「アフリカ系アメリカ人」の版間の差分

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'''アフリカ系アメリカ人'''({{lang-en-short|African-American}}<ref group="†">{{IPA-en|ˈæfrɪkənəˈmɛrɪkən}} '''ア'''フリカナ'''メ'''リカン</ref>)は、[[アメリカ合衆国]]民のうち、[[アフリカ]]出身の黒人([[ネグロイド]])もしくはその子孫である。アフリカン・アメリカン、アフロアメリカン ({{lang|en|Afro-American}}<ref group="†"><small>[[アメリカ英語]]発音:</small>{{IPA-en|ˌæfroʊəˈmɛrɪkən|}} アフロウア'''メ'''リカン</ref>)、アメリカ黒人ともいう。
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'''アフリカ系アメリカ人'''({{lang-en-short|African-American}}<ref group="†">{{IPA-en|ˈæfrɪkənəˈmɛrɪkən}} '''ア'''フリカナ'''メ'''リカン</ref>
  
アフリカ系アメリカ人という言葉には黒人(ネグロイド)を意味する語は入っていないが、[[コーカソイド]]に属する[[北アフリカ]]系アメリカ人([[アラブ人]]や[[ベルベル人]]の子孫)や、ヨーロッパ系アフリカ人([[アフリカーナー]]や[[アングロアフリカン]]など)の子孫を含まない。
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アメリカ合衆国の民族集団。多くは奴隷として連れて来られたアフリカ人を祖先とするが([[黒人奴隷]]),黒人以外のアフリカ人の子孫も多い。奴隷所有者が用いた,黒人 black,ニグロ negro(スペイン語で黒の意)という呼称は侮蔑的であり,解放奴隷はみずからを婉曲的にカラード coloured(有色人種)と称したが,アメリカ北部では大文字で始まる Negroが通用するようになった。20世紀半ばの[[公民権運動]]の際は父祖の地の誇りを表すアフロ=アメリカン Afro-Americanという表現も用いられたが,力と変革の象徴としての黒(黒人)が,より一般的になった。1980年代末に公民権運動指導者のジェシー・ジャクソンがアフリカ系アメリカ人という呼び方を提唱し,今日では黒人とともに広く用いられる。
  
== 概要 ==
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アフリカ系アメリカ人の歴史は 1619年,20人のアフリカ人がヨーロッパ系入植者の奉公人としてイギリス領バージニア植民地に連れて来られたことに始まる。1660年代までに大規模なアフリカ人移送が行なわれるようになり,1790年にはアフリカ系がアメリカの人口の 2割を占めた。この間,1750年までに,植民地全域で黒人奴隷が制度化された。奴隷は南部の綿花プランテーションの労働力として,綿花王国を支えた([[プランテーション制]])。
大半は、[[19世紀]]半ばの[[南北戦争]]以前に[[アフリカ]]([[サハラ砂漠]]以南の[[ブラックアフリカ]])から[[奴隷貿易]]によりアメリカに連れてこられた奴隷の子孫である。ただし若干だが、より新しい時代に自由な[[移民]]として渡米した黒人やその子孫もいる。彼らをアフリカ系 ({{en|African}}) と呼ぶべきかどうかについて、また、黒人 ({{en|Black}}) と呼ぶべきかどうかについては、論争がある。[[中央アメリカ|中米]]に奴隷として送られたのちに移民として渡米するなど、より複雑な経緯を持つ者もいる。
 
  
奴隷として連れて来られた際は出身集団や民族集団が異なっていたが、奴隷制度によって民族・文化的なつながりが乏しくなり、また、長い年月によって[[混血]]が進んだため、民族集団ではなく、[[アメリカ合衆国]]に在住する黒人の[[人種]][[コミュニティ]]として度々用いられている(米国内の黒人人種比率: 12.9%、2005年)。
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[[南北戦争]]の結果,黒人奴隷は法的に解放され([[奴隷解放宣言]]),およそ 400万人が自由の身となった。南部における政治的な立場も向上し,1901年までに 20人が下院議員に,2人が上院議員に選ばれた。しかし南部諸州は黒人の公民権を制限する州法を相次いで制定,さらに人種分離制度(ジム・クロウイズム。[[黒人差別法]])を確立し,連邦最高裁判所もこれを是認した([[プレッシー対ファーガソン裁判]])。
  
