イギリス連邦占領軍

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ファイル:5th Gurkha Rifles, Japan 1946.jpg
呉市内を行進する王立グルカ連隊(1946年)

イギリス連邦占領軍(イギリスれんぽうせんりょうぐん、British Commonwealth Occupation Force, BCOF)は、第二次世界大戦後の1946年-1952年まで、第二次世界大戦における日本の敗戦に伴い、日本を占領するために駐留したイギリス軍オーストラリア軍ニュージーランド軍イギリス領インド軍から成るイギリス連邦の占領軍を指す。

概要

進駐のいきさつ

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閲兵するジョン・ノースコット陸軍中将(オーストラリア、1946年)
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帰国前のイギリス領インド軍部隊を皇居前広場で閲兵するフランク・ブレディン空軍元帥(オーストラリア、1947年)

イギリスは戦勝国となったものの、ビルママレー半島香港など東南アジア一帯の植民地日本軍の占領下におかれた上に、本土もドイツ空軍の空襲などのために荒廃したため、1945年8月より少数のイギリス軍およびオーストラリア軍部隊を東京横須賀に駐屯させたものの、すぐに日本占領のためのまとまった部隊を送ることができなかった。

しかし、連合国軍間の取り決めにより、イギリスが連合国軍最高司令官総司令部の下で連合国軍の一員として中国地方および四国地方の占領任務を行うことが決まったため、クレメント・アトリー首相は、イギリス連邦構成国のオーストラリア軍やニュージーランド軍、イギリス領インド帝国に駐留するイギリス軍を中心に「イギリス連邦占領軍」を組織し、終戦から約半年後の1946年2月に日本進駐を開始させ、直ちに中国地方および四国地方の占領任務を、1945年9月より同地に進駐していたアメリカ軍から引き継いだ。

兵力

最も多い時には兵力は約4万名に達した。これは当時日本各地に駐留していたイギリス軍やアメリカ軍、ソビエト連邦軍やフランス軍などから構成された連合国の占領軍としては2番目に大きい兵員数で[1]、連合国の占領軍として最大の陣容であったアメリカ占領軍の兵力の25%に相当する。

司令部は呉市の旧呉鎮守府司令長官官舎(現入船山記念館)に置かれ、空軍部隊は岩国市などに駐屯地を設けた。他にも武器補給部隊などが、原爆投下による被害が無かった安芸郡海田町の旧大日本帝国陸軍被服支廠海田市倉庫(現海田市駐屯地)におかれた。

また、連合国軍最高司令官総司令部が置かれていた東京や横須賀、戦前より日本の主要な貿易港として、P&O香港上海銀行など多くのイギリス企業の支店が置かれていた神戸市にも相当数の部隊が駐屯した。

任務

同地方の日本の陸海軍の武装解除や廃棄兵器の処分、闇市の取り締まりや朝鮮人の不法入国取締りなどの治安維持にあたり、民間行政はアメリカ軍が担当した[2]

期間

イギリス連邦占領軍は、1946年末までに初期の任務としていた日本の陸海軍の武装解除をほぼ終了し、その後は上記のように占領担当地域内の治安維持が主な任務となったが、同時に日本の警察機構の再建も速やかに行われたために不必要になった部隊を帰国させた。イギリス陸軍および、独立闘争が激化していたイギリス領インド陸軍は1947年に帰国し、1948年にはニュージーランド陸軍が帰国するなどその規模は大幅に縮小された。

しかし1950年6月25日朝鮮戦争が勃発した。この時にはイギリス軍の陸軍及び海軍部隊が日本に戻り、日本国内のイギリス連邦占領軍の基地が、朝鮮半島国連軍の1国として参戦したイギリス連邦軍の後方基地となっている。1952年に日本国との平和条約が締結されると日本の占領任務は終了し、1955年に解散した。

改編

日本の占領任務は終了したものの、朝鮮戦争が継続中であったために、日本におけるイギリス連邦占領軍は、国連軍の一員として朝鮮イギリス連邦軍English版(British Commonwealth Forces Korea, BCFK)に改編され、日本との協定の元で引き続き1956年まで日本に駐留した。

構成

主力

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オーストラリア空軍のP-51(1947年)
ファイル:HMS Triumph (R16) off Iwakuni.jpg
瀬戸内海を航行するイギリス海軍の「HMSトライアンフ」(1950年頃)

