足利義視

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足利義視
時代 室町時代中期 - 後期
生誕 永享11年閏1月18日1439年3月3日
死没 延徳3年1月7日1491年2月15日
幕府 室町幕府
氏族 足利将軍家

足利 義視(あしかが よしみ)は、室町時代中期から後期にかけての人物・武将。室町幕府6代将軍足利義教の子で、異母兄に7代将軍義勝と8代将軍義政堀越公方足利政知(実際は次兄にあたる)がいる。子に10代将軍・足利義稙(初め義材・義尹)などがいる。

概要

嘉吉3年(1443年)出家して義尋(ぎじん)と名乗り、天台宗浄土寺門跡となった。後に嗣子に恵まれない兄・義政の後継となったが、義政と御台所日野富子の間に実子・義尚が生まれると将軍職をめぐって対立、応仁の乱を引き起した。乱後は美濃に亡命し、甥の義尚と兄の義政の死後、子の義材を10代将軍に擁立して自らは大御所として後見し幕政を牛耳ったが、兄の死から1年後の1月7日に死去した。享年53。

生涯

還俗

永享11年(1439年)1月18日、6代将軍足利義教の十男(庶子)として生まれる[1]。母は小宰相局と呼ばれる家女房

生後、正親町三条実雅の養子にされ、嘉吉3年(1443年)に出家して浄土寺の門跡となったが、寛正5年(1464年11月25日に実子がなかった兄・義政に請われて僧侶から還俗し、翌日の26日に今出川屋敷に移り住み、12月2日に正式に還俗し義視を名乗り、従五位下左馬頭に叙任された。また義政の御台所・富子の妹良子を正室に迎え、今出川の屋敷に住んだため今出川殿と呼ばれた。

翌寛正6年(1465年1月5日従四位下に昇叙、2月25日に判始を行い、11月20日に元服、5日後の25日に参議と左近衛中将に補任され順調に義政の後継者として出世していった。同年の11月23日に義政と富子の間に甥義尚が誕生して立場が微妙になったが、義政が後継者を義視に変更しなかったのは大御所として政治を仕切る狙いと、義尚が成長するまでの中継ぎとして義視に予定していたともいわれる。

文正元年(1466年9月5日には義視謀反の噂が立つが、義視は元管領細川勝元に無実を訴え、翌6日に義尚の乳父だった伊勢貞親が讒訴の罪を問われ、貞親と季瓊真蘂斯波義敏赤松政則ら貞親派が失脚する文正の政変が起こった。計画自体は義視を排除して義尚政権で実権掌握を狙った貞親の勇み足だったが、斯波氏の前当主で政変直前に義敏に家督を奪われた斯波義廉が貞親・義敏らへの対抗策として山名宗全畠山義就らと接触、義視も義廉・宗全らと通じていたのではないかとされる。

また、政変直前に勝元が義政から義視の後見人に任命され、富子が対抗策として義尚の後見人を宗全に頼み、それぞれの派閥が結成され大乱に及んだとする説は『応仁記』のでっち上げで、実際に富子は争乱に関係なかったともいわれる[2][3]

応仁の乱、亡命

応仁元年(1467年)、足利将軍家の家督相続問題と畠山氏斯波氏家督相続問題などが関係して応仁の乱が発生する。乱初、義視は勝元が率いる東軍に属し、2月24日に両軍に和睦を呼びかけたりしたが、5月に義政が失脚していた貞親を伊勢から京都に呼び戻したため孤立した。6月に西軍追討の総大将に任じられると首実検を行ったり幕府奉行衆の内通者を成敗したりしたが、8月23日に西軍の大内政弘が上洛すると入れ替わるように京都から出奔、西軍の一色義直の分国の一つである伊勢へ下向、さらに北畠教具のもとへ下向する。この事情は明らかでないが、幕府内部で奉公衆が西軍に内通したことに危機感を抱いたための出奔とも、逆に西軍合流を図り伊勢へ下向したともされる。

翌応仁2年(1468年9月22日には義政の説得で伊勢から帰洛するが、義政が閏10月16日に貞親を幕府に復帰させたため義政と対立、11月13日室町第を脱走して比叡山延暦寺に出奔、ついで山名宗全の西軍に与した。西軍では擬似幕府(西幕府)が創設されて将軍に据え置かれ、文明元年(1469年)には四国・九州の諸大名を味方につけようと奔走している。

文明5年(1473年)、宗全と勝元が相次いで死去すると和睦に傾き、文明8年(1476年9月14日に義政が大内政弘に和睦を求める書状を送ると政弘と共に交渉を開始した。12月20日に義政と和睦、翌文明9年(1477年5月3日には富子へ政弘を通して和睦の仲介料を支払い、7月に娘を義政の猶子としたが、義政との溝を埋めることは難しく、11月11日に子の義材を伴って美濃土岐成頼のもとに亡命した。翌文明10年(1478年7月10日に成頼と共に正式に義政と和睦したが、美濃に留まり続けた[4]

