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ja>Chino Kafu
 
 
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{{Otheruses||大相撲の力士|黒海太}}
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[[ファイル:Black Sea map.png|サムネイル|左]]
 
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|name = 黒海
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[[Image:The Danube Spills into the Black Sea.jpg|thumb|黒海と地中海の衛星写真]]
 
[[File:Black Sea Coast of Batumi, Georgia (Europe).jpg|thumb|ジョージアの[[バトゥミ]]の海岸]]
 
[[File:Ласточкино гнездо.jpg|thumb|クリミア半島にあるスワローズ・ネスト(ツバメの巣城)]]
 
'''黒海'''(こっかい)は、[[ヨーロッパ]]と[[アジア]]の間にある[[内海]]で、大西洋の[[縁海]]([[地中海 (海洋学)]])の一つである。[[マルマラ海]]を経て[[エーゲ海]]、[[地中海]]に繋がる。
 
  
[[バルカン半島]]、[[アナトリア半島]]、[[コーカサス]]と南[[ウクライナ]]・[[クリミア半島]]に囲まれており、[[ドナウ川]]、[[ドニエストル川]]、[[ドニエプル川]]などの[[東ヨーロッパ]]の大河が注ぐ。アナトリアとバルカンの間の[[ボスポラス海峡]]、[[マルマラ海]]、[[ダーダネルス海峡]]を通じて地中海に繋がっており、クリミアの東には[[ケルチ海峡]]を隔てて[[アゾフ海]]がある。
+
'''黒海'''(こっかい)
  
黒海に面する国は、南岸が[[トルコ]]で、そこから時計回りに[[ブルガリア]]、[[ルーマニア]]、[[ウクライナ]]、[[ロシア]]、[[ジョージア (国)|ジョージア]]である。
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南東ヨーロッパと[[西アジア]]の間に位置する内海。ロシア語ではチョルノエモーレ Chernoye More,トルコ語ではカラデニズ Karadeniz。古代ギリシア語ではポントスエウクセイノス Pontos Euxeinosと呼ばれた。[[地中海]][[付属海]]で,[[ボスポラス海峡]][[マルマラ海]][[ダーダネルス海峡]]を経て地中海とつながり,ウクライナ,ロシア,ジョージア(グルジア),トルコ,ブルガリア,ルーマニアに囲まれる。面積 42万3000km<sup>2</sup>[[ケルチ海峡]]で結ばれる北の[[アゾフ海]]を含めると約 47万km<sup>2</sup>。平均水深 1197m。北部,西部には広大な[[大陸棚]]が発達,南に向かって深くなり,2210mに達する最深部は南岸に近い中央部にある。表層部の平均水温は冬季で 6℃,夏季 26℃。塩分濃度は外洋の約半分程度で,表層で 17‰,深部で 22.3‰であるが,マルマラ海の水が流入するボスポラス海峡付近では 38‰になる。沿岸には保養地が多く,ニシン,チョウザメなどが漁獲される。古代から東西貿易の中継地にあたり,前8世紀からは沿岸各地にギリシアの植民市が建設された。[[ビザンチン帝国]]時代には[[ササン朝]]ペルシアやキエフ諸公([[キエフ公国]])の抗争の舞台となり,14世紀頃から[[オスマン帝国]]が進出,トルコ領内の海と化した。18~19世紀になると数次にわたる[[露土戦争]]によって,トルコの独占権はしだいにせばめられ,1912年の第1次バルカン戦争([[バルカン戦争]])後,沿岸諸国の関係がほぼ今日のかたちをとるにいたった。沿岸主要港はウクライナの[[オデッサ]],ロシアの[[ノボロシースク]],トルコの[[シノップ]],ブルガリアの[[バルナ]],ルーマニアの[[コンスタンツァ]]など。
 
+
黒海に面する有名な港湾には、[[イスタンブール]]([[ビュザンティオン]]、[[コンスタンティノープル]])から時計回りに[[ブルガス]]、[[ヴァルナ (ブルガリア)|ヴァルナ]]、[[コンスタンツァ]]、[[オデッサ]]、[[セヴァストポリ]]、[[ヤルタ]]、[[ガグラ]]、[[バトゥミ]]、[[トラブゾン]]、[[サムスン (都市)|サムスン]]などがある。
 
 
 
== 名称 ==
 
[[日本語]]では専ら'''黒海'''(こっかい)と呼ばれる。[[英語]]では'''{{lang|en|Black Sea}}'''、[[トルコ語]]では'''{{lang|tr|Karadeniz}}'''、ロシア語では'''{{lang|ru|Чёрное море}}'''、[[ウクライナ語]]では'''{{lang|uk|Чорне море}}'''となる。<!--どれも「黒い海」という意味では同じである。-->トルコ語のKara Denizには「偉大なる海」という意味の他に「黒い海」という意味もあり、ちなみに地中海はトルコ語でアク・デニズ(白い海)という。
 
 
 
=== 名称の変遷 ===
 
[[ギリシア神話]]の時代には、黒海沿岸などギリシアより北方の未開地に女性だけの部族[[アマゾーン|アマゾン]]がいて、黒海もかつて'''アマゾン海'''と呼ばれた。現にトルコ沖にはアマゾン島がある。
 
 
 
古く(紀元前700年頃 - 500年頃)は、[[古代ギリシア語]]で'''{{lang|grc|Ἄξεινος Πόντος}}''' (Axeinos Pontos(暗い、薄暗い海<ref>{{Harv|キング|2017}}p14、同箇所では、ギリシア語名称は、より古いイラン語から借用された可能性を指摘している</ref><!--、the dark or somber sea-->)、[[ラテン語]]で'''{{lang|la|Pontus Euxinus}}'''(客あしらいのよい海)<ref>{{Harv|キング|2017}}p14</ref>と呼称されていた。[[東ローマ帝国]]の文書内では'''Pontos'''('''ポントス''')とだけ記述されている場合が多い([[ギリシア語]]で「海」の意)。
 
