金九
金九 | |
---|---|
各種表記 | |
ハングル: | 김구 |
漢字: | 金九 |
発音: | キム・グ |
日本語読み: | きん きゅう |
ローマ字: |
Gim Gu(2000年式) Kim Ku(MR式) |
英語表記: | Kim Koo |
金 九(日本語読み: きん きゅう[1]、朝鮮語読み: キム・グ、김구、1876年7月11日 - 1949年6月26日)は、朝鮮の民族主義者、韓国の政治家、韓国独立党党首。韓人愛国団を率い大韓民国臨時政府主席を務め、1962年、建国勲章大韓民国勲章を追叙された。
本名は金昌洙(김창수、キム・チャンス)、改名して金亀のちに金九(김구、キム・グ)、幼名は昌巖(창암、チャンアム)、字(あざな)は蓮上(연상、ヨンサン)、号は蓮下(연하、ヨンハまたはヨナ)のちに白凡(백범、ペクポム)、法名は円宗(원종、ウォンジョン)、還俗して斗来(두래、トゥレ)[2][3]。本貫は、安東金氏。洗礼名ペトロを持つカトリック教徒でもある。
1919年以来、上海で臨時政府に参加し、大韓民国臨時政府の警察本部長、内務大臣、大統領代理、国務領(大統領)などを務めた。1924年、満州の朴喜光と通じ親日派暗殺、主要公館破壊などを指揮し、韓人愛国団を組織して李奉昌の桜田門事件、尹奉吉の上海天長節爆弾事件を指示した。1940年から1947年まで大韓民国臨時政府の主席であったが、李承晩と対立して1949年6月26日に暗殺された。
ハンファグループから離脱した金昊淵ピングレ会長は孫の夫であり、金九財団を設立してハーバード大学に金九フォーラムを開設したり、ブラウン大学に金九図書館を設置するなど、各種奨学・学術支援事業などを行っている。
Contents
生涯
- 1876年 - 黄海道海州に産まれる。先祖は朝鮮時代中期の領議政金自点である。
- 1896年 - 鴟河浦事件。食事を注文した時に女給が自分より先に食膳を与えるのを見て憤慨し[4]、閔妃殺害にはなんら関係がない日本人の土田譲亮を日帝・日本人への懲罰として殺害した。金九は後に土田のことを日本陸軍中尉と記しているが、被害者の土田は長崎県出身(貿易商・大久保機一が雇用)の商人であった。殺害後金品を奪って逃走、捕縛され、強盗殺人犯として死刑判決を受けた。後に特赦により減刑され、さらにのち、脱獄する[5][6]。
- 1899年 - 黄海道各地に学校設立運動などを行う。
- 1919年
- 1921年 - ソ連の政治資金が臨時政府に上納されていないという理由で、青年たちに韓国人の共産主義者たちの暗殺を指示する。
- 1922年10月 - 上海で呂運亨、李裕弼、孫貞道などと一緒に韓国労労兵会を組織する。
- 1922年11月 - 金九が刺客として放った呉冕稙と盧鍾均により韓国人の共産主義者・金立が上海で狙撃殺害される。
- 1930年 - 韓国独立党結党。
- 1931年10月 - 韓人愛国党を組織する。
- 1932年 - 韓人愛国団の李奉昌が昭和天皇暗殺を狙った桜田門事件、尹奉吉による上海天長節爆弾事件などのテロを指令する。
- 1940年 - 重慶に脱出し、大韓民国臨時政府主席に就任、韓国光復軍を組織して蒋介石の中国国民党政府之元でに抗日活動を行う。
- 1941年12月9日 - 大韓民国臨時政府主席金九と、外務部長趙素昻の署名で対日宣戦布告[7]。しかし、布告文書は日本政府に通達されておらず、連合国からも相手のされなかったため全く実効性はなかった。主として武装闘争・本国工作活動によって独立を目指した。
- 1945年
- 1946年2月8日 - 李承晩率いる独立促成中央協議会と統合し、大韓独立促成国民会を結成、副総裁に就任。
- 1947年12月 - 韓民党の党首・張徳秀を暗殺した疑いで米軍の法廷に召喚される。
- 1948年
- 1949年
- 6月 - 自宅で安斗煕によって暗殺される。
- 7月 - 国民葬
光復後(独立後)
1945年の日本の降伏(光復)後、日本領朝鮮を占領した連合国(アメリカ・ソ連)は軍政を敷き、大韓民国臨時政府を朝鮮の正式な亡命政府として承認しなかった。そのため、臨時政府最後の指導者であった金九が独立した大韓民国の初代大統領になることはなかったが、独立運動の実績からアメリカ軍軍政庁統治下の南朝鮮において有力な政治家の一人であり続けた。