アフリカ系アメリカ人は、長い間人種差別の対象とされ苦難の道を歩んできたが、現在は[[ブラジル]]など他のヨーロッパ系主体の移民国家のアフリカ系住民より社会進出が進んでおり、[[ホワイトカラー]]や[[軍人]]、[[俳優]]や[[スポーツ選手]]で活躍する場合も多く、多数の閣僚を輩出するなど、国政の中枢にまで上りつめるようになった。
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1895年,解放奴隷の子[[ブッカー・T.ワシントン]]は黒人に,政治・社会闘争をやめて労働に専念し,経済的地位の向上を目指すよう呼びかけた。ワシントンは白人有力者の支持を得たが,差別的な環境は改まらず,黒人をねらった暴力事件も増加した。1920年代,ジャマイカ出身のマーカス・[[ガーベイ]]が黒人民族主義を掲げて大規模な大衆運動を組織すると黒人間に民族意識が高まり,ハーレム・ルネサンスと呼ばれる黒人文学・音楽・芸術の勃興もみられたが,ガーベイが投獄されると運動は勢いを失った。第2次世界大戦後,人種差別撤廃の気運が高まった。1954年,連邦最高裁判所はプレッシー対ファーガソン裁判の「分離すれど平等」の原則を覆し,公立学校の分離制度に違憲判決をくだした([[ブラウン対トピカ教育委員会裁判]])。[[マーティン・ルーサー・キング]]は 1955年に[[バス・ボイコット運動]]を指導して勝利を収め,1963年のワシントン大行進は,包括的な差別禁止を定めた 1964年[[公民権法]]の成立を実現した。他方,1960年代後半には[[ブラック・パワー]]の思想が台頭,学校教育には黒人文化研究や黒人教員の登用を求め,若者の髪形や服装などにも影響を与えた。
 
 
== 呼称 ==
 
以前は「ニグロ ({{lang|en|negro}}<ref group="†"><small>[[アメリカ英語]]発音:</small>{{IPA-en|ˈniːɡroʊ|}}/<small>[[イギリス英語]]発音:</small>{{IPA-en|ˈniːɡrəʊ|}} '''ニ'''ーグロウ</ref>)」や「[[ニガー]] ({{lang|en|nigger}}<ref group="†"><small>[[アメリカ英語]]発音:</small>{{IPA-en|ˈnɪɡər|}} '''ニ'''ガー、<small>[[イギリス英語]]発音:</small>{{IPA-en|ˈnɪɡə(r)|}} '''ニ'''ガ</ref>)」などとも呼ばれたが、これは[[1960年代]]の[[公民権運動]]の高まり(ブラック・パワー)以来[[差別用語]]とされている。その一方、アフリカ系アメリカ人男性同士の人類同胞主義の表現として「ニガ (nigga)」が使われる事も多々あり、その傾向は特に[[ラップ]]音楽において顕著である。しかし[[日本人]]などの[[黄色人種]]や[[白人]]系アメリカ人を含め、アフリカ系アメリカ人以外の者達がこの表現を使う事は差別的言動とみなされる。
 
 
 
民族的回帰運動でもある「ブラック・パワー」を提起した黒人たちは、「ブラック・イズ・ビューティフル(黒は美しい)」をスローガンに掲げ、白人から否定され、自らも否定してきた黒人の人種的特徴を「黒人らしさ」として逆に強調し、彼らの民族的[[アイデンティティー]]を主張する表現のひとつとして[[アフロヘアー]]という[[髪型]]も生み出した。彼らはキリスト教からイスラム教へ改宗したほか、自らを「'''ブラック'''(黒人)」と自称し、これは現在の黒人たちの一般的な自称となっている。
 
 
 
[[アメリカ陸軍]]においては、[[2014年]][[11月8日]]まで軍内の規定で、黒人を指すときに「黒人もしくはアフリカ系の米国人」「ハイチ人」「ニグロ」などが使用可能であった。批判を受け、陸軍は「黒人もしくはアフリカ系の米国人」の表記のみを容認することとなった<ref>{{cite news |title=米陸軍、「ニグロ」表記容認の内部規定を削除 謝罪も表明 |newspaper=[[CNN]] |date=2014-11-08 |url=http://www.cnn.co.jp/usa/35056286.html |accessdate=2014-11-10 }}</ref>。
 
 
 
