇について意見され<ref name="ket-ii-vii"/>、また社会主義と対決するため,私的所有権を堅持し、市場による需給調整の欠陥を社会政策で補うとされた<ref>[[#島本美智男2009|島本美智男]],pp.89-90.</ref>。20世紀の1967年に教皇パウロ6世は私有権は無条件の権利でも絶対的な権利もないとし<ref>「諸民族の進歩推進について」,[[#ケテラー2006|ケテラー2006]],p.170.</ref>、1981年には教皇ヨハネパウロ2世は回勅「働くことについて」で「資本と所有に対する労働の優位」を語った<ref>[[#ケテラー2006|ケテラー2006]],p.180.</ref>。
 
 
 
=== 「ユダヤ人からの解放」論 ===
 
これまでに見てきたように、[[マルクス]]の『[[ユダヤ人問題によせて]]』(1843)、[[ワーグナー]]の『[[音楽におけるユダヤ性]]』(1850)や[[プルードン]]などの反ユダヤ思想では、ユダヤ人が一大勢力となっていることを脅威に感じ、支配勢力であるユダヤ人からの解放が論じられてきた。そして、19世紀後半から20世紀にかけて、「ユダヤ人からの解放」はユダヤ陰謀論などともなり、様々に現れていった。[[大不況 (1873年-1896年)|世界大不況時代]]の[[1880年]]代には、ドイツ語圏で「ユダヤ教徒の解放」をもじった「ユダヤ人からの解放」という[[スローガン]]が流布した<ref name=uem/>。
 
 
 
[[1861年]] - 匿名で『ユダヤ人迫害とユダヤ人からの解放』が刊行された。そのなかで「貨幣の権力、すなわち、自らは労働せずに、いわゆる営業の自由の利益を独り占めし」ている権力が批判され、金権支配の物質主義と官僚支配の機械主義が進行しているなか、貨幣権力は大部分ユダヤ教徒の手中にあり、ユダヤ人は近代自由主義のすべてを独占することに成功したと主張された<ref name=uem/>。ここでは「ロートシルト家([[ロスチャイルド家]])を筆頭としてヨーロッパの証券取引所を支配しているユダヤ人金融家」を論じる一方で、ユダヤ教徒迫害は愚かで退けるべきであるとし、「ユダヤ人からの解放」が主張された<ref name=uem/>。
 
 
 
同1861年 - ドイツで匿名(著者はH.G.ノルトマンとされる{{refnest|group=*|[[#植村邦彦1999]]による。なお、篠原敏昭は1992年の論文で、『ユダヤ人とドイツ国家』の著者は[[ブルーノ・バウアー]]であるとした<ref name="shinohara1992"/>。}})で『ユダヤ人とドイツ国家』が発表され、ベストセラーになった<ref>Die Juden und der deutshe Staat,Berlin and Posen,1861.</ref><ref name=uem/>。この本は伝統的なキリスト教的なユダヤ教徒への嫌悪(Judenhaß)を復活させ、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』からシャイロックの台詞が何度も引用され、「ユダヤ人であること(das Judenthum)は、極端な分離主義と人種的思い上がりによって特徴づけられ、ユダヤ人の人間としての範囲はアブラハムの 子孫を越えることはない」「ユダヤの血とユダヤの意識は分離できないのであり、我々は、ユダヤ教(das Judenthum)を宗教や教会としてだけではなく、人種的特性の表現として把握しなければならない。だから、ユダヤ人とドイツ人の宗教的分離が廃止されれば二つの民族のあらゆる本質的区別がなくなるとか、両者の融合がさらに進めばユダヤ的性格がドイツ人に影響を及ぼすことはなくなるとか、思ってはならない」と主張し、ユダヤ人を人種(Race)、種族(Stamm)として論じ、またユダヤ人が公職に就く権利を要求しているのを批判した<ref name=uem/><ref name="shinohara1992"/>。同書によれば、キリスト教は普遍的平等と人間愛の世界宗教であるのに対し、ユダヤ教はイスラエル一族だけがエホヴァと盟約しており他の人類と敵対する排他的宗教であり、ユダヤ教は[[神権政治|神政制度]]を基礎とした[[政教一致|国家教会]]であるため、非ユダヤ的な者を無条件に同権者として承認することは神との決裂になり、従ってユダヤ教徒は非ユダヤ教徒を同権者として承認できないとする<ref name="shinohara1992"/>。これに対してヨーロッパのキリスト教諸国家は[[寛容|寛容思想]]によって宗教の隔壁を廃棄しようとしているが、ユダヤ教を誤解しているとヨーロッパのユダヤ政策を批判した<ref name="shinohara1992"/>。ただし同書末尾では、著者はユダヤ人への侮辱や憎悪を説くつもりはなく、ユダヤの本質の認識を目指したと説明している<ref name="shinohara1992"/>。
 
 
 
[[ドイツ文学#詩的リアリズム(1848年 - 1890年)|市民的リアリズム]]を代表する小説家[[ヴィルヘルム・ラーベ]]の『飢餓牧師』(1864)は正直で貧しく慈悲深い牧師となるキリスト教徒に対して、不正直で権力欲に燃えるユダヤ教徒の野心は阻まれるという話で<ref name="m98-171-7">[[#モッセ1998]],pp.171-7.</ref>、改宗ユダヤ人の野心家が「私には、気の向くままにドイツ人になったり、その栄誉を手放したりする権利がある」と述べる<ref name="po-4-15-29">[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.15-29.</ref>。同じく市民的リアリズムの作家[[テオドール・フォンターネ]]の小説では、ユダヤ人は一定の好意をもって描かれているが、ユダヤ人はユダヤ人同士でキリスト教徒と分かれて暮らした方がいい、[[ゴットホルト・エフライム・レッシング|レッシング]]の三つの指環という宗教的寛容を説く『[[賢者ナータン]]』の物語は不都合を引き起こしたと述べている<ref name="po-4-15-29"/>。ヘルマン・ゲドシュ(筆名サー・ジョン・レットクリフ)の小説「ビアリッツ」(1868)では、ユダヤ人陰謀家がプラハの墓地で世界支配を計画したと描かれ、人気を博した<ref name="m98-171-7"/>。
 
 
 
=== 聖書学 ===
 
[[File:David Friedrich Strauss 1.jpg|thumb|150px|[[ダーフィト・シュトラウス]]]]
 
19世紀には[[聖書学]]が進展した。[[青年ヘーゲル派]]の[[ダーフィト・シュトラウス]]は[[1835年]]に『イエスの生涯』を発表し、[[福音書]]での[[奇跡]]を神話として批判的に研究した。後年、ニーチェから批判された。
 
 
 
[[エルネスト・ルナン]]は[[1861年]]にコレージュ・ド・フランスでの開講初日にイエスを「神と呼んでもいいほどに偉大なる比類なき人間」と呼んで講義が停止され、翌1863年、『イエスの生涯』を刊行した<ref>[[#上山安敏2005|上山安敏2005]],p.283.</ref>。なお、ルナンはフォイエルバッハの反キリスト教の立場やゲルマン主義には批判的であり、新約と旧約を分離する反ユダヤ主義者ではなく、1882年ハンガリーのティルツラル・エツラルでの儀式殺人事件には抗議し、ロスチャイルド家から資金を調達して反ユダヤ主義の標的にもなった<ref>[[#上山安敏2005|上山安敏2005]],p.284.</ref>。しかし、ルナンは初期イエスはユダヤ教の枠の中にあったが、ユダヤ共同体での論争の激しさの犠牲となり、イエスはユダヤ教を徹底的な破壊者となり、偏狭なユダヤ性を克服していったと論じて、ユダヤ教を拒絶した<ref>[[#上山安敏2005|上山安敏2005]],p.286-288.</ref>。ルナンや[[ダーフィト・シュトラウス]]によって[[史的イエス]]の研究が展開していった。
 
 
 
[[ファイル:AbrahamGeiger.png|thumb|150px|[[アーブラハム・ガイガー]]]]
 
ダーフィト・シュトラウスから大きな刺激を受けた[[改革派 (ユダヤ教)|ユダヤ教改革派]][[ラビ]]の[[アーブラハム・ガイガー]]は『ユダヤ教とその歴史』(1865-71)などで、イエスの教えはオリジナルなものではなく、パリサイ派の倫理の延長にあり、イエス教では天国崇拝が新しいだけであるとして、イエスはガリラヤ出身のパリサイ派ユダヤ人であるとした<ref>Abraham Geiger,Das Judenthum und seine Geschichte von der Zerstörung des zweiten Tempels bis zum Ende des zwölften Jahrhunderts. In zwölf Vorlesungen. Nebst einem Anhange: Offenes Sendschreiben an Herrn Professor Dr. Holtzmann. Breslau: Schletter, 1865-71.
 
</ref><ref name="uey-271-2">[[#上山安敏2005|上山安敏2005]],p.271-2.</ref>。ガイガーは、リベラル・プロテスタントの視線でユダヤ教の歴史を描き、パリサイ派を進歩派、サドカイ派を保守派とみた<ref>[[#上山安敏2005|上山安敏2005]],p.278.</ref>。ガイガーによるパリサイ派のサドカイ派の対立の図式は、モムゼンにも影響を与えた<ref>[[#上山安敏2005|上山安敏2005]],p.279.</ref>。ガイガーは、当時1870年代の[[文化闘争]]などでカトリックに対抗するドイツのプロテスタントやリベラルな国民主義に接近し、ラビのユダヤ教を改革することで、ユダヤ社会の近代化を目指した<ref>[[#上山安敏2005|上山安敏2005]],p.280-281.</ref>。
 
 
 
[[File:Julius Wellhausen 02.jpg|サムネイル|150px|[[ユリウス・ヴェルハウゼン]]]]
 
[[ユリウス・ヴェルハウゼン]]は『パリサイ派とサドカイ派』(1874)『イスラエル史』(1878)などで、[[モーセ五書]]の[[律法]]よりも[[エレミヤ書|預言者エレミヤ]]の個人的敬虔を重視し、さらに『[[申命記]]』などの祭祀法典は[[バビロン捕囚]]後に成立したとみた<ref>[[#上山安敏2005|上山安敏2005]],p.174.</ref><ref>''{{Digitalisat|IA=diephariserund00welluoft|SZ=n4|LT= Die Pharisäer und die Sadducäer.}}(1874),{{Digitalisat|IA=geschichteisrae00wellgoog|SZ=n5|LT= ''Geschichte Israels in zwei Bänden,'' Bd 1.}}(1878),{{Digitalisat|IA=prolegomenazurg01wellgoog|SZ=n5|LT= ''Prolegomena zur Geschichte Israels.'' 2. Ausgabe, Bd. 1.}}(1883),{{Digitalisat|IA=prolegomenazurg02wellgoog|SZ=n6|LT= ''Prolegomena,'' 3.&nbsp;Ausgabe}}(1886),{{Digitalisat|IA=prolegomenazurg00wellgoog|SZ=n6|LT= ''Prolegomena,'' 5. Ausgabe}}(1899).</ref>。ヴェルハウゼンは、[[6世紀]]頃からユダヤ教は古代イスラエル宗教を圧迫し、祭祀階層が預言者をとどめを刺して、律法が固定されたとして、このことによってパリサイ派は権力を把握した一方で、精神的イスラエルとしてのキリスト教が成長したとみた<ref>[[#上山安敏2005|上山安敏2005]],p.175.</ref>。ヴェルハウゼンは、ニーチェ、[[マックス・ヴェーバー|ヴェーバー]]、フロイトにも大きな影響を与えた<ref>[[#上山安敏2005|上山安敏2005]],p.139.</ref>。
 
 
 
=== 普仏戦争とドイツ帝国の成立 ===
 
[[ファイル:Karte Deutsches Reich, Verwaltungsgliederung 1900-01-01.png|サムネイル|プロイセン中心の連邦国家「ドイツ帝国」の成立によって[[ドイツ統一]]が実現された。]]
 
[[1866年]]に7週間で終わった[[普墺戦争|普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)]]で[[プロイセン王国]]が勝利したことによって[[ドイツ連邦]]は解体され、翌[[1867年]]にオーストリアと南ドイツを除いた[[北ドイツ連邦]]が成立した。
 
 
 
ケーニヒスベルク歴史学教授フェリクス・ダーンは[[#イタリア統一と教皇領の消滅|イタリア統一]]直後に小説「ローマとの闘争」(1867)<ref>Felix dahn,Ein Kampf um Rom</ref>をイタリア化からのチロルの防衛を目的として書いた<ref>[[#モッセ1998]],p.102.</ref>。この小説では中世の[[ゴート人]]によるイタリア遠征を題材に、誠実で情潔なゲルマン人に対して、卑劣で臆病で計算ずくのユダヤ人の非業の最後が描かれる<ref name="sim110">[[#下村 1972|下村 1972]], p.105-110.</ref>。
 
 
 
[[1869年]]、教権派のグージュノー・デ・ムソーが著書『ユダヤ人、ユダヤ教、そしてキリスト教諸民族のユダヤ化』において、世界イスラリエット同盟、儀式殺人、フリーメイソンのユダヤ人などの害悪を論じ、反キリスト教の陰謀を企て、各地で革命の種を蒔いているとする一方で、ユダヤ人の血には価値があり、高貴な民族であり、神秘的な生命力を持っていると称賛した<ref>Roger Gougenot des Mousseaux, Le Juif, le judaïsme et la judaïsation des peuples chrétiens, Paris, H. Plon.</ref><ref>[[#鈴木 2014|鈴木 2014]],p19.</ref><ref name="po-4-49-59"/>。グージュノーは、野蛮なタルムードは憎悪と横領の教えであり、タルムードが破棄されるまではユダヤ人は非社会的な存在であり続けるが、それに先立ち、これまでにないほどの苛酷な試練が待ち受けている、そしてユダヤ人は「父の家」にふたたび加わり、「永遠に選ばれた民、諸々の民のなかにあってもっとも高貴にしてもっとも威厳に満ちた民」として祝福されると論じた<ref name="po-4-49-59"/>。グージュノーは、教皇ピウス9世から称賛され、教皇庁騎士号を与えられた<ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.566.</ref>。
 
 
 
[[1871年]]、[[普仏戦争|普仏戦争(プロイセン=フランス戦争)]]でプロイセンと南北ドイツ諸邦が[[フランス第二帝政|フランス帝国]]に勝利し、プロイセン王[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]が[[ヴェルサイユ宮殿]]で皇帝に即位して[[ドイツ帝国]](正式にはドイツ国 Deutsches Reich)が成立した。ドイツでゲルマンの人種的優越性が主張されるようになったのは[[ナポレオン戦争]]のためであったが<ref name="p-A-300-318"/>、フランスの反ユダヤ主義は普仏戦争での敗北で高まった<ref name="p-A-363-380"/>。ルネ・ラグランジュは『フィガロ』でプロシア軍のパリ凱旋について、軍人の後を広いふちの帽子をかぶり、眼鏡をした長い髪の集団が行進し、これは間違いなくドイツ軍に従軍するユダヤ人金融業者であったとした<ref name="p-A-363-380"/>。ドリュモンもこの行進を目撃していた<ref name="p-A-363-380"/>。
 
 
 
ユダヤ人による儀式殺人を中心テーマとして書かれたプラハ大学教授アウグスト・ローリング神父の『タルムードのユダヤ人』([[1871年]])<ref>August Rohling,Der Talmudjude. Zur Beherzigung für Juden und Christen aller Stände, Münster 1871</ref>は、ヨハン・アンドレアス・アイゼンメンガーの1700年の著作『暴かれたユダヤ教』を底本にしたものだったが、[[1885年]]、ラビのヨーゼフ・ザームエル・ブロッホから名誉毀損裁判を起こされ負けて、プラハ大学教授職を辞した<ref name="po-4-29-48">[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.29-48.</ref><ref>野村真理『ウィーンのユダヤ人』御茶の水書房、1999年、p.51-.</ref>。しかし、ローリングの著作はヨーロッパのカトリック界で支持され、フランスでは[[1889年]]には『タルムードのユダヤ人』の翻訳が三種類も出版された<ref name="po-4-29-48"/>。また、ローリング神父の著書を読んでキリスト教に改宗するユダヤ人も多くいた<ref>[[#ポリアコフ 5|ポリアコフ 5巻]],p.245.</ref>。
 
 
 
ドイツ語圏では、1867年から1914年までに儀式殺人訴訟が12件繰り返された<ref name="po-4-29-48"/>。[[1899年]]、ボヘミアの儀式殺人訴訟では、レーオポルト・ヒルスナーが有罪となったが、これ以外の儀式殺人訴訟はすべて被告は無罪であった<ref name="po-4-29-48"/>。ヒルスナー事件では、プラハ大学の哲学教授[[トマーシュ・マサリク|マサリク]]{{refnest|group=*|後年、トマーシュ・ガリッグ・マサリクは[[チェコスロバキア|チェコスロヴァキア共和国]]初代大統領となる。}}が弁護して、儀式殺人は退けられるが、ヒルスナーは19歳の娘を殺害したとして死刑判決を受けたが恩赦された<ref name="po-4-29-48"/>。
 
 
 
==== 19世紀後半期ドイツのマスメディア ====
 
[[ファイル:Die Gartenlaube (1853) 001.jpg|サムネイル|家庭雑誌『ディー・ガルテンラウベ(Die Gartenlaube)』]]
 
自由主義者エルンスト・カイルが[[1853年]]に創刊した家庭雑誌『ガルテンラウベ(Die Gartenlaube)』は、1848年の3月革命の失敗に自信を喪失した市民階級が、政治や社会から目を背けて、家庭に心の避難場所を求めていた時代に発行部数を伸ばし、[[1860年]]には86000部、[[1875年]]には38万部の部数を誇った<ref name="Gartenlaube">[[#竹田和子2017]]</ref>。同誌の専属作家E.マルリットは[[1873年]]の「荒野のプリンセス」でユダヤ人の祖母を排除しようとしたプロテスタントを批判して寛容をテーマとした<ref name="Gartenlaube"/>。『ガルテンラウベ』の基本的な立場は啓蒙的で進歩主義的であり、1848年革命で目指されたドイツ統一を主張する「国民自由主義」の立場にあった<ref name="Gartenlaube"/>。しかし、[[1870年]]の[[普仏戦争]]期には従軍記事も多く掲載され、立場を超えて「全ドイツ人の一体感が呼び起こされた」という記事も掲載されるようになった<ref name="Gartenlaube"/>。1873年には[[文化闘争]]においてカトリックやイエズス会を批判した<ref name="Gartenlaube"/>。[[1874年]]、「ユダヤ人は自分では働かず、他人の知的、肉体労働による生産物を搾取している。この異族はドイツ国民を支配し、その骨の髄までしゃぶりつくしている」という反ユダヤ記事を掲載した<ref name="po-4-29-48"/>。すでにエルンスト・カイルら3月革命の自由主義者はエリート層となり、既得権を守ろうという意識が働いていた<ref name="Gartenlaube"/>。
 
 
 
1870年代当時は、プロテスタントの『十字架新聞』とカトリック系の『ゲルマーニア』が二大新聞だった<ref name="po-4-29-48"/>。カトリック系の『ゲルマーニア』はユダヤ人迫害とは宗教上のものではなく異民族の侵入に対するゲルマン民族の抗議であると主張したが、反ユダヤ運動には加担しないという姿勢をとった<ref name="po-4-29-48"/>。またビスマルクの内政を批判した<ref name="po-4-29-48"/>。一方で、プロテスタントの『十字架新聞』は反ユダヤ主義記事の掲載を続け、同紙に掲載されたヘルマン・ゲートシュの幻想小説は『[[シオン賢者の議定書]]』に影響を与えた<ref>[[#コーン(1991)]],p.31-32.</ref><ref name="po-4-29-48"/>。
 
 
 
=== 世界大不況の時代 (1873年-1896年) とユダヤ資本主義論 ===
 
{{Main|大不況 (1873年-1896年)}}
 
 
 
[[産業革命]]によってイギリスは世界経済の中心となったが、19世紀末になると後発資本主義国家のアメリカ合衆国とドイツが成長してイギリスを追い越した<ref name="miyasita">宮下郁男「「19世紀末大不況」期における景気循環の跛行性について」旭川大学紀要64号、2007-12-01.</ref><ref name="tahara">田原昭四「世界三大不況の性格と特徴」中京大学経済学論叢 24号 2013年3月</ref>。[[1873年恐慌]]の震源地は米国とドイツであった<ref name="miyasita"/>。ドイツが最もはやく不況から回復し[[1887年]]に好況に入ったが、1890年の恐慌はドイツから始まった<ref name="miyasita"/>。[[1873年]]から[[1896年]]まで展開した[[大不況 (1873年-1896年)|世界大不況]]の時代にヨーロッパ各地で反ユダヤ主義が高まっていった。
 
 
 
==== 大不況下の帝政ドイツ ====
 
[[File:1879 Buelow Kaiser Wilhelm I anagoria.JPG|180px|thumb|right|ドイツ皇帝[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]。[[1878年]]にヴィルヘルム1世暗殺未遂事件が起こり、[[社会主義者鎮圧法]]が作られた。]]
 
 
 
[[ドイツ帝国]]の成立によってドイツが統一されると1871年から1872年にかけて投機ブームが起こった{{refnest|group=*|1872年の会社設立数は、1790年から1867年までの会社設立数の二倍にのぼった<ref name="po-4-29-48"/>}}。しかし、ドイツ統一の投機ブームは[[1873年恐慌]]からの[[大不況 (1873年-1896年)|世界大不況]]がはじまったことによって終焉を迎え、多くの投資家が破産し、企業の倒産が続いた<ref name="po-4-29-48"/>。
 
 
 
コンスタンティン・フランツ<ref>Constantin Frantz(1817-91)</ref>は[[1874年]]にドイツ帝国と[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]の軍国主義を批判し、永久平和を保障するヨーロッパキリスト教連邦を計画した<ref name="p-5-407-410">[[#ポリアコフ 5|ポリアコフ 5巻]],pp407-410.</ref>。フランツは、かつてヨーロッパのキリスト教共同体を統轄した[[神聖ローマ帝国]]であったドイツがその担い手となるし、ビスマルクの偽帝国に代わって真の帝国を樹立することがドイツの使命であるとした<ref name="p-5-407-410"/>。近代キリスト教徒は、ドイツ人やフランス人である以前にキリスト教徒であるため、新帝国は国民国家を克服し、別の次元の共同体となるとされた<ref name="p-5-407-410"/>。フランツはドイツを中心としたキリスト教帝国においては、ユダヤの影響から解放されることが条件であるとした<ref name="p-5-407-410"/>。フランツによれば、キリスト教やイスラム教は人種を超えて普及したが、ユダヤ教は一つの人種に基づくし、ユダヤの民はメシアを死に至らしめたあと、神の呪いによって放浪し、このことが他の民を罰するための神の道具となって、キリスト教徒間の戦争はユダヤの支配を強めることとなり、ビスマルクは「ユダヤ民族のためのドイツ帝国」の樹立に向かっているとし、真の進歩は「ユダヤ的進歩」にとって代わる必要があると論じた<ref name="p-5-407-410"/>。
 
 
 
===== ドイツ社会主義からシュテッカー、マルの反ユダヤ主義へ =====
 
ドイツでユダヤ人の解放が実現した19世紀後半は後発の[[産業革命]]の時代でもあり、さまざまな商工業分野で成功したユダヤ人が少なくなかった。例えば、ユダヤ人の大学入学率はプロテスタントの10倍、カトリックの15倍となった{{refnest|group=*|ウィーン大学とプラハ大学では学生の3分の1がユダヤ人学生であり、1885年頃のドイツの大学全体では8人に1人がユダヤ人であった<ref name="po-4-29-48"/>}}。ユダヤ人は近代化、近代社会の象徴とされ、憎悪された<ref name="po-4-29-48"/>。躍進著しいユダヤ人に対する人々の妬みや反感は反ユダヤ主義の潮流を高めた<ref name="osw89-97">[[#大澤1991]],p.89-97</ref>。ユダヤ人は社会主義者からみれば敵の[[ブルジョアジー]]であり、反対に資本家の眼には社会主義者・革命家とうつる存在であり、ユダヤ人が国際ネットワークを使って世界支配の陰謀をめぐらすというユダヤ陰謀論(脅威論)が様々な形態をとって繁殖していった<ref name="maruyama1988"/>。
 
 
 
大不況下の帝政ドイツでは社会主義運動が高まり、[[フェルディナント・ラッサール|ラッサール]]の全ドイツ労働者協会と、[[アウグスト・ベーベル|ベーベル]]・[[ヴィルヘルム・リープクネヒト|リープクネヒト]]のドイツ社会民主労働党が合併した[[ドイツ社会主義労働者党]]が[[1875年]]に結成された<ref name="k-185-200">[[#ケテラー2006|ケテラー2006]],p.185-200.</ref>。しかし、社民党や共産党でもユダヤ知識人は攻撃され、[[アウグスト・ベーベル|ベーベル]]もユダヤ人社会主義者を頭はよいがめざわりとし、この見方は正統的社会主義に深く根をおろし、特に共産党では反ユダヤ主義が強かった<ref name="m-96-138-143">[[#モッセ1996]],p.138-143.</ref>。ユダヤ人は労働運動のなかでも孤立した<ref name="m-96-138-143"/>。[[1878年]]5月11日と6月2日に元ドイツ社会主義労働者党員によってドイツ皇帝[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]暗殺未遂事件が二度起こると、「社会民主主義の公安を害する恐れのある動きに対する法律([[社会主義者鎮圧法]])」が作られたが1890年には失効した<ref name="Gartenlaube"/>。ドイツ社会主義労働者党は1890年帝国議会選挙では第一党となり、同年9月、[[ドイツ社会民主党]]へ改称した。
 
 
 
[[File:Adolf Stoecker.jpg|thumb|180px|勤労者キリスト教社会党を創設したアドルフ・シュテッカー(Adolf Stoecker)司祭]]
 
[[File:Wilhelm Marr.jpg|thumb|180px|right|ヴィルヘルム・マル(Wilhelm Marr,1819 – 1904)。「反セム主義 Antisemitismus」という言葉を作った<ref name="po553"/><ref name="ni-mar"/>。]]
 
[[1878年]]、帝宮礼拝堂付司祭アドルフ・シュテッカーは、社会主義を穏健なキリスト教社会主義と破壊的なユダヤ社会主義とに区別して、ユダヤ人の市民権制限、公職追放、ユダヤ人移民制限、工場法、利子制限法、[[累進課税]]と[[相続税]]、[[徒弟]]制度などを主張して、勤労者のためのキリスト教社会党(Christlich-soziale Partei)をベルリンで結成し、[[1879年]]にはプロイセン議会議員、[[1881年]]には帝国議会議員となった<ref name="po-4-29-48"/><ref>
 
[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.560-561.訳注による解説を参照。</ref>。経済学者[[アドルフ・ワーグナー (経済学者)|アドルフ・ワーグナー]]も党の創設に関わったキリスト教社会党は反ユダヤ宣伝を行った<ref name="sim103"/>。
 
 
 
なお、[[1878年]]にドイツ主催で締結された[[露土戦争 (1877年-1878年)|露土戦争]]の講和条約[[ベルリン条約 (1878年)|ベルリン条約]]では諸宗教の平等規定が含まれた。
 
 
 
[[1879年]]、[[無神論|無神論者]]で社会主義者だったジャーナリストのヴィルヘルム・マルが「反セム主義(Antisemitismus)」という語を用いた<ref name="po553"/><ref name="ni-mar">日本大百科全書(ニッポニカ)</ref>。ハンブルグ出身のマルは[[ブルーノ・バウアー]]らの影響を受けて無神論に傾倒して、1844年にスイスで労働運動を組織して失敗し、1848年革命ではハンブルグで革命に参加後、スイスに亡命して無政府主義グループに参加した<ref name="marr">[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.560.訳注による解説を参照。</ref>。マルは1862年に『ユダヤの鑑』を発表して、1879年に『非宗教的見地から見たゲルマン主義に対するユダヤ世界の勝利』というパンフレットを出版した<ref>Wilhelm Marr,[http://www.gehove.de/antisem/texte/marr_sieg.pdf Der Sieg des Judenthums über das Germanenthum – Vom nichtconfessionellen Standpunkt aus betrachtet] ,1879,Bern,Rudolph Costenoble. </ref><ref name="marr"/>。マルはこのなかで、金融界の慣習はユダヤ的であることに疑いはなく、ユダヤ人は迫害に耐えて生き抜くことを可能にした人種的素質によって勝利したとし、「ユダヤ人は、いかなる非難を受ける筋あいはない。彼らは、18世紀もの長きにわたって西洋世界を相手に戦い抜いてきたのだ。彼らはこの世界を打ち負かし、支配下に置いた。われわれは敗者であり、そして、勝者がウァエ・ウィクティス(敗者に災いあれ)」を叫ぶのは当然のことなのだ」として、ドイツ人はすでにユダヤ化しており、反ユダヤ感情が暴発しても、ユダヤ化した社会の崩壊をくい止めることはできないと論じて、「われわれにとっては神々の黄昏の始まりだ。あなた方(ユダヤ人)は支配者であり、われわれ(ドイツ人)は[[農奴]]となった。ゲルマン世界は終焉を迎えた」と結論した<ref name="po-4-29-48"/>。マルはドイツの自由主義がドイツ財政および産業をユダヤ人が支配することを許していると批判した<ref name="sim103"/>。この書物は出版から数年で十数回の版を重ねた<ref name="po-4-29-48"/>。マルは、同じ1879年に[[:de:Antisemitenliga|反セム主義者連盟(Anti Semiten Liga)]]を結成して、反ユダヤ主義の最初の大衆運動となり、フリッチュに影響を与えた<ref name="marr"/>。こうしたマルの活動は、ドイツ民族によるユダヤ的本質の絶滅を目標にしていたとされる<ref name="sim103"/>。
 
 
 
マルクスやラッサールを批判した社会主義経済学者[[オイゲン・デューリング]]は[[エンゲルス]]によっても批判されたが、『人種、風俗、文化問題としてのユダヤ人』(1881)<ref>Eugen Dühring(1833-1921),Die Judenfrage als Racen-, Sitten- und Culturfrage. Mit einer weltgeschichtlichen Antwort.</ref>、『完全な宗教への代替と近代民族精神によるユダヤ性の除去』(1883)<ref>Der Ersatz der Religion durch Vollkommeneres und die Ausscheidung alles Judenthums durch den modernen Völkergeist. Reuther.</ref>などで、事実的なことや現実的なことに関して才能がないユダヤ人は形象や夢にとらわれて暮らし、比輸によって思考している空想家、神話形成者であるため、「北方の人間はより厳しいより冷静な天空の下で、際限を知らないこの民族を論理で撲滅しなければならない」と述べ、ユダヤ人を抑えつけるためには社会主義以外の方法はないとし「ユダヤ人からの解放」を主張した<ref name="les-O-Wei"/><ref name="po-4-29-48"/><ref name="p-A-381-405"/><ref name="p-5-410-7"/>。
 
 
 
===== トライチュケ・グレーツ・モムゼン論争 =====
 
[[ファイル:Heinrich von Treitschke.jpg|thumb|180px|19世紀後半期のドイツ歴史学を代表する[[ハインリヒ・フォン・トライチュケ]]]]
 
[[ファイル:Heinrich Graetz.jpg|180px|thumb|トライチュケが批判したユダヤ人歴史学者[[ハインリヒ・グレーツ]](1817 - 1891年)。]]
 
 
 
