佐竹義宣 (右京大夫)
佐竹 義宣 | |
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 元亀元年7月16日(1570年8月17日) |
死没 | 寛永10年1月25日(1633年3月5日) |
主君 | 豊臣秀吉、秀頼→徳川家康、秀忠 |
藩 | 出羽久保田藩主 |
氏族 | 佐竹氏(清和源氏義光流) |
佐竹 義宣(さたけ よしのぶ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将・大名。佐竹氏19代当主。出羽久保田藩(秋田藩)の初代藩主。佐竹義重の長男。母は伊達晴宗の娘。伊達政宗は母方の従兄にあたる[1]。
Contents
生涯
幼少期
義宣は、元亀元年(1570年)7月16日、太田城に生まれた[1]。義宣が誕生したころ、父・義重は、那須氏を攻めていたが、元亀3年(1572年)、那須氏と和睦した。この和睦は、那須氏当主・那須資胤の娘を義宣の妻に迎えること等が条件となっていた。当時、義宣は3歳であった[2]。天正13年(1585年)4月に佐竹氏が宇都宮氏と共に壬生氏を攻めた際に初陣を行ったと伝えられているが、当時の壬生氏は佐竹氏の傘下で、同年の暮れに北条氏に寝返っていることから、実際の戦いは翌年である天正14年(1586年)4月のことで、義宣の初陣もこの時と考えられている[3]。
家督相続と小田原征伐
天正14年(1586年)から天正18年(1590年)の間に、義宣は、父・義重の隠居によって家督を相続した[4][5]。
このころの佐竹氏は、天正12年(1584年)に後北条氏と和議を結んで南方を抑えていたが[6]、北方では伊達政宗に黒川城(弟・蘆名義広が城主となっていた)を陥落させられ、南奥州の基盤を失う事態に陥っていた[7]。
佐竹氏は、伊達氏と対立する傍ら、豊臣秀吉と音信を通じ[8]、石田三成及び上杉景勝と親交を結んでいた[1]。
こうした状況下において、義宣は、天正17年(1589年)11月28日、秀吉から、小田原征伐への出陣命令を受けた。しかし、義宣は南郷において伊達政宗と対峙している最中であったため、直ちに命令に従うことはできなかった[9]。
義宣は、秀吉自らが京を出立したという知らせを受けて、宇都宮国綱に対応を相談した上で、天正18年(1590年)5月、宇都宮国綱ら与力大名を含めた1万余の軍勢を率いて小田原へ向かった[9]。 義宣は、北条方の城を落としつつ小田原へ進軍し、天正18年(1590年)5月27日、秀吉に謁見して臣下の礼をとった[9]。
秀吉のもとに参陣した義宣は、天正18年(1590年)6月、石田三成指揮の下、忍城を攻めた。義宣は、忍城水攻めの際の堤防構築に従事した[10]。
常陸の掌握
小田原の役後、義宣は、かねて伊達政宗と争奪戦を繰り広げていた南奥羽(滑津、赤館及び南郷)について、秀吉から知行として認められ、奥州仕置の後、本領である常陸国(結城氏領を除く)及び下野国の一部、計21万貫余(35万石余)を知行として安堵する旨の朱印状を与えられた[11]。
- 天正18年(1590年)8月1日、に秀吉から安堵された常陸及び下野の一部の領地21万6,758貫文(25万5,800石)は下記の通り宛知行された。
- 佐竹氏と与力家来分の比率は50.2対49.8となっており、領主権力としては貧弱であった。これらの領地や家来には、秀吉に服従せずに独立を認められなかった勢力が佐竹氏の配下として編入された分が含まれ、家臣化は不十分であった。以後、義宣は秀吉の権威を背景に江戸氏・常陸南部に割拠する大掾氏配下の国人たち(いわゆる南方三十三館、主として鹿行両郡の塚原氏・行方氏・卜部氏・麻生氏・鹿島氏など万石未満の土豪)を討伐するなど領主権力の強化を進めることとなる[12]。