== 定義に関する論争 ==
 
[[マーチン・ルーサー・キング]]の演説にあるようにアメリカ合衆国で単に「黒人」というときは[[奴隷解放宣言]]までに奴隷としてアメリカ合衆国に渡来したアフリカの人々の子孫を指すのが一般的である。しかし[[移民]]大国のアメリカには、現在に至ってもアフリカ、[[中南米]]や[[カリブ海]]諸国から黒人の移民がやってくる。しかし、彼等はアメリカによってアフリカから連れて来られた黒人奴隷の子孫でない(中南米やカリブ海諸国から来た場合は[[スペイン]][[フランス]]、[[イギリス]]などにより連れて来られた黒人奴隷の子孫である)ことから、アメリカ国籍を持っていない場合は、「アフリカ系アメリカ人」という呼び名は当てはまらないとの指摘もある。例えば、[[コリン・パウエル]]はアフリカから[[ジャマイカ]]を経由しアメリカに来た移民の子であり、[[カリビアン・アメリカン]]が正当な名称であるが、実際にはアメリカ国籍を持ちアフリカにルーツを持つ場合は、アフリカ系アメリカ人と呼ばれている。
 
 
 
{{仮リンク|デブラ・ディッカーソン|en|Debra Dickerson}}は、黒人 ({{en|Black}}) という語は、アメリカ({{en|America}}、合衆国ではなく[[アメリカ州|両米]]の意味か)に奴隷として連れて来られた人々とその子孫に限定すべきだと主張している<ref name="colorblind-salon">{{cite journal |url=http://www.salon.com/news/opinion/feature/2007/01/22/obama/ |title=Colorblind – Barack Obama would be the great black hope in the next presidential race – if he were actually black | publisher= [[salon.com]] |author=Debra J. Dickerson |date=January 22, 2007|accessdate=October 7, 2010 | archiveurl= http://web.archive.org/web/20100924194645/http://www.salon.com/news/opinion/feature/2007/01/22/obama/| archivedate= 2010-09-24 <!--DASHBot-->| deadurl= no}}</ref>。また彼女は、アフリカ系 ({{En|African}}) についても同様の主張をしている<ref name="colbertnation.com">[http://www.colbertnation.com/the-colbert-report-videos/81955/february-08-2007/debra-dickerson?videoId=81955 Debra Dickerson - The Colbert Report - 2/8/07 - Video Clip | Comedy Central<!-- Bot generated title -->]</ref>。
 
 
 
== ワンドロップ・ルール ==
 
[[1967年]]まで、一部の[[州]]では、[[ワンドロップ・ルール]]というものが使われていた。これは、16分の1、つまり自分の曽祖父に一人でもアフリカ系黒人がいれば差別の対象の一人とされていた。例え欧米系白人の血の方が圧倒的に濃くても黒人に分類されるという考えである。 その為、欧米系白人とアフリカ系黒人の間に生まれた子供も多くが奴隷として売られていった。(例えば、第3代アメリカ合衆国大統領[[トーマス・ジェファーソン|トマス・ジェファーソン]]が所有する[[奴隷]]であった[[サリー・ヘミングス]]は、4分の1だけ黒人の血を引いていたが、外観はほとんど白人に近く、真っ直ぐな髪を背中に垂らしていた<ref>Thomas Jefferson and Sally Hemings: An American Controversy by Annette Gordon-Reed, p.160</ref>。)ケニア出身のアフリカ系黒人の父とアメリカ出身の欧米系白人の母を持つ[[バラク・オバマ]]が「アメリカ史上初の黒人大統領」と呼ばれている事からも分かるように、奴隷制度が無くなった現代でもこの考えは無くなってはおらず、有色人種と欧米系白人の間に生まれた子供は自動的に有色人種に分類される事が多い。オバマは白人による英才教育を受けていたので差別は体験していない。
 
 
 
なお、現在のアフリカ系アメリカ人は他国のアフリカ系に比べると[[混血]]化が進んでおり、全体の約58%が8分の1以上、19.6%が4分の1以上、1%が2分の1以上白人の血が、5%が8分の1以上[[ネイティブ・アメリカン]]の血がそれぞれ混じっていると言われている。
 
 
 
このワンドロップ・ルールの発端はリンカーンの奴隷制の廃止と南北戦争が始まりだと言える。なぜなら南北戦争終結の後の奴隷開放で、「白人」と「黒人」の「違い」を無理矢理維持するために、多くの州に、奴隷解放令以前には無かった「異人種結婚禁止法」が作られる。1913年時点には、48州中で32州で、白人と黒人の結婚と性交渉は法律で禁止されていた。1952年でも、48州のうち、29州に「異人種結婚禁止法」があった。皮肉にも、リンカーンの奴隷解放令がアメリカに各種の黒人差別法「人種隔離法」を生む直接的な原因となった。アフリカから連れて来られた奴隷の血が一滴でも混じると「黒人」とされた。白人が黒人奴隷をレイプして産まれた子供も黒人になり、奴隷制を安く維持できたからだ。南部では公共の場で人種隔離が続き、生活のあらゆる面で誰が黒人で誰が白人か、線引きされた。それによって、黒人は「一滴の血」による奴隷の過去と差別を共有する強いグループ意識を持つようになった。その代表をマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師が行った。彼の行いが起源となってアメリカ各地で黒人の平和的な運動が始まった。
 
