筑紫哲也
筑紫 哲也 | |
---|---|
生誕 |
1935年6月23日 日本・大分県日田市 |
死没 |
2008年11月7日(73歳没) 日本・東京都 |
出身校 | 早稲田大学政治経済学部経済学科 |
職業 |
ジャーナリスト ニュースキャスター |
活動期間 | 1959年 - 2008年 |
肩書き |
朝日新聞記者(1959年 - 1984年) 「朝日ジャーナル」編集長(1984年 - 1987年) 朝日新聞編集委員(ニューヨーク駐在、1987年 - 1989年) TBS『筑紫哲也 NEWS23』メインキャスター(1989年 - 2008年) 立命館大学客員教授 「週刊金曜日」編集委員 など |
配偶者 | 筑紫房子 |
子供 |
筑紫拓也(長男) 筑紫ゆうな(次女) |
受賞 | 日本記者クラブ賞(2008年) |
筑紫 哲也(ちくし てつや、1935年(昭和10年)6月23日 - 2008年(平成20年)11月7日)は、日本のジャーナリスト、ニュースキャスター。
朝日新聞社記者、朝日ジャーナル編集長、TBSテレビ『筑紫哲也 NEWS23』メインキャスター、早稲田大学大学院公共経営研究科客員教授(専任扱い)、立命館大学客員教授、市民団体・自由の森大学「学長」などを歴任した。また、雑誌『週刊金曜日』編集委員、『潮賞』(雑誌『潮』)「ノンフィクション部門」選考委員も務めていた。
Contents
来歴
生い立ちと朝日新聞社時代
1935年(昭和10年)、大分県日田市生まれ。静岡県立沼津東高等学校および東京都立小山台高等学校を経て、早稲田大学政治経済学部経済学科卒業。
大学在学中はグリークラブに所属していた。卒業後は朝日新聞社に入社、政治部記者、琉球(現在の沖縄県)特派員、ワシントン特派員、外報部次長、編集委員などを歴任した。政治部時代には当時内閣総理大臣の三木武夫の番記者を務め、自民党ハト派との人脈と親交を広げた。入社同期に轡田隆史がいる。
朝日新聞外報部デスクとして『さて今週は、閑話・徹子と記者クラブ』(1977年(昭和52年)11月6日放送)にゲスト出演した後、1978年(昭和53年)4月から1982年(昭和57年)9月までテレビ朝日『日曜夕刊!こちらデスク』のメインキャスターを務めた。同時期、朝日新聞社のCMで『日曜夕刊!こちらデスク』のパロディ番組『夕刊タモリ!こちらデス』(現在の『タモリ倶楽部』の前身)の司会者だったタモリと共演した。
司会者を務めていた頃、“宇宙人と交信しました”というニュースを伝えた。伝えた日は1979年(昭和54年)4月1日だった。エイプリルフールのジョークとして伝え、すぐに「ウソです」と言ったが、直後に抗議の電話が殺到し、生放送中に抗議の電話に応対する事態となった。この件については後に新聞(スポーツニッポン1979年(昭和54年)4月3日付け)で取り上げられた。
1984年(昭和59年)から1987年(昭和62年)まで、雑誌『朝日ジャーナル』の編集長を務めた。「若者たちの神々」「新人類の旗手たち」「元気印の女たち」の連載で、当時の若者のリーダーたちにインタビューし、対談を通じて時代の気分を探ろう・表し出そうと試みた。この連載などで新人類なる言葉は世に広がった。シリーズ「日常からの疑問 こんなものいらない」の代表記事は『現代無用物事典』および『こんなものいらない事典』(いずれも新潮社)として出版され、話題を呼んだ。1984年4月からTBSラジオで筑紫哲也ニュース・ジョッキーのパーソナリティを務める。
ニューヨーク勤務の1989年(平成元年)夏、再度TBSからの打診[1]を受け朝日新聞社を退社。同年10月に『筑紫哲也 NEWS23』を開始することとなる[2]。
『筑紫哲也 NEWS23』キャスターとして