これにより、佐竹氏は徳川氏や前田氏、島津氏、毛利氏、上杉氏と並んで豊臣政権の六大将[13]と呼ばれたという[14]。
また、義宣は、天正18年(1590年)12月23日、秀吉の執奏によって従四位下の位を賜り、侍従・右京大夫に補任され[15]、天正19年(1591年)1月2日には、秀吉から羽柴姓を与えられた[16]。
義宣は、朱印状による所領安堵の直後から、常陸国全域に支配を及ぼすことを企図し、まずは、居城を太田城から水戸城へ移すこととした。当時の水戸城主は、小田原征伐の際に参陣しなかった江戸重通であった[17]。義宣は上洛中であったので、水戸城攻略は父・義重が行い、天正18年(1590年)12月20日、水戸城を攻め落とし、同月22日には、府中(後の石岡市)に拠る大掾清幹[18]を攻めて大掾氏を滅亡させた[19]。
天正19年(1591年)2月9日、京から帰った義宣は、鹿島郡及び行方郡に散在していた「南方三十三館」の国人衆で、まだ生き残っていた勢力を謀殺して、常陸国全域の支配権確立に成功した[19]。
天正19年(1591年)3月21日、義宣は水戸城に移り、佐竹義久に水戸城の整備拡張を命じた[20]。水戸城に本拠を移した直後の6月、豊臣政権は義宣に奥州出兵2万5,000人という非常に重い軍役を命じ、この動員は10月まで約4ヶ月間続いた[12]。
唐入りと所領安堵
天正19年(1591年)9月16日、秀吉が唐入りのため各国大名に出兵を命じ、義宣も、5,000人の出兵を命じられた。この軍役は文禄元年(1592年)1月から翌文禄2年(1593年)閏9月まで約21ヶ月間続き、当初の5,000人の軍役は途中で3,000人に軽んぜられ、「御軍役役弐千八百六十九人」と名護屋陣中より報告された[12]。
義宣は、文禄元年(1592年)1月10日、水戸を出発し、同年4月21日、名護屋城に到着した[21]。文禄2年(1593年)5月23日、義宣は朝鮮へ渡るよう命じられ、6月13日、先陣の佐竹義久が1,440人を率いて名護屋を出航した。しかし7月7日、義宣に対して渡海を見合わせるよう連絡があったので、義宣自身が朝鮮に渡ることはなかった[22]。
唐入り後、義宣は、唐入りに際して整備した軍役体制を活用して水戸城の普請を進め、文禄3年(1593年)、普請は一応の完成を見た[23]。
文禄3年(1594年)1月19日、義宣は秀吉から伏見城の普請を命じられ、伏見城竣工後、伏見城下に屋敷を与えられた[24]。この伏見城普請は3,000人役にて約10ヶ月間続いた[12]。
文禄4年(1595年)6月19日、折からの太閤検地によって諸大名の石高が確定されたことを受け、義宣は、54万石を安堵する旨の朱印状を秀吉から受領した[25]。また、義宣は、文禄4年(1595年)7月16日以降、家中の知行割りを一斉に転換し、領主と領民との伝統的な主従関係を断絶させて、佐竹宗家の統率力を強化した[26]。
- 文禄3年(1594年)に実施された太閤検地の結果、翌文禄4年に佐竹氏領国に54万5,765石という新たな石高が設定され、下記の知行割がなされた[27]。
- この結果、佐竹氏と与力家来分の比率は66対33となって領主権力が大幅に強化された一方、一門の佐竹義久が豊臣政権寄りの特殊な地位に立たされたり、豊臣蔵入地の設置により金山が掌握されるなど豊臣政権の統制も強化された[12]。
石田三成を救う
