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このようにフランク王国は政治的枠組み、宗教など多くの面において[[中世ヨーロッパ]]社会の原型を構築した。
 
このようにフランク王国は政治的枠組み、宗教など多くの面において[[中世ヨーロッパ]]社会の原型を構築した。
  
== 歴史 ==
 
=== フランク族の登場と移住 ===
 
[[フランク人|フランク族]]の名前は西暦[[3世紀]]半ばに初めて史料に登場する<ref name="五十嵐2003p317">[[#五十嵐 2003|五十嵐 2003]], p. 317</ref>。記録に残る「フランク(francus または franci)」という言葉の最も古い用例は[[241年]]頃の歴史的事実を踏まえたとされるローマ行軍歌においてである<ref name="佐藤1995ap134">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 134</ref>。これは4世紀に書かれた『皇帝列伝』に収録されて現代に伝わっている<ref name="佐藤1995ap134"/>。[[ローマ人]]は[[ライン川]]中流域に居住するゲルマン人たちを一括して「フランク人」と呼んでいた{{refnest|group="注釈"|この名前は「勇敢な人々」<ref name="五十嵐2003p317"/>、「大胆な人々」<ref name="佐藤1995ap134"/>、あるいは「荒々しい」「猛々しい」「おそろしい」人々という意味である<ref name="渡部1997p45">[[#渡部 1997|渡部 1997]], p. 45</ref>。}}。3世紀から4世紀にかけて、{{仮リンク|カマーウィー族|en|Chamavi}}、[[ブルクテリ族]]、{{仮リンク|カットゥアリー族|en|Chattuarii}}、[[サリ族|サリー族]]、{{仮リンク|アムシヴァリー族|en|Ampsivarii}}、{{仮リンク|トゥヴァンテース族|en|Tubantes}}が、ローマ側の史料において「フランク人」と呼ばれている<ref name="五十嵐2003p317"/>。この呼称はあくまでローマ人側からの呼称であり、この名前で呼ばれたゲルマン人の諸部族が実際に同族意識を持っていたかどうかは不明である<ref name="五十嵐2003p317"/>。[[ローマ帝国]]の国境地帯にこれらの諸部族が居住していたことが、彼らを共通の政治的状況に置き、そのことが彼ら自身とローマ人の意識において共族意識を育んだかもしれない<ref name="五十嵐2003p317"/>。
 
 
ローマ帝国国境地帯に居住した彼ら「フランク人」たちは、その都度従士団を組織して隣接するゲルマン諸部族や、ローマ帝国の属州で略奪を行っていた<ref name="五十嵐2003p317_318">[[#五十嵐 2003|五十嵐 2003]], pp. 317-318</ref>。一方でその勇猛と武力を買われ、ローマ側によって兵士や将軍として「フランク人」が雇われるようになった<ref name="五十嵐2003p318">[[#五十嵐 2003|五十嵐 2003]], pp. 318</ref>。そのような「フランク人」の一人{{仮リンク|クラウディウス・シルウァヌス|en|Claudius Silvanus}}は[[355年]]に{{仮リンク|コロニア・クラウディア・アラ・アグリッピネンシウム|en|Colonia Claudia Ara Agrippinensium|label=コロニア・アグリッピナ}}(現、[[ケルン]])で皇帝(アウグストゥス)を僭称している<ref>[[#松原 2010|西洋古典学辞典 2010]], p. 648 「シルウァーヌス」の項目より</ref>。また、{{仮リンク|メロバウドゥス|en|Merobaudes (general)}}や、{{仮リンク|フラウィウス・バウト|en|Flavius Bauto}}のように西ローマ帝国において[[執政官]]職(コンスル)に就任するフランク人も現れた<ref name="佐藤1995ap134"/>。バウトの甥にあたる{{仮リンク|テウドメール (フランク人の王)|en|Theodemer (Frankish king)|label=テウドメール}}は「フランク人の王({{lang|la|rex Francorum}})」という称号を帯びた最初の人物であり<ref name="佐藤1995ap134"/>、{{仮リンク|マロバウデス|en|Mallobaudes}}というフランク人はローマ軍の将軍を務めた後、「フランク人の王」になり[[378年]]の[[アレマン族]]との戦いを勝利に導いたとされる<ref name="五十嵐2003p318"/>。また、バウトの娘は[[コンスタンティノープル]]の宮廷で教育を受け、[[東ローマ帝国|東ローマ皇帝]][[アルカディウス]]の妃となった<ref name="佐藤1995ap134"/>。このように4世紀後半には東西両帝国の政界でフランク人のめざましい活躍があった。
 
 
[[ファイル:De Franken tussen 400 en 440 jp.svg|thumb|400年から440年まで、フランク人の領土変遷。]]
 
一方、ライン川流域のフランク系諸部族は離合集散を経てサリー・フランク人とライン・フランク人(リプアリー・フランク人)という二つの集団に収斂していった<ref name="五十嵐2003p319">[[#五十嵐 2003|五十嵐 2003]], p. 319</ref>。ライン・フランク人たちは380年代に、{{仮リンク|ゲンノバウド|en|Genobaud}}、{{仮リンク|マルコメール|en|Marcomer}}、{{仮リンク|スンノ|en|Sunno}}という三人の指導者の下、ライン川を越えてローマ領に侵入し周辺を荒らしまわった<ref name="五十嵐2003p318"/>。当時[[西ローマ帝国]]で権勢を極めていた{{仮リンク|アルボガスト (将軍)|en|Arbogast (general)|label=アルボガスト}}は(彼はバウトの息子であり自身もフランク人であったが)侵入したフランク諸部族を殲滅するように主張し迎撃を主導した。ローマ軍との戦闘の後、フランク族、アレマン族の小王たちと[[エウゲニウス]]帝との間に和約が結ばれたとされる<ref name="五十嵐2003p318"/>。[[406年]]にはライン・フランク人たちはローマの同盟軍として[[ヴァンダル族]]、[[スエヴィ族]]、[[アラン人|アラン族]]の侵入に対応した<ref name="五十嵐2003p319"/>。更に遅くとも[[5世紀]]の半ばにはライン・フランク人たちは一人の王を戴く国制を確立していたと考えられる<ref name="五十嵐2003p319"/>。彼らの勢力範囲はケルンを中心とし、ライン川下流域({{仮リンク|ニーダーライン|en|Lower Rhine region}})からライン川中流域の[[マインツ]]にまで広がり、[[モーゼル川]]流域もその支配下にあった。
 
 
[[ファイル:Portrait Roi de france Clodion.jpg|thumb|{{仮リンク|クロディオ|en|Chlodio}}王]]
 
ライン川下流域に勢力を持ったサリー・フランク人は、[[358年]]に[[ブラバント]]北部の{{仮リンク|トクサンドリア地方|en|Toxandri}}<ref group="注釈">ベルギーとオランダにまたがる地域。</ref>への移住をローマ帝国から認められ、国境警備の任にあたるようになった<ref name="五十嵐2003p319"/>。サリー・フランク人の間でも、少なくとも5世紀半ば以降には権力の集中がなされたと考えられる<ref name="五十嵐2003p319"/>。彼らは{{仮リンク|クロディオ|en|Chlodio}}王の指揮下で[[アラス]]付近まで侵入し、[[フン族]]の侵入や[[ウァレンティニアヌス3世|ヴァレンティアヌス3世]]の死による混乱に乗じて[[カンブレー]]も占領、[[ソンム川]]の流域まで達した<ref name="五十嵐2003p319"/>。そしてサリー・フランク人たちもまたローマの同盟軍となる許可を得た<ref name="ル・ジャン2009p16">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p. 16</ref>。
 
 
このようにゲルマン諸部族をローマの同盟軍(フォエドゥス foedus)としてローマ領内に居住地を与える政策がしばしば取られ、それによって西ローマ帝国領の各地にゲルマン系諸部族の「王国」が構築された。フランク王国もその一つであり、他に[[トゥールーズ]](トロサ)を中心とするガリア南部からイベリア半島にかけては[[西ゴート王国]]が<ref>[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 129</ref>、[[ヴォルムス|ウォルマティア]](ヴォルムス)の周囲には[[ブルグント王国]]が形成された{{refnest|group="注釈"|ブルグント族は後に[[フン族]]との戦いで壊滅的な損害を被り、[[サヴォワ|サバウディア]](サヴォワ)地方に移りその地で王国を再建した<ref>[[#松原 2010|西洋古典学辞典 2010]], p. 1065 「ブルグンディオーネース(族)」の項目より</ref>。}}。また、ガリア北西部には[[サクソン人]]が海上から移住した他、[[ケルト人|ケルト系]]の[[ブルトン人]]が[[ブルターニュ半島]]に移住を進めつつあった<ref name="佐藤1995app129_130">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], pp. 129-130</ref>。
 
 
=== メロヴィング朝 ===
 
==== メロヴィング朝の成立 ====
 
{{main|メロヴィング朝}}
 
サリー・フランク人たちはローマ文化から多大な影響を受けていた。そのことは[[1653年]]に[[トゥルネー]]で発見された[[キルデリク1世]](キルデリクス)王の墓の副葬品によって確かめられている<ref name="ル・ジャン2009p16"/>。[[ランス (マルヌ県)|ランス]]司教の[[レミギウス]]の書簡によれば、キルデリク1世は[[ガリア・ベルギカ|第2ベルギカ]]属州を統治し、司教や諸都市に指示を与えていたとされる<ref name="ル・ジャン2009p17">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p. 17</ref>。この時期のサリー・フランク人は、西ローマ皇帝[[マヨリアヌス]]によりガリア軍司令官に任命されていた{{仮リンク|アエギディウス (将軍)|en|Aegidius|label=アエギディウス}}と密接な関係を築いた。ガリアで最大の勢力を築いていた西ゴート族とアエギディウスが戦った時、キルデリク1世はアエギディウスの同盟軍として戦った<ref name="佐藤1995app129_130"/>。このキルデリク1世がメロヴィング朝の最初の「歴史的な」王である<ref>[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p. 7</ref>。メロヴィングという名は、キルデリク1世の父親とされる[[メロヴィクス|メロヴィク]](メロヴィクス)に由来し、「メロヴィクの子孫」という意味である<ref name="佐藤1995app136">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 136</ref>。
 
 
[[ファイル:Conquests of Clovis.png|thumb|481/482年から511年まで、[[クロヴィス1世]]時代の領土変遷]]
 
キルデリク1世の息子が[[クロヴィス1世]]である。クロヴィス1世は[[466年]]頃に生まれ、[[481年|481]]/[[482年]]に父キルデリク1世の死を受けて「フランク人の王」の地位を継いだ<ref name="佐藤1995app136"/>。クロヴィス1世が王位を継承した時、北ガリアではキルデリク1世の同盟者であったガリア軍司令官アエギディウスの息子[[シアグリウス]]が「ローマ人の王」と呼ばれ、カンブレー地方から[[ロワール川]]までの支配権を抑えていた<ref name="佐藤1995app137">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 137</ref>。クロヴィス1世は父親同士が最後まで崩さなかった友好関係を破棄し、北ガリアの覇権を巡ってシアグリウスと争った。[[486年]]に[[ソワソンの戦い]]でクロヴィス1世がシアグリウスを打ち破り、ロワール川流域までフランク族の支配が広がった<ref name="佐藤1995app137"/><ref name="ル・ジャン2009p18">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p 18</ref>。その後クロヴィス1世は周辺諸部族との戦いに次々と勝利を収めていく。[[491年]]にライン地方で{{仮リンク|テューリンゲン族|en|Thuringii}}を撃破して服属させ、[[496年]]に[[スイス]]地方で[[アレマン人]]に勝利した<ref name="佐藤1995app137"/>。[[トゥールのグレゴリウス]]の伝えるところによれば、この間にブルグント王{{仮リンク|グンドバト|en|Gundobad}}の娘[[クロティルダ (フランク王妃)|クロティルダ]]と結婚した。彼女は[[カトリック]]教徒であり、その教化と対アレマン戦での奇跡的な勝機の出現に啓示を得たクロヴィス1世は従士3000人とともに[[ランス (マルヌ県)|ランス]]大司教の[[レミギウス]]によってカトリックの[[洗礼]]を受けたとされる<ref name="佐藤1995app137"/>。
 
 
クロヴィス1世は更に[[507年]]、ライン・フランク人とブルグント族の支援を受け<ref name="ル・ジャン2009p19">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p. 19</ref>、{{仮リンク|ヴイエの戦い|en|Battle of Vouillé}}でガリア最大の勢力であった西ゴート王国に勝利をおさめ、その王[[アラリック2世]]を戦死させた<ref name="佐藤1995app137"/>。西ゴートを支援する[[東ゴート王国]]の介入のために[[地中海]]へ到達することは叶わなかったものの<ref name="ル・ジャン2009p19"/>、これによりガリア南部([[ガリア・アクィタニア]])から西ゴートの勢力を駆逐し、イベリア半島へと追いやった<ref name="佐藤1995app138">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 138</ref>。クロヴィス1世の勢力の急激な拡張はフランク族の他の王たちとの間に軋轢を生んだ。この段階においてもクロヴィス1世はフランク族の唯一の王であったわけではなかった<ref name="五十嵐2003p326">[[#五十嵐 2003|五十嵐 2003]], pp. 326</ref>。クロヴィス1世以外のフランク族の王についての情報は乏しいが、カンブレーを中心とする{{仮リンク|ラグナカール|en|Ragnachar}}、支配地域不明の{{仮リンク|カラリク|en|Chararic (Frankish king)}}、ケルンを中心とする{{仮リンク|シギベルト跛王|en|Sigobert the Lame}}などのフランク王の名が伝えられている<ref name="五十嵐2003p326"/>。西ゴートをガリアから駆逐した後、クロヴィス1世は策略によってこれらの王国を奪い取り、ついに唯一のフランク人の王となった<ref name="五十嵐2003p326"/>。その時期は508年以降であると考えられている<ref name="五十嵐2003p326"/>。このため、後にクロヴィス1世は「フランク王国の初代の王」と記録されている<ref name="五十嵐2003p326"/>。
 
 
また、西ゴート戦からの凱旋の後、東ローマ皇帝[[アナスタシウス1世]]から西ローマの執政官職(コンスル)への任命状が届けられた<ref name="佐藤1995app138"/>。この称号はもはや単なる名誉職に過ぎなかったが、クロヴィス1世の王国が東ローマ皇帝(この時点では唯一のローマ皇帝である)から正式に承認され、フランク王国によるガリア支配がローマの名の下に正当なものであることを意味した<ref name="五十嵐2003p328"/>。クロヴィス1世はコンスルを自身の正式な称号に付け加えることはなかったが、この事実はガリアに多数住むローマ系住民に強くアピールするものであった<ref name="五十嵐2003p328"/>。彼は特にローマ系住民の多いガリア南部の支配を確実なものにするためにこの称号を利用したように思われる<ref name="五十嵐2003p328"/>。
 
 
==== 分王国 ====
 
[[ファイル:フランク王国511年の分割相続.jpg|right|thumb|クロヴィス1世死亡時の分割相続([[511年]])]]
 
クロヴィス1世は[[511年]]、パリにあるシテ島の宮廷で歿した<ref name="佐藤1995app138"/>。フランク族では分割相続の習慣があった。そのため、クロヴィス1世の死後その王国は[[テウデリク1世]]([[ランス (マルヌ県)|ランス]])、[[クロドメール]]([[オルレアン]])、[[キルデベルト1世]]([[パリ]])、[[クロタール1世]]([[ソワソン]])の4人によって分割された<ref name="佐藤1995app140">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 140</ref>。クロヴィス1世の息子たちはフランク王国の領土を更に拡大し、フランクは旧西ローマ帝国領内に成立したゲルマン諸国家の覇者となった<ref name="佐藤1995app140"/>。テウデリク1世とクロタール1世は[[サクソン人]](ザクセン人)の支援を得て[[エルベ川]]から[[マイン川]]至る地域に勢力を持っていたテューリンゲン人の王国を滅ぼし、サクソン人との間で分割した<ref name="佐藤1995app140"/><ref name="渡部1997p51">[[#渡部 1997|渡部 1997]], p. 51</ref><ref name="ル・ジャン2009p25">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p. 25</ref>。キルデベルト1世は[[533年]]に[[ピレネー山脈]]に到達し、[[537年]]には[[プロヴァンス]]を征服した<ref name="ル・ジャン2009p25"/>。彼らは[[524年]]と[[534年]]には二度にわたる遠征によって[[ブルグント王国]]を滅ぼし、支配下に置いた<ref name="佐藤1995app140"/>。そしてアレマンネンと[[バイエルン]]へも勢力拡張が行われたが<ref name="ル・ジャン2009p25"/>、[[ランゴバルド族]]に阻まれて[[イタリア]]への勢力拡張は成らなかった<ref name="ル・ジャン2009p25"/>。
 
 
[[ファイル:フランク王国561年の分割相続.jpg|right|thumb|クロタール1世死亡時の分割相続([[561年]])]]
 
クロヴィス1世の息子たちの王国を、その死後に相続する可能性があった相続人は排除された。[[524年]]にクロドメールが死亡すると、彼の息子たちは暴力によって除かれ、その遺領はキルデベルト1世とクロタール1世によって分割された<ref name="ル・ジャン2009p24">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p. 24</ref>。テウデリク1世は[[534年]]に歿し、その領土は息子の{{仮リンク|テウデベルト1世|en|Theudebert I}}に継承された<ref name="ル・ジャン2009p24"/>。そのテウデベルト1世も[[555年]]に死亡し、キルデベルト1世も[[558年]]に死亡すると、クロヴィス1世の息子の中で唯一人生き残っていたクロタール1世が全フランクの王となり王国は再統一された<ref name="ル・ジャン2009p25-26">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], pp. 25-26</ref>。しかしクロタール1世はサクソン人やテューリンゲン人の蜂起や、息子である{{仮リンク|フラム (アキテーヌ公)|en|Chram|label=フラム}}の反乱に忙殺され、それ以上の勢力拡大はできなかった<ref name="渡部1997p52">[[#渡部 1997|渡部 1997]], p. 52</ref>。彼が[[561年]]に死亡すると、フランク王国は当然のこととしてクロタール1世の息子たちによって再び分割された<ref name="佐藤1995app140"/><ref name="ル・ジャン2009p26">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p. 26</ref>。長兄{{仮リンク|シギベルト1世|en|Sigebert I}}はランスの王国を継承した。この分王国の首都はやがてランスから[[メス (フランス)|メス]]へと移動し、分王国は'''[[アウストラシア]]'''(東王国)と呼ばれるようになった<ref name="佐藤1995app140"/>。次男{{仮リンク|グントラム (ブルグント王)|en|Guntram|label=グントラム}}はオルレアンの王国を継承した。この王国には旧ブルグント王国領が含まれ、その統治に便利な[[シャロン=シュル=ソーヌ]]へ首都が移された<ref name="佐藤1995app141">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 141</ref>。第三子{{仮リンク|カリベルト1世|en|Charibert I}}はパリの王国を、末子[[キルペリク1世]]はフランク族の故地を含む[[ベルギー]]地方を継承した<ref name="佐藤1995app141"/>{{refnest|group="注釈"|この分割割り当ては即興で決まったものではなく、ある程度計画的に予定が建てられていたものである。それはランス近辺を継承したシギベルト1世の名前が、クロヴィス1世によって滅ぼされたライン・フランク人の王シギベルトから取られており、旧ブルグント領を含むオルレアンの王国を継承したグントラムの名が、典型的なブルグント王族の名であることからわかる。彼らがあらかじめその地を継承することを想定して命名されていることは明らかである<ref name="佐藤1995app141"/><ref name="ル・ジャン2009p26"/>。}}。[[567年]]には早くもカリベルトが死亡したため、パリの王国は残る3人によって分割され、その首都パリは一種の中立都市となった<ref name="佐藤1995app141"/>。これによってキルペリク1世の王国は[[大西洋]]沿岸全域を含むようになり、'''[[ネウストリア]]'''(西王国)と呼ばれるようになった<ref name="佐藤1995app141"/>。また、グントラムの分王国は'''[[ブルグンディア]]'''と呼ばれるようになった。[[575年]]、ネウストリア王キルペリク1世の妻[[フレデグンド]]が刺客を放ちアウストラシア王シギベルト1世を暗殺すると、シギベルト1世の息子、{{仮リンク|キルデベルト2世|en|Childebert II}}とその母[[ブルンヒルド]]がアウストラシア王位を継承し、三勢力の間で同盟と離反を繰り返す激しい権力闘争が始まった<ref name="佐藤1995app141"/>。この争いの中で、フランク王国を構成する三つの分王国の枠組みが形成されていき、旧ローマ世界の枠組みは徐々に喪失していった<ref name="佐藤1995app141"/>。
 
 
==== 王家の争い ====
 
版図という意味ではクロタール1世の死亡時がメロヴィング朝で最大の時期であり、以後これを上回る支配地を持つことはなかった<ref name="渡部1997p53">[[#渡部 1997|渡部 1997]], p. 53</ref>。アウストラシア王シギベルト1世は西ゴート王国の王女ブルンヒルドと結婚した。この繋がりに脅威を感じたキルペリク1世は元の妻を退け、自らも西ゴートの王女でブルンヒルドの姉妹である{{仮リンク|ガルスヴィンタ|en|Galswintha}}と結婚した<ref name="ル・ジャン2009p26">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p. 26</ref>。しかしキルペリク1世の愛妾フレデグンドはガルスヴィンタを殺害し、自らが王妃の地位に上ったと伝えられている<ref name="ル・ジャン2009p26"/>。このため、恐らくブルンヒルドの強い意向の下、シギベルト1世はキルペリク1世と対立するようになった<ref name="ル・ジャン2009p26"/>。これに対してネウストリア王妃となったフレデグンドとキルペリク1世はシギベルト1世の暗殺という対応で応えた<ref name="ル・ジャン2009p27">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p. 27</ref>。
 
 
[[ファイル:フランク王国587年.jpg|right|thumb|アンドロ条約後の所領([[587年]])クロタール2世は613年までにこの全域を手中にした。]]
 
ブルンヒルドとシギベルト1世の廷臣たちは残された幼い王子{{仮リンク|キルデベルト2世|en|Childebert II}}をアウストラシア王に選出したが、外国出身の王妃の立場は不安定であった<ref name="ル・ジャン2009p27"/>。彼女はやむなくブルグンディア分王国の王グントラムに支援を求めた。息子がいなかったグントラムは要請に応じキルデベルト2世を養子とした<ref name="ル・ジャン2009p27"/>。更に、[[584年]]にはキルペリク1世も暗殺された。彼もまた、幼い王子[[クロタール2世]]を遺したのみであり、フレデグンドもまたグントラムに後見を求め、クロタール2世はグントラムの庇護下に入った。この結果二人の甥を後見することとなったブルグンディア王グントラムは[[587年]]に仲介者として{{仮リンク|アンドロ条約|en|Treaty of Andelot}}を締結させた<ref name="ル・ジャン2009p27"/>。この条約によって、不透明であった領土上の問題が解決された。また、争いの発端となった王妃ガルスヴィンタ殺害事件の後に残された彼女の持参財を、姉妹であるブルンヒルドが相続することも定められた<ref name="ル・ジャン2009p27"/>。また、グントラムの後継者は養子となったキルデベルト2世であることも決定された<ref name="ル・ジャン2009p27"/>。
 
 
南ガリアではクロタール1世の遺児を自称する{{仮リンク|グンドワルドゥス|en|Gundoald}}が王位を主張して勢力を拡大した。[[コンスタンティノープル]]からやってきた彼は、東ローマ帝国の支配をこの地に及ぼすための使者ではないかという見方が広まり、そのことが[[ボルドー]]司教{{仮リンク|ベルトラムヌス|en|Bertechramnus}}を始めた多数の有力者が彼の陣営に馳せ参じる原因となった<ref name="佐藤1995app143">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 143</ref>。結局この僭称者はグントラムが派遣した軍隊によって{{仮リンク|サン=ベルトラン=ド=コマンジュ|en|Saint-Bertrand-de-Comminges}}で討たれた<ref name="佐藤1995app143"/>。
 
 
[[592年]]にグントラムが死亡すると、キルデベルト2世がアウストラシアとブルグンディアを相続し、フランク王国の大部分を支配することとなった<ref name="ル・ジャン2009p27"/>。一方クロタール2世はネウストリアを継承した。ところが早くも[[596年]]にキルデベルト2世が死去すると、その息子{{仮リンク|テウデベルト2世|en|Theudebert II}}がアウストラシアを、{{仮リンク|テウデリク2世|en|Theuderic II}}がブルグンディアを継承した。当初は祖母ブルンヒルドの監督下に置かれたが、兄弟は不和となり、[[612年]]にテウデリク2世はテウデベルト2世を攻めてこれを打ち滅ぼした<ref name="ル・ジャン2009p28">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p. 28</ref>。この兄弟の争いはネウストリア王クロタール2世に漁夫の利を与えた。アウストラシアの廷臣であった{{仮リンク|アルヌルフ (メッツ司教)|en|Arnulf of Metz|label=アルヌルフ}}と[[ピピン1世|ピピン]]は、テウデリク2世に対抗するためにクロタール2世の支援を求め、これに応じたクロタール2世の攻撃によって[[613年]]にテウデリク2世とその息子たちは殺害された<ref name="ル・ジャン2009p28"/>。クロタール2世はその年、老王妃ブルンヒルドも捕らえて処刑した。これによってフランク王国は半世紀ぶりにただ一人の王、クロタール2世の下に統治されることになった<ref name="佐藤1995app144">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 144</ref>。
 