ルター派の歴史学者で[[国民自由党 (ドイツ)|国民自由党]]議員の[[ハインリヒ・フォン・トライチュケ]]は、[[1879年]]に『プロイセン年報』に発表した論文「われらの展望」で、ユダヤ人は株式相場や出版界を支配するが、ユダヤ人とゲルマン的人間との間には深い溝があり、「ユダヤ人こそわれらが不幸」であり、寛容な最良のドイツ人でも心の奥底ではこうした見解を共有していると論じた<ref name="po-4-29-48"/>。「ユダヤ人は我々の不幸だ」というフレーズはナチス時代の新聞『[[シュテュルマー]]』 でもよく引き合いに出された<ref>{{Cite book|和書|author=[[谷喬夫]] |year=2000 |title=ヒムラーとヒトラー |publisher=講談社 |series=講談社選書メチエ |pages=37-38}}</ref>。トライチュケの論文の背景には、大著『ユダヤ人の歴史』を書き上げたユダヤ教徒の歴史家[[ハインリヒ・グレーツ]]の存在があった。グレーツはこの本でキリスト教を明確に敵視し、ユダヤ人のキリスト教への改宗を「裏切り者」として厳しく批判した<ref>『最古の時代から現代にいたるユダヤ人の歴史』Geschichte der Juden von den Anfängen bis auf die Gegenwart, 11巻、1853 - 1874</ref><ref name="uey-302-318">[[#上山安敏2005|上山安敏2005]],p.302-318.</ref>。グレーツはシオニズムに近いユダヤ民族主義の立場にあり、新約聖書をタルムードを使って読み直し、ユダヤ教とキリスト教の亀裂を拡大した<ref name="uey-302-318"/>。グレーツはイエスを神の子とするキリスト教は、メシア意識の混乱にあるとして、イエスは神の子だと主張したために訴訟が起こされたのであり、イエス処刑後の福音書は、メシアの出現物語を後知恵で証明しようとしたものにすぎないと論じた<ref name="uey-302-318"/>。「神の子」という観念は異教の土地ギリシャのものであり、ヘレニズムの不純物であるとするグレーツの考え方は、[[マックス・ヴェーバー]]や、ヴェーバーの伯父で教会史学者のアードルフ・ハウスラートも認めた考えであった<ref name="uey-302-318"/>。[[タルムード]]では、イエスはヨセフ・パンデラと処女ミリアムとの不倫の子であり、ユダヤ共同体から追われて、神の名を用いて奇跡の力を学んだが、ラビ団のユダに打ち負かされて死刑となったというイエス物語があるが、グレーツはタルムードのイエス物語を作り話として、イエスは[[エッセネ派]]であるとした<ref name="uey-267-8"/>。トライチュケはグレーツが『ユダヤ人の歴史』でキリスト教を「宿敵」「不倶戴天の敵」と表したことを取り上げて、これはキリスト教に対する狂信的な怒りであり、ゲルマン人への憎悪であるとして、グレーツを名指しで批判した<ref name="uey-302-318"/>。トライチュケはユダヤ人の同化と改宗による編入を希求したが、改宗を拒否したグレーツに対して「わが(ドイツ)民族を理解することも、また理解しようともしないオリエント人」と非難した<ref name="uey-302-318"/>。トライチュケは人種主義者ではなかったが、ポーランドから流入する東欧ユダヤ人はいつかドイツの新聞と株式を支配するだろうと警告した<ref name="uey-302-318"/>。実際、ポーランド(ポーゼン)からの東欧ユダヤ人には、『ベルリナー・ターゲブラット』紙社長・新聞広告業でモッセ・コンツェルンを築いたルドルフ・モッセ(弟アドルフは日本の憲法起草に携わった)<ref>「モッセ」世界大百科事典 第2版</ref>、[[国民自由党 (ドイツ)|国民自由党]]指導者エドゥアルト・ラスカー、経済学者アルトゥール・ルッピン、[[ゲルショム・ショーレム]]の曽祖父がおり、そして歴史家グレーツがいた<ref name="uey-302-318"/>。
 
 
 
トライチュケの論文に対して歴史家[[テオドール・モムゼン|モムゼン]]はトライチュケによって反ユダヤ主義は品行方正なものとなったが、反ユダヤ主義は国民感情の堕胎であり、狂信的愛国主義であると批判した<ref name="po-4-29-48"/>。モムゼンは『ローマの歴史』などでユダヤ人は歴史を動かす酵母であり、ユダヤ人が諸部族を解体したことでローマ帝国の建設に貢献したと評価し、またテオドール・フリチュやチェンバレンらのユダヤ人を国民集団の破壊者とする反ユダヤ主義に対しては国民感情の妖怪として批判した<ref name="uey-302-318"/>。しかし、そのモムゼンも、キリスト教は文明人同士をつなぐ唯一の絆であり、ユダヤ人にキリスト教への改宗を執拗なまでにすすめ、トライチュケと同じようにユダヤ人のドイツへの融合(同化)を願った<ref name="uey-302-318"/><ref name="po-4-29-48"/>{{refnest|group=*|異物としてのユダヤ性を除去するという点では、モムゼンもトライチュケも同じ土俵に立っていた<ref name="uey-302-318"/>。}}。モムゼンは、ユダヤ人がドイツ人に同化するには犠牲を払う必要があり、ドイツ文化に友好的に参加すべきであるし、公民の義務を果たし、ユダヤ人の特殊な作法を廃すべきであるとした<ref name="uey-302-318"/>。トライチュケとの論争でモムゼンもユダヤ民族主義者のグレーツを支持したわけではなく、モムゼンはグレーツについて、文芸界の隅っこにいる「タルムード学史の編纂屋」にすぎず、ローマ帝国にいたユダヤ人歴史家[[フラウィウス・ヨセフス|ヨセフス]]や哲学者[[アレクサンドリアのフィロン|フィロン]]とは比較にならないほど小さな存在であるのに、なぜそんな相手に論争を挑むのか、とトライチュケを戒めた<ref name="uey-302-318"/>。モムゼンはトライチュケと同じく国民自由党に所属していたが、トライチュケがビスマルクを支持した一方で、モムゼンはビスマルクを国民統合の破壊者とした<ref name="uey-302-318"/>。また、モムゼンはリベラル・プロテスタントの「反ユダヤ主義防衛連合」を創立したが、同連合はユダヤ民族主義([[シオニズム]])に不快感を表明し、「ユダヤ信仰のドイツ国家市民中央連合」を創設してシオニズムに対抗した<ref name="uey-302-318"/>。反ユダヤ主義防衛連合のアルプレヒト・ウェーバーは、ユダヤ人にも反ユダヤ主義についての責任があるとして、同化を拒否するユダヤ人を批判した<ref name="uey-302-318"/>。シオニストのヘルツルは、反ユダヤ主義を批判しながらユダヤ人に同化をすすめる反ユダヤ主義防衛連合に対して、自尊感情を持って最後の避難所を見つけようとしているユダヤ人を貶めようとしていると批判した<ref name="uey-302-318"/>。
 
 
 
トライチュケの論文に対するユダヤ人知識人の反応は、ユダヤ人はすでに同化しておりドイツへの愛国心を保有しているというものが多く、同化を拒否するグレーツはヘルツルのシオニズムが登場するまでは例外であった<ref name="po-4-29-48"/>。[[新カント派]]のユダヤ系哲学者[[ヘルマン・コーエン]]はユダヤ教を信奉しながらも、ユダヤ教のドイツ化に反対すべきではないとして同化を勧め<ref name="p-5-418-430"/>、ユダヤ人は皆ドイツ人の容貌を備えていたらどれほど幸せであっただろうと常常感じていると主張した<ref name="po-4-29-48"/>。ユダヤ人の平等を訴えてきた自由主義者のユダヤ人ベルトルト・アウエルバッハ{{refnest|group=*|Berthold Auerbach, 1812-1882}}は晩年にキリスト教社会党のシュテッカーやドイツ保守党のハンマーシュテイン<ref>ヴィルヘルム・フライヘル・フォン・ハンマーシュテイン Wilhelm Freiherr von Hammerstein-Gesmold(Wilhelm Joachim von Hammerstein)1838-1904.</ref>によるユダヤ人批判に対して「私はドイツ人であり、ドイツ人以外の何ものでもなく、生涯全体を通してもっぱらドイツ人であると感じてきたし、ドイツの風度のひとつの声であった」「消え失せろ、ユダヤ人、おまえはわれわれてとは何の関係もない」と手紙に書いた<ref>[[#レッシング2]]
 
,p112-113.</ref>。
 
 
 
;1880年代ドイツのその他の思想
 
[[File:Alte Synagoge Münster.jpg|サムネイル|1880年に建設された[[ミュンスター]]のシナゴーグ。1938年のポグロムで破壊された。]]
 
[[File:Koch, Max (1854-1925) - 1897 - Freilicht - vmp 01.jpg|サムネイル|[[ヌーディズム]](自然復帰主義)を表した『野外』(1897)]]
 
ベルリンでは[[1880年]]から[[1881年]]にかけて、暴徒がユダヤ人を襲撃したり、ユダヤ人商店やシナゴーグに放火するという暴動が続いた<ref name="po-4-29-48"/>。ポール・マッシングの調査によれば、反ユダヤ主義を広めたのは、学校教員、学生、公務員、事務員、レーベンスフォルム(Lebensreform 生活改革運動)、[[菜食主義|菜食主義者]]、[[動物福祉|生体解剖反対論者]]、[[ヌーディズム|ナチュリスト(裸体運動、自然復帰主義)]]などの都会人であり、田舎の農民や貴族の大地主や聖職者でもなかった<ref name="po-4-29-48"/>。裸体運動では、ゲルマン人種と、ロマンス人種、スラヴ人種、ユダヤ入種との婚姻が禁止された<ref name="hrd2006">[[#原田2006|原田2006]]</ref><ref>竹中亨『帰依する世紀末』ミネルヴァ書房、p.220-221.</ref>。
 
 
 
[[File:Nietzsche1882.jpg|サムネイル|180px|哲学者[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]は反ユダヤ主義を批判しつつも、ユダヤ教とキリスト教は道徳上の奴隷一揆をはじめたと論じた<ref name="po-4-15-29"/>。]]
 
[[Image:Elisabeth förster 1894b.JPG|thumb|180px|ニーチェの妹[[エリーザベト・フェルスター=ニーチェ]]はナチ党を支援した。]]
 
大不況によって反ユダヤ主義が高まるなか、哲学者[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]はユダヤ人に対して繰り返し称賛と感謝を表明し、反ユダヤ主義者を「絶叫者ども」と批判した<ref name="po-4-15-29"/>。ただし、ニーチェは[[1872年]]の『悲劇の誕生』の頃までは反ユダヤ的な偏見を持っており、また東欧ユダヤ人のドイツ流入には後年でも反対だった<ref name="uey-17-39">[[#上山安敏2005]],p.17-39.</ref>。[[1869年]][[5月22日]]のワーグナーへの手紙では、ショーペンハウアーを引き合いに出し、ドイツの豊かな世界観が「哲学上の狼藉や押しの強いユダヤ気質」によって消え去ったと嘆いた<ref name="uey-17-39"/>。
 
 
 
ニーチェは『反時代的考察』(1873年-1876年)で、[[ダーフィト・シュトラウス]]や雑誌『グレンツボーテン』の執筆陣を教養俗物として批判し、雑誌『グレンツボーテン』もニーチェを批判した<ref name="uey-7-13"/>。雑誌『グレンツボーテン』の中心にいた作家グスタフ・フライタークは、皇太子[[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ3世]]のブレーンであった<ref name="uey-7-13">[[#上山安敏2005]],p.7-13.</ref>。ニーチェは[[1875年]]に、キリスト教の勝利とは「粗野な力と鈍感な知識人が、諸民族にあった貴族主義的天才に対しての勝利」であり失敗であったとし、キリスト教によって古代ギリシャの範型が消滅し、またキリスト教はその「ユダヤ的性格」のため、ギリシャ的なものを不可能にした、と論じた<ref name="uey-17-39"/>。[[1878年]]の『人間的な、あまりに人間的な』では「ヨーロッパをアジアに対して守護したのはユダヤの自由思想家、学者、医者だった」として、ユダヤ人によってギリシア・ローマの古代とヨーロッパの結合が破壊されずにすんだことについてヨーロッパ人は大いに恩に着なければならない、と述べた<ref name="po-4-15-29"/>。[[1881年]]『曙光:道徳的先入観についての感想』では、ユダヤ人の美徳と無作法、反乱奴隷特有の抑えがたき怨恨について論じたあと、「もしイスラエルがその永遠の復讐を永遠のヨーロッパの祝福に変えてしまうならば、そのときはかの古きユダヤの神が、自己自身と、その創造と、その選ばれた民を悦ぶことができる第七日が再び来るであろう」とユダヤ人に人類再生の希望を見た<ref name="po-4-15-29"/>。
 
 
 
当時「反セム主義」は、プロイセン皇帝とビスマルクのドイツ帝国の下でのドイツ統一運動を意味していた<ref name="uey-17-39"/>。これに対して、ヨーロッパ主義者であったニーチェは『[[善悪の彼岸]]』(1886年)において、「国粋主義の妄想」であり、「畜群」「奴隷の一揆」であると批判した<ref>善悪の彼岸261節</ref><ref name="uey-17-39"/>。さらに『[[善悪の彼岸]]』では、ヨーロッパはユダヤ人に最善で同時に最悪なもの、すなわち「道徳における巨怪な様式、無限の欲求、無限の意義を持つ恐怖と威厳、道徳的に疑わしいものの浪漫性と崇高性の全体」を負うており、ユダヤ人に感謝していると書いたあとで、「ユダヤ人がその気になれば、あるいは、反ユダヤ主義者たちがそう欲しているかに見えるように、ユダヤ人をそうせずにいられないように強いるならば、いますぐにもヨーロッパに優勢を占め、いな、まったく言葉通りにヨーロッパを支配するようになりうるであろうことは確実である」と述べて、反ユダヤ主義を批判しつつも、ユダヤ人がヨーロッパ世界の支配者となることに関して述べ、また、ユダヤ古代の預言者は富と無神と悪と暴行と官能を一つに融合し、貧を聖や友の同義語とするなど価値を逆倒し、道徳上の奴隷一揆をはじめたと論じた<ref>『[[善悪の彼岸]]』第250-251節、195節</ref><ref name="po-4-15-29"/>。
 
 
 
ニーチェはユダヤ教を古代の純粋なユダヤ教と、[[第二神殿]]以降の祭祀ユダヤ教とを区別し、新約聖書は祭祀ユダヤ教を体現したものであり、キリスト教と祭祀ユダヤ教は奴隷道徳を生み出したと批判する一方で、古代の純粋なユダヤ教を称賛した<ref name="uey-17-39"/>。ニーチェは『[[道徳の系譜]]』(1887年)でユダヤ人を「[[ルサンチマン]]の僧侶的民族」とみなしている<ref>『[[道徳の系譜]]』1-16</ref>。
 
 
 
[[1888年]]、皇帝ヴィルヘルム2世はルター派教会を把握し、リベラル・プロテスタントは国民主義の担い手となった<ref name="uey-7-13"/>。ニーチェはその結果、反ユダヤ主義が形成されたとみており、パウロの出自であるユダヤ人を称賛したのは、こうした背景があった<ref name="uey-17-39"/>。さらにニーチェはパウロや使徒によるイエスの神学化を嘘つきでイカサマ師であると非難した<ref name="uey-17-39"/>。
 
 
 
[[1888年]]9月の『アンチキリスト』では「ユダヤ人は人類を著しくたぶらかしたために、キリスト教徒は、自身このユダヤ人の最後の帰結であることを悟らずに、今日なお反ユダヤ的な感情を抱いている」と書いた<ref name="po-4-15-29"/>。ポリアコフはこの箇所で、ニーチェは反ユダヤ的な方向へ屈折したとみている<ref name="po-4-15-29"/>。オーバーベックはニーチェの反キリスト教は反ユダヤ主義から来ているとする<ref name="uey-17-39"/>。また、ニーチェの妹[[エリーザベト・フェルスター=ニーチェ]]は夫の[[ベルンハルト・フェルスター]]とともに反ユダヤ主義運動を展開し、のちに[[ナチ党]]の支援者となった。
 
 
 
===== 「世界帝国」ドイツと全ドイツ連盟 =====
 
[[File:Kyffhäuser - Barbarossa-gesamt ReiKi.JPG|サムネイル|キフホイザーの[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ・バルバロッサ]]]]
 
[[File:Kyffhäuser - Denkmal1 ReiKi.jpg|サムネイル|200px|キフホイザー記念碑]]
 
[[File:Arminius1.jpg|サムネイル|180px|ヘルマン([[アルミニウス (ゲルマン人)|アルミニウス]])記念碑]]
 
 
 
19世紀末に人種主義的反ユダヤ主義が強かったのはオーストリア・ハンガリー帝国とフランスであり、ロシアでは最も激しい攻撃が及んだが、ドイツ帝国でも個人に対する国家の優越、秩序と権威の重視、国際主義と平等への反発などを背景にユダヤへの敵意が膨れ上がった<ref name="K-I-104-130"/>。
 
 
 
[[1891年]]、英独の植民地を交換した[[ヘルゴランド=ザンジバル条約|ヘルゴラント=ザンジバル協定]]に抗議して[[アルフレート・フーゲンベルク]](のち[[ドイツ国家人民党]]党首)が提唱し、軍人、政治家、実業家などによる全ドイツ連盟(Alldeutscher Verband,汎ドイツ連盟)が結成された<ref name="d3-55-58">[[#ドイツ史 3|ドイツ史 3]],p.55-58.</ref><ref name="alld"/><ref name="p-A-381-405"/>。全ドイツ連盟は、[[汎ゲルマン主義]]の中心となって、アフリカでの植民地帝国の建設、[[中央ヨーロッパ]]でのドイツの覇権の確立を要求した<ref name="d3-55-58"/><ref name="alld">木村靖二「全ドイツ連盟」日本大百科全書(ニッポニカ)小学館,「パン・ゲルマン主義」「ドイツ」世界大百科事典</ref>。社会学者[[マックス・ヴェーバー]]、[[グスタフ・シュトレーゼマン|シュトレーゼマン]](1923年に首相)、生物学者[[エルンスト・ヘッケル|ヘッケル]]や[[フリードリヒ・ラッツェル|ラッツェル]]、汎ゲルマン主義者[[ヒューストン・ステュアート・チェンバレン|チェンバレン]]、歴史家カール・ランプレヒト、も加入した<ref name="p-A-381-405"/>。ヴェーバーとシュトレーゼマンはドイツ帝国主義の支持者だったが、連盟が農業問題を重視しなかったので脱退した<ref name="m98-279-303"/>。
 
 
 
ドイツナショナリズムを支えたのは、フランス、イギリス、スラヴへの敵意や恐れ、国内では社会民主主義の脅威、ドイツは堕落したという意識などであった<ref name="K-I-104-130"/>。[[普仏戦争]](1870-71年)で敗北したフランスが復興するとドイツは[[予防戦争]]として[[シュリーフェン・プラン|シュリーフェン計画]]を策定した<ref name="d53-4"/>。さらに[[1894年]]に[[露仏同盟]]が締結されると、ドイツにとって対フランス・ロシアの[[二正面作戦]]が現実の課題となったため、軍の増強を図った<ref name="d53-4">[[#ドイツ史 3|ドイツ史 3]],p.53-54.</ref>。保護関税と艦隊建設を軸とした農本主義および全ドイツ主義的な「結集政策」が展開され、次第にドイツ・ナショナリズムは[[帝国主義]]へ傾斜していった<ref name="ティルピッツ"/>。この頃ドイツ帝国は極東の中国や日本にも干渉するようになり、[[1895年]]に[[日清戦争]]で中国が弱体化すると、ドイツはロシアとフランスと日本へ[[三国干渉]]を行い、[[1897年]]に中国山東省でドイツ人宣教師が中国人に殺害されると、ドイツ軍を中国へ派遣した<ref>[[#ドイツ史 3|ドイツ史 3]],p.16,45-46.</ref>。イギリス海軍に対抗できるドイツ海軍の拡張を目指した皇帝ウィルヘルム2世と海相[[アルフレート・フォン・ティルピッツ|ティルピッツ]]は、[[艦隊法]]の帝国議会審議にあたって、[[1898年]]にドイツ艦隊協会を結成した<ref name="ティルピッツ">木谷勤「ティルピッツ」日本大百科全書(ニッポニカ),「ドイツ」世界大百科事典</ref>。ドイツ艦隊協会は1914年には会員100万をこえ、ドイツの帝国主義を鼓舞した<ref name="K-I-104-130"/>。
 
 
 
1890年以降、ビスマルク崇拝、皇帝崇拝=ホーエンツォレルン崇拝が広まった<ref name="K-I-104-130"/>。[[1896年]]に皇帝ヴィルヘルム2は「ドイツ帝国は世界帝国となった」と演説した<ref>[[#ドイツ史 3|ドイツ史 3]],p.16.</ref>。同年バルバロッサ神話に基づき、[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]を称えてキフホイザー記念碑が建造された<ref name="K-I-104-130"/>。バルバロッサ神話では、[[第3回十字軍]]総司令官として出征中に死亡した神聖ローマ皇帝[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ・バルバロッサ]]が帝国が再興される日までテューリンゲンのキフホイザー近くの山に眠るとされた<ref name="K-I-104-130">[[#カーショー上|カーショー上巻]],p.104-130.</ref>。また、[[トイトブルク森の戦い]]でローマによるゲルマニア征服を阻止した[[アルミニウス (ゲルマン人)|アルミニウス]]記念碑も建造された。<ref name="K-I-104-130"/>。ヒトラーは1914年フランドルの会戦に向かう途中で訪れている<ref name="K-I-104-130"/>。
 
 
 
資本主義の進展に伴い、農村の危機が意識されるようになると、ユダヤ人は農民を根こそぎにしてドイツ民族の最も真正なものを破壊する近代産業文明と同一視された<ref name="m98-47-9"/>。オットー・ベッケルのヘッセン農村運動、1893年に設立された農業者同盟(Bund der Landwirte)は反ユダヤ的であり、[[フェルキッシュ]]で反ユダヤ的な運動は農村地域でも浸透していった<ref name="m98-47-9"/>。ヴィルヘルム・フォン・ポーレンツの小説「ビュットナーの農民」(1895)では、農民がユダヤ人に借金し土地を抵当に入れる。ユダヤ人はその土地を工場に売り、農民は自殺するという筋書きで、ユダヤ人への反感を扇動した<ref>Wilhelm von Polenz,Der Büttnerbauer.</ref><ref name="m98-47-9">[[#モッセ1998]],pp.47-9.</ref>。カトリック文学改革運動のカール・ ムートは、科学・通商・株式・ジャーナリズムが国際的([[インターナショナル]])であるのに対して、文学・農耕・手工業・芸術は国民的([[ナショナル]])なものであるとし、「ユダヤ人はどこにも家を持たず、従ってまたどこにでも家を持つが故に、凡庸な精神の代表者なのである」と批判した<ref>Carl Muth,Wem gehört die Zukunft? 1893. 鈴木将史「19世紀転換期ドイツに見られる聖杯のモティーフ- 郷土芸術の逸脱から青年運動という帰結まで-」小樽商科大学人文研究83巻,1992-03-31,p292-3.</ref>。
 
 
 
[[1904年]]から[[1907年]]にかけて[[ドイツ領南西アフリカ]]で[[ヘレロ|ヘレロ族]]の反乱をドイツ帝国が鎮圧した時に、[[ヘレロ・ナマクア虐殺]]が起こった。
 
 
 
==== 大不況下のフランス第三共和政 ====
 
[[フランス第三共和政]](1870年 - 1940年)が[[1881年]]に[[出版の自由|出版の自由法]]を成立させると、フランス市民は自分たちの政治的な意見を自由に表明することが可能となり、反ユダヤ主義的な意見の公表もその権利を保護されることとなった<ref name="SZ17-19"/>。1881年7月、カトリックの機関誌『同時代人』はロシアのポグロム、そしてドイツとルーマニアでも反ユダヤキャンペーンが猛威を振るっているが、カリクスト・ド・ウォルスキのユダヤ人の今回の不幸は自分の責を問うよりほかに仕方がないのであり、ユダヤ人は太古の昔より地上の支配権を持つことを目的にしていると報じ、その典拠はゲートシュの小説『ビアリッツ』(1868)に求められ、これは『シオン賢者の議定書』で取り入れられた<ref name="po-4-49-59"/>。同じく1881年、パリで『反ユダヤ人(L'Anti-juif) 民族防衛機関誌』が週間で出版された<ref>L'Anti-Juif, organe de défense nationale.</ref><ref name="G. Whyte">G. Whyte,The Dreyfus Affair: A Chronological History,Palgrave Macmillan UK,2008,p.9.</ref><ref name="po-4-49-59"/>。
 
 
 
[[1881年]]末にフランスのカトリック資本系の大手銀行[[フランス銀行|ユニオン・ジェネラル(Union générale)銀行]]が破綻すると、同銀行の創始者ボントゥー<ref>Paul Eugène Bontoux</ref>は破綻の原因をロスチャイルドによる金融操作と述べた<ref name="po-4-49-59"/>。カトリック聖母被昇天修道会のバイイ兄弟が発刊した『クロワ』紙{{refnest|group=*|聖母被昇天修道会(Religieuses de l'Assomption)のバイイ兄弟(P. Bailly と E. Bailly)は1880年4月に月刊で『ラ・クロワ』を発行し、1883年6月に日刊となり、カトリックの反ユダヤ主義の宣伝で重要な役割を担った<ref name="nakataniFRIII"/>。}}や雑誌「ペルラン(巡礼者)」などで、銀行の倒産はユダヤ系財閥の[[ロスチャイルド家]]の策謀によるものであるという[[陰謀論の一覧|ユダヤ陰謀論]]が繰り広げられ、財産を失ったカトリック市民の反ユダヤ感情を醸成させていった<ref name="SZ17-19"/>。この騒動は[[ギ・ド・モーパッサン|モーパッサン]]の『モントリオル』(1887)、[[エミール・ゾラ|ゾラ]]の『金』(1891)、ポール・ブールジェの『コスモポリス』(1893)などの小説で描かれた<ref name="po-4-49-59"/>。また、シャボティー師による『我らの支配者ユダヤ人』<ref>Les juifs nos maîtres, 1882</ref>やシラクの『共和国の王』など、ユダヤ資本主義論が登場した<ref name="SZ17-19"/>。
 
 
 
左翼のウジェーヌ・ジェリオン=ダングラールは、[[1882年]]に刊行した『セム人とセム主義』で、歴史学者[[ジュール・ミシュレ|ミシュレ]]の『人類の聖書』での昼の民族と夜の民族の区分を引いて、アーリア民族あるいはインド・ヨーロッパ民族だけが偉大な文明と正義と美を持ち、セム人は退化と退廃にあるとし、「セムの血と教義がアーリアを本質とする住民と文明に浸透していくのではないか」と懸念し、セム主義(ユダヤ主義)を「真の国家内国家。これこそは考えうる限りの唯一の社会悪、もっとも恐ろしい国際的災厄である」と主張した<ref>Eugène Gellion-Danglar(1829-1882), Les Semites Et Le Semitisme (1882)、Kessinger Publishing (2010)ISBN 978-1160540841</ref><ref name="po-4-49-59"/>。
 
 
 
プルードン派社会主義者のオーギュスト・シラクは[[フランス第三共和政]]の背後に[[ロスチャイルド家]]をはじめとするユダヤ系銀行家の策謀をみて、[[1883年]]に『共和国の王者たち、ユダヤ金融の歴史』を発表した<ref>Auguste Chirac(1838-1903), Les Rois de la République, histoire des juiveries, P. Arnould, 1883</ref><ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.52-52,p.565.訳注</ref>。
 
 
 
[[1882年]]には、反ユダヤ主義の[[週刊誌]]『反セム主義 我らが敵、ユダヤ人!<ref>L'Anti-Sémitisme: Le Juif,voilà l'ennemi !</ref>』、[[1883年]]には週刊誌『L'Antisémitique(反セム)』が創刊された<ref name="SZ17-19"/><ref name="G. Whyte"/>。
 
 
 
[[1884年]]、革命家[[ルイ・オーギュスト・ブランキ|ブランキ]]の右腕で[[パリ・コミューン]]政府のコミューン評議会議員をつとめた革命的社会主義者のギュスタヴ・トリドン<ref>Gustave Tridon (1841-1871)</ref>は『ユダヤのモロク主義』を出版した<ref>Gustave Tridon, [http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k62073w.r=.langFR Du Molochisme Juif: Études Critiques et Philosophiques],1884年.Nabu Press (2012) ISBN 978-1278987415</ref>。トリドンは同書で、劣等人種[[セム族]]は文明の闇、地球の悪であり、[[ペスト]]をもたらすとして、セム族との戦争は貴種アーリア人の使命であるとした。古代パレスチナの[[モレク|モロク神]]信仰での[[人身御供]]を批判した。なお、[[レビ記]]では[[モレク|モロク神]]に子供を儀式で捧げることを禁止している<ref>レビ記18:21、20:2-5</ref>。
 
 
 
このように第三共和政では、反ユダヤ主義は[[反教権主義]]の[[左翼]]によって担われた<ref name="po-4-49-59"/>。しかし、1880年代になると、フランスの反ユダヤ主義を主導するのは、社会主義からカトリック陣営に引き継がれた<ref name="po-4-49-59"/>。
 
 
 
1879年から1881年にかけて、シャボティー神父、クローディオ・ジャネ、ダルゾン神父などが反フリーメイソンと反ユダヤの思想を展開した<ref name="po-4-49-59"/>。エマニュエル・シャボティー神父は1880年には偽名サン=タンドレで『フリーメイソンとユダヤ人』を発表していたが、出版自由法施行後の1882年には本名で『われらが主人、ユダヤ人』を刊行した<ref>C. C. De St André, Les Francs-Maçons et les Juifs. Sixième Age de l'Église d'après l'Apocalypse, (1880), Emmanuel Chabauty, Les juifs nos maîtres ! (1882)</ref><ref name="po-4-49-59"/>。
 
 
 
1882年4月、『歴史問題評論』は「ユダヤ人が世界を牛耳っている。必然的に結論づけられるのは、フリーメイソンがユダヤ化を果たし、ユダヤ人がフリーメイソン化を果たしたという事実である」と報じた<ref name="po-4-49-59"/>。イエズス会は隔月の教皇庁機関誌『チヴィルタ・カトリカ』で中世以来の儀式殺人を取り上げて、ユダヤ攻撃を開始、19世紀末まで間断なく続けられた<ref name="po-4-49-59"/>。
 
 
 
[[1884年]]、クローディオ・ジャネとルイ・デスタンプは共著『フリーメイソンとフランス革命』を発表した<ref>Claudio Jannet & Louis d'Estampes, La Franc-maçonnerie et la Révolution , Avignon, Seguin frères, 1884.</ref>。ジャネは1892年の『19世紀における資本、投機、金融』では、反ユダヤ運動は元来宗教運動であり、反資本主義闘争として反ユダヤを掲げる社会主義は、キリスト教から本質を奪おうとする扇動であると論じた<ref>Claudio Jannet, Le Capital, la spéculation et la finance au xixe siècle, Paris, E. Plon, Nourrit et Cie. 1892.</ref><ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.58, 566-567.訳注</ref>。
 
 
 