慶長2年(1597年)10月、佐竹氏の与力大名であり義宣の従兄弟である宇都宮国綱が改易された。これに伴い、佐竹氏も何らかの処分を受ける可能性があったが、従前から親交があった石田三成の取りなしによって、処分を免れた[28]。10月7日の義宣から父・義重に宛てた書状では、佐竹氏にも改易命令が出されたが三成の取りなしによって免れたことや、「上洛して一刻も早く秀吉に挨拶すべきだが、宇都宮氏改易を主導した浅野長政の検使が宇都宮領の調査に向かっているので、それに覚られないように密かに上洛するように」という三成から指示を受けたことが書かれている[29]。
慶長4年(1599年)閏3月3日、前田利家が死去したことを契機として、加藤清正、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長、黒田長政、細川忠興、池田輝政は、石田三成の屋敷を襲撃した。この知らせを受けた義宣は、三成を女輿に乗せて脱出させ、宇喜多秀家の屋敷に逃れさせた[30]。
この一連の動きについて、義宣の茶の湯の師匠でもあった古田重然(古田織部)は、徳川家康に釈明するよう勧めた。これに対し、義宣は、「三成は公命に背いたこともないのに、加藤清正らは三成を討とうとした。自分はかつて三成に恩を受けたから、三成の危急を見て命にかけて救っただけである。このことを家康に謝罪すべきというなら、御辺よきにはかられよ」と応えた[31]。これを受けて、重然は、細川忠興に取りなしを依頼した。家康は、忠興からこの話を聞き、「義宣身命にかけて旧恩に報いたのは、義と言うべきである。異存はない」と答えた[32]。
しかし、実際に義宣が三成の窮地を救ったことを裏付ける一次史料は存在しない。
関ヶ原の戦いへの対応
慶長5年(1600年)5月3日、徳川家康は会津征伐のため東国の諸大名を京都に招集した。義宣もこれに応じ、同年5月中旬、京都に到着した。同年6月6日、招集された諸大名の進撃路が発表され、義宣は仙道口を任されることとなり、水戸へ帰った[33]。
慶長5年(1600年)7月24日、小山に到着した家康は、水戸にいた義宣に使者を派遣し、上杉景勝の討伐を改めて命じた。この際、家康の使者は、人質を上洛させるよう要求したが、義宣は、会津征伐は豊臣秀頼に代わって実施されるものであり、自身は秀頼に逆らう意志はないから新たな人質を出す必要はないとしてこの要求を断った。また、家康は、佐竹氏に預けられていた花房道兼を呼び出して、義宣の動向を確認した[34]。
この時期の佐竹氏の動向は、東軍につくとも西軍につくともいえないものであった。
義宣は、慶長5年(1600年)7月19日ころ、上杉景勝との間で上杉方に与する旨の密約を交わしたようであり[35][36]、自軍の赤館以北への進軍を差し止めた[37]。密約は交わしたものの、佐竹氏内部に積極的に石田方に付こうとする空気が醸成されておらず、義宣は内部の意志統一がなされていない状態で密約を交わしてしまったとも指摘されている[38]。
8月25日、義宣は突如として水戸城へ引き上げた。義宣は家康に対し、重臣・小貫頼久を使者として派遣し、水戸城へ帰った理由を釈明させ、また、上田城に拠る真田昌幸を攻撃していた徳川秀忠への援軍として、佐竹義久に率いさせた300騎を送った[39]。
関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、義宣は、徳川家康及び秀忠に対し、戦勝祝賀の使者を派遣した。これに対する秀忠からの礼状は届いたが、家康からの礼状があったか否かは不明である[40]。
義宣は、上杉景勝が未だ伊達軍及び最上軍と対峙しているのをみて、佐竹氏に累が及ぶことを恐れ、家康に陳謝すべく伏見へ向かった。途中、神奈川で会った秀忠に対して陳謝し、伏見に到着した後、家康にあって謝罪及び家名存続の懇願をした[40]。