 
 
[[中世]]([[500年]]頃 - [[1500年]]頃)には、イタリア語文献では'''Mare Maggiore'''(Greater Sea、偉大なる海)という名称が用いられ、[[アラブ]]の文献では多数の名称([[ローマ]]の海、偉大なる海、[[トラブゾン]]の海、等)が用いられている。
 
 
 
オスマン帝国期([[1500年]]頃 - [[1700年]]頃)には、オスマン帝国初期に[[トルコ語]]で'''Kara Deniz'''(偉大なる海)という名称が文献に現れ始める。
 
 
 
[[ロシア帝国]]期([[1700年]]頃 - [[1860年]])には、'''{{lang|ru|Чёрное море}}'''(Chernoe More、黒い海)という名称が用いられている。
 
 
 
[[1860年]]以降になると、'''Black Sea'''(黒海)という英語の呼称が国際的に使われるようになった。
 
 
 
== 概要 ==
 
[[面積]]は436,400[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]ある。最大[[水深]]は2,206m。名称は黒味を帯びた[[海水]]に由来し、この黒味の原因は[[硫化鉄]]であるとする説と、地中海よりも豊富な微小[[藻類]]であるとする説がある。前者は次のように説明される。黒海は、[[地中海 (海洋学)|大陸に囲まれた海]]であり、[[地中海]]と辛うじて結ばれているだけの閉鎖性水域である。黒海の海水は水深200mを境として冷たく塩分の薄い表層水(河川から流入し、地中海へ流出)と、暖かく塩分の濃い深層水(地中海から流入)が層を成して混合しない。このため深層水では[[酸素]]が欠乏し[[嫌気性生物|嫌気性バクテリア]]によって[[硫化水素]]が発生し、海水中の[[鉄]][[イオン]]と結合し黒色の[[硫化鉄]]を生成する。表層水は充分な酸素を含むため豊かな生態系を擁しており、[[漁業]]も行われている。漁獲高は年25万トンから30万tに上り、その3分の2が[[アンチョビ]]で、残りは[[アジ]]や[[イワシ]]、[[ニシン]]や[[チョウザメ]]などである<ref>『地球を旅する地理の本5 東ヨーロッパ・旧ソ連』p.180 山本茂・松村智明・宮田省一著 大月書店 1994年3月15日第1刷</ref>
 
 
 
気候は、南西部が[[地中海性気候]]、北端のドニエプル川河口付近が[[ステップ気候]]であるほかは、ほぼ全域が[[温暖湿潤気候]]である。
 
 
 
北東岸には砂州が多く発達し、最も長いものではオデッサやドニエプル川の西からクリミア半島近くまで130kmにもわたって延びているものがある。クリミア半島は東部で細いケルチ海峡によりそれ以東と分離されているが、北側も大陸とそれほど確固とした繋がりがあるわけではなく、黒海と、アゾフ海とつながる[[腐海]]の間は、幅5km程度の[[ペレコープ地峡]]によって繋がっているに過ぎない。北東岸、とくにウクライナ領内の海岸は平坦で、大平原の広がる穀倉地帯となっているが、クリミア半島南岸近くにはクリミア山脈が伸びており、海岸線近くまで山が迫っている。これは北西岸も同様で、コーカサス山脈が北西から南東に延びており、海岸平野はさほど広くない。南岸のアナトリア半島でも、海岸沿いに[[ポントス山脈]]が東西に延びており、平原の発達はあまりない。
 
 
 
黒海に注ぎ込む河川のうち最大のものは、西岸、ルーマニア・ウクライナ国境で流れ込むドナウ川である。次いで、同じく北西岸に流れ込むドニエストル川、北岸に流れ込むドニエプル川が大きなものである。これ以外は、南岸、アナトリア半島の中部から流れ込む[[クズルウルマク川]]を除き、大河と呼べるものはほとんどない。
 
 
 
黒海はそれ自体が重要な交通路となっているほか、流れ込む[[河川交通]]との連結運輸も重要となっている。[[ドン川]]からは[[ヴォルガ・ドン運河]]を通して[[ヴォルガ川]]や[[カスピ海]]と結ばれ、さらにヴォルガ川からは[[ヴォルガ・バルト水路]]を通じて[[バルト海]]と、さらにその途中の[[ラドガ湖]]で[[白海・バルト海運河]]によって[[白海]]まで内陸水運のみで繋がれている。また、西ではドナウ川から[[ライン・マイン・ドナウ運河]]を通じて[[マイン川]]・[[ライン川]]へ、さらに[[北海]]へと結ばれている。
 
 
 
== 歴史 ==
 
南西にイスタンブールがあり、古くから[[東ローマ帝国]]、[[オスマン帝国]]の首都があったことから、黒海地域の歴史は複雑である。オスマン帝国時代には対[[ウクライナ]]などの黒海貿易もあった<ref>「オスマン帝国−イスラム世界の「柔らかい専制」−」鈴木董著(講談社、1992)</ref>。黒海が位置するのがアジアとヨーロッパの境界線上であるため、中東史、[[ヨーロッパ史]]、[[ロシア史]]のどの分野でも記述される機会が少なかったが、少しずつ黒海周辺を一つの地域として黒海歴史研究をする学者が出てきている<ref>Charles King"The Black Sea: A History", Oxford University Press, 2004</ref>。
 
 
 