 
 
== 血液型 ==
 
アフリカ系アメリカ人 (African-American) の血液型の比率は、O型51%・A型26%・B型19%・AB型4.3%となっている<ref>[http://www.givelife2.org/aboutblood/bloodtypes.asp 米国赤十字社]</ref>。
 
 
 
== 歴史 ==
 
{{See also|アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史|公民権運動|アメリカ合衆国の歴史}}
 
 
 
英領北アメリカでの記録に残る最初のアフリカ人は、1619年にバージニア州[[ジェームズタウン (バージニア州)|ジェームズタウン]]に入植した年季奉公人とされている。イギリス植民地時代からアメリカ独立初期にかけては、完全な奴隷制に移行する18世紀初頭までには、比較的自由に生活するアフリカ人も見られた。その後大西洋間奴隷貿易で[[アフリカ]]から[[奴隷]]として連れてこられた人が増加し、1860年までにアメリカ合衆国には350万人の奴隷にされたアフリカ人と、その他の奴隷ではない50万人のアフリカ人がいた<ref>[http://kunta.nomaki.jp/ 黒人奴隷クンタの20年間 =「世界商品」の生産と黒人奴隷制度=]</ref>。奴隷船として輸送される際に病死する者が絶えず、かつて欧米諸国は1500万人の奴隷を運ぶ際に1人の黒人を新大陸に連れて行くまでに5人の黒人が中途で死んだという推計があるため、膨大な数の黒人を死に追いやっている。(ただし、彼らを出身地から「白人」の手に引き渡したのは黒人国家である)
 
 
 
リンカーン大統領の[[奴隷解放宣言]]で奴隷制が廃止されて以後も、政治的、人権的な権利の制限は続いた。
 
 
 
[[南北戦争]]で[[奴隷制度]]の撤廃を目指す[[北部]]が勝利した後、かなり以前から奴隷制度を禁止していた北部ではアフリカ系アメリカ人に対する差別意識は比較的薄く、[[ニューヨーク]]や[[シカゴ]]ではアフリカ系アメリカ人の市長が誕生した前例がある。しかし、長い間アフリカ系アメリカ人奴隷の労働力に依存した[[アメリカ合衆国南部|南部]]では、アフリカ系アメリカ人に対する差別意識が強く残り([[ジム・クロウ法]])、アフリカ系アメリカ人に対しアメリカ全土で[[法の下の平等]]が保障されるのは、1960年代の[[公民権運動]]の成蹴による[[市民権法|公民権法]]の施行を待たなければならなかった。
 
 
 
なお奴隷制度廃止後、奴隷から解放されて自由になったアメリカ黒人([[解放奴隷]])の自由の国として[[西アフリカ]]に[[リベリア]]と[[シエラレオネ]]が建国されたが、両国とも内戦で最貧国である。特にシエラレオネは子供までもが戦争に狩りだされ殺戮を行うなど、差別を受けながらも後に社会的な地位を上げたアフリカ系アメリカ人とは雲泥の差の生活を強いられている。またカナダのほうが奴隷廃止が早かったためにアメリカの奴隷がカナダに移住した事があった。
 
 
 
また、[[第二次世界大戦]]においては、人手不足からアフリカ系アメリカ人も軍人として戦争に参加することになった。当時「民主主義の武器庫」を自認していたアメリカであったが、「民主主義」という言葉とは裏腹に、大戦中に将官になったアフリカ系アメリカ人は[[ベンジャミン・デイヴィス・シニア|ベンジャミン・デイヴィス]][[准将]]だけであり、実際の戦闘に参加したものはわずか5%で、そのすべてが「黒人部隊」での参戦であった。残りのほとんどが単純作業を中心とした[[後方支援|後方支援業務]]に就かされるなど、参戦によっても差別は解消されなかった(現在の視点だと、死と隣り合わせの戦闘に参加したのは大多数が白人である方が逆差別となる)。なお、「黒人部隊」が廃止されるのは、公民権法の制定後に戦闘が本格化した[[ベトナム戦争]]においてであった。
 
 
 