カトリック勢力による反共和主義・反ユダヤ主義の背景には、[[フランス革命期における非キリスト教化運動|フランス革命以来の反キリスト教化運動]]と[[政教分離]]の過程があり、[[第三共和政]]政府とフランス・カトリック教会との熾烈な対立があった<ref name="SZ17-19"/>。教会は公教育から分離され、カトリックが家庭を破壊すると反対していた離婚法も、[[フリーメイソン]]の[[ジュール・フェリー]]や、ユダヤ系のアルフレッド・ナケによって成立した<ref name="SZ17-19"/>。1880年には政府無許可の宗教団体が解散され、[[1886年]]には公立学校教師を非聖職者に限定する法律も成立した。ナケはユダヤ系であったためカトリック司教たちが[[ヘイトスピーチ|差別的な言辞]]を受けた<ref name="SZ17-19"/>。
 
 
 
1880年代当時、フランスのユダヤ人の人口は8万人弱であり、全体の約0.2%であったが、実業や文学、芸術で活躍するユダヤ人が目立った<ref name="po-4-60-78"/>。
 
 
 
1880年代に多くの著作で[[コレージュ・ド・フランス]]心理学教授ジュール・スーリは、人間は人種に由来する本能によって動かされ、アーリア人種の勇敢さやセム人種の無気力さは本性によるものとした<ref name="nakataniFRIII"/>。
 
 
 
===== ドリュモンの反ユダヤ主義 =====
 
[[File:Edouard Drumont BNF Gallica (cropped).jpg|サムネイル|エドゥアール・ドリュモン(1844-1917)]]
 
[[File:France juive (affiche édition illustrée).jpg|サムネイル|ドリュモン『ユダヤのフランス (La France juive)』([[1886年]])]]
 
[[Image:Alphonse Daudet.jpg|thumb|right|170px|作家[[アルフォンス・ドーデ]]。「[[最後の授業]]」で高名な作家ドーデはユダヤ人嫌いでも有名だった<ref name="SZ13"/>。]]
 
 
 
[[1886年]]、ジャーナリストのエドゥアール・ドリュモンが1200ページの大著『ユダヤのフランス』を出版した<ref>Édouard Drumont,La France juive, 1886,Flammarion.</ref>。ドリュモンは[[#社会主義・無神論と反ユダヤ主義|フーリエ派のトゥースネル]]や[[#プルードンと反ユダヤ主義|プルードン]]など[[#社会主義・無神論と反ユダヤ主義|社会主義的反ユダヤ主義]]の影響を受けていた<ref name="nakataniFRIII"/>。ドリュモンはこの書物の冒頭で「フランス革命で唯一得をしたのはユダヤ人である。すべてはユダヤ人に由来し、すべてがユダヤ人の手元に帰っていく」とし、十字軍から聖ルイ王、アンリ4世、ルイ14世のフランスではユダヤ人に門戸を閉ざしていたのに、共和主義と非宗教性([[ライシテ]])の近代フランスは「ユダヤ人のフランス」となったとする<ref name="po-4-60-78"/>。さらに、ユダヤ人は「金ずくめで強欲、陰謀と策謀を好む狡猾な[[セム人]]」であり、それに対して「情熱豊かで英雄的で人を疑うことを知らない[[アーリア人]]」とを対比し、昨今のキリスト教徒迫害は、フランスの破滅を目的をした陰謀の序章にすぎず、巻末では、1800年前からな変わることなくキリストは民衆の家の窓に吊るされ、罵詈雑言にさらされ、そして町には神殺しの執着に衰えをみせないユダヤ人が溢れかえっているとした<ref name="po-4-60-78"/>。また、ユダヤ人は敵国ドイツ人のスパイであり、ドイツのユダヤ人であるロスチャイルドの銀行によって、フランス民衆はドイツとユダヤに搾取されていると論じた<ref name="SZ20-23">[[#鈴木 2014|鈴木 2014]],p20-23.</ref>。この書物は19世紀フランス最大のベストセラーとなり、フランスの反ユダヤ主義を醸成した<ref name="SZ13"/>。ドリュモンは、従来のキリスト教の反ユダヤ教主義と近代の[[人種主義|科学的人種理論]]とをつなぎ合わせて、新しいタイプの反ユダヤ主義としての反セム主義(antisémitisme)を拡散させた<ref name="SZ13">[[#鈴木 2014|鈴木 2014]],p12-14.</ref>。
 
 
 
ドリュモンは無名で出版社を見つけるのに苦労していたが、ユダヤ人嫌いで有名な流行作家[[アルフォンス・ドーデ]]が尽力して出版が実現した<ref name="SZ13"/>{{refnest|group=*|ドーデは[[普仏戦争]]での敗戦によって[[プロイセン]]([[ドイツ帝国]])領土となった[[アルザス]]の学校で、[[フランス語]]に基づく[[愛国心]]を描いた「[[最後の授業]]」で知られる。ドーデのサロンにドリュモンは出入りしており、そこには[[ジュール・バルベー・ドールヴィイ|バルベー・ドールヴィイ]]、エレディア、[[フィガロ (新聞)|フィガロ]]編集長フランシス・マニャールが集っていた<ref name="SZ13"/>}}。
 
 
 
ドリュモンの『ユダヤのフランス』が出版されると、ドーデは「人種の啓示者」として、批評家でアカデミー・フランセーズ会員のジュール・ルメートル(Jules Lemaître)は「19世紀最大の歴史家」、ベルナノスは「千里眼を超えた観察者」としてドリュモンを絶賛した<ref name="po-4-60-78"/>。この本に対してユダヤ系メディアは批判したが、聖職者の間で熱狂的な反響を呼び、カトリック系『クロワ』 紙は、反ユダヤ主義者のジョルジ ュ・ド・パスカル神父がユダヤ人に対する「戦友」であると支持し<ref name="SZ13"/>、カトリック系の若いジャーナリストに影響を与えた{{refnest|group=*|フランス反ユダヤ同盟を創設したジャック・ド・ビエ(Jacques de Biez)、フランソワ・ブルナン(Francois Bournand),アルベール・サヴィヌ(Albert Savine)らが影響をうけた<ref name="nakataniFRIII"/>}}。さらに高級日刊紙『[[フィガロ (新聞)|フィガロ]]』で編集長フランシス・マニャールが、ドリュモンの主張するユダヤ人財産の没収とは共和主義者によるカトリック教会の財産没収と同じであるし、ドリュモンは共和主義者富裕層に対する「カトリック社会主義者」であると紹介する<ref>『[[フィガロ (新聞)|フィガロ]]』1886年4月19日号</ref>と、当時最大の大衆紙『プチ・ジュルナル』『マタン』『プチ・パリジャン』、ボナパルティスト、リベラル派カトリック、社会主義急進派など右派と左派を問わずに他のメディアもドリュモンを取り上げた<ref name="SZ15">[[#鈴木 2014|鈴木 2014]],p15-16.</ref>。ただし『プチ・パリジャン』は「狂信的な憎悪の書」「中傷文書」であると批判した<ref name="SZ17-19">[[#鈴木 2014|鈴木 2014]],p17-19.</ref>。ドリュモンの『ユダヤ人のフランス』には3000人のユダヤ人名一覧が掲載されていた<ref name="po-4-60-78"/>。右派[[オルレアニスム|オルレアニスト]]の「ゴーロワ」編集長メイエルがドリュモンの本で「ユダヤ人」として中傷されているのに怒り、[[決闘]]を申し込んだ<ref name="SZ15"/>。決闘でメイエルが規則違反をすると、ドリュモンは「汚いユダヤ人!ゲットーへ消えろ!」とわめいて決闘が中止になると、メディアのトピックとなり、やがて「善良なアーリア人が卑怯なセム人にやられた」という噂が広まっていった<ref name="SZ15"/>。ドリュモンの『ユダヤのフランス』はフランスの反ユダヤ主義の醸成に多大な影響を与えていっただけでなく、ドイツ、イタリア、ポーランド語へ翻訳され<ref name="SZ17-19"/>、また、カリクスト・ド・ウォルスキ『ユダヤ人のロシア』(1887)、ジョルジュ・メーニエ『ユダヤ人のアルジェリア』(1887)、フランソワ・トルカーズ『ユダヤ人のオーストリア』(1900)、ドエダルス『ユダヤ人のイギリス』(1913)などの模倣書が続々と刊行されていった<ref name="po-4-60-78"/>。ドリュモンはその後も著作を立て続けに刊行した{{refnest|group=*|続編『世論を前にした「ユダヤ人のフランス」』(1886年)、『一つの世界の終焉』(1889年)、『最後の戦闘』(1890年)、『ある反ユダヤ主義者の遺言』(1891年)など<ref name="po-4-60-78"/>}}。
 
 
 
同じ[[1886年]]に、社会心理学者[[ギュスターヴ・ル・ボン]]は、ユダヤ人は芸術、科学、産業など文明に寄与しうるものを一切手にしてこなかったし、旧約聖書は卑猥な物語を満載したものと非難した<ref name="po-4-60-78"/><ref>Gustave Le Bon, Du rôle des Juifs dans la civilisation, Revue Scientifique, 20 novembre 1886</ref>。
 
 
 
[[1888年]]の[[パナマ運河疑獄|パナマ運河疑獄事件]]では、実業家[[フェルディナン・ド・レセップス|レセップス]]が[[スエズ運河]]を建設したあとに[[パナマ運河]]の建設に着手したが、技術的に工事が不可能であることが発覚したため[[債券]]を発行して資金を集めたが破綻した。レナック男爵とコルネリウス・エルツ、アルトンなど買収工作人がみなユダヤ人であったため反ユダヤ主義が高まった<ref name="po-4-60-78"/>。
 
 
 
革命100周年の[[1889年]]に、改宗ユダヤ人のジョゼフ・レマン神父は論文『ユダヤ人の優位』でユダヤ人は無実な神の子を死にいたらしめたと述べ、2年後に風刺週刊誌に「ロスチルド家」を発表した<ref>Joseph Lehmann (Lémann), La prépondérance juive, sous-titré, ses origines, 1re partie, 1889.Rothschild, LES CONTEMPORAINS, N°173, 2 FEVRIER 1896.</ref><ref name="po-4-60-78"/>。1889年9月、カトリック系ジャーナリストのジャック・ド・ビエと陸軍士官学校のマルキ・ド・モレス侯爵<ref>Marquis de Morès</ref>が「フランス反ユダヤ同盟(Ligue antisémitique de France)」を設立し、ドリュモンは会長となった<ref name="po-d-n"/><ref name="nakataniFRIII"/>{{refnest|group=*|Ligue antisémitique de Franceは、ポリアコフ日本語訳では「フランス反ユダヤ国民同盟」、中谷猛は「反ユダヤ主義国民同盟」と表記する<ref name="nakataniFRIII"/>。ここでは直訳して「フランス反ユダヤ同盟」とする。}}。副会長のビエの肩書は「民族社会主義者(National-Socialiste)」であり、[[ナチス党]]([[国家社会主義ドイツ労働者党]],Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei )の先駆けであった<ref name="po-d-n">[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.67-68,訳注568-569.</ref>。マルキ・ド・モレス侯爵は北米[[ダコタ準州]]に牧畜王国を築き、パリでは反ユダヤ主義と[[サンディカリスム]](労働組合主義)を融合させて、屠殺業者による武闘集団を組織した<ref name="Mehlman24-29"/>。
 
 
 
[[1890年]]、パリ国立割引銀行の経営が行き詰ると、ロスチルド家が原因とされた<ref name="po-4-60-78"/>。同年、カトリック系の新聞『ラ・クロワ』は「フランスで最も反ユダヤ的な新聞である」と自称したが、これは反ユダヤ主義であるということが支持されたためである<ref name="po-4-60-78"/>。[[1891年]]にはユダヤ人の蔑称であるyoutre(ユダ公)を冠した新聞『反ユダ公(L'Anti-youtre)』が創刊され、これまでの反ユダヤ主義は教権派によるものだったと不満を表明した<ref name="po-4-60-78"/>。
 
 
 
[[1892年]]、ドリュモンが反ユダヤ主義日刊紙『リーブル・パロール』を創刊し<ref name="SZ13"/>、1892年5月より同紙上でユダヤ人将校は国防機密を取引すると非難するキャンペーンを始めた<ref name="po-4-79-100">[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],pp.79-100.</ref>。ユダヤ人の子弟には軍職に就くものが多く、士官学校でも1%の4万人中300人がユダヤ人であった<ref name="po-4-79-100"/>。なお、『リーブル・パロール』の出資者の利権屋ゲランはその2年前には反ユダヤ主義への戦いと称してユダヤ人に資金提供を求めており、また『リーブル・パロール』の管財人クレミューは改宗ユダヤ人であった<ref name="po-4-60-78"/>。またユダヤ系将校マイエールとモレスの1892年6月23日の決闘でマイエールが死ぬと、ドリュモンはこれほどの勇者の血が戦場で祖国のために流されなかったことを嘆かわしく思うと述べるなど、ユダヤ人であっても「血のよる洗礼」を経れば「よきユダヤ人」になるという観念があり、フランスの反ユダヤ主義はドイツやオーストリアよりも弛みがあったとポリアコフはいう<ref name="po-4-60-78"/>。
 
 
 
カトリックの思想家レオン・ブロワは同1892年、ドリュモン一派を批判して、「中世の純粋な反ユダヤ主義」への回帰を主張する『ユダヤ人による救い』を刊行した<ref>Léon Bloy(1846-1917), [https://archive.org/details/lesalutparlesju00bloygoog Le Salut par les Juifs], Paris A. Demay (1892)</ref><ref>[[#メールマン1987]],p.98.</ref>。ブロワによれば、ドリュモンたちの商業化された「左翼的反ユダヤ主義」は、ユダヤ人はフランスの金を盗んだのだから返還すべきだという金儲け主義的な主張にすぎず、これは中世からの反ユダヤ主義の遺産を台無しにした<ref name="Mehlman70-80"/>。
 
 
 
ブロワは「ユダヤ人の歴史は、あたかも堤防が川を堰き止め、その水位を上昇させるがごとく、人類の歴史を堰き止めている」とし、ユダヤ人とは「キリストの忠実なる友、初期の殉教者全員を生み出した民」であり、中世のヨーロッパはユダヤ人を「専用の犬小屋に押し込め、特殊なぼろ着でくるむことにより、一般人に彼らとの出会いをあらかじめ回避させるという良識([[ボン・サンス]])を発揮した」と論じた<ref name="po-4-49-59"/>。ブロワの同書では、ユダヤ人は「世界中の醜悪なるものすべての合流点」であり、腐ったボロ着に身を包んだユダヤ人古物商について「チフスを輸出するためか」と不快感を書いている<ref name="Mehlman70-80">[[#メールマン1987]],pp.70-80.</ref>。
 
 
 
同1892年、ランス教区広報ではロトシルド家はユダヤ人種のドイツ国籍であり、フランス人ではないと書かれた<ref name="po-4-60-78"/>。クレルモン教区広報では、ドイツ人とユダヤ人はフランス人を敗者・奴隷として扱ってきたと批判した<ref name="po-4-60-78"/>。
 
 
 
===== ドレフュス事件 =====
 
[[ファイル:Degradation alfred dreyfus.jpg|right|thumb|200px|ドレフュス大尉の不名誉な除隊を描いた挿絵]]
 
[[1894年]]、ドイツ大使館付き武官シュヴァルツコッペン<ref>マクシミリアン・フォン・シュヴァルツコッペン</ref>のゴミ箱から発見された軍事機密文書は、筆跡鑑定からユダヤ人[[大尉]][[アルフレド・ドレフュス|ドレフュス]]のものとされ、さらにドレフュスはイタリア大使館からも買収されていると告発された<ref name="po-4-79-100"/>。軍は証拠不十分のまま非公開の軍法会議においてドレフュスに有罪判決を下し、南米[[フランス領ギアナ|仏領ギアナ]]沖の[[デビルズ島|悪魔島]]で禁錮刑とした<ref name="po-4-79-100"/>。この[[ドレフュス事件]]は[[冤罪]]事件であったが、それまで常軌を逸した奇習にすぎなかったフランスの反ユダヤ主義はこれ以降決定的な潮流となった<ref name="po-4-60-78">[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],60-78</ref>。
 
 
 
ドレフェス事件は国際的な話題となり、ドリュモンは、ドイツ人、イギリス人、イタリア人はなぜ反フランス的な人間であるドレフェスの肩を持つのかと述べた<ref name="po-4-79-100"/>。レオン・ドーデは「ドレファスはわれわれ(フランス人)の破滅を画策した。しかし、彼の犯罪はわれわれの意気を高揚させもしたのだ」として、「われらが人種、われらが言語、われらが血のなかの血」以外は信を抱くまいと表明した<ref name="po-4-79-100"/>。ドーデは[[アクシオン・フランセーズ]]の中心的な活動分子となった<ref name="po-4-79-100"/>。
 
 
 
[[Image:Maurice Barrès 7.jpg|thumb|left|170px|モーリス・バレス]]
 
作家の[[モーリス・バレス]]は、ユダヤ人を「比類なき論理学者で、銀行口座そのままの明晰さ、非人称性に裏打ちされている」と賞賛したり、ディズレーリにも賛辞を捧げた<ref name="po-4-60-78"/>。しかし、ドレフェス事件が発生すると、「ドレフェスが裏切りをやりかねないということを、私は彼の属する人種から判断する」と述べ、バレスはドレフェス事件以降は「国民的エネルギー」三部作でユダヤ人金融業者が「われわれの政府」であると描いた<ref>Le Roman de l'énergie nationale (trilogie romanesque):Les déracinés(1897), L'Appel au soldat(1900),Leurs figures(1902) </ref><ref name="po-4-60-78"/>。
 
 
 
[[1896年]]に情報部長ピカール中佐は、真犯人はハンガリー生まれの[[フェルディナン・ヴァルザン・エステルアジ|エステルアジ]]少佐であることを突き止めたが、軍は権威失墜を恐れてもみ消しを図り、ピカールを左遷、エステルアジを無罪釈放した。
 
 
 
===== ゾラ事件から祖国同盟・アクションフランセーズまで =====
 
作家[[エミール・ゾラ|ゾラ]]は、[[1898年]][[1月13日]]新聞「オーロール」で「[[私は弾劾する]]」を発表し、ドレフュスの不法投獄を告発した。しかし、ゾラは告訴され、名誉棄損で有罪となった。1898年の1月と2月にフランス各地で69件の反ユダヤ暴動が起き、アンジェとマルセイユで約4000人,ナントで約3000人、ルアンで約2000人の群衆がユダヤの商店やシナゴーグを破壊した<ref name="nakataniFRIII"/>。反ユダヤ主義のデモや暴力沙汰が相次ぐなか、ドレフェス派のフィガロ編集長ロデーは更迭された<ref name="po-4-79-100"/>。アルジェリアで反ユダヤ暴動が発生すると、マックス・レジはドリュモンに立候補を打診した。1898年5月[[フランスの選挙|総選挙]]で、ドリュモンは当選し、アルジェリア選出の3名の議員と議会内で反ユダヤグループができた<ref name="Winock40-7">[[#ヴィノック2007]],p.40-7.</ref>。
 
 
 
1898年夏、ドレフェス有罪の証拠とされてきた文書が偽書であったことをアンリ大佐が認めた後、自殺した<ref name="po-4-79-100"/>。9月6日ガゼット・ド・フランスで[[シャルル・モーラス]]はアンリ大佐は「国家の偉大な利益への英雄的奉仕者」であると論じた<ref name="Winock40-7"/>。またモーラスは「ユダヤ教の育まれた真のプロテスタントは、生まれながらにして国家の敵」と、プロテスタントも敵視していた<ref name="Winock40-7"/>。1898年12月にドリュモンはアンリ大佐未亡人のための募金活動を開始、ドリュモンやモラスらはアンリ大佐は祖国への殉教者であると主張し、アンリ大佐記念碑のための募金には73名の議員、モーリス・バレス、詩人ジャン・ロラン、ジープ、[[ピエール・ルイス]]、フランソワ・コペ−、[[ポール・ヴァレリー]]、ポール・レオトーなどの文人詩人が名を連ねた<ref name="po-4-79-100"/><ref name="winok-47-54">[[#ヴィノック2007]],p.47-54.</ref>。
 
 
 
[[File:Antisemiticroths.jpg|サムネイル|シャルル・レアンドル(Charles Léandre)の[[カリカチュア]]「ロスチャイルド王」([[Le Rire]][[1898年]][[4月16日]]号)]]
 
 
 
1898年は、フランスにおける反ユダヤ主義の頂点であると同時に、出発点となった<ref name="po-4-79-100"/>。[[フランス祖国同盟]]、ドリュモンの「全国反ユダヤ青年会」、[[シャルル・モーラス]]とアルフォンス・ドーデの息子レオン・ドーデによる[[アクション・フランセーズ]]などの反ユダヤ主義組織が誕生した<ref name="po-4-79-100"/>。政治活動家[[ポール・デルレード]]は反ドレフュス活動を展開した。
 
 
 
ゾラやフランス人権同盟を結成した人権派がドレフェスを擁護したことに対抗して1898年10月末、教師のドーセとシブトンが哲学教授アンリ・ヴォージョア<ref>Henri Vaugeois</ref>の助力を得て反ドレフェス文書を作成して[[リセ]]を一巡した<ref name="Winock40-7"/>。1898年12月、ヴォージョアとジャーナリストのピュジョが「アクション・フランセーズ」記事でフランスの社会を再建して強力な国家になることを主張した<ref name="winok-79-84"/>。ドーセらの活動に賛同した[[アカデミー・フランセーズ]]会員の詩人フランソワ・コペ、ジュール・ルメートル、[[モーリス・バレス]]らは[[1898年]]年末から翌年にかけて'''[[フランス祖国同盟]]'''を結成した。画家の[[エドガー・ドガ|ドガ]]や[[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ルノワール]]、作家の[[フレデリック・ミストラル]](ノーベル文学賞)、SF小説の[[ジュール・ヴェルヌ]]、[[コレージュ・ド・フランス]]教授・数学者[[カミーユ・ジョルダン]]、物理学者[[ピエール・デュエム]]など多数の学者・芸術家が加盟した<ref name="winok-47-54"/>。バレスは「ドレフェス事件それ自体は無意味である。重大なのは反軍国主義と国際主義の教義のために、ドレフェスが捏造され利用されている」ことであると宣言した<ref name="winok-47-54"/>。ただし、祖国同盟では反ユダヤ主義とナショナリズムの教義は退けるとしながら、反ユダヤ主義者も受け入れるとした<ref name="winok-47-54"/>。[[1899年]][[1月19日]]、祖国同盟議長ルメートルが、ユダヤ人、プロテスタント、フリーメイソンが連帯して過去の復讐を償わせるために、ここ20年フランスの権力を握っていると演説をした<ref name="winok-47-54"/>{{refnest|group=*|ルメートルの愛人ド・ロワヌ夫人のサロンには、[[エルネスト・ルナン]]、[[ギュスターヴ・フローベール]](1880年没)、[[アルフォンス・ドーデ]]、[[ギ・ド・モーパッサン]]、[[アナトール・フランス]]、[[モーリス・バレス]]、ジュール・ルメートルがいた<ref>[[#ヴィノック2007]],p.45-6.</ref>}}。ただし、同盟会員の[[アナトール・フランス]]はドレフェス擁護派だった<ref name="winok-47-54"/>。
 
 
 
しかし、祖国同盟の目的のなさに不満を持ったプジョとヴォージョワと[[シャルル・モーラス]]は1899年6月、反ユダヤ主義-反議会主義-フランス伝統主義を明言した右翼組織'''[[アクション・フランセーズ]]'''を結成した<ref name="winok-79-84">[[#ヴィノック2007]],p.79-84.</ref>。アクション・フランセーズはフリーメイソン精神、プロテスタント精神、ユダヤ精神に対して、カトリックを称揚した<ref name="winok-79-84"/>。モーラスは完全なナショナリズムは[[君主制]]の復興にあるとして王政主義を主張した<ref name="winok-79-84"/>。アクション・フランセーズはドイツの[[国家社会主義]]との共通点を持っていたが、民族の祖先についてはキリスト教教派を超えた結束を目指す[[エキュメニズム]]の立場をとり、ユダヤ人は考慮外として、ゲルマン人だけでなく、ケルト人、リグリア人、ガラチア人、ギリシア人、ローマ人も神殿に迎え入れた<ref name="p-A-340-363"/>。純粋なアーリア人の血統を顧みないアクション・フランセーズに対して、後年1940年代にパリのナチス支持の[[フランス人民党]]員の人類学者ジョルジュ・モンタンドン<ref>George Montandon</ref>は「アクション・マラーノ」と批判した<ref name="p-A-340-363"/>。
 
 
 
社会主義者ギュスタヴ・テリーは反軍国主義、反教権主義、反ユダヤ主義であり、創刊したルーブル紙では「ユダヤ人は敵」、「ユダヤ禍」「権力が組織するユダヤ侵略」「いたるところにユダヤ人」という決まり文句が多用された<ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.96,573.訳注</ref>。また、『[[シオン賢者の議定書]]』は1897年から1899年のあいだにパリで練り上げられた<ref name="po-4-79-100"/>。『シオン賢者の議定書』は[[ロシア帝国内務省警察部警備局]]パリ部長のピョートル・ラチコフスキーが現在も身元不明の作者に依頼して作成したものであった<ref name="po-4-79-100"/>。
 
 
 
ゾラの「[[我弾劾す]]」を掲載した「オーロール」紙主幹で社会主義者の[[ジョルジュ・クレマンソー|クレマンソー]]はドレフェス擁護派であったが、1898年の『シナイの麓にて』ではユダヤ人は「爪を尖らせた両手でいかがわしい品々にがめつくしがみつく」、活力に満ちた人種であり、「この世で最も貴重な人間の宝」であると賞賛する一方で、「みずからの神々をわれわれに押しつけようとしたがために、蔑まれ、憎まれ、迫害され続けてきた彼(セム人)は、地上の覇者となることによって立ち直り、みずからを完成に導こうとしている」と述べ、「アーリア的理想主義の見地から、私はこの事実(ユダヤ人の活力)を一つの不幸としてとらえている」と論じた<ref>Georges Clemenceau, Au pied du Sinaï, 1898.</ref><ref name="po-4-79-100"/>。クレマンソーによれば、キリスト教徒はユダヤ人を根絶する必要性を感じているが、しかし、それはキリスト教徒の素行を正すだけでその必要はなくなるとした<ref name="po-4-79-100"/>。
 
 
 
[[1899年]]9月の軍法会議再審でドレフェスは禁錮10年に減刑された<ref>[[#ヴィノック2007]],p.61-62.</ref>。
 
 
 
==== 反セム主義政党・団体とシオニズム運動 ====
 
19世紀末には反セム主義を標榜した政党が続出した。一方でユダヤ人は[[シオニズム]]運動を展開していった。
 
*[[1878年]]、キリスト教社会党(Christlich-soziale Partei)がベルリンで結成。ドイツ宮廷司祭アドルフ・シュテッカー。
 
*[[1879年]]、ドイツで反セム主義者連盟(Anti Semiten Liga)結成。ヴィルヘルム・マル。
 
*[[1886年]]、ドイツでテオドル・フリッチュがドイツ反ユダヤ協会を設立。
 
*[[1889年]]、フランス反ユダヤ同盟(Ligue antisémitique de France)結成。ジャック・ド・ビエとマルキ・ド・モレス。
 
*1889年、ゾンネンベルク(Max Liebermann von Sonnenberg)がドイツ社会党(Deutschsoziale Partei)を結成した。
 
*[[1890年]]、ベッケル(Otto Böckel)が反ユダヤ国民党(Antisemitische Volkspartei)結成。
 
*[[1892年]]、ドイツ保守党(Deutschkonservative Partei)がティヴォリ綱領で反自由主義・反社会主義・反ユダヤ主義を掲げた<ref name="d3-9-10"/>。また、ドイツ中部・西南部では困窮した農民による反ユダヤ農民運動が展開した<ref name="d3-9-10"/>。
 
*[[1893年]]
 
**テオドール・ガルニエ師がカトリック的ポピュリズムの組織「ユニオン・ナショナル」を設立<ref name="nakataniFRIII"/>。
 
**[[ドイツ帝国]][[帝国議会 (ドイツ帝国)|帝国議会]]選挙でドイツ社会党、反ユダヤ国民党など反ユダヤ諸党の議席数が5席から16席となった<ref name="d3-9-10">[[#ドイツ史 3|ドイツ史 3]],p.9-10.</ref>。ドイツ社会党らは[[院内会派]]としてドイツ改革党(Deutsche Reformpartei)を結成し、代表にジンマーマン(Oswald Zimmermann)が就任した。背景には農業関税の引き下げにあるとされる<ref name="d3-9-10"/>。
 
**5月、ドイツユダヤ人最大組織のユダヤ教徒ドイツ国民中央連盟が結成<ref>Central-Verein deutscher Staatsbürger jüdischen Glaubens.[[#モッセ1996]],p.171.</ref>。
 
*[[1894年]]
 
**フランスでデュビュ(Dubue)が「反ユダヤ青年(Jeunesse antisemitique)」を設立<ref name="nakataniFRIII"/>
 
**ドイツ改革党はドイツ社会改革党(Deutschsoziale Reformpartei)へ改名し、最大の反ユダヤ主義政党となり、「ユダヤ人問題は20世紀最大の問題となるであろう、そしてそれはユダヤ人の完全な分離と、最終的にはその絶滅によって解決される」と党の方針に明記した<ref name="sim103"/>。
 
*[[1896年]]、[[ドレフュス事件]]に衝撃を受けた[[テオドール・ヘルツル]]は『ユダヤ人国家』を著して[[シオニズム]]運動を起こした。ヘルツルは「フランスのユダヤ人はもうユダヤ人ではない」と述べたが、これはフランスのユダヤ人の同化が進んでいたためであり、フランス人への同化を主張するユダヤ長老会議(コンシトワール)は、「フランス革命をもってすでにメシアの時代が到来済みである」と唱え、また多くのユダヤ人思想家たちがキリスト教徒よりもフランス人でありたいと公言していた<ref name="po-4-60-78"/>。翌[[1897年]]、ヘルツルは[[バーゼル]]で第1回[[シオニスト会議]]を主催した<ref name="po-4-79-100"/>。ヨーロッパのみならず、ロシア、[[パレスチナ]]、北アフリカなどから200人以上の代表が集まり、白と青の二色旗が掲げられた。
 
*[[1897年]]春、実業家ジュール・ゲランが「反ユダヤ同盟」を結成した<ref name="nakataniFRIII"/>。モレス侯爵が国政選挙活動のためにつくった反ユダヤ組織を再建したもので、「国民の労働」を擁護して、フランスで銀行や鉄道等の企業を所有するユダヤ人のくびきからフランス人と国民を解放することが目指され、ユダヤ人の公職追放を主張した<ref name="nakataniFRIII"/>。
 
*[[1902年]]、シオニストの[[ヨーゼフ・クラウスナー]]は『タンナイ時代におけるユダヤ民族のメシア的理念』で、イエスはメシアではありえず、預言者として認められたわけではないとした<ref>[[#上山安敏2005|上山安敏2005]],p.270.</ref>。
 
 
 