=== 古代 ===
 
紀元前7世紀頃から、ボスポラス海峡を通って[[ギリシャ人]]が黒海沿岸各地に植民を始め、[[アゾフ|タナイス]]や[[パンティカパイオン]]、[[オルビア]]といった[[植民市]]が各地に建設されていった。これらの植民市は北の草原地帯に住む[[スキタイ]]人や[[サルマティア人]]らの[[遊牧国家]]から彼らの支配地の黒海沿岸黒土([[チェルノーゼム]])地帯の農耕民から徴税した[[穀物]]や戦争捕虜の[[奴隷]]を購入し、[[ぶどう酒]]や[[武器]]などの[[ギリシャ]]の産物とを取引して力を付けていった。また、これらの植民諸都市、とくにタナイスは東西交易路の一つ、ステップ・ルート(草原の道)の西端にも当たっており、黒海はこの頃にはすでに東西交易の重要なルートとなっていた<ref>長澤和俊『シルクロード』p72-73 講談社学術文庫、1993年 ISBN 4061590863</ref>。
 
 
 
スキタイ人の手により東方の産物が植民都市に持ち込まれ、ギリシャ人によって地中海世界へと運ばれていった。この交易の様子は[[ヘロドトス]]の「歴史」にも描かれている。そして[[紀元前5世紀]]にはこれらの植民市を統合して[[ボスポロス王国]]が成立し、穀物などの貿易を基盤にして国力をつけていった。ボスポロス王国はのちに[[ローマ帝国]]の従属王国となりつつ4世紀頃まで存続したが、[[フン族]]によってほぼ滅ぼされた。[[紀元前1世紀]]にはいると、[[ポントス王国]]など黒海南岸の諸国はすべてローマ帝国の領域となり、ローマの勢力圏となった。
 
 
 
=== 中世 ===
 
[[ファイル:Varangian routes.png|thumb|250px|地図中の青線(バルト海上の紫線を含む)が「[[ヴァリャーグからギリシャへの道]]」を示す]]
 
ローマ帝国が衰亡し変質していく中、[[コンスタンティヌス1世]]は[[330年]]にローマ帝国の首都をローマからコンスタンティノープル(現イスタンブール)へと遷都する。[[395年]]のローマ帝国の東西分裂後は、コンスタンティノープルは[[東ローマ帝国]]の首都となり、人口数十万を擁する世界有数の大都市となっていった。コンスタンティノープルは短いボスポラス海峡を通じて黒海に直結しており、この大都市の出現により黒海交易はさらに盛んになった。東ローマ帝国自体も、黒海北岸の古いギリシア植民都市である[[ケルソネソス]](セヴァストポリ)およびその付近のクリミア半島南岸を手中に治め、黒海を掌握していた。
 
 
 
[[650年]]頃、それまで[[西突厥]]の宗主権下にあった[[ハザール|ハザール・カガン国]]が独立し、カスピ海から黒海北岸を勢力下においた。ハザールはイスラム帝国とは敵対する一方、東ローマとは基本的に友好的な関係を維持した。またハザールは商業を保護し、バルト海からヴォルガ川を通ってカスピ海・黒海へと向かう、ヴァリャーグからギリシャへの道(下記)の西よりルートを活性化させ、またステップ・ルートの再活性化にも努めた。ハザールの黒海北岸支配は[[10世紀]]まで続いた。
 
 
 
[[9世紀]]前半以降、[[ヴァイキング]]の一派である[[スウェーデン人]]([[ヴァリャーグ]])によって、「[[ヴァリャーグからギリシャへの道]]」と呼ばれるバルト海と黒海を結ぶ交易ルートが開設される。[[ルーシ]]を貫き、[[ノヴゴロド]]から[[キエフ]]を通りドニエプル川で黒海へと向かうこのルートは、ヨーロッパの南北を東側で結ぶ主要ルートとなり、[[キエフ大公国]]などのルーシ諸国家を東ローマ帝国と強く結びつけた。この時期に、東ローマの国教である[[ギリシア正教]]がロシアに受容されている。
 
 
 
[[第四次十字軍]]によって東ローマ帝国が一時滅亡すると、十字軍側の[[ラテン帝国]]に付いた[[ヴェネツィア共和国]]および、東ローマの後継国家である[[ニカイア帝国]]と結んだ[[ジェノヴァ共和国]]が古代ギリシャと同様の対遊牧国家の黒海交易へと進出し、[[1261年]]の東ローマ帝国復活後はジェノヴァが黒海交易を握り、ケルチ半島の[[カッファ]]などに植民地を築いた。
 
 
 
しかし、14世紀に入ると[[アナトリア半島]]に興った[[オスマン帝国]]が勢力を拡大し、[[1453年]]にはコンスタンティノープルを落として東ローマ帝国を滅亡させ、コンスタンティノープル(イスタンブール)に首都を置いた。黒海と[[バルカン半島]]、アナトリア半島を繋ぐ要地に大帝国が本拠を置いたことで、これ以後黒海の制海権はオスマン帝国が握ることとなる。[[1475年]]には黒海北岸にあった[[モンゴル帝国]]北西分国[[ジョチ・ウルス]]の末裔、[[クリミア・ハン国]]を従属国とし、クリミア半島南岸に残っていたジェノヴァの植民地もオスマン帝国が直轄領としたことで、黒海はオスマン帝国の内海となった。
 
 
 
=== 近代 ===
 
[[File:Potěmkinovy schody.jpg|thumb|right|250px|オデッサ市の象徴・[[ポチョムキンの階段]]。[[1841年]]に建設された。]]
 
