「小原國芳」の版間の差分
ja>Youngerboys 細 (→関連項目) |
細 (1版 をインポートしました) |
(相違点なし)
|
2018/8/26/ (日) 15:53時点における最新版
おばら くによし 小原國芳 | |
---|---|
生誕 |
1887年4月8日 日本鹿児島県川辺郡久志村 |
死没 | 1977年12月13日(90歳没) |
職業 | 教育学者 |
著名な実績 | 学校法人玉川学園を創立 |
配偶者 | 小原信 |
小原 國芳(おばら くによし、1887年4月8日 - 1977年12月13日)は、日本の教育学者。、学校法人玉川学園の創立者。永野修身海軍大臣直属海軍教育顧問なども務めた。日本基督教団のクリスチャン。また、小原は、日本だけでなく、朝鮮半島や満洲、中国大陸、そして台湾などのアジアの各地を広範に歩き回って「新教育」の重要性を説き、伝える役割を果たした。
生涯
1887年、鹿児島県川辺郡久志秋目郷久志村(川辺郡坊津町久志⇒現・南さつま市坊津町久志)に生まれる。13歳で通信技術養成所に入所し、鹿児島大浜海底電信所の技手となった。
後に鹿児島師範学校・広島高等師範学校を卒業。1913年、香川師範学校教諭となる。 1915年、29歳で京都帝国大学文学部哲学科に入学し、1918年に卒業。卒業論文は「宗教による教育の救済」で、原稿用紙1500枚におよぶ長大なものであった(後に改稿し『教育の根本問題としての宗教』として刊行)。
大学卒業後、広島高等師範附属小学校教諭・理事(教務主任に相当)となる。1919年、澤柳政太郎が成城学園を創設するに当たり、長田新の推挙で成城小学校主事(訓導)として赴任。
1921年には、八大教育主張講演会において「全人教育」の理念を唱える。
1926年、 成城高等学校(7年制)校長となる。駅(成城学園前駅)を招致して宅地開発を行いその利益で学校を建設する方法で成城学園を拡大した。ちなみに現在の成城学園を発展させるにあたって小原は本間俊平に助言を求めており、本間のアドバイスと支援によって計画は形作られていった。その手法を応用し(玉川学園前駅)、1929年に自ら玉川学園を創設した。しかし結局、平行して二つの学校の指導をすることは立ち行かず、教師や保護者を巻き込んだ成城事件が勃発した。そのため成城学園から身を引き、玉川学園での教育に専念する。後の和光学園になる和光小学校も、やはり成城事件に絡んで成城学園から離れた教師・保護者が創立したものである。
玉川学園はその後、幼稚園・小学部・中学部・高等部・大学・大学院をそろえた大規模な総合学園に成長した。玉川大学の初代学長は元東京文理科大学(現・筑波大学)教授の田中寛一、第2代は京都帝国大学での小原の恩師波多野精一で、小原は3代目学長である。
小原が玉川学園を新たに創立するに至った背景には、成城学園が発展するに従い、他の学校と同様に段々と帝大などへ入学するための予備校となっていたことに不満を抱いていたとされる。ある時、京大時代に世話になった恩師の小西重直、波多野精一、西田幾多郎を招いた時、小原は「夢の学校論」を唱え、新教育の総本山を築くことを訴えた。
小原は玉川学園を創立すると同時に、最高学府である大学の創立に向け準備を整え、1942年(昭和17年)に皇族の東久邇宮稔彦王・永野修身元帥海軍大将・小西重直博士らと共に玉川学園内に興亜工業大学を創立することに成功した(1942年創立。現・千葉工業大学)。大学は玉川学園と文部省(今の文部科学省)の協力のもと半官半民大学として創立され、国家枢要を担う人材の養成を行うための拠点として整備される一方で、小原が唱えた全人教育等の教育理念が建学の精神として採り入れられるなど奇抜な学風の大学として誕生した。現在、この大学は単科大学でありながら、学生総数約一万人の大学にまで成長している。