『徳川実記』によれば、徳川家康は、義宣のことを、「今の世に佐竹義宣ほどの律儀な者はみたことがない」「しかし、あまり律儀すぎても困る」と評したとされるが、これは会津征伐における義宣の態度を念頭に置いたものである[41]。
秋田への転封
慶長7年(1602年)3月、義宣は大阪城の豊臣秀頼と徳川家康に謁見した。その直後の同年5月8日、義宣は、家康から、国替えの命令を受けた。しかし、転封先は明らかにされず、従って、転封後の石高も不明だった。そこで、義宣は、家臣の和田昭為に宛てた書状の中で、譜代の家臣にも従前のような扶持を与えることはできないであろうことや、50石または100石取りの給人については転封先に連れて行かないことなどを述べている[42]。
5月17日、転封先が出羽国秋田郡に決定した[43]。54万石から20万石への減転封であった。ただし、佐竹氏の正式な石高が決定されたのは、佐竹義隆の代になってからである[44]。
佐竹氏の処遇決定が他の大名家と比較して大幅に遅れた理由については諸説あり、この時期になって初めて上杉氏との密約が発覚したとする説や、島津氏に対する処分を先行させることで島津氏の反乱を抑える狙いがあったとする説がある[45]。また、佐竹氏が減転封された理由としては、無傷の大兵力を温存していた佐竹氏を江戸から遠ざける狙いがあったとする説がある[46]。
秋田転封後の支配体制確立
義宣は、慶長7年(1602年)9月17日、秋田の土崎湊城に入城した[47]。義宣は、角館城、横手城及び大館城等を拠点として内政を行い、仙北地方で起こった一揆を平定して領内の安定を図った[48]。後に土崎湊城は廃されることとなり、慶長8年(1603年)5月から築城が始まった久保田城を本城とすることになった。父・義重は、横手城を本城にすべきと主張したが、義宣は、久保田城を本城にすべきと主張し、そのように決定したのである[49]。
また、義宣は、家柄や旧例にとらわれず、渋江政光、梅津憲忠、梅津政景及び須田盛秀といった旧家臣及び関東・奥州の旧大名の遺臣達を能力本位で登用し[50]、積極的に開墾を進めて家中の建て直しに尽くした。これにより、江戸中期の久保田藩の実高は45万石にも上った。しかし、浪人あがりで若手の渋江政光を重用することが譜代の老臣の反感を買い、家老の川井忠遠らによる義宣、政光の暗殺謀議も起こっている。これは逆に義宣が暗殺を企てた家臣らを粛清して決着した(川井事件)[51]。
義宣は、秋田への減転封を機に、一門及び譜代の家臣の知行を減少させ、その勢力を減殺し、当主の権力を強化して、新たな政策の実施と人材登用を可能にした[52]。
大坂の陣での活躍
慶長19年(1614年)の大坂の陣では、義宣は徳川方として参陣した。義宣は、慶長19年9月25日、参勤のため久保田城を出立していたが、その途中、同年10月7日に大阪への出陣命令を受けた。これを受けて佐竹軍は、同月15日以降、順次久保田城を出発し、江戸にいた義宣は同月24日に江戸を出発した。義宣が大阪へ到着したのは、同年11月17日である[53]。
義宣は、玉造口に陣取り、上杉景勝とともに木村重成及び後藤基次が率いる軍勢とあたった。この際、渋江政光が戦死した(今福の戦い)。今福の戦いでの勝利は戦況に大きな影響を与えたので、幕府における佐竹軍の評価は高まった。大阪の役(冬の陣)において幕府から感状を受けたのはわずか12名であったが、うち5名を佐竹家中の者が占めたことからも、そのことが分かる[54]。
世嗣