=== オーストリア・ハンガリー帝国 ===
 
1866年の[[普墺戦争]]でプロイセンに敗北した[[オーストリア帝国]]では[[フランツ・ヨーゼフ1世]](在位1848年 - 1916年)治下の[[1867年]]、[[アウスグライヒ]](妥協策)で[[ハンガリー王冠領]]における[[マジャール人]]指導者に自治権を認め、[[オーストリア・ハンガリー帝国]]として再建された<ref name="K-I-60-96">[[#カーショー上|カーショー上巻]],pp.60-96.</ref>。しかし、支配階級のドイツ人の間ではドイツナショナリズムが高まり、[[オーストリア帝冠領]]では人口3分の1のドイツ系マイノリティの支配が続くことに対してスラブ系住民は不満を高じた<ref name="K-I-60-96"/>。多民族国家であったオーストリアは対ユダヤ人融和策をとり、1860年代の[[自由主義]]的な風潮の中で、職業・結婚・居住などについてユダヤ人に課せられていた各種制限を撤廃した。これは、前世紀のヨーゼフ2世の「寛容令」の完成であり、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言において唱えられた[[自由]]・[[法の下の平等|平等]]の実現でもあった。土地所有が禁じられていたユダヤ人たちに居住の自由が与えられたため、それまで縛り付けられていた土地から簡単に離れることができた。しかし、オーストリアでも反ユダヤ主義が徐々に高まっていった。[[1880年]]のアウストリアクス筆名の著作『オーストリア ユダヤに縁取られた宝石』は、[[エドゥアルト・ターフェ|ターフェ伯爵]]が祖国をユダヤ人に売ったとして批判された<ref name="p-5-245-8">[[#ポリアコフ 5|ポリアコフ 5巻]],p.245-8.</ref>。
 
 
 
[[ハプスブルク帝国]]のオーストリアで最初に大々的な反ユダヤ主義を主張したのはゲオルク・フォン・シェーネラー<ref>Georg Ritter von Schönerer 1842 - 1921</ref>である。シェーネラーは反教権主義的社会主義とゲルマン民族主義を主張し<ref name="po-4-29-48"/>、またオーストリアとドイツの関税同盟を目標にした<ref name="p-5-245-8"/>。シェーネラーは普墺戦争での敗北に衝撃を受けて、帝国が[[北ドイツ連邦]]から締め出されたことを屈辱と感じ、ビスマルクを信奉して、オーストリア帝国と[[ドイツ帝国]]の統一([[汎ゲルマン主義]])を主張した<ref name="K-I-60-96"/>。シェーネラーは初期の国民社会主義者であり、自由主義、ユダヤ、カトリック、ハプスブルク多民族国家を敵視し、ドイツ帝国やドイツ皇帝ヴィルヘルム1世を崇拝した<ref name="K-I-60-96"/>。シェーネラーは、「ハイル」という挨拶、「[[総統|フューラー(総統)]]」を称号とし、これはヒトラーが後にナチ党に持ち込んだ<ref name="K-I-60-96"/>。
 
 
 
[[1882年]]、納税額にもとづく制限選挙が改正され、オーストリアは[[普通選挙]]となった<ref name="po-4-29-48"/>。これによって中間層、下層、手工業者、小地主にまで選挙権が拡大し、政治団体が支持を取り付けるために反ユダヤ主義的政策を打ち出していった<ref name="po-4-29-48"/>。[[1882年]]、ドレスデンで反ユダヤ主義の国際会議が開かれ、[[1883年]]にはケムニッツで開かれた<ref name="po-4-29-48"/>。当時、ウィーンの社会主義者クローナヴェッターは「反ユダヤ主義とは愚者の社会主義である」といった<ref>フェルディナント・クローナヴェッター Ferdinand Kronawetter, "Der Antisemitismus ist der Sozialismus der dummen Kerle". [[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.499訳注。</ref>。またウィーンのユダヤ人社会学者ルートヴィヒ・グムプロヴィッツは『人種の戦い』(1883)でユダヤ人は古代フェニキア人の影響から商人となったが「ユダヤ人は消滅することを知らなかった」とした<ref>Ludwig Gumplowicz(1838-1909),Der Rassenkampf,1883. </ref><ref name="p-A-363-380"/>。
 
 
 
ハプスブルク帝国では、自由主義が凋落し、ナショナリズム、キリスト教社会主義、[[社会民主主義]]が大きな勢力となった<ref name="K-I-60-96"/>。ヒトラーは社会民主主義のデモ隊の組織力と行動主義に強い印象を持ち、大衆は中途半端で弱いものを決して受け入れないという教訓を学んだ<ref name="K-I-60-96"/>。オーストリア・キリスト教社会党を率いた[[カール・ルエーガー]]は反ユダヤ主義を旗印として、オーストリアの貴族や聖職者からは批判されたが、下層中産階級や職人層、都市プロレタリア層、また教皇レオ13世やマリアーノ・ランポッラ枢機卿の支持を受けて、1897年4月にウィーン市長となった<ref name="po-4-29-48"/>。ルエーガーは[[クレメンス・マリア・ホフバウアー]]をその精神上の父とし、啓蒙合理主義を主要な敵とするキリスト教社会運動(Christlichsoziale Bewegung)に影響を受けていた{{Sfn|ヴィクトル・ファリアス|1990|p=57}}。自由主義と資本主義を批判するルエーガーは雑誌『アルゲマイネ・ルントシャウ』に「祖国を救うためにユダヤ人に握られている自由主義と戦う」という論文を掲載した{{Sfn|ヴィクトル・ファリアス|1990|p=64}}<ref name="K-I-60-96"/>。1890年の演説では、巨大な船にユダヤ人を積み込んで海に沈めればユダヤ人問題は解決すると述べた<ref name="K-I-60-96"/>。1899年の演説では、ユダヤ人は資本と報道を統制して凶悪なテロ行為をはたらいているとして「ユダヤ人支配からのキリスト教徒の解放」を訴えた<ref name="K-I-60-96"/>。また狼や豹や虎の方が、「人間の顔をした肉食獣」であるユダヤ人より人間に近いとも述べ、「ユダヤ人の最後の一人が消えるまで、反ユダヤ主義は消えない」とのべた<ref name="K-I-60-96"/>。ウィーン市長になると「誰がユダヤ人であるかは私が決めることだ」としてユダヤ人を公職追放したが、知己のユダヤ人は解雇しなかったし、また貧しいユダヤ人には寛大でシナゴーグの祭式にも参列した<ref name="po-4-29-48"/>。ウィーンで美術を学んでいた[[アドルフ・ヒトラー]]はルエーガーの演説に感動し称賛した<ref name="po-4-29-48"/>。ただし、後にヒトラーはルエーガーは親ハプスブルクでカトリック色が強く、底が浅いと批判もした<ref name="K-I-60-96"/>。
 
 
 
ヘッセン農村運動を展開した民主化運動家・民俗学者のオットー・ベッケルは[[1887年]]の冊子『時代の王、ユダヤ人』で、反教権、反資本主義を論じた<ref>Otto Böckel,Die Juden - die Könige unserer Zeit,1887.</ref><ref name="po-4-29-48"/>。ユダヤ人に搾取された富を取り返せば、ドイツの農民は救済されると主張したベッケルは反ユダヤ主義者として初めて帝国議会議員となった<ref name="m98-171-7"/>。[[1893年]]にはベッケル率いる反ユダヤ国民党(Antisemitische Volkspartei)は議席数が16席にもなった<ref name="po-4-29-48"/>。この1893年はオーストリアにおける反ユダヤ主義における絶頂であった<ref name="po-4-29-48"/>。[[世紀末ウィーン]]は当時の反ユダヤ主義運動の中心地であり、[[1897年]]の普通選挙では反ユダヤ主義陣営が帝国議会に送り込まれていた<ref name="po-4-15-29"/>。
 
 
 
他方、ユダヤ系の心理学者[[ジークムント・フロイト|フロイト]]は1882年の手紙でノートナーゲル<ref>ヘルマン・ノートナーゲル(Hermann Nothnagel)</ref>教授の容貌に対して「ゲルマンの森に住む野蛮人」「金髪で、頭、頬、頸、眉、それらすべて毛で被われ、皮膚と毛とはほとんど見分けがつかない」と述べており、ユダヤ系知識人にも人種的な考えがみられた<ref name="po-4-29-48"/>。
 
 
 
[[世紀末ウィーン]]の音楽界では、音楽的に保守的であった[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス派]]はバッハ、ベートーヴェンなどのドイツ伝統音楽を模範として、ワーグナー派の[[アントン・ブルックナー|ブルックナー派]]はワーグナーやリストなど「未来の音楽」を標榜する進歩派であった<ref name="TakanoS">[[#高野茂]]</ref>。しかし、ワーグナー派の[[アントン・ブルックナー|ブルックナー派]]はドイツ民族主義と反ユダヤ主義と結びついており、他方で[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス派]]は自由主義者で親ユダヤ的であった<ref name="TakanoS"/>。なお、ユダヤ人[[グスタフ・マーラー|マーラー]]はワーグナー派でブルックナー派に属しており、反ユダヤ主義政治家で知られる[[カール・ルエーガー]]がウィーン市長になった同じ[[1897年]]に[[ウィーン国立歌劇場|ウィーン宮廷歌劇場]]監督に就任している<ref name="TakanoS"/>。
 
 
 
ユダヤ系哲学者の[[テオドール・レッシング]]によれば、ユダヤ系オーストリア人知識人の中には自分がユダヤ系であるにも関わらず、ユダヤ人であることを憎悪する者が多数おり、ユダヤのブルジョワジーを心底憎みあらゆる表現で愚弄した作家[[カール・クラウス (作家)|カール・クラウス]]を筆頭に、[[オットー・ヴァイニンガー|ヴァイニンガー]]、アルトゥール・トレビッチュ<ref>Arthur Trebitsch, 1880-1927</ref>、ヴァルター・カレ<ref>Walter Calé, 1881-1904</ref>、マクス・シュタイナー<ref>Max Steiner, 1884-1910</ref>、ニーチェの知己[[パウル・レー]]、カトリックの伝統を信奉してユダヤのテーマを除外した作家[[フーゴ・フォン・ホーフマンスタール|ホーフマンスタール]]、同化政策を支持した[[ルードルフ・ボルヒャルト|ボルヒャルト]]、同化ユダヤ人[[ヤーコプ・ヴァッサーマン|ヴァッサーマン]]などがいた<ref name="p-5-245-8"/><ref name="jikokeno">『[[テオドール・レッシング|ユダヤ人の自己嫌悪]]』(1930),[[#長尾2012]].</ref>。
 
 
 
オーストリアのフランツ・シュタインは、シェーネラーの影響を受けて[[1899年]]にゲルマニア・ドイツ労働者連盟(Bund der deutschen Arbeiter Germania)を創設し、その汎ゲルマン労働者階級運動は社会民主主義と赤色テロを攻撃し、ヒトラーに影響を与えた<ref name="K-I-60-96"/>。
 
 
 
=== 19世紀ロシア ===
 
[[ロシア皇帝]][[アレクサンドル1世]](在位:1801年 - 1825年)は、ユダヤ人を市民として解放すれば、ユダヤ人のキリスト教への改宗を早めることができるとして、ユダヤ人解放を計画した<ref name="po-4-105-109">[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],pp.105-109.</ref>。
 
 
 
[[ロシア皇帝]][[ニコライ1世]](在位:1825年 - 1855年)は、ユダヤ人対策を強化した。ニコライ1世は、教育相[[セルゲイ・ウヴァーロフ|ウヴァーロフ]]の提案で、ユダヤ人に対してロシアの学校に通学するか、ロシア語で授業をすることを強要した<ref name="po-4-105-109"/>。しかし、ロシア帝国公認の学校に通うユダヤ人生徒数は数千人にとどまり、皇帝はユダヤ人への不信感をつのらせ、密輸入やスパイ容疑をかけられたユダヤ人は定住地域の境界線から50km以内の町や村からの強制退去を命じられた<ref name="po-4-105-109"/>。[[1825年]]に起きた[[デカブリストの乱|デガブリストの乱]]の指導者の一人[[パーヴェル・ペステリ|ペステリ]]は、[[ニコライ1世]]の対ユダヤ強硬政策に同調して、ユダヤ人は強制的にロシア人に同化させるか、パレスチナへ追放するかのいずれかであると述べた<ref name="po-4-109-121">[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],pp.109-121.</ref>。1827年にはユダヤ人徴兵法が成立した<ref name="Zvi24-41"/>。
 
 
 
ニコライ1世は[[1844年]]にはユダヤ人自治機構カハルを解体し、ユダヤ書物への検閲が始まり、[[モーシェ・ベン=マイモーン]]の書物が儀式殺人を教唆するものとして差し押さえられた<ref name="po-4-105-109"/>。またゴーゴリの『死せる魂』も神の全知全能に言及せずに自然の諸力を扱ったとして差し押さえた<ref name="po-4-105-109"/>。また皇帝は、正教会で[[イディッシュ語]]で執行されるミサへの参列をユダヤ人に義務づけようとした<ref name="po-4-105-109"/>。さらにユダヤ人徴兵法を施行し、それまで人頭税で兵役を免除されていたユダヤ人にも兵役が義務づけられ、プロイセンの[[カントン制度]]を模して7歳以上のユダヤ人の子供をカントニストとして軍事教練に送り、キリスト教に改宗させた<ref name="po-4-105-109"/>。ダマスクス事件(1840)の発生によって、ニコライ1世はヴラディーミル・ダーリに併合したポーランドのユダヤ人の調査を命じて、ユダヤ人の大多数は儀式殺人の慣習を持たないが、ハシッド派の狂信的な宗派は儀式殺人を行っていると報告された<ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.121-122.</ref>。
 
 
 
[[File:Portrait of Alexander Pushkin (Orest Kiprensky, 1827).PNG|130px|サムネイル|[[アレクサンドル・プーシキン]]]]
 
[[File:N.Gogol by F.Moller (1840, Tretyakov gallery).jpg|130px|サムネイル|[[ニコライ・ゴーゴリ]]]]
 
作家[[アレクサンドル・プーシキン|プーシキン]]は作品でユダヤ人を裏切り者やスパイとして描いた<ref name="po-4-109-121"/>。プーシキンはユダヤ人女性を美人に描いたり、未完の『吝嗇の騎士』では騎士がユダヤ人高利貸しに向かって「いまいましいユダ公、いや、敬愛するソロモン君」と述べる<ref>[[#ポリアコフ 5|ポリアコフ 5巻]],p.315.</ref>。作家[[ニコライ・ゴーゴリ|ゴーゴリ]]は小説『タラス・ブーリバ』([[1835年]])で、卑怯な搾取者のユダヤ人ヤンキェルが、コサック領主によってドニエプル川に沈められる姿や、「羽をむしられた鶏」のような姿を滑稽に描いた<ref name="po-4-109-121"/>。[[イワン・ツルゲーネフ|ツルゲーネフ]]の『ユダヤ人』([[1846年]])では、密偵のユダヤ人の死刑執行が「見ていて本当に滑稽だった」として、「奇妙な仕草、実に非常識な叫びや身震いなどによって」「その光景がどれほど嘆かわしいものであってもわれわれはどうしても微笑んでしまうのだった」と描かれた<ref name="po-4-109-121"/>。しかし、ツルゲーネフ後期の作品ではユダヤ人は人間味溢れる者として描かれた<ref name="po-4-109-121"/>。
 
 
 
[[ロシア皇帝]][[アレクサンドル2世]](在位:1855年 - 1881年)は、ユダヤ人徴兵法を廃止し、学校での宗教教育を自由選択として、ユダヤ人からは「解放ツァーリ」と呼ばれた<ref name="po-4-105-109"/>。ユダヤ人の富裕層ではロシア語使用がすすみ、ユダヤの新聞がロシア語で出版されるようになった<ref name="po-4-105-109"/>。
 
 
 
ロシアの富裕ユダヤ人には、銀行や金鉱開発や鉄道事業で成功したギンツブルグ家や、金融資本家で南ロシア炭鉱会社を経営してロシア貴族ともなったポリャーコフ家があった<ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.113, 576-577訳注</ref>。[[ニコライ・ネクラーソフ|ネクラーソフ]]はスラヴ人商人は良心の呵責によって窓から金を投げ捨てる一方で、富裕ユダヤ人は平気で搾取横領し、その成果を外国で貯蓄運用すると対比させた<ref name="po-4-109-121"/>。
 
 
 
[[1862年]]、汎スラブ主義を主張する評論家[[イヴァン・アクサーコフ|アクサーコフ]]は、ユダヤ人解放に反対して、「ロシアの民衆をユダヤ人のくびきから解放すること」を主張し、またキリスト教徒をユダヤ教からも解放すべきであると主張した<ref name="po-4-122-144">[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],pp.122-144.</ref>。
 
 
 
[[1869年]]、ロシア正教会に改宗したユダヤ人のヤコブ・ブラフマンは『カハルの書』『地域的ならびに世界的なユダヤ人同胞組織』において、ユダヤ人は非ユダヤ教徒を商業・産業から追い出し、あらゆる資本や不動産を自分の懐に集めており、また、国際的な活動をするユダヤ人同胞組織によって世界中のユダヤ共同体(カハル)が同じ方向に向かっていて、「世界イスラリエット同盟」はフランス革命を起こしたと報告した<ref name="po-4-122-144"/>。また、ユダヤ人はロシアに国家内国家を形成し、一般市民を服従させ搾取すると主張した<ref name="nakamura213-227"/>。
 
 
 
[[1877年]]の[[露土戦争 (1877年-1878年)|ロシア・トルコ戦争]]によって、ロシアでは反ユダヤ主義が国家上層部と大衆の間で広まった<ref name="po-4-109-121"/>。
 
 
 
==== ドストエフスキーと反ユダヤ主義 ====
 
[[File:Dostoevskij 1872.jpg|サムネイル|文豪[[フョードル・ドストエフスキー]]は反ユダヤ主義者で、アーリア民族を賛美し、後年の反ユダヤ主義にも影響を与えた<ref name="po-4-109-121"/>。]]
 
文豪[[フョードル・ドストエフスキー]]は、ゴーゴリのユダヤ人描写を模して、『[[死の家の記録]]』(1862年)ではユダヤ人徒刑囚ブムシュテインを「羽をむしられた鶏」として滑稽に描いた<ref name="po-4-109-121"/>。なお、この「羽をむしられた鶏」としてのユダヤ人のイメージは、[[ミハイル・サルトィコフ=シチェドリン|シチェドリン]]の『ペテルブルグのある田舎者の日記』や、[[アントン・チェーホフ|チェーホフ]]の『広野』、[[イサーク・バーベリ|バーベリ]]の『騎兵隊』(1926)でも描かれた<ref name="po-4-109-121"/>。ドストエフスキーは、1861年には反ユダヤ的な例外法の廃止を求めることもしたが、『[[悪霊 (ドストエフスキー)|悪霊]]』(1872)の作中では改宗ユダヤ人が共犯者を告発する様子を描いた<ref>[[#ポリアコフ 5|ポリアコフ 5巻]],p.315.</ref>。
 
 
 
ドストエフスキーは改宗ユダヤ人のブラフマンによる反ユダヤ主義の書物『カハルの書』(1869)から影響を受けた<ref name="nakamura213-227">[[#中村 2004|中村 2004]],p.213-227</ref>。[[1873年]]以降はユダヤ人への攻撃が激しくなり、ドストエフスキーは死去するまで反ユダヤ主義的な発言を繰り返した<ref name="po-4-109-121"/>。1873年にドストエフスキーは、ロシア民衆が飲酒で堕落したままであれば、「ユダヤ人たちは民衆の血をすすり、民衆の堕落と屈辱を自分たちの糧とするであろう」とし、農村はユダヤ人に隷属させられた乞食の群れとなると警告した<ref name="d-d-1-134">1873年.11「空想と夢想」[[#作家の日記1|作家の日記1]],p.129-134.</ref>。
 
 
 
[[1876年]]にはユダヤ財界人が自分たちの利益のために[[農奴制]]の復活をもくろんでいるとし<ref name="po-4-109-121"/>、ユダヤ人がロシアの土地を購入すると元利を戻そうとしてたちまち土地の資源が枯渇されるということに異議を唱えればユダヤ人は市民同権の侵害だと騒ぐだろうが、それは[[タルムード]]的な国家内国家の重視であり、「土地だけでなくやがては百姓も消耗させられてしまうとしたら同権も何もあったものではない」と反論した<ref>1876年6月,[[#作家の日記2|作家の日記2]],pp.26-7.</ref>。また同年7-8月には、ロシアが[[クリミア]]を獲得しなければユダヤ人が殺到してしまうと危惧し<ref>[[#作家の日記2|作家の日記2]],p.43.</ref>、他方のロシア国民は「最近の、いまわしい堕落、物質主義、ユダヤ気質、安酒にひたるという生活にもかかわらず」正教の大義を忘れなかったと称賛した<ref>[[#作家の日記2|作家の日記2]],p.105.</ref>。同年10月には、ロシアの民衆の間では無秩序、不身持ち、安酒、機能不全の自治制度、農村を食い物にする高利貸し、そしてジュー(ユダヤ人)が君臨しており、「金があれば何でも買える」という歪んだ不自然な世界観の持ち主である商人長者は儲けになればユダヤ人とも結んで誰でも裏切り、愛国心がなく<ref>[[#作家の日記2|作家の日記2]],p.177-9</ref>、教育啓蒙で武装しているロシアの知識人は「汚らわしい取引所的堕落の時代」における物質主義の怪物を撃退できるが、民衆は「すでにユダヤ人に食い入られた」と診断した<ref>[[#作家の日記2|作家の日記2]],p.182.</ref>。同年12月にはロシア知識人には「ユダヤ化した人々」がいて、経済面からのみ戦争の害を言い立て、銀行の破産や商業の停滞で人を脅迫し、トルコに対してロシアは軍事的に無力であるなどと主張するが、彼らは当面する問題の理解が欠けていると批判した<ref>[[#作家の日記2|作家の日記2]],p.263-4,268.</ref>。
 
 
 
[[1877年]]にはオスマン帝国の[[コンスタンティノープル]]を征服してキリスト教の教会を解放するために十字軍を派遣すべきであるとし<ref name="po-4-109-121"/>、[[露土戦争 (1877年-1878年)|露土戦争]]の開戦直前の3月にはコンスタンティノープルはロシアのものになるべきだと主張した<ref>[[#作家の日記2|作家の日記2]],p.354.</ref>。
 
 
 
1877年3月ドストエフスキーは、無神論者のユダヤ人からの抗議への反論『ユダヤ人問題』を発表した<ref name="dos-d-2-355-80">「ユダヤ人問題」[[#作家の日記2|作家の日記2]],p.355-380.</ref>。「高級なユダヤ人」に属する抗議者は無神論者というが、エホバを放棄するとは罪深く、「神のいないユダヤ人など想像もできない」し、自分はユダヤ人を民族として憎悪したことはない、また自分がユダヤ人を「ジート(ジュー)」と呼ぶことは侮辱ではなく一定の観念であり、言葉に腹を立てるのはよくないとした<ref name="dos-d-2-355-80"/>。また、自分はこれほどの攻撃を招くような反ユダヤ的論文は書いていないし、この抗議者はロシア国民に対して傲慢であり、この告発における激昂こそユダヤ人のロシア人観を鮮やかに物語ると反論した<ref name="dos-d-2-355-80"/>。そもそもユダヤ人とロシア人が離反している要因は双方に責任があるし、ユダヤ人のように「これほど絶え間なく、歩けば歩いたで、口を開けば開いたで、自分の運命を訴え、自分の屈辱を、自分の苦悩を、自分の受難を嘆いている民族は、世界中を探しても確かに他にはいない」とし、ユダヤ人は「虐げられ、苦しめられ、侮辱されている」というが信用できないし、ロシアの庶民はユダヤ人以上の重荷を背負っている、それどころか、[[農奴制]]から解放されたロシアの庶民に対して「昔からの金貸しの業で」「獲物にとびかかるようにして、真っ先に彼らにとびついたのは誰であったか」、ユダヤ人は「ロシアの力が枯渇しようが知ったことではなく、したいだけのことはやってのけて、いなくなってしまった」と述べた<ref name="dos-d-2-355-80"/>。ユダヤ人がこれを読むと、中傷・嘘だと主張するだろうが、アメリカ南部でもユダヤ人は解放された黒人に襲いかかり、金貸し業で彼らを掌握したのだと述べた<ref name="dos-d-2-355-80"/>。また、ユダヤ人は国家内国家 (Status in statu)を長い歴史のなかで守ってきたとして、その理念の本質を「諸民族より出でて、自らの個体を作るがよい。今日からはお前は神のもとに一人であるとわきまえて、他の者たちは根絶やしにするもよし、奴隷にするもよし、搾り取るのも自由である。全世界に対する勝利を信ぜよ。すべてがお前にひざまずくものと信ぜよ。すべてを厳格に嫌悪し、生活においては何びととも交わってはならぬ。たとえ自らの土地を失い、政治的個性を失い、あらゆる民族の間に離散するようなことがあろうとも、変わらず、お前に約束されたすべてのものを、永久に信ぜよ。すべては実現されるものと信ぜよ。しばらくは生き、嫌悪し、団結し、搾取し、待つがよい」と描写した<ref name="dos-d-2-355-80"/>。こうしてドストエフスキーは、ロシア人はユダヤ人への怨恨などは持っていないが、無慈悲で非礼なユダヤ人はロシア人を軽蔑し、憎んでおり、ユダヤ人はヨーロッパの取引市場や金融界に君臨し、国際政治、内政、道徳までも自由に操作し、「ユダヤ人の完全な王国が近づきつつある」とし、ユダヤ教は全世界を掌握しようとしているというユダヤ陰謀論を展開した<ref>ドストエフスキー『作家の日記 (四)』米川正夫訳、1959年、pp.148-178.</ref><ref name="po-4-109-121"/><ref name="dos-d-2-355-80"/>。また、農村共同体がユダヤ人の手に渡れば、農奴制の時代や[[タタールのくびき|タタール侵入の時代]]よりもひどい時代となるとした<ref name="dos-d-2-355-80"/>。その上でドストエフスキーは、キリスト教の教えにもとづき、ユダヤ人の権利拡張に賛成しながら、うぬぼれで傲慢なユダヤ人はロシアに対して寛大であるべきで祖国ロシアのために尽くすべきだ、もしもユダヤ人がロシア人への嫌悪と偏見を捨て去れば、お互いに兄弟愛でむすばれる、しかし、ユダヤ人に友愛的団結を行う能力はあるか、と述べた<ref name="dos-d-2-355-80"/>。
 
 
 
1877年4月には、ヨーロッパで2世紀もロシアを憎んでいる「何千何万のヨーロッパのジューと、その連中と一緒にユダヤ化している何百万のキリスト教徒」はロシアの宿敵であるとした<ref>[[#作家の日記2|作家の日記2]],p.385.</ref>。
 
 
 
1877年9月、[[露土戦争 (1877年-1878年)|露土戦争]]についてドストエフスキーは、ロシアがスラブ的理念を放棄して、東方キリスト教徒の運命の課題を解決せずに投げ出すことは、ロシアを粉々に解体して絶滅させることだと論じ、ロシア国民は「ユダヤ人や相場師たちの手中にあって、[[ルイージ・ガルヴァーニ|ガルヴァーニ]]電気を通じてぴくぴく動くような死骸ではなく、自分の自然の使命を遂行しつつ、真の生きた生活を生きる国民でなければならない」とし、もしロシアがこの戦争を始めなかったならば、自分で自分を軽蔑するようになったことだろうとして戦争を支持した<ref>[[#作家の日記3|作家の日記3]],p.185-6.</ref>。同年11月には、コンスタンティノープルをトルコ人放逐後に自由都市にしてしまうと、「全世界の陰謀者の隠れ家となり、ユダヤ人や投機人のえじきとなる」というスラブ主義者ダニレフスキーの見解を卓越した正しい推論と称賛した<ref>[[#作家の日記3|作家の日記3]],p.257.</ref>。
 
 
 
[[1879年]]の[[コーカサス|カフカース]]地方のクタイシでの儀式殺人裁判についてはドストエフスキーもユダヤ人に疑念を持った<ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.122.</ref>。[[1879年]]夏、ドストエフスキーは、ドイツの保養地[[バート・エムス]]に療養で訪れた際に、湯治客の半分はユダヤ人であり、ドイツとベルリンはユダヤ化されてしまったと友人の[[聖務会院|ロシア宗務院長]]ポベドノスツェフに報告している<ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.124. 1879年8月9日(21日)手紙。『ドストエフスキー全集』17巻、筑摩書房、1975年、pp.401-403.</ref>。これに対してポベドノスツェフ宗務院長は「ユダヤ人はすべてを侵略し、蝕んでいますが、『この時代の精神』が彼らに有利に作用しているのです。ユダヤ人は、社会民主的運動やツァーリ暗殺運動の根幹に位置し、新聞・雑誌を支配し、金融市場を手中におさめ、一般大衆を金融面での隷属状態に追い込み」、「今ではロシアの新聞はすでにユダヤ人のものになっています」と返信した<ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.124-125. </ref>。
 
 
 
小説『[[カラマーゾフの兄弟]]』(1880)では、肉欲と物欲の権化であるフュードルがユダヤ人が多く住む[[オデッサ]]でユダヤ人と知り合いになり、金を稼いで貯め込む才覚を磨いたとし<ref>「カラマーゾフの兄弟1」第1部第1編4,光文社,亀山郁夫訳,p.54.</ref>、また儀式殺人で快楽を引き出すユダヤ人について描写した<ref name="po-4-109-121"/><ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.116. ドストエフスキー『[[カラマーゾフの兄弟]]』新潮文庫、原卓也訳、下巻、pp.144-145.</ref>。
 
 
 
[[1880年]]8月にドストエフスキーはスラヴ主義や西欧主義は間違っていると批判し、「偉大なるアーリア人種に属するすべての民族を全人類的に再結合する」ことはロシア人の使命であり、「すべての民族をキリストの福音による掟に従って完全に兄弟として和合させ、偉大なる全体的調和をもたらす」と主張した<ref>「プーシキン論」[[#作家の日記3|作家の日記3]],p.344-5.『作家の日記(六)』米川正夫訳、p.192.</ref><ref name="po-4-109-121"/>。
 
 
 
死の直前の[[1881年]]1月には、土地を領有するものは鉄道家や実業家や銀行家やユダヤ人でもなくて、誰よりも農民であるべきだとし、農民は国家の核心であるとした<ref>[[#作家の日記3|作家の日記3]],p.392-3.</ref>。
 
 
 
[[ポリーナ・スースロワ]]の夫ヴァシリー・ローザノフはドストエフスキーを尊敬し、アーリア人の威光とユダヤ人の血の欲望について論じた<ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.159-160</ref>。ドストエフスキーは聖ロシアを[[第三帝国]]としなければならないと論じたが、ドストエフスキーの思想は、『[[第三帝国]]』を著したメラー・ファン・デン・ブルックや[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]など20世紀初頭のドイツ右翼知識人に多大な影響を与えた<ref name="kogisi48-63"/>。
 
 
 
==== トルストイと反ユダヤ主義 ====
 
[[File:LNTolstoy.jpg|サムネイル|トルストイ]]
 
文豪[[レフ・トルストイ]]はヘブライ語で旧約聖書を読んだが、戒律と愛との関係においてユダヤ教とキリスト教は根本的に対立するとしており,ユダヤ教の選民思想については「民族的思い上がり」と批判する一方で、ユダヤ教は我々の似非キリスト教共同体の道徳よりも高い(1890年5月25-26日付ゲッツ宛書簡)と述べるなど、アンビバレントな評価をしていた<ref name="akao">[[#赤尾 2007]]</ref>。しかし、死去するまで手紙や日記では反ユダヤ主義的な発言を繰り返した。
 
 
 