<gallery>
 
ファイル:Sigebert Ier.jpg|シギベルト1世、16世紀の作品。
 
ファイル:Chilperic I & Fredegunde00.jpg|キルペリク1世とフレデグンド
 
ファイル:Brunhilda.jpg||ブルンヒルドの処刑
 
</gallery>
 
 
==== クロタール2世とダゴベルト1世 ====
 
[[ファイル:ClovisDomain japref.jpg|400px|right|thumb|メロヴィング朝フランク王国([[600年]]ころ)]]
 
クロタール2世はただ一人の王となったが、半世紀にもわたる分裂を通じてアウストラシア、ネウストリア、ブルグンディアという枠組みにそった政治的伝統が確立されており、クロタール2世がネウストリアを軸にして一元的な王国として統合するのは困難であった<ref name="佐藤1995ap145">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 145</ref>。[[614年]]、秩序を再編するためにパリで三つの王国の司教、有力者を集めた集会を開かれた<ref name="ル・ジャン2009p29">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p. 29</ref><ref name="佐藤1995ap145"/>。クロタール2世の勝利には、アウストラシアやブルグンディアの貴族勢力が重要な役割を果たしており、彼らの意向を無視することは政治的な冒険であった<ref name="佐藤1995ap145"/>。このためアウストラシアとブルグンディアの貴族たちがそれぞれの分王国を[[宮宰]]によって自律的に統治することを主張した時、クロタール2世はこれを拒否することはできなかった<ref name="佐藤1995ap145"/>。貴族たちが国王大権を認める代わりに、王は貴族や教会の特権を承認した<ref name="ル・ジャン2009p29"/>。各分王国の国王の役人は、それぞれの分王国の在地の人間から登用されることが定められ、彼らの不正や横領については自らの財産によって責任を負うことも定められた<ref name="ル・ジャン2009p29"/>。この決定は歴史上「{{仮リンク|パリ勅令|en|Edict of Paris}}」の名で知られている<ref name="佐藤1995ap145"/>。これはしばしば貴族側の地域的利害に対する王権の屈服を示す証拠として歴史学者から取り扱われるが、少なくてもクロタール2世の時代には王権は貴族層を掣肘する実力を有していたと考えられ、むしろ各分王国(特に勝者であるネウストリア)の貴族が無分別に他の分王国に勢力を拡張するのを防止する処置として当初は構築されたものとされる<ref name="佐藤1995ap145"/>。クロタール2世の貴族に対する強力な指導力を示す出来事として、ブルグンディアの宮宰{{仮リンク|ワルカナリウス2世|en|Warnachar II}}が626年に死去した際、その息子が地位を継承することを阻止するために即座に介入を行い、門閥の形成を阻止したことがあげられる<ref name="佐藤1995app146">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 146</ref>。この事件の後、ブルグンディアは地位的特性は維持したものの、政治的にはネウストリアと一体化し、ネウストリア=ブルグンディア分王国としてその歴史を歩むことになる<ref name="佐藤1995app146"/>。
 
 
[[ファイル:Clotaire II Dagobert Ier et saint Arnoul.jpg|left|thumb|クロタール2世と幼いダゴベルト1世、14か15世紀の作品。]]
 
しかし、パリを拠点に全王国を統治したクロタール2世は独自の王の擁立を主張するアウストラシア貴族層の要求に折れ、[[623年]]に15歳の息子[[ダゴベルト1世]]をアウストラシア王として送り出した<ref name="佐藤1995app146"/>。アウストラシアの政界で権力を握ったのは宮宰のピピン1世(大ピピン)とメス司教アルヌルフであった<ref name="佐藤1995app146"/>。当時のアウストラシアの脅威は[[バイエルン]]の[[クロドアルド]]({{lang|de|Chrodoald}})であったが、ピピン1世とアルヌルフはダゴベルト1世を巧みに操りバイエルンの脅威を除くことに成功した<ref name="佐藤1995app146"/>。だが、ダゴベルト1世は単なる傀儡で終わる人物ではなかった。629年にクロタール2世が死去すると、ダゴベルト1世はアウストラシア貴族の支持を得てネウストリア=ブルグンディア分王国をただちに掌握した<ref name="佐藤1995app147">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 147</ref>。そして自身の宮宰であるピピン1世がネウストリアでも勢力を振るうのを避けるため、ネウストリアの宮宰として{{仮リンク|アエガ (宮宰)|en|Aega (mayor of the palace)|label=アエガ}}という人物を登用し、ブルグントの貴族には自前の軍隊を編成することを承認して慰撫した<ref name="佐藤1995app147"/>。
 
 
ダゴベルト1世はまたフランク王国の拡大と国境地帯の安定にも意欲を見せた。異母弟の{{仮リンク|カリベルト2世|en|Charibert II}}に[[トゥールーズ]]を首都とする{{仮リンク|ノヴェンポプラニア|en|Novempopulania}}を与え、[[バスク人]]に対抗させた。カリベルトはバスク人を討ち南の国境を安定させたが程なくして死亡した<ref name="佐藤1995app147"/>。また、[[ブルターニュ]]地方ではブルトン人の王{{仮リンク|聖ユディカエル|en|Saint Judicael}}を威圧して服属を約させ、ライン川下流域では[[フリース人]]から[[ユトレヒト]]と{{仮リンク|ドレスタット|en|Dorestad}}の要塞を奪った<ref name="佐藤1995app147"/>。フランク人の冒険商人{{仮リンク|サモ (サモ王)|en|Samo|label=サモ}}が[[ボヘミア]]に組織した[[ヴェンド人]]の国家に対する大規模な遠征も[[631年]]に行われたが、この遠征はさしたる成果を上げることなく終わった<ref name="佐藤1995app147"/>。[[633年]]には、ダゴベルト1世の長子{{仮リンク|シギベルト3世|en|Sigebert III}}がアウストラシア王として擁立された<ref name="ル・ジャン2009p30">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p. 30</ref>。
 
 
ダゴベルト1世はキリスト教会とも密接な関係を築いた。パリ北部にあるサン=ドニ修道院(現[[サン=ドニ大聖堂]])へ広大な土地と流通税免除特権、および大市での取引税収入を付与する特権賦与状が発行され、この後サン=ドニ修道院はフランク王国と後の[[フランス王国]]の王室の埋葬修道院として機能するようになった<ref name="佐藤1995app147"/>。また、ダゴベルト1世の宮廷で教育を受けた高級官職者たちはその死後に一斉に宮廷生活を離れ聖界へ身を投じ司教や修道院長として活躍した<ref name="佐藤1995app148"/>。異教の風習が根強く残るネウストリアの沿岸地方で伝道が行われるとともに、教区の組織化や[[修道院]]の建設が熱烈に行われた<ref name="佐藤1995app148"/>。7世紀の間に北ガリアの田園地帯だけで180あまりの修道院が建設されたが、そのほとんどはダゴベルト1世の宮廷の廷臣たちによって、あるいは彼らの影響下において建設された<ref name="佐藤1995app148"/>。
 
 
==== 宮宰の政治 ====
 
[[ファイル:Albert Maignan - Hommage à Clovis II.jpg|thumb|''クロヴィス2世への貢物''、{{仮リンク|アルベール・メニャン|en|Albert Maignan}}作、1883年。]]
 
[[639年]]にダゴベルト1世が病没した時、その息子[[クロヴィス2世]]はまだ5歳であった<ref name="佐藤1995app148">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 148</ref>。アウストラシアではダゴベルト1世の生前からシギベルト3世が王として君臨していたのに対し、ネウストリア=ブルグンディア分王国ではダゴベルト1世の未亡人{{仮リンク|ナンティルド|en|Nanthild}}と宮宰アエガが実権を握った<ref name="佐藤1995app148"/>。アエガの死後にはネウストリア北西地方の有力家門出身の{{仮リンク|エルキアノルド|en|Erchinoald}}が宮宰職を引き継ぎ、権勢を振るった<ref name="ル・ジャン2009p31">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p. 31</ref>。エルキアノルドはダゴベルト1世の母{{仮リンク|ベルテトルド|en|Bertrude}}の縁戚であり、自分の娘を[[イングランド]]の[[ケント王国|ケント王]]に嫁がせるとともに、自分が所有する[[アングロ・サクソン]]人の家内[[奴隷]]{{仮リンク|バルティルド|en|Balthild}}をクロヴィス2世の王妃とした<ref name="佐藤1995app149">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 149</ref>。これによってエルキアノルドは終始ネウストリアの宮廷で強力な発言権を維持することができた<ref name="佐藤1995app149"/>。エルキアノルドの周囲を取り巻く状況が強く[[英仏海峡]]地帯の色彩を帯びていることは、この時代に海峡地方の商業的、政治的結びつきが深化していたことを示すと考えられている<ref name="佐藤1995app149"/>。
 
 
クロヴィス2世も[[657年]]に死去すると次の王[[クロタール3世]]も幼くして即位し、寡婦となったバルティルドが摂政となった<ref name="佐藤1995app149"/>。かつての主人であったエルキアノルドも[[658年]]に死去すると、彼女は中央集権的な体制を構築しようと目論見、また修道院への強い共感から、修道院を司教権力から免属させることを試みた<ref name="佐藤1995app149"/>。このバルティルドの政策により、ブルグントの自立を画策していた幾人かの司教が殺害されるとともに、修道院は司教の監督下から自由となり資産管理を独自に行うことができるようになった<ref name="佐藤1995app149"/>。このことは後の大規模領主としての修道院誕生の制度的起源となった<ref name="佐藤1995app149"/>。バルティルドは更に中央集権の進展を期待してネウストリア宮廷の行政部出身の[[エブロイン]]を宮宰に任命した<ref name="佐藤1995app149"/><ref name="ル・ジャン2009p31"/>。しかしクロタール3世が成長して親政を始めるとバルティルドと対立するようになり、結局エブロインによってバルティルドは修道院に押し込められ終生をそこで過ごすことになった<ref name="佐藤1995app150">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 150</ref>。このエブロインは非貴族層の出身でありネウストリアの貴族層とたびたび対立した<ref name="佐藤1995app150"/>。エブロインは中央集権を目指すバルティルドの政策は引き継ぎ、国王権力を強化するとともに分離主義的なブルグンディアの動きに対抗した<ref name="佐藤1995app150"/><ref name="ル・ジャン2009p31"/>。クロタール3世が[[672年]]に死去すると、ネウストリア貴族と協議することなく最も若い王子である[[テウデリク3世]]を王位につけることを画策した<ref name="佐藤1995app150"/>。これには[[オータン]]司教[[レオデガル (オータン司教)|レウデガリウス]]を中心に激しい反対の声が上がり、エブロインはとらえられて{{仮リンク|リュクスイユ修道院|en|Luxeuil Abbey}}に幽閉されることとなった<ref name="佐藤1995app150"/>。しかし隙を見て脱出したエブロインは政権を取り戻し、レウデガリウスを斥けてテウデリク3世とともに再びネウストリアの支配権を握った<ref name="佐藤1995app150"/><ref name="ル・ジャン2009p32_33">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], pp. 32-33</ref>。
 
[[ファイル:Theuderic III.jpg|left|thumb|テウデリク3世]]
 
 
一方のアウストラシアでは前述のシギベルト3世が王位にあったが、政治の実権は対立党派を退けて宮宰となった[[グリモアルド1世]]が掌握していた<ref name="佐藤1995app150"/>。彼はピピン1世の息子である。グリモアルド1世は絶大な権力を振るい、王に嫡子がいなかったことを利用して自分と同名の息子グリモアルドをシギベルト3世の養子とし、[[キルデベルト養子王|キルデベルト]](養子王)と改名させた<ref name="佐藤1995app150"/><ref name="ル・ジャン2009p31"/>。だが、間もなくシギベルト3世に息子{{仮リンク|ダゴベルト2世|en|Dagobert II}}が誕生したため、[[656年]]にシギベルト3世が死去すると当然の如く王位継承に問題が発生した<ref name="佐藤1995app150"/>。グリモアルドはダゴベルト2世を[[アイルランド]]の修道院に追放し、自らの息子キルデベルトを王位につけることに成功した<ref name="佐藤1995app150"/>。だが、この王位の簒奪を批判したネウストリア王クロタール3世がアウストラシアを急襲し、[[662年]]にグリモアルド1世はとらえられ殺害された<ref name="佐藤1995app150"/>。こうしてアウストラシア王位にはクロタール3世の兄弟[[キルデリク2世]]が据えられたが、彼もまた[[675年]]にネウストリア貴族の一派によって暗殺された<ref name="佐藤1995app150"/>。次いでアイルランドの修道院からダゴベルト2世が呼び戻されアウストラシア王となったが、彼も[[679年]]に暗殺の憂き目にあった<ref name="佐藤1995app150"/>。ダゴベルト2世暗殺の実行者とされるヨハネスはネウストリアの宮宰エブロインの手のものであったとされており、このような暗殺劇はエブロインがネウストリアを中心としたフランク王国の完全な統合を目指していたことを示すと考えられる<ref name="佐藤1995app151">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 151</ref>。
 
 
この一連の混乱によってネウストリア=ブルグンディア王のテウデリク3世が存命している唯一のメロヴィング家の王となった<ref name="佐藤1995app151"/>。更にエブロインはテウデリク3世への服属を要求してアウストラシアへ軍を進め、[[680年]]、アウストラシアで権力を手中にしていた[[ピピン2世]](中ピピン<ref group="注釈">ピピン1世(大ピピン)の娘{{仮リンク|ベッガ|en|Begga}}と、アルヌルフの息子{{仮リンク|アンセギゼル|en|Ansegisel}}の息子。グリモアルドの甥にあたる。</ref>)と[[マルティヌス]]の軍を撃破した<ref name="佐藤1995app151"/><ref name="ル・ジャン2009p33">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p. 33</ref>。しかし間もなくエブロインも彼に恨みを持つネウストリアの貴族[[エルメンフレドゥス]]({{lang|la|Ermenfredus}})によって暗殺された<ref name="ル・ジャン2009p33"/>。
 
 
[[ファイル:Clovis III and Pepin of Herstal.png|thumb|クロヴィス3世とピピン2世(右)]]
 
エブロインの死後、ネウストリアの宮宰になったのが{{仮リンク|ワラトー|en|Waratton}}である<ref name="佐藤1995app151"/>。ワラトーは就任後すぐにピピン2世と和平を結んだが、これに反対するワラトーの息子{{仮リンク|ギスルマール|en|Gistemar}}は父を追放し、ピピン2世との戦いを再開した<ref name="佐藤1995app151"/>。ギスルマールはこの戦いの中で戦死し、再びワラトーが宮宰職に返り咲いた<ref name="佐藤1995app151"/>。ワラトーの死後、その妻である{{仮リンク|アンスフレディス|fr|Anseflède}}が長老として大きな発言権を保持するようになった<ref name="佐藤1995app151"/>。アンスフレディスの意向により彼女の娘婿の[[ベルカル|ベルカリウス]]がネウストリアの宮宰となった<ref name="佐藤1995app151"/>。アウストラシアにおいてピピン一門が宮宰職を事実上世襲したように、ネウストリアにおいてもこの職は門閥的支配の道具となっていた<ref name="佐藤1995app151"/>。この状況はネウストリア貴族の間に強い不満を醸成させた。その代表がランス司教{{仮リンク|レオルス (ランス司教)|en|Rieul of Reims|label=レオルス}}であり、彼の扇動によりピピン2世は大量の従士軍を動員してネウストリアに進軍した<ref name="佐藤1995app151"/>。[[テルトリーの戦い]]でピピン2世率いるアウストラシア軍が勝利した後、ピピン2世は唯一のフランク王として君臨していたテウデリク3世を手中に収め、王国のただ一人の宮宰となった<ref name="佐藤1995app151"/>。
 
 
==== カロリング家の台頭 ====
 
[[ファイル:フランク王国714年.jpg|thumb|714年、ピピン2世が死去した時点のフランク諸王国。]]
 
[[ファイル:Steuben - Bataille de Poitiers.png|left|thumb|トゥール・ポワティエ間の戦い、1837年作、[[ヴェルサイユ宮殿]]所蔵。]]
 
ピピン2世が[[714年]]に歿した時、その妻[[プレクトルード]]の間には{{仮リンク|ドロゴ (シャンパーニュ公)|en|Drogo of Champagne|label=ドロゴ}}と[[グリモアルド2世]]という二人の息子がいたが既に死没していた<ref name="佐藤1995app154">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 154</ref>。また内縁関係にあった{{仮リンク|アルパイダ|en|Alpaida}}との間に息子[[カール・マルテル|カール]](カール・マルテル)が生まれた<ref name="佐藤1995app154"/>。実権を握ったプレクトルードは、グリモアルドの子供で自身の孫にあたる[[テウドアルド]]を後継者に選び、カールを幽閉した<ref name="佐藤1995app154"/>。しかしこの人事にネウストリア貴族たちは従わず、同じネウストリア人である[[ラガンフリド]]を自分たちの宮宰に選出した<ref name="佐藤1995app154"/><ref name="ル・ジャン2009p36">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p 36</ref>。ラガンフリドはプレクトルードが派遣したアウストラシア軍を撃破しキルデリク2世の息子ダニエルを修道院から引っ張り出して[[キルペリク2世]]としてネウストリア王に擁立した<ref name="佐藤1995app154"/>。
 
 
この敗北によってアウストラシアが混乱に陥ると、その隙をついてカールが脱出しアウストラシア軍の敗残兵を糾合してネウストリア軍への対応を引き継いだ<ref name="佐藤1995app154"/>。[[716年]]、カールは[[マルメディの戦い]]でネウストリア軍を撃破し、翌年には{{仮リンク|ヴァンシーの戦い|en|Battle of Vincy}}でも勝利した<ref name="佐藤1995app154"/>。更に[[719年]]、バスク人などと手を結んだラガンフリドに対し[[サンリス]]と[[ソワソン]]の間でカールが勝利をおさめた<ref name="佐藤1995app154"/>。カールはその後ライン地方を掌握し、[[732年]]にはイベリア半島から北上してきた{{仮リンク|アブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキー|en|Abdul Rahman Al Ghafiqi}}率いるイスラーム軍を[[トゥール・ポワティエ間の戦い]]で撃破して以後のイスラーム勢力のヨーロッパでの拡張を抑えることに成功した<ref name="佐藤1995app155">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 155</ref><ref>[[#バラクロウ 2012|バラクロウ 2012]], p. 63</ref>。
 
 
カールは[[735年]]以降にはほとんど毎年のようにガリア南部の[[南フランス|ミディ]]地方や[[プロヴァンス]]地方に遠征を行った<ref name="佐藤1995app155"/>。この遠征による破壊と惨禍はイスラームによるそれを遥かに凌駕するものであり、未だ古代的な名残を留めていた南部社会の転換期を画する程のものであった<ref name="佐藤1995app155"/>。このことから彼の行動は神が振り下ろした鉄槌(マルテル)とされるようになり、彼は「カール・マルテル」の名で後世に知られることになった<ref name="佐藤1995app155"/><ref>[[#佐藤 2013|佐藤 2013]], pp. 15-16</ref>。[[737年]]には当時フランク王の座にあった[[テウデリク4世]]が死去したが、その後王位は空位のまま放置された<ref name="ル・ジャン2009p37">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p. 37</ref>。もはや実質的なフランク王国の支配者がメロヴィング家の王ではないことは誰の目にも明らかであった<ref name="ル・ジャン2009p37"/>。
 
 
[[739年]]には、ランゴバルド族の侵攻に窮した[[ローマ教皇]][[グレゴリウス3世 (ローマ教皇)|グレゴリウス3世]]がカール・マルテルに救援を求めてきた<ref name="斎藤2008p133">[[#斎藤 2008|斎藤 2008]], p. 133</ref>。カール・マルテルはランゴバルド王{{仮リンク|リウトプランド|en|Liutprand, King of the Lombards}}と同盟を結んでいたためこの時の救援は行われなかったが、[[東ローマ帝国]]の実質的な保護を喪失しつつあったローマ教皇庁はこの頃からフランク王国の庇護を求め始める<ref name="斎藤2008p133"/>。
 
 
=== カロリング朝 ===
 
==== カロリング朝の成立 ====
 
{{main|カロリング朝}}
 
フランク王国の事実上の支配者として内外から認識される存在となっていたカール・マルテルは[[741年]]に死去した<ref name="佐藤1995app156">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 156</ref><ref>[[#バラクロウ 2012|バラクロウ 2012]], p. 63</ref>。この時点でカール・マルテルには正妻{{仮リンク|クロドトルード|en|Rotrude of Hesbaye}}との間に[[カールマン (アウストラシア宮宰)|カールマン]]と[[ピピン3世]](小ピピン)、内縁関係にあったバイエルン王女{{仮リンク|スワナヒルド|en|Swanachild}}との間に{{仮リンク|グリフォ|en|Grifo}}という息子がいた<ref name="佐藤1995app156"/>。死の直前、カール・マルテルはフランク的伝統に則り、王国を三分割してそれぞれの息子に分与しようとしたが、クロドトルードの二人の息子、カールマンとピピン3世は共謀してグリフォを捕らえ、[[ヌフシャトー]]([[ルクセンブルク]])に幽閉してグリフォの相続分を二人で分割した<ref name="佐藤1995app156"/>。結果、カールマンの支配地は[[ルーアン]]、[[セーヌ川]]、パリ、ソワソンを結ぶ線の西側全域となり、ピピン3世の持ち分はアウストラシアとなった<ref name="佐藤1995app156"/>。彼らは協力して空位となっていたフランク王位にキルペリク2世の息子[[キルデリク3世]]を擁立し、自分たちの支配権の正統性を根拠づけた<ref name="佐藤1995app156"/>。
 
 
[[ファイル:Childeric III.jpg|thumb|キルデリク3世の剃髪。]]
 
[[747年]]、突如カールマンが俗世を放棄してイタリアの[[モンテ・カッシーノ修道院]]に隠棲するという事件が発生した<ref name="佐藤1995app157"/>。また、恩赦によって釈放されたグリフォは結局ザクセンとバイエルンの協力を得て反乱を起こした。この反乱は747年のザクセン遠征と、翌[[748年]]のバイエルン遠征によって鎮圧された<ref>[[#エーヴィヒ 2017|エーヴィヒ 2017]], pp. 24-25</ref>。この結果、事実上フランク王国の単独の支配者(宮宰)となったピピン3世はメロヴィング家の王を廃して自ら王位に就くことを画策するようになった<ref name="佐藤1995app157">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 157</ref>。ネウストリア貴族などの強い抵抗が予想されたため、ピピン3世はローマ・カトリック教会の権威を求め、教皇[[ザカリアス (ローマ教皇)|ザカリアス]]に協力が要請された<ref name="佐藤1995app157"/>。ローマ教会側でも政治的庇護者を必要としていたことから、この内諾が得られると、[[751年]]にソワソンで「フランク人」が招集されその場でフランク王に推戴され、また神によって王に選ばれたことを示す[[塗油]]の儀式が教皇特使[[聖ボニファティウス|ボニファティウス]]によって行われた<ref name="佐藤1995app157"/><ref name="渡部1997p69">[[#渡部 1997|渡部 1997]], p. 69</ref>{{refnest|group="注釈"|ピピン3世の即位はゲルマン法の慣習に則り、成員による選挙による形態をとった。一方で[[旧約聖書]]の記述による国王塗油の儀式を通じてキリスト教的観点から強化された。この国王塗油については既にイベリア半島の西ゴート王国が滅亡前に慣例化しており、西ゴートの慣習がフランク王国に影響を及ぼした可能性もある<ref>[[#エーヴィヒ 2017|エーヴィヒ 2017]], pp. 25-26</ref>。}}。この国王塗油の儀式はまた、カロリング家がメロヴィング家の「神聖な」血統に基づく権威に勝る新たな権威を教会に求めたことを意味した<ref name="渡部1997p69"/>。このためピピン3世の祝聖は西ヨーロッパにおけるキリスト教的王権観の発展にとって画期的意義を持つものとなった<ref name="エーヴィヒ2017p26">[[#エーヴィヒ 2017|エーヴィヒ 2017]], p. 26</ref>。メロヴィング家の最後の王、キルデリク3世は剃髪の上で{{仮リンク|サン=ベルタン修道院|en|Abbey of Saint Bertin}}に、その息子テウデリクが{{仮リンク|サン=ヴァンドリーユ修道院|en|Abbey of Saint Wandrille}}に、それぞれ幽閉され二度と歴史の舞台に立つことはなかった<ref name="佐藤1995app157"/>。こうしてカロリング(カール・マルテルの子孫)の王朝が成立した。
 