義宣の妻は、正室が正洞院(那須資胤の娘)、後室が大寿院(多賀谷重経の娘)、また側室が岩瀬御台(蘆名盛興の娘)など数人いたが、大寿院に男子が2人生まれたもののいずれも夭逝したため、世嗣たるべき実子はなかった[55]。弟・蘆名義広の長男である盛泰を養子に取ることになっていたが、盛泰は元和2年7月17日(1616年8月29日)に22歳で父に先立ち没した。そこで元和7年7月7日(1621年8月24日)、佐竹北家当主となっていた申若丸(佐竹義直、秋田転封後に生まれた義宣の末弟)を宗家へ引き上げて嫡子とした[56]。これによって北家は一旦断絶したが、後に高倉永慶へ嫁いだ妹の第2子(佐竹義隣)を継嗣として入れ再興させた。
しかし寛永3年3月21日(1626年4月17日)、義宣は義直を廃嫡した[57]。江戸城で行われた猿楽の見物中に義直が居眠りをし、義宣が伊達政宗から注意されるという失態を演じたためであるという[57]。義直は出家し、佐竹家から離縁された[58]。
義直廃嫡1ヶ月後の4月25日、大御所・徳川秀忠から、亀田藩主の岩城吉隆(義宣の弟・岩城貞隆の子)を新たな継嗣にする許可を得た[59]。親族とはいえ他藩の藩主を継嗣にするというのは大事であるが、義宣が秀忠から全幅の信頼を得ていたために可能となったものである[60]。
晩年
寛永10年(1633年)1月25日、義宣は、江戸神田屋敷で死去した。64歳であった。法名は浄光院殿傑堂天英大居士、墓所は秋田県秋田市泉三嶽根 天徳寺である[61]。
佐竹義宣を主題とする作品
- 小説
-
- 志木沢郁「佐竹義重・義宣 伊達政宗と覇を競った関東の名族」(学研M文庫、2011年)
- 北原亞以子「楓日記 窪田城異聞」(文藝春秋、2010年)
- 南原幹雄「名将 佐竹義宣」(角川文庫、2009年)
- 近衛龍春「佐竹義宣―秀吉が頼り、家康が怖れた北関東の義将」(PHP文庫、2006年)
- 土居輝雄「常羽有情」全6巻(東洋書院、1991年)
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 渡部 1980, p. 96
- ↑ 渡部 1980, p. 79.
- ↑ 竹井英文「天正十三年・十四年の下野国の政治情勢-関連資料の再検討を通じて-」(佐藤博信 編『中世東国の政治と経済 中世東国論:6』(岩田書院、2016年) ISBN 978-4-86602-980-1)P203-206
- ↑ 家督相続の時期については諸説ある。『佐竹家譜』は天正14年(月日不明)とし、『新編常陸国誌』は天正16年としているが、石田三成及び増田長盛に宛てた天正17年10月2日付けの書状では、天正17年正月に隠居したと記述されている。また、『藩翰譜』は、水戸城を攻め落とした直後の天正18年に隠居したとしている。渡部 1980, p. 91
- ↑ 垣内和孝は佐竹義宣への家督継承の原因を天正14年10月に発生した蘆名盛隆暗殺事件とみる。この時、義重は伊達輝宗と当主の不慮の死による家中への影響を恐れて自分達の隠居について歩調を合わせることを約束し、既に嫡男の政宗に政務の一部を譲っていた輝宗は同月のうちに隠居したものの、嫡男の義宣が若年であった義重はそれよりも数年遅れて隠居したとする(垣内和孝『伊達政宗と南奥の戦国時代』(吉川弘文館、2017年) ISBN 978-4-642-02938-4 P29)。
- ↑ 渡部 1980, p. 82.
- ↑ 渡部 1980, pp. 87-88.
- ↑ 渡部 1980, p. 89.
- ↑ 9.0 9.1 9.2 渡部 1980, p. 99
- ↑ 渡部 1980, p. 100.
- ↑ 渡部 1980, pp. 102-104.