1989年(平成元年)10月から、TBSのニュース番組『筑紫哲也 NEWS23』(現・NEWS23)のメインキャスターを務める。評論(特にコラムコーナー「多事争論」)が人気を集める。ウォルター・クロンカイトを尊敬しており、クロンカイトに倣って『NEWS23』のエンディングでは決め台詞「―では、今日はこんなところです。」を使用していた[3]。
彼のジャーナリストとしての社会的な発言には、毀誉褒貶・賛否両論あったが、ニュースキャスターとしての手腕はこの番組で確実となり、以降は『ニュースステーション』のキャスター・久米宏と並び民放ニュースキャスターの顔として広く認知された。久米宏とは平日夜のニュース番組の視聴率を激しく争ったが「広島東洋カープのファン」という共通点があったため、日刊スポーツの企画で1991年(平成3年)の西武ライオンズとの日本シリーズを仲良く観戦している[4]。久米は「筑紫さんは戦争の歴史を刻んだ沖縄と広島に心を寄せ、地方球団、市民球団のカープを愛していました。筑紫さんは、"反中央"、"反権力"という自分の性格をカープに重ねたのではないか」と述べている[4]。
1993年(平成5年)、『筑紫哲也 NEWS23』のキャスターとしての業績に対して、第30回ギャラクシー賞・テレビ部門個人賞を受賞[5]。
1995年(平成7年)のいわゆる「TBSビデオ問題」(TBSのワイドショー『3時にあいましょう』のスタッフがオウム真理教幹部に坂本堤へのインタビュー映像を事前に視聴させた事実が発覚。坂本堤弁護士一家殺害事件の一因であるとして、TBSへの非難が集中した)では、『筑紫哲也NEWS23』でTBSの対応に疑問を呈し続けた。当時のTBS社長・磯崎洋三が過ちを認めた1996年(平成8年)3月25日の記者会見の後、その日の「多事争論」にて『TBSは今日、死んだに等しいと思います』と発言し、TBSを批判した[6]。
1998年(平成10年)11月19日には、訪日したビル・クリントンアメリカ大統領をTBSの『筑紫哲也NEWS23』に招いてタウンホールミーティング風のインタビューとディスカッションを行った。
2003年(平成15年)4月10日に福岡ドームで井上陽水・武田鉄矢らが中心となって開催されたコンサート「ドリームライブ in 福岡ドーム」のオープニングで「多事争論」の収録を行った。
国会議員の年金未納問題を批判していたが、2004年(平成16年)5月13日放送分の『NEWS23』で、自身の年金未納が発覚(1989年から92年6月までの2年11か月)を謝罪し、翌日から一時期番組の出演を見合わせた[7]。
2005年(平成17年)9月11日、TBSで放送の第44回衆議院議員総選挙の特別番組(開票速報)『乱!総選挙2005』で、メインアンカーとして参加し、元『ニュースステーション』の久米宏とは14年ぶりの共演となった。「乱!総選挙2005」の視聴率は、民放で第1位だった。
晩年
2007年(平成19年)5月14日放送の『NEWS23』で初期の肺癌であることを告白[8]、治療に専念するため『NEWS23』への出演を一時休業した。同年10月8日には休業後初めて番組に復帰。以降はスペシャルアンカーとして数ヶ月おきに番組へ出演。最晩年には出演時にニット帽をかぶるようになった。
2008年(平成20年)に「テレビジャーナリズムの確立に多大の貢献をした」として日本記者クラブ賞を受賞。
2008年(平成20年)11月7日午後、肺癌のため東京都内の病院で死去した。享年74(満73歳没)[9]。真裏の報道番組同士のライバル関係にあった久米宏、古舘伊知郎らが自らの番組でその死を悼んだ[10][11]ほか、追悼特別番組が放送されるなどその死は大きく報じられた。法名は無量院釋哲也。2008年(平成20年)12月19日、東京都内のホテルで別れの会が行われた。
没後