[[ドレフュス事件]]についてトルストイは「私はドレフュスのことは知らない。だが,私は多くのドレフュスたちを知っており、そうした人々は有罪であった」 と述べ、この事件は「フランスにとって取るに足らぬ重要性しか持たず、ましてや他の世界には全くといっていいほどつまらぬ問題」であり、「ロシア人が、ドレフュスという何ら際立ったところもない人間の擁護にかまけているのは、なんともおかしなことだ」と事件の反響を批判した<ref name="akao"/>。
 
 
 
小説『アンナ・カレーニナ』(1875-1877年)では、アンナの兄の貴族オブロンスキが権限を持つユダヤ人に「勝ち誇ったように」就職を拒絶する場面を描いた<ref>『アンナ・カレーニナ』第7部第17巻。『アンナ・カレーニナ(下)』岩波文庫、1989年、p.318.</ref><ref name="po-4-109-121"/>。トルストイは[[ウラジーミル・ソロヴィヨフ (哲学者)|ソロヴィヨフ]]に自分はユダヤ人のテーマを扱う気にはなれないと打ち明けた<ref name="po-4-109-121"/>。
 
 
 
1903年の大規模なポグロムについて、自分に言えることがあるとしても出版には適さないと発言した<ref name="po-4-109-121"/>。[[日露戦争]]に際してトルストイは、ロシアの敗走ではなく、「偽キリスト教文明の敗走」であったとして、「芸術・科学的活動において、金銭を得て成功するための戦いにおいて、ずっと前から崩壊は始まっていた。ユダヤ人はそれらの活動において、あらゆる国々ですべてのキリスト教徒に打ち勝った」として、日本がユダヤ人と同じように行動していると日記に書いた<ref name="po-4-109-121"/>。
 
 
 
1906年、トルストイは[[ヒューストン・ステュアート・チェンバレン]]の反ユダヤ著書『19世紀の基礎』について、チェンバレンはキリストがユダヤ人ではなかったことを証明したと手紙で賞賛した<ref name="po-4-109-121"/>。
 
 
 
==== ロシア皇帝アレクサンドル2世暗殺と反ユダヤ主義 ====
 
[[1881年]][[3月13日]]、ユダヤ解放政策をとってきた[[アレクサンドル2世]]がテロ組織「[[人民の意志]]」のポーランド人メンバーのイグナティー・グリネヴィツキーによって暗殺された。暗殺グループにはユダヤ人女性ハシャ・ヘルフマンもいた<ref name="Zvi24-41">[[#ギテルマン]],pp.24-41</ref>。『ノーヴォエ・ヴレーミャ』は「鉤鼻をした東洋風の男」が、『ヴィリニュス通信』はユダヤ人が犯人であると報道した<ref name="po-4-122-144"/>。皇帝暗殺事件を背景にして[[1881年]]4月の[[復活大祭|復活祭]]に先立つ聖週間には、ウクライナの[[キロヴォフラード州|エリサヴェトグラード]]、[[キエフ県|キエフ]]、オデッサで大規模なポグロムが発生した<ref name="po-4-122-144"/>。扇動者一団は鉄道で訪れ、ユダヤ人は皇帝を殺害したという[[ビラ]]が街中に貼られ、街頭で反ユダヤ新聞を読み上げて、ユダヤ人への暴行がなされていった<ref name="po-4-122-144"/>。扇動者一団には、君主制護持派の大公や将校が結成した聖従士団の一部が関わっていた<ref name="po-4-122-144"/>。1881年から[[1884年]]まで、南ウクライナの[[キエフ県|キエフ]]、[[クロプィウヌィーツィクィイ|エリザヴェトグラート]]で農民や出稼ぎ労働者によってユダヤ人のポグロムが発生した<ref name="krokawa"/><ref name="krokawa2">[[#黒川2012]]</ref>。1881年から1882年にかけてのポグロムについて[[ミハイル・サルトィコフ=シチェドリン|シチェドリン]]は「限りない苦しみ」としてユダヤ人に同情し、[[ニコライ・レスコフ|レスコフ]]はユダヤ人を弁護した<ref>『ロシアのユダヤ人』(1884年)</ref><ref name="po-4-109-121"/>。[[マクシム・ゴーリキー|ゴーリキー]]はユダヤ人のこと思うと当惑と恥辱で胸いっぱいになるとして、作中ではユダヤ人はつねに善人として描写された<ref name="po-4-109-121"/>。しかし、1880年代のロシア左翼サークルでは反ユダヤ主義が称賛され、社会主義雑誌も一誌をのぞいてポグロムを好意的に語った<ref>[[#中村 2004]],p.211.ではバーグマン『[[ヴェーラ・ザスーリチ]]』(和田あき子訳、三嶺書房、1986年)が参照されている。</ref>。
 
 
 
皇帝[[アレクサンドル3世]](在位:1881年 - 1894年)は[[1882年]]にユダヤ人の搾取からキリスト教徒を守る臨時条例を定め、[[1883年]]2月には「ユダヤ人についての現行法見直し委員会」を設置し、5年間の討議の末、委員会は反ユダヤ的な政策を廃止して、ユダヤ人をキリスト教徒と融和させることが必要であると結論したが、空文となった<ref name="po-4-122-144"/>。1883年、皇帝アレクサンドル3世は、「ユダヤ人がキリスト教徒から搾取し続ける限り、この憎悪が和らぐことはないだろう」と書いている<ref name="po-4-122-144"/>。[[1890年]]、モスクワ警察はユダヤ人商店に看板でヘブライ語の名前を掲げることを義務づけた<ref name="Zvi24-41"/>。[[1891年]]、ロシア政府は[[過越|過越祭(ペサハ)]]に合わせてモスクワからほとんどのユダヤ人を追放した<ref name="Zvi24-41"/>
 
 
 
最後のロシア皇帝[[ニコライ2世]](在位1894 - 1917年)は1882年の臨時条例よりもユダヤ定住地域をさらに狭めて、農民がユダヤ人から搾取されないようにユダヤ人の田園地帯での居住や、キエフ、皇帝離宮のあるヤルタなどでもユダヤ人の居住は禁じられた<ref name="po-4-122-144"/>。定住地域外ではユダヤ人への検挙が行われ、ユダヤ人がロシア風を名乗る改名を禁止し、ユダヤ商店ではユダヤ人であると分かるように店舗に明示することが義務づけられ、また1887年から学校でのユダヤ人定員が制限された<ref name="po-4-122-144"/>。ドストエフスキーの友人だったポベドノスツェフは、ユダヤ人は[[寄生虫]]であるためつまみだす要があるとして、「ユダヤ人の三分の一は国外へ移住させ、三分の一はキリスト教に改宗させ、残る三分の一は死に絶える」と政府に提案し、ロシア政府はユダヤ人の海外移住を推進した<ref name="po-4-122-144"/>。1881年のポグロム以降、1891年までにアメリカへ移住したユダヤ人は13万5000人、1891年から1910年の間にはほぼ100万人のユダヤ人が米国、カナダ、ヨーロッパ、オーストラリア、南アフリカへ移住した<ref name="Zvi24-41"/>。
 
 
 
=== アメリカ合衆国:建国から19世紀まで ===
 
{{See|[[アメリカ合衆国における政教分離の歴史|清教徒革命から北米上陸までの経緯]]|アメリカ合衆国の歴史}}
 
アメリカ大陸に渡った[[清教徒]]たちは古代イスラエル人に自らをたとえた。しかし、同時代のユダヤ教徒を受け入れることはできなかった<ref name="kono150-164">[[#河野 2001]],p.150-164.</ref>。清教徒たちは[[ヨハネ黙示録]]で予言された[[千年王国]]、キリスト再臨を待望したが、千年王国の朝明けの前にユダヤ人がキリスト教に改宗しなければならないとした<ref name="kono150-164"/>。ユダヤ人ジューダ・モニスは[[1722年]]にキリスト教に改宗してからハーバード大のヘブライ語講師に任用されたし、[[1776年]]制定の[[メリーランド州]]憲法ではキリスト教宣誓が要求されており、ユダヤ教徒の権利を認められたのは1826年であった<ref name="kono150-164"/>。他方で[[ロードアイランド植民地]]を開いた[[ロジャー・ウィリアムズ]]は[[1647年]]にユダヤ教、イスラム教、反キリスト的な信仰も認められるべきであると主張した。[[ブラウン大学|ロードアイランドカレッジ]]では学生に宗教的自由が認められ、[[ニューポート (ロードアイランド州)|ニューポート]]はユダヤ人に人気となり、1770年代にはニューヨークを凌ぐ繁栄を誇った<ref name="kono150-164"/>。
 
 
 
[[1654年]]、[[ポルトガル]]が当時世界最大の製糖輸出港だった[[ブラジル]]の[[レシフェ|レシフェ港]]をオランダから奪い返すと、ユダヤ人は異端審問を恐れて16隻の船で四散し、その内一隻が[[ニューアムステルダム]](のちニューヨークへ改称)に上陸した。これがユダヤ人最初のアメリカ上陸となった<ref name="kono150-164"/>。
 
 
 
[[1775年]]からの[[アメリカ独立戦争]]では在米ユダヤ人の大半がアメリカを支持した。ユダヤ人は各地に離散している仲間と連携して貿易を行っていたため、イギリスの[[航海条例]]などに反発していたためであった<ref name="kono150-164"/>。戦争中はユダヤ人は独立派のウイッグ派からは親英派のトーリーとして、トーリーからは独立派として排斥されることもあった<ref name="kono206-230"/>。[[ニューポート (ロードアイランド州)|ニューポート]]の指導的なユダヤ大商人アイザック・ハートは親英派であったために群衆に殺害された<ref name="kono150-164"/>。ポーランド出身のユダヤ人金融業者[[ハイム・サロモン]]は、アメリカ植民地軍の軍資金を用意し、財務長官[[ロバート・モリス (独立宣言署名者)|ロバート・モリス]]顧問となり、また[[トーマス・ジェファーソン|ジェファーソン]]、[[ペイトン・ランドルフ|ランドルフ]]、[[ジェームズ・マディソン|マディソン]]などの議員を私財によって支援し、その功績はアメリカでのユダヤ人の社会的地位の確立につながった<ref name="kono150-164"/>。
 
 
 
第6代アメリカ合衆国大統領[[ジョン・クィンシー・アダムズ]]は1780年、アムステルダムのユダヤ人について「こんなみじめな風体をした人間に会ったためしがない。ひとの頭から両眼を盗むことだってしかねない」と書き、大統領就任後の1825年にはユダヤ人をキリスト教に改宗させる米ユダヤ人環境改善教会<ref>The American Society for Meliorating the Condition of the Jews</ref>を支援した<ref name="kono206-230"/>。
 
 
 
==== アメリカ文学にみる反ユダヤ主義 ====
 
[[File:The Quaker City, or The Monks of Monk Hall (cover page).jpg|サムネイル|100px|left|『クェイカーの都市』表紙]]
 
詩人[[ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー]]は1852年に訪れたニューポートのユダヤ人墓地についての詩で、ユダヤ人に同情しながらも「死せる民族が再び立ち上がることはない」とした<ref name="kono169-204">[[#河野 2001]],p.169-204.</ref><ref>The Jewish Cemetery at Newport</ref>。
 
 
 
詩人[[オリバー・ウェンデル・ホームズ・シニア|オリヴァー・ウェンデル・ホームズ]]はキリスト教徒もユダヤ教徒も同じ人間であると主張して、反ユダヤ主義に対してキリスト教徒は謙虚になるべきだとした。<ref name="kono169-204"/>。
 
 
 
ジョージ・リパードの小説『クェイカーの都市』(1845)では悪徳業者を手助けするユダヤ人ゲルトを馬の頭と背中の瘤を持ち、両肩は耳までせりあがった畸形者として「三千年昼寝をしたヘブライ人」と罵倒して、五年間で17万5000部も販売したベストセラーとなった<ref>George Lippard,The Quaker City, or The Monks of Monk Hall.</ref><ref name="kono169-204"/>。
 
 
 
[[File:Albrecht Dürer - Jesus among the Doctors - Google Art Project.jpg|サムネイル|100px|left|デューラー「博士たちと議論するキリスト」]]
 
 
 
[[File:Nathaniel Hawthorne by Brady, 1860-64.jpg|サムネイル|150px|ナサニエル・ホーソーン]]
 
小説家[[ナサニエル・ホーソーン]]は1856年にユダヤ人のロンドン市長デイヴィッド・サロモンズと面会すると、市長の義姉はユダヤ人にしては美しいが、その夫はイスカリオテのユダ、彷徨えるユダヤ人に典型的なタイプで、「ぞっとするほどユダヤ的で、残忍で、鋭敏なのだ」と日記で評した<ref name="kono169-204"/>。1858年にはローマの[[パラッツォ・バルベリーニ|バルベリーニ宮]]で[[アルブレヒト・デューラー|デューラー]]作「博士と議論するキリスト」でのユダヤ人描写について「これほど醜く、悪意に満ち、頑迷で、実利的で、狷介な者はいない」と評し、また[[リヴォルノ]]のシナゴーグを汚くて神聖さと無縁であるとした<ref name="kono169-204"/>。『大理石の牧神』(1860)ではユダヤゲットーを腐敗したチーズにたかるウジ虫のように窮屈で不潔とした<ref name="kono169-204"/>。
 
 
 
[[File:Herman Melville.jpg|サムネイル|150px|ハーマン・メルヴィル]]
 
作家[[ハーマン・メルヴィル]]は、『レッドバーン』(1849)でユダヤ人質屋を鉤鼻と描写し、アメリカは移民の国際的合同体であるが、「われわれは頑迷なヘブライ的民族性を持った心の狭い部族的人間ではない」とし、ユダヤ人は排他的な世襲を保つことで血統を高貴ならしめようとしていると批判した<ref name="kono169-204"/>。『白鯨』(1851)では、中世の人々がユダヤ人の悪臭を嗅ぎ分けたようには鯨捕りを嗅ぎ分けられないと描いた<ref name="kono169-204"/>。1856-7年にはパレスチナを旅行すると、パレスチナでユダヤ人がキリスト教に改宗しないことに対して「ばかげたユダヤ狂い」と批判、また、「ユデアの地の大半を占める悪魔的な風景から、ユダヤの預言者たちは、あの恐るべき神学に思い至った」と日記に書いた<ref name="kono169-204"/>。『クラレル』(1876)ではユダヤ民族の排他性、儀式殺人、無神論者で唯物論者のユダヤ人マーゴスへの反感などが描かれる一方で、キリスト教文明のユダヤ教への負い目についても描かれた<ref name="kono169-204"/>。
 
 
 
[[南北戦争]](1861-65)では、従軍僧はプロテスタントとカトリックに限られており、ユダヤ教ラビは除外された<ref name="kono150-164"/>。しかし1862年7月、ユダヤ人従軍僧も服務可能になった。また、戦時中に騰貴した綿花の闇取り引きが横行し、一部のユダヤ人も行っていたため、[[1862年]][[12月17日]]、[[ユリシーズ・グラント]]将軍はユダヤ人を[[テネシー軍|テネシー軍管区]]から追放する一般命令11号を布告した<ref name="kono150-164"/>。ユダヤ商人がリンカーン大統領に直訴してこの命令は撤回された。戦後、大統領となったグラントは多くのユダヤ人を公職につけた<ref name="kono150-164"/>。一方の南部では敗戦の責任をユダヤ人に転嫁して非難された。南部連邦国務長官[[ジュダ・ベンジャミン]]は「忌まわしいユダヤ人」と呼ばれ、戦時中にユダヤ人が商品を買い占めたためにインフレが起きたし、ユダヤ人は徴兵拒否と通敵行為に走り、また民衆を搾取して蓄財したと噂された<ref name="kono150-164"/>。
 
[[ファイル:Henry Adams.jpg|thumb|150px|ヘンリー・アダムズ]]
 
[[ジョン・クィンシー・アダムズ]]の孫で[[ピューリッツァー賞]]受賞作家[[ヘンリー・アダムズ]]は[[イディッシュ語]]を話すユダヤ人をみると背筋が寒くなると嫌悪し、また訪日した際には「ジャップは猿だ」とした<ref name="kono206-230"/>。[[1879年]]にはスペインでユダヤ人とムーア人といやというほど出くわしたので、異端審問については寛大な見方ができるようになったとした。ヘンリーは中世のノルマン人を称賛する一方で、ユダヤ人を金融資本と同一視し、キリスト教文明に敵対する経済的類型の権化とみなした。1896年にはユダヤ金融資本が銀貨の自由鋳造を妨害しているとし、「われわれはユダヤ人の手中にある」とした<ref name="kono206-230"/>。ドリュモンの著作を愛読したヘンリーは、ドレフェス事件でのドレフェス擁護派はユダヤ人の金で動いているとし、ドレフェスを擁護するゾラはドレフェスやユダヤ人ジャーナリスト、演劇人、株式ブローカー、ロスチャイルドなどと一緒に悪魔島へ送るべきだとした。また「ユダヤ人が死滅するのをみたい一心で生きているのだ。わたしはすべての金貸しが拘引され処刑されるのをみたい」とも書いた<ref name="kono206-230"/>。
 
 
 
作家[[ヘンリー・ジェイムズ]]は「あらゆる桎梏から解き放たれたユダヤ人」の子供が溢れているのは、復讐をともなった増殖だろうかと述べた<ref name="po-4-288-295"/>。1904-5年、アメリカのゲットーを訪れたジェイムズは「巨大で黄ばんだ水族館のなかで、大きすぎる鼻をした無数の魚が、山積みされた海の獲物のなかでいつまでもぶつかりあっている感じだった」、蛇か虫かのように「千切りにされても這い出していき、刻まれる前と同じく達者で生きる」と喩え、また豪華なユダヤ商店に対して「ユダヤ人が巧妙な商才を発揮するのは、概してユダヤ人以外が相手のときだ」、また酒場でイディッシュ語を聞いたジェイムズは、合衆国の未来の言葉が英語でなくなることを憂慮した<ref name="kono206-230"/>。
 
[[File:MarkTwain.LOC.jpg|サムネイル|150px|マーク・トウェイン]]
 
[[マーク・トウェイン]]は[[1883年]]の「ミシシッピ河の生活」では、ユダヤ店主は不要なものも無知な黒人夫婦につけで売りつけて、生活が苦しくなった黒人は去るという、ユダヤ商人に手こずる話を書いた<ref name="kono231-262">[[#河野 2001]],p.231-262.</ref>。1878年から1900年までヨーロッパに滞在したトウェインは、ユダヤ知識人とも交歓したため、反ユダヤ新聞はトウェインをユダヤ人贔屓として非難した<ref name="kono231-262"/>。「ハーパーズ」1899年6月号に発表した「ユダヤ人に関して」でユダヤ人の家庭は模範的で暴力犯罪も稀であるが、ただし、詐欺、高利貸し、保険金目当ての放火などで信用を落とす一面もあり、公務員としては優秀だが、兵士として馳せ参ずるのをためらいがちで愛国心が少ないとした<ref name="kono231-262"/>。トウェインは、ユダヤ人の優秀な頭脳と金への崇拝が他民族から憎悪される原因であるとし、古代エジプト宰相のユダヤ人[[ヨセフ (ヤコブの子)|ヨセフ]]が飢饉に際して国民の財産をパンと交換に買い占めた経済的手腕こそ反ユダヤ主義の淵源であるとした<ref name="kono231-262"/>。
 
 
 
==== 反カトリック、「人種のるつぼ」====
 
清教徒を国民的伝統とする[[アメリカ合衆国]]では憎悪のはけ口がユダヤ人よりも[[カトリック教徒]]に対して向けられていた<ref name="po-4-288-295">[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.288-295.</ref>。[[アイルランド]]のカトリック教徒はローマ教会の扇動で陰謀を企てているとさかんに告発され、1834年には[[チャールズタウン (ボストン)|ボストンのチャールズタウン]]でのプロテスタント暴徒が[[聖ウルスラ#聖ウルスラ修道会|聖ウルスラ女子修道会]]に放火し([[:en:Ursuline Convent riots|聖ウルスラ修道会暴動事件]])、1836年の『マリア・マンクの暴露話』では[[モントリオール]]のカトリック修道院での司祭による修道女への[[性的虐待]]と[[子殺し]]が告発されるなど<ref>Maria Monk,The Awful disclosures of Maria Monk,The Hidden Secrets of a Nun’s Life in a Convent Exposed (1836) </ref>、反カトリック運動が盛り上がった<ref name="po-4-288-295"/>。1850年代には反カトリック政党[[ノウ・ナッシング]]が結成され、デイゴー(Dago)と呼ばれたイタリア人カトリック移民はカインの印を刻まれた生来の犯罪者とされ、1890年代には[[私刑|リンチ]]を受けた<ref name="po-4-288-295"/>。
 
 
 
作家ジョン・ヘクターは『アメリカ農民の手紙』(1782)でアメリカ人を「全民族が融合した新しい人種」とし、この新人種は世界を変えるだろうと述べた<ref>J. Hector St. John de Crèvecœur,Letters from an American Farmer,1782."Here individuals of all nations are melted into a new race of men, whose labors and posterity will one day cause great changes in the world."</ref>。19世紀半ば、[[人種のるつぼ|民族のるつぼ(メルティング・ポット)]]が米国の原則として明確化すると、思想家[[ラルフ・ワルド・エマーソン|エマーソン]]や作家[[ハーマン・メルヴィル|メルヴィル]]は民族混合の利点を主張した<ref name="po-4-288-295"/>。ダーウィンは移民は自然淘汰から生まれた優秀な産物であるとし、スペンサーは1882年に移住と混合は優れた民族を生み出すとアメリカで述べた<ref name="po-4-288-295"/>。チェスタトンは、アメリカでは反ユダヤ主義は禁止されており、アメリカの愛国主義はあらゆる人の同化を誇りにすることであると述べている<ref name="po-4-288-295"/>。しかし、ドイツ系ユダヤ人の哲学者ホレス・カレンは[[1915年]]にメルティング・ポットによる同化主義を否定して、「人々は衣服、政治、妻、宗教、哲学を程度の違いはあれ変えることができる。しかしながら、彼らはその祖父を変えることはできない」として、人々は[[エスニシティ]]を生涯変えることはできないと論じた<ref>ホレス・カレン「民主主義対メルティング・ポット」,Horace M. Kallen,Democracy Versus the Melting-Pot, Nation,Feb.18,25,1915.</ref><ref>[[#村井忠政2|村井忠政(2)]],p.5-8.</ref>。またカレンは、1928年の「反セム主義のルーツ」では、キリスト教国家は反セム主義を普遍的準則としてしまうと論じた<ref>Horace M. Kallen,The roots of Anti-semitism,The Nation,28 Feb.,1928.</ref><ref name="po-4-311-320"/>。
 
 
 
==== 「成り上がり者」のユダヤ人 ====
 
[[File:Grant E., Hamilton, Their New Jerusalem, 1892 Cornell CUL PJM 1111 01.jpg|サムネイル|[[カートゥーン]]([[1892年]])。「我慢と産業」と書かれた紙を持つ男が西を見ている。東のロシアからユダヤ難民が殺到して、[[ニューヨーク]]が「[[新しいエルサレム|ニューエルサレム(新しいエルサレム)]]」になり、[[オッペンハイマー]]、[[コーヘン]]、[[レヴィ]]、[[スタインバーグ (曖昧さ回避)|スタインバーグ]]などの[[ユダヤ人の姓名]]が並ぶユダヤ資本による経済支配を描いた。]]
 
[[File:18960415 antisemitic political cartoon in Sound Money.jpg|サムネイル|[[1896年アメリカ合衆国大統領選挙]]での反ユダヤ[[カートゥーン]]。"歴史は繰り返す". "これがユダヤの手にあるUSAだ"として[[アンクル・サム]]が十字架にかけられ、左側の鉤鼻の「[[ウォール街]]の海賊」が「債務」の壺から「利息」という毒を飲ませようとしている。右側の鉤鼻の男は「[[金本位制]]」という槍で突いている。[[共和党 (アメリカ)|共和党]]を表す「[[共和主義]]」と、[[民主党 (アメリカ)|民主党]]を表す「[[民主主義]]」がアンクル・サムのポケットから[[金貨]]と[[銀貨]]を盗んでいる。<!--キャプションでは[[ジェイムズ・G・ブレイン]]と[[グロバー・クリーブランド]]と解説されているが、[[1884年アメリカ合衆国大統領選挙]]である。-->]]
 
 
 
[[1840年]]にアメリカのユダヤ人口は15000人ほどであったが、ドイツのユダヤ人が大量に移住して、[[1880年]]には30万人となった<ref name="po-4-288-295"/>。[[ジーンズ]]の創始者[[リーヴァイ・ストラウス]]もドイツ系ユダヤ人移民であった<ref name="po-4-288-295"/>。ドイツ系ユダヤ人の半数は実業家で、20人中1人が知的職業につき、行商人は100人中1人だった<ref name="kono150-164"/>。ユダヤ人はアイルランド人やイタリア人移民と比べると短期間に裕福になったため、「成り上がり者」というイメージが現実味を帯びた<ref name="po-4-288-295"/>。また、ヤンキー行商人はいかさま師で、嘘つきの詐欺師という点ではユダヤ人と相通じるというヨーロッパでの常套句も見られた<ref name="po-4-288-295"/>。
 
 
 
[[1876年]]、ニュージャージー沿岸地方のホテルでユダヤ人お断りという広告を発表した<ref name="po-4-288-295"/>。1877年には[[サラトガ・スプリングズ|サラトガ]]のホテル業者ヒルトン<ref>Judge Henry Hilton</ref>が「ユダヤ人と犬の立ち入り禁止」を入り口に貼り、実際に大富豪ジョーゼフ・セリグマンをユダヤ人であるため入館させなかった<ref name="kono150-164"/>。[[ニューヨーク・タイムズ]]は1877年6月19日「サラトガ大事件」として報道し、ユダヤ人富豪はサラトガのホテルをいくつも買収して、その相剋の結果、ニューヨーク近隣の夏季保養地が「キリスト教徒の保養地」と「ユダヤ人の保養地」に二分された<ref name="po-4-288-295"/>。
 
 
 
世紀末に東欧出身のユダヤ人が大量に移住してくると、ドイツ系ユダヤ人が東欧出身の新移民ユダヤ人の退去を1882年のボストンで要求するようなこともおこった<ref name="kono206-230"/>。[[アメリカ合衆国上院|連邦上院]]議員[[ヘンリー・カボット・ロッジ|ヘンリー・キャボット・ロッジ]]は東欧ユダヤ人は劣等であるとした<ref name="kono206-230"/>。1890年から1914年までに1651万6081人の移民がアメリカに入国し、そのうちユダヤ人は169万人4842人にのぼった<ref name="kono206-230"/>。
 
 
 
[[1896年アメリカ合衆国大統領選挙|1896年大統領選挙]]での[[民主党 (アメリカ)|民主党]]候補[[ウィリアム・ジェニングス・ブライアン]]は「金の十字架」演説で、ユダヤ人がキリストを裏切ったのと同様に、大資本は金で農民を裏切るとした<ref name="kono206-230">[[#河野 2001]],p.206-230.</ref>。また、銀貨の無制限鋳造(フリーシルバー)を主張した1895年の文書では、世界の金の半分はロスチャイルド家が所有し、残り半分のほとんどもロスチャイルド家の衛星機関が握っているとした<ref name="kono206-230"/>。
 
 
 
他方、[[1896年]]の共和党大会ではプロテスタントとカトリックの緊張関係によってユダヤ教ラビが開会の祈祷を唱えたが、このように三宗派が同等のものとされることは当時のヨーロッパ諸国では見られないものであった<ref name="po-4-288-295"/>。
 
 
 
== 20世紀の反ユダヤ主義 ==
 
=== 20世紀イギリス ===
 
1880年代以降ロシアのポグロムから避難した250万人の東欧ユダヤ人は西欧諸国に殺到し、ロンドンだけでも[[1883年]]に4万7千だったユダヤ人人口は[[1905年]]に15万に膨れ上がり、各地方都市でも流入がすすみ、1880年に6万5千人だった在英ユダヤ人は1905年までに3倍以上になった<ref name="kono51-54"/>。ロンドンの[[スラム]][[ホワイトチャペル]]スターニー地区には東欧からのユダヤ人移民が10万人以上入植し、[[ステップニー]]地区の司祭はユダヤ貧民集団がキリスト教徒を追い出そうとしていると非難した<ref name="po-4-248-259"/>。[[第一次世界大戦]]時には[[タイムズ]]紙がこの地区にユダヤ人が国家内国家を形成していると批判した<ref name="po-4-248-259"/>。
 
 
 
ドレフェス事件に際してはイギリスでもイエズス会士が反ユダヤ的な新聞記事を掲載した<ref name="po-4-248-259">[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.248-259.</ref>。
 
 
 
イギリスの社会主義者で[[フェビアン協会]][[シドニー・ウェッブ]]は、イギリス人は多数の家庭が産児制限をしている一方で、カトリック系のアイルランド人やポーランド人、ロシア人、ドイツ系のユダヤ人たちが制約もなく子どもを産み続けているが、これはイギリスの国民的な衰退をもたらすとした<ref name="hrd2006"/><ref>ケブルズ『優生学の名のもとに―「人類改良」の悪夢の百年』朝日新聞 (1993/09),p.132.</ref>
 
 
 
[[ジェームズ・マレー]](1837年 - 1915年)が編集した『[[オックスフォード英語辞典]]』で「ユダヤ人」では侮蔑の意味があり、「強欲、高利貸し、狡猾な商売人」を意味すると定義された<ref name="po-1-UK"/>。
 
 
 
イギリス王[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]](在位:1901 - 1910年)はドイツ出身のユダヤ人銀行家[[アーネスト・カッセル]]を腹心として、カッセルはドイツ皇帝のユダヤ人側近アルベルト・バリン(Albert Ballin)と[[ホットライン]]を築いたが、イギリス上流界では反発を買った<ref name="po-4-248-259"/>。[[青年トルコ人革命]]の後の[[1911年]]に[[オスマン帝国]]再建のためにカッセルが招かれると、トルコ革命はユダヤ人とフリーメイソンの陰謀だと青年トルコに敵対するイスラム教徒が主張し、[[タイムズ]]紙やモーニングポスト紙も報道した<ref name="po-4-248-259"/>。ただし、デンメーなどユダヤ教徒が青年トルコ人革命に加担したことは事実である<ref name="po-4-248-259"/>。
 
 
 
ユダヤ人の[[自由党 (イギリス)|自由党]]議員[[ルーファス・アイザックス (初代レディング侯爵)|ルーファス・アイザックス]]は[[デビッド・ロイド・ジョージ]]の腹心として活躍し、ユダヤ教徒[[ハーバート・サミュエル (初代サミュエル子爵)|ハーバート・サミュエル]]が[[ハーバート・ヘンリー・アスキス|アスキス]]内閣で非キリスト教徒として史上初めて入閣すると、反発を買い、[[1912年]]にはユダヤ人が結託したという疑惑のマルコーニ事件が発生したが、国会調査で嫌疑は晴れた<ref name="po-4-248-259"/>。カトリック作家[[ギルバート・キース・チェスタトン|チェスタトン]]はマルコーニ事件がイギリス史の分水嶺であるとした<ref name="po-4-248-259"/>。1913年には[[ラドヤード・キップリング]]が「イスラエルの[[士師]]、雪のごとき白き癩病者」と詩で書いた<ref>「Gehazi,Judge in Israel, A leper white as snow」</ref><ref name="po-4-248-259"/>。
 
 
 