 
==== ピピンの寄進 ====
 
[[ファイル:La donacion de Pipino el Breve al Papa Esteban II.jpg|left|thumb|ピピンの寄進]]
 
ピピン3世の即位を通じて神と人の仲保者キリストの代理人としての国王、教会の保護者としての国王の職務が強調されるようになった<ref name="渡部1997p69"/>。ピピン3世は教会会議を開催し、教会に土地を付与して保護し、司教を教区の最高の長とし、大司教区を設置した<ref name="渡部1997p69"/>。[[754年]]、教皇[[ステファヌス3世]]は更なるランゴバルド王国からの攻撃に対抗するため東ローマ帝国の支援を求めたが何ら有効な支援が得られず、代わりにフランク王国へと赴いた。ピピンはローマ・カトリック教会の厚意に報い、教皇とともにイタリア遠征を行ってランゴバルド王国の王[[アイストゥルフ]](アストルフォ)に宗主権を認めさせるとともに、彼が東ローマ帝国から奪った[[ラヴェンナ]]の総督府とその周囲の都市をローマ教皇へ返還させた<ref name="斎藤2008p134">[[#斎藤 2008|斎藤 2008]], p. 134</ref>。ピピン3世が帰国するとアイストゥルフは再度ローマを攻撃したため、[[756年]]に再びフランク軍がランゴバルドを攻撃し、その占領地を奪回した<ref name="斎藤2008p134"/>。アイストゥルフは降伏し、ランゴバルド王国はその王領地の3分の1を引き渡し、かつてメロヴィング朝時代に課せられていた貢納が復活されることになり、フランク国王の全権委任者の手を経て占領地をローマ教皇へ「返還」することを余儀なくされた<ref name="エーヴィヒ2017p34">[[#エーヴィヒ 2017|エーヴィヒ 2017]], p. 34</ref>。ピピン3世はこの時、都市ローマの宗主権と奪還したラヴェンナ総督府領や[[チェゼーナ]]、[[リミニ]]、[[ペサロ]]、[[サン・マリノ]]、{{仮リンク|モンテフェルトロ|en|Montefeltro}}、[[ウルビーノ]]などの都市を教皇に寄進した<ref name="佐藤1995app157"/>。これが歴史上「'''[[ピピンの寄進]]'''」(ピピンの贈与)と呼ばれるものであり、これによって[[ローマ教皇領]]の基礎が形成されることになった<ref name="佐藤1995app157"/>。東ローマ帝国からの急使がピピン3世を訪れラヴェンナ総督府領は帝国の領土であるという抗議を行ったが、ピピン3世は自身が聖[[ペトロ]]への敬愛と自らの罪の赦しのために戦いに従事しているのであり、それによって得られたものは聖ペトロのものとなるべきだと主張して反論した<ref>[[#バラクロウ 2012|バラクロウ 2012]], pp. 74-75</ref><ref name="エーヴィヒ2017p34"/>。
 
 
また、ピピン3世はイタリアの他にも国境地帯へ軍を派遣して各地を制圧した。[[752年]]からは西ゴート王国滅亡後も西ゴート人が現地で勢力を持っていた[[セプティマニア]]の支配に取り掛かり、[[759年]]には最後に残った都市[[ナルボンヌ]]の在地西ゴート人勢力に対し引き続き西ゴート法を適用することを保証してこれを支配下においた<ref name="佐藤1995app158">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 158</ref>。これによってフランク王国は初めてガリア全土を支配下に置いた<ref name="佐藤1995app158"/>。また当時名目上フランク王国領ではあったものの事実上独立勢力化していた[[アキテーヌ]]の大公{{仮リンク|ワイファリウス|en|Waiofar}}を攻撃した。アキテーヌの制圧はてこずり、結局[[768年]]にワイファリウスが暗殺されるまで続いた<ref name="佐藤1995app158"/><ref name="渡部1997p70">[[#渡部 1997|渡部 1997]], p. 70</ref>。
 
 
==== カール大帝(シャルルマーニュ) ====
 
[[ファイル:フランク王国768年.jpg|right|thumb|カール1世とカールマン1世によるフランク王国の分割相続([[768年]])]]
 
ピピン3世は[[768年]]に歿し、その息子[[カール大帝|カール1世]](シャルル、大帝)と[[カールマン (フランク王)|カールマン1世]]が即位した。カール1世がアウストラシア中枢部、ネウストリア沿岸部、アキテーヌの西半を、カールマン1世はブルゴーニュ(ブルグンディア)、[[アレマンネン]]、[[ラングドック]]、[[プロヴァンス]]を分割して継承した<ref>[[#佐藤 2013|佐藤 2013]], pp. 21-22</ref><ref name="五十嵐2010p87">[[#五十嵐 2010|五十嵐 2010]], p. 87</ref>。『[[偽フレデガリウス年代記|フレデガリウス年代記]]』によればこの分割相続は、ピピン3世の死の数日前に聖俗の貴族との相談で決まったという<ref name="五十嵐2010p87"/>。だが両者の不仲はすぐに深まり、既に翌769年には対立は決定的なものとなっていた<ref name="五十嵐2010p88">[[#五十嵐 2010|五十嵐 2010]], p. 88</ref>。更にカール1世の長子ピピンが先天性障害を持って生まれ王位継承資格に不安が広がった一方、カールマン1世は770年に生まれた自分の長子に同じピピンの名を与えた<ref name="五十嵐2010p89">[[#五十嵐 2010|五十嵐 2010]], p. 89</ref>。カール1世と同じように息子に祖父ピピンの名を与えた行為は、カールマン1世が自身の息子の方が真の王位継承者であると宣言するに等しい行為であった<ref name="五十嵐2010p89"/>。最終的にカール1世の分王国がカールマン1世の分王国に併合される可能性が生じたことでカール1世の威信は傷つき政治的に劣位に立たされた<ref name="五十嵐2010p89"/>。この事態に両者の母ベルトラーダが和解を目指して奔走し、双方の勢力バランスを取るべくカール1世とランゴバルドの王女との縁談を進め成立させた<ref name="五十嵐2010p89"/>。この縁談の話が漏れると、カールマン1世はローマ教皇(ローマ教会はランゴバルドとフランクの分王国の王の間に同盟関係が構築されるのを脅威と考えた)との同盟を志向したが、ベルトラーダは強い政治力を発揮しローマ教皇がカールマン1世と結びつくのを阻止した<ref name="五十嵐2010pp90_91">[[#五十嵐 2010|五十嵐 2010]], pp. 90-91</ref>
 
 
この結果771年春にはローマ教皇座の反ランゴバルド勢力が決定を不服として蜂起するに至り、ランゴバルド王がローマに向かって進軍して圧力をかけた<ref name="五十嵐2010p92">[[#五十嵐 2010|五十嵐 2010]], p. 92</ref>。結局反乱は鎮圧されたが、カールマン1世は問題を解決するためにランゴバルド王国とローマを支配下に置くべく出兵を計画していたと伝わる<ref name="五十嵐2010p92"/>。全面的な戦争は時間の問題であったが、771年12月4日カールマン1世が急死したことで両者の対立は解決され、カール1世が単独の王として君臨することとなった<ref name="五十嵐2010p92"/><ref name="佐藤1995app159">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 159</ref>。カールマン1世の王妃ゲルベルガと息子たちは僅かな数の家臣と共にランゴバルド王国へ亡命した<ref name="五十嵐2010p93">[[#五十嵐 2010|五十嵐 2010]], p. 93</ref>。
 
 
カール1世はその統治期間のほとんどを戦争に明け暮れて過ごした。まず単独の王となる前の[[769年]]に、暗殺されたアキテーヌの大公ワイファリウスの息子{{仮リンク|フノルドゥス2世|fr|Hunald II}}が再び反乱を起こしたため、これを鎮圧した<ref name="佐藤2013pp22_23">[[#佐藤 2013|佐藤 2013]], pp. 22-23</ref>。[[773年]]から[[774年]]にかけて、故カールマン1世の妻ゲルベルガと子供を保護していたランゴバルド王国を追討するためイタリアに遠征が行われた<ref name="斎藤2008p135">[[#斎藤 2008|斎藤 2008]], p. 135</ref>。そして首都[[パヴィア]]を陥落させてランゴバルド王国を制圧し、ローマ市に入場した<ref name="佐藤1995app160">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 160</ref>。カール1世は自ら「ランゴバルド人の王」となり、かつて父ピピン3世がローマ教皇と交わした約束を更新したが、その履行には関心を払わずローマ教皇[[ハドリアヌス1世]]はカールに対して不信の念を募らせた<ref>[[#バラクロウ 2012|バラクロウ 2012]], p. 78</ref>。[[776年]]には[[パンノニア]]の[[フリアウル]]、[[778年]]にはピレネー山脈を越えてイベリア半島への遠征が行われ、イタリア北部に侵入した[[アヴァール人]]とも戦闘が行われた<ref name="佐藤1995app160"/><ref name="佐藤2013pp34_37">[[#佐藤 2013|佐藤 2013]], pp. 34-37</ref>。[[776年]]にはまた、ランゴバルド人の反乱を抑えるため再びイタリア遠征が実施された<ref>[[#バラクロウ 2012|バラクロウ 2012]], p. 79</ref>。[[781年]]にもローマへの遠征が行われ<ref name="佐藤1995app160"/>、更に[[787年]]にはバイエルン大公{{仮リンク|タシロ3世 (バイエルン公)|en|Tassilo III, Duke of Bavaria|label=タシロ3世}}を降し<ref name="佐藤2013pp34_37"/>、[[カプア]]も制圧した<ref name="佐藤1995app160"/>。[[791年]]と[[796年]]にはアヴァール人の根拠地を攻撃し、アヴァールの[[ハーン]]の宮殿を略奪して膨大な戦利品を獲得した<ref name="佐藤2013pp34_37"/>。 また、即位以来30年余り続けられていたザクセン人の征服も、[[804年]]についに成し遂げられた<ref name="佐藤2013pp28_30">[[#佐藤 2013|佐藤 2013]], pp. 28-30</ref>。
 
 
こうしてフランク王国の領土をかつてない規模で拡大する一方で、カール1世はローマ教皇庁に対しても教義の面でも権威の面でも自らの方が上位者であることを知らしめた<ref name="バラクロウ2012pp79_84">[[#バラクロウ 2012|バラクロウ 2012]], pp. 79-84</ref>。カール1世は、[[787年]]の[[第2回ニカイア公会議]]において、ローマとコンスタンティノープルがともに[[聖像破壊論争]](イコノクラスム)を解決しようとした後、信仰の問題についても教皇に譲るつもりがないことを示すため、この成果を無に帰す意図をもって[[794年]]に[[フランクフルト]]で教会会議を開催した({{仮リンク|フランクフルト教会会議|en|Council of Frankfurt}})<ref name="バラクロウ2012pp79_84"/><ref>[[#エーヴィヒ 2017|エーヴィヒ 2017]], pp. 78-86</ref>。この会議において教皇使節は発言を撤回せざるを得ず、カール1世が教皇ハドリアヌス1世を廃位してフランク人高位聖職者に挿げ替えるつもりであるという噂まで流れた<ref name="バラクロウ2012pp79_84"/>。[[795年]]にハドリアヌス1世が死去した後、ローマ教皇庁はフランク王国に従順であると考えれられた[[レオ3世 (ローマ教皇)|レオ3世]]を新たな教皇に選んだ。彼はその在位を通してフランクからの支援に依存することになった<ref name="バラクロウ2012pp79_84"/>。
 
 
==== 皇帝戴冠 ====
 
[[ファイル:Dürer karl der grosse.jpg|150px|left|thumb|16世紀に描かれたカール大帝の肖像([[アルブレヒト・デューラー]]作)]]
 
[[ファイル:フランク王国814年.jpg|380px|right|thumb|カール1世死亡時のカロリング朝の版図]]
 
教皇レオ3世により、[[800年]]の[[クリスマス]]の日、ローマの[[サン・ピエトロ寺院]](聖ペトロ大聖堂)でカール1世は皇帝に戴冠された<ref name="佐藤1995app160"/><ref name="渡部1997p72">[[#渡部 1997|渡部 1997]], p. 72</ref><ref name="斎藤2008p133"/>。この皇帝戴冠は寧ろローマ教皇庁側の主導によって行われたと当時の記録は記すが、その理由については現在でははっきりわからない<ref name="バラクロウ2012pp93_100">[[#バラクロウ 2012|バラクロウ 2012]], pp. 93-100</ref>{{refnest|group="注釈"|カール1世のローマ皇帝戴冠は西ヨーロッパの政治史、宗教史において決定的な事件であったが、それが当時決定された理由については議論の中にある。カール大帝の伝記を遺した[[アインハルト]](エジナール)は「カールは皇帝位に嫌悪を感じていたので、もし彼が教皇の意図を事前に察知していたら、彼は尊ぶべき祭日にもかかわらず、教会へいくことはなかったであろう」と記し<ref name="エーヴィヒ2017pp101_103">[[#エーヴィヒ 2017|エーヴィヒ 2017]], pp. 101-103</ref><ref name="佐藤2013p85">[[#佐藤 2013|佐藤 2013]], p. 85</ref>、カール1世にとって皇帝戴冠は晴天の霹靂であったかのように記録している。しかし、今日的理解としてはカール1世は自身の戴冠について事前に知っていたと想定して問題はない<ref name="佐藤2013p85"/>。中世初期フランク史の研究者オイゲン・エーヴィヒは「カールがこのような行為によって驚かされたとか、皇帝位そのものを拒否したというようなことは、今日の研究水準からすれば、もはや認められない<ref name="エーヴィヒ2017pp101_103"/>。」としている。また、教皇側の意図についてバラクロウは、「全体として見るなら、教皇には先を見通した上での目的などなかったのではないだろうか。799年、道徳的にも政治的にも信用を失ったレオは陰謀に遭い、命の危険に晒されていた。したがって、教皇はカールに皇帝の権力を授けることで、自分を苦境から救い出してくれる権威をローマに確立しようと考えたにすぎなかったとみるのが自然であろう。」と述べ、その場しのぎの対応として用意されたのであり、壮大な計画を伴って用意されたものではないとしている<ref name="バラクロウ2012pp93_100"/>。}}。この戴冠に際して皇帝号は「いとも清らかなるカルルス・アウグストゥス、神によって戴冠されたる、偉大にして平和を愛する皇帝、ローマ帝国を統べ、かつ神の恩寵によりフランク人とランゴバルド人の王たる者<ref group="注釈">Karoulus serenissimus Augustus, a Deo coronatus, magnus et pacificus imperator, Romanum gubernans imperium qui et per misercordiam Dei rex Francorum et Lngobardorum. 訳文は瀬原訳、[[#エーヴィヒ 2017|エーヴィヒ 2017]], p. 103に依った。</ref>」となり、皇帝権は神によって忖度された制度として捉えられた。それをフランク、ランゴバルドの王が皇帝として保持することとなり、同時にキリスト教世界の支配者として定義付けられた<ref name="エーヴィヒ2017pp101_103"/>。
 
 
カール1世は、西ローマ皇帝戴冠を記念して発行したコインに完全にローマ式の自分の姿を刻ませ、自らの印璽も[[コンスタンティヌス1世|コンスタンティヌス大帝]]のそれを模倣したものを用いた。印璽の裏側には「ローマ帝権の革新(renovatio imperii)」と刻ませ、古代ローマの様式を規範とする強い意志を見せている<ref name="佐藤1995app161">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 161</ref>。また、カール1世の治世にはローマの建築や古典[[ラテン語]]の再興と、それを基礎とした文学活動の隆盛が見られた<ref name="佐藤1995app162_163">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], pp. 162-163</ref>。このような文化的潮流は'''[[カロリング朝ルネサンス]]'''と呼ばれ、中世ヨーロッパ文化に多大な影響を遺した。東ローマ帝国はカール1世の皇帝位を断固として認めなかったが、[[806年]]の[[ヴェネツィア]]での武力衝突の後、[[812年]]の和平の場で、カール1世が「フランク人の皇帝」であることを承認した<ref name="佐藤2013pp88_89">[[#佐藤 2013|佐藤 2013]], pp. 88-89</ref>。
 
 
カール1世の即位の後、カロリング朝ルネサンスを代表する知識人の一人[[アルクィン]]がカールの支配領域を「'''キリスト教帝国'''(''Imperium Christianum'')」と呼んだように、(カロリング朝の)帝国とキリスト教世界が一体視され、皇帝戴冠をもって「西ローマ帝国の復活」と見做す理解が一般化した<ref name="渡部1997p74">[[#渡部 1997|渡部 1997]], p. 74</ref>。カール1世は優れた指導力の下、統治制度を整備し、その治世は後世の諸国家にとって常に回顧すべき模範となった<ref name="渡部1997p75">[[#渡部 1997|渡部 1997]], p. 75</ref>。
 
 
==== 帝国の分割 ====
 
[[ファイル:Carte de l'empire de Charlemagne après le partage de 806.jpg|right|thumb|王国分割令により分割されたカロリング帝国、806年時点の地図。]]
 
カール1世のカロリング帝国はその領内の諸民族が一つのキリスト教世界を構成し、宗教や文化において一体であるとする共属意識をもたらしたが、最終的にはカール1世の強烈な個性と政治力によって維持されたのであり、個々人の関係を中心とする属人性を越えた一体的な法規や制度に基づく統治機構を備えるわけではなかった<ref name="渡部1997p82">[[#渡部 1997|渡部 1997]], p. 82</ref>。統治機構においては国家と同一的な存在となった教会組織網が重大な役割を果たしたが、教会組織も聖職者たちの人的結合に未だその基礎をおいていた<ref name="渡部1997p82" />。カール1世もまた、フランクの伝統的な分割相続に備え、自分の息子たちを各地に配置した<ref name="渡部1997p82" />。[[806年]]の{{仮リンク|王国分割令|de|Divisio Regnorum}}によって、既にイタリア(ランゴバルド)分王国の王となっていたピピンと、アキテーヌの分国王となっていた[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルートヴィヒ1世]](ルイ)の支配を確認するとともに、長男{{仮リンク|小カール|en|Charles the Younger}}には[[アーヘン]]の王宮を含むフランキアの相続を保証することとし、それぞれの境界を定めた<ref name="渡部1997p83">[[#渡部 1997|渡部 1997]], p. 83</ref>。これは兄弟間での協力による王国の統一というフランク王国の伝統的原理を踏襲したもので、嫡男としての小カールの優越を保証するものではなかった<ref name="渡部1997p83" />。
 
 
だが実際には、[[810年]]にイタリア王ピピンが、[[811年]]に小カールが相次いで歿したため、[[814年]]にカール1世が死去した時にはルートヴィヒ1世(ルイ敬虔帝)が唯一の後継者となった<ref name="渡部1997p83" /><ref name="佐藤1995app163">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 163</ref>。ルートヴィヒ1世の綽名「敬虔な(''Pius'')」は彼の宗教生活への傾斜から来ている<ref name="佐藤1995app163"/>。彼は宮廷から華美を一掃した。評判の悪い姉妹たちを追放し、アーヘンから品行の悪い男女を締め出すことまでしている<ref name="佐藤1995app163"/>。また、父カール1世に仕えていた宮廷人に変えて、アキテーヌ時代からの側近を登用した<ref name="佐藤1995app163"/>。更に、{{仮リンク|アニアーヌ|en|Aniane}}修道院の院長で、厳格な戒律の適用による修道生活の改革運動をしていた{{仮リンク|アニアーヌのベネディクト|en|Benedict of Aniane}}を政治顧問とした<ref name="渡部1997p84">[[#渡部 1997|渡部 1997]], p. 84</ref>。
 
 
ルートヴィヒ1世は[[814年]]に宮廷の木造アーチの一部が崩れ、それに巻き込まれて負傷するという事故が起きた時、これを自己の生命が近いうちに終わるという不吉な予兆と見て、同年のうちに帝国の相続を定めて布告することを決定した<ref name="佐藤1995app164">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 164</ref><ref name="渡部1997p84"/>。これによって発せられたのが'''{{仮リンク|帝国分割令|de|Ordinatio imperii}}'''(帝国整序令)と呼ばれる有名な布告であり、この布告によって長子[[ロタール1世]](ロータル1世)はただちに共治帝となり、次男{{仮リンク|ピピン1世 (アキテーヌ王)|en|Pepin I of Aquitaine|label=ピピン1世}}はアキテーヌ王、末子[[ルートヴィヒ2世 (東フランク王)|ルートヴィヒ2世]]はバイエルンを相続することとなった。ルートヴィヒ1世の死後は、兄弟たちは長男ロタール1世に服属すべきことも定められた<ref name="佐藤1995app164"/>。イタリア王ピピンの庶子[[ベルナルド (イタリア王)|ベルンハルト]]はこの決定に不満を持ち、[[818年]]に反旗を翻したが鎮圧され、イタリアはロタール1世の直轄地となった<ref name="渡部1997p88">[[#渡部 1997|渡部 1997]], p. 88</ref>。こうして早期に継承に関する取り決めがなされたが、バイエルンの名門ヴェルフェン家の出身でルートヴィヒ1世の王妃の一人であった[[ユーディト・フォン・アルトドルフ]]がシャルル2世(カール2世)を生むと、彼女は自分の息子にも領土の分配を要求した<ref name="佐藤1995app164"/>。これは、統一帝国の理念の下、ロタール1世の単独支配を主張する帝国貴族団とヴェルフェン家の対立を誘発した<ref name="渡部1997p86">[[#渡部 1997|渡部 1997]], p. 86</ref>。また、ロタール1世の独裁を警戒するピピンとルートヴィヒ2世の思惑も絡み、複雑な権力闘争が繰り広げられることとなった<ref name="渡部1997p86" /><ref name="佐藤1995app164"/>。
 
 
緊迫した状況の中で、長兄のロタール1世が最初の動きを起こした。ロタール1世は[[830年]]、ブルターニュ遠征の失敗による混乱に乗じて父ルートヴィヒ1世を追放し、帝位を奪った<ref name="佐藤1995app164"/>。しかし、ピピンとルートヴィヒ2世はこれに反対してルートヴィヒ1世を復帰させた。更に[[833年]]にも同様の試みが行われ、[[834年]]にまたもルートヴィヒ1世が復位するなど、ロタール1世と兄弟たちとの争いは一種の膠着状態となった<ref name="佐藤1995app164"/>。この争いのさなか、シャルル2世の成人(15歳)が近づきつつあった。母親のユーディトはロタール1世と結び、[[837年]]に、フリーセン地方から[[ミューズ川]]までの地域とブルグンディア([[ブルゴーニュ]])をシャルル2世に相続させることをルートヴィヒ1世に認めさせた<ref name="佐藤1995app165">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 165</ref>。翌年にはアキテーヌのピピンが死亡しその息子であるアキテーヌのピピン2世の相続権は無視されるかと思われたが、現地のアキテーヌ人たちはアキテーヌのピピン2世を支持した<ref name="佐藤1995app165"/>。
 
 
バイエルンを拠点に勢力を拡大したルートヴィヒ2世は、ルートヴィヒ1世がシャルル2世に約束した地域のうち、ライン川右岸のほぼ全域の支配権を主張して譲らず、[[840年]]に反乱を起こした<ref name="佐藤1995app165"/><ref name="渡部1997p86" />。この反乱を鎮圧に向かったルートヴィヒ1世は、フランクフルト近郊で急死した<ref name="佐藤1995app165"/><ref name="渡部1997p86" />。
 
 
==== ヴェルダン条約 ====
 
[[ファイル:Vertrag-von-verdun 1-660x500 japref.png|400px|right|thumb|[[ヴェルダン条約]]で定められた国境]]
 
ルートヴィヒ1世の死を受けて、イタリアを支配していたロタール1世はローマ教皇[[グレゴリウス4世 (ローマ教皇)|グレゴリウス4世]]やアキテーヌ王ピピン2世と結ぶ一方、ルートヴィヒ2世とシャルル2世が同盟を組んでこれに対応した<ref name="佐藤1995app165"/>。[[841年]]、同時代の記録においてフランク王国史上最大の戦いとされる[[フォントノワの戦い]]で、ルートヴィヒ2世とシャルル2世が勝利し、ロタール1世は逃亡した<ref name="佐藤1995app166">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 166</ref><ref name="渡部1997p88" />。
 