この状況が変化するのは、[[露土戦争 (1768年-1774年)]]に勝利した[[ロシア帝国]]が[[1774年]]の[[キュチュク・カイナルジ条約]]によって[[アゾフ]]および[[ケルチ]]を獲得し、黒海北岸に橋頭堡を築いてからである。ロシアはそれまで首都[[サンクトペテルブルク]]ほかわずかな港しか持っておらず、それも冬季にはすべて結氷するものであり、[[不凍港]]の獲得は悲願であった。この条約においてはロシアに黒海・地中海の自由航行権も認められ<ref>黛秋津 『第1章 帝国のフロンティアとしてのカフカース』p34  彩流社〈『カフカース―二つの文明が交差する境界』所収〉、2006年。ISBN 978-4779112157。</ref>、ここを足掛かりにロシアは黒海へ進出していく。
 
 
 
[[1776年]]には[[セヴァストポリ]]に[[黒海艦隊]]が設立され、[[1783年]]にはクリミア・ハン国を併合して、完全に黒海北岸を領土化した。ここにおいて、黒海はオスマンの内海から、ロシアとオスマンの海となった。
 
 
 
さらに[[露土戦争 (1787年-1791年)]]の[[ヤッシー条約]]によってロシア領は黒海北西岸の[[エディサン]]地方に拡大し、この地にロシアは[[1794年]]には[[オデッサ]]港を開港した。これにより外界への出口を獲得したロシアは、以後オスマン帝国を圧迫しながら徐々に南へと領土を広げていく。この政策は[[南下政策]]と呼ばれ、ロシア外交の根幹となるが、ロシアの強大化を恐れるヨーロッパ列強諸国はこれを認めず、オスマン帝国を支援する側に回った。この黒海の制海権争いも含むロシア・トルコおよび列強諸国間の対立は、[[東方問題]]と呼ばれて19世紀ヨーロッパ外交の焦点の一つとなる。
 
 
 
ロシアは[[露土戦争 (1828年-1829年)]]でも勝利を収め、[[1833年]]の[[ウンキャル・スケレッシ条約]]によって完全に黒海の制海権を握った。しかし、[[イギリス]]などがこれに反発して[[1853年]]には[[クリミア戦争]]が勃発し、ロシアは破れ、1856年の[[パリ条約 (1856年)|パリ条約]]によって黒海は非武装化され、黒海艦隊も解体されて<ref>「図説 ロシアの歴史」p92 栗生沢猛夫 河出書房新社 2010年5月30日発行</ref>この海域は中立化されることとなった。
 
 
 
しかし[[1871年]]、ロシアはパリ条約を改定させ、再び黒海艦隊を再建した。[[露土戦争 (1877年-1878年)]]の講和条約である[[1878年]]の[[サン・ステファノ条約]]によって、ロシアは黒海西岸を中心にさらに勢力圏を南下させたが、同年の[[ベルリン条約 (1878年)|ベルリン条約]]によって一定の歯止めがかけられた。また、サン・ステファノ条約によってブルガリアがほぼ独立し、またベルリン条約によってルーマニアが北[[ドブロジャ]]を得て黒海への出口を確保した。これにより、ルーマニアの海への出口となった[[コンスタンツァ]]港、ブルガリアの玄関口となった[[ヴァルナ (ブルガリア)|ヴァルナ]]港・[[ブルガス]]港の整備がすすめられた。
 
 
 
ロシアの進出による黒海北岸の一元支配は、北岸の経済活性化をもたらした。一元支配によりこの地方での戦乱が止むと、もともと肥沃な北岸ステップ地帯には急速に入植が進み、ロシア最大の穀倉地帯となっていった。オデッサ港はロシアの南の玄関口となり、黒海沿岸の肥沃な農地から採れる穀物の輸出港として栄えた<ref>黒川祐次 『物語ウクライナの歴史 : ヨーロッパ最後の大国』p158  中央公論新社〈中公新書; 1655〉、東京、2002年(日本語)ISBN 4-121-01655-6。</ref>。また、オデッサ港やロシア中央部から鉄道が延伸され、ドンバス地方の[[炭田]]やクリヴォイログの[[鉄鉱石]]を基にして、[[製鉄]]をはじめとする工業化がウクライナ北東部で急速に進んだ。
 
 
 
=== 現代 ===
 
[[第一次世界大戦]]が勃発すると、黒海ではロシアと[[オスマン帝国海軍]]・[[ドイツ帝国海軍]]との間で激しい戦闘が数度行われた。[[1917年]]、[[ロシア革命]]によってロシア黒海艦隊は数度所属を変えることとなり、最終的に1920年に[[ソヴィエト連邦]]の管轄下に入るものの、この間主要艦船は国外に脱出し、黒海艦隊は壊滅状態となった。[[1920年]]、大戦に敗北したオスマン帝国は[[セーヴル条約]]によって、黒海の出口にあたるボスポラス海峡・マルマラ海・ダーダネルス海峡とその周辺地域は国際機関「海峡委員会」の管理下に置かれることとなったが、この条約に反発した[[ムスタファ・ケマル]]が他国軍を追い払い、[[1923年]]に締結された[[ローザンヌ条約]]では海峡の自由通行は認められたものの、海峡管理権はトルコ共和国のものとなった。
 
 
 
さらにトルコは条約の改正を求め続け、[[1936年]]の[[モントルー条約]]によって商船の自由通行と軍艦の通行制限が認められ、これによって黒海沿岸諸国の地中海進出は再び阻まれた。ソヴィエト連邦が成立すると黒海艦隊は再建・増強されたものの、[[1941年]]に始まる[[黒海の戦い (第二次世界大戦)|黒海の戦い]]において黒海艦隊は[[ドイツ]]の航空機の前に劣勢を強いられた。[[第二次世界大戦]]後には黒海艦隊はみたび再建され、黒海は「ソ連の海」となった。
 
 
 