[[ハーバート・ヘンリー・アスキス]]首相(在任期間1908 - 1916年)は反シオニストで、シオニストを[[人種差別|人種差別主義者]]であると非難した<ref name="po-4-248-259"/>。
 
 
 
植民地大臣[[ジョゼフ・チェンバレン]]は、イタリアのユダヤ系外務大臣シドネイ・ソニーノに対して、卑怯なユダヤ人は自分が唯一軽蔑する人種だと発言した<ref name="po-4-248-259"/>。
 
 
 
==== 第一次世界大戦とイギリスの反ユダヤ主義 ====
 
イギリスでは、[[第一次世界大戦]]中に反ユダヤ主義が盛り上がった<ref name="po-4-248-259"/>。
 
 
 
[[1914年]]11月にイギリス外交官セシル・スプリング=ライス(Cecil Spring Rice)はアメリカで大銀行家[[ジョン・モルガン]]の死以来、ユダヤ人銀行家がはびこり、[[M・M・ヴァールブルク&CO|ウォーバーグ家]]のポール・ウォーバーグが[[連邦準備制度]]理事となり、ユダヤ人が[[アメリカ合衆国財務省]]や有力な新聞を掌握したと本国へ報告した<ref name="po-4-248-259"/>。この他、銀行家[[ベルンハルト・デルンブルク]]や[[ジェイコブ・シフ]]、ユダヤ系財閥[[クーン・ローブ]]などのユダヤ-ドイツ系銀行家などへの警戒も行った<ref name="po-4-248-259"/>。[[1917年]]、[[ウッドロウ・ウィルソン]]大統領の盟友であった[[シオニスト]]の[[ルイス・ブランダイス]]に対してスプリング=ライスは、国際ユダヤ組織が各地で革命派を支援していると非難した<ref name="po-4-248-259"/>。スプリング=ライスは1918年、ロシア革命もトルコ革命もユダヤ人の陰謀とみて、イギリスにいるドイツ系ユダヤ人への警戒を呼びかけた<ref name="po-4-248-259"/>。
 
 
 
[[1915年]][[5月7日]]に[[ドイツ海軍]]の[[潜水艦]]により、[[ルシタニア (客船)|ルシタニア号]]が沈没して、乗客1,198名が死亡すると、イギリスではヴァレンタイン・チロルがこの戦争犯罪をドイツ系ユダヤ人のアルベルト・バリン個人の責任として、またドイツ出身のユダヤ人銀行家[[アーネスト・カッセル]]からイギリス国籍を剥奪する反ユダヤキャンペーンも行われ、暴徒が外国人商店を襲撃した<ref name="po-4-248-259"/>。ユダヤ系新聞は、[[タイムズ]]紙はユダヤ人を敵国のドイツ人呼ばわりしていると批判した<ref name="po-4-248-259"/>。また、外国籍住民はイギリス軍への入隊が許可されなかったが、『[[デイリー・メール]]』紙は「国の蓄えを食い荒らすロシアの黄色いユダヤ人」は軍務忌避していると批判し、ザ・クラリオン紙はプロイセン人とユダヤ人は不毛な土地の盗賊と非難した<ref name="po-4-248-259"/>。
 
 
 
[[1916年]][[5月16日]]、フランスとの[[サイクス・ピコ協定]]で、[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相(在任期間1916 - 1922年)は[[パレスチナ]]の偉大さを取り戻すとして、[[パレスチナ]]を[[イギリス委任統治領パレスチナ|イギリス委任統治領]]とした<ref name="po-4-248-259"/>。[[サイクス・ピコ協定]]の原案を作成したマーク・サイクスは反ユダヤ主義であったが、[[シオニズム]]を支持した<ref name="po-4-248-259"/>。
 
 
 
[[1916年]]6月、ロシアに向かう[[ホレイショ・ハーバート・キッチナー|キッチナー卿]]を乗せた船艦が魚雷攻撃で沈没すると、リーオウ・マクシーは国際ユダヤ人がドイツに情報を提供したと論じた<ref name="po-4-248-259"/>。
 
 
 
==== ロシア革命とイギリスの反ユダヤ主義 ====
 
[[File:BritishInterventionPoster.jpg|250px|thumb|[[ロシア内戦]]に干渉した時にロシアで配布されたイギリスのプロパガンダポスター。「血に飢えた赤い怪物」であるボルシェヴィズムと戦うために武器や必要な物品を提供すると書かれている。]]
 
第一次世界大戦中に[[ロシア革命]]が起きると、さらにイギリスでの反ユダヤ主義が強まっていった。[[ヒレア・ベロック]]によれば、イギリスで明け透けの反ユダヤ主義が台頭したのはロシア革命を契機としてであり、ボリシェビズムは本質的にユダヤ的なものであるとし、出自を隠そうとするユダヤ人は立場を悪くするだけだと批判した<ref name="p-4-260-6">[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.260-6.</ref>。
 
 
 
[[1917年]]春、タイムズ記者ウィルトンは、[[ロシア革命]]でユダヤ人学生がエストニアのユーリエフで義勇軍を結成し、多くの財が破壊されたと報道し、1919年にはモスクワでボルシェビキが[[イスカリオテのユダ]]記念碑が建立されたと報道した<ref name="p-4-260-6"/>。モーニングポスト紙のマーズデン記者はロシアで囚われた際にユダヤ人が拷問係であったし、ロシアの破壊者はユダヤ人だと証言し、『シオンの賢者の議定書』という証拠もあると述べた<ref name="p-4-260-6"/>。
 
 
 
1917年[[七月蜂起]]での[[アレクサンドル・ケレンスキー|ケレンスキー政権]]の声明に対して、[[タイムズ]]は「ペトログラードのソヴィエトは、国際ユダヤ人によって構成されている」と報じ、作家[[ギルバート・キース・チェスタトン]]は10月に、もしペトログラードのようにロンドンでも人々に教えをふりまこうとするならば、ユダヤ人が我々に対して支配権をふるうことだけは我々は断じて許容しないと忠告した<ref name="p-4-260-6"/>。
 
 
 
[[1917年]][[11月2日]]、[[イギリス]]の[[外務・英連邦大臣|外務大臣]][[アーサー・バルフォア]]が、ユダヤ系[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員[[ウォルター・ロスチャイルド (第2代ロスチャイルド男爵)|ウォルター・ロスチャイルド]]に対して[[シオニズム]]の支持を表明した([[バルフォア宣言]])。バルフォアは、キリスト教はユダヤ教に借財があると考えていた<ref name="po-4-248-259"/>。
 
 
 
[[タイムズ]]紙は1917年11月23日にレーニンたちはドイツから革命資金を得た、ドイツ系ユダヤ人の血を引く山師であると報道した<ref name="po-4-217-247"/>。
 
 
 
1917年12月にレーニンとスターリンがインドでの共産主義革命を扇動すると、大英帝国はあらゆる手段を用いて防いだ<ref name="po-4-267-287">[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.267-287.</ref>。
 
 
 
[[1918年]]、冊子『ユダヤ人に踏みつけにされたイギリス』ではロシアとルーマニアを裏切ったドイツ皇帝の工作員のトロツキーとレーニンの指示で、ユダヤ人がイギリスを汚染していると主張された<ref>England under the Heel of the jew,A tale of two books,1918.[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.265.</ref>。
 
 
 
ロシア革命以後、イギリスはモスクワのボルシェビキ政府打倒のための行動を起こして、1918年夏にはロシアに反ユダヤのビラを飛行機で散布した<ref name="po-4-267-287"/>。イギリス政府が刊行した『ロシアにおけるボリシェヴィズム:皇帝陛下の命による大英帝国国家に提出された報告書』では、ロシアにおけるボリシェヴィズムはドイツのプロパガンダの産物であり、国際ユダヤ人に指揮されており、ユダヤ人が企業の大部分を手中に収めると見るも無残な飢餓が日常化し、1918年10月には女性の国有化がほぼ完成していたというロシア駐留イギリス海軍付き牧師B.S.ロンバードの証言も採録された<ref>Bolshevism in Russia,A collection of Reports presented to the Parliament of Great Britain by command of his Majesty,1919.([https://archive.org/stream/cu31924028404519/cu31924028404519_djvu.txt A collection of reports on bolshevism in Russia],LONDON,PUBLISHED BY HIS MAJESTY'S STATIONERY OFFICE. </ref><ref name="po-4-267-287"/>。
 
 
 
[[File:Alfred Harmsworth, 1st Viscount Northcliffe - Project Gutenberg eText 15305.jpg|160px|サムネイル|[[アルフレッド・ハームズワース (初代ノースクリフ子爵)|ハームズワース・ノースクリフ子爵]]は『[[デイリー・メール]]』『[[タイムズ]]』『[[オブザーバー (イギリスの新聞)|オブザーバー]]』の社主であり、『[[デイリー・メール]]』『[[タイムズ]]』ではロシア革命後、[[ボルシェヴィキ]]と国際ユダヤ人の陰謀を主張した<ref name="po-4-267-287"/>。]]
 
 
 
[[1919年]]1月から9月までの[[パリ講和会議]]で[[ウッドロウ・ウィルソン|ウィルソン]]米大統領とロイド・ジョージ英首相が、トルコのプリンキポ諸島で白軍と赤軍を招いて会議を開催すると提案し、ロシアのボリシェヴィキ体制を承認する姿勢を見せると、[[アルフレッド・ハームズワース (初代ノースクリフ子爵)|ノースクリフ卿ハームズワース]]が社主の[[タイムズ]]紙はニューヨークのユダヤ人金融業者に吹き込まれたものと憤慨し、シベリアにいたノックス将軍も抗議した<ref name="po-4-267-287"/>。タイムズ紙主幹ウィッカム・スティードがパリの『[[デイリー・メール]]』紙でボリシェヴィキは西洋文明の基礎を公然と覆す無法者であると主張すると、スティードはウィルソン米大統領腹心のハウス大佐から呼び出されたため、米国がボリシェヴィキを承認してしまったらヨーロッパでのボリシェヴィキの台頭をくい止めることはできなくなり、そうなるとウィルソン米大統領も信用を失い、国際連盟も瓦解すると諭し、プリンキポ諸島会議計画は、シフ、ウォーバーグたち国際金融業者であると語った<ref name="po-4-267-287"/>。この対談が英米首脳にボリシェヴィキ体制を承認するのを思いとどまらせたとされる<ref name="po-4-267-287"/>。[[アルフレッド・ハームズワース (初代ノースクリフ子爵)|ノースクリフ卿ハームズワース]]は、ロイド・ジョージ首相がシオニストのメルチェット卿アルフレッド・モンド(Alfred Moritz Mond)の政策を採用したことを攻撃していた<ref name="po-4-267-287"/>。
 
 
 
[[File:Lionel Nathan de Rothschild (1882-1942).jpg|160px|サムネイル|[[ライオネル・ネイサン・ド・ロスチャイルド|ライオネル・ロスチャイルド]]]]
 
モーニングポスト紙がイギリスのユダヤ人は共産主義から距離を置いていることを公示すべきであると訴えると、モナッシュ将軍、[[ライオネル・ネイサン・ド・ロスチャイルド|ライオネル・ロスチャイルド]]など著名なユダヤ人が共産主義とシオニズムを否定して要求に応えた<ref name="po-4-267-287"/>。
 
 
 
[[File:ChurchillGeorge0001.jpg|サムネイル|160px|1907年の[[ロイド・ジョージ]](左)と[[ウィンストン・チャーチル]](右)]]
 
[[1919年]][[11月5日]]、[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]はイギリス国会のロシア白軍への物資援助予算審議においてレーニンはチフス菌を都市の貯水槽に流し込むようにしてロシアに送り込まれ、またニューヨーク、グラスゴー、ベルンなどに潜む革命家を指揮するなど、悪魔的なまでに器用であると演説し、また[[1920年]][[1月3日]]には社会主義者は全ての宗教を破壊しようとしており、ロシアとポーランドのユダヤ人が作り出す国際ソビエトに信を寄せていると演説した<ref name="po-4-267-287"/>。チャーチルは[[1920年]][[2月8日]]にサンデイヘラルド紙上の『シオニズム対ボルシェヴィズム:ユダヤ民族の魂のための闘争』で、ユダヤ人には祖国を再建しようとしているシオニストがいて、国際ユダヤ人がいる。国際ユダヤ人の運動は、「[[スパルタクス]]」と呼ばれたアダム・ヴァイスハウプト(Adam Weishaupt)は[[イルミナティ]]を結成してフランス革命の悲劇をもたらしたほか<ref>ハウエル・アーサー・グウィン,[https://archive.org/stream/causeofworldunre00newyiala#page/n41/mode/2up The Cause of the World unrest,With an Introduction by THE EDITOR OF "THE MORNING POST"(Howell Arthur Gwynne)],G.P.PUTNAM'S SONS,1920.p.13.でもAbbe Barruel (Augustin Barruel)とWebster夫人の説として紹介されている。</ref>、マルクス、トロツキー、ハンガリーの[[クン・ベーラ]]、ドイツの[[ローザ・ルクセンブルク]]、米国の[[エマ・ゴールドマン]]まで世界中で共謀しており、さらにテロリストで無神論のユダヤ人は実際にロシア革命を実行し、[[ハンガリー評議会共和国]]や[[バイエルン・レーテ共和国]]を築き恐怖をもたらしたが、大英帝国臣民であるユダヤ人国民は他のイギリス臣民のようにロシアの陰謀と戦うべきだし、ボルシェヴィズムはユダヤ人の運動ではないと明らかにすべきで、またパレスチナにユダヤ人国家を早急に建設すれば、不幸なヨーロッパからの避難所となり、ユダヤ教の栄光ある教会となる、と新聞で論じた<ref>Churchill,ZIONISM versus BOLSHEVISM.A STRUGGLE FOR THE SOUL OF THE JEWISH PEOPLE,Illustrated Sunday Herald (London), February 8, 1920, pg. 5.</ref><ref name="po-4-267-287"/>。一方で、[[オスカー・ワイルド]]の恋人だった[[アルフレッド・ダグラス]]卿はチャーチルをシオン賢者の工作員として告発した<ref name="po-4-267-287"/>。
 
 
 
[[1919年]][[11月27日]]タイムズ紙はヴェラックス署名の社説で、ユダヤ人は選民意識を持った人種であり、ユダヤ人はモーセの掟に忠実で、人に赦しを与えようとせず、ロシアへの仇討ちはユダヤ人にとって甘美なる喜びであったと主張された<ref name="po-4-267-287"/>。
 
 
 
[[1920年]]、モーニングポスト紙編集者ハウエル・アーサー・グウィンが序文を書いた『世界の不穏の原因』でも「シオン賢者」と「ユダヤ禍」が主張された<ref>[https://archive.org/stream/causeofworldunre00newyiala#page/n41/mode/2up The Cause of the World unrest,With an Introduction by THE EDITOR OF "THE MORNING POST"(Howell Arthur Gwynne)],G.P.PUTNAM'S SONS,1920.</ref><ref name="po-4-267-287"/>。
 
 
 
[[1920年]]4月、ロイド・ジョージ首相とボルシェビキとの交渉が実現し、レオニード・クラシンが非公式にロンドンに招待されると、5月8日のタイムズは「ユダヤ禍」記事で『シオン賢者の議定書』を引き写して、ダビデの世界帝国を樹立しようとしている陰謀家との交渉として批判した<ref name="po-4-267-287"/>。タイムズ記事では『シオン議定書』が偽書であるならば、この恐ろしいまでの予言の才をいかに説明したらいいのか、イギリスがパックス・ゲルマニカ(ゲルマンの平和)を防いだのは、パックス・イウダーイカ(ユダヤの平和)のためだったのか、と書いた<ref name="po-4-267-287"/>。5月31日にクラシンとロイド・ジョージ首相の面会が実現した<ref name="po-4-267-287"/>。
 
 
 
スペイクテイター紙は1920年[[5月15日]]に議定書は半狂乱のユダヤ人陰謀家が作者であるが、ユダヤ人は見境を失った瞑想をするオリエントの民族であるので他のユダヤ人も秘密裏に議定書の見方を持つことはありえるとし、7月17日には真のユダヤ禍とはユダヤによる世界一極支配の陰謀とは無関係であり、普通のユダヤ人が内閣に加わっていることが良き政府の原則に背馳する、10月9日にはユダヤ人は危険因子で国際争乱の源泉とし、10月16日にはユダヤ人への市民権授与には慎重であるべきで「社会のペスト」であるユダヤ人陰謀家の醜い仮面を剥ぎ取ろうと呼びかけた<ref name="po-4-267-287"/>。
 
 
 
[[1921年]][[1月16日]]、在英ユダヤ人代表団(Board od deputies of British Jews)は反ユダヤ主義批判の声明を出したが、ウィルソン、ハーディング、ルーズヴェルト、タフトら米国歴代大統領、銀行家モーガンなど、アメリカ人の著名人が名を連ねた<ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.279,329-330.</ref>。
 
 
 
[[タイムズ]]紙は[[1921年]]8月16・17・18日にフィリップ・グレイヴス記者による「議定書の終焉」記事を掲載し、タイムズ紙は以後、『シオン賢者の議定書』を情報源として使用しなくなった<ref name="po-4-267-287"/>。
 
 
 
==== 戦間期イギリスの反ユダヤ主義 ====
 
イギリスに帰化した詩人[[T・S・エリオット]]は『ゲロンチョン』(1920)で「わたしの家はぼろ家です。おまけに主は窓の敷居に蹲るユダヤ人」が「どんよりしたどんぐり眼のまなざしが[[原生動物]]の粘泥のなかから[[カナレット]]の透視画を凝視している」、「積荷の下にはネズミばかり、せり売り台の下にはユダヤ人」と書いた<ref name="kono71-95"/>。エリオットはカトリックによる文化統一を主張し、「異神を追いて」では国民は同種族でなければならず、自由思想のユダヤ人が混じるのは好ましくないとして、極端な寛容は排すべきだとした<ref name="kono71-95"/>。1940年にエリオットは自分は反ユダヤ主義者ではないし、人種的な偏見は持っていないが、自らの信仰から遊離したユダヤ人は危険であり無責任であると述べた<ref name="kono71-95"/>。他方、作家[[ジェイムズ・ジョイス]]は「彷徨えるユダヤ人」の系列につながる『[[ユリシーズ]]』(1922)で、妻と結婚するためにカトリックに改宗したユダヤ人主人公ブルームを描き、作中でタルムードからの影響や、イギリスがユダヤ人に支配されているという校長に対して反論するスティーブンを描いた<ref name="kono98-120"/>。
 
 
 
[[1922年]]、[[ジョン・ゴールズワージー]]は戯曲『忠義』で金持ちで不遜なユダヤ人の失墜を描いた<ref name="po-4-267-287"/><ref>John Galsworthy,Loyalties,1922.</ref>。カトリック作家[[ヒレア・ベロック]]は『ユダヤ人』(1922年)でユダヤ人問題は恐るべき結末を迎えようとしているが、文明の未来を脅威にさらすことを防ぐにはユダヤ人が隔離政策を受け入れることだと論じた<ref>Hilaire Belloc,[https://archive.org/details/jewsbello00belluoft The Jews], London:Constable.ヒレア・ベロック、[[渡部昇一]]監修,‎[[中山理]]訳『ユダヤ人 なぜ、摩擦が生まれるのか』祥伝社 (2016/9/2)</ref><ref name="po-4-267-287"/>。[[聖公会]]牧師ウィリアム・ラルフ・イングは、イギリスでユダヤ人問題など見聞した覚えはないし、イギリスは世界最良のユダヤ人を獲得したにすぎず、一人の人間を個人の価値において遇し、移民だからという理由で処罰することは断じてない、またチェンバレンはイエスをドイツ人としたがイエスはユダヤ人であるとベロックを批判した<ref name="po-4-267-287"/>。
 
 
 
作家[[ジョージ・オーウェル]]は、『パリロンドンで落ちぶれて』(1933)で、ユダヤ人古物商を不愉快な男として描き、またユダヤ人詐欺師についても描いた<ref name="kono120-142">[[#河野 2001]],p.120-142.</ref>。1931年8月の「ホップを摘む」では、いつも豚にようにがつがつしていているユダヤ人の少年の顔は「腐肉にたかる卑しい獣を思い起こさせる」と書き、「空気を求めて」(1939)では講演会に参加しているトロツキストを「抜け目ない顔つき、もちろんユダヤ人だ」と書いた<ref name="kono120-142"/>。1940年10月25日の日記では、[[ザ・ブリッツ|ロンドン空襲]]時に地下鉄に避難したユダヤ人について「ことさら自分から目立とうとする」「こわい顔をしたユダヤ人の女」が、列車から降りるのに邪魔な人を誰彼なく打擲していると書いた<ref name="kono120-142"/>。[[1942年]][[1月1日]]のロンドン通信では、イギリスの反ユダヤ主義はドイツの反ユダヤ主義ほど暴力的ではないと書いた。<ref name="kono120-142"/>。第二次世界大戦後のオーウェルについては[[#現代のイギリス]]を参照。
 
 
 
=== イギリス委任統治領パレスチナと反シオニズム ===
 
{{Main|イギリス委任統治領パレスチナ|パレスチナ問題}}
 
[[イギリス帝国]]は第一次世界大戦の[[中東戦域 (第一次世界大戦)|中東戦域]]で[[オスマン帝国]]に勝利すると、[[パレスチナ]]を占領した。このパレスチナ作戦には、シオニストの[[ゼエヴ・ジャボチンスキー]]も協力した。
 
 
 
フランスには反シオニストがいて、反シオニストのユダヤ人もいた。[[1917年]]4月にイギリス軍が[[ガザ]]を占領すると、ユダヤ系フランス人のジョゼフ・レナックはガザ地区でのフランスの権利を強調し、シオニズムを「考古学的夢想」と称した<ref name="po-4-372-386">[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.372-386.</ref>。また[[1919年]]の[[パリ講和会議|パリ平和会議]]で、世界イスラリエット連名会長の[[シルヴァン・レヴィ]]は、近東にボリシェビキ的アナーキズムの危険が迫っているし、西洋諸国ではユダヤ人の二重国籍問題があるのに対して、パレスチナのユダヤ人だけに特権と例外的状況を要求するのは容認できないとシオニズムを批判した<ref name="po-4-372-386"/>。レヴィは、自分の国で市民権を行使している者が他国でも同じように権利を行使するように説きすすめることは由々しき前例になるとも述べた<ref name="po-4-372-386"/>。
 
 
 
イギリスが主導したシオニズムとパレスチナ問題についてカトリック側は反発した。教皇[[ベネディクトゥス15世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス15世]]は[[1919年]][[3月10日]]の枢機卿会議で、先人のキリスト教徒たちが異教徒の軛から解き放つ努力をしてきた土地をユダヤ人に提供することに怒りを表明した<ref name="po-4-372-386"/>。教皇の言葉は『チヴィルタ・カットーリカ』紙によって、聖地が「神殺しの民」「キリスト教文明の敵」の手に落ちようとしていると報じた<ref name="po-4-372-386"/>。ローマ・カトリックにとってシオニストのユダヤ人とプロテスタントのイギリス人は種類の違う「異教徒」であった<ref name="po-4-372-386"/>。フランスのカトリック司祭エルネスト・ジュアンは『秘密結社国際評論』で『シオン議定書』を紹介し、パレスチナがフランスからイギリスの手に渡り、ユダヤ人の手に渡ろうとしていることは背信行為であると述べた<ref>Ernest Jouin,Revue internationale des sociétés secrètes.</ref><ref name="po-4-372-386"/>。ジュアン司祭の協力者オリコストはエルサレムはユダヤ人による世界征服の要塞となるとした<ref name="po-4-372-386"/>。
 
 
 
[[1918年]][[11月27日]]、「バイエルン急報」は、ドイツに勝利したのは、フランスでもイギリスでもアメリカでもなく、ユダヤ人だと主張した<ref name="po-4-372-386"/>。この「バイエルン急報」記事は、『リーブル・パロール』でも紹介された<ref name="po-4-372-386"/>。
 
 
 
[[シャルル・モーラス|モーラス]]は、パレスチナをユダヤ人に与えたのは、ロイド・ジョージ英首相ではなく、[[アリスティード・ブリアン|ブリアン]]フランス首相であり、ブリアン首相は[[十月革命]]ももたらしたと1922年1月に述べた<ref name="po-4-372-386"/>。
 
 
 
『ドキュメンタシオン・カトリック』紙は、[[1919年]][[3月29日]]にユダヤ人は王国を再建しようとしているとし、[[1920年]][[1月31日]]にはユダヤ教の政治的支配に対抗してキリスト教徒はイスラム教徒と連帯する必要があると主張した<ref name="po-4-372-386"/>。また同紙は[[1920年]][[3月6日]]の「ユダヤ人は国際ボルシェビズムの扇動者」記事で『シオン賢者の議定書』を信憑性は保証すると紹介した<ref>Les Juifs sont les principaux fauteurs du bolchevisme universel,La Documentation catholique,6 mars 1920.</ref><ref name="po-4-362-370"/>。ポリアコフは、反シオニズムは1948年の[[中東戦争]]以降のものと受け止められることが多いが、このように第一次世界大戦直後からフランスの反シオニズムは存在していたと指摘している<ref name="po-4-372-386"/>。
 
 
 
[[1921年]]2月の[[第一次世界大戦の賠償]]を決定するロンドン会議では、[[イギリス委任統治領パレスチナ]]問題についてフランスのジュール・カンボンは、聖地エルサレムは15世紀以来フランスの手中にあったし、ローマ教皇もそのことを承認してきたと述べた<ref name="po-4-372-386"/>。フランス代表フィリップ・ベルトロ(Philippe Berthelot)はシオニストはあたかも自分たちが大国代表団のように振る舞っているが、シオニストの大多数は自称ユダヤ人であり、ユダヤ人の血を宿していないと述べた<ref name="po-4-372-386"/>。
 
 
 
[[1922年]][[7月24日]]には[[国際連盟]]で[[イギリス委任統治領パレスチナ]]が承認された。高等弁務官にはユダヤ人で1931年に[[自由党 (イギリス)|自由党]]党首にもなった[[ハーバート・サミュエル (初代サミュエル子爵)|ハーバート・サミュエル]]が就いた。
 
 
 
その後、アラブ人・パレスチナ人による反ユダヤ人暴動が度々発生し、[[1929年]]8月の[[嘆きの壁事件]]ではユダヤ人・アラブ人双方が100名以上が犠牲となった。
 
 
 
[[1936年]]、[[世界ユダヤ人会議]]が結成された。同年、[[パレスチナ独立戦争|パレスチナ・アラブ大蜂起(パレスチナ独立戦争)]]が始まり、1939年まで続いた。この大蜂起ではイギリス軍の報復によってアラブ人の犠牲者がユダヤ人、イギリス人よりも上回った。
 
 
 
[[1941年]][[11月28日]]、反シオニストのアラブ人指導者[[アミーン・フサイニー]]がヒトラーと会見し、「ドイツとアラブはイギリス人、ユダヤ人、共産主義者という共通の敵がいる」と述べた<ref>David Kaiser,[http://time.com/4084301/hitler-grand-mufi-1941/ What Hitler and the Grand Mufti Really Said],TIME,October 22, 2015.</ref>。[[パレスチナ問題]]は[[第二次世界大戦]]後も[[中東戦争]]などの結果をもたらしていった。
 
 
 
=== 20世紀アメリカ合衆国 ===
 
==== デューイ事件とアメリカユダヤ人委員会の結成 ====
 
[[1905年]]、ニューヨーク州知事付き図書司書[[メルヴィル・デューイ]]がレイク・プラシード・クラブを設立したが、「伝染病患者、障害者、ユダヤ人」を入会拒否にしていたため、ユダヤ人弁護士ルイス・マーシャルや、銀行家[[ジェイコブ・シフ]]、[[ニューヨーク・タイムズ]]社主アドルフ・オックスらが州当局に抗議した<ref name="po-4-296-310">[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.296-310.</ref>。デューイは解雇され、マーシャル弁護士たちは、[[1906年]]に[[アメリカユダヤ人委員会]](AJC)を結成した<ref name="po-4-296-310"/>。AJCは1907年には、ユダヤ人の入店を断るホテルや娯楽場の宣伝を全米で禁止することに成功した<ref name="po-4-296-310"/>。ロシア政府によるユダヤ系アメリカ人の入国ビザ拒否に対してAJCは、ロシアへの報復を求め、[[1912年]]にはロシアとアメリカの条約撤廃が決議された<ref name="po-4-296-310"/>。しかし、このことによって、ロシアのユダヤ人の境遇は改善しなかっただけでなく、AJC代表の[[ジェイコブ・シフ]]が「ユダヤ金融」の象徴とみなされるようになってしまった<ref name="po-4-296-310"/>。
 
 
 
[[1913年]]、[[レオ・フランク事件]]が起こる。
 
 
 
==== 第一次世界大戦とアメリカ====
 
[[第一次世界大戦]]でアメリカが参戦すると、ドイツ人憎悪が高まり、ドイツ工作員がマッチや蛍光洗剤を不足に追い込もうと画策したり、伝書鳩でスパイに便宜を図っているという噂が流布し、[[クー・クラックス・クラン]]がドイツ系アメリカ人をリンチにするなどした<ref name="po-4-296-310"/>。
 
 
 
[[File:Madison Grant.jpg|thumb|120px|left|[[北方人種]]同志の戦争は「偉大な人種」の自殺であるとして戦争に反対したマディソン・グラント<ref name="po-4-296-310"/>]]
 
[[1916年]]、弁護士・人種学者のマディソン・グラント『偉大な人種の消滅、またはヨーロッパ史の人種的基礎』で、[[米西戦争]]で目にした米兵出征の風景では、金髪の[[北方人種]]は勇士として戦地に赴き、勇士を見送る褐色の短躯な市民は銃後のいる。こうして北方人種は無頓着な勇士として「人種の自殺」に向けて突進して、戦争の勝者となるのは褐色の髪の小柄な人間であるとした<ref>Madison Grant,The Passing of the Great Race: Or, The Racial Basis of European History.1916,</ref><ref name="po-4-296-310"/>。グラントは[[北方人種|ノルディック(北方人種)]]、ラテン、スラブのヨーロッパの3民族のいずれかとユダヤ人が掛け合わせるとユダヤ人になるために異人種間の雑婚は行われるべきではないと主張した<ref name="kono206-230"/>。
 
 
 
[[1917年]]6月、非戦派の左翼作家[[ランドルフ・ボーン]]は「ユダヤ人は自分たちの民族だけが宇宙の神の真の人民として選ばれたことに畏敬の念を表わす。同じぐらいにおめでたいのが、すべての戦争のなかで我々の戦争だけが一点の穢れもなく、胸躍らせるような善を達成するだろうと語る我々(アメリカ)の知識人」であると述べ、アメリカの主戦派をユダヤ選民思想に例えて批判した<ref>{{Cite journal |和書 |author = 前川玲子 |title = 「戦争と知識人」(ランドルフ・ボーン) : 翻訳と解題|date = 2010-02|publisher = [[京都大学]]大学院人間・環境学研究科英語部会 |journal = 英文学評論 |volume = 82 |issue = |naid = |pages = 78 |ref =前川}}</ref>。
 
 
 
==== アメリカの反共主義と反ユダヤ主義 ====
 
第一次世界大戦中に[[ロシア革命]]が起きると、イギリスと同じようにアメリカでも反ボルシェビキ・[[反共主義]]運動が高まった。[[1918年]]9月には『反ボルシェビスト(The Anti-Boshevist)』が発刊され、アメリカを参戦に駆り立てたのはユダヤ人であるとされた<ref name="po-4-296-310"/>。
 