 
ルートヴィヒ2世とシャルル2世はロタール1世を追撃する最中、[[ストラスブール]]で互いの言語でロタール1世との個別取引を行わないとする宣誓を互いの家臣団の前で行った([[ストラスブールの誓い]])<ref name="佐藤1995app166"/>。この宣誓の言葉はシャルル2世の家臣{{仮リンク|ニタルト|en|Nithard}}(ニタール)の残した書物に記されて現存しており、ルートヴィヒ2世によるシャルル2世の家臣団への宣誓の呼びかけは[[フランス語]](古期ロマンス語)が文字記録として残された最古の例である<ref name="佐藤1995app166"/><ref name="渡部1997p88" />{{refnest|group="注釈"|この[[ストラスブールの宣誓]]は、フランク王国(カロリング帝国)が言語の上において東西に分裂しつつあった状況を証明している<ref name="渡部1997p88" />。帝国の西と東で、それぞれの言語文化が育まれ、東側でも8世紀頃から古代[[高地ドイツ語]]の書物が編纂されていた<ref name="渡部1997p88" />。}}。敗走するロタール1世は、弟たちに対抗するために[[ヴァイキング]]やザクセン人、[[異教徒]]である[[スラブ人]]との同盟も厭わなかった<ref name="佐藤1995app166"/>。争いの激化が互いの利益を損なうことを懸念した三者は、[[842年]]、ブルゴーニュの[[マコン]]で会談し、和平を結んだ<ref name="佐藤1995app166"/>。この和平の席で、帝国の分割が改めて合意され、3人の王が40名ずつ有力な家臣を出して新たな分割線を決定するための委員会が設けられた<ref name="佐藤1995app166"/>。この結果、[[843年]]に[[ヴェルダン条約]]が締結され、分割線が最終承認された<ref name="佐藤1995app168">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 168</ref>。
 
 
ヴェルダン条約の結果、帝国の東部をルートヴィヒ2世([[東フランク王国]])、西部をシャルル2世([[西フランク王国]])、両王国の中間部分とイタリアを皇帝たるロタール1世([[中フランク王国]])がそれぞれ領有することが決定し、国王宮廷がそれぞれに割り振られた<ref name="佐藤1995app168"/>{{refnest|group="注釈"|ロタール1世には[[リエージュ]]、ルートヴィヒ2世には[[フランクフルト]]、[[インゲルハイム・アム・ライン|インゲルハイム]]、[[ヴォルムス]]、シャルル2世には[[ラン (フランス)|ラン]]、[[ソワソン]]、[[パリ]]、[[オワーズ]]、[[コンピエーニュ]]など、メロヴィング朝時代からの伝統ある離宮が割り当てられた<ref name="佐藤1995app168"/>。}}。この分割は「妥当な分割」を目指して司教管区、修道院、伯領、国家領、国王宮廷、封臣に与えられている封地、所領の数などを考慮して決定された<ref name="佐藤1995app168"/>。しかしその結果、各分王国の所領は(特にロタール1世の中フランク王国について)極めて人工的な、まとまりの無い地域の寄せ集めとなり、統治は困難を極めた<ref name="エーヴィヒ2017p157">[[#エーヴィヒ 2017|エーヴィヒ 2017]], p. 157</ref>。
 
 
==== 中フランク王国の分解 ====
 
[[ファイル:Empire carolingien 855-fr.svg|right|thumb|855年の{{仮リンク|プリュム条約|en|Treaty of Prüm}}による中フランク王国の分割相続。]]
 
ヴェルダン条約締結の後、3人の王はそれぞれの領地に戻ったが、必要に応じて協議をするために定期的に参集することが取り決められていた<ref name="佐藤1995app169">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 169</ref>。この体制は「兄弟支配体制」と呼ばれている<ref name="佐藤1995app169"/>。[[844年]]に最初の会合が持たれ、帝国の一体性が確認され相互の協調が確認されたが、この体制は短期間しか維持されなかった<ref name="渡部1997p90">[[#渡部 1997|渡部 1997]], p. 90</ref>。皇帝ロタール1世は[[850年]]に、伝統的な帝国の宮廷であったアーヘンではなくローマで、ローマ教皇に息子である[[ロドヴィコ2世|ルートヴィヒ2世]]<ref group="注釈">イタリア王としてのルートヴィヒ「2世」であり、東フランクのルートヴィヒ2世とは別人。[[イタリア語]]式にロドヴィコ2世とも呼ばれる。西フランクにも同名の王ルートヴィヒ2世がいる。</ref>(ロドヴィコ2世)の皇帝戴冠を執り行わせた<ref name="渡部1997p90" />。このことは、皇帝戴冠を行う「正しい場所」を巡る論争を引き起こした<ref name="渡部1997p90" />。更に[[855年]]、ロタール1世の死に際し、中フランク王国はその息子たちによって更に細かく分割された。長男のルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)が皇帝位とイタリアを、次男[[ロタール2世]]が[[フリースラント]]から[[ジュラ山脈]]までを(この地方は後にこのロタール2世の名にちなんでロタリンギア([[ロートリンゲン]])と呼ばれるようになる)、三男の[[シャルル (プロヴァンス王)|シャルル]]がブルゴーニュ南部と[[プロヴァンス]]を相続した<ref name="渡部1997p90" />。
 
 
プロヴァンス王となったシャルルはまだ幼年でありしかも病弱であったので、実権は[[ヴィエンヌ]]伯[[ジラール・ド・ルシヨン]]が掌握した。彼はロタール2世と相談し、もしシャルルが相続人を遺さず死んだ時はシャルルの王国をロタール2世の王国に併合することを構想した<ref name="佐藤1995app170">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 170</ref>。だが実際にシャルルが後継者の無いまま[[863年]]に死亡すると、皇帝兼イタリア王ルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)がプロヴァンスの継承権を主張し、結局プロヴァンス王国はロタール2世とルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)の間で分割されることとなった<ref name="佐藤1995app170"/>。
 
 
ロタール2世のロートリンゲン(ロレーヌ)王国でも相続の問題が発生した。ロタール2世は妻の{{仮リンク|テウトベルガ|en|Teutberga}}との間に後継者が生まれなかったことから、愛人の{{仮リンク|ヴァルトラーダ|fr|Waldrade}}と結婚することで庶子である{{仮リンク|ユーグ (アルザス公)|en|Hugh, Duke of Alsace|label=ユーグ}}を後継者にしようとしたが、この結婚を巡ってローマ教皇庁、東西フランク王国を巻き込む政争が発生した。東フランク王ルートヴィヒ2世と西フランク王シャルル2世はこれに乗じ、共謀してロタール2世の王国を分割することを約した<ref name="エーヴィヒ2017p164">[[#エーヴィヒ 2017|エーヴィヒ 2017]], p. 164</ref>。結局ロタール2世はヴァルトラーダとの結婚を果たせず、正式の後継者を持てないまま[[869年]]に死去した<ref name="佐藤1995app170"/>。この時点で、東フランク王ルートヴィヒ2世は重病の床にあり、皇帝ルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)はイタリアでイスラーム軍との戦いに忙殺されており、漁夫の利を得た西フランク王シャルル2世がロートリンゲン(ロレーヌ)王国を手中に収めた<ref name="渡部1997p90" />。
 
 
==== 最後の統一 ====
 
[[ファイル:Carolingian empire 887.svg|thumb|887年、最後の統一を遂げたフランク王国。黄色は[[教皇領]]。]]
 
東フランク王ルートヴィヒ2世も[[865年]]に自分の死後の分割相続について定めた。彼の王国もまた中フランク王国と同じように息子たちによって分割相続されることとなり<ref name="渡部1997p91">[[#渡部 1997|渡部 1997]], p. 91</ref>、[[カールマン (東フランク王)|カールマン]]にバイエルンとスラブ人やランゴバルド人との境界地に設けられた辺境区が、[[ルートヴィヒ3世 (東フランク王)|ルートヴィヒ3世]](ルートヴィヒ・ドイツ王)に[[オストフランケン]](東フランキア)、[[テューリンゲン]]、[[ザクセン]]が、[[カール3世 (フランク王)|カール3世]]に{{仮リンク|アレマンネン|en|Alamannia}}と{{仮リンク|ラエティア・クリエンシス|en|Raetia Curiensis}}が割り当てられた<ref name="渡部1997p91" />。
 
 
この東フランク王ルートヴィヒ2世が、その軍事力を背景にロートリンゲンの継承権を主張したため、西フランク王シャルル2世は譲歩し、[[メルセン条約]]によってロートリンゲン(ロレーヌ)は両者間で分割された<ref name="佐藤1995app171">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 171</ref><ref name="渡部1997p91" />。この条約の結果、中フランク王国はイタリアを残して消滅し、現代の[[ドイツ]]、[[フランス]]、[[イタリア]]の国境の原型が形成された<ref name="渡部1997p91" />。
 
 
[[875年]]、皇帝兼イタリア王ルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)も後継者を遺さず死亡すると、シャルル2世はこの機を逃さず教皇[[ヨハネス8世 (ローマ教皇)|ヨハンネス8世]]に接近し、イタリア王国の支配と皇帝の地位を手中に収めた<ref name="佐藤1995app171"/><ref name="渡部1997p91" /><ref>[[#バラクロウ 2012|バラクロウ 2012]], p. 63</ref>。更に続けて東フランクでルートヴィヒ2世が死去([[876年]])すると、西フランク王シャルル2世はフランク王国の再度の統一を実現しようと東フランクへ軍をすすめた<ref name="佐藤1995app171"/>。しかし、ルートヴィヒ2世の息子、ルートヴィヒ3世は残り二人の兄弟とともに連合軍を組織し、{{仮リンク|アンデルナハの戦い (876年)|en|Battle of Andernach (876)|label=アンデルナハの戦い}}で西フランク軍を壊滅させた<ref name="佐藤1995app171"/><ref name="渡部1997p91" />。統一の試みは失敗し、翌年シャルル2世はサヴォワで病没した<ref name="佐藤1995app171"/>。
 
 
その後東フランクでは主導権を握っていたルートヴィヒ3世とカールマンが相次いで死去し、残っていたカール3世(肥満王)が予想外の幸運により東フランク全体の王となった<ref name="渡部1997p92">[[#渡部 1997|渡部 1997]], p. 92</ref>。カール3世は更に、皇帝の地位とイタリア王位も手にした<ref name="斎藤2008p138">[[#斎藤 2008|斎藤 2008]], p. 138</ref>。更なる幸運が、カール3世に西フランク王位を齎した。西フランク王国でシャルル2世の王位を継いだのは短命の[[ルイ2世 (西フランク王)|ルイ2世]](ルートヴィヒ2世)であり、その息子である[[ルイ3世 (西フランク王)|ルイ3世]](ルートヴィヒ3世)と[[カルロマン2世 (西フランク王)|カルロマン2世]](カールマン2世)も短期間に事故死した<ref name="佐藤1995app171"/>。短期間に王が何人も交代する不安定な状況の中、実権を握った修道院長[[ゴズラン]]({{lang|fr|Gozlan}})は、西フランク王位をカール3世に委ねた<ref name="佐藤1995app171"/>。名目的かつ一時的ではあったものの、これによってカール3世はフランク王国にただ一人の王として君臨する最後の人物となった。
 
 
=== ドイツ・フランス・イタリア ===
 
{{フランスの歴史}}
 
{{ドイツの歴史}}
 
単独の王となったカール3世であったが、能力が伴わず[[887年]]に東フランクのカールマンの庶子[[アルヌルフ (東フランク王)|アルヌルフ]]によって廃位され、翌年には死去した<ref name="渡部1997p92" />。彼の退位と死はカロリング朝の一画期を記すものであった<ref name="エーヴィヒ2017p202">[[#エーヴィヒ 2017|エーヴィヒ 2017]], p. 202</ref>。カール3世の死後、東フランクではアルヌルフによってカロリング家の支配が維持されたが、彼は西フランクの有力者から西フランク王位を薦められた際にはこれを拒否した。今や東フランクの王は完全にその地に地盤を張っており、西フランクの王位に興味を示さなかった<ref name="渡部1997p93">[[#渡部 1997|渡部 1997]], p. 93</ref>。この結果西フランクでは[[ノルマン人]]の侵入を撃退して声望を高めていた[[ロベール家]]のパリ伯[[ウード (西フランク王)|ウード]]が[[888年]]に王に推戴された<ref name="佐藤1995app172">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 172</ref>。これによってはじめてカロリング家以外から王が誕生することとなった<ref name="佐藤1995app172"/>。ウードの家系からはやがてフランス王位に登る[[カペー家]]が登場することになる<ref name="佐藤1995app172"/>。イタリアでは女系でカロリング家と血縁関係を持つ[[フリウーリ]]公[[ベレンガーリオ1世]](ベレンガル1世)が諸侯の一部の支持を得て[[トリエント]]でイタリア王に選出された<ref name="斎藤2008p139">[[#斎藤 2008|斎藤 2008]], p. 139</ref>。
 
 
こうしてカロリング家によって建設された帝国と王朝は四分五裂の状態となった。しかし、弱体化しつつも帝国の栄光は残り、正当なカロリング朝の後継者として東フランクのカロリング家の宗主権はイタリアの[[スポレート]]公を除き全ての分国から認められていた<ref name="エーヴィヒ2017p202"/>。血統的正当性を持たない西フランク王ウードは、東フランク王アルヌルフの宗主権を受け入れざるを得ず、後継者にはカロリング家のかつての王ルイ2世の息子[[シャルル3世 (西フランク王)|シャルル3世]](単純王)を指名しなければならなかった<ref name="渡部1997p94">[[#渡部 1997|渡部 1997]], p. 94</ref>。またイタリア王ベレンガーリオ1世も、軍事的圧力の下、アルヌルフからイタリア王位の承認を得なければならなかった<ref name="渡部1997p94" />。
 
 
==== 西フランク(フランス) ====
 
{{main|西フランク王国}}
 
ロベール家のウードが王位を得た後も、正統な王家はカロリング家であるという意識は強力であり、ウードの後継者はシャルル3世(単純王)となった<ref name="佐藤1995app175">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 175</ref>。シャルル3世は領内に侵入してきていたノルマン人との間に[[サン=クレール=シュール=エプト条約]]を結んで情勢を安定させるとともに、[[911年]]にロートリンゲン(ロレーヌ)の内紛によってその王位を獲得した<ref name="佐藤1995app175"/>。しかし、ロートリンゲン問題への傾注は貴族層の反発を招き、[[922年]]に大規模な反乱を引き起こした<ref name="佐藤1995app176">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 176</ref>。この反乱は鎮圧されたものの、シャルル3世は人望を喪失し{{仮リンク|ペロンヌ城|en|Château de Péronne}}にその死まで幽閉されることとなった<ref name="佐藤1995app176"/>。この結果、西フランク王位はブルゴーニュのリシャール判官公[[ラウール (西フランク王)|ラウル]]に委ねられたが、[[936年]]に彼が後継者を遺さず死ぬと、カロリング家の復活が模索され、シャルル3世の息子[[ルイ4世 (西フランク王)|ルイ4世]]が擁立された<ref name="佐藤1995app176"/>。この後、[[987年]]に[[ユーグ・カペー]]が即位するまで、カロリング家の王による統治が継続された。
 
 
==== 東フランク(ドイツ) ====
 
{{main|東フランク王国}}
 
ドイツ人王と称せられるルートヴィヒ2世の治世(840-876年)から、アルヌルフが死ぬ[[899年]]までの期間、ごく短期間を除き東フランクではカロリング家の一人の王による統治が持続した<ref name="渡部1997p98">[[#渡部 1997|渡部 1997]], p. 98</ref>。その領域内には多数の部族、民族が居住していたが、王家と親族関係を築いた聖俗の貴族が王家の委託を受けて統治する複数の分国からなる国家へと成長していた<ref name="渡部1997p98" />。その領域は後世に「[[ドイツ]]」と呼ばれる地域にほぼ合致し、単一の「ドイツ」民族への共属意識もこの時期に芽生えることから、歴史学上この王国は'''東フランク=初期ドイツ王国'''と呼ばれる<ref name="渡部1997p98" />。アルヌルフは教皇庁の強い求めに応じてイタリアへ派兵し、[[896年]]にはローマ教皇[[フォルモスス]]によって皇帝に戴冠された<ref name="渡部1997p99">[[#渡部 1997|渡部 1997]], p. 99</ref>。しかしその主要な関心は西フランク王位の拒否からもわかる通り、東フランク内の分国に対する統制力の維持にあり、基本方針としてはイタリアに対し不介入で臨んだ<ref name="渡部1997p99" />。彼は将来に備え、嫡出子優先の継承制度を整えたが、後継者となった[[ルートヴィヒ4世]]は[[900年]]に即位した時7歳であり、王家の親族による合議で運営されるようになった<ref name="渡部1997p99" />。[[911年]]にこのルートヴィヒ4世が死去すると、カロリング王家の男系が断絶した<ref name="渡部1997p100">[[#渡部 1997|渡部 1997]], p. 100</ref>。西フランク王シャルル3世の擁立を目指す動きも不発に終わり、[[コンラート家]]の[[コンラート1世 (ドイツ王)|コンラート1世]]が国王に推戴された<ref name="渡部1997p100" />。
 
 
==== イタリア ====
 
[[フリウーリ]]公[[ベレンガーリオ1世]](ベレンガル1世)の王位就任以降をイタリア史では「独立イタリア王国」の時代と呼ぶ。これはカール3世の死によってフランク王国からイタリアが独立した888年を始まりとし、[[オットー1世]]によって[[神聖ローマ帝国]]に取り込まれる[[962年]]までを言う<ref name="斎藤2008p139"/>。女系でカロリング家と血縁を持ったベレンガーリオ1世に対し、同じく女系でこの王家と繋がりを持つ[[スポレート]]公[[グイード・ダ・スポレート|グイード]]が挑戦を挑み、勝利を収めた<ref name="斎藤2008p139"/>。グイードは[[パヴィア]]でイタリア王に即位し、[[891年]]にはローマで皇帝戴冠を行った<ref name="斎藤2008p139"/>。グイードの皇帝位はその息子[[ランベルト・ダ・スポレート|ランベルト]]に継承され、ベレンガーリオ1世とランベルト双方から圧力を受けたローマ教皇フォルモススは東フランク王アルヌルフに救援を求めた<ref name="斎藤2008p139"/>。この結果[[896年]]にアルヌルフはベレンガーリオ1世とランベルトの抵抗を排してローマを占領し、そこで皇帝に戴冠された<ref name="斎藤2008p139"/>。これは東フランク王によるイタリア政局介入の端緒となった<ref name="斎藤2008p139"/>。アルヌルフとランベルトが相次いで死去すると、ベレンガーリオ1世は[[899年]]に改めてイタリア王となった<ref name="斎藤2008p139"/>。しかし、ベレンガーリオ1世に反対するイタリアの諸侯の一部は、やはり女系でカロリング家の血を引く[[プロヴァンス]]王[[ルイ3世 (プロヴァンス王)|ルイ3世]]を担ぎ出して[[900年]]にイタリア国王に即位させ、[[901年]]には皇帝戴冠が行われた<ref name="斎藤2008p139"/>。ベレンガーリオ1世は[[905年]]にルイを打ち破り、[[915年]]には教皇による皇帝戴冠を行った<ref name="斎藤2008p139"/>。イタリア諸侯はなおも高地ブルグントの王[[ルドルフ2世 (ブルグント王)|ルドルフ2世]]を担ぎ出してベレンガーリオ1世に対抗した。ベレンガーリオ1世は[[923年]]に敗れ去り、翌年家臣によって暗殺された<ref name="斎藤2008p140">[[#斎藤 2008|斎藤 2008]], p. 140</ref>。これによって神聖ローマ帝国に組み込まれるまで、イタリアでは皇帝の称号を持つ人物はいなくなった<ref name="斎藤2008p140"/>。
 
 
== 制度 ==
 
=== 王権 ===
 
==== 初期王権 ====
 
[[ファイル:Seal of Childeric I Tournai tomb.jpg|200px|right|thumb|[[トゥルネー]]で発見された[[キルデリク1世]]の[[印璽]]。長髪を蓄えた王の姿が描かれている。]]
 
フランクの王権概念がどのようにして成立したかについては、数多くの研究者によって多様な見解が述べられてきた。フランク族を含むゲルマンの王権を考える場合、伝統的に「神聖王権」と「軍隊王権」と言う二つの概念が特に[[ドイツ]]の学会において中心的な概念として捕らえられている<ref name="五十嵐2003p316">[[#五十嵐 2003|五十嵐 2003]], p. 316</ref>。神聖王権とは特定の王家の血統の神聖性、時に神に連なる系譜によってその所属者が部族に繁栄をもたらす特殊な力を持っていたと考えられていたことにより王位の正統性が認識されていたとするものであり<ref name="五十嵐2003p316"/>、一方の軍隊王権は、王の軍事指導者・将軍としての性質を重要視し、戦争における勝利を齎せるものが王として認められたとするものである<ref name="五十嵐2003p316"/>。
 
 
フランク族の王として権力を確立したメロヴィング家が実際にどのような経緯を経て王者として認められるに至ったかについては史料的制約によりわかっていない<ref name="五十嵐2003p320">[[#五十嵐 2003|五十嵐 2003]], p. 320</ref>。ただ、クロヴィス1世の時代には既にメロヴィング家の出身者だけが王となれることが彼の部族では自明のこととなっていた<ref name="五十嵐2003p320"/>。メロヴィング王家を象徴するものに、王族にだけ認められた長髪がある<ref name="五十嵐2003p324">[[#五十嵐 2003|五十嵐 2003]], p. 324</ref><ref name="ル・ジャン2009pp41_43">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], pp. 41-43</ref>。メロヴィング家の王家は青年期に達した男子に施される「最初の断髪」を免れ、長髪を保持していた<ref name="ル・ジャン2009pp41_43"/>。また、キルデリク2世の息子ダニエルの即位時には彼の髪の毛が十分に伸びるのを待った上でキルペリク2世として王とされていることも長髪が王の象徴であったことを示す。このような王の長髪はかつては上述のゲルマン的「神聖王権」説と結びつけられて解釈されていたが、今日ではそのような見解を取る学者は僅かにしかいない<ref name="加藤2011p59">[[#加藤 2011|加藤 2011]], p. 59</ref>。[[五十嵐修]]は、メロヴィング家の王の長髪について、アレマン人が髪を赤く染め、ザクセン人が前頭部の髪の毛を剃ったように、ゲルマン人に一般的に見られる部族への帰属を示す外見上の表現の一種に過ぎないものとしている<ref name="五十嵐2003p324"/>。
 
 
同様に五十嵐修はフランク人の王権を大枠として「軍隊王権」として捕らえている。フランク人の王は伝統的なゲルマン的な王権と言うよりも、[[西ローマ帝国]]の混乱に多様な形でフランク人たちが関わる中で、戦時における指揮官・指導者たちがその成功によって部族民から王として認められたものであるとされる。[[キルデリク1世]]は、極めてローマ的な姿を描いた遺物を残しているのみならず、印璽を用いていた。当時のゲルマン人たちは文字を持たなかったことから、この印璽はローマ系住民への命令やローマの将軍との交渉において必要なものであったと考えられる<ref name="五十嵐2003p323">[[#五十嵐 2003|五十嵐 2003]], p. 323</ref>。これらのことからフランクの王は、彼等を軍事力として必要とした西ローマ帝国との関与の中で、ローマ帝国の内部において形成されたものであると考えられる<ref name="五十嵐2003p324"/>{{refnest|group="注釈"|ル・ジャンもまた、以下のように述べる。「人類学者たちによると、王権が現れるのは、親族集団に自分の価値を認めさせ、多様性を維持しながら一体性を保証し、繁栄や公共福祉を保証することのできる上級権威を必要とするほど社会が複雑になったときである。フランク族に関して言えば、王権の出現はローマ世界への編入の結果である<ref name="ル・ジャン2009p40">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p. 40</ref>」。}}。
 
 
==== キリスト教と王権 ====
 
[[ファイル:Pepin le Bref.jpg|thumb|left|200px|[[751年]]、[[ピピン3世]](短躯王)の戴冠。]]
 
フランク王国はクロヴィス1世による征服の結果、その領内にゲルマン人のみならず多様な人々を抱える多民族国家として成立した。このような国家を運営する上で大きな役割を果たしたのがクロヴィス1世のカトリック改宗である<ref name="五十嵐2003p327">[[#五十嵐 2003|五十嵐 2003]], p. 327</ref>。彼が改宗を決断した経緯や時期についてはなお論争があるものの、その改宗がフランク王国の安定に大きく寄与したことは疑いがない<ref name="五十嵐2003p328">[[#五十嵐 2003|五十嵐 2003]], p. 328</ref>。フランク族による征服が行われる以前、既にローマ領ガリアにはローマ帝国の行政管区を枠組みとしてキリスト教の教会組織が編成されていた<ref name="加藤2011p56">[[#加藤 2011|加藤 2011]], p. 56</ref>。このような教会組織は、クロヴィス1世の改宗を通じてフランク王国の国家機構に組み込まれていくこととなった<ref name="五十嵐2003p328"/>。キリスト教はフランク人と既にカトリック化の進んでいたローマ人貴族との間の関係を良好に保つ効果を持ち、共通の信仰を通じて国家を統合する重要な役割も果たした<ref name="五十嵐2003p328"/>。
 
