張俊河

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張俊河
各種表記
ハングル 장준하
漢字 張俊河
発音: チャン・ジュナ
ローマ字 Jang Joon-ha
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張 俊河(장준하, チャン・ジュナ、1918年8月27日1975年8月17日)は、大韓民国政治家、官僚、ジャーナリスト、独立運動家、社会運動家実業家。雑誌『思想界』を創刊し、朴正煕政権下での言論面での抵抗に寄与した。日本名張安俊河[1]

人物

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張俊河の母校東洋大学のキャンパス

日本統治時代の朝鮮平安北道義州に牧師の長男として生まれる。父親が独立運動に関わっていたことから各地を転々とし、中学卒業後に日本へ留学。東洋大学予科を経て、長老派神学校を卒業する。1944年1月に学徒出陣によって日本軍に入隊、創氏改名では「張安俊河」と名乗る。[2]中国戦線に参加したが同年7月に脱走。国民政府軍へ入隊して準士官に任じられ、1945年1月には重慶に赴いて、大韓民国臨時政府光復軍に加わり金九の秘書となった。

第二次大戦終結後の12月に帰国。この直前に西安で朴正煕と初めて邂逅し、日本軍の規律を光復軍に押し付けようとした朴と衝突している(張の秘書だった李轍雨の証言)。一時は金九と李承晩の提携に動くも成功せず、大韓民国政府樹立後の1947年李範が設立した朝鮮民族青年団の教務処長に就任。だが間もなく職を辞し、1950年3月教育部国民精神啓発担当官となり、1952年には教育部傘下の思想研究院に移り企画課長。その後は書務課長・事務局長を務め、朝鮮戦争後の1953年4月に思想研究院を辞し、雑誌『思想界』を創刊、ジャーナリストとしての活動を始めた。

李承晩政権が独裁的な色彩を濃くしていくと『思想界』も政権批判の色を濃くし、1958年には掲載記事をめぐって一時拘束を受けた。1960年四月革命李承晩政権が倒れると、張勉首相によって国土建設団企画部長ついで国土建設団長となる。その傍ら、ユネスコ韓国委員会の中央執行委員にも選出され、ユネスコ広報分科委員長も務めている。

5・16軍事クーデターでは『思想界』で「ピークに達した国政の混乱、慢性化した腐敗、麻痺状態に陥った社会的規律など、未曾有の危機から民族的活路を打開するための最後の手段」と一旦は支持する声明を掲載したものの、その後の軍政永続化・朴正煕政権の独裁化から批判に転じる。1965年日韓基本条約締結の際は、反対運動の中心的人物として活動し、1967年からは新民党の国会議員として政治活動も開始した。

1970年には『思想界』の5月号に金芝河の詩「五賊」を掲載し、これが原因で『思想界』は強制的に廃刊となる。1972年十月維新以降は、民主化運動に身を投じる様になり、1973年には「改憲請願百万人署名運動」を行い9回にも渡って投獄、1974年4月の民青学連事件では緊急措置1号違反の容疑で、懲役15年を宣告されたものの同年12月に体調不良により刑の執行が停止され、釈放される。

釈放後は、以前にも増して精力的に民主化運動に尽力したが、1975年8月17日京畿道抱川の薬師峰で登山をしている最中に、謎の死を遂げた。遺体は、の後ろにピッケルが打ち込まれたような大きな傷があり、高い絶壁から墜落した形で発見され、他殺説が浮上したが、警察は転落死と発表した。遺体は京畿道坡州のナザレ公園に埋葬され、1991年大韓民国建国勲章愛国章(勲四等)を追贈されている。

2013年1月10日、張俊河の息子が求めていた再審請求に基づいて緊急措置1号違反事件についての再審開始が決定。同月24日にソウル地方法院で行われた再審公判で緊急措置1号は違憲・無効であるとして無罪を言い渡された[3]

著書

  • 民族主義者の道

評価

李承晩・朴正煕の両独裁政権下において言論活動での抵抗の場を作り、その自由な社会を創り上げようとする姿勢は内外でも評価され、1962年に韓国人としては初めてマグサイサイ賞を授与されている。だが一方で、李承晩政権下では言論統制に関わる部署にいた上、5・16軍事クーデターも当初は支持する姿勢を見せるなど、その余りに政治的な姿勢には「腐敗した言論人」という批判も少なくない。

関連項目

脚注

外部リンク


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