冷戦激化の影響から朝鮮はソ連占領下の北朝鮮とアメリカ占領下の南朝鮮とで分裂が深まり、アメリカ政府は自国軍の軍政下にある南朝鮮だけで独立政府を樹立する方針で動き始めた。そのような中、アメリカ軍軍政庁は南朝鮮単独で国会議員の選出総選挙を準備し始めるが、金九は南朝鮮だけでの単独選挙実施に反対し、あくまで南北統一を進めるべきという立場から活動した。この活動は北側主導の統一を企図する金日成の北朝鮮人民委員会側からも歓迎されず、また反共姿勢を優先する李承晩らとの確執を深め、李承晩の最大の政敵とみなされた。
1949年6月、金は面会と称してソウル郊外の自宅を訪れた33歳の韓国陸軍砲兵少尉(当時)だった安斗煕(アン・ドゥフィ)に短銃で射殺された。安は極右・反共団体の西北青年会の元会員で、思想的には李承晩に近しい人物であった[10]。
安は現場で逮捕され無期懲役の判決を受けるが、1年後には特赦されて韓国軍に復帰し李承晩の庇護のもと中領(中佐)にまで昇進した。1992年、金九の暗殺は李承晩の部下の金昌龍の指示であったとする証言を出版したが、1996年、金九に私淑する朴琦緖によって自宅で殺害された。2001年9月には韓国で安が駐韓アメリカ軍防諜隊 (CIC) 要員であったという報道がなされた[11]。
評価
肯定的評価
抗日独立活動が長期に渡ったことや右翼でありながら反共よりも統一志向に基づく活動をつづけたことに加えて、独立後早くに暗殺されたことも関係してか、南北朝鮮・左右両翼から比較的尊敬されている人物として稀有な存在となっている。韓国のソウルには金九の業績を讃える白凡金九記念館が存在する。
盧武鉉も尊敬する人物として金九のことを毛沢東、リンカーンとともに挙げている。
1999年、自自公連立政権の自由党党首の小沢一郎が金九の墓を訪れ祈りを奉げている[12]。
否定的評価
軍事評論家の予備役大佐である池萬元社会発展システム研究所長は「金九は現代版に解釈すればウサマ・ビンラディンのような人間。国を経営できる人間ではない。実力が足りないながらも李承晩に嫉妬した人間」と評論している[13]。2004年7月27日、ジャーナリストの金完燮も「偏狭な儒教思想に凝り固まった無知蒙昧な人物」「金九については生まれつきの殺人鬼だと思わずにはいられない」と評論して、ソウル高等検察庁に起訴された[14]。
独立運動・その他の殺人疑惑
金立の殺人疑惑
1922年初め、上海臨時政府は、「レーニンが送信独立運動の資金を流用した」と金立を糾弾した。金九の手下の呉冕稙、盧鍾均が1922年2月11日に、上海で金立を射殺した[15]。
金九は著書白凡逸志で金立がレーニンから支給された金銭で、「北間島自分の家族のために土地を購入し、共産主義者と呼ばれる韓国人、中国人、インド人にいくらずつ支給した。グロゴソ自分は上海に密かに潜伏して広東省の女性を妾に三官能であった[15]」と主張した。
韓国外国語大学のバンビョンリュル教授の研究によると、金立の「横領行為」が、実際にというよりは、静的に流布した風評だった。レーニン政府の風通り金立とその仲間たちが3回にわたり数万ルーブルの資金を韓国人社会党に困難運搬してくれた・中・日左派革命家たちの事業費として使うようにしたが、その資金が金九等臨時政府の右派指導者の手に入らなかったことが裏目に出たとする。[15]朴露子はこれに対して「同族テロ」と批判した[15]。ノルウェーのオスロ大学韓国学教授朴露子によると、この暗殺を「正当な報復」に描かれた「白凡かも>の権威が絶対だから金立が「応分の対価を受けた」は、通説を疑われたこれら今までほとんどなかったである[15]。金九は自分の著書、白凡かもで金立が贅沢、享楽をして広東省の帖を買って楽しんだとしたが、金立がチュクチョプをしたという根拠は現れていない。
日本人商人殺人事件
金九は自分の著書、白凡かもから土田讓亮を日本軍の士官と記述したが、引き続き民間人という疑惑が提起されてきた。また、当時の日本の記録や朝鮮の記録でも土田讓亮が軍人という内容はない。
1997年昌原大学教授ドジンスンは自分が見つけた日本外務省の資料によると、土田組スケは桂林ジャンオプ団所属の商人だったと主張した[16]。韓国の記者であり、前職国会議員ソンセイルも自分の著書李承晩と金九新版で土田という名前のその日本人は対馬出身の民間人に過ぎなかったという意見を表明した。
その他
そのほか金九は金性洙の暗殺を企てしようとして失敗しており、これ米国軍政の諜報に入手された[17]。
肖像
紙幣