また、貿易上も黒海はソ連にとって非常に重要であり、輸出の半分、輸入の4分の1は黒海経由で行われていた<ref>『地球を旅する地理の本5 東ヨーロッパ・旧ソ連』p.179 山本茂・松村智明・宮田省一著 大月書店 1994年3月15日第1刷</ref>。しかし、黒海の出口はモントルー条約のもとアメリカ寄りのトルコ政府が押さえており、ここから地中海方面へソ連が進出することは困難だった。
 
 
 
[[1991年]]のソ連の崩壊により、黒海北岸はほとんどが新たに独立したウクライナに、東岸はやはり新たに独立したジョージアに属することとなり、ロシア領は北東部のみへと大幅に縮小した。これらの新独立国を包含する新たな国家間機構の必要性が高まり、[[1992年]]にはトルコの主導により沿岸諸国によって[[黒海経済協力機構]]が結成された。このほか、[[2001年]]にはやはりトルコ提唱により[[黒海海軍合同任務群]]が設立された。
 
 
 
しかし、とくに北岸のロシアとウクライナの間はしっくりいっておらず、黒海艦隊の所属やクリミア半島の帰属などで対立が続いた。[[2007年]]には、[[ロシア・ウクライナガス紛争]]を避けてウクライナを迂回し、黒海のトルコ領海内を通ってロシアとヨーロッパを結ぶ[[パイプライン輸送|パイプライン]]、[[サウス・ストリーム]]計画が発足した。[[2014年]]、ロシアは[[2014年ウクライナ騒乱]]に乗じて[[ロシアによるクリミア・セヴァストポリの編入|クリミア編入]]を一方的に宣言した。([[2014年クリミア危機]])
 
 
 
== 沿岸主要都市 ==
 
{|class="infobox" style="text-align:center;width:97%;margin-right:10px;font-size:90%"
 
!style="text-align:center" colspan=11|黒海沿岸の人口の多い10都市
 
|-
 
!rowspan=23 width:150|<br>
 
[[File:Istanbul2010.jpg|border|135px|イスタンブール]]<br>イスタンブール<br>
 
[[File:Pantelejmonowski Kirche Odessa.jpg|border|135px|オデッサ]]<br>オデッサ<br>
 
!style="text-align:center; background:#f5f5f5"|順位
 
!style="text-align:center; background:#f5f5f5"|都市
 
!style="text-align:center; background:#f5f5f5"|国
 
!style="text-align:center; background:#f5f5f5"|州・郡
 
!style="text-align:center; background:#f5f5f5"|人口
 
!rowspan=23 width:150|
 
[[File:Samsun.jpg|border|135px|サムスン]]<br>サムスン<br>
 
[[File:Sevastopol IMG 0919 1725.jpg|border|135px|セヴァストポリ]]<br>セヴァストポリ<br>
 
|-
 
|style="text-align:center;background:#f0f0f0"|1||align=left|'''[[イスタンブール]]'''||トルコ||[[イスタンブール県]]||13,624,240<ref>{{cite web
 
|url = http://rapor.tuik.gov.tr/reports/rwservlet?adnksdb2&ENVID=adnksdb2Env&report=wa_turkiye_ilce_koy_sehir.RDF&p_il1=34&p_kod=1&p_yil=2011&p_dil=1&desformat=html
 
|title = Turkish Statistical Institute
 
|publisher = Rapor.tuik.gov.tr
 
|date =
 
|accessdate = 2014-01-14
 
}}</ref>
 
|-
 
|style="text-align:center;background:#f0f0f0"|2||align=left|'''[[オデッサ]]'''||ウクライナ||[[オデッサ州]]||1,003,705
 
|-
 
|style="text-align:center;background:#f0f0f0"|3||align=left|'''[[サムスン (都市)|サムスン]]'''||トルコ||[[サムスン県]]||535,401<ref>{{cite web
 
|url = http://rapor.tuik.gov.tr/reports/rwservlet?adnksdb2&ENVID=adnksdb2Env&report=wa_turkiye_ilce_koy_sehir.RDF&p_il1=55&p_kod=1&p_yil=2011&p_dil=1&desformat=html
 
|title = Turkish Statistical Institute
 
|publisher = Rapor.tuik.gov.tr
 
|date =
 
|accessdate = 2014-01-14
 
}}</ref>
 
|-
 
|style="text-align:center; background:#f0f0f0;"|4||align=left|'''[[ヴァルナ (ブルガリア)|ヴァルナ]]'''||ブルガリア||[[ヴァルナ州]]||474,076
 
|-
 
|style="text-align:center;background:#f0f0f0"|5||align=left|'''[[セヴァストポリ]]'''||ウクライナ||セヴァストポリ特別市||379,200
 
|-
 
|style="text-align:center;background:#f0f0f0"|6||align=left|'''[[ソチ]]'''||ロシア||[[クラスノダール地方]]||343,334
 
|-
 
|style="text-align:center;background:#f0f0f0"|7||align=left|'''[[トラブゾン]]'''||トルコ||[[トラブゾン県]]||305,231<ref>{{cite web
 
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|title = Turkish Statistical Institute
 
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|style="text-align:center;background:#f0f0f0"|8||align=left|'''[[コンスタンツァ]]'''||ルーマニア||[[コンスタンツァ県]]||283,872<ref>{{cite web
 
|author = Stiati.ca
 
|url = http://stiati.ca/cele-mai-mari-orase-din-romania/
 
|title = Cele mai mari orase din Romania
 
|publisher = Stiati.ca
 
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|-
 
|style="text-align:center;background:#f0f0f0"|9||align=left|'''[[ノヴォロシースク]]'''||ロシア||[[クラスノダール地方]]||241,952
 
|-
 
|style="text-align:center;background:#f0f0f0"|10||align=left|'''[[ブルガス]]'''||ブルガリア||[[ブルガス州]]||223,902<ref>{{cite web
 
|url = http://rapor.tuik.gov.tr/reports/rwservlet?adnksdb2&ENVID=adnksdb2Env&report=wa_turkiye_ilce_koy_sehir.RDF&p_il1=67&p_ilce1=1741&p_kod=2&p_yil=2011&p_dil=1&desformat=html
 
|title = Turkish Statistical Institute
 
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|}
 
{{clear}}
 
[[File:POTI.JPG|right|thumb|ジョージアの[[ポティ|ポティ港]]]]
 