復権から大御所へ

長享3年(延徳元年、1489年3月26日に9代将軍義尚が長享・延徳の乱で遠征先の近江で死去すると、義視は義材と共に4月13日に上洛し、娘のいる京都三条の通玄寺に入り、そこで再び出家をして道存(どうぞん)と号した。上洛に先立ち長享元年(1487年)1月に義材を元服させていたが、義視は義政・富子と和睦を模索し、義材を継嗣の無かった義尚の猶子とするために行ったともされる。8月には富子ほかの推挙により義材は従五位下左馬頭に叙位任官、翌延徳2年(1490年)1月7日に義政が病死すると、義視は富子と提携して7月5日に義材を10代将軍に擁立し、自らは将軍の父として幕政を牛耳ったのである。

しかし富子と折りが悪く次第に対立、4月27日に富子が一旦義材に邸宅として与えようとした小川第(義政の別荘)を一転して義材の従兄弟にあたる香厳院清晃(後の足利義澄)に与えようとしたため、5月18日に小川第を破却して敷地を差し押さえた。このため富子は義材の支持には疑問を持ちはじめ、清晃を将軍後継に推していた管領細川政元(勝元の子)に接近した。義視は政元との対立を不利と判断、義材の将軍宣下の儀を政元の屋敷で行なうよう変更するといった懐柔策も示している(ただし政元は将軍宣下の翌日に管領職を辞任している)。それでも政元と富子の反発は義材排除の動き(明応の政変)へとつながることになる。

こうして状況が不利になってゆく中、10月7日に妻良子を失い、自身も11月に病に倒れ、翌延徳3年(1491年)1月7日、前年に世を去った兄・義政の祥月命日に死去した。享年53。両親を失った義材は孤立し、一方の政元は富子を始め幕府関係者や諸大名と連携を取り、義視の死から2年後の明応2年(1493年)、義材の河内遠征中に清晃を擁立して義材を廃嫡に追い込んでいった[5]

義視の御影堂は相国寺の大智院(現在は廃絶)に置かれたが、これは足利義満以後の歴代将軍と同じ待遇である。夭折した兄の7代将軍義勝の御影堂が当初は東山に置かれ、義政の別荘の造営予定地に入ったために没後23年目にしてやっと相国寺内に移されているのとは対照的である。これはとりもなおさず、義視が将軍の後継者であり、かつ当代将軍(義材)の実父・後見として、実際には足利将軍家の家督を相続することも将軍職に就くこともなかったにもかかわらず、「事実上の将軍家の当主」とみなされその礼遇を受けていたためであることを物語る。

官職および位階等の履歴

※日付=旧暦

  • 寛正5年(1464年)12月2日、還俗し義視を名乗る。従五位下に叙し、左馬頭に任官。
  • 寛正6年(1465年)1月5日、従四位下に昇叙。左馬頭は元の如し。11月20日、元服し禁色賜る。11月25日、参議に補任し、左近衛中将を兼任。12月17日、従三位に昇叙し、権大納言に転任。
  • 文正元年(1466年)1月6日、従二位に昇叙。権大納言は元の如し。
  • 文正2年(1467年)1月5日、正二位に昇叙。権大納言は元の如し。8月23日、伊勢国に出奔。
  • 応仁2年(1468年)12月5日、解官。
  • 延徳元年(1489年)12月27日、出家。
  • 延徳2年(1490年)7月5日、准后宣下。
  • 延徳3年(1491年)1月7日、死去。2月24日、贈従一位太政大臣

偏諱を与えられた人物

宮内一色家の当主。『宣秀卿御教書案紙背文書』(中御門宣秀が、自身が職事として発給に関与した綸旨・口宣案を関連文書とともに書き留めたものだが、筆録したのは父の中御門宣胤である)に残る文書の中に、長享2年9月18日に伝奏・二階堂政行により伊予に任ぜられた人物として見られる(こちらを参照)が、義視との関係など詳細については不明である。子の一色材延(きのぶ)も義視の子で第10代将軍となった足利義材(義稙)から1字を受けている。

脚注・出典

  1. 「足利義視」『朝日日本歴史人物事典』
  2. 国史大辞典、P177 - P178、桜井、P302 - P303、石田、P115、P179 - P194、安田、P278、P313、渡邊、P72 - P74、P83 - P85。
  3. 義尚誕生の寛正6年11月以前に義廉は廃嫡阻止のため派閥結成に奔走していた動きがあり、宗全・義就と結びつき派閥が結成された時期は同年の9月と推定される。また、宗全・義廉らは義政・貞親に対抗するために義視とも連携したとされ、義視は11月に京都で土一揆が起こると、義廉の重臣朝倉孝景に鎮圧を命じている。石田、P185 - P190。
  4. 国史大辞典、P178、桜井、P304 - P308、P315 - P322、石田、P198 - P203、P211、P217 - P224、P238 - P246、P265 - P274、安田、P314 - P315、渡邊、P153 - P161、P168 - P173。
  5. 国史大辞典、P178、石田、P283 - P287、渡邊、P237 - P249。

参考文献

関連項目