カロリング朝ルネサンス
カロリング朝ルネサンスまたはカロリング・ルネサンス[1](Carolingian Renaissance, Renaissance carolingienne )とは、フランク王国(カロリング朝)のカール大帝(フランク王 768年 - 814年、西ローマ皇帝[* 1] 800年 - 814年)の頃(8世紀~9世紀)に見られる古典復興、文化の隆盛を指す言葉である。
名称
19世紀フランスの学者アンベールがカール大帝の時代の文化を「カロリング・ルネサンス」と呼んで以降、よく使用されるようになった[1]。しかし、イタリア・ルネサンスと比べると、新しい理念や独創的な思想や芸術がほとんど生まれなかったため、ジャック・ル・ゴフはこの「カロリング・ルネサンス」を「いわば寛大な気持ち」から使っていると述べている[4][1]。
カール大帝の時代
カール大帝はフランク王国を「キリスト教帝国」とみなし、キリスト教に基づく統治を進めるには、聖職者の資質を高め、教会を発展させることが必要と考え、各地からアーヘンの宮廷に人材を集めるとともに、自由学芸と教育を振興した[1]。特に古典研究を進め、俗語化していたラテン語が純化され、ラテン語教育が盛んになった。また、各地に教会付属の学校が開かれた。W・ウルマンはこのため、カロリング・ルネサンスは学芸文化運動というよりも宗教運動であるとした[1]。
カール大帝はヨーロッパ各地から知識人を招き、カールの宮廷は「宮廷学校」とよばれるようになった[1]。イングランドから招かれた神学者のアルクィンがカロリング朝ルネサンスの中心人物として有名であり、一時はカール大帝のブレーンとして皇帝を補佐した[1]。774年のランゴバルド王国併合後、イタリア人パウリヌス、ピサのペトルスらが宮廷に招かれるようになった[1]。カールは宮廷学校に貴族だけでなく、中流や下流階層の子弟にも勉学を学ばせた[1]。
カール大帝後
カール大帝の後も文化振興は継続され、西フランク王国のシャルル2世(西フランク王840年-877年、西ローマ皇帝875年-877年)までに大成された。ギリシャ語文献のラテン語訳などで活躍したエリウゲナ、歴史家のヒンクマールなどがよく知られている。この頃になると、文化活動は王宮のみでなく各地の修道院に広まっていった。各地の修道院でラテン語文献の筆写が行われ、その過程で文字を統一する必要からカロリング小字体が作成された。だが、その後はノルマン人の侵入にともなう混乱などにより文化活動は停滞期に入った。
コデックス
カロリング・ルネサンスの意義については、文献についての基本的な2つの要素、書記法と記録媒体の変質が挙げられる。カール大帝は従来の大文字によるラテン書記法を改革して、カロリング小字体を新たに定めた。この統一された字体を用いて、さまざまな文献が新たにコデックスに書き直され、著述と筆写が活発になされた。この2つの要素は中世文化の成立に大きな意義を持った。
コデックスは、4世紀末ごろから使われだしたもので、ページと折り丁を持った記録媒体の新しい形態である(今日の書物に近い)。従来の巻物が口述筆記と音読を主とするものであったのに対し、コデックスの一般化によって黙読が広まった(西ヨーロッパでは、13世紀ごろには黙読が一般化した)。また、欄外注の使用など新しい筆記形態が登場し、中世は書物を重要な文化要素とするようになった。書物の形態の変化とともに、書写材料はパピルスから羊皮紙に変化した。
カロリング朝において初めて、古代ギリシャ・ローマの文化、キリスト教、ゲルマン民族の精神が融合したと評される。ヨーロッパ統合が進む今日、カロリング朝ルネサンスがヨーロッパ文化の原点という評価もされている。
なお、世界遺産のアーヘン大聖堂は、カール大帝が建てた八角形の宮廷礼拝堂(805年)に、ゴシック様式の聖堂(1414年)を併設したものである。
脚注
注釈
- ↑ 東ローマ皇帝との対比により西ローマ皇帝と表記されるものの、カールの帝位は797年に追放されたコンスタンティノス6世の後継者としての「ローマ帝国全土の皇帝」であって、ロムルス・アウグストゥルス以降に途絶えている西ローマ皇帝(西方正帝)を復活させたものではないことに注意を要する[2][3]。
出典
参考文献
- 五十嵐修 『地上の夢キリスト教帝国 : カール大帝の「ヨーロッパ」』 講談社〈講談社選書メチエ, 224〉、2001年。