 
メロヴィング朝からカロリング朝への交代においては、血統的正統性に勝る権威としてキリスト教の権威、ローマ・カトリック教会の権威が利用されたことから、キリスト教の重要性は更に増大した。ローマ教皇庁の国王塗油によるカロリング朝の初代[[ピピン3世]]の即位は、単なる王朝の交代のみならず、フランク王権とローマ教皇権の結合、そしてキリスト教の教会イデオロギーによる王権の正統性確立という二つの意味で、ヨーロッパ中世社会の確立における決定的転換点であった<ref name="加藤2011p62">[[#加藤 2011|加藤 2011]], p. 62</ref>。カロリング朝の王は「神の恩寵による王」となり、キリスト教世界の「平和」を保証することを自らの任務とするようになった<ref name="加藤2011p62"/>。このようなカロリング朝の王権イデオロギーは単なる理念に留まらず、実際の行動においても神への敬虔さの現れとして実行され、カール大帝はザクセンの征服においてキリスト教への改宗か、さもなくば死かと言う基本姿勢で臨み、激しい殺戮の末にこれを征服した<ref name="佐藤2013pp28_31">[[#佐藤 2013|佐藤 2013]], pp. 28-31</ref><ref name="エーヴィヒ2017pp53_58">[[#エーヴィヒ 2017|エーヴィヒ 2017]], pp. 53-58</ref>。
 
 
カロリング朝期においては、王はキリスト教の聖王として行動し、その道徳律に従って統治することを余儀なくされる一方、王は教会領を流用し、司教や修道院長を任命し、彼等を王国集会に出席させるなど、教会組織そのものが「国家化」された<ref name="森1998p244">[[#森 1998|森 1998]], p. 244</ref>{{refnest|group="注釈"|カロリング朝時代のフランク王国は、同時代人にとっては現代的な意味での「国家」として捉えられておらず、それ自体一つの「教会」(ecclesia)と認識していたとされる。この場合の「教会」とは、単なる聖堂や集会場所と言う意味での教会ではなく、キリスト教の教義における「[[神の王国|神の国]]」の現実世界における実体、「キリストの体」としての「教会」(ecclesia)であった<ref name="山田1992p33">[[#山田 1992|山田 1992]], p. 33</ref>。このような捉え方は日本の歴史学会においては[[山田欣吾]]が「「教会」としてのフランク王国」の中で詳述し、フランク王国を理解する上での基本的見解となっている<ref name="西洋中世史研究2005p107">[[#佐藤,池上,高山ら 2005|佐藤,池上,高山ら 2005]], p. 107</ref><ref name="五十嵐2006pp1_2">五十嵐修「[http://ci.nii.ac.jp/els/contents110004867203.pdf?id=ART0008051488 「王国」・「教会」・「帝国」9世紀フランク王国の「国家」をめぐって]」, pp. 1-2</ref>。}}。
 
 
=== 王宮 ===
 
フランク王国は、現代的な意味で「首都」と呼びうるような都市を持っていなかった<ref name="ル・ジャン2009p46">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p. 46</ref><ref name="シュルツェ2013p145">[[#シュルツェ 2013|シュルツェ 2013]], p. 145</ref>。中央権力の意思決定の場として存在したのは「王宮」であり、この言葉は王とその廷臣たち、統治集団が滞在し、権力の行使が行われた建物の総体を指していた<ref name="ル・ジャン2009p46"/>。王の座として[[511年]]に[[パリ]]、[[オルレアン]]、[[ソワソン]]、[[ランス]]が選ばれ、クロヴィス1世の息子たちの分王国の中心地となった。その後アウストラシア、ネウストリア、ブルグンディアの3つの分王国が成立すると、オルレアンの王宮は[[シャロン]]に、ランスのそれは[[メス (フランス)|メス]]にとって代わられた<ref name="ル・ジャン2009p46"/>。これらの都市の中で、特にパリはその歴史的、政治的、戦略的重要性によって傑出した地位を占めていた<ref name="ル・ジャン2009p46"/>。
 
 
しかしフランクの国王は戦争や国内情勢に応じて、また物資の補給や狩猟の必要に応じて、宮廷集団とともに王の所領を移動した<ref name="ル・ジャン2009p47">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p 47</ref>。[[6世紀]]には都市の中心にある「王の座」と、そこからおよそ一日の旅程に位置する一つか二つの農村所領において権力が行使された<ref name="ル・ジャン2009p47"/>。[[7世紀]]に入ると王たちは都市に滞在するのをやめ、郊外や農村の王宮から統治した。[[クロタール2世]]と[[ダゴベルト1世]]の時代にはパリの郊外にある[[クリシー]]が、次いで[[コンピエーニュ]]が「王の座」としてパリに取って代わった<ref name="ル・ジャン2009p47"/>。7世紀には王宮は非常に魅力的な場所であり、多くの人々が王に目を掛けてもらうために、または王宮で「養育してもらう」ために集まって来た<ref name="ル・ジャン2009p48">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p 48</ref>。このような貴族の若者たちの間で、ダゴベルト1世は成長した<ref name="ル・ジャン2009p48"/>。
 
 
組織としての王宮は、王の命令を直接受けて執行する側近団や、文書局のような行政実務を担当する役人、王家の家政を担当する臣下たち、家令として活動する宮宰、技術者や知識人として抱えられた外国人など多様な人々から成った<ref name="ル・ジャン2009p48"/><ref name="佐藤1998p30">[[#佐藤 1998|佐藤 1998]], p 30</ref>。元来このような組織体系を持たなかったフランク王国は、クロヴィス1世が北ガリアを征服した際、それまで機能していたパリの政庁を接収する形で行政実務を担う役人団を整えたと考えられている<ref name="佐藤1998p30"/>。しかし、ローマ帝国期の整備された組織に比べ、フランク王国の行政機構は極めて貧弱であり、国王文書局や王宮裁判所を除けば中央行政府の組織は非常に小規模なものであった<ref name="ル・ジャン2009p48"/>。
 
 
王宮の主要な役人には以下のようなものがあった<ref name="シュルツェ2013pp122_124">[[#シュルツェ 2013|シュルツェ 2013]], pp. 122-124</ref>。
 
* 内膳役(dapifer, infertor) 宮廷全体を取り仕切り、食事の提供を担当していた。元来は最高位の官職であった。
 
* 献酌役(pincerna, princeps pincernarum) 飲み物の準備を担当していた。
 
* 納戸役(comerarius, cubicularius) 王の居室と衣服を管理するとともに、王宮の収支と財宝を管理した。
 
* 厩役(marescalcus) 王の厩舎を管理し、宮廷の移動の際には宿営の手配もした。「厩伯(comes stabuli)」と言う称号でも呼ばれ、カロリング朝時代にはしばしば軍司令官も担当した。
 
* 宮中伯(comes palatii) 裁判に携わる職であり、王の不在時には宮廷裁判を主宰した。通常複数名がこの職に任じられていた。
 
* 王領地管理人(Domestikus) ローマ時代の制度を引き継いだものであると推定され、名前の通り王領地管理の最高責任者であった。カロリング朝時代までには置かれなくなった。
 
* 俗人書記 (Referendare) 同じくローマ時代の制度を引き継いだものと推定され、王の書記局を取り仕切り、王の印璽を管理し、証書への署名を担当した。俗人書記はカロリング朝時代には置かれなくなり、宮廷の聖職者がその仕事を担当するようになった。
 
* [[宮宰]](maior domus)元来は家政の長であり使用人の監督にあたる職であったが、次第に宮廷全体の管理を行うようになった。後に従士団(Antrustionen)の指揮をするようになり、更に王領地管理人が任命されなくなるとその職務も引き継いだ。この結果絶大な権力を振るうようになり、メロヴィング朝末期には世襲化して事実上の王国の支配者となった。カロリング朝時代にはこの職は置かれなくなった。
 
 
=== 伯 ===
 
'''伯'''はフランク王国の地方統治において重要な役割を果たした存在である。伯([[英語|英]]:Count、[[ドイツ語|独]]:Graf、[[フランス語|仏]]:Comte)と訳される役職にはコメス(comes)とグラフィオ(Grafio)があった。両者はその制度的起源を異にするが、次第に権限上の差異が曖昧となり、ほとんど同一の地位となった。
 
 
コメスはローマから継承した諸制度の中でも最も重要な役割を果たした存在である<ref name="渡部1997p60">[[#渡部 1997|渡部 1997]], p. 60</ref>。フランク王国の未熟な統治機構の下では、王を中心とした中央権力が隈なく全土を統治するのは不可能であり、均質な支配をその領土内全土に及ぼすことはできていなかった<ref name="森1995p99">[[#森 1995|森 1995]], p. 99 </ref><ref name="渡部1997p60"/>。王が支配者であったにしても、実際に住民を統率し、司法、行政、軍事上の権限を行使するのは各地の伯管区を支配した都市伯(コメス・キウィタス comes civitas)と呼ばれる伯であった<ref name="森1988p280">[[#森 1988|森 1988]], p. 280</ref>。
 
 
行政単位としてのキウィタスの構造は良く分かっていないが、広義には都市とその周辺の農村領域も含む地方を、狭義には中心たる都市その物を指したと考えられる<ref name="森1988pp276_277">[[#森 1988|森 1988]], pp. 276-277</ref>。その領域は当初はローマの属州行政単位を継承したものであった<ref name="渡部1997p60"/>。伯に任じられる人々の由来は多様であり、メロヴィング朝時代には、ガロ・ローマ系{{refnest|group="注釈"|name="ガロ・ローマ人"|}}人口の大きかったガリア中部、南部ではローマ帝国時代に支配的地位を有していたセナトール貴族層を中心とするローマ人有力者がそのまま伯としてフランク王国に仕えることになる場合が多かったと見られている<ref name="森1988p286">[[#森 1988|森 1988]], p. 286</ref><ref name="森1995p99"/>{{refnest|group="注釈"|6世紀の伯(comes)の半数前後はガロ・ローマ系の名前を持っていた<ref name="森1988p275">[[#森 1988|森 1988]], p. 275</ref>。フランク時代の伯、ないし都市伯(comes civitas)はローマ帝国末期の都市伯にその起源を持っていると考えられ、フランク王国がローマ領ガリアの接収にあたりローマ的要素を大幅に採用しなければならなかったことを示している<ref name="森1988p275"/>。7世紀にはその多くがフランク系となっており、伯(comes)職のフランク化が進んでいたことが見て取れる<ref name="森1988p275"/>。}}。またこの地域では教会の司教が伯職を占める場合があった<ref name="森1995p99"/>。[[プロヴァンス]]や[[アキテーヌ]](アクィタニア)等、フランク王国中核部から離れた遠隔地では、在地の有力者の中から伯を自称する者が現れる場合もあり、王によってその地位は追認された<ref name="森1995p99"/>。このような場合、伯権力は形式上王の臣下と言う立ち位置を取ったにせよ、極めて自律性の強い政治勢力であった<ref name="森1995p99"/>。場合によっては王から任命された伯が現地の反対によって追い返される場合すらあった<ref name="森1995p99"/>。
 
 
フランク王国の中枢部であった[[ライン川]]と[[セーヌ川]]の間の地域、およびローマ時代の属州行政機構が存在しなかったフランク王国の東部では、コメス(comes)ではなく、フランク王の家産官僚的性格が濃厚なグラフィオ(Grafio)がその支配権を行使した<ref name="森1988p272">[[#森 1988|森 1988]], p. 272</ref>。7世紀までにこのグラフィオの権限が強化・整備されると、コメスとグラフィオの職権・権限内容はほとんど同じ物となり、位階上の同一化が進んだ<ref name="森1988p272"/>。それでも両語は使用され続けたが、単に地方ごとの慣用が残ったものと見られている<ref name="森1988p272"/>。
 
 
このような伯(comes, Grafio)を中核とした支配体制はドイツ史学界の用語を用いて'''{{仮リンク|グラーフシャフト|de|Grafschaft}}'''制(伯管区制)と呼ばれている。[[19世紀]]までの古典学説では、王国全土に張り巡らされた画一的なグラーフシャフト制度によって一元的に支配されたという考え方が通説であった<ref name="石川1969p92">[[#石川 1969|石川 1969]], p. 92</ref>。その後[[20世紀]]の研究によって、上述の通り、フランク王国内の統治組織が地域的、時代的に大きな差異があったことや、属人性に強く依存したものが明らかとなった。現代でもグラーフシャフトはフランク王国の中核的制度と位置付けられているが<ref name="西洋中世史研究2005p5">[[#佐藤,池上,高山ら 2005|佐藤,池上,高山ら 2005]], p. 5</ref>、それはある意味では実際の組織そのものではなく、地域的・時代的差異を無視した「学問的概念」であるとも言え<ref name="石川1969p92"/>、その実態を巡っては長く議論が行われている。
 
 
=== 大公 ===
 
フランクの地方支配において伯と並び重要な存在として大公(太公、dux)がいた。「アレマン人の大公」や「バイエルン人の大公」と呼ばれるこれらの大公は、形式上はフランク王国の官職位であり、フランク王により任免が行われた<ref name="森1988p296">[[#森 1988|森 1988]], p. 296</ref>。この地位は大公(dux)と言う称号が完全に一般化するまではしばしば侯(marchio)とも呼ばれた<ref name="山田1992p196">[[#山田 1992|山田 1992]], p. 196</ref>。彼らは軍指揮官として王国軍の一翼を担うとともに、特定地域における行政上の権限を掌握していた<ref name="森1988p296"/>。支配地域の全ての伯の上位に立つこの大公がどのような存在であるかについては長い議論が行われている<ref name="森1988p347">[[#森 1988|森 1988]], p. 347</ref>。統一的な国家体制が存在しなかったフランク王国の他の地位と同じく、大公(dux)の性質も時代的、地域的な差異が大きい物であったと考えられている。
 
 
[[ラテン語]]の史料に表れる大公(dux)位を、ゲルマン古来の部族の中から現れた固有の命令権者(ヘリツォーゴ、Herizogo, [[ドイツ語|独]]:Herzog)とするか、またはフランク王国による支配のためにメロヴィング朝の王によって任命された官職保有者として現れたものとするかについては長い議論が行われている<ref name="森1988p347"/>。前者の見解を支持する研究者によれば、部族的軍隊王権に基盤を置いた「大公」の支配領域はフランク王国によって征服された後も、「国家内国家」的な性格を喪失しなかったとされる<ref name="森1988p347"/>。しかし、現代の研究ではこのような「大公」位を各部族による自生的制度と見なす見解は否定的にとらえられている<ref name="森1988p347"/>。これらの大公位は、例えばアレマン人の領域ではクロヴィス1世による征服の後、旧来の王(rex)に代わって大公(dux)が任命されており、[[バイエルン]]大公もまたテウデベルト1世による[[ザルツブルク]]および[[イン川]]上流一帯の軍事的制圧直後に歴史に登場するためである<ref name="森1988p347"/>。
 
 
しかし、どのような起源を持つにせよ、またフランク王権に従属していたにせよ、バイエルンやアレマンネンの大公はその支配域内において地元の部族的な紐帯に支えられ強大な権限を保有することになった<ref name="森1988p348">[[#森 1988|森 1988]], p. 348</ref>{{refnest|group="注釈"|伝統的に大公位はゲルマン古来の部族と関連付けてとらえられている。カール1世(大帝)によるバイエルン大公位廃位などのような圧力の後も、カロリング朝の分裂と瓦解の時期には再び歴史の担い手として表舞台に登場するものとされていた。[[10世紀]]に完結した形をとって現れる五大公領([[ザクセン]]、[[フランケン]]、[[バイエルン]]、[[シュヴァーベン]]、[[ロートリンゲン]])はそのような部族の再結集した姿に他ならないとされ'''[[部族大公|新部族大公国(領)]]'''と言う用語で呼ばれてきた。しかし、ドイツの中世史学者ヴェルナーは、この「部族」と言う概念が実態のない学術上の造語に過ぎず、(例えばロートリンゲン族という部族が存在しない事は歴史上明白である)これらの大公国は直接部族(エトノス)に繋がるものでは無く、何よりもフランク王国の行政上の単位として成立したものであると主張した。この考え方は、各地域の差異を無視しているという批判はあるものの、ドイツ史学界においてその基本的な主張は受け入れられている<ref name="山田1992p194_199">[[#山田 1992|山田 1992]], pp. 194-199</ref>。}}。大公は領内において国王を代表し、伯権力の上に立つと共に、最高位の軍指揮官であり、裁判官であり、教会の長であった<ref name="森1988p348"/><ref name="山田1992p198">[[#山田 1992|山田 1992]], p. 198</ref>。またバイエルンの[[アギロルフィング家]]のようなこれを世襲する一族は、法律上も貴族層からも卓越した存在として扱われ、大公領を分割相続することができた<ref name="森1988p348"/>。この意味において大公領における大公の存在は「王」そのものであり、同時代史料の中にはバイエルン大公を王(rex)と呼んでいる物も存在する<ref name="森1988p348"/>。大公はフランク王に対する軍役と貢納を果たす以外は、独自の内政・外交政策を推し進めることも可能であり、これ故にフランク王と衝突も繰り返した<ref name="森1988p348"/>。彼らは極めて曖昧な誓約によってかろうじてフランク王と結びついていたに過ぎなかった<ref name="ブウサール1973p48">[[#ブウサール 1973|ブウサール 1973]], p. 48</ref>。このため、フランク王の側では例えばカール1世によるバイエルン大公{{仮リンク|タシロ3世 (バイエルン公)|en|Tassilo III, Duke of Bavaria|label=タシロ3世}}の廃位のように、大公権力の掣肘が常に試みられた<ref name="渡部1997p71">[[#渡部 1997|渡部 1997]], p. 71</ref>。
 
 
== 軍事 ==
 
=== 武装 ===
 
[[ファイル:Franziska.png|thumb|300px|フランキスカ(フランチスカ、投擲斧)の例。現代ではフランク族を象徴する武器の一つとしてしばしば言及される。]]
 
[[ファイル:Frankish arms.JPG|thumb|300px|出土した5-6世紀のフランク族の武器防具]]
 
初期のフランク人の戦士たちが使用していた装備は、それらが副葬品として埋葬された当時の墓の発掘によって伺い知ることができる。[[1959年]]に[[テウデベルト1世]]時代の男児の墓が発見された<ref name="森1988p85">[[#森 1988|森 1988]], p. 85</ref>。この男児は王族または貴族門閥に属したと考えられており、成人に達してから用いるべき武装の一式が副葬されていた<ref name="森1988p85"/>。肉体には{{読み仮名|冑|かぶと}}と{{読み仮名|楯|たて}}を身に着け、武器としては[[スクラマサクス]](片刃長剣)、[[スパータ]](両刃長剣)、{{仮リンク|アンゴ (槍)|label=アンゴ|en|Angon}}(逆鉤付投槍)、長槍、[[フランキスカ]](投擲斧)、[[矢]]が埋葬されていた<ref name="森1988p85"/>。このうちフランク族に特有の武器として特に著名なものが投擲用の斧であるフランキスカであり、メロヴィング朝時代の北[[フランス]]から[[ラインラント]]にかけてのフランク人の墓から発見される<ref name="森1988p85"/>。[[プロコピオス]]の記録によれば、[[539年]]にイタリアに侵攻したテウデベルト1世の軍勢の歩兵たちは楯と刀剣の他、このフランキスカを装備していた<ref name="森1988p85"/>。アンゴと呼ばれる逆鉤の付いた槍もフランク族特有の武器であり、投擲・白兵兼用の武器としてフランク兵が装備していたと伝えられる<ref name="森1988p85"/>。フランキスカやアンゴは7世紀初頭には使用されなくなっていき、墓からは出土しなくなる。変わって7世紀以降の一般的な副葬武器の類型は、楯、スパータ(長剣)、長槍、そして{{仮リンク|サクス|en|Seax}}と呼ばれる片刃の幅広剣であり、特にサクスは長剣に比べ多数の出土例がある<ref name="森1988p86">[[#森 1988|森 1988]], p. 86</ref>。
 
 
上記のような考古学的発見から、7世紀(600年頃)前後を境にフランク人の武装がフランキスカやアンゴのような遠近両用の武器から、サクス等、片刃で幅広の刀剣類を主軸としたものに変化していることが知られ、この時期に軍事技術ないし戦術上の変化があったものと考えられる<ref name="森1988p86"/>。また同時期より、[[ハミ (馬具)|小勒]]、[[鐙]]、[[鞍]]などの[[馬具]]が副葬された戦士墓が見られるようになり、異なった社会層出身の戦士の存在が推測できるという<ref name="森1988p86"/>。
 
 
カロリング朝期にはこうした馬具の導入によって騎馬技術が発達し、大規模な騎兵隊が組織されたと一般に考えられている<ref name="森1988p69">[[#森 1988|森 1988]], p. 69</ref><ref name="堀越2013p85">[[#堀越 2013|堀越 2013]], p 85</ref>。9世紀初頭の{{仮リンク|サン=カンタン修道院|fr|Abbaye du Mont Saint-Quentin}}への動員命令の際、騎兵1騎が装備すべき武装として、盾、槍、剣、短剣、弓と矢、および[[箙]]、そして[[鉋]]や[[錐 (工具)|錐]]等の一般工具類とそれを乗せるための[[荷馬車]]などが要求されている<ref name="堀越2013p86">[[#堀越 2013|堀越 2013]], p 86</ref>。この時期のフランク騎兵が装備した弓は、当時に描かれた図像史料等から[[中央アジア]]に起源を持つ短弓と同種のものであったとされている<ref name="堀越2013p86"/>。また槍は肩に抱えたまま突撃したり、投槍として使用されるなどしていた<ref name="堀越2013p86"/>。これらのことから、当時の騎兵の武装と戦術は、中央アジアの遊牧民の用いたものと同じ系譜に属する物であったと考えられている<ref name="堀越2013p87">[[#堀越 2013|堀越 2013]], p 87</ref>。こうした戦術はフランク王国の時代が終了した後の[[12世紀]]以降、次第にヨーロッパ独自の様式に発展していくこととなる<ref name="堀越2013p88">[[#堀越 2013|堀越 2013]], p 88</ref>。
 
 
=== メロヴィング朝時代のフランク軍 ===
 
フランク族がローマ領ガリアで勢力を拡張した5世紀後半には、ローマの正規軍([[ローマ軍団]])は既にガリアには存在せず、従ってフランク軍とローマ軍団の戦闘は発生しなかった。当時のガリアでは実戦能力、治安維持能力を喪失したローマ軍に代わり、ガロ・ローマ系の[[ガリア・セナトール貴族|セナトール貴族]]が私兵を集め、武装従士団を組織して割拠していた<ref name="森1988p33">[[#森 1988|森 1988]], p. 33</ref>。また、各地の皇帝領、国家領に雑多なゲルマン部族から集められた屯田兵(ラエティ laeti)が配置されていた。彼らは重要な街道や軍事用倉庫の守備、国境線の要塞の防衛の見返りとしてローマ領内に居住を認められた人々であった<ref name="森1988p38">[[#森 1988|森 1988]], p. 38</ref>。このようなラエティたちは、ローマ帝国が実行支配能力を喪失していくなかで、新たに権力を手中にしたフランク王国や西ゴート王国のようなゲルマン系王朝、或いは[[シアグリウス]]のようなローマ人の現地支配者たちに服属し、その軍事力の一端を担うようになった<ref name="森1988p38"/>。
 
 
ガロ・ローマ系の有力者の多くはフランク族が侵入するより前にガリア南部に移動していたが、北部に残った者たちは短期間の抵抗の後、クロヴィス1世に臣従し従来の地位と財産の安堵を受けたと想定されている<ref name="森1988p37">[[#森 1988|森 1988]], p. 37</ref>。このガリア北部のローマ系有力者や将兵は南部ガリアの征服の際にはフランク軍の一部として都城の攻撃に投入された<ref name="森1988p38"/>。各地のラエティたちもまた、クロヴィス1世の勢力拡大に伴って彼に服属していき、フランク軍に組み込まれた<ref name="森1988p38_41">[[#森 1988|森 1988]], pp. 38-41</ref>。クロヴィス1世の息子たちも、その勢力拡大に伴い父と同じように各地のセナトール貴族やラエティを傘下に収めていった<ref name="森1988p38_41"/>。
 
 
こうして形成されていったメロヴィング期のフランク軍は、主に以下の三つのファクターで構成されたと考えられている<ref name="森1988p31_41">[[#森 1988|森 1988]], pp. 31, 41</ref>。
 
* 第一に王の側近として「従士(trustis)」の中から選抜した武装集団「プエリ(pueri)」「武者(armati)」が組織された。彼らは純然たるフランク王の手勢であり最も信頼のおける精鋭であった<ref name="森1988p31_41"/>。
 