[[1950年代]]以降、[[マーティン・ルーサー・キング]]などを指導者に、アフリカ系アメリカ人をはじめとする被差別民族に対する法的平等を求める公民権運動が盛り上がりを見せる。その結果、[[1964年]][[7月2日]]に法の下の平等を規定した市民権法が制定された。
 
 
 
しかし法的な[[差別]]が撤廃され、それがゆえに「自由な国家」であることを標榜する現在においても、白人がその多数を占めるアメリカ社会での少数派(約20%)である黒人に対する差別意識は根強く残り、白人に比べて低学歴の[[貧困層]]が多い。
 
 
 
現在、黒人社会において質の高い公教育を提供する行政実験が行われており、特別な家系ではない黒人の子女が[[ハーバード大学]]を代表とする多くの名門校に進学する実績を挙げつつある。
 
 
 
特にスポーツ界における黒人選手の活躍には目覚しいものがあり、恵まれた運動神経であるために少数民族であるにもかかわらず大いに活躍し、黒人[[アメリカンフットボール]]選手は[[NFL]]全体の約65%、黒人[[バスケットボール]]選手は[[NBA]]全体の約80%という大多数を占めている。人口に対してのNFLにおける成功者の比率は、圧倒的と言われる[[ポリネシア人|太平洋諸島系]]に次いで堂々の2位と目されている。しかし、他国では[[モータースポーツ]]や[[水泳]]、[[ウィンタースポーツ]]における黒人の進出、成功があるにもかかわらず、アメリカにおいては現在もほとんど進出していない。
 
 
 
スポーツ選手、俳優、芸能人、政治家、実業家として活躍を見せ、[[アーン・ダンカン]]は多くのアフリカ系の有名人の友人がいる。後に黒人の社会的地位が向上し、[[コリン・パウエル]]、[[コンドリーザ・ライス]]、[[ロデリック・レイナー・ペイジ]]、[[ロナルド・カーク]]、[[マイケル・スティール]]など国政の中枢にまで登り詰める人物が目立つようになった。そして、[[2009年]]には、[[ケニア]]人(黒人)の父とアメリカ人(白人)の母を持つ[[バラク・オバマ]]が初の黒人大統領として第44代[[アメリカ合衆国大統領]]に就任するなど、差別解消運動の成果が顕在化しつつある。
 
 
 
=== 南部回帰 ===
 
アフリカ系アメリカ人が北東部などから南部への移住がさまざまな理由でこの10年間で急増している<ref>{{cite news |language = | author = | url =http://sankei.jp.msn.com/world/news/110605/amr11060512010003-n1.htm | title =米黒人の“南部回帰”が不況のあおりでUターン 伝統的ライフスタイルも引力
 
| publisher =| date 2011-06-5 | accessdate =2011-06-05}}</ref>。
 
 
 
{{節スタブ}}
 
 
 
== 被差別 ==
 
{{See also|アメリカ合衆国の人種差別#黒人に対する差別}}
 
アフリカ系アメリカ人は奴隷解放から100年たっても20世紀初頭までは差別がひどくスポーツや歌手や俳優などでも白人から差別を受け、キング牧師の登場まで学校やレストランやトイレやバスも人種で分けられていた。差別的な警官により暴力を受け、誤射の凶弾に倒れたりする事もあり、裁判でも黒人が白人より重い刑を受けたり死刑執行率が高い場合もある。そのため[[ロス暴動]]のような差別への怒りの暴動が頻繁に起きたりする。現在は黒人が歌手、俳優、スポーツ選手、政治家として活躍して人気も出ており、オバマ大統領の就任は白人層からも大いに歓迎され、半世紀前に比べ遥かに差別意識が薄れてきた。しかし[[KKK]]のような白人至上主義運動が未だに存在し、完全に差別が消失したわけではなく、黒人の社会的地位上昇のために就職や大学の採用試験などの合格枠が人種で区別する事で逆差別と感じる反黒人感情の白人が増えた。また2010年代においても、前述と類似した事件や騒動が発生しておりこの差別感情が根強く残っている事実を反映している<ref>{{Cite web|date=2014-08-17|url=http://www.huffingtonpost.jp/2014/08/16/streets-of-ferguson-erupt-again_n_5684940.html|title=黒人少年射殺、マイケル・ブラウンさんが殺されたアメリカ・ファーガソンで暴動再燃|publisher=The Huffington Post|accessdate=2015-01-02}}</ref><ref>{{Cite web|date=2014-12-04|url=http://www.huffingtonpost.jp/2014/12/04/grand-jury-declines-to-indict_n_6267782.html|title=黒人男性エリック・ガーナーさんを窒息死させた白人警官も不起訴 NYに怒りの声渦巻く|publisher=The Huffington Post|accessdate=2015-01-02}}</ref><ref>{{Cite web|date=2014-12-14|url=http://www.sankei.com/world/news/141214/wor1412140005-n1.html|title=「息ができない」「撃つな」1万人が米議会に向けデモ、黒人死亡事件に抗議|publisher=産経ニュース|accessdate=2015-01-02}}</ref><ref>{{cite news |title=米白人学生らが黒人侮辱ビデオ 南部オクラホマ大で抗議 |newspaper=産経ニュース |date=2015-03-10 |url=http://www.sankei.com/world/news/150310/wor1503100018-n1.html |accessdate=2015-04-01}}</ref>。
 