韓国銀行は2007年12月に2009年から流通を開始する100,000ウォン紙幣(最高額面)に、表に金九の肖像と1945年11月3日に大韓民国臨時政府の要人らと中華民国の重慶で撮影した記念写真など配したデザインを採用すると発表[18]した。ただし2009年1月に発行計画は中止された。これは従来よりも10倍の高額紙幣を発行することに批判があったこともあるが、デザインにあった大東輿地図の木版にはない竹島(韓国名・独島)を竹島が入っている筆写版と掛接ぎて入れていたこと、何よりも金九が南北統一政府の樹立を主張していたことから、保守系の李明博現政権が問題視し、見送られたとの指摘もある[19]。
切手
韓国の普通切手のデザインとして1986年に450ウォン切手、1988年に550ウォン切手に肖像が登場している。また、1993年に北朝鮮からも「祖国統一賞受賞者」の6種の記念切手に金九の肖像が登場している。
著書
脚注
- ↑ 大塚嘉郎 「きんきゅう 金九 … 1876-1949」 (下中直人編集発行『世界大百科事典 (7)』、平凡社、1988年初版、2004年版、560頁)
- ↑ 김구 Daum 백과사전(百科事典)(韓国語) 2011年9月10日閲覧。
- ↑ 『土田譲亮撃殺の件 取調べ調書』
- ↑
長崎縣平民土田譲亮なる者朝鮮人1名(平安道龍岡居住林学吉二十歳)を隨へ、黄州より帰仁の為め鎮南浦へ向ふの途次、黄州十二浦より韓船一隻を僦ひ大同江を下り、3月8日夜治下浦に泊し、翌9日午前3時頃同所出帆の用意を了へ、喫飯の為め同所旅宿業李化甫方に到り再び帰船の際、同家の庭前に於て同家宿泊韓人4、5名の為め打殺せられたり。
—アジア歴史資料センターレファレンスコード:A04010024500、『在仁川領事館事務代理萩原守一ヨリ仁川港ノ情況ニ付続報ノ件』雇韓人林も亦殺害の難に遭はんとせしも、辛ふじて危険を逃れ、同12日夜平壌に来り同所駐留平原警部に右の顛末を訴へたるを以て、同警部は巡査2名、巡検5名を率ひて同15日現場に臨み検視を行はんとせしに、右旅宿主人は警部等の到を聞きて逃走し、殺害者の屍体は既に河中に投棄したるを以て検死することを得ず。
—アジア歴史資料センターレファレンスコード:A04010024500、『在仁川領事館事務代理萩原守一ヨリ仁川港ノ情況ニ付続報ノ件』 - ↑
倭奴(ウェノム)の頭から足の先まであちこちを切りつけた。二月の寒い明けがたのことで、氷が張っていた地面に、血が泉の湧くように流れた。わたしは手でその血を掬って飲み、またその倭(ウェ)の血をわたしの顔に塗り付け…
—金九、『白凡逸志』日本語版 平凡社(1973年)79ページ - ↑ [1]
- ↑ 今日の歴史(3月8日) 聯合ニュース 2009/03/08
- ↑ 今日の歴史(3月12日) 聯合ニュース 2009/03/12
- ↑ “西北青年団”再建の波紋、極右団体の復活に知性はどう対処すべきか(ハンギョレ 2014年9月29日)
- ↑ 民族時報 第955 (01.09.21) では、その可能性を否定しない資料という程度の記述である。以下の記事を参照。 白凡人・金九暗殺者「安斗熙はCIC要員」 米公文書を発見「金九先生暗殺犯の安斗熙は米軍のスパイ」(朝鮮日報 2001年9月4日)
- ↑ 【Japan’s Election】 Japan's Democratic Party foreign policy platform prioritizes Korean peninsula Hankyoreh Aug. 31, 2009
- ↑ 「一部政治家の越権」親日法を痛烈批判の軍事評論家 朝鮮日報 2004/08/10
- ↑ 親日作家を在宅起訴 名誉毀損容疑 朝鮮日報 2004/07/27
- ↑ 15.0 15.1 15.2 15.3 15.4 ‘정당한 폭력’은 정당한가 한겨레 21 2007년04월12일 제655호
- ↑ 경향신문 1997년 8월 13일자, 19면
- ↑ 서중석, 《한국현대민족운동연구:해방후 민족국가 건설운동과 통일전선》 (역사비평사, 1991) 535
- ↑ 10万ウォン・5万ウォン紙幣の背景画原案が決定 朝鮮日報 2007年12月7日配信 2008年8月23日確認
- ↑ 韓国、10万ウォン札の発行中止 肖像や図案が原因? asahi.com 2009年1月22日配信、2009年3月2日配信
関連項目
外部リンク
先代: 李東寧 |
25px 大韓民国臨時政府主席 1940年 3月 - 1947年 7月23日 |
次代: 李承晩 |
先代: 洪震 |
25px 大韓民国臨時政府首相 1927年 12月8日 - 1928年 3月 |
次代: (梁起鐸) |
先代: 盧伯麟 |
25px 大韓民国臨時政府首相代理 1923年 4月9日 - 1924年 4月23日 |
次代: 李東寧 |