* 第二にフランク系、およびガロ・ローマ系有力者の従士団があった。彼らは財産や所領を保証してもらう見返りとして忠誠と軍事奉仕を誓った人々であり、その支持は王国の安定上極めて重要であった<ref name="森1988p31_41"/>。
 
* 第三に元々はローマの国境守備兵力として居住を認められたゲルマン系諸部族やその他の異民族からなるラエティの兵力があった。彼らはローマ時代のキウィタスや城塞(カストラ)、皇帝領に駐屯しており、メロヴィング朝は新たな征服地にもローマ時代のラエティと同じような軍事植民を継続した。それらの地域は「[[ケンテナ]] (centena)」と称された<ref name="森1988p31_41"/>。
 
 
フランク王国にはローマ帝国時代の正式な徴兵制度は継承されなかった<ref name="森1988p42">[[#森 1988|森 1988]], p. 42</ref>。また、ローマ、[[ギリシア]]時代以来の[[重装歩兵]]を中核とする戦術も引き継がれなかった<ref name="堀越2013p84">[[#堀越 2013|堀越 2013]], p. 84</ref>。
 
 
=== カロリング朝の軍制改革と騎兵制の確立 ===
 
メロヴィング朝とカロリング朝の交代期には、一般的な通説として軍制改革が行われフランク軍の性質が大きく変化したとされている。通説を打ち立てたH.ブルンナーによれば、[[カール・マルテル]]が[[トゥール・ポワティエ間の戦い]]においてイスラームの騎兵軍の潜在的破壊力を見抜き、これを参考にフランク王国に重装騎兵軍を創出し、それを社会・経済的に維持するための諸策が[[封建制]]の確立に繋がったとされている<ref name="森1988p64">[[#森 1988|森 1988]], p. 64</ref>。この説によれば、カール・マルテルはこの新しい軍事力を維持するために6世紀から7世紀にかけて著しく拡大した教会領に手を付け、その領土の接収や司教・修道院長に自身の信頼できる俗人家臣を任命し、更にその領地を軍馬の飼育と馬役を担う従士たちに封地として分与させた<ref name="森1988p67">[[#森 1988|森 1988]], p. 67</ref><ref name="エーヴィヒ2017p10">[[#エーヴィヒ 2017|エーヴィヒ 2017]], p. 10</ref><ref name="堀越2013p85">[[#堀越 2013|堀越 2013]], p 85</ref>。メロヴィング期には歩兵主体であったフランク軍では8世紀半ば以降、騎兵が際立って強化されることとなった。[[9世紀]]にはパリ伯ウードがアクィタニア(アキテーヌ)地方とその周辺から10,000騎の騎兵と6,000人の歩兵を招集し、921年には[[ロベール1世 (西フランク王)|ロベール1世]]がネウストリアとアクィタニアから40,000騎の騎兵を招集するまでになるなど、カール・マルテルの軍制改革に端を発した騎兵制は完成の域に達したとされる<ref name="森1988p68">[[#森 1988|森 1988]], p. 68</ref>。このような軍制改革論には批判があるが、なお通説としての地位を維持している{{refnest|group="注釈"|このようなブルンナーの説には多数の批判が寄せられているが、その基本的な論理はなお定説としての地位を維持しているとされる<ref name="森1988p69"/>。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の中世史家[[リン・ホワイト]]はブルンナーの説を踏襲するが、フランクの騎兵制創出をトゥール・ポワティエ間の戦いではなく、鐙の導入を契機とするとしている<ref name="森1988p69"/>。中世史家[[森義信]]はこうしたブルンナーやホワイト以来の定説は史料上の根拠が薄弱であり近年(1988年頃)の歴史学・考古学の成果に照らすと既に説得力を失っているとして、これらを「古典学説」と呼んでいる<ref name="森1988p77_87">[[#森 1988|森 1988]], p. 77_87</ref>。ただし[[21世紀]]でも、この定説に沿った説明がなされる例は多く、例えば日本の歴史学者では[[堀越宏一]]がホワイトの説と同様の論を概説書に掲載している<ref name="堀越2013p84">[[#堀越 2013|堀越 2013]], p. 84</ref>。}}。
 
 
=== カロリング朝期の聖界軍事力の確立 ===
 
メロヴィング朝末期の若干の[[勅令]]や[[教会会議]]録によれば、当時の聖職者は軍事司教として軍に同行したが、武器の携帯や戦闘行為は禁じられていた<ref name="森1988p209">[[#森 1988|森 1988]], p. 209</ref>{{refnest|group="注釈"|聖職者の戦闘禁止規則は必ずしも順守されておらず、前線で武装して戦闘に加わっていた司教の存在が知られている<ref name="森1988p209"/>。}}。メロヴィング朝末期には宮宰[[カール・マルテル]]が教会領を接収し、高位聖職者の地位に自身の従士たちをつけた結果、カロリング朝の成立以後、教会は王権の支配権下に置かれることとなった。更にカール1世(大帝)は[[779年]]に[[ヘリスタル勅令]]を発し、王命によらない聖界独自の所領貸出を認め、高位聖職者が教会に奉仕する封臣を独自に要することを許可した<ref name="森1988p209"/>。この勅令の発布後、カール1世は新たに教会領を恩貸地として受領した聖界独自の封臣も軍に動員するようになった<ref name="森1988p210">[[#森 1988|森 1988]], p. 210</ref>。司教および修道院長は聖界封臣の主君として兵士とともに出陣し、また王国の集会に出席することが要求されるようになった<ref name="森1988p210"/>。森義信は「この結果教会は『国家意思実現の一手段とされ(F. プリンツ)』、その軍事奉仕も『制度化』され国家化したとされるにいたった」と述べる<ref name="森1988p210"/>。
 
 
このような聖職者の軍事的偏向には[[アルクィン]]等、聖界の重鎮らが批判の声を上げたが、カール・マルテル以来の人事任用によって、この時代の聖職者はその大半がフランク王国の貴族層に社会的系譜を持っており、彼らはその一員として軍事的素養が豊かであり好戦的傾向が強かった<ref name="森1988p211">[[#森 1988|森 1988]], p. 211</ref>。彼等を信頼できる軍事力として組み込んだカロリング朝時代のフランク王国は、その軍事力を支える経済的基盤を教会や修道院に保証するために、かつて没収した教会領の一部を返還したり、国庫領や王領地の下賜を盛んに行うようになった<ref name="森1988p211"/>。更に司教や修道院長は、国制上のあらゆる分野で国王の信任を受けて活動するようになった<ref name="森1988p211"/>。
 
 
カロリング朝では更に聖界軍事力を創出・維持するために、軍事罰令金の徴収権や徴兵権等、従来は伯や国王役人に属した権限の一部を修道院長に移管するとともに、司教・修道院長は伯などの世俗領主と同様、武装された従士に取り囲まれていることが望ましいと規定され、出軍命令が下った時には封臣を率いて参戦することが義務づけられるようになった<ref name="森1988p211"/>。こうして教会や修道院には領地の一部を常に恩貸地として封臣に分与し、その見返りとして彼らの軍事奉仕を受けることで、王の動員指示に即応できる体制を維持することが求められることとなった<ref name="森1988p211"/>。
 
 
== 社会・経済 ==
 
フランク王国時代(西欧中世初期)の経済や流通、社会、都市と農村についての研究は多岐にわたる蓄積がある。しかし、時間的には5世紀に渡り、西ヨーロッパのほぼ全域を占めたフランク王国の社会経済について、一般的な説明は困難である。西欧中世史研究者の[[丹下栄]]は、流通・都市・社会分野において西欧社会のすべてを視野にいれた総合的叙述を行うのは研究史の現状からして不可能であると述べる<ref name="丹下1995pp167_169">[[#丹下 1995|丹下 1995]], pp 167-169</ref>。そのためここではフランク時代の社会・経済について一般的に研究される各種テーマについて以下に述べる。
 
 
=== 農村 ===
 
==== メロヴィング期の農村 ====
 
フランク王国では[[パン]]と[[ワイン]]を中心にするローマ時代の食習慣が継承された<ref name="堀越1997p17">[[#堀越 1997|堀越 1997]], p. 17</ref>。その原料となる[[小麦]]と[[ブドウ]]の生産は、ローマ時代のガリアでは、平野部に散在する[[ウィラ]]を中心に[[奴隷]]労働によって行われた([[ラティフンディウム]])<ref name="堀越1997p17"/><ref name="ル・ジャン2009p98">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], pp. 98</ref>。ここでは耕地を二分して地力回復のために一年毎に休耕を繰り返す[[二圃制]]とよばれる輪作が一般的に行われていた<ref name="堀越1997p17"/>。他にブドウ畑と放牧地が畑とは別の場所にあった<ref name="堀越1997p17"/>。一方、フランク人をはじめとするゲルマン人達も農耕の伝統を持っていたが、その技術は未発達であり、狩猟採集、そして牧畜が未熟な農業を補っていた<ref name="堀越1997p19">[[#堀越 1997|堀越 1997]], p. 19</ref>。ゲルマン人の食生活において、牧畜はローマ社会におけるより遥かに重要であり、[[ブタ]]、[[ウシ]]、[[チーズ]]、[[バター]]などの畜産品は、ゲルマン人の必要カロリーの3分の2近くをまかなっていたとする説もある<ref name="堀越1997p20">[[#堀越 1997|堀越 1997]], p. 20</ref>。フランク王国時代、この二つの生産様式がまじりあい、次第に中世ヨーロッパの農業スタイルを形成していくことになる<ref name="堀越1997p20"/>。
 
 
既に3世紀からガリアの人口は減少傾向にあったが、5世紀に始まった小氷期による気候の寒冷化や治安の悪化、政治情勢の混乱、更には疫病によってメロヴィング時代初期には人口減少が加速し、6世紀後半には人口は底辺に達した<ref name="ル・ジャン2009pp93_94">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], pp. 93-94</ref><ref name="堀越1997pp20_22">[[#堀越 1997|堀越 1997]], pp. 20-22</ref>。7世紀には人口は回復し始め特にガリア北部でゆっくりとだが人口は増加した<ref name="ル・ジャン2009pp93_94"/>。
 
 
この時期のメロヴィング期の農村の状況については、無論地域的な多様性があったが、考古学的調査によって一般的な仮説を用意できる程に理解されるようになっている<ref name="ル・ジャン2009p98"/><ref name="堀越1997p21">[[#堀越 1997|堀越 1997]], p. 21</ref>。当時の一般農民の家財道具は一般に非常に貧弱であり、鉄製農具はほとんど見つかっていない<ref name="堀越1997p22">[[#堀越 1997|堀越 1997]], p. 22</ref>。住居その物も数本の柱で造られた3メートル×4メートルほどの狭い小屋であり、これが30件ほど点在するようなものが、一般的な集落の形態であった<ref name="堀越1997p22"/>。このような集落の在り方は、古代に比べ農村に対する貴族の影響力が弱かったことを表していると見られる<ref name="ル・ジャン2009p100">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], pp. 100</ref>。
 
 
ローマ時代には都市の需要を満たすために大規模に実施されていたラティフンディウム制は衰退し、より狭域で完結する農村経済がとって代わった<ref name="ル・ジャン2009p102">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], pp. 102</ref>。需要の減少は耕作地の縮小をもたらした。ヨーロッパで最も森林が広がったのが500年頃であることが、[[花粉]]と[[樹幹]]の分析によってわかっている<ref name="ル・ジャン2009p102"/>。
 
 
ローマ時代から続くウィラのあるものは放棄され、あるものは6世紀後半まで定住が維持されたが、その場合でも居住面積の縮小、設備機能の変化が見られる<ref name="ル・ジャン2009p99">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], pp. 99</ref>。明らかにウィラが結びついていた経済システムの変容がその衰退を招いていたと考えられる<ref name="ル・ジャン2009p99"/>。古代の石造のウィラは、木造のそれに代えられたが、王や有力者の権威を表す記号として、都市に居住することと同じくウィラでの居住は有効であった<ref name="ル・ジャン2009p99"/>。このようなウィラは30メートル以上の長さを持つ、大広間を備えた主人の家と、それに従う人々の小さな家々、家畜小屋、穀物庫、貯蔵施設などからなった<ref name="ル・ジャン2009p99"/>。
 
 
==== カロリング期の農村 ====
 
カロリング期に入ると、気候の安定と国王や修道院による大所領の形成と共に農村は大きく発展した<ref name="堀越1997p22"/>。8世紀から9世紀にかけて、1000ヘクタール以上の規模におよぶような所領が発展し、その経営のために領地や収支を列挙する台帳(所領明細帳)が作成され、当時の農村経営を現代に伝えている<ref name="堀越1997p23">[[#堀越 1997|堀越 1997]], p. 23</ref>。修道院所領に代表される大所領は領主直営地と農民保有地によって構成され、農民は第一に家屋と菜園、第二に農耕地(農民保有地)、第三に飼料の刈り取り地や、牧草地、放牧地や森林などからなる共同利用地の用益権の三要素を経営の基本単位として自立した経営体を形成していた<ref name="堀越1997p23"/><ref name="シュルツェ1997pp171_173">[[#シュルツェ 1997|シュルツェ 1997]], pp. 171-173</ref>。この三要素はフーフェ(独:Hufe)、或いはマンス(仏:Manse)と呼ばれ、基本経営単位として農民一世帯ごとに設定されていた<ref name="堀越1997p24">[[#堀越 1997|堀越 1997]], p. 24</ref>。このフーフェ(マンス)は領主が賦課税を行う単位でもあった<ref name="堀越1997p24"/>。ただし均一な単位としては成立しておらず、その大きさは地域によりまちまちであった<ref name="シュルツェ1997pp171_173"/><ref name="堀越1997p24"/>。
 
 
カロリング時代の所領経営では、農民の身分や課税内容は一様ではなく、村落共同体と呼べるような農村組織もまだ存在していなかった<ref name="堀越1997p25">[[#堀越 1997|堀越 1997]], p. 25</ref>。その代わり、所領の枠組みの中で、領主直営地と農民保有地に関わる労働が、フーフェ(マンス)を保有する農民によって担われており、この意味で所領が農民生活の社会的単位を構成していたと言える<ref name="堀越1997p25"/>。このような領主制のありかたは[[古典荘園制]]と呼ばれる場合が多い<ref name="堀越1997p25"/>{{refnest|group="注釈"|古典荘園制は、中世初期社会研究の一つの軸として扱われてきた。19世紀の古典学説では、カロリング期の所領明細帳に見られる領主直営地と農民保有地と言う二つの部分から構成され、領主直営地は農民保有地を持つ農民によって耕作されるというモデルを古典荘園制と名付け、封建的土地所有形態の始原的形態と位置付けた。このような古典荘園制がカロリング期に排他的に存在していたとする見解は20世紀前半以降根本的批判に晒され、古典荘園制をカロリング期の基本的な所領形態とする見方は下火となった。1960年代には実際にこのようなモデル化が可能な古典荘園制が典型的に展開されたのは、フランク王国の中枢部である[[ロワール川]]と[[ライン川]]の間の地域に限られ、他の地域では十分に発達しなかったことがアドリアン・フェルフルスト(Adriaan Verhulst)により強調された。しかし、フェルフルストは同時に、所領を古典荘園制的構成に再編しようとする動きが広く西欧各地で見られることを指摘し、実際の実施の程度がまちまちであっても同時代の理想的な所領構造として位置付けられるという新しい見解を示唆した。1980年代以降には古典荘園制が再評価されるとともに、これについての見解は相対化され、その位置付けも論者により多用なものとなっている<ref name="堀越1997p26">[[#堀越 1997|堀越 1997]], p. 26</ref><ref name="森本1969p135">[[#森本 1969|森本 1969]], p. 135</ref><ref name="西洋中世史研究2005pp9_10">[[#佐藤,池上,高山ら 2005|佐藤,池上,高山ら 2005]], pp. 9-10</ref>。}}。
 
 
実際に「古典荘園制」下にある農村の例として、パリの北東20キロメートルにある{{仮リンク|ヴィリエ・ル・セック|fr|Villiers-le-Sec (Val-d'Oise)}}と{{仮リンク|バイエ・アン・フランス|fr|Baillet-en-France}}で当時の遺跡が発掘されている<ref name="堀越1997p26"/>。この二つの集落はカロリング期の典型的な集落であると考えられ、当時の大所領の一つであるサン=ドニ修道院に所属していた<ref name="堀越1997p26"/>。長さ12.5メートル、幅5~6メートルの長方形の母屋と、縦横数メートル程度の高床式、或いは竪穴式の付属建造物が2,3棟あるまとまりが複数散在していたことが確認されており、それぞれが一つのフーフェ(マンス)を構成していたと推定されている<ref name="堀越1997p26"/>。
 
 
栽培植物はメロヴィング期には僅かな麦類のみだったのに対し、カロリング期には各種の麦類の他、[[ソラマメ]]、[[エンドウマメ]]、[[ニンジン]]などの野菜類や、[[リンゴ]]、[[ブドウ]]などの果樹、工芸用の[[亜麻]]など、多角的な農業が行われていたことが確認されている<ref name="堀越1997p27">[[#堀越 1997|堀越 1997]], p. 27</ref>。家畜としては[[ウシ]]、[[ブタ]]、[[ヒツジ]]、[[ヤギ]]、[[ウマ]]の順で多く発見され、時代と共にウシとウマの比率が上昇し、ブタが減少していた<ref name="堀越1997p28">[[#堀越 1997|堀越 1997]], p. 28</ref>。特に8世紀を境にウマは倍増しており、農耕や運搬にウマが使用されるようになったことを反映していると考えられる<ref name="堀越1997p28"/>。
 
 
=== 交易と流通 ===
 
ゲルマン人の侵入と各種の社会混乱の中で西ローマ帝国が崩壊した後も、地中海を中心とするローマ世界が解体したわけではない<ref name="丹下1995p170">[[#丹下 1995|丹下 1995]], p 170</ref>。メロヴィング朝時代のフランク王国においても、地中海交易はかつてのローマ時代から継続して活発に行われ、王国中枢であったガリア北部へも継続して地中海交易による物資がもたらされていた<ref name="丹下1995p170"/>。この分野における研究で20世紀半ばに一時代を期した[[アンリ・ピレンヌ]]は、[[サン・ドニ大聖堂|サン=ドニ修道院]]や{{仮リンク|コルビー修道院|en|Corbie Abbey}}がプロヴァンスの都市[[マルセイユ]]など、地中海沿岸の流通税徴収所から物資の供給を受けていたことを例証としてあげている<ref name="丹下1995p170"/>。ここで集められた物資の中には[[パピルス]]や[[胡椒]]、そして各種の奢侈品など、いわゆる東方物資が数多く含まれていた<ref name="丹下1995p170"/>。
 
 
こうした交易活動は上でも触れた流通税に関する記録から知る事ができる。中世ヨーロッパの全期間を通じ、流通税は物資の流通と権力構造を映す鏡であり続けた<ref name="丹下1995p171">[[#丹下 1995|丹下 1995]], pp 171</ref>。流通税はポルトリウム(portorium)またはテロネウム(teloneum)と呼ばれる帝政ローマ時代の制度に源流を持ち、商品の通過と取引に課税される[[間接税]]であった<ref name="丹下1995p171"/>。メロヴィング朝時代にはこの流通税はローマ時代とほとんど変わらない運用がされていたとされ、王国の役人が管理する流通税徴収所で徴収され国庫に納められた<ref name="丹下1995p171"/>。この流通税は王国の財政上極めて重要であり、これを統括する役人は伯と同格とされた<ref name="丹下1995p171"/>。一方で流通税徴収所には物品の一時保管所が付属し、輸出入品の一時保管機能が提供されるなど、交易活動に必要な機能の一部を提供していた。従って単純に国家が交易活動から利益を徴収するための存在であったとのみ見ることはできない<ref name="丹下1995p172">[[#丹下 1995|丹下 1995]], pp 172</ref>。
 
 
流通税徴収所と並び流通構造に大きな意味を持っていたのが[[キウィタス]]である。これはローマ時代、更にはそれ以前のケルト時代からの伝統を引き継ぐもので、一種の行政単位であった。帝政ローマ時代にはキウィタスの中心地には[[司教座]]が置かれ、地域の中心としての役割を果たすようになった<ref name="丹下1995p172"/>。キウィタスでは市が開かれ、財貨の交換が極めて日常的に行われていたことが、トゥールのグレゴリウスなどによって記録されている<ref name="丹下1995p172"/>。
 
 
ローマ世界の延長線上にある側面が色濃いとされるメロヴィング朝時代の流通構造は、7世紀に入るとカロリング期に向けて緩やかな構造変化を開始した<ref name="丹下1995p174">[[#丹下 1995|丹下 1995]], p 174</ref>。大きな影響を持ったのは、ガリア北部に数多く建設された修道院が次第に経済力を強め、生産と流通の拠点として現れてくること、[[金本位制]]が衰退し[[銀貨]]が急速に普及すること、地中海交易の重要性が相対的に低下すること、そして[[北海]]・[[バルト海]]方面での交易活動の活発化であった<ref name="丹下1995p174"/>{{refnest|group="注釈"|このような構造変化をアンリ・ピレンヌは[[イスラーム]]勢力による地中海東岸、南岸、[[イベリア半島]]の制圧により、[[コンスタンティノープル]]を中心とする地中海世界が消滅した結果、地中海の東西を結び付けていた政治・経済関係が遮断され、カロリング朝時代に入る頃のフランク王国ではローカルな閉鎖的経済への移行を余儀なくされたものであるとした<ref name="大月1998pp214_215">[[#大月 1998|大月 1998]], pp. 214-215</ref>。更にイスラームの地中海制圧が、フランク王権とローマ教皇権の歩みよりをも惹起し、独自の西ヨーロッパ世界の確立につながったとした<ref name="大月1998p218">[[#大月 1998|大月 1998]], pp. 218</ref>。このピレンヌの明解な見解(ピレンヌ・テーゼ)は多くの研究者に多大な影響を与えた。現代ではこれは各種の批判に晒されているものの、研究史を概観する際には常に触れられる。}}。特に北海・バルト海方面での交易活動は、[[ワイン]]、[[穀物]]、[[毛織物]]、金属製品や武具などの生活要因が大半を占め、地中海交易に特徴的な奢侈品が存在しないことが特徴であり、交易主体の多様化を示している<ref name="丹下1995p177">[[#丹下 1995|丹下 1995]], p 177</ref>。
 
 
カロリング期にはこの構造的変化は更に加速し、流通構造は重層的な姿を示すようになった<ref name="丹下1995p178">[[#丹下 1995|丹下 1995]], p 178</ref>。地中海交易はメロヴィング期に引き続き途絶えていないことが、流通税徴収所に関する記録から明らかになっている<ref name="丹下1995p179">[[#丹下 1995|丹下 1995]], p 179</ref>。また、{{仮リンク|カントヴィク|en|Quentovic}}、{{仮リンク|ドレスタット|en|Dorestad}}を拠点とした北海・バルト海交易はフランク王国にとって第一級の意味を持つものに成長した。サン=ドニの年市にはアングロ・サクソン人やフリーセン人の商人が集まり、各種の商品を取引した<ref name="丹下1995p179"/>。そして、修道院に代表される聖界領主が経済力を強めるとともにフランク王から流通税免除特権を獲得し、更に領民の労働賦役による物資運搬によって市場との結びつきを恒常化していった<ref name="丹下1995p180">[[#丹下 1995|丹下 1995]], p 180</ref>。こうした流通構造の重層的構造は、地域経済、そして[[中世盛期]]以降の発達した国際的流通の基礎的条件の一つとなっていった<ref name="丹下1995p186"/>。
 
 
=== 通貨 ===
 
[[ファイル:Tiers de sou de Clotaire III frappé à Paris.jpeg|thumb|クロタール3世の硬貨。]]
 
西ローマ帝国の終焉の後も、フランク王国の支配地の大部分は程度の差はあれ貨幣経済に依拠していた<ref name="シュルツェ2005p43">[[#シュルツェ 2005|シュルツェ 2005]], p.43</ref>。フランク王国ではローマの幣制が継続していたが、6世紀には自ら造幣を行うようになった<ref name="シュルツェ2005p44">[[#シュルツェ 2005|シュルツェ 2005]], p.44</ref>。当初は東ローマ帝国の金貨の模造を行っていたが、次第に王名入りの金貨を発行させるようになった<ref name="シュルツェ2005p44"/><ref name="ル・ジャン2009p111">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], p. 111</ref>。確認できる最も古い王名入り金貨は、テウデベルト1世(在位:533年-547年)が造らせたものである<ref name="シュルツェ2005p44"/><ref name="ル・ジャン2009p111"/>。また、ローマ時代のソリドゥス金貨の3分の1の重量であるトリエンス貨の造幣が優勢となり、ローマ幣制からの緩やかな離脱が起きた<ref name="丹下1995p175">[[#丹下 1995|丹下 1995]], p 175</ref>。
 