当時の在極東イギリス軍は、終戦時まで日本に占領されていたアジアにおけるイギリス最大の植民地であるマレー半島(海峡植民地のシンガポールを含む)や香港、終戦直前まで日本軍に占領されていたビルマなどの主権回復と、インドを含む東方植民地の独立運動の抑制に多数の兵力を廻さねばいけない上に、ドイツ空軍の猛爆にさらされたイギリス本土も荒廃、疲弊していたこともあり、遠方にある日本への大量の出兵はままならず、その結果イギリス連邦占領軍の主力は日本の近くに位置するオーストラリア軍となった。陸軍海軍および空軍部隊が進駐した。

陸軍

陸軍は、オーストラリア第34歩兵旅団を主力として広島県内の各所に駐屯し、ニュージーランド軍やイギリス領インド軍も多くを占めた。

海軍

海軍は、1945年以降に他の連合国軍艦艇とともに日本近海で作戦行動を行っていた、イギリス軍とオーストラリア軍がその多くを占めることになった。また、戦後シンガポールに戻った東洋艦隊の一部が呉におかれ、「HMSトライアンフ」や「HMS シーシュースEnglish版」などの空母や駆逐艦軽巡洋艦などが呉から朝鮮戦争に出撃している。

空軍

空軍は、岩国基地にオーストラリア空軍の「スーパーマリン スピットファイア」や「ノースアメリカン F-51D」などの戦闘機やダグラスC-47輸送機が配備されたほか、イギリス空軍の最新鋭のジェット戦闘機である「グロスター ミーティア」も配備されていた。これらの多くが朝鮮戦争時には金浦基地などに展開されている。

兵站

鉄道

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東京駅にあった連合軍専用出入口
ファイル:Short Sandringham 5 at Poole 1954.jpg
英国海外航空のショート・サンドリンガム

連合国軍間の兵站及び連絡業務の拡充を目的に、連合軍専用列車の「Allied Limited」と「Dixie Limited」が、1946年3月25日より、それまでの山陽本線経由から呉線経由に、三原駅 - 海田市駅間の運行経路を改めて運行を開始した。さらにその後7月6日より東京駅 - 呉駅間に、イギリス連邦占領軍専用の休暇列車として「BCOF train」が運行された。

その後進駐規模の拡大に合わせて、1947年2月3日より京都駅 - 呉駅間に、同年5月25日より伊東駅 - 呉駅間、11月3日より呉駅 - 別府駅にも「BCOF train」が運行された。

しかし1948年以降は、進駐規模の縮小や鉄道輸送の回復を受けて運航規模が縮小され、1950年10月1日までにすべて廃止された。これ以降は通常の列車にイギリス連邦占領軍専用の客車を連結する形にされた。

航空

1947年12月18日にカンタス航空が、「ダグラスC-54」でシドニーからダーウィンマニラを経由して山口県防府市に、1948年3月19日には英国海外航空が、「ショート・サンドリンガム プリマス」飛行艇で、イギリスの南海岸のプール香港を結ぶ路線を延長し、岩国基地にイギリス連邦占領軍への兵站及び連絡業務を目的に定期乗り入れを開始した。

なお、英国海外航空が岩国基地を最初の定期乗り入れ地にした理由の1つに、定期乗り入れ開始に先立つ1946年3月に、イギリス連邦占領軍のセシル・バウチャー少将が、英国海外航空機の東京国際空港沖への乗り入れを連合国軍最高司令部ダグラス・マッカーサー最高司令官に求めたが、拒否されたという背景があった[3]。この理由については定かではないが、その後東京国際空港への乗り入れが許可されている。

英国海外航空とカンタス航空の乗り入れ便は、日本の占領が終結した後はそのまま民間便に移行され、現在も乗り入れを継続している。

その他

  • 将官の住宅などは、基地内のほか基地周辺にある洋風の邸宅などを接収して使用した。
  • 将兵向けの慰安施設も置かれたが、駐屯地周辺では強姦などの犯罪が多発したほか、性病が蔓延し駐屯地内では性病に対する研修が行われた[4]

脚注

  1. 『英国空軍少将の見た日本占領と朝鮮戦争』サー・セシル・バウチャー著 社会評論社 2008年
  2. 『英国空軍少将の見た日本占領と朝鮮戦争』サー・セシル・バウチャー著 社会評論社 2008年
  3. 『英国空軍少将の見た日本占領と朝鮮戦争』P.17 サー・セシル・バウチャー著 社会評論社 2008年
  4. 『英国空軍少将の見た日本占領と朝鮮戦争』P.114 サー・セシル・バウチャー著 社会評論社 2008年

関連項目