- ↑ 12.0 12.1 12.2 12.3 12.4 藤木久志「豊臣期大名序説-東国大名を例として-」(『歴史学研究』287号、1964年4月)
- ↑ 表高で佐竹氏を上回る、米沢72万石のち大崎58万石の伊達氏、備前・美作など57万石の宇喜多氏は「豊臣六大将」に数えない。
- ↑ 『藩翰譜』は、佐竹氏は天下6人の大名の数に入ると記述する。渡部 1980, p. 104
- ↑ 渡部 1980, p. 106.
- ↑ 渡部 1980, p. 283.
- ↑ 渡部 1980, p. 107.
- ↑ 中根正人「戦国期常陸大掾氏の位置づけ」(『日本歴史』779号、2013年)のちに高橋修 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一六巻 常陸平氏』(戒光祥出版、2015年)に収める)によれば、大掾清幹は天正18年4月の段階で佐竹義宣に領国の事情で小田原への参陣が出来ない事を秀吉に執り成して貰えるように依頼した書状を送ったものの、義宣がこれを黙殺したとする。
- ↑ 19.0 19.1 渡部 1980, p. 109
- ↑ 渡部 1980, p. 111.
- ↑ 渡部 1980, p. 122.
- ↑ 渡部 1980, p. 117.
- ↑ 渡部 1980, p. 113.
- ↑ 渡部 1980, p. 119.
- ↑ 渡部 1980, pp. 120-121.
- ↑ 渡部 1980, p. 114, 123.
- ↑ 斉藤司「文禄期「太閤検地」に関する一考察 -文禄3年佐竹氏検地を中心に-」、『関東近世史研究』19号、1964年4月。
- ↑ 渡部 1980, pp. 124-125.
- ↑ 「佐竹文書」(『栃木県史』史料編中世三、十一号)
- ↑ 渡部 1980, p. 130.
- ↑ 渡部 1980, pp. 130-131.
- ↑ 渡部 1980, p. 131.
- ↑ 渡部 1980, p. 136.
- ↑ 渡部 1980, pp. 138-139.
- ↑ 藤井尚夫『フィールドワーク関ヶ原合戦』(朝日新聞社、1998年)
- ↑ 渡部 1980, p. 145.
- ↑ 渡部 1980, pp. 141-142.
- ↑ 森木悠介「佐竹氏と関ヶ原合戦」、谷口央編『関ヶ原合戦の深層』高志書院、2014年。
- ↑ 渡部 1980, pp. 147-148.
- ↑ 40.0 40.1 渡部 1980, p. 155
- ↑ 渡部 1980, p. 265.
- ↑ 渡部 1980, pp. 161-164.
- ↑ 渡部 1980, p. 166.
- ↑ 渡部 1980, p. 169.
- ↑ 渡部 1980, pp. 172-174.
- ↑ 渡部 1980, p. 174.
- ↑ 渡部 1980, p. 185.
- ↑ 渡部 1980, pp. 195-96.
- ↑ 渡部 1980, pp. 202-203.
- ↑ 渡部 1980, p. 197.
- ↑ 渡部 1980, p. 196.
- ↑ 渡部 1980, pp. 238-239.
- ↑ 渡部 1980, p. 252.
- ↑ 渡部 1980, pp. 253-254.
- ↑ 渡部 1992, pp. 160-171.
- ↑ 渡部 1992, p. 193.
- ↑ 57.0 57.1 渡部 1992, p. 195
- ↑ 渡部 1992, p. 197.
- ↑ 渡部 1992, p. 201.
- ↑ 渡部 1992, p. 202.
- ↑ 渡部 1980, p. 264.
参考文献
- 渡部景一 『佐竹氏物語』 無明舎出版、1980年7月。ISBN 4-89544-133-4。
- 渡部景一 『「梅津政景日記」読本』 無明舎出版、1992年5月。ISBN 978-4-89544-201-5。