 
 
しかし訴訟大国アメリカでは黒人差別で訴えられる事例があり、例えばアフリカ系の消防士の食事にドッグフードを混入する人種差別的な行為で3億円余の賠償金を支払う判決があったために、黒人差別は社会的にタブー視されている。
 
 
 
== 他人種との対立 ==
 
近年は、従来の「白人 対 黒人」という対立だけでなく、アフリカ系アメリカ人と他[[社会的少数者|マイノリティ]]との対立が表面化することも少なくない。
 
 
 
=== アジア系アメリカ人との対立 ===
 
黒人と[[アジア系アメリカ人]]の対立は、1992年の[[ロサンゼルス暴動]]に始まり、現在も断続的に発生している。
 
 
 
黒人ボクサーの[[フロイド・メイウェザー]]は、[[フィリピン]]の国民的英雄[[マニー・パッキャオ]]に対し人種差別的な挑発をしたとして話題となった<ref>{{cite web|url= http://sports.espn.go.com/sports/boxing/news/story?id=5527403 |title= Floyd Mayweather: 'I'll cook that chump' |publisher= ESPN.com |date= 2010-09-04 |accessdate= 2017-05-22}}</ref>。メイウェザーは過去にも、[[台湾]]系アメリカ人の[[NBA]]スター、[[ジェレミー・リン]]への差別発言で物議を醸している<ref>{{cite web|url= http://www.espn.com/new-york/nba/story/_/id/7572690/floyd-mayweather-says-new-york-knicks-jeremy-lin-spotlight-race-not-play |title= Floyd Mayweather questions Jeremy Lin |publisher= ESPN.com |date= 2012-02-15 |accessdate= 2017-05-22}}</ref>。
 
 
 
黒人コメディアンの[[クリス・ロック]]は[[第88回アカデミー賞]]授賞式で、アジア系アメリカ人を[[ステレオタイプ]]に描写した差別的パフォーマンスを行い、各方面から非難を浴びた<ref>{{cite web|url= http://www.tvgroove.com/sm/news/article/ctg/1/nid/27381.html |title= クリス・ロック、アカデミー賞授賞式でのジョークが人種問題を「矮小化&下品」と非難の的に |publisher= TVグルーヴ |date= 2016-03-03 |accessdate= 2017-05-22 }}</ref>。
 
 
 
=== ヒスパニックとの対立 ===
 
黒人と[[ヒスパニック]]の対立も年々深まっており、米調査機関[[ギャラップ (企業)|ギャラップ]]による世論調査では、「黒人とヒスパニックの関係」を「良い」とした回答はわずか60%にとどまった<ref>{{cite web|url= http://sp.recordchina.co.jp/newsinfo.php?id=74516&ph=0 |title= 白人とアジア系の関係は良いと約90%が回答、関係が悪いのは黒人とヒスパニック |publisher= [[Record China]] |date= 2013-07-20 |accessdate= 2017-05-22 }}</ref>。これは「白人とアジア系の関係」を「良い」とする回答が87%であることを考えると、かなり低い数値であることが分かる。
 
 
 
黒人ボクサーの[[エイドリアン・ブローナー]]は、[[メキシコ|メキシコ人]]ボクサーの[[カルロス・モリーナ]]を差別的に侮辱したとして、主催団体の[[世界ボクシング評議会|WBC]]から出場停止処分を受けた<ref>{{cite web|url= http://www.boxingscene.com/wbc-suspends-adrien-broner-over-mexican-swipe--77569 |title= WBC Suspends Adrien Broner Over 'Mexican' Swipe |publisher= BoxingScene.com |date= 2014-05-07 |accessdate= 2017-05-22 }}</ref>。
 
 
 