また、時の海軍大臣永野修身に乞われて、日本海軍の教育改革に協力した際、海軍の伝統となっていたハンモックナンバーによる昇進や役職任命制度を廃止し、能力主義によるものへと改めるように助言したが、永野海軍大臣が本格的に改革に乗り出す前に辞任してしまい、実現しなかった。
国家を造るのは人であり、国家の存亡にとって教育が一番大切だと考えていた小原は、陸軍には参謀本部、海軍には軍令部、司法には大審院などの最高機関があるように国家を形成する人を造るための最高機関として「教育本部」の設置が望ましいと考えていた。日本の教育立国建設を実現するために玉川学園と興亜工業大学の創立に尽力した。
軍部をはじめとするエリート主義で成り立つ階層主義の人々からの圧力もあったが、皇族の東久邇宮稔彦王を筆頭に、大日本帝国海軍では歴代の海軍兵学校校長経験者をはじめ、永野修身元帥海軍大将や財部彪海軍大将、山梨勝之進海軍大将などが、大日本帝国陸軍では菱刈隆陸軍大将や土肥原賢二陸軍大将などが小原の考えに共感し、支援していた。
太平洋戦争の敗北については「教育者を冷遇し、試験と点数と、詰め込み棒暗記と、肩書と出世とのみ重視した日本の教育が、自由と大胆と、創造と進取と、プロジェクトと個性尊重とを大事にしたアメリカの教育に全く負けた」と明治以来の教育政策(人づくり)の問題が敗戦に至った原因であると回想している。また、日本が敗戦に至ったのは日本人(特に政治家などの国家枢要を担う人達)に、宋美齢のような信頼できる外国の友達がいなかったためだとし、積極的に外国の友達をつくるべきだと説いた。
小原は生前、自らを「玉川のオヤジ」と称し、「教壇で死にたい」とよく話していたが、1977年12月に90歳で亡くなる数ヶ月前まで、点滴を受けながら大講義室の壇上で熱弁を奮い、まさに教育にささげた一生であった。
妻は小原信(のぶ)。ちなみに、南日本新聞社編『教育とわが生涯』(玉川大学出版部)という自らの人物伝にあとがきを寄せているが、その中で「薩摩っ子の血が騒いで、つい妻の信に茶碗を投げつけることもある」と告白している。
幼い時に養子に出され、鰺坂(あじさか)姓を名乗っていた時期もある。子の小原哲郎、孫の小原芳明は玉川学園長。また養子に甲南女子大学学長を務めた鰺坂二夫(養子となったのち、國芳の娘と結婚し、國芳に代わり鰺坂家を相続した)がいる。二夫の子で、孫に当たる鰺坂真は関西大学名誉教授。
『全人教育論』をはじめとする膨大な量の著作は『小原國芳全集』(全48巻)にまとめられている。
信条・教え
- 戦前の日本人によく見られた西洋人贔屓、中国人や朝鮮人などをはじめとするアジア人蔑視の態度を批判していた。
- 神なき知育は知恵ある悪魔をつくることなり[1]
- 人生のもっとも苦しい、いやな辛い損な場面を真っ先に微笑を以って担当せよ
- 「国」を造るのは、結局「人」である。その「国」に住む一人一人の人間がどういう「人」であるかが、その「国」の価値と、将来とを決めるのである。その「国」の青年を見れば、その「国」の将来がわかるという。まさに、「国」を造る時に最も重要なのは「人」である。だから「教育立国」でなければならない。教育が「人」をつくり「人」が「国」をつくり「世界」をつくる。「教育」は、人生の最も重要な仕事の一つである。
全人教育と小原の教育理念