死去後の遺産相続の際に7000万円の申告漏れを東京国税局から指摘され、そのうちの海外口座の4000万円は意図的な資産隠しを行ったとされ重加算税を含む約1700万円の追徴課税となった[12]。
2013年1月、BS-TBSにおいて、ドキュメンタリー『筑紫哲也 明日への伝言〜「残日録」をたどる旅』が放映されることとなった[13]。
スタンス・評価
- リベラル派文化人の代表的存在だが、報道姿勢について賛否が分かれることも多かった。その一方で野村秋介と親交があり、それを阿川佐和子に驚かれたことがあるように、保守的姿勢の人物に対しても許容している側面があり[14]、これ以外にも筑紫と親交の深かった保守系の政治家やジャーナリストも多く、筑紫の葬儀には保守派の大物議員や有名ジャーナリストの参列も見られた。元内閣総理大臣小泉純一郎はイラク戦争でアメリカを支持していたので対極の立場にあったが、上杉隆によれば、プライベートでは首相官邸に小泉を訪ね、オペラ談義に花を咲かせることもあったのだという[15]。また、過去の行き過ぎた言動や報道姿勢を反省する側面もみられていた[16]。
- 鳥越俊太郎、堺屋太一、田原総一朗、立花隆らはオピニオンリーダー、ジャーナリストとしての筑紫を高く評価している。
- 大田昌秀(元沖縄県知事)は朝日新聞記者の時代から沖縄問題を積極的に報道し続け、『NEWS23』の番組内でも何度も在日米軍基地問題を取り上げた筑紫の死に際して「沖縄にとってかけがえのない恩人を失い、大きなショックを受けている」とコメントを発表した。
- 『NEWS23』でサブキャスターを務めた草野満代は「テレビの世界では、ドキュメンタリー番組をコンスタントに作り続けることが難しい状況が続いています。でも『NEWS23』ではよく、20分くらいのドキュメンタリーを入れこみました。ほかのニュースをカットしてでも、ドキュメンタリーを伝える場を守り続けたのが筑紫さんです」と評している[17]。
- 井上陽水は「日曜夕刊!こちらデスク」で自身の楽曲「傘がない」の歌詞の「テレビではわが国の将来の問題を 誰かが深刻な顔をしてしゃべってる」を取り上げた回を視聴し「ジャーナリズムに身を置きながら、ジャーナリズムを突き放して見ることができる。ある意味で、ユーモアがわかる人なんだ」と感じたことを話している。それもあって同番組の最終回に出演し、「傘がない」を含んだ3曲を歌唱した。その後も井上は「NEWS23」に楽曲提供をしたり、筑紫と麻雀をするなど、親交を深めていった。なお、筑紫と井上には政治や家庭などの立ち入った話はしないという暗黙の了解があった。井上は「筑紫さんの功績のひとつは、ユーモアの大切さを意識されていたことだと思います。この真面目な国では、深刻そうに語ることが求められて、ちょっとした笑いや諧謔(がいぎゃく)も『不真面目だ』とか言って、許されないところがありますから。ユーモアを口にしたり受け止めたりするには、余裕がないとできません。番組では、『なかなか面白い冗談を言うな』という感じではかならずしもなかったのですが、ユーモアがもつ可能性に注目していた、という意味で特別だったと思います」「政治家なんかにしてもね、筑紫さんならということで出演した方もいらっしゃるんじゃないでしょうか。鷹揚で優しいからなのか、どんなものでもまずは肯定しようとするスタンスがあったようにも思います」「筑紫さんは『観察者』だったと思います。へたに才能があると『演者』になろうとして、観察者にはなれない。自分が演じるのではなく、演じている誰かを見たり、世の中に紹介したりするという意味で、観察者のプロだったといえるのかもしれません」と評している[18]。
自己のスタンス