2012年12月20日には[[マイケル・ブラウン射殺事件]]と[[エリック・ガーナー窒息死事件]]への報復として、ヒスパニックと[[中国系アメリカ人]]の警官が黒人男性に襲撃され、そのまま犠牲となった<ref>{{cite web|url= http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2014/12/post-704_1.php |title= 報復警官殺しで、混乱深まる人種間対立 |publisher= [[ニューズウィーク]]日本版 |date= 2014-12-24 |accessdate= 2017-05-22 }}</ref>。
 
 
 
== 評価と反応 ==
 
[[ファイル:Obamas walk down PA Ave. 1-20-09 hires 090120-N-0696M-546a.jpg|thumb|200px|パレード中に車から降りて歩くオバマ大統領と、ファーストレディーの[[ミシェル・オバマ]]。]]アフリカ系アメリカ人で有名になった者はアフリカからは尊敬されており、例えばバラク・オバマは父の故郷[[ケニア]]では英雄視され、その夫人の[[ミシェル・オバマ]]は黒人奴隷の子孫である影響で奴隷貿易の拠点の[[ケープ・コースト城]]の訪問では熱烈に歓迎を受けており、さらにケニアやアメリカで「オバマ」「ミシェル」と子供に命名する親が急増した。
 
 
 
アフリカ系アメリカ人は世界一の経済大国で育った影響で白人扱いされる例がある。例えば[[アパルトヘイト]]を行っていた[[南アフリカ共和国]]では名誉白人と扱われていた事があった。また白人社会で育った影響でアフリカ本土の黒人とは摩擦が起きており、黒人奴隷のために建国した[[リベリア]]に移住した者、つまり[[アメリコ・ライベリアン]]は1847年の独立から1980年までリベリアの政治・経済を支配し原住民を見下した事でリベリア国内の対立の火種となった。
 
 
 
一方アメリカを敵視する[[反米]]思想の持ち主からは『白人に媚びる黒人』『裏切り者』として軽蔑の対象とされている。例えば反白人感情をあおった[[ロバート・ムガベ]]は自国を批判したライスを「白人の奴隷」「[[アンクル・トムの小屋#蔑称としての「アンクル・トム」|アンクル・トムの娘]]」と揶揄し、反ブッシュ的な[[ハリー・ベラフォンテ]]はブッシュ政権の黒人閣僚を「白人に媚る奴隷」と揶揄し、反米組織の[[アルカーイダ]]のナンバー2である[[アイマン・ザワーヒリー]]はオバマとライスとパウエルを「ハウス・ニグロ」と呼んだ。
 
 
 
== 他国のアフリカ系国民との比較 ==
 
[[File:Barack Obama & Michaëlle Jean 2-19-09.jpg|thumb|right|バラク・オバマ大統領とミカエル・ジャン総督(カナダ訪問にて)]]
 
アフリカに旧植民地を保有した影響で、イギリスやフランスには移民により多くのアフリカ系住民が住んでいる。しかしアフリカ系フランス人はスポーツ選手以外ではアフリカ系アメリカ人よりも社会進出に遅れており、未だに多くが貧困層でスラム街に住んでおり、差別への怒りに対する暴動が起きる事もある。カナダでは2.5%の78万人のアフリカ系カナダ人が存在しており、[[ミカエル・ジャン]]という[[ハイチ]]からのアフリカ系女性がカナダ総督に任命されている。
 
 
 
ベネズエラの反米的な[[ウゴ・チャベス]]大統領はスペイン人、[[インディアン]]、アフリカ人の血を引く[[ムラート]]と[[メスティーソ]]である。
 
 
 
== スポーツ ==
 
[[ファイル:Jordan by Lipofsky 16577.jpg|thumb|170px|若き日の[[マイケル・ジョーダン]]]]
 