小原と澤柳政太郎は、明治、大正、昭和と教育政策、教育活動に携わる過程で、様々な問題に遭遇し、本当の教育とは何か?本当の学校教育とは何か?を長年に渡って模索し、追究していた。明治からの日本は基本的に欧米をはじめとする西欧列強文明の模倣が中心であり、当時の明治政府主導のもと欧米列強に追いつくことをスローガンに欧米の思想・哲学や技術、制度、風習、そしてそれらを達成する為の教育システム(教育哲学や教育制度)が輸入され、欧米に軽んじられない国を目指して近代日本の枠組みが整備されていった(その為、日本ではドイツやフランス(陸軍士官学校、東京帝国大学など)、イギリス(海軍兵学校、早稲田大学など)に倣った教育機関(学校)が多く作られた)。この時、江戸時代までの東洋的な教育哲学や思想、教育システムが廃され、新しく欧米流の教育哲学・思想に基づく、教育システム、教育方法が導入されていった。この明治の西洋式の教育システムの導入によって、専門的な知識のみを施す教育やテストの優劣のみによって人物を評価する手法が一般化し、様々な問題が生じた(一般的に江戸時代までの日本の教育は日本的、東洋的な思想を持ったリーダー(問題解決能力を持った人格)を作ることが基本だったが、明治までの教育は西欧の進んだ専門的な知識を持った技術者や専門家を作る教育が中心で、官僚機構を構築したり、セクショナリズム化し、昭和の時代に問題化している)。更に、小原らは、明治~昭和にかけて教育政策や教育現場の実情を観察し、特にこのテスト制度の出現により、西洋式の教育システムによって輩出されている人材の人心やリーダー的素質(問題解決能力など人を束ねる力)が劣化してしまったことを問題として挙げている。この教育の単純化改革(テストシステム)による人物評価の歴史は西欧文明だけでなく、古くから中華文明でも見られた。そして小原らは強大な力を持っていた清国(中国)が荒廃し、欧米列強の植民地になった理由の一つとして科挙制度の行き過ぎにより、人材と人心が劣化してしまったことを指摘している。特に長年行われてきた科挙と呼ばれるテストシステムによって暗記力偏重に陥り過ぎ、記憶力だけが良い人材ばかりが登用されてしまい、物事を判断したり、対処する時に必要になってくる創造性など問題解決のための能力が低下し、国の中央が硬直化してしまっていた上、テスト至上主義の蔓延による競争原理によって、カンニングをしてでも良い点を取ろうとしたり、人を蹴落とそうとする心が芽生えたりして人材その物の質が低下し、保身や不正などをする役人が増え、腐敗政治が蔓延したため、荒廃したと指摘している他、個性を無視したこうした一律的な能力比較による教育は、怠惰やいじめ、不平不満などを生み、人の心(人心)が歪んでしまう危険性があり、社会にとって害悪であることも指摘している。ちなみに井戸川辰三陸軍中将なども中国や朝鮮に関するレポートを書いているが、小原と似たような見解をしており、日本もそうなってはならないと警鐘を鳴らしていた。更に海軍関係者を中心に行われた海軍反省会の中でも、当時の海軍兵学校の教育の問題が取り上げられており、学生時代のテストの点が出世に影響したため、テスト対策のための学習が中心だったという。しかも、成績優秀者の多くは自慢の記憶力を屈指し、テスト前夜に一夜漬けをして良い点を取って出世していたという事実やテストの点が優秀=優秀な人物に育つとは限らない事実、勉強法がテスト対策の為の山はりの為、テストが終わるとほとんど忘れてしまい、身にならなかったことなどの体験談が挙げられ、本当にあの教育のやり方で良かったのかと疑問として語られている。この経験を踏まえて、国家を導く人材を育てる為には創造教育が大切だと考え、江戸時代までの教育に見られたような個性を尊重する教育(西欧的に機械的に全ての学生を一律に教育するやり方ではなく、学生を一人一人のことを考えた教育)の価値を見直し、西欧の良い価値観も取り入れ、全人教育という教育理念を創始した。小原はこの全人教育を柱に、日本文化、そして世界文化の創成を測ろうと生涯を通じて教育に人生を捧げた。
著書
- 『修身教授の実際』集成社 1921-22
- 『学校劇論』イデア書院 1923
- 『教育の根本問題としての哲学』イデア書院 1923
- 『自由教育論』イデア書院・教育問題叢書 1923