- 田勢康弘によると、筑紫は「少数派であること、批判されることを恐れずに、多様な意見や立場を登場させることで、社会に自由な風気を保つこと」を自身の報道姿勢としていた。2008年、筑紫が病床から『NEWS23』スタッフへ向けて送った手紙にこの考えが表されている[19]。
(以下、全文)
近ごろ「論」が浅くなっていると思いませんか。
その良し悪し、是非、正しいか違っているかを問う前に。
ひとつの「論」の専制が起きる時、
失なわれるのは自由の気風。
そうならないために、もっと「論」を愉しみませんか。
2008年夏 筑紫哲也
その他
NPO活動中の辻元清美に政界入りを勧めたことでも知られる[20]
縁戚
父の従兄弟(父方の祖母の妹の子)に、田中小実昌がいる。
瀧廉太郎との縁
瀧廉太郎は大伯父(滝の妹・トミが筑紫の祖母)。筑紫自身はかつて「私には音楽の才能がないので、私が『瀧廉太郎の親戚』であるということを非常に戸惑っていた」と述懐している。筑紫は1993年から、竹田市にある瀧廉太郎念館の名誉館長を務めていた。
人物
ヘビースモーカー
ハイライトとマルボロの赤を1日3箱吸っていたヘビースモーカーだった。肺癌になって禁煙した後も「一服できないと面白くない」「百害あって一利なしと言うけど、文化は悪徳が高い分、深い。(たばこの喫煙は)人類が発明した偉大な文化であり、たばこの代わりはありませんよ。これを知らずに人生を終わる人を思うと、何とものっぺらぼうで、気の毒な気がしますね」「癌の原因はストレスで、たばこはきっかけにすぎない」と語った[21]。
出演
『NEWS23』以後、TBSと専属契約を結んでおり、基本的にテレビ出演はTBS系列の放送局に絞っていた。ただし、フジテレビ『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』にVTR出演したり、年に1回テレビ朝日の特番にゲスト出演していた。
テレビ
- 日曜夕刊!こちらデスク(テレビ朝日) - パーソナリティ
- ザ・権力!(テレビ朝日)
- TVスクープ(テレビ朝日)
- 朝まで生テレビ!(テレビ朝日) - 第2回の討論司会
- 元旦まで感動生放送!史上最大39時間テレビ - 総合司会を担当。1992年12月30日から1993年1月1日まで。
- 森田一義アワー 笑っていいとも!(フジテレビ) - テレフォンショッキングゲスト。1983年4月30日放送。
- 筑紫哲也 NEWS23→NEWS23(TBS) - メインキャスター、次代の後藤謙次就任以降はスペシャルアンカー(特別キャスター)として不定期出演
- クイズ地球まるかじり(テレビ東京)
ラジオ
- 筑紫哲也のニュース・ジョッキー(TBSラジオ)
- 荒川強啓 デイ・キャッチ! (TBSラジオ) - ゲスト
映画
著書
- 『総理大臣の犯罪―拝金政治の幕はおりたか』(1976年、サイマル出版会)のち新版『総理大臣の犯罪―田中角栄とロッキード事件』と改題(1983年)
- 『放逐―アメリカが燃えた時』(1979年、サイマル出版会)のち『放逐―ウォーターゲート事件』と改題(1988年、朝日文庫)
- 『猿になりたくなかった猿―体験的メディア論』(1979年、日本ブリタニカ)
- 『ポトマックの両岸―My American note』(1979年、朝日イブニングニュース社)のち『マイ・アメリカン・ノート―ポトマックの両岸』と改題(1984年、朝日新聞社)ISBN 4022602678
- 『ズームアップ現代―筑紫哲也の「こちらデスク」活字版』(1980年、学陽書房)
- 『アメリカン・マラソン―米大統領選挙』(1981年、潮出版社)のち角川文庫(1984年)
- 『筑紫哲也のやぶれかぶれ英語術―通じるための12の秘訣』(1982年、光文社カッパ・ビジネス)
- 『暴走の光景』1〜3(1983年、すずさわ書店)
- 『ニューヨークの休日―見た・感じた・考えた』(1984年、筑摩書房ちくまぶっくす)のち『ニューヨークの休日』と改題(1988年、朝日文庫)