黒海沿岸で最も大きな都市は、トルコの[[イスタンブール]]である。人口は1300万人を超え、ヨーロッパでも有数の大都市圏を形成している。古くは東ローマ帝国時代より、この地域の中心となる都市として栄えてきた。これに次ぐ都市は、ウクライナの[[オデッサ]]である。18世紀末に建設されたこの都市は非常に新しいが、ロシア帝国・ソヴィエト連邦時代を通じて貴重な不凍港として、また肥沃なウクライナのコムギなど農産物や工業製品を輸出する港として急成長した都市である。人口100万を超える大都市はこの2都市であるが、ほかにもロシアの軍港都市として成長してきた[[セヴァストポリ]]や、[[1950年代]]より大観光地として急速に開発がすすめられた[[ソチ]]、カスピ海からの原油パイプラインの終点があり、石油積み出し港として栄える[[ノヴォロシースク]]など、特色ある都市が多い。西岸では、ルーマニアの玄関口である[[コンスタンツァ]]、ブルガリア北部の主要港である[[ヴァルナ (ブルガリア)|ヴァルナ]]、同じく南部の主要港である[[ブルガス]]が大きい。南岸ではイスタンブール以外にも、西から[[ゾングルダク]]、[[スィノプ]]、[[サムスン (都市)|サムスン]]、[[トラブゾン]]といったトルコ領の港湾都市が多数存在する。この地方の最大都市はサムスンであり、内陸部との交通の便も良いため古くから産業・商業都市として栄えた。1919年5月19日には、[[ムスタファ・ケマル・パシャ]]が黒海からサムスンへと上陸し、この日から[[トルコ革命]]が勃発した。トラブゾンは旧名トレビゾントで、東ローマ帝国が一時滅亡した際の[[トレビゾンド帝国]]の首都だったところである。東岸のジョージアには、北から[[スフミ]]、[[ポティ]]、[[バトゥミ]]の三つの主要港があるが、スフミは[[アブハジア自治共和国]]に、バトゥミは[[アジャリア自治共和国]]にそれぞれ属しているため、ジョージア政府は自国が安定的に使用できるポティ港への傾斜を強めている。
 
 
 
== 政治 ==
 
地政学観点で黒海を考える時に、北に[[ウクライナ]]、南に[[トルコ]]、東に[[ジョージア (国)|ジョージア]]という欧州を代表する国際機構、[[NATO]](トルコは加盟)、[[EU]]への加盟を目指しつつも実現できていない国々があること、また海を介した交流・協力・対立の歴史、から、近年「黒海地域」という黒海周辺国家を一つの地域としてとらえる研究が増えている。上記の国々が所属する国際機構、[[黒海経済協力機構]] (BSEC) や[[GUAM]](トルコはオブザーバー)は、最終的な目標として「欧州統合」を掲げている点が共通している。EUもまたルーマニアとブルガリアがNATOとEUに加盟したことから、その領域が黒海沿岸に到達し、安全保障及び将来の欧州統合プロセスを考える際に黒海地域に対する包括的な政策の必要に迫られていた。その結果、「黒海シナジー」や「東方パートナーシップ」などの地域イニシアチブを開始し、地域諸国との協力関係を模索している。そして、[[欧州]]とは何か、すなわち「ヨーロッパ性 (Europianity)」とは何かを考える際に、黒海地域をどのように理解するかが重要となりつつある<ref>Charles King"The Black Sea: A History", Oxford University Press, 2004</ref>。
 
 
 
== 経済 ==
 
黒海はボスポラス海峡・ダーダネルス海峡を通じて[[地中海]]に通じ、さらに地中海から[[ジブラルタル海峡]]を通じて[[大西洋]]へ、[[スエズ運河]]を通じて[[紅海]]から[[インド洋]]へと抜けることができ、ユーラシア大陸の奥深くに食い込んだ外洋の先端部に位置するため、周辺諸国にとって貴重な海運ルートを提供している。ブルガリア、ルーマニア、ウクライナ、ジョージアにとっては唯一の海洋であり、またロシアにとっても黒海沿岸は不凍港として、また南部の玄関口として、非常に重要である。
 
 
 
ソビエト連邦崩壊以降、東のカスピ海沿岸地域での石油開発が盛んになったため、カスピ海から最も近い外洋である黒海への石油積み出しが盛んに行われるようになった。カスピ海からの石油[[パイプライン輸送|パイプライン]]は従来すべて北のロシア方面へと走っていたものの、カスピ海の石油産出が増加するにつれ黒海沿岸へのパイプライン建設の必要性が叫ばれるようになり、まず[[1997年]]、それまで「ノヴォロシースクからバクーへと」走っていたパイプラインを改修し、「バクーからノヴォロシースクへ」走るパイプラインが建設された。ついで[[1999年]]、、バクーから黒海沿岸のジョージア・スプサ港へのパイプラインが建設された。このルートは陸上距離が短く、建設・輸送コストが抑えられるうえロシアを経由しないため利用価値は高かったが、パイプラインとしては小規模なものだった。ついで、[[2001年]]には[[カザフスタン]]の[[テンギス油田]]からのCPCパイプラインがノヴォロシースクまで建設され、黒海は重要な石油輸出ルートとなった<ref>「カスピ海エネルギー 資源をめぐる攻防」p23(ユーラシア・ブックレット120)輪島実樹 東洋書店 2008年2月20日第1刷発行</ref>。
 