 
 
ペトログラードでエヴゲニー・セミョーノフがアメリカ人外交官エドガー・シソンに渡した文書をもとに、[[1918年]]9月、アメリカ政府は『ドイツボルシェビキの陰謀』を刊行し、トロツキーはドイツのユダヤ人銀行家[[マックス・ヴァールブルク]]とライン=ヴェストファーレン労働組合から資金提供を受け、ユダヤ人はドイツとオーストリア=ハンガリー帝国でユダヤ共和国を築いたとされた<ref>United States.Committee on public Information, [https://archive.org/details/germanbolshevikc00unit The German-Bolshevik conspiracy],Sisson, Edgar Grant.</ref><ref name="sisson">[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.240,244−247,303.</ref>。この文書は1919年9月23日にロストフで出版され、1920年にはパリの『古きフランス』紙やロンドンの[[デイリー・テレグラフ|ザ・モーニング・ポスト]]でも報じられた<ref name="sisson"/>。
 
 
 
[[1918年]][[11月30日]]付けの国務省内報告書「ボリシェヴィズムとユダヤ」では、ユダヤ人がアメリカ、日本、中国の軍事力を利用してゴイーム(非ユダヤ人)の反抗を抑えつけると結論された<ref name="po-4-296-310"/>。報告書はロシア亡命者ボリス・ブラソルによって作成された{{refnest|group=*|報告書はブラソルから[[グリゴリー・ラスプーチン|ラスプーチン]]を暗殺したロシア貴族[[フェリックス・ユスポフ]]へ、ユスポフからイギリス諜報局のバジル・トムソン<ref>Basil Thomson</ref>へ、そして米国務省[[ロバート・ランシング]]へという経路を通って手渡された<ref name="po-4-296-310"/>}}。
 
 
 
[[1919年]]にはストライキが被服工場で頻発し、ストライキ参加者の大半がユダヤ人であったし、1923年時点で[[アメリカ共産党]]の45%が旧ロシア帝国領の[[フィンランド人]]で、ロシア人工作員とみなされた<ref name="po-4-296-310"/>。当時のユダヤ人の政治活動についてアメリカ・ユダヤ委員会のサイラス・アドラーは、我々ユダヤ人はデモ行進をして騒ぎすぎた。ここまで注目を集めておいてその注目が好意的なものであったほしいとは無理な相談であると、ユダヤ人として自己批判した<ref name="po-4-311-320"/>。
 
 
 
上院特別委員会では、[[クエーカー|クエーカー教徒]]ケディーはロシア新体制は平和主義で良きキリスト者であると証言し、またジャーナリストのウィリアムズはロシアは人類の新たな兄弟愛を目指していると証言する一方で、ウィリアム・ハンティントン領事や、[[シティグループ#シティコープ|ナショナル・シティーバンク]]ロシア支店長、ロシア・[[メソジスト|メソディスト教会]]のシモンズ牧師らはロシア革命の大多数はユダヤ人によってなされたと証言した<ref name="po-4-296-310"/>。シモンズ牧師は、自分は反ユダヤ主義者ではないし、ポグロムを嫌悪するが、トロツキーの数百人の部下はニューヨークのイーストサイド出身であり、ロシア新体制は反キリスト教的であり危険であると証言した<ref name="po-4-296-310"/>。シモンズ牧師への情報提供者の軍医ハリス・A・ホートン博士は『議定書』の信奉者だった<ref name="po-4-296-310"/>。翌日、各紙は、アメリカのユダヤ人がロシアで権力を握ったというシモンズ牧師の証言を報道した<ref name="po-4-296-310"/>。しかし、上院特別委員会では、[[リトアニア]]・[[クディルコス・ナウミエスティス]]出身のユダヤ人ジャーナリスト、ハーマン・バーンシュタインの陳述等によって「ニューヨークのユダヤ人による陰謀」という見方は採択されなかった<ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.311.</ref>。なお、歴史学者[[アントニー・C・サットン|A・サットン]]は、ボルシェビキ体制への支援はユダヤ系銀行家よりも、[[ジョン・モルガン|モルガン]]、ロックフェラー、トンプソン<ref>William Boyce Thompson</ref>など非ユダヤ系銀行家や投資家が行っていたと論じた<ref>Antony C. Sutton,Wall Street and the Bolshevik Revolution,1974.</ref><ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.310-311.</ref>。
 
 
 
[[シカゴ・トリビューン]]紙は[[1920年]][[6月19日]]記事で、[[三国協商|英仏露三国協商]]の秘密諜報機関の情報将校たちによるボリシェヴィキ革命報告書によれば、革命運動国際組織の本部はドイツの首都にあり、実行部隊の最高責任者はトロツキー、そしてこのユダヤ急進党はユダヤ人の解放と、東方での商業、ならびに大英帝国の基底部を掌握することを目的としていると報じた<ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.268,320-321.</ref>。
 
 
 
[[File:Dust jacket, first edition of The Rising Tide of Color Against White World-Supremacy.jpg|thumb|150px|left|[[KKK]]会員の人種論者ロスロップ・スタッダード『有色人の勃興』(1920)]]
 
[[クー・クラックス・クラン]]の構成員であったジャーナリスト・人種学者ロスロップ・スタッダードは1920年の著書『有色人の勃興』において、レーニンは[[中国人]]に取り巻かれており、ボリシェヴィズムによって創造的な個人が退廃し、無知で反社会的な横暴が「非優生学的大勝利」を収めるだろうと論じた<ref>Lothrop Stoddard,The Rising Tide of Color Against White World-Supremacy,1920.ロスロップ・スタッダード、長瀬鳳輔訳『有色人の勃興』政教社,1921.</ref><ref name="po-4-311-320"/>。スタッダードはユダヤ人を白人の一種とみなして「有色人」とはみなしていなかったが、東欧と南欧からのユダヤ人によってアメリカは手の施しがないほど損なわれたと考えていた<ref name="po-4-311-320"/>。
 
 
 
[[ハースト・コーポレーション|ハースト社]]の大衆誌「Good Housekeeping」[[1921年]]2月号で[[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]][[カルビン・クーリッジ|カルヴィン・クーリッジ]]はアメリカは[[北方人種|北方系アメリカ人]]のものであると主張した<ref name="po-4-311-320"/>。
 
 
 
ジャーナリスト・小説家のケニス・ロバーツは雑誌[[サタデー・イブニング・ポスト]]で連載されたルポルタージュ『なぜヨーロッパは故郷を離れるか』([[1922年]])で、ロシア亡命者が美しく優秀なのは[[北方人種]]だからだとし、それに対して「地上の屑」のユダヤ人はポーランド人やルーマニア人の見せかけの下に大量にアメリカに流入しているが、ユダヤ人はアジア人であり、ヨーロッパ人ではないとした<ref name="po-4-311-320"/><ref>Kenneth L.Roberts,Why Europe leaves home.A True Account of the Reasons Which Cause Central Europeans to Overrun America.1922.</ref>。ロバーツは、少なくともユダヤ人は「[[ハザール|ハザル人]]」と混ざり合っており、部分的には[[モンゴロイド|蒙古人種]]であり、すでにカリフォルニア州は白人地区の入り口で[[モンゴロイド|蒙古人種]]を遮断したが、彼らは今度は何百万という単位で西から東に流れ出すと警告した<ref name="po-4-311-320"/>。また、ロバーツは、何の制限もない移住の結果として[[古代ギリシャ]]においてギリシャの人種は跡形もなく姿を消したと主張した<ref name="po-4-311-320"/>。ただし、ロバーツはユダヤ人による世界征服を信じていないとも述べていた<ref name="po-4-311-320"/>。
 
 
 
==== フォードの反ユダヤ主義とその時代 ====
 
[[File:Henry ford 1919.jpg|サムネイル|[[ヘンリー・フォード]](1863- 1947)。]]
 
自動車メーカー[[フォード・モーター]]創業者の[[ヘンリー・フォード]]は1920年から1922年にかけて全四巻の『国際ユダヤ人』を刊行した<ref>Henry Ford,The International Jew,Volume 1: The International Jew: The World's Foremost Problem (1920),Volume 2: Jewish Activities in the United States (1921),Volume 3: Jewish Influence in American Life (1921),Volume 4: Aspects of Jewish Power in the United States (1922),Dearborn Publishing Co.</ref>。フォードがユダヤ人を敵視するようになったのは、[[1915年]]末にフォードが各国に戦争を中止するために「平和巡航船」を巡航させた時であった<ref name="po-4-321-335"/>。この企画の中心人物はハンガリー出身のユダヤ人フェミニスト・[[平和主義|平和主義者]]のロージカ・シュヴィンメル<ref>Rosika Schwimmer</ref>で、ジャーナリストのハーマン・バーンスタインも同乗した<ref name="po-4-321-335"/>。しかし、6年後の[[1921年]]にフォードは、船には「非常に尊大なユダヤ人」が2名(シュヴィンメルとバーンスタインのこと)乗っており、そのユダヤ人たちは、ユダヤ人が握っている金と権力、そして報道を支配している実態について語り、ユダヤ人だけが世界大戦を止めさせることができると述べたことに嫌気がさしたが、こうして戦争と革命の原因を見抜いたと述べた<ref name="po-4-321-335"/><ref>ニューヨーク・タイムズ1921年12月5日</ref>。
 
 
 
フォードは新聞「ディアボーン・インディペンデント」を買収してフォード販売店に定期購読者を義務づけ、ユダヤに関する記事を多数掲載した<ref name="po-4-321-335"/>。フォード専属のスポークスマンには、[[#アングロ・イスラエリズム|アングロ・イスラエリズム]]の影響を受けた宗派ブリティッシュ・イズリアライツ(British Israelites)に属するカナダのジャーナリストウィリアム・キャメロンがいた<ref name="po-4-321-335"/>。キャメロンはユダヤ人は[[イスラエルの失われた10支族|古代イスラエル12部族]]の一つにすぎず、イスラエルの民を代表するものではないし、ユダ族は聖書時代から常に不和の種を撒いてきたと論じた<ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.332-333.</ref>。フォードは[[1921年]][[5月29日]]の『ユダヤのシオニズムは[[ハルマゲドン]]をもたらすか』で、「ユダヤ人は2000年間平和な生活を送ることができなかったし、今日でも衝突で引っ掻き回す運命にあるが、[[イスラエルの失われた10支族]](アングロサクソン人のこと)に「反セム主義」と告発できるとは誰も考えない」と述べるなど、アングロ・イスラエリズムの影響が見出される<ref>Henry Ford,Will Jewish Zionism Bring Armageddon?,The Dearborn Independent,29 May 1921.</ref><ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.538(101).</ref>。
 
 
 
[[1920年]][[12月1日]]、[[アメリカユダヤ人委員会]]は、[[ブナイ・ブリス]]、アメリカ・ユダヤ会議<ref>American Jewish Congress</ref>、[[シオニスト会議|アメリカ・シオニスト会議]]、アメリカ・ラビ中央協議会<ref>Central Conference of American Rabbis</ref>と連名で冊子「議定書、ボルシェヴィズム、ユダヤ人:アメリカユダヤ人組織によるユダヤ人同胞へ」を発行した<ref>American Jewish Committee,The "Protocols," Bolshevism and the Jews
 
An Address to Their Fellow-Citizens by American Jewish Organizations, December 1, 1920.</ref><ref name="po-4-321-335"/>。12月4日、プロテスタント[[長老派教会]]は兄弟であるユダヤ人への攻撃を遺憾に思い、ユダヤ人の市民精神を信頼すると表明した<ref name="po-4-321-335"/>。[[12月24日]]、ユダヤ教、カトリック、プロテスタント三宗派連合で少数民族とユダヤ人への迫害を断罪する共同声明を発表した<ref name="po-4-321-335"/>。この三宗派共同声明では、ユダヤ人のなかには革命運動で際立った役割を果たしていることは認めるし、ユダヤ人は他の民について言えるように、善人も悪人もいるが、スラム、炭鉱、家畜処理場でユダヤ人が憎しみを減ずるものでなかったことについてはアメリカ人は恥をもつことになるだろうと述べられた<ref name="po-4-321-335"/>。[[1921年]][[1月16日]]のウィルソンら歴代大統領ほか著名人の共同声明は、反ユダヤ主義は反アメリカ的で反キリスト教的であると抗議した<ref name="po-4-321-335"/>。『アメリカ』誌はフォードに抗議するユダヤ人について、ユダヤ人の素早さは称賛すべきであると報道した<ref name="po-4-321-335"/><ref>America,7 May 1921,Jews,Flivers and Catholics.</ref>。
 
 
 
[[1921年]]に「ディアボーン・インディペンデント」紙は、ロンドンとニューヨークに代理政府を置いている「オール・ジュダーン(All Judaan)」はドイツへの復讐に成功したあと、イギリスを手中に収め、ロシアもユダヤ人に敗北してしまうだろうと述べて、寛容なアメリカはユダヤ人にとって[[約束の地]]なのだと述べた<ref name="po-4-321-335"/>。また、フォードはニューヨークのユダヤ人はロシア最後の皇帝に代わる人物を任命したとも述べた<ref name="sisson"/>。この記事に対してルイス・マーシャル弁護士は抗議したが、フォードはマーシャル弁護士の精神的均衡こそ疑わしいと反論した<ref name="po-4-321-335"/>。フォードのユダヤ人批判に対して、[[ジェイコブ・シフ]]はここでフォードと揉めると大火事になってしまうと考え、抗議を断念した<ref name="po-4-321-335"/>。さらに「ディアボーン・インディペンデント」紙は『シオン賢者の議定書』の紹介を始めた<ref name="po-4-321-335"/>。1921年8月には『シオン賢者の議定書』のアメリカ版が出版され、経済界有力者や国会議員の手に入った<ref name="po-4-321-335"/>。1921年末、フォードは、[[南北戦争]]を誘発したのはユダヤ人であり、リンカーンを暗殺したのもユダヤ人であると述べた<ref name="po-4-321-335"/>。
 
 
 
作家[[チェスタトン]]はフォードを訪ねた後、フォードは慈善家であり発明者であり芸術家であるが、「このような人間がユダヤ人問題の存在に気づいたというのなら、それは現実にユダヤ人問題が存在するということの証拠である。それは断じて反ユダヤ的な偏見のなせる業ではない」と評した<ref name="po-4-321-335"/>。
 
 
 
[[File:Theodor Fritsch 1.jpg|サムネイル|130px|テオドル・フリッチュ(Theodor Fritsch)]]
 
[[File:Henry Ford Der internationale Jude Band 1 1922 Titel.jpg|サムネイル|130px|フォードの『国際ユダヤ人』ドイツ語版、1922年]]
 
しかし、[[1922年]]には「ディアボーン・インディペンデント」に掲載される反ユダヤ記事の間隔が開き始め、また協同組合の弁護士アーロン・サピロから訴えられた<ref name="po-4-321-335"/>。同[[1922年]]、フォードの『国際ユダヤ人』ドイツ語版が出版者テオドル・フリッチュによって刊行された。ドイツ語版『国際ユダヤ人』では注釈がおびただしくあり、フォードが「ユダヤ人には悪玉も善玉もいる」と書いた箇所については「これは恐るべき幻想であり、全ユダヤ人が一体となって人類を蔑んでいるのである」とフォードを批判した注釈もあった<ref name="po-4-321-335"/>。また、ベルリナー・ターゲブラット紙や[[ニューヨーク・タイムズ]]紙は1922年12月に、フォードは[[ナチス]]を財政支援していると報道したが、これについてポリアコフは考えられない事態であり、ヒトラー、[[ヒムラー]]、[[バルドゥール・フォン・シーラッハ|シーラッハ]]などのナチス党員がフォードの著作を好んだとしても、それは一方通行の好感であったとしている<ref>Berliner Tageblatt,1922年12月10日。[[ニューヨーク・タイムズ]]1922年12月20日。</ref><ref name="po-4-321-335"/>。
 
 
 
[[1922年]]6月、[[ハーバード大学]]のアボット・ラッセル・ロウエル<ref>Abbott Lawrence Lowell (1856 – 1943) </ref>学長はユダヤ人学生を10%に制限する案を提出したが、これをボストンポスト紙がリークすると、アイルランド人、黒人組織や[[アメリカ労働総同盟]]などが非難し、ルイス・マーシャル弁護士らの活動で却下された<ref name="po-4-311-320"/><ref>Oliver B. Pollak,Antisemitism, the Harvard Plan, and the Roots of Reverse Discrimination,Jewish Social Studies,Vol.45,No.2(Spring,1983),pp.113-122.</ref>。
 
 
 
[[1924年]]の移民制限法[[排日移民法|ジョンソン法(日本では排日移民法と呼ぶ)]]で、1890年を基準として移民の国籍別割当てを3%から2%に引き下げられると、1890年以後の東欧・南欧が制限され<ref name="po-4-311-320">[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.311-320.</ref>、また日本を含むアジアからの移民は禁止された。ポリアコフは、この移民制限法の目的は、ユダヤ人移民を制限するためのものであったとする<ref name="po-4-311-320"/>。また、すでに[[1897年]]に[[ヘンリー・カボット・ロッジ|ロッジ]][[共和党 (アメリカ)|共和党]]議員は移民に識字テストを義務づけるべきだと主張していた<ref name="po-4-311-320"/>。
 
 
 
[[1927年]]夏、フォードはこれまで『ディアボーン・インディペンデント』などの著作物でユダヤ人に対する不正があったと謝罪して、これらの出版物を廃棄した<ref name="po-4-321-335"/>。フォードはドイツ語版『国際ユダヤ人』の回収を出版者フリッチュに依頼したが、フリッチュは損害賠償を要求したため、回収を断念した<ref name="po-4-321-335"/>。後にナチスの機関誌『[[フェルキッシャー・ベオバハター]]』はフォードが謝罪したことについて、ユダヤ人銀行家が英雄的な老兵をねじ伏せたと評した<ref name="po-4-321-335"/>。また、フォードはヴァーグナー、チェンバレン、ヒトラーと同じく[[菜食主義|菜食主義者]]であり、強い酒、コーヒー、紅茶、タバコを[[御法度]]としたが、こうした「異物拒否」の強迫がユダヤ人に差し向けられたとポリアコフは見ている<ref name="po-4-321-335">[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.321-335.</ref>。しかし、フォード以後も、飛行家[[チャールズ・リンドバーグ]]やカトリック司祭[[チャールズ・カフリン|チャールズ・コグリン]]は1930年代に反ユダヤ主義発言を主張した<ref name="po-4-321-335"/>。
 
 
 
==== 20世紀アメリカ文学にみる反ユダヤ主義 ====
 
[[File:F Scott Fitzgerald 1921.jpg|サムネイル|130px|スコット・フィッツジェラルド]]
 
[[File:Willa Cather ca. 1912 wearing necklace from Sarah Orne Jewett.jpg|サムネイル|130px|ウィラ・キャザー]]
 
作家[[F・スコット・フィッツジェラルド|フィッツジェラルド]]の1922年の『美しく呪われし者』ではニューヨークに溢れるユダヤ人の名前や、「Jew Yoyk(ジューヨーク)」という表現がみられる<ref name="po-4-311-320"/>。『偉大なギャッツビー』(1925)で主人公は、イディッシュ訛りのユダヤ人相場師マイヤー・ウルフスハイムによって暗黒街に誘われる。ウルフスハイムはスワスティカ(鉤十字)株式会社を経営していた。しかし、後年にはガートルード・スタインやナサニエル・ウエストなどのユダヤ人作家との交友や、ユダヤ人愛人シーラを持つなどして、フィッツジェラルドは反ユダヤ主義を否定するようになった<ref name="kono231-262"/>。
 
 
 
[[ウィラ・キャザー]]は、ボヘミア人、スウエーデン人、フランス人を美化して描くのに対してユダヤ人を否定的に描いた<ref name="kono231-262"/>。小説『教授の家』(1925)はアメリカ人が発明した装置をユダヤ人が特許を取得して商業化に成功するという話で、創造的なアメリカ人と、他人の創造したものに寄生して搾取する成り上がり者のユダヤ人という構図を描いて、ユダヤ人を批判した<ref name="kono231-262"/>。
 
 
 
[[アーネスト・ヘミングウェイ]]「日はまた昇る」(1926)で、反ユダヤ的な空気のなかでボクシングを始めたユダヤ人コーンがぐずでどじな男として描かれる<ref name="kono231-262"/>。
 
 
 
[[トーマス・ウルフ]]『天使よ故郷を見よ』(1929)ではユダヤ人を「あひる油臭い」と叫ぶ子どもなど嘲罵する様子やまた「浅黒い琥珀色をしたユダヤ人」が大量に在籍している大学が描かれ、ユダヤ人がアングロサクソン風に改名することを欺瞞として批判する<ref name="kono262-302">[[#河野 2001]],p.262-302.</ref>。また「イギリスへの道」原稿では、反ユダヤ主義が存在する理由はユダヤ人の商業的成功と、ユダヤ人が社会的孤立を維持しようとするためであり、自分たちの世界には外部からの侵入を拒みながら、外部では参政権を主張するユダヤ人を批判した<ref name="kono262-302"/>。ウルフは私生活でユダヤ人の人妻と愛人生活を続けており、小説でもユダヤ性をめぐっての喧嘩などが描かれた。ウルフが1936年にベルリンオリンピックに訪れると、ナチスのユダヤ人政策を野蛮なものとみなした<ref name="kono262-302"/>。
 
 
 
トマス・ディクソン「ザ・クランズマン」は白人処女を強姦しようとした黒人がリンチされ、KKK団が馬にのって燃える十字架をながめるという戯曲で、1908年までに観客動員は400万人にのぼった。フォークナーも観劇した<ref name="kono262-302"/>。
 
 
 
[[File:Carl Van Vechten - William Faulkner.jpg|サムネイル|130px|ウィリアム・フォークナー]]
 
[[ウィリアム・フォークナー]]の『標識塔』ではユダヤ人の下水局長であるファインマン大佐が歓心を買おうとして欠陥飛行機に無理やり飛行士を搭乗させて事故死させてしまう冷酷で俗悪な人間として描かれた<ref name="kono262-302"/>。『[[響きと怒り]]』(1929)では、ろくでなしのジェイソン4世が東部ユダヤ人を忌々しいと語る。<ref name="kono262-302"/>。『[[サンクチュアリ (フォークナー)|サンクチュアリ]]』(1931)ではスノーブス議員が床屋でユダヤ人はこの世で最も下劣で安っぽい連中だと語ったり、ユダヤ人弁護士が臆病で非情な人間として描かれた。<ref name="kono262-302"/>。短編「死の宙吊り」では、ものすごい鼻をした鮫面のユダヤ人実業家が破産したあと曲芸に打ち込み、約束の報酬の不足分を飛行機から飛び降りて取り立てると描かれた<ref name="kono262-302"/>。『寓話』(1954)では、ユダヤ人少尉を悲劇的英雄として描写する一方で、反乱の責任を問われたフランスの軍人を冷酷に殺害するブルックリン出身のユダヤ人を描いた<ref name="kono262-302"/>。
 
 
 
体制批判の批評家ヘンリー・ルイス・メンケン<ref>Henry Louis Mencken</ref>は、ユダヤ人の掲げる大義は忌まわしいもので、それはポグロムを正当化するものであると論じ、1934年にはユダヤ人のパレスチナ入植を歓迎した<ref name="po-4-311-320"/>。
 
 
 
[[File:Ezra Pound 1963b.jpg|サムネイル|130px|エズラ・パウンド]]
 
詩人[[エズラ・パウンド]]は高利貸し的慣行(USURA)を除去する経済改革が必要だとしてムッソリーニを支持した<ref name="kono98-120">[[#河野 2001]],p.98-120.</ref>。[[1942年]][[4月3日]]、パウンドはローマからの[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に向けた放送で、ユダヤ人上層部のポグロムが必要だとして、世界大戦をはじめた60人の[[カイク]](ユダヤ人)と非ユダヤ的ユダ公を[[セントヘレナ島]]へ送還しようと述べた<ref name="kono98-120"/>。1915年から書き継がれた『詩章』では「ロスチャイルドやその同類は、黄金を売ろうと思ったら、必ずその値段をつり上げる」(48編)、「ロスチャイルド(Stinkshuld 罪の臭う男)の罪で、哀れなユダヤ人(poor yitts)が償いをしている」(52編)とユダヤ人による国際金融支配(Usuracracy)を批判した<ref name="kono98-120"/>。ヒュー・ケナーはこの箇所は分析を試みたものであり、反ユダヤ主義を減らすものとしたが、ケイジンはロスチャイルド家が戦時中に他のユダヤ人よりも特権を享受していたことはなく、フランスの[[ギー・ド・ロチルド]]は将校として前線に立ち、ギュイの従兄弟は捕虜となり、母方の親戚のほとんどが強制収容所でなくなったと反論した<ref name="kono98-120"/>。『詩章』52編では[[ベンジャミン・フランクリン]]にならって、ユダヤ人と国際金権の追放を書いた<ref name="kono98-120"/>。フランクリンのユダヤ人追放策はW.D.ペリーによって流布したが、[[1934年]]に文学史家カール・ヴァン・ドーレンはこれを捏造とした<ref name="kono98-120"/>。戦後の[[1955年]]に刊行された『詩章』91編では、民主勢力は下水溝への道を選び、糞を流したのはユダ公(Kikery)のマルクス、フロイト、アメリカの低級な連中であると書いた<ref name="kono98-120"/>。一方、パウンドはユダヤ人の弟子ズーコフスキーを評価していたし、1967年にはユダヤ人詩人の[[アレン・ギンズバーグ]]に自分の犯した最大の間違いは反ユダヤ主義の偏見だったと述べた<ref name="kono98-120"/>。
 
 
 
=== ロシア ===
 
==== 『シオン賢者の議定書』 ====
 
[[1895年]]、ロシア警察には『ユダヤ教の秘密』という文書が保管されており、そのなかでは、ユダヤ人はキリストを十字架にかけた時から壮大な陰謀を仕組み、キリスト教を世界に普及させた後でキリスト教をあらゆる手段を用いて破壊することを計画したと書かれていたが、この文書は皇帝に提出はされなかった<ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.146-149.</ref>。
 
 
 
他方、ユダヤ人は革命運動に参加するようになり、[[1897年]]にはユダヤ人労働者政党ブンド(Bund)(正式名称[[リトアニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟]])が結成された<ref name="po-4-122-144"/>。
 
 
 
[[ロシア帝国内務省警察部警備局]]パリ部長のピョートル・ラチコフスキーが作成を命じた『[[シオン賢者の議定書]]』([[1899年]])では、ユダヤ人が世界を支配して、すべての民をモーセの宗旨の前に平伏させることが望まれていた<ref name="po-4-79-100"/>。シオンの賢者は、シオン血統の専制君主のために、「自由、博愛、平等」のスローガンを考案し、フランス革命を起こして、シオンの専制君主が全世界の法王となることを画策した、とされる<ref name="po-4-79-100"/>。こうした陰謀論は、イエズス会、フリーメイソンを悪役とする陰謀論でもみられた<ref name="po-4-79-100"/>。しかし、ストルイピン大臣が憲兵隊に調査を命じると、この文書が偽書であることが判明したため、皇帝ニコライ2世はこの文書の廃棄を命じため、ラチコフスキーの立身出世には役に立たなかった<ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.145.</ref>。ラチコフスキーはその後、反ユダヤ団体[[黒百人組]]のロシア民族同盟の結成に関わった<ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.146.</ref>。『シオン賢者の議定書』が作られた当時の[[ロシア]]宮廷にはパピュスこと{{仮リンク|ジェラール・アンコース|fr|Papus}}等のオカルティストがコネクションを有しており、『議定書』の草稿のロシアへの持ち込みに関与したとされるユリアナ・グリンカという女性も[[神智学]]に傾倒していた<ref>{{Cite book|和書|author=[[横山茂雄]] |year=1990 |title=聖別された肉体 |publisher=書誌風の薔薇 |pages=86-97}}</ref>。
 
 
 
ロシアでのユダヤ人行政が強硬になると、ユダヤ人は[[アメリカ合衆国]]へ移住したり、またユダヤ人の間では、パレスチナへの愛とシオニズムが広まっていったが、[[1903年]]にはロシア政府がシオニズムを禁止した<ref name="po-4-122-144"/>。同[[1903年]]には『[[シオン賢者の議定書]]』(プロトコル)がロシアで一般に出版された。『シオン賢者の議定書』は1921年には英『タイムズ』紙により捏造本であることが解明・報道されたが、アメリカでは[[ヘンリー・フォード]]が、ドイツでは[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]が熱狂的な信奉者となり、[[#日本|日本でも翻訳]]がなされた。
 
 
 
==== 儀式殺人事件、ポグロム、そしてロシア第一革命 ====
 
[[File:1904 Russian Tsar-Stop your cruel oppression of the Jews-LOC hh0145s.jpg|サムネイル|[[セオドア・ルーズベルト]]アメリカ大統領がロシア皇帝[[ニコライ2世]]にユダヤ人弾圧の停止を要請する[[カートゥーン]](1904)]]
 
[[1903年]]2月、ユダヤ人が住民の半数を占めるベッサラビアの[[キシナウ|キシニョフ]]での少年殺害事件はユダヤ人が犯人とされ、クルーシェヴァンの地方新聞は反ユダヤ報道を続けた<ref name="po-4-167-170">[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.167-170.</ref>。キシニョフでユダヤ人への復讐を宣言する「真のキリスト教徒労働者党」が結成され、「キリスト教徒の血を吸うユダヤ人が、民衆を反皇帝運動に扇動している」と主張した<ref name="po-4-167-170"/>。[[復活祭]]の日曜日の[[1903年]][[4月6日]]、ポグロムが発生した<ref name="po-4-167-170"/>。死者は49人、負傷者数は500人、町の3分の1が破壊された<ref name="po-4-167-170"/>。軍が暴徒を鎮圧したのは翌日の夕方であった<ref name="po-4-167-170"/>。このキシニョフ事件に対して欧米諸国は非難し、ロシア語の「ポグロム」が広く認知された<ref name="po-4-167-170"/>。ウルーソフ公爵は、当時のロシア警察、官吏にとって反ユダヤは義務と捉えられていたとし、一方で、ロシア民衆にユダヤ人への敵意は見られないと回想している<ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],pp.156-183.p.163-164.</ref>。同1903年ドゥボサリーで儀式殺人事件が起こった<ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.164.</ref>。
 
 
 
[[1904年]]から[[1905年]]にかけての[[日露戦争]]では、反ユダヤのパンフレットが招集兵に配布され、ユダヤ人がロシア敗戦のスケープゴートとされた<ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.158.</ref>。
 
 
 
[[ファイル:Bund Odessa 1905.jpg|thumb|left|200px|1905年、[[オデッサ]]でのポグロムで殺害されたブンド党員。]]
 
[[ファイル:Ekaterinoslav1905.jpg|thumb|200px|left|1905年のポグロムで犠牲になったユダヤ人の子どもたち]]
 