- 『理想の学校』内外出版 1924
- 『結婚論』イデア書院 1926
- 『母のための教育学』イデア書院 1925-26
- 『ペスタロッチーを慕ひて』イデア書院 1928
- 『秋吉台の聖者本間先生』玉川学園出版部 1930
- 『幼き日』玉川学園出版部 1930
- 『少年の頃』玉川学園出版部 1930
- 『日本の新学校』新学校叢書 玉川学園出版部 1930
- 『玉川塾参観記』玉川学園出版部 1930
- 『玉川塾の教育』玉川学園出版部 1930
- 『日本教育史』玉川学園出版部 1932
- 『修身教育論』玉川学園出版部 1933
- 『日本女性の行くへ』玉川学園出版部・女性日本叢書 1933
- 『日本女性の理想』玉川学園出版部 1937
- 『戦後の教育』玉川学園出版部 1938
- 『教師道』玉川学園出版部 1939
- 『教育立国論 日本国民に訴ふ』福村書店 1946
- 『小原国芳全集』全44巻 玉川大学出版部 1953-73
- 『世界教育行脚』玉川学園大学出版部 1956
- 『夢みる人 小原国芳自伝』玉川大学出版部 1963
- 『全人教育論』玉川大学出版部 1969
- 『理想の学校』玉川大学出版部 1971
- 『宗教教育論』玉川大学出版部 1972
- 『私の教育論』読売新聞社 1972
- 『イエスさま』玉川大学出版部 1974 玉川こども図書館
- 『師道』玉川大学出版部 1974
- 『教育一路』日本経済新聞社 1976
- 『贈る言葉』玉川大学出版部 1984
編著・共著
- 『教育行脚と私たち』編 文化書房 1922
- 『真人の生活 修身教授講演訓辞説教例話』編 集成社 1922
- 『文化人の芸術と宗教』松原寛共著 太陽堂 1922
- 『ベートーヴェン研究 ベートーヴェン百年祭記念出版』編 イデア書院 1927
- 『ペスタロッチー研究』編 イデア書院 1927
- 『高学年教育の実際』成城学園研究叢書 編 イデア書院 1929
- 『宗教教育の理論と実際』編 玉川学園出版部 1930
- 『低学年教育の実際』成城学園研究叢書 玉川学園出版部 1930
- 『体育の理論と実際』編 玉川学園出版部 1930
- 『児童百科大辞典』全30巻 編 児童百科大辞典刊行会 1933-37
- 『日本の労作学校』第1,2輯 編 玉川学園出版部 1931-33
- 『真人のことば 金言名句集』編 玉川学園出版部 1935
- 『例話全集』7巻 編 玉川学園出版部 1928-39
- 『偉人の母』編 玉川学園 1936
- 『日本学校劇全集』第1巻 編 玉川学園出版部 1936
- 『国民学校研究叢書』全12巻 編 玉川学園出版部 1940-41
- 『愛吟集』岡本敏明共編 玉川学園報国団 1942
- 『話方聴方全集』第1巻 編 玉川学園出版部 1942
- 『日本新教育百年史』全8巻 編 玉川大学出版部 1969-71
- 『追憶の波多野精一先生』松村克己共編 玉川大学出版部 1970
- 『ベートーヴェンを慕いて』編 玉川大学出版部 1970
- 『新教育の探究者木下竹次』木下亀城共編 玉川大学出版部 1972
翻訳
- 『カンヂンスキーの芸術論』イデア書院 1924
- フリードリヒ・フレーベル『人の教育』玉川学園出版部 1929
- ペスタロツチー『隠者の夕暮』玉川学園出版部 1932
脚注
- ↑ その言葉の起源はワーテルローの戦いでナポレオン・ボナパルトを破ったイギリスの軍人、ウェリントン公アーサー・ウェルズリーが述べた「Educate men without religion and make then but clever devils.(宗教なき教育は、ただ悧巧な悪魔を造る)」という言葉が起源だとされている。