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足利義教

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足利義教
時代 室町時代中期
生誕 応永元年6月13日(1394年7月11日
死没 嘉吉元年6月24日(1441年7月12日
幕府 室町幕府 第6代征夷大将軍
(在任:正長元年(1428年) - 嘉吉元年(1441年))
氏族 足利氏足利将軍家

足利 義教(あしかが よしのり、正字体:

室町幕府6代将軍 (在職 1429~41) 。義満の子。母は三宝院坊官安芸法眼の娘藤原慶子。応永 10 (1403) 年6月青蓮院に入室して義円と称し,同 26年 11月3日天台座主に補せられた。兄義持に後嗣がなかったため,正長1 (28) 年1月 17日,重臣らが石清水社前でくじを引いて義円を後嗣と定め,同 18日義持が死ぬと青蓮院から出て義持の跡を継いだ。同年3月左馬頭,従五位下となり,義宣と改名し,永享1 (29) 年3月9日元服,次いで 15日には参議,左近衛中将に任じ,征夷大将軍に補せられ,義教と改名した。これは義宣が「世を忍ぶ」に通じるのを嫌ったためといわれる。続いて 29日には権大納言,従三位,12月 13日従二位に進み,翌2年 10月 17日従一位。さらに同4年7月 25日内大臣,8月 28日左大臣,12月9日には殿上別当,院大別当,淳和奨学両院別当および氏長者に兼補された。義教の性質は強烈で,将軍の権威の伸長に力を注ぎ,同 10年には,関東に幕府から独立した権力を樹立しようとした鎌倉公方足利持氏を滅ぼし (永享の乱 ) ,同 12年には一色義貫,土岐持頼ら有力な守護大名を討ち,また興福寺,叡山などの僧徒を攻めて屈服させるなど,大いに幕威を宣揚した。しかし,その策があまりにもきびしかったため,諸将の不満と不安を招き,ついに嘉吉1 (41) 年6月 24日,赤松満祐のために,結城合戦戦勝の祝賀にことよせて彼の邸に招かれ謀殺された (嘉吉の乱 ) 。法号を普広院殿善山道恵といい,同月 29日,朝廷から太政大臣位を贈られ,7月6日等持院に葬られた。






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