 
フランク王権は長らく造幣権を独占することができず、こうした貨幣は各地の造幣人(monetarii)に委託されて王や有力者の名の下で製造されており、造幣人と造幣地が刻まれていた<ref name="シュルツェ2005p44"/>。しかし、各地の造幣人の都合によって貨幣の重量や品質がまちまちであった上、[[金]]の供給源に乏しかったことから、メロヴィング期を通じて金貨の質は低下し続けた<ref name="ル・ジャン2009p111"/><ref name="ブウサール1973p52">[[#ブウサール 1973|ブウサール 1973]], p. 52</ref>。市場におけるフランクの貨幣の信用は低く、決済手段としては極めて品質が安定していた東ローマ帝国の貨幣([[ノミスマ]])を用いるか、貨幣を融解したり、純地金を秤ったりして行うことが広く行われた<ref name="ブウサール1973p52"/>。また、次第に金貨の流通は下火となり銀貨による決済が広がっていった。7世紀後半にはフランク王国で[[デナリウス]]銀貨が発行されたが、品位が悪かったことから、イングランドの諸王国で発行された[[シャット]]銀貨(初期デナリウス銀貨)による支払が行われ、フランク王国とイングランドで急速に普及した<ref name="丹下1995p176">[[#丹下 1995|丹下 1995]], p 176 </ref>。
 
 
こうした状況に対し、カロリング朝は通貨体制の構築に力を注いだ<ref name="山田2010p27">[[#山田 2010|山田 2010]], p. 27</ref>。このことはカロリング朝の諸王が熱心に幣制改革を行っていることから確認できる<ref name="山田2010p27"/><ref name="ブウサール1973p52"/>。ピピン3世は即位直後の[[754年]]に貨幣の重量改革を行い、金貨造幣を停止して銀貨のデナリウスのみを発行することに決め、銀貨の標準重量を上積みした。また、12デナリウスが1ソリドゥス(金貨)、20ソリドゥスが1リブラと言う上位の計算貨幣の単位も設定された<ref name="山田2010p27"/><ref name="丹下1995p185">[[#丹下 1995|丹下 1995]], p 185</ref>。この関係はその後の西欧諸国の通貨体制の基本として受け継がれていく<ref name="山田2010p27"/>。さらにカール1世(大帝)はデナリウス銀貨の重量を更に上積みする幣制改革を実施した。これの理由については、東方の金の高値に対する対策や新たな銀鉱の開発が行われたこと。冬の飢饉による穀物価格高騰に対する購買力の強化などの説がある<ref name="山田2010p27"/>。[[794年]]のフランクフルト公会議では、この新デナリウス(novi denarii)の普遍的な受け入れが命じられ、その後も繰り返された<ref name="山田2010p27"/>。しかし新デナリウス貨は小額の取引に向かず、市場ではデナリウス貨幣を勝手に半分にするなどの行為が横行したため、少額貨幣の需要に応えるべくデナリウスの半分の価値の[[オボルス]]貨も発行された<ref name="山田2010p28">[[#山田 2010|山田 2010]], p. 28</ref>。更に品質を維持するため造幣権の独占が試みられ、貨幣の私鋳を厳しく禁止するとともに、[[805年]]には造幣を宮廷に限定することが定められた<ref name="山田2010p28"/>。カール1世の幣制改革は、北海貿易の隆盛を背景に、同時期に行われたブリテン島の[[マーシア王国]]のそれと並行して行われており、この時期にフランク王国とイングランドではほぼ共通の幣制が整えられた(デナリウス=ペンス、ソリドゥス=シリング、リブラ=ポンド)<ref name="丹下1995p185"/>。
 
 
このような金貨の造幣停止と銀貨の普及は、かつては遠隔地交易の衰退と自然経済への退歩を示すものとされてきたが、近年においては当時のフランク王国で交易活動の衰退は認められず、農業生産もむしろ拡大傾向にあったと考えれており、この現象は生産力上昇を背景として広範な生産者が貨幣経済に参与したことによるものと考えられている<ref name="丹下1995p186">[[#丹下 1995|丹下 1995]], p 186</ref>。
 
 
== 文化 ==
 
=== 言語 ===
 
古代ローマ社会は非常に高い識字文化を誇っていた事が知られている<ref name="佐藤1995b_pp216_217">[[#佐藤 1995b|佐藤 1995b]], pp. 216-217</ref>。ローマ期の文学作品は質・量ともに豊かであり、また文字媒体の使用は少数の知識人によるものではなく、広く一般民衆に普及していた<ref name="佐藤1995b_pp216_217"/><ref name="ソら2016p70">[[#ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016|ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016]], p. 70</ref>。文字が読めない者でも、代筆者に依頼して遺言状などを作成してもらう慣行があったことも分かっており、文字化の理念が社会全般に広く浸透していたことが知られている<ref name="佐藤1995b_pp216_217"/>。この状況はガリアにおいても同様であり、他のローマ領と同じく都市には当局から給与を支払われて子供たちに読み書き計算の初歩を教える[[教師]](litteratores)がおり、一種の都市の[[学校]]と言うべきものが存在した<ref name="佐藤1995b_pp216_217"/>。
 
 
一方、フランク王国を建国したフランク人たちは、クロヴィス1世によるガリア征服とフランク王国の成立の当時、[[インド・ヨーロッパ語族]][[ゲルマン語派]]の一派である[[古フランク語|フランク語]]を母語としていたが、この言語が筆記に使用されることはなかった。[[6世紀]]初頭に編纂されたサリー・フランク人の部族法典である『[[サリカ法典]]』には書面による売買契約や諸証についての規定がほとんどなく、一定の身振りや仕草を伴った口頭での契約や証明法、象徴物を用いた法律行為が採用されており、フランク人一般が当時まだ文字文化に親しんでいなかったことを示している<ref name="森1998p247">[[#森 1998|森 1998]], p. 247</ref>。このような状況はカロリング朝期にも変わることなく、法律行為は文字なしに行われるものの比重が大きかった<ref name="山田1992p55">[[#山田 1992|山田 1992]], p. 55</ref>。メロヴィング朝時代には王たちは自筆の署名を行っており俗人の間でも一定の識字能力を持つものはいたが<ref name="加藤2011p57">[[#加藤 2011|加藤 2011]], p. 57</ref>、王宮から発信される指令や情報の伝達文書は必ず朗唱され、口上の形態をとったものと想定されている<ref name="森1998p247"/>。
 
 
しかし、このことはガロ・ローマ系住民のローマ帝政後期以来の伝統的な文書使用の慣行に根本的な変化はもたらさなかった<ref name="佐藤1995b_p222">[[#佐藤 1995b|佐藤 1995b]], p. 222</ref>。フランク王国はその中枢を置いた[[ガリア]]におけるローマ帝国の行政機構を一部引き継いだため、王国運営上必要となる文書業務はガロ・ローマ{{refnest|group="注釈"|name="ガロ・ローマ人"|ガロ・ローマ人(Gallo-Roman)とはガリア(Gallia 概ね現代の[[フランス]]に相当する地域)に住むローマ系住民を指す学術用語である。あくまでも現代歴史学の用語であり、古代ローマ時代およびフランク王国時代にこれに対応する概念が存在していたわけではない。ミシェル・ソはこの用語について「私たちはガロ=ローマ人について、二十世紀の立場で語っているが、五世紀には、また、そのあとの何世紀かにも、そのような呼び名は存在しなかった。ガリアでは、読み書きのできる人々は、自らを『ローマ人』であり、普遍的帝国とローマ文化の継承人と考えていた。」と述べ、ガロ=ローマ人とは(ガリアに住む)キリスト教徒ローマ人であるとしている<ref name="ソら2016p27">[[#ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016|ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016]], p. 27</ref>。ローマに対する「ガリア民族意識」というものはいかなる意味でも存在しなかったのであり、ガリア人とは諸民族に君臨すべきローマ人の一部であった<ref name="ソら2016p27"/>。}}系の知識階級やキリスト教聖職者に委ねられ、ゲルマン古来の慣習法の成文化も彼らの手によって行われた。このため、文書の行政・司法上の言語には[[ラテン語]]が使用され、王国はその建国初期段階から二重言語の状態にあった<ref name="森1998p246">[[#森 1998|森 1998]], p. 246</ref>。
 
 
セーヌ川以南のガリア南部では、6、7世紀にも土地の売買や譲渡、[[奴隷]]の開放、[[債務]]などほとんどの法律行為に際して文書が作成されていたことが、こうした文書を作成するための範例集成の存在によって想定されている<ref name="佐藤1995b_p222"/>{{refnest|group="注釈"|ただし、このような文書行政を伴う法律行為はフランク王国の全てで一様に実施されていたわけではない。旧ローマ帝国領に成立したゲルマン人の王国ではいずれも同様であるが、フランク王国は単一の部族集団ではなかった。フランク王国はフランク人の他に、ガロ・ローマ人やゲルマン人の諸部族(アレマン人やバイエルン人、テューリンゲン人、ブルグント人、ランゴバルド人等)が含まれる多民族国家であった。これらのローマ系の人々やゲルマン人諸部族は、それぞれの言語や法、習俗、慣習を維持し続けた<ref name="シュルツェ2005p19">[[#シュルツェ 2005|シュルツェ 2005]], p.19</ref>。ただし、ローマ系住民の行政組織はフランク王国の全土に適用される「国家法」の起源となったが、その実効性は王国の部分ごと、部族ごとに大きな隔たりがあった<ref name="シュルツェ2005p19"/>。}}。
 
 
各地の地方中心都市(キウィタス)はローマ期の地方行政を継承し、それは機能し続けていたし<ref name="佐藤1995b_p222"/>、学校もメロヴィング朝初期には存続しており、教育組織が「蛮族による破壊」を被った証拠は無い<ref name="ソら2016p70"/>。地方行政機能存続状況にはもちろん地域差があった。フランク族の移動時にガロ・ローマ系住民の多くが移動し、またフランク族の移住者が多かったガリア北部、[[セーヌ川]]以北の地域ではキウィタスの機能は相当に後退していたと推定されている<ref name="佐藤1995b_pp223">[[#佐藤 1995b|佐藤 1995b]], p. 223</ref>。しかし、文書行政が消滅したわけではなく、この地域では低下した都市行政機能を補うために国王文書局によってプラキタ(裁定)文書が多数発行された<ref name="佐藤1995b_pp223"/>。この国王文書局が発行する文書は、研究によって概ねローマ帝政期の属州役人文書の系譜に連なるものであることが明らかになっており、全体としてフランク王国がローマ帝政期の文書行政を広範に継承していることが知られている<ref name="佐藤1995b_pp223"/>。
 
 
また、ローマ期より社会の中枢を占めた[[ガリア・セナトール貴族]]と呼ばれる階層や、その階層の出身者を多数含むキリスト教会の聖職者によって、ラテン語の文学的伝統が維持された。メロヴィング朝期においても既にラテン語の文語と口語([[俗ラテン語]])の乖離は大きなものとなりつつあったが、発音の近似性により未だコミュニケーションが成立していた<ref name="佐藤池上高山ら2005p17">[[#佐藤,池上,高山ら 2005|佐藤,池上,高山ら 2005]], p. 17</ref>。
 
 
こうした状況はカロリング期になると俄かに変化した。カール大帝期以降の[[カロリング朝ルネサンス|カロリング・ルネサンス]]と呼ばれる文化運動は古典志向の「純粋なラテン語」を希求し、[[ブリテン島]]の[[ヨーク]]出身の修道士[[アルクィン]](アルクィヌス)によってラテン語の発音の矯正や正書法の整備が行われた<ref name="森1998p248">[[#森 1998|森 1998]], p. 248</ref>。これは「卑俗化した」ラテン語を純化し、一連の改革と勧奨運動によって正しいラテン語を復旧させようとしたものであった<ref name="森1998p248"/>。また、正確なラテン語を通じた正しいキリスト教の理解を求める運動でもあり、言語改革を通じて王国の統治を円滑化しようとする試みでもあったが、文語と口語の距離を一段と乖離させることとなり、メロヴィング朝期には文字文化の一端を担っていた俗人貴族階層もまた識字層から離脱していくこととなったうえ<ref name="渡部1997p77">[[#渡部 1997|渡部 1997]], p. 77</ref><ref name="山田1992pp46_52">[[#山田 1992|山田 1992]], pp. 46-52</ref>、教会の聖職者や聖職者出身の政府関係者が使用する書き言葉は民衆には全く理解できないものとなった<ref name="森1998p248"/><ref name="佐藤池上高山ら2005p17" />。この結果ラテン語はカロリング朝時代には聖職者や国家行政を司る者が占有する媒介言語となった<ref name="森1998p248"/>。
 
 
公用語としてのラテン語が聖職者階層(フランク王国時代には同時に統治機構の役人でもあり、領主でもある)にのみ使用される言語となっていく一方、キリスト教の教化を各地で推し進めるために各地の民族語による教義の流布や説教が進められた<ref name="森1998p249">[[#森 1998|森 1998]], p. 249</ref>。[[794年]]の{{仮リンク|フランクフルト教会会議|en|Council of Frankfurt}}では、ラテン語や[[ギリシア語]]、[[ヘブライ語]]に限らず、あらゆる言語が神を崇拝する言語であることが決議された<ref name="森1998p249"/>。カール大帝が[[813年]]に招集した教会会議では、司教たちの説教が民衆に理解できるように各地の固有の言葉をもってなされるべきとされ、「わかりやすく翻訳」することが決議されている<ref name="森1998p250">[[#森 1998|森 1998]], p. 250</ref>。こうしてラテン語の宗教文書の現地語への翻訳が促され、王国の東側では9世紀以降[[高地ドイツ語]]による宗教文学も誕生した<ref name="森1998p251">[[#森 1998|森 1998]], p. 251</ref>。一方西側でも9世紀には初の[[古フランス語]](ロマンス語)の文書である[[ストラスブールの宣誓]]が現れるに至り、少なくても北フランスではこの言語が共通語となっていた<ref name="佐藤1995ap39">[[#佐藤 1995a|佐藤 1995a]], p. 39</ref>。
 
 
こうしてフランク王国時代には、ほとんど聖職者のみからなるラテン語の知識階層と、様々な現地語を使用するラテン語非識字層からなる西ヨーロッパ中世世界の言語的二重構造が形成された<ref name="山田1992pp46_52"/>。
 
 
=== メロヴィング期の文学 ===
 
==== 書簡集と歴史書 ====
 
フランク族は自らの言語による文学を残さなかったが、フランク王国時代のガリアではラテン語の著作活動はなお継続していた。ローマ期以来の文学活動の継続としてまず挙げられるのが、ローマ期の知識階級が一種の文学活動として行っていた書簡の交換であり、これはメロヴィング朝時代も継続していることが{{仮リンク|デシデリウス (カオール司教)|label=デシデリウス|en|Didier of Cahors}}の書簡集や、アウストラシアでまとめられた『[[アウストラシア書簡集]]』等によってわかる<ref name="佐藤1995b_pp225">[[#佐藤 1995b|佐藤 1995b]], p. 225</ref>。
 
 
また、メロヴィング期のラテン語著作家によって多くの歴史書が著述された。その代表的な人物として'''[[トゥールのグレゴリウス]]'''がいる。彼は6世紀後半の教養ある社会の完璧な代表者であると見なされ<ref name="ソら2016p21">[[#ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016|ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016]], p. 21</ref>、フランク王国の歴史を記した『[[歴史十書]]』を記述したことで名高い<ref name="佐藤1995b_pp225"/>。この歴史十書は初期フランク史を知る上での基本文献である{{refnest|group="注釈"|トゥールのグレゴリウスは当時の「フランク人」の認識についても興味深い著述を残している。彼はアクィタニアのガロ・ローマ人の名門家系の出身であり、その一族からは[[ラングル]]、[[リヨン]]、[[クレルモン]]の司教を輩出している<ref name="ソら2016p22">[[#ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016|ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016]], p. 22</ref>。そしてグレゴリウス自身は[[トゥール]]の司教職を[[シギベルト1世]]から拝命し、死ぬまでその地位にあった<ref name="ソら2016p22"/>。彼はクロヴィス1世のカトリック改宗を極めて重要視しており、その記述によれば、「フランク人たちはローマ帝国を破壊しなかった。彼らは、カトリック教徒になることによってローマ人になったのである。」(ミシェル・ソによる要約)とされた<ref name="ソら2016p26">[[#ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016|ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016]], p. 26</ref>。}}。また、『歴史十書』に続く歴史叙述としてとして[[ジュネーヴ]]近辺の著者によって作成されたと推定される『[[偽フレデガリウス年代記|フレデガリウス年代記]]』や<ref name="佐藤1995b_pp226">[[#佐藤 1995b|佐藤 1995b]], p. 226</ref>、『{{仮リンク|フランク史書|en|Liber Historiae Francorum}}』が作成された<ref name="橋本2012">[http://kiyou.lib.agu.ac.jp/pdf/kiyou_02F/02__27F/02__27_132.pdf 橋本龍幸「フランク史書 Liber Historiae Francorum (訳注)]</ref>。
 
 
==== 聖人伝 ====
 
メロヴィング期の象徴的な、そして最も発展した文学ジャンルはキリスト教の聖人伝である<ref name="佐藤1995b_pp226"/><ref name="ソら2016p90">[[#ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016|ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016]], p. 90</ref>。聖人伝はメロヴィング朝時代の文学活動において量的に最大の部分を占めている<ref name="佐藤1995b_pp226"/>。こうした聖人伝を多数残す原動力となったのが文学活動における教会・修道院の重要性の増大であった。7世紀半ばまでには古代以来の都市の公的な学校が順次消滅する一方{{refnest|group="注釈"|ただし、北ガリアでは既に4世紀にはこうした学校は消滅していた。南ガリアでは7世紀半ばまで存続したが、その後完全に消滅した。それ以降は、主として司教職を担う名門家系による「家伝」によって古典が継承されたが、「家」によって伝えられるだけであった古典の知識は世代を経るごとに貧弱化していったと考えられている<ref name="ソら2016p83">[[#ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016|ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016]], p. 83</ref>。}}、6世紀頃からキリスト教の司祭を育成するための司教区学校が、古代の学校の伝統とは独立的にガリア全域に広がっていった<ref name="ソら2016p88">[[#ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016|ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016]], p. 88</ref>。これは古代の学校で十分に施すことができない宗教的、聖職者的教育を施すために教会が独自に用意した教育機構であった<ref name="ソら2016p88"/>。
 
 
また、修道院においても文筆活動が活発化した。修道院には元々書写室が備わり、古典やキリスト教の教父たちの著作、そして[[聖書]]や典礼文書の筆写が行われていたが、{{仮リンク|聖コルンバヌス|en|Columbanus}}の影響下で創設された、ガリア北部やブルグンディアの修道院には特に整備された書写室が常に設けられ、筆写作業は修道院の手労働の重要な要素になっていった<ref name="佐藤1995b_pp227">[[#佐藤 1995b|佐藤 1995b]], p. 227</ref>{{refnest|group="注釈"|こうした聖人伝は対象の聖人の記念日に朗誦することを前提として作られており、ラテン語による朗誦を当時の民衆が未だ理解できていたことを示している<ref name="佐藤1995b_pp227"/>。}}。聖人伝の多くはこうした修道院で作成された<ref name="ソら2016p91">[[#ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016|ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016]], p. 91</ref>。この時代には「[[著者]]」と言う概念は成立しておらず、文書を書写する人が「こうした方が良い」と考えればその都度変更が加えられたながら書写された<ref name="ソら2016p106">[[#ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016|ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016]], p. 106</ref>。
 
 
当時の重要な作品としてあげられるのが[[669年]]以降に{{仮リンク|ニヴェル|en|Nivelle}}で書かれた『{{仮リンク|聖女ゲルトルーディス|en|Gertrude de Nivelles|FIXME=1}}伝』、[[ルペー]]で書かれた『[[聖アイユル]]伝』、[[688年]]以前に[[フォントネル]]で書かれた『{{仮リンク|聖ヴァンドリル|en|Wandregisel|fr|Saint Wandrille}}伝』、[[670年]]頃に{{仮リンク|ルミルモン|en|Remiremont}}で書かれた『{{仮リンク|聖アメ|en|Saint Ame}}伝』、[[707年]]以前に[[ラン (フランス)|ラン]]で書かれた『[[聖女サラベルジュ]]伝』などである<ref name="ソら2016p106"/>。
 
 
==== メロヴィング朝末期 ====
 
メロヴィング朝末期の[[8世紀]]前半は、こうした修道院における文学活動とは裏腹に古代以来の学校が姿を消し、貴族層も次第に識字能力を喪失していった<ref name="ソら2016p101">[[#ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016|ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016]], p. 101</ref>。初期中世フランス史の研究者ミシェル・ソは「ここで言っておかなければならないのは、文化的レベルが最も低下したのが、とくに八世紀前半だということである。」と述べる<ref name="ソら2016p101"/>。古代から継承した文化の中心地であった南部ガリアは、8世紀前半にイスラームの襲撃を受け、更に反撃に出た宮宰[[カール・マルテル]]のフランク軍によって再征服される中で甚大な被害を被った<ref name="ソら2016p102">[[#ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016|ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016]], p. 102</ref><ref name="ブウサール1973p160">[[#ブウサール 1973|ブウサール 1973]], p. 160</ref>。文化の中心となるべき都市は姿を消し、フランク王国の支配を安定させるために送り込まれていた軍隊を率いていたのは「肩書は貴族だが、証書の下部欄にも、署名の代わりに十字の印を書くことしかできない、無教養な男たち」(ミシェル・ソ)であった<ref name="ソら2016p103">[[#ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016|ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016]], p. 103</ref>。教会の司教職も単なる収入源として戦士たちに与えられ、司牧の役割を果たすことはできなくなった<ref name="ソら2016p103"/>。
 
 
このため、メロヴィング朝末期のガリアでは文盲は一般的となり、俗人貴族層も聖職者たちも全く無学な状態となった<ref name="ソら2016p104">[[#ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016|ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016]], p. 104</ref><ref name="ブウサール1973p160"/>。それ故に、この時代はガリアにおいて文化史的に重大な転換期となっている<ref name="佐藤1995app155"/><ref name="ソら2016p103"/>。このような中で芸術・文学的伝統を維持し続けたのが上記のような多数の聖人伝を残し続けた修道院であり、カロリング朝時代の「文化のルネサンス」へと繋がる文化的潮流は専ら修道士によって担われることになった<ref name="ソら2016p104"/>。
 
 
=== カロリング・ルネサンス ===
 
{{main|カロリング朝ルネサンス}}
 
[[File:Minuscule caroline.jpg|right|thumb|200px|カロリング小文字体で書かれたカロリング朝の福音書(大英博物館 MS Add. 11848)の1ページ(160v)。[[ウルガタ]]聖書、[[ルカによる福音書|ルカ]] 23:15-26]]
 
カロリング朝期、特にカール1世(大帝)の治世において、今日一般に'''カロリング・ルネサンス'''と呼ばれる古典古代の文芸復興の潮流があった<ref name="佐藤2013p69">[[#佐藤 2013|佐藤 2013]], p. 69</ref>。カール1世個人がどの程度教養を身に着けていたかは、カール1世の伝記を残した[[アインハルト]](エジナール)が書き残したことしか知られていない。それによればカール1世はラテン語を理解したが、文字は使えなかった<ref name="ソら2016p114">[[#ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016|ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016]], p. 114</ref>。
 
 
カール1世はその活発な軍事活動によって3度[[ローマ]]へと赴いた([[774年]]、[[781年]]、[[786年]])。このことはカロリング・ルネサンスの重要な基盤となった。即ち、イタリアとローマへの行軍を通じて、{{仮リンク|ファルドゥルフ|fr|Fardulf}}、{{仮リンク|アクィレーリアのパウリヌス|en|Paulinus II of Aquileia}}、そして何よりも当時[[パルマ]]にいたアングロ・サクソン人[[助祭]][[アルクィン]](アルクィヌス)や文法学者・歴史学者である[[パウルス・ディアコヌス]]といった知識人がフランクの宮廷に招聘された。アルクィンはこの後カール1世の文化政策を主導する中心人物となる<ref name="ソら2016p114"/>。更にヒスパニアからイスラームの支配を逃れてやってきた{{仮リンク|テオドルフ|en|Theodulf of Orléans}}や、アイルランド人{{仮リンク|ドゥンガル|en|Dungal of Bobbio}}
 