- 『旅のあとらんだむ』(1984年、文化出版局)
- 『全共闘ーそれは何だったのか』(1984年、現代の理論社)
- 『若者たちの神々』1〜4(1984〜85年、朝日新聞社)のち新潮文庫(1987〜88年) - 1984年から1985年の若者たちの“神々(20-40代)”50人との対談集。
- 『メディアの海を漂流して』(1985年、朝日文庫)ISBN 4022603402
- 『甘木さんの話』(1986年、話の特集)
- 『ハロー・グッドバイ―筑紫哲也のヒーロー対談集』(1986年、文化出版局)
- 『新人類図鑑』1・2(1986年、朝日文庫) - 対談時10-20代の若者34人との対談集。
- 『多事争論』(1987年、朝日新聞社)
- 『若者たちの大神―筑紫哲也対論集』(1987年、朝日新聞社) - 1986年から1987年の若者たちの“大神(50代以上)”22人との対談集。
- 『元気印の女たち』(1987年、すずさわ書房) - 39人の活躍する女性たちとの対談集。
- 『茶の間の神様―筑紫哲也対論集』(1988年、ちくま文庫)
- 『テレビ体験』(1988年、朝日文庫)
- 『時評・戯評・批評』(1988年、朝日文庫)
- 『ニッポン人拝見』(1988年、朝日文庫)
- 『若者考現学』(1988年、朝日文庫)
- 『紐育風姿花傳(ニューヨークふうしくゎでん)』(1989年、朝日新聞社)
- 『筑紫哲也のき・ど・あい・らく』(1994年、晩声社)
- 『多事争論 メディアと権力』(1994年、新潮社)
- 『筑紫哲也の この「くに」のゆくえ』(1995年、日本経済新聞社)ISBN 4532161924
- 『筑紫哲也の世世世(ゆーゆーゆー) おきなわ版「多事争論」パート1』(1995年、沖縄タイムス社)
- 『筑紫哲也の この「くに」の冒険』(1995年、日本経済新聞社)
- 『日本23時―今ここにある危機』(1997年、小沢書店)ISBN 4755103428
- 『筑紫哲也の世世世(ゆーゆーゆー) おきなわ版「多事争論」パート2』(1997年、沖縄タイムス社)
- 『沖縄がすべて』(照屋林助との共著。1997年、河出書房新社)ISBN 4309011721
- 『筑紫哲也の 乱世を生きよ!―大変な時代を生きるヒント』(1997年、日本経済新聞社)ISBN 4532162424
- 『この国を変える視座』(1998年、岩波ブックレット)
- 『筑紫哲也の小津の魔法使い』(1999年、世界文化社)
- 『筑紫哲也の世世世(ゆーゆーゆー) おきなわ版「多事争論」パート3』(1999年、沖縄タイムス社)ISBN 4871271382
- 『ニュースキャスター』(2002年、集英社新書)
- 『おきなわ:世(ゆー)の間で―筑紫哲也の多事争論かわら版・完結編』(2004年、沖縄タイムス社)
- 『旅の途中―巡り合った人々1959-2005』(2005年、朝日新聞社)のち朝日文庫(2013年)
- 『スローライフ―緩急自在のすすめ』(2006年、岩波新書)
- 『このくにの姿―対論・筑紫哲也『ニュース23』』(2007年、集英社)
- 『この「くに」の面影』(2009年、日本経済新聞出版社)
- 『若き友人たちへ―筑紫哲也ラスト・メッセージ』(2009年、集英社新書)
- 『自我作古 国家を考える。』(2010年、日本経済新聞出版社)
- 『自我作古 批評〈ジャーナリズム)を考える。』(2011年、日本経済新聞出版社)
- 『自我作古 文化を考える。』(2011年、日本経済新聞出版社)
筑紫を批判する文献
- 別冊宝島Real編集部『筑紫哲也「妄言」の研究-「NEWS23」、その印象操作&偏向報道の作られ方』 ISBN 4796638482