 
 
しかし、黒海と地中海を結ぶボスポラス・ダーダネルス両海峡は非常に幅が狭く、石油輸出船の急増により船舶通航量は限界に達しつつあった。[[2004年]]にはトルコが両海峡のタンカー通行規制を強化し、その結果タンカーが黒海にて滞留する事態となった<ref>「カスピ海エネルギー 資源をめぐる攻防」p42-43(ユーラシア・ブックレット120)輪島実樹 東洋書店 2008年2月20日第1刷発行</ref>。このため、黒海を通らない石油ルートがふたたび模索され、[[2006年]]にはバクーからジョージア内陸部・トルコ東部を通り、トルコ領南東部にあって地中海に面する[[ジェイハン]]港へと直接抜ける[[バクー・トビリシ・ジェイハンパイプライン]](BTCパイプライン)が開通し、これにより黒海の石油輸出に占める重要性は死活的なものではなくなった。
 
 
 
== 観光 ==
 
[[File:Amasra, Bartın, Turkey.jpg|thumb|トルコの[[バルトゥン県]]の港町のアマスラ]]
 
[[File:Здание санатория «Орджоникидзе» (Сочи, курортный пр.)102.jpg|thumb|ロシアの都市の[[ソチ]]にあるオルジョニキーゼ・ヘルス・リゾート]]
 
[[File:Widok na Jałtę ze statku 06.JPG|thumb|クリミアの都市の一つの[[ヤルタ]]]]
 
黒海沿岸全域は温暖な気候であり、北岸のクリミア半島や[[コーカサス]]地方などはロシア国内でも最も過ごしやすい気候であることからロシア帝国時代から[[リゾート]]としての開発が進められ、特にソヴィエト時代は他国への渡航が難しかったこともあって急速に開発が進んだ。
 
 
 
とくに観光の中心となっているのは、クリミア半島最南端の[[サールィチ岬]]から東に延びる海岸であり、[[クリミア山脈]]との間の狭い平地に、フォロス、アルーブカ、[[ヤルタ]]、フルズフ、アルーシュタ、スダーク、[[フェオドシヤ]]といった海水浴場・リゾート地が連なっている<ref>「ベラン世界地理体系8 ロシア・中央アジア」p174 田辺裕・竹内信夫監訳 朝倉書店 2011年6月20日初版第1刷</ref>。この海岸はかつてロシアのリビエラともコート・ダジュールとも呼ばれていた。
 
 
 
特に大きなリゾート地であった[[ヤルタ]](現ウクライナ領)では、[[1945年]]に[[ヤルタ会談]]が行われ、第二次世界大戦後の世界の枠組みが決められた。ヤルタの西に位置するフォロスには、ソヴィエト連邦最後の指導者であった[[ミハイル・ゴルバチョフ]]の別荘があり、[[1991年]][[8月19日]]、ゴルバチョフがここを訪れていた際に[[ソ連8月クーデター]]が勃発し、クーデター終結までゴルバチョフはその別荘に軟禁されていた。
 
 
 
この地域と並ぶもう一つの観光中心は、ケルチ海峡をはさんで東側にあり、コーカサス山脈の南に細長く伸びる海岸地域である。北から[[アナパ]]、[[トゥアプセ]]、[[ソチ]]、[[ガグラ]]、ピツンダ、[[スフミ]]といったリゾート地が続いているが、ソ連崩壊後はソチまではロシア領、ガグラとピツンダ、スフミはジョージア内の[[アブハジア]]共和国領となっている<ref>「ベラン世界地理体系8 ロシア・中央アジア」p107 田辺裕・竹内信夫監訳 朝倉書店 2011年6月20日初版第1刷</ref>。このため、アブハジア領内のリゾート、とくにガグラはアブハジア戦争によって大打撃を受け、いまだ観光業は立ち直ったとは言えない。いっぽう、ロシア領のリゾートは再び大観光地としての地位を取り戻し、中でもヤルタと並ぶ大リゾート地であるソチでは、[[2014年]]にロシア帝国・ソヴィエト連邦時代を通しても初のロシアで行われる[[冬季オリンピック]]である[[ソチオリンピック]]が開催された。
 
 
 
このほかにも、ロシアやルーマニア、ブルガリア、ジョージア領内には多くのビーチリゾートが存在する。ブルガリアでは[[世界遺産]]でもある[[ネセバル]]や、ヴァルナの[[プリモルスキ]]にあるゴールデン・サンズなどが著名なリゾート地である。
 
 
 
== 地質と海底地形 ==
 
黒海の成因は[[白亜紀]]の[[火山弧]]が分離したことと新旧[[テーチス海]]の沈降によるところが大きいが、それらの時期については議論がある<ref>{{cite journal
 
|pmid = 16057188
 
|year = 1970
 
|last1 = McKenzie
 
|first1 = DP
 
|title = Plate tectonics of the Mediterranean region
 
|volume = 226
 
|issue = 5242
 
|pages = 239–43
 
|doi = 10.1038/226239a0
 
|journal = Nature
 
|bibcode = 1970Natur.226..239M
 
}}</ref><ref>{{cite journal
 
|author = McClusky, S., S. Balassanian, ''et al.''
 