らもフランク宮廷に到来した<ref name="佐藤2013p71">[[#佐藤 2013|佐藤 2013]], p. 71</ref><ref name="ソら2016p118">[[#ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016|ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016]], p. 118</ref>{{refnest|group="注釈"|カロリング・ルネサンスにはヨーロッパ各地から集まった外国人が多大な貢献をしていた。カール1世のラテン語の師であったピサのピエトロや、パウルス・ディアコヌスのような[[イタリア]]の知識人たちが遠征を通じて集まった他、アルクィンのようなブリテン諸島出身者も大きな役割を果たした。ブリテン諸島ではラテン語の古写本の残存状態が良く、ブリテン諸島の聖職者たちとともに質の良い写本がフランク王国にもたらされた。独自の修道制を発達させていた[[アイルランド人]]の修道士は、独特の風貌で奇異の目を向けられたが知識の豊富さでは定評があり、[[ラン (フランス)|ラン]]の司教座学校では教師の大部分をアイルランド人が占めた。イスラームの支配下にあったヒスパニアからは聖職者がフランク王国に移動し、教理論争に参加し西ゴート時代の貴重な写本をもたらした<ref name="ソら2016pp125_132">[[#ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016|ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016]], pp. 125-132</ref>。}}。
 
 
また、ローマ教皇から『{{仮リンク|ディオニュシオ=ハドリアーナ法令集|de|Dionysio-Hadriana}}(Collectio canonum Dionysio-Hadriana)』と呼ばれる膨大なローマ教会法集が贈られ、これがフランク教会法の基盤となった<ref name="ソら2016p115">[[#ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016|ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016]], p. 115</ref>。キリスト教帝国の王として、カール1世は人々が神の御心にかなって救いに到達するためには祈りの言葉を正しく唱える必要があると考え、[[ピピン3世]]時代に[[メッツのクロデガング|メッツ(メス)のクロデガング]]が始めていたローマを手本とする典礼の統一化を推進した<ref name="ソら2016p115"/>。このため十分な能力を持った聖職者の養成が必要となり、教育の質的向上を図る訓令や法令が繰り返し発布された<ref name="ソら2016p116">[[#ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016|ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016]], p. 116</ref>。カール1世の周囲には学者たちが集まって一つの「宮廷」が形成され、アルクィンはこれを古代ギリシアの[[アカデメイア]]になぞらえた<ref name="ソら2016p118"/>。[[アーヘン]]の宮廷には図書館が建設され[[ガイウス・サッルスティウス・クリスプス|サッルスティウス]]、[[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]、{{仮リンク|クラウディアヌス・マメルトゥス|label=クラウディアヌス|en|Claudianus Mamertus}}など、キリスト教以前のラテン語古典作品が並べられた<ref name="ソら2016p119">[[#ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016|ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016]], p. 119</ref>。[[814年]]にカール1世が死んだ時点で実現していたことは極僅かであったが、[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルートヴィヒ1世]](敬虔帝)はカール1世の文化政策を引き継いだ。
 
 
上記のような知識人たちの努力と政策的な支援の結果、9世紀には膨大な文筆活動が行われた。これを通じてカロリング・ルネサンスが文化史に残した特筆すべき遺産は「文法」と「文字」である<ref name="ソら2016pp141_147">[[#ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016|ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016]], pp. 141-147</ref>。カロリング朝期の学者たちは文法的に正しいラテン語を追い求めた。「文法的に正しいラテン語」とは古代末期に明確化された古典ラテン語の文法規範にかなうラテン語を指し、特に帝政ローマ末期の文法学者[[アエリウス・ドナトゥス|ドナトゥス]]の文法書が広く拠り所とされた<ref name="ソら2016pp141_147"/>。学者たちはドナトゥスの文法書を基準にメロヴィング朝時代から伝わる写本の校訂を行い、「野卑な」「劣悪な」言葉を排除していった<ref name="ソら2016pp141_147"/>。アルクィンやテオドルフも同様の思考から、ラテン語訳[[聖書]]の修正を行い、聖人伝や[[教父]]の説教も同じく見直しがされた<ref name="ソら2016pp141_147"/>。これによって[[中世ラテン語]]の規範が確立され<ref name="ソら2016pp141_147"/>、学者たちの書き言葉とコミュニケーションの共通言語としてヨーロッパ中世を通じて使用されることになった<ref name="ソら2016pp141_147"/>。
 
 
文字において特筆すべきことは[[カロリング小文字体]](カロリーナ小文字)の発明である。カロリング小文字では読みやすさを重視し、[[単語]]と単語の間に空白を置き{{refnest|group="注釈"|これは現代の欧文では全く常識的なことであるが、[[8世紀]]以前の[[ギリシア語]]や[[ラテン語]]の文書では単語と単語の間に空白が置かれることはなく、全て一繋ぎで文章が綴られていた<ref name="佐藤1995b_p231">[[#佐藤 1995b|佐藤 1995b]], p. 231</ref>。}}、[[合字]]を避ける{{refnest|group="注釈"|合字(連綴文字)は2文字を合成してまるで1つの文字であるかのように綴るもので、例えば現代でも使用される&はラテン語etの合字を起源としている<ref name="佐藤1995b_p231"/>。}}、などして筆写時の誤読を避ける事が意図された<ref name="佐藤1995b_p231"/><ref name="ソら2016pp141_147"/>。この文字は神の言葉を正しく伝えるためには完璧で誤解の余地のないやり方で筆写されているべきであるという宗教的信念に応える技術的手段として存在した<ref name="佐藤1995b_p232">[[#佐藤 1995b|佐藤 1995b]], p. 232</ref>。このような信念は書籍の装飾にも反映されて行き、書物の体裁とメッセージは一体であり、美麗な書体と装飾がメッセージの価値を高めるとされた<ref name="佐藤1995b_p232"/>。こうして企画化され、豪華に装飾され、時には金字で綴られた大型の福音書が作成されるようになった<ref name="佐藤1995b_p232"/>。
 
 
これらの結果、カロリング朝時代の何十年かの間に膨大な著作、筆写が行われ、現代でも当時の写本が8,000点余り残っている。これは当時作成されたものの極一部分にすぎないと考えられている<ref name="ソら2016pp141_147"/>。
 
 
==== 後世への影響 ====
 
正しいラテン語の制定は、正しくない(田野風の)ラテン語が、ラテン語の変種(俗ラテン語)ではなく「別種の言語」と定義される切っ掛けとなった。中世ラテン語の確立の後、ラテン語からこれらの「田野風のラテン語」への「翻訳」が問題となるようになり、ここを[[ロマンス語]]とラテン語の分岐点とする考え方が、ラテン語学者やロマンス語学者によって概ね認められている<ref name="佐藤1995b_p235">[[#佐藤 1995b|佐藤 1995b]], p. 235</ref>。
 
 
カロリング朝時代に整備された教育機構(基本的には修道院の学校と司教座学校)はフランク王国の解体以後も[[11世紀]]から[[13世紀]]まで残った。その数は増大し、文字の使用される範囲も拡大するとともに、非ラテン語の文書も作成されるようになっていった<ref name="ソら2016p158">[[#ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016|ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016]], p. 158</ref>。非ラテン語の「土着語」は言語の種類が何であれ、文法的な考察に値しない「劣った言語」と見なされた<ref name="ソら2016p184">[[#ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016|ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016]], p. 184</ref>。しかし、こうした学校で学んだ書字生たちは、[[10世紀]]には土着語(ロマンス語)による文学作品を残すようになり<ref name="佐藤1995b_p235"/>、[[12世紀]]には俗人世界が影響力を増大した結果、特に貴族たちの要望によって非キリスト教的な土着語の作品が残されるようになった。[[トルバドゥール]]と呼ばれる詩人たちによって[[オック語]]で作成された『愛の歌』や、カール1世の甥であるとされる[[ローラン (シャルルマーニュ伝説)|ローラン]]を称える[[オイル語]]の『[[ローランの歌]]』などが代表的である<ref name="ソら2016p184"/>。
 
 
また、カロリング・ルネサンスによって作成されたカロリング小文字は、フランク王国の終焉の後次第に使用されなくなったが、簡素で読みやすく形体も単純であったため、[[16世紀]]に初期の[[人文主義者|ユマニスト]](人文主義者)の印刷者たちが印刷用の書式に採用した。従ってこの書体は後のアルファベットの印刷書体と明らかな関連を持っており、現代でもなじみ深いものとなっている<ref name="ソら2016pp141_147"/><ref name="ブウサール1973p164">[[#ブウサール 1973|ブウサール 1973]], p. 164</ref>。
 
 
=== 建築 ===
 
[[ファイル:AachenChapelDB.svg|right|200px|thumb|カール1世の宮廷礼拝堂の平面プラン。八角堂の集中式プランによる中央部を上下二層からなる十六角形の周廊が取り囲む。]]
 
フランク王国時代の世俗建築は城塞などを含めてほとんどが木製であり、現存するものはない。石造で造られた宗教建築や宮殿の一部のみが今日に伝わる。宗教建築でも、メロヴィング朝時代の建造物の現存例はほとんど無く、[[ポワティエ]]の洗礼堂、[[デュヌ]]の地下墓室、{{仮リンク|サン=ポール=ド=ジュアール|fr|Cryptes de Jouarre}}の地下納骨堂、メッスの[[サン=ピエール=オ=ノナン]]の内陣仕切りなどが僅かに残されているに過ぎない<ref name="ル・ジャン2009pp91_92">[[#ル・ジャン 2009|ル・ジャン 2009]], pp. 91-92</ref>。これらの遺構は、その構成・装飾が古代の宗教建築にかなり忠実であったことを証明している<ref name="ル・ジャン2009pp91_92"/>。
 
 
==== カロリング・ルネサンス期の建築 ====
 
カロリング朝期になると、カール1世以来のカロリング・ルネサンスの潮流の中で建築活動も活発化した。古代ローマの建築に関心を持ったカール1世は、ローマやラヴェンナにあった聖堂や住居から建築資材や美術品を運び出し、晩年の住処とした[[アーヘン]]に持ち込んだ<ref name="加藤益田2016pp197_201">[[#加藤, 益田 2016|加藤, 益田 2016]], pp. 197-201</ref>。これらを用いて門楼、謁見用大広間、宮廷礼拝堂、学校、浴堂、軍事設備などを備えた壮麗な宮殿が建設された。この宮殿はローマ時代に[[トリーア]]に建設された[[コンスタンティヌス1世]](大帝)の[[トリーアのローマ遺跡群、聖ペテロ大聖堂、聖母聖堂|アウラ・パラティナ]]を参考にしたともいわれ、当時の詩人は「われらの時代は古典文明に変容した。革新された黄金のローマがこの世に再生した」と謳っている<ref name="加藤益田2016pp197_201"/>。この宮殿の中で現存するのは[[アーヘン大聖堂|宮廷礼拝堂]]のみであるが、直径14.5メートル、高さ30.6メートルの[[ドーム]]を戴く八角堂の集中式プランのこの礼拝堂は、規模でこそ同時代の東ローマや古代のローマ建築に及ばないものの、その装飾は古代の唐草文様や柱頭装飾が精巧にコピーされており、技術的な確かさは「ルネサンス美術」その物と評される<ref name="加藤益田2016pp197_201"/>。
 
 
[[File:Corvey Westwerk 2.jpg|left|200px|thumb|コルヴァイの「西構え(Westwerk)」。最上部部分は後世の増築。]]
 
また、この宮廷礼拝堂に代表されるフランク時代(カロリング時代)の教会建築は典礼の作法との関係から「{{仮リンク|西構え|de|Westwerk}}([[英語|英]]:Westwork、[[ドイツ語|独]]:Westwerk、[[フランス語|仏]]:Massif occidental」と呼ばれる新機軸が採用された<ref name="加藤益田2016pp201_204">[[#加藤, 益田 2016|加藤, 益田 2016]], pp. 201-204</ref><ref name="ソら2016pp115_116">[[#ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016|ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016]], pp. 115-116</ref>。これは教会を西向きに建て、建物の西側部分には多層建造物が建てられるものであった<ref name="ソら2016pp115_116"/>。[[殉教者]]の聖遺物を安置し、玄関広間も兼ねる1階。大アーチを持った広間になっていて、救世主の祭壇が設けられた2階。[[聖歌隊]]席のある3階から成り、各部分は二つの階段塔で結ばれた<ref name="ソら2016pp115_116"/>。反対側の東部分には内陣が設けられ、[[使徒]]たちが祀られた<ref name="ソら2016pp115_116"/>。この構成はカロリング時代の教会モニュメントの特徴を為すとともに、「西構え」の多層建築は後世の[[ロマネスク建築]]や[[ゴシック建築]]の教会に特徴的な、左右に塔を備えた[[ファサード]]の原型となった<ref name="ソら2016pp115_116"/>。同じくロマネスク建築とゴシック建築に共通する後陣も、その直接的な起源をこのカロリング朝の教会建築に持っている<ref name="ソら2016pp115_116"/>。アーヘンの宮廷礼拝堂の「西構え」は後世の改築時に失われてしまったが、[[コルヴァイ]]の修道院聖堂のものが現存し、その姿を見ることができる<ref name="加藤益田2016pp201_204"/>。
 
 
古代ローマから受け継がれた聖堂建築のスタイルには、集中式の他に[[バシリカ]]式のものがあった。量的にはアーヘンの宮廷礼拝堂のような集中式プランの建築は少数派であり、専らバシリカ式の方が王国の各地に普及した<ref name="加藤益田2016pp204_207">[[#加藤, 益田 2016|加藤, 益田 2016]], pp. 204-207</ref>。バシリカ式の普及は、カロリング朝時代の[[聖遺物]](聖人の遺体の一部)信仰の普及を原動力とするもので、聖遺物はイタリアから様々な方法でフランク領内へ持ち込まれた<ref name="加藤益田2016pp204_207"/>。イタリアで確立していた聖遺物を祀る建築様式としてのバシリカは聖遺物と共に北上し普及した<ref name="加藤益田2016pp204_207"/>。重要な作例としては[[サン=ドニ大聖堂]]や[[ケルン大聖堂]]が挙げられる(いずれも当時の姿では現存していない)<ref name="加藤益田2016pp204_207"/>。
 
 
==== 軍事施設 ====
 
ほとんど恒常的に戦争が行われていた結果、フランク王国では各地に要塞、或いは要塞線が築かれた<ref name="カウフマンら2012pp75_79">[[#カウフマンら 2012|カウフマンら 2012]], pp. 75-79</ref>。だが、王国の中心部では重要な築城の痕跡はほとんど残されていない<ref name="カウフマンら2012pp75_79" />。今日確認することができるのはローマ時代の城塞都市の修復の跡であり、[[カオール]]([[630年]]に修復)、[[オータン]]([[660年]]に修復)、[[ストラスブール]]([[722年]]に修復)などでローマ時代の市壁が再建された<ref name="カウフマンら2012pp75_79" />。カオールで再建された城壁は[[モルタル]]を使用せず、弓兵による側面射撃を行うための塔が設置された<ref name="カウフマンら2012pp75_79" />。
 
 
=== 音楽 ===
 
{{see also|グレゴリオ聖歌}}
 
フランク王国のカロリング・ルネサンス期は、ヨーロッパの音楽史において始めて具体的な姿が確認できるようになる時代である<ref name="那須2013pp320_323">[[#那須 2013|那須 2013]], pp. 320-323</ref>。ヨーロッパの音楽は古代ギリシアにその根源を持つ。英語で音楽を意味するmusicと言う単語は[[ギリシア語]]のムーシケー(μουσικη [[ムーサ]]の枝)に由来する。しかし、技術的には古代ギリシアの音楽は中世のヨーロッパに伝わることはなく、フランク王国で確立されたヨーロッパ音楽はキリスト教の歌唱にその源流を持つ<ref name="那須2013pp320_323" />。
 
 
カロリング・ルネサンスの主導的人物であったアルクィンは宮廷学校にローマ式の[[リベラル・アーツ|自由学芸]]七科を導入した。下級三科と上級四科に分類されたこの自由学芸のうち、上級四科の一つは音楽であった。後世の音楽に絶大な影響を与えたのが[[東ゴート王国]]に執政官として仕えた学者[[ボエティウス]]が記した『音楽教程』(''De institutione musica'')や、その後継者である[[カッシオドルス]]の『綱要』(''Institutions'')であり、これらは[[ハーモニー]]を支配する数比を考察する数比論、思弁的音楽論であり、教養学として中世を通して学ばれることになる<ref name="那須2013pp323_326">[[#那須 2013|那須 2013]], pp. 323-326</ref>。ただし現存する最古のフランク王国の楽譜(同時にヨーロッパ最古の楽譜)である[[グレゴリオ聖歌]]はハーモニーの無い単旋律の歌である<ref name="那須2013pp323_326" />。
 
 
{{listen|filename=Epistle for the Solemn Mass of Easter Day.ogg|title=復活祭のための荘厳ミサにおける使徒書簡|description=グレゴリオ聖歌の典礼文のレチタティーヴォの例}}
 
カール1世は旧来のガリア式典礼や、[[スペイン辺境領]]で行われていたモサラベ典礼等を廃し、ローマ式典礼の統一普及を推し進めた<ref name="那須2013pp326_330">[[#那須 2013|那須 2013]], pp. 326-330</ref><ref name="ウィルケン2016pp242_244">[[#ウィルケン 2016|ウィルケン 2016]], pp.242-244</ref>。各種の典礼はそれぞれ独自の聖歌を持っていたが、これを期に一部の例外を除いて典礼音楽も統一されていった。このローマ式典礼のための聖歌がグレゴリオ聖歌であった<ref name="那須2013pp326_330" />。[[那須輝彦]]はその意味で「グレゴリオ聖歌はローマ聖歌と呼ぶのが正確である」と述べている<ref name="那須2013pp326_330" />。ただし、古ローマ聖歌と呼ばれるローマに残された楽譜の写本は、フランク王国領内で発見される写本とは同じローマ典礼用でありながら旋律が全く異なる<ref name="那須2013pp326_330" />。従って一般にグレゴリオ聖歌として知られる旋律は、カール1世によってローマの聖歌がフランク王国に伝搬していく中で、フランク人の嗜好に合わせて改変された後の姿であると考えられている<ref name="那須2013pp326_330" />。ローマ式典礼は[[9世紀]]から[[10世紀]]にかけて式文の体系が整い、それに合わせて膨大なグレゴリオ聖歌のレパートリーが整えられていった。中世ヨーロッパの音楽は、大部分がこのグレゴリオ聖歌を元に展開していくこととなる<ref name="那須2013pp326_330" />。
 
 
また、これらを伝えるために楽譜の記法も整備された。9世紀にはフランク人音楽家はメロディを書き留めるための記号体系を作り出し始めていた。まず(恐らく東ローマ帝国から導入された)歌詞の上に違う色のインクで点や線を記す[[ネウマ譜]]と呼ばれる表記法があった<ref name="ウィルケン2016pp242_244"/>。初期のネウマ譜はメロディが上がるか下がるかだけしかわからず、音程を示さなかったのであくまで補助的なものでしかなかったが、数世代後には音程を表せる数本の線を用いた楽譜が登場し始めた<ref name="ウィルケン2016pp242_244"/>。最も重要な理論家は[[ベネディクト会]]の修道士{{仮リンク|フクバルドゥス|en|Hucbald}}(フクバルド)と[[グイード・ダレッツォ]](アレッツォのグイード)で、特にグイードは間隔を置いた平行線を用いて音程を表す[[記譜法]]を生み出し、同時代人に深い感銘を与えた<ref name="ウィルケン2016pp242_244"/>。
 
 
=== 金属工芸 ===
 
[[ファイル:Cluny - Mero - trésor de la tombe d'Arégonde - VIe siècle.jpg|300px|right|thumb|アルネグンダの墓から発見された副葬品]]
 
フランク族を含むゲルマン人たちはローマ帝国時代から金属工芸を得意とし、高い技術水準を誇っていた<ref name="ル・ジャン2009pp91_92"/><ref name="加藤益田2016p100">[[#加藤, 益田 2016|加藤, 益田 2016]], p. 100</ref>。フランクの美術はこうしたゲルマン古来の美術と、ローマの影響の中で形成されていった。フランク族にまつわる美術工芸品の中で確実に年代(482年以前)がわかる最古の物は[[1653年]]に現在の[[ベルギー]]領内にある[[トゥルネ]]で発見された[[クロヴィス1世]]の父[[キルデリク1世]]の墓の副葬品であり、既にフランク族の美術がゲルマン美術とローマの双方から影響を受けていることを示している<ref name="加藤益田2016pp105_106">[[#加藤, 益田 2016|加藤, 益田 2016]], pp. 105-106</ref>。この副葬品のうち、当時のフランク族の芸術動向を示す代表作と言えるのが、キルデリク1世の儀式用短剣の装飾金具であり、[[七宝焼き#クロワゾネ|クロワゾネ]]と呼ばれる象嵌細工で飾られ、当時の高い技術を示している<ref name="加藤益田2016pp105_106"/><ref name="ソら2016p98">[[#ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016|ソ, パトリス・ブデ, ジャラベール 2016]], p. 98</ref>。また、[[サン=ドニ大聖堂]]の敷地で発見された[[クロタール1世]]王妃{{仮リンク|アルネグンダ|en|Aregund}}(アレグンデ)の墓でもベルトの飾り金具、ピン、円形ブローチなどの金工品が発見されている<ref name="加藤益田2016p107">[[#加藤, 益田 2016|加藤, 益田 2016]], p. 107</ref><ref name="ソら2016p98"/>。これらの作品はメロヴィング朝初期の美術様式の発展を知る上で、制作年代が確かな基準作として重要視されている<ref name="加藤益田2016p107"/>。
 
 
キリスト教の拡大と普及はこうした金属工芸にも影響を及ぼした。アレマンネンで発見された[[7世紀]]後半の裕福な女性の墓で発見された[[フィブラ]]は、クロワゾネ技法で[[金メッキ]]された[[銀]]で作成されており、その銘にはキリスト教のインスピレーションが見られる<ref name="ル・ジャン2009pp91_92"/>。キリスト教の[[礼拝]]は多数の典礼用具の制作を要求した<ref name="ル・ジャン2009pp91_92"/>。そのための技術と霊感の源は世俗的な物品にも影響を与えずにはおかなかった。王の納戸役(宝物管理人)であり金銀細工師であった{{仮リンク|聖エリギウス|en|Saint Eligius}}は、サン=ドニ修道院のための十字架の他、メロヴィング家の王のための[[玉座]]や奢侈品を作っていた<ref name="ル・ジャン2009pp91_92"/>。
 
  
 
== 脚注 ==
 
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=== 注釈 ===
 
 
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
 
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* 橋本龍幸 「[http://kiyou.lib.agu.ac.jp/pdf/kiyou_02F/02__27F/02__27_132.pdf 「フランク史書 Liber Historiae Francorum (訳注)]」, 『人間文化 : 愛知学院大学人間文化研究所紀要』27, 2012年
 
* 橋本龍幸 「[http://kiyou.lib.agu.ac.jp/pdf/kiyou_02F/02__27F/02__27_132.pdf 「フランク史書 Liber Historiae Francorum (訳注)]」, 『人間文化 : 愛知学院大学人間文化研究所紀要』27, 2012年
  
== 外部リンク ==
 
{{Commonscat}}
 
*[http://www.tacitus.nu/historical-atlas/francia.htm フランク王国の地図]
 
*{{kotobank}}
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[フランク王の一覧]]
 
*[[フランク・ローマ皇帝]]
 
 
{{中世}}
 
{{中世前期ゲルマン諸国家}}
 
{{Normdaten}}
 
 
{{Featured article}}
 
 
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[[Category:フランク王国|*]]
 
[[Category:フランク王国|*]]

2018/8/5/ (日) 23:47時点における最新版

フランク王国の時代別の領土

フランク王国(フランクおうこく、フランス語: Royaumes francsドイツ語: Fränkisches Reich)は、5世紀後半にゲルマン人の部族、フランク人によって建てられた王国。カール1世(大帝)の時代(8世紀後半から9世紀前半)には、現在のフランスイタリア北部・ドイツ西部・オランダベルギールクセンブルクスイスオーストリアおよびスロベニアに相当する地域を支配し、イベリア半島イタリア半島南部、ブリテン諸島を除く西ヨーロッパのほぼ全域に勢力を及ぼした。カール1世以降のフランク王国は、しばしば「フランク帝国」「カロリング帝国」などとも呼ばれる。

この王国はキリスト教を受容し、その国家運営は教会の聖職者たちが多くを担った。また、歴代の王はローマ・カトリック教会と密接な関係を構築し、即位の際には教皇によって聖別された。これらのことから、西ヨーロッパにおけるキリスト教の普及とキリスト教文化の発展に重要な役割を果たした。

フランク王国はメロヴィング朝カロリング朝と言う二つの王朝によって統治された。その領土は、成立時より王族による分割相続が行われていたため、国内は恒常的に複数の地域(分王国)に分裂しており、統一されている期間は寧ろ例外であった。ルートヴィヒ1世(敬虔王、ルイ1世とも)の死後の843年に結ばれたヴェルダン条約による分割が最後の分割となり、フランク王国は東・中・西の3王国に分割された。その後、西フランクはフランス王国、東フランクは神聖ローマ帝国の母体となり、中フランクはイタリア王国を形成した。

このようにフランク王国は政治的枠組み、宗教など多くの面において中世ヨーロッパ社会の原型を構築した。


脚注


参考文献

書籍

その他