バルカン戦争

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(バルカンせんそう Balkan Wars)

1912~13年にかけて,マケドニアその他の領有をめぐってバルカン諸国に2次にわたって起った戦争。

(1) 第1次バルカン戦争  1908年の青年トルコ革命以来,オスマン帝国再建運動を恐れたブルガリア,セルビア,ギリシア,モンテネグロの4ヵ国は 12年3~9月まで次々と軍事同盟を結び,いわゆるバルカン同盟を形成して,同年 10月オスマン帝国に対し宣戦。バルカン同盟が 71万の兵を動員したのに対し,ほかにも外患をかかえた帝国側は32万しか動員できず,たちまち勝敗が明らかになった。 13年1月にいったん交渉がまとまったが,オスマン帝国でクーデターが起り,新政府が屈辱的な講和をはねつけ,2月に戦闘が再開された。しかし結局帝国側の敗北が決定的となり,5月にロンドンで講和条約が結ばれた。これによってオスマン帝国はバルカン半島,エーゲ海,地中海の領土の大半を同盟側に譲渡し,アルバニアの地位を列強の決定にゆだねた。

(2) 第2次バルカン戦争 第1次バルカン戦争でかちとったオスマン帝国領の分配をめぐって,ブルガリアその他の諸国が対立し,13年6~7月にかけて,ギリシア,セルビア,モンテネグロ,ルーマニア,オスマン帝国の5ヵ国がブルガリアと戦い,ブルガリアが敗れた。なお同年8月のブカレスト条約によってブルガリアは先の戦勝の成果を失ったばかりでなく,新たに南ドブルジャ地方をルーマニアに割譲しなければならなかった。セルビアは北・中マケドニア,ギリシアは南マケドニアとその海岸地帯を得,オスマン帝国も第1次バルカン戦争で失った東トラキア地方の一部を回復。しかし2度のバルカン戦争の結果は,敗戦国であるオスマン帝国,ブルガリアのみならず,戦勝国のギリシア,セルビア,モンテネグロ,ルーマニアも満足させることができず,第1次世界大戦の直接の原因となった。