[[1905年]]1月に[[血の日曜日事件 (1905年)|血の日曜日事件]]が起きると、春にかけて各地で大規模な抗議ストライキが起きて、[[ロシア第一革命]]が6月まで続いた。2月にはモスクワ総督で[[ロシア大公一覧|ロシア大公]]の[[セルゲイ・アレクサンドロヴィチ]]が爆弾で暗殺された。6月には[[ポチョムキン=タヴリーチェスキー公 (戦艦)|戦艦ポチョムキン]]の水兵が叛乱した。夏には農民一揆や、ビアウィストク、ブレスト=リトフスク、ミンスク、クリミア半島のケルチでのポグロムが発生した<ref name="po-4-170-175"/>。8月にニコライ2世は[[ドゥーマ]](議会)の創設を許可した。9月に日本との講和条約[[ポーツマス条約]]が結ばれたが、国内の騒乱は収まらなかった。[[ロシア第一革命]]を通してユダヤ人への猜疑は深まり、[[セルゲイ・ヴィッテ]]はユダヤ=フリーメイソンの陰謀に加担したとして告発された。しかし、ヴィッテもユダヤ人の横暴が度を越したと見ていた<ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.158-159.</ref>。10月、[[セルゲイ・ヴィッテ]]は「[[十月詔書|国家秩序の改良に関する詔書]]」で[[立憲主義]]を導入して皇帝の専制権力を制限したが、ロシア皇帝はニコライ2世は反発した。[[十月詔書]]を歓迎するデモが起こり、皇帝派の対抗デモが起こった<ref name="po-4-170-175">[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.170-175.</ref>。「ユダヤ人と革命派打倒」をスローガンとする皇帝派は、数百箇所の町でポグロムを起こした<ref name="po-4-170-175"/>。ポグロムは、ラチコフスキーの指示によって行われ、憲兵隊長コミサーロフ(Kommissarov)は、ポグロムはいつでも組織できると豪語していた<ref name="po-4-170-175"/>。オデッサではネイドガルド総督がポグロム犠牲者に対して「これこそはユダヤ的自由だ」と言った<ref name="po-4-170-175"/>。1905年10月の最後の10日間だけで数百件のポグロムが発生した<ref name="po-4-170-175"/>。この年のポグロム全体の犠牲者は死者810人、負傷者1770人となった<ref name="po-4-170-175"/>。
 
 
 
[[十月詔書]]直後、皇帝[[ニコライ2世]]は革命運動の9割がユダヤ人であったために反ユダヤのポグロムが起こったと母親への手紙で報告し、2ヶ月後にはユダヤ人国際的共同行動についての法案が認可した<ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.150.</ref>。ロシア政府は「[[革命家]]」を「ユダヤ人」の[[類義語]]としていた<ref name="po-4-29-48"/>。また、ニコライ2世はユダヤ人の破壊活動に脅かされているドイツとカトリック教会との協調路線外交を支持した<ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.150-151.</ref>。モスクワに発した暴動は、ポーランドやロシア各地でも勃発しており、[[セルゲイ・ヴィッテ|ヴィッテ]]や[[ピョートル・ストルイピン|ストルイピン]]首相もユダヤ人組織が世界規模で動いていると考えていた<ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.150-152.</ref>。他方、革命運動におけるユダヤ人の活動については、ロシア・マルクス主義の父と称される[[ゲオルギー・プレハーノフ]]は、ユダヤ人活動家を「ロシア労働者軍の前衛部隊」として、またレーニンもユダヤ人の国際主義と前衛的な運動に対するユダヤ人の敏感さを賞賛した<ref name="po-4-122-144"/>。
 
 
 
[[1906年]]、蔵相[[ウラジーミル・ココツェフ|ココフツォフ]]はユダヤ人の侵入を防ごうとしても、彼らは簡単に合鍵を見つけるので無駄であり、抑圧政策はユダヤ人を苛立たせるだけであるし、行政側の不正や越権行為を助長することにしかならないので、反ユダヤ法の制定には反対した<ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.162-163</ref>。1906年以降は、ビアウィストクとシェドルツェのポグロムで合計110人が殺害された<ref name="po-4-170-175"/>。
 
 
 
1906年から1916年にかけて、反ユダヤの著作物が2837冊出版され、皇帝も1200万ルーブルの財政援助をした<ref name="po-4-170-175"/>。クルーシェヴァンの『軍旗(ズナーミャ)』紙は、ユダヤ問題は宗教問題ではなく、人種の問題であり、ユダヤ人は「寄生虫的で貪欲な本能」を持ち、「彼らの侵入を許してしまった社会には確実に死をもたらす」と報道した<ref name="po-4-170-175"/>。政治家ニコライ・マルコフは、左派代議士に向かって、「ロシア人の子供の喉を切り裂いてその血を吸うユダヤ国の末裔の正体」を暴くこともできなくなった時、正義も司法も頼りにならないとロシア民衆が確信した時には、最終ポグラムが発生して、ユダヤ人の「一人残らず、最後の一人にいたるまで、文字通り喉を掻き切られる」と演説した<ref name="po-4-170-175"/>。
 
 
 
[[1911年]][[3月20日]]、13歳の男の子の死体がキエフ郊外で発見されると、ロシア民族同盟らが儀式殺人の方向で調査し、ユダヤ人の煉瓦工場職工長メンデル・ベイリスが逮捕された<ref name="po-4-175-183">[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.175-183.</ref><ref>「ベイリス事件」[[世界大百科事典]] [[平凡社]]</ref>。作家[[ウラジーミル・コロレンコ]]は、ベイリス事件について特定の民族への偏見であると抗議した<ref name="akao"/>。アメリカも抗議して米ロ通商条約を破棄し、内相マカロフは訴追を断念した<ref name="po-4-175-183"/>。しかし、法相イヴァン・グリゴリェヴィチ・シチェグロヴィートフは裁判を再開し、ベイリスは無罪とされたが、少年が儀式殺人で殺害されたことは事実と認められた<ref name="po-4-175-183"/>。9月、キエフでアナーキストのユダヤ人が皇帝の目前で[[ピョートル・ストルイピン|ストルイピン]]大臣を銃撃した<ref name="po-4-167-170"/>。
 
 
 
[[1912年]]、改宗ユダヤ人の2世、3世は士官への昇進を禁止された<ref name="po-4-170-175"/>。
 
 
 
==== 第一次世界大戦とボリシェヴィキ革命によるロシア帝政崩壊 ====
 
[[第一次世界大戦]]下のロシアでユダヤ人は祖国ロシアへの愛国心を宣言していた<ref name="po-4-217-247">[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.217-247.</ref>。[[1914年]]7月にはユダヤ人議員ナフタリ・フリードマンがユダヤ人とロシアには数百年の絆があり、ユダヤ人は深い祖国愛を持っているとし、またユダヤ系新聞『ノーヴォ・ヴォスホード』はユダヤ人同胞は祖国のために志願兵となったと報道した<ref name="po-4-217-247"/>。他方で、反ユダヤ組織[[黒百人組]]による印刷物の軍内での無料配布も続き、ユダヤ人は捕虜になるとロシア人捕虜を虐待するとも報道された<ref name="po-4-217-247"/>。
 
 
 
[[1915年]]、ロシア軍は、対ナポレオン戦来の焦土作戦<ref>1812年の対ナポレオン祖国戦争でのモスクワ防衛戦。</ref>に切り替えて退却を始めると、1915年1月には「ユダヤ人、その他スパイの疑いがある人物」の強制退去を通達し、50万人以上のユダヤ人が強制移住された<ref name="po-4-217-247"/>。1915年秋にはユダヤ人の検挙や略式裁判での絞首刑なども行われるようになり、シナゴーグでの慣習であった村を囲む紐をロシア兵は敵と通話するための電話線であるとみなして、被疑者が処刑されたこともあった<ref name="po-4-217-247"/>。1915年に『ゼムシチナ』紙は宣戦布告してきたのはドイツではなくユダヤ人であるとしたり、[[1916年]]には『グラジュダニン』紙はニコライ2世の従兄弟であるイギリス国王[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]はフリーメイソンで革命派であるとした<ref name="po-4-217-247"/><ref>[[ニコライ2世]]の母は[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)]]。マリアの姉が[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]妃の[[アレクサンドラ・オブ・デンマーク]]で、[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]の母。</ref>。こうしたロシア軍の反ユダヤ主義に対して、作家[[マクシム・ゴーリキー|ゴーリキー]]や[[ウラジミール・コロレンコ|コロレンコ]]、[[ディミトリー・メレシュコフスキー|メレシュコフスキー]]や[[レオニド・アンドレーエフ|アンドレーエフ]]は親ユダヤ発言を行って抗議した<ref name="po-4-217-247"/>。1915年8月、ドイツ軍がロシア領ポーランドを征服してリガに進軍すると、内相ニコライ・ボリソヴィチ・シチェルバトフは、ニコライ・ニコラエヴィチ・ヤヌシケヴィチ将軍が失敗の責任をユダヤ人に帰して軍内部でポグロムが推進されていると閣議で発言した<ref name="po-4-217-247"/>。ルフロフ通信大臣は、ロシア人で戦争で苦痛に耐え忍んでいる間にユダヤ人銀行家は国民から搾り取っているし、1905年の非常事態(革命)にユダヤ人が果たした役割を思い出すべきであると発言、シチェルバトフ内相はユダヤ人の破壊活動についてルフロフ通信大臣の指摘は正しいが、戦争資金はユダヤ人の手中にあると述べた<ref name="po-4-217-247"/>。ロシア国内のスパイへの恐怖は、最終的に帝政崩壊をもたらした<ref name="po-4-217-247"/>。
 
 
 
[[ロシア革命]]で臨時政府が全市民の平等を宣言すると、ユダヤ人集団は臨時政府を支持した<ref name="po-4-217-247"/>。[[1917年]]、[[アナトリー・ルナチャルスキー]](ソ連初代教育人民委員)がクーデター直前に作成した順位表によれば、1位の[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]、2位の[[レフ・トロツキー|トロツキー]]、3位の[[ヤーコフ・スヴェルドロフ|スヴェルドロフ]]、6位の[[グリゴリー・ジノヴィエフ|ジノヴィエフ]]、7位の[[レフ・カーメネフ|カーメネフ]]はユダヤ人であり、指導者グループでユダヤ人でなかった者は4位のグルジア人[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]、5位のポーランド貴族の[[フェリックス・ジェルジンスキー|ジェルジンスキー]]の2名であった<ref name="po-4-217-247"/>。
 
 
 
[[2月革命 (1917年)|2月革命]]後の3、4月にはロシア軍脱走兵によるポグロムが発生した<ref name="po-4-217-247"/>。3月に[[ニコライ2世]]は退位した。反ユダヤ主義は親皇帝派に浸透していたが、革命派でも、ウクライナのフルスタレフ=ノサリは「反ユダヤ共和国」を打ち建てようとした<ref name="po-4-217-247"/>。[[アレクサンドル・ケレンスキー|ケレンスキー]]政府によれば、1917年7月、ボルシェビキ総司令部のクシェシンスキー家や無政府主義者のドゥルノボ荘の家宅捜索で反ユダヤ文献や儀式殺人の絵葉書などが見つかった<ref name="po-4-217-247"/>。10月にレーニンはケレンスキー臨時政府打倒を主張し、[[十月革命|十月蜂起]]([[グレゴリオ暦]]11月)でのボルシェビキ政府閣僚では、反ユダヤ主義へ配慮して、ユダヤ人はトロツキーのみとなった<ref name="po-4-217-247"/>。しかし、すでにロシア大衆では革命はユダヤ人によるという見方が浸透しており、『ルプティジュルナル』ではボルシェビキとユダヤ人へのポグロムが呼びかけられた<ref name="po-4-217-247"/>。
 
 
 
==== ロシア内戦:1917-1922 ====
 
[[白軍|ロシア白軍]]総司令官の[[アレクサンドル・コルチャーク|コルチャーク]]は[[1918年]]7月の[[ロマノフ家の処刑|ロマノフ家処刑]]直後に『[[シオン賢者の議定書]]』に没頭し、[[1919年]][[2月15日]]には「ロシアを破滅に追い込んでいるユダヤのごろつきどもを追い立てよ」と宣言し、ロシアの大地は反ユダヤ十字軍を必要としていると宣言した<ref name="po-4-217-247"/>。[[アントーン・デニーキン]]が指導した[[南ロシア軍|南ロシア白衛軍]]は1919年秋にモスクワから[[トゥーラ (ロシア)|トゥーラ]]までのかつてのユダヤ人定住地区を進軍し、デニーキンはポグロムを禁じたものの、ポグロムが行われた<ref name="po-4-217-247"/>。デニーキンは反ユダヤ熱は兵士に蔓延し、キリスト教徒兵士からの虐待を防ぐためにユダヤ人部隊を編成したり、また白軍義勇兵のユダヤ人将校数十人が追放されたこともあったと記録している<ref name="sisson"/>。
 
 
 
革命の結果無一物となった[[白系ロシア人]]はユダヤ脅威論を吹き込まれていたため、革命は危惧が的中したこととなり、敵意はボリシェビキのユダヤ人幹部に向けられ、次に革命を逃れてシベリア、満州に避難した一般のユダヤ人にも向けられた<ref name="maruyama1988"/>。1919年6月、ロシアでキリストと皇帝を殺害しロシアを破滅させようとしているユダヤ人についてのパンフレットが広く配付された<ref>上海のシオニズム誌『Israel's Messenger(イスラエルズ・メッセンジャー)』1919年6月,「シベリアで危険にさらされるユダヤ人の境遇」</ref><ref name="maruyama1988"/>。
 
 
 
[[1919年]]、[[ロシア内戦]]期の[[ウクライナ]]の[[キエフ県 (ロシア帝国)|キエフ県]]、ポドリア県([[ポジーリャ]])、ヴォルイニア県でポグロムが625件発生し、ポドリア県のプロスクロフでは1650人・[[ヘルソン県]]の[[クロプィウヌィーツィクィイ|エリザヴェトグラート]]では1526人のユダヤ人が殺された<ref name="krokawa">[[#黒川1984]]</ref>。ポグロムに参加したのは[[ウクライナ軍]]、[[赤軍]]、[[白軍]](義勇団)、農民であった<ref name="krokawa"/>。ウクライナ軍は「ウクライナを救うためにユダヤ人を殺せ」というスローガン、旧皇帝軍の義勇団は「ロシアを救うためにユダヤ人を殺せ」というスローガンによってポグロムを行った<ref name="krokawa"/>。ウクライナの[[緑軍]]は指導者[[アタマン]]がユダヤ人のトロツキーは[[正教会]]を破壊すると扇動した<ref name="po-4-217-247"/>。1918年から20年にかけてウクライナで殺害されたユダヤ人は6万人以上となった<ref name="po-4-217-247"/>。
 
 
 
[[赤軍]]のユダヤ人指揮官が所持していたといわれたツンダー文書(Zunder Document)も1918年5月頃以降のロシア[[白軍]]で流布し、1922年には[[チェコスロバキア|チェコスロバキア共和国]]議会で読み上げられた<ref name="sisson"/><ref>[[#コーン(1991)]],p.140-142.)</ref>。
 
 
 
ドイツのナチ党には[[バルト海]]沿岸地域出身のドイツ系ロシア人が大きく寄与した<ref name="p-416-434"/>。1917年の革命以前は[[ロシア帝国]]領だった[[リガ]]出身の[[マックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒター|マックス・フォン・ショイプナー=リヒター]]はナチ党最大の資金調達者であり、シッケダンツ、クルゼル、マントイフェルなどもリガ出身であった<ref name="p-416-434"/>。1935年に『ユダヤ帝国主義』を刊行したボストゥニツは[[SS]]でユダヤ人問題担当科学専門家となるが、元ロシア帝国領ウクライナ出身であった<ref name="p-416-434"/>。
 
 
 
==== ソ連におけるユダヤ人 ====
 
[[1917年]]-[[ロシア革命]]が起こる。ロシア帝国でのユダヤ人差別法を廃止した。
 
 
 
[[1918年]]1月、ロシア正教のヴォストーコフ総主教は「わたしたちはツァーリを転覆したが、代わってユダヤ人に隷属させられた」と発言した<ref name="p-416-434">[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],pp.416-434.</ref>。レーニンからソ連を追放されたイェカテリナ・クスコヴァによれば、当時のソ連では、キリスト教が追放された学校は「ユダヤ的」であると憎まれ、ボルシェビキの宗教政策を「ユダヤによる抑圧政策」とみなす者もいた<ref name="p-416-434"/>。
 
 
 
[[1922年]]3月、自由主義の政治家ナボコフ{{refnest|group=*|ウラジーミル・ドミトリエヴィチ・ナボコフ。作家[[ウラジーミル・ナボコフ]]の父}}は、シャベリスキー=ボルクとタボリツキーによって暗殺された<ref name="p-416-434"/>。シャベリスキー=ボルクの師は、チェンバレンを信奉する反ユダヤ主義者のロシア人フュードル・ヴィンベルク大佐であった<ref name="p-416-434"/>。
 
 
 
[[イサーク・バーベリ|バーベリ]]の小説『騎兵隊』([[1926年]])では、女性密売者が兵士に向かって、「お前たちはロシアのことを考えていない。ユダヤのレーニンとトロツキーばかり助けている」と非難する<ref name="p-416-434"/>。この箇所は検閲で「レーニンとトロツキー」が削除され、「ユダヤばかり助けている」と変更された<ref name="p-416-434"/>。また、『ザモスチエ』ではユダヤ人は誰からも悪者にされ、戦争後はわずかしか残らないだろうと百姓が語る<ref name="p-416-434"/>。
 
 
 
[[1926年]]のモスクワでのユダヤ人住民は15万人以上となり、こうした数値によって、一般のロシア人にとっては『シオン議定書』のユダヤの権力を裏付ける証拠となった<ref name="p-416-434"/>。
 
 
 
[[1928年]]、カリーニン議長は極東の地域[[ビロビジャン]]へのユダヤ人入植を提案してユダヤ民族区(現在の[[ユダヤ自治州]])が設置された。背景には国内でのシオニズムの影響力を警戒したためとされる<ref>[[#ポリアコフ 5|ポリアコフ 5巻]],p.319.</ref>。1928年には反ユダヤ主義を罪状とする裁判が38件となった<ref name="p-416-434"/>。
 
 
 
[[1929年]]、レダットは著書『反ユダヤ主義と反ユダヤ主義者』で、ロシア共産党とコムソモール(青年団)で反ユダヤ主義が浸透しているとされ、また党中央委員会104名のうち11名がユダヤ人であり、公務員におけるユダヤ人の割合はモスクワで12%とされた<ref name="p-416-434"/>。
 
 
 
1931年、[[ヨシフ・スターリン]]の独裁が始まると、親ユダヤ的な文献は発刊されなくなり、スターリンは反ユダヤ主義などカニバリズムの名残にすぎないと述べた<ref name="p-416-434"/>。スターリンは[[ボリシェヴィキ|「ボリシェヴィキ]]は[[ポグロム]]を組織して党内のユダヤ分子を片付ける」と述べ、[[大粛清]]のなか、ヒトラーと同様の「ユダヤ人世界陰謀説」を持ち出し、ソ連とその影響下にある衛星国家においてユダヤ人迫害を行った<ref>[[#堀邦維]],p.51-52</ref><ref>アーレント「全体主義の起源3」みすず書房、p.xxv</ref>。1934年から1938年のスターリンの大粛清によりユダヤ民族区のユダヤ人指導者は大量に処分された<ref>[[#ポリアコフ 5|ポリアコフ 5巻]],p.319.</ref>。ユダヤ系の詩人[[オシップ・マンデリシュターム|マンデリシュターム]]はスターリンに対して「ゴキブリのような大きな髭」と挑発したため、1938年に逮捕され、[[ウラジオストク]]のグラーグへ移送され没した<ref>[[#ポリアコフ 5|ポリアコフ 5巻]],p.343-4.工藤正広「マンデリシュターム」日本大百科全書(ニッポニカ)小学館.</ref>。
 
 
 
[[1944年]]には、[[ソビエト占領下のポーランドにおける反ユダヤ運動]]が勃発した。
 
 
 
<nowiki>>></nowiki> [[#ソ連・ロシア|「20世紀後半のソ連における反ユダヤ主義」へ移動]]
 
 
 
===フランス===
 
[[1902年]]、ドリュモンの影響を受けた[[サンディカリスム|サンディカリスト]]の[[ピエール・ビエトリー|ビエトリー]]は「フランス黄色全国連盟」を結成し、[[黄色社会主義]]を提唱した。
 
 
 
[[1904年]]、アーリア説を批判するジャン・フィノ<ref>Jean Finot</ref>は現代の社会学、政治学、文学では「アーリア的」と「非アーリア的」という対置が公理にようになっていると指摘した<ref name="p-A-363-380"/>。
 
 
 
作家[[ロマン・ロラン]]はユダヤ人を擁護したが、[[1908年]]『[[ジャン・クリストフ]]』でモークというユダヤ人学者がの外見が「あまりにもユダヤ人的だった。ユダヤ人ぎらいの者が描き出すとおりのユダヤ型、背の低い頭の禿はげた無格好な身体、すっきりしない鼻、大きな眼鏡の後ろから斜視やぶにらみする大きな眼、荒いまっ黒なもじゃもじゃした髯ひげに埋まってる顔、毛深い手、長い腕、短い曲がった足、まったくシリアの小バール神であった」とされ、クリストフが「ユダヤ人であることは不幸だ」というと、モークは「人間であることはもっと不幸である」と答えたと描かれ、さらに「セム種族の広大な倦怠、それはわれわれアリアン種族の倦怠とは別種のものである」とも書かれた<ref>豊島与志雄訳『ジャン・クリストフ(三)』第7巻「家の中」,岩波文庫、[[青空文庫]]:No.42596。[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.394.</ref>。また、同小説では反ユダヤ主義者のオリヴィエがユダヤの神を憎悪の英雄として語る場面がある。
 
 
 
[[1913年]]、アクション・フランセーズ分派と[[ジョルジュ・ソレル]]派の[[サンディカリスト|労働組合主義者(サンディカリスト)]]が合併して、セルクル・プルードンを結成した<ref name="Mehlman24-29">[[#メールマン1987]],pp.24-29.</ref>。セルクル・プルードン創建メンバーの作家[[ジョルジュ・ベルナノス]]は、この組織は右翼というよりも[[サンディカリズム]]組織であり、[[アンリ4世]]万歳と[[インターナショナル (歌)|インターナショナル]]を交互に歌ったと回想している<ref name="Mehlman24-29"/>。セルクル・プルードンは第一次世界大戦中に消滅した<ref name="Mehlman24-29"/>。
 
 
 
レオン・ドーデは[[1913年]]、『戦争前:ドイツ・ユダヤ人のフランスにおける諜報活動の研究と資料』を刊行し、ドイツ人はドレフェスなどユダヤ人スパイを使っていると告発した<ref>Léon Daudet. L'Avant-guerre, études et documents sur l'espionnage juif-allemand en France depuis l'affaire Dreyfus.1913.</ref><ref name="po-4-346-356"/>。
 
 
 
[[File:André Gide.jpg|サムネイル|150px|アンドレ・ジッド]]
 
作家[[アンドレ・ジッド]]は『法王庁の抜け穴』(1914)や『贋金つくり』(1925)でユダヤ人を不快な登場人物として描き、また第一次世界大戦勃発前の[[1914年]][[1月24日]]の日記では「ユダヤ人種の特質はフランス人の特質ではない」とし、「フランス人が言うべきことはフランス人によってしか語られ得ない」、ユダヤ的要素の文学への貢献は新たな要素をもたらすことはないと書いた<ref name="p-4-400-410"/>。[[1948年]]にサルトルの『ユダヤ人』を読み終えた後にジッドはこの1914年1月の日記について今現在もこの一節は正確なものであると信じると書いた<ref name="p-4-400-410"/>。サルトルの書物については、恣意的で混乱しているとして、「ユダヤ人は人間のうちで、最もおだやかな人々である」という文句について「心から賛同する。もっとも、そうはいいながら、執拗で、なおかつ人に不安を抱かせる『ユダヤ人問題』は実在しており、それはすぐに解決を見るどころではない」と批判した<ref name="p-4-400-410"/>。
 
 
 
==== 第一次世界大戦下のフランス ====
 
[[第一次世界大戦]]下のフランスではユダヤ人が戦場で祖国フランスのために犠牲になったことで反ユダヤ主義が低下し、またユダヤ人も愛国主義によってドイツ人を敵視した。[[1914年]]8月、従軍ラビのアブラアム・ブロックが瀕死のキリスト教徒フランス兵士に十字架を差し出した瞬間に銃殺され、戦争美談としてフランスで反響を呼び、さらにスイス、カナダ、メキシコでも報道された<ref name="po-4-346-356"/>。[[1914年]]12月にユダヤ長老派機関『イスラリエット古文書』は、ユダヤ人兵士の愛国主義の結果、反ユダヤ的敵意が消滅するとし、1915年6月には「ユダヤ人、キリスト教徒の別なく、あらゆるドイツ野郎(ボッシュ)がおぞましい」、12月には「フランス人の神とドイツ野郎の神はいかなる共通点もない」とした<ref name="po-4-337-343">[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.337-343.</ref>。[[1915年]]夏、オーストリアとドイツのラビが中立国のアメリカのユダヤ人に向けてドイツの大義を訴えると、フランスのラビはドイツは反ユダヤ主義的な人種理論を作り出したと対抗してアメリカのユダヤ人に訴えた<ref name="po-4-337-343"/>。ユダヤ人作家の[[アンドレ・スピール|スピール]]は第一次世界大戦でオーストリアから17万、ドイツから6万、ブルガリアでは5000人のユダヤ人が兵士として参加しているのは、祖国の名誉と、これまで糾弾されてきたユダヤ人の戦死としての名誉のためであると述べた<ref>André Spire,Les Juifs et la guerre, Payot, 1917</ref><ref name="po-4-337-343"/>。ユダヤ人作家アルノー・マンデルは、はるか昔からラビたちは[[トーラー]]をフランク王国に帰化させ、今やトーラーは[[ラ・マルセイエーズ]]を歌い、ドイツ野郎を倒すのであると述べた<ref name="po-4-337-343"/><ref>Arnold Mandel,Les Temps incertains.</ref>。反ユダヤ的新聞『ルーヴル』編集長ギュスターヴ・テリーは、戦死者にユダヤ人兵士が多いことから反ユダヤ主義を物置に置くことにしたと述べるにいたった<ref name="po-4-337-343"/>。
 
 
 
戦時中、フランスの知識人はドイツを野蛮人として非難していた。フランスのユダヤ系哲学者[[アンリ・ベルクソン|ベルクソン]]は、ドイツとの戦争は「野蛮性に対する文明の闘争」であるとして、「わがアカデミーは、ドイツの凶暴性と破廉恥のなかに、一切の正義と真理を侮蔑する態度のなかに、野蛮状態への復帰をみとめることによって、ひとつの科学的義務をはたす」と演説した<ref name="TMk">「訳者解説」トーマス・マン『非政治的人間の考察』前田敬作・山口知三訳、上巻p.352.筑摩書房.</ref>。作家[[モーリス・メーテルリンク|メーテルリンク]]は「ドイツだけは、国の端から端まで肉食獣」と述べた<ref name="TMk"/>。作家[[モーリス・バレス|バレス]]は、ドイツという野獣に棍棒になれて、文明の法則に服従するまで足枷を強いると述べる一方で<ref name="TMk"/>、ユダヤ人兵士の戦死者に対して武勲を称え、カトリック・プロテスタント・社会主義者・ユダヤ人という分類をやめれば、不特定多数の「フランス人」が出現するとして、王党派も社会主義者も母なる祖国フランスに結びついており、ユダヤ教も「フランス教」の一つであるとした<ref>Barrès,Mes cahiers, tome X :1913-1914,1938年,p.264.</ref><ref name="po-4-346-356"/>。
 
 
 
[[File:Charles Maurras - photo Frédéric Boissonnas.jpg|サムネイル|150px|[[シャルル・モーラス]]]]
 
『[[アクション・フランセーズ]]』の[[シャルル・モーラス]]は[[1914年]][[8月1日]]の総動員令の翌日、敵の打倒のみを考えよう、大事なのは市民の同盟であると訴えた<ref name="po-4-346-356"/>。またモーラスは[[1915年]]12月、ユダヤ人言語学者でドレフェス擁護派だった[[ミシェル・ブレアル]]の死に対して、ブレアルはユダヤ人でありながらフランスに愛着をもり、彼はフランスの精髄、古典を発見したと追悼した<ref name="po-4-346-356"/>。1916年6月20日、『アクション・フランセーズ』は、ユダヤ人兵士を英雄と称賛し、我々はユダヤ人がフランスを支配することに不満を訴えてきたが、ユダヤ人がフランスに奉仕することに不満を訴えたことはないと述べた<ref name="po-4-346-356"/>。他方で、モーラスは1916年5月に、ロシアで共和国政府ができた場合、それはドイツ系ユダヤ人によって支配されていることだろうと述べている<ref name="po-4-360-1">[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.360-1.</ref>。
 
 
 
[[ノートルダム大聖堂 (ランス)|ランス大聖堂]]がドイツ軍に爆撃されると、フランスのラビとキリスト教司祭が愛国の契りを交わし、こうして第一次世界大戦下のフランスではユダヤ教とキリスト教の連合が実現した<ref name="po-4-346-356"/>。
 
 
 
一方で、反ユダヤ的な言論も継続しており、ドリュモンの『リーブル・パロール』は1915年11月、大ラビの勅令でパリに国籍不明のユダヤ人1万人が匿われており、彼らはロシア籍、ルーマニア籍、ギリシャ籍を自称しているが実際にはドイツ語と[[イディッシュ語]]を話していると告発し、また社会学者[[エミール・デュルケーム|デュルケーム]]は「付け鼻をつけたドイツ人」であるとした<ref name="po-4-346-356">[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.346-356.</ref>。『ルーヴル・フランセーズ』紙でユルバン・ゴイエは自著『優等人種の権利』や偽造文書を利用してユダヤ人を攻撃した<ref name="po-4-346-356"/>。また、ユダヤ人陸軍少尉エルツは、新しく移住してきたドイツのユダヤ人はいかがわしく非合法的であるから、この戦争でそうした状況が改善される絶好の機会とみていると手紙で書くなど、ドイツ系ユダヤ人に猜疑心が向けられている<ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.345.</ref>
 
 
 
フランス国籍を持つユダヤ人は徴兵されたが、外国籍のユダヤ人の中には徴兵事務所に出頭しなかったものもいたため、1915年7月にロシア、ギリシア、ルーマニア、ポーランド、イタリア、スペイン、アルメニア国籍のユダヤ人に身元確認の目的で警察への出頭を要求すると、フランス国籍を持たないユダヤ人はパニックになりアメリカへ退去していった<ref name="po-4-346-356"/>。また、ユダヤ人志願兵は外国人部隊に組み込まれ、新兵虐待を受けたため、1915年11月に外国人義勇兵は正規軍に組み込まれた<ref name="po-4-346-356"/>。
 
 
 
[[マルティニスト会]]の作家ジョゼファン・ペラダン<ref>Joséphin Péladan,1858-1918.</ref>は1915年、ドイツでキリスト教が破産したのはドイツがタルムードを実践してユダヤ化したためであったとした<ref name="p-5-418-430">[[#ポリアコフ 5|ポリアコフ 5巻]],pp.418-430.</ref>。
 
 
 
==== ロシア革命と戦間期フランス ====
 
戦時中のフランスの親ユダヤ主義と違って[[戦間期]]フランスでは、ロシア革命の反響で反ユダヤ主義が高まっていった。[[1917年]]2月に[[ロシア革命]]が始まると、『[[アクション・フランセーズ]]』も『リーブル・パロール』も最初は好意的に解説したが、ユルバン・ゴイエは革命はロシアをロシアの人民のためか、それともユダヤ人のために引き渡すのか。ヘブライ人に隷