- 水間政憲『ニュースキャスター筑紫哲也を斬る‐このままテレビの偏向報道を許していいのか もはや中国、北朝鮮の代弁者か』 ISBN 481740549X
- 三輪和雄『偏なテレビの直し方―日本をダメにした久米宏と筑紫哲也』 ISBN 4793801455
- 中宮崇『天晴れ! 筑紫哲也NEWS23』 ISBN 4166604945
関連項目・人物
- 筑紫哲也 NEWS23
- 忌野清志郎
- 和田アキ子 - 生前親交が深く、筑紫のことを『てっちゃん』という愛称で呼んでいた。
- 野村秋介 - 思想的には正反対だが友人として交流があった。
- 久米宏 - 「筑紫哲也 NEWS23」のライバル番組の一つ「ニュースステーション」のメインキャスター。平日最終版のニュースの概念を大変革させた人物。
脚注・出典
- ↑ 筑紫拓也さん(1) 23キャスター就任、悩む父の背中を押した - 特集 - BOOK asahi.com(朝日新聞社) 2010年11月5日
- ↑ 『ニュースキャスター』(筑紫哲也著、集英社新書・2002年)、『無名記者の挽歌』(中島清成著、中央公論新社・2009年)
- ↑ 大阪地区の毎日放送ラジオ部門であるMBSラジオで放送された『諸口あきらのイブニングレーダー』で諸口あきらが使用した例がある
- ↑ 4.0 4.1 中国新聞 日刊 2016年10月9日28面『V7 私の鯉心(6) 久米宏さん』
- ↑ “第30回ギャラクシー賞受賞作品”. 放送批評懇談会. . 2014閲覧.
- ↑ 筑紫哲也 (1996年3月26日), “News23 多事争論 3月25日(月)「坂本弁護士事件とTBSの問題」” (プレスリリース), NEWS23 . 2010閲覧.
- ↑ 「筑紫哲也氏も2年11ヵ月 番組で陳謝」『毎日新聞』2004年5月14日
- ↑ 筑紫哲也 (2007年5月14日), “News23 多事争論 5月14日(月)「がんを生きぬく」” (プレスリリース), 筑紫哲也NEWS23 . 2007-5-14閲覧.
- ↑ “筑紫哲也さん死去 NEWS23前キャスター 73歳”. asahi.com (朝日新聞社). (2008年11月7日)
- ↑ “久米宏氏「後ろに筑紫さんがいたから安心」”. スポーツニッポン. (2008年11月9日)
- ↑ 古舘、TV番組で“先輩”筑紫さん偲ぶ SANSPO.COM
- ↑ 筑紫哲也氏の遺産で申告漏れ…nhk 2011/7/7
- ↑ 筑紫哲也 明日への伝言〜「残日録」をたどる旅
- ↑ 女神(5)阿川佐和子さん ニコニコ顔に負けて、つい… asahi.com
- ↑ 「筑紫哲也氏は本当に賞賛すべきジャーナリストだったのか」『週刊上杉隆』ダイヤモンド社HP 2008年11月13日
- ↑ 森喜朗(聞き手大下英治)「「失言問題」、朝日新聞を叱る」『WiLL』2007年9月P51-52
- ↑ 女神(2)草野満代さん オンエア3秒前まで雑談していた asahi.com
- ↑ 井上陽水さん(1) 筑紫さんの一言から生まれた「最後のニュース」asahi.com
- ↑ WEB多事争論 - 筑紫哲也メッセージ
- ↑ “『多事争論』貫き、戦後日本の姿追う 筑紫哲也さん死去”. asahi.com (朝日新聞社). (2008年11月8日)
- ↑ “特集ワイド:がんと闘う筑紫哲也さんに聞く”. 毎日jp (毎日新聞). (2007年11月27日). オリジナルの2007年11月29日時点によるアーカイブ。 . 2015閲覧.
外部リンク
- WEB多事争論(筑紫哲也 日本記者クラブ賞受賞記念サイト)
- 筑紫哲也「始終至智への旅」(日刊ブログ新聞ぶらっと! 2007.11.19 - 2008.07.14)
- テンプレート:朝日新聞社