|year = 2000
 
|title = Global Positioning System constraints on plate kinematics and dynamics in the eastern Mediterranean and Caucasus
 
|journal = [[Journal of Geophysical Research]]
 
|volume = 105
 
|issue = B3
 
|pages = 5695–5719
 
|url = http://www.ipgp.fr/~armijo/paraseminario/McClusky2000.pdf
 
|bibcode = 2000JGR...105.5695M
 
|doi = 10.1029/1999JB900351
 
}}</ref>。形成初期から圧縮力が働き盆地として沈降したが、[[火山活動]]と[[造山運動]]も無数に生じ、コーカサス、クリミア、バルカンなどの山地が形成された<ref name="ReferenceA">{{cite journal
 
|doi = 10.1016/j.epsl.2007.10.033
 
|title = Cenozoic evolution of the eastern Black Sea: A test of depth-dependent stretching models
 
|year = 2008
 
|last1 = Shillington
 
|first1 = Donna J.
 
|last2 = White
 
|first2 = Nicky
 
|last3 = Minshull
 
|first3 = Timothy A.
 
|last4 = Edwards
 
|first4 = Glyn R.H.
 
|last5 = Jones
 
|first5 = Stephen M.
 
|last6 = Edwards
 
|first6 = Rosemary A.
 
|last7 = Scott
 
|first7 = Caroline L.
 
|journal = Earth and Planetary Science Letters
 
|volume = 265
 
|issue = 3–4
 
|pages = 360–378
 
|bibcode = 2008E&PSL.265..360S
 
}}</ref>。
 
 
 
現在も続く[[アフリカプレート]]と[[ユーラシアプレート]]の衝突と、北および東アナトリア断層に沿ってアナトリア地塊が西へ動くことが、黒海を沈降させアナトリア地域で火山が活発化する原因である<ref>{{cite journal
 
|doi=10.1016/S0037-0738(02)00286-5
 
|bibcode = 2003SedG..156..149N
 
|title = The Black Sea basin: tectonic history and Neogene–Quaternary rapid subsidence modelling
 
|year = 2003
 
|last1 = Nikishin
 
|first1 = A
 
|journal = Sedimentary Geology
 
|volume = 156
 
|pages = 149–168
 
}}</ref>。これら地質メカニズムが長期にわたって黒海を他の[[海洋]]から隔離したと言える。今の海底地形の特徴としてクリミア半島から南に延びる盛り上がった部分が作る浅い陸棚があり、190kmの広がりを見せる。黒海の中央部は嫌気性の深海平原で最大水深は[[ヤルタ]]の南で2,212mになる<ref>{{cite book
 
|title = Remote Sensing of the European Seas
 
|year = 2008
 
|isbn = 1-4020-6771-2
 
|url = http://books.google.com/books?id=9B3D5-HBTzkC&pg=PA17
 
|page = 17
 
}}</ref>。
 
 
 
== 関連書籍 ==
 
* {{Cite book|和書|author=チャールズ・キング|authorlink=チャールズ・キング|date=2017-4|title=黒海の歴史||publisher=[[明石書店]]|isbn=4750344744|ref={{Harvid|キング|2017}}}}<!-- Charles King"The Black Sea: A History", Oxford University Press, 2004。-->
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commons|Black Sea}}
 
*[[黒海経済協力機構]] (BSEC)
 
*[[黒海太]]([[大相撲]]力士)
 
*[[黒海艦隊]]
 
*[[黒海洪水説]]
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{reflist}}
 
  
 
{{海}}
 
{{海}}
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+
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[[Category:黒海|*]]
 
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[[Category:地中海の海域]]

2018/10/26/ (金) 23:31時点における最新版

Black Sea map.png
黒海
座標 東経35度北緯44度 東経35度44; 35
種類 内海
主な流入 ドナウ川ドニエプル川リオニ川南ブーフ川クズルウルマク川ドニエストル川
主な流出 ボスポラス海峡
ブルガリアルーマニアウクライナロシアジョージアトルコ
最長 1,175 km (730 mi)
水面積 436,402 km2 (168,500 sq mi)
平均水深 1,253 m (4,111 ft)
最深部 2,212 m (7,257 ft)
水量 547,000 km3 (131,200 cu mi)
10以上

黒海(こっかい)

南東ヨーロッパと西アジアの間に位置する内海。ロシア語ではチョルノエモーレ Chernoye More,トルコ語ではカラデニズ Karadeniz。古代ギリシア語ではポントスエウクセイノス Pontos Euxeinosと呼ばれた。地中海付属海で,ボスポラス海峡マルマラ海ダーダネルス海峡を経て地中海とつながり,ウクライナ,ロシア,ジョージア(グルジア),トルコ,ブルガリア,ルーマニアに囲まれる。面積 42万3000km2ケルチ海峡で結ばれる北のアゾフ海を含めると約 47万km2。平均水深 1197m。北部,西部には広大な大陸棚が発達,南に向かって深くなり,2210mに達する最深部は南岸に近い中央部にある。表層部の平均水温は冬季で 6℃,夏季 26℃。塩分濃度は外洋の約半分程度で,表層で 17‰,深部で 22.3‰であるが,マルマラ海の水が流入するボスポラス海峡付近では 38‰になる。沿岸には保養地が多く,ニシン,チョウザメなどが漁獲される。古代から東西貿易の中継地にあたり,前8世紀からは沿岸各地にギリシアの植民市が建設された。ビザンチン帝国時代にはササン朝ペルシアやキエフ諸公(キエフ公国)の抗争の舞台となり,14世紀頃からオスマン帝国が進出,トルコ領内の海と化した。18~19世紀になると数次にわたる露土戦争によって,トルコの独占権はしだいにせばめられ,1912年の第1次バルカン戦争(バルカン戦争)後,沿岸諸国の関係がほぼ今日のかたちをとるにいたった。沿岸主要港はウクライナのオデッサ,ロシアのノボロシースク,トルコのシノップ,ブルガリアのバルナ,ルーマニアのコンスタンツァなど。




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