アフリカ系アメリカ人は、その身体能力を遺憾なく発揮し、[[スポーツ]]の分野で目覚しい活躍を見せている。[[北米4大プロスポーツリーグ]]のうち[[NBA]]、[[NFL]]はいずれもアフリカ系アメリカ人選手が大多数を占めている。現在、NBA選手の約80%、NFL選手の約65%がアフリカ系アメリカ人である<ref>Jon Entine(著)、星野 裕一(訳)「黒人アスリートはなぜ強いのか? -その身体の秘密と苦闘の歴史に迫る」より</ref>。特に、バスケットボールは[[ヒップホップ]]などと並んで黒人文化の一端を担っている。「バスケットボールの神様」と呼ばれた[[マイケル・ジョーダン]]の登場後は、ますますアフリカ系アメリカ人とバスケットボールは密接に結びついていった。バスケットボールの場合は全ポジションにおいてアフリカ系選手の比率が高いが、アメリカンフットボールの場合はポジションによってアフリカ系選手の比率が大きく異なってくる。[[NFL]]や[[全米大学体育協会|NCAA]][[カレッジフットボール]]のような高いレベルにおいては、アフリカ系アメリカ人が優れているとされる脚力や瞬発力が要求されるポジション([[ランニングバック|RB]]、[[ワイドレシーバー (アメリカンフットボール)|WR]]、[[コーナーバック|CB]]など)はそのほとんどがアフリカ系選手で占められている。特に、RBはアフリカ系アメリカ人にとって最も花形のポジションであり、[[ラダニアン・トムリンソン]]のようなスター選手は、アフリカ系コミュニティの間で憧れの存在となっている。一方で、[[クォーターバック|QB]]や[[プレースキッカー|キッカー]]、[[パンター (アメリカンフットボール)|パンター]]などのポジションにおいてはアフリカ系選手の比率は比較的少ない。しかし、近年は[[マイケル・ヴィック]]や[[ヴィンス・ヤング]]に代表されるように、RB並みの脚力を武器にパスプレーよりもランプレーを持ち味として活躍するアフリカ系QB(モバイルQB)が増えつつある。
 
 
 
4大スポーツで最も古い歴史を持つ[[野球]]においては、[[1947年]]に[[ジャッキー・ロビンソン]]がデビューするまで、アフリカ系選手が事実上[[メジャーリーグベースボール|MLB]]から締め出されていた。それまでは、アフリカ系選手のみで構成される[[ニグロリーグ]]が隆盛を誇った。ロビンソンら黎明期のアフリカ系選手は、人種差別に苦しみながらも結果を残し、次第にアフリカ系選手はMLBになくてはならない存在になっていった。[[フランク・ロビンソン]]が初のアフリカ系監督になったものの、近年はアフリカ系選手の減少が目立っている。MLBの登録選手に占めるアフリカ系アメリカ人の比率は1995年から2006年までに半減し、8.4%まで下がった。2009年には減り続けていたアフリカ系選手の数が久々に増加に転じ、比率も10.2%にまで上昇<ref>[http://www.cbsnews.com/stories/2009/04/15/national/main4946410.shtml MLB Scores An "A" For Racial Diversity] CBS NEWS</ref>したものの、MLBはこうした事態に危機感を抱き、アフリカ系選手の開拓に乗り出している<ref>[http://sankei.jp.msn.com/sports/mlb/071206/mlb0712062255002-n1.htm 大リーグ、悩みは黒人選手の減少] MSN産経ニュース</ref>。また、[[カーティス・グランダーソン]]<ref>[http://detroit.tigers.mlb.com/news/article.jsp?ymd=20090414&content_id=4268956&vkey=news_det&fext=.jsp&c_id=det Granderson tries to get youth involved](mlb.com)</ref>、[[トリー・ハンター]]<ref>[http://playerpage.bizland.com/ The Torii Hunter project]</ref>、[[リッキー・ウィークス]]・[[ビル・ホール]]<ref>[http://typecast.typepad.jp/t/typecast/41577/235990/21151318 蛭間豊章記者の「Baseball inside」ブルワーズ2選手と黒人少年達の小さな旅(第372回)]</ref>らのように、多くの現役選手がアフリカ系コミュニティへの普及活動を積極的に行っている。アフリカ系アメリカ人の野球選手は、[[ケン・グリフィー・ジュニア]]や[[バリー・ボンズ]]に代表される走攻守揃った5ツールプレイヤーや、[[リッキー・ヘンダーソン]]、[[ケニー・ロフトン]]のような盗塁数を積み重ねる俊足選手が多い。ポジションでは、圧倒的に[[外野手]]が多く、特に[[中堅手]]が多い。
 
 
 
4大スポーツの一角である[[アイスホッケー]]は、アフリカ系選手の数が極めて少ない。2009年4月の時点では、[[NHL]]全体でアフリカ系アメリカ人選手は7人しかいない<ref group="†">[[カナダ]]などの他国籍選手を加えても、25人と少数である([[:en:List of black ice hockey players|List of black ice hockey players]]参照)</ref>。アイスホッケーだけに限らず、ウインタースポーツには「白人のスポーツ」という偏見が今だに根強く存在し、アフリカ系選手の進出は進んでいない。それでも2006年には、[[トリノ五輪]][[スピードスケート]]男子1000mで[[シャニー・デービス]]がアフリカ系として初の冬季五輪金メダリストになったりもしている<ref>[http://torino2006.nikkansports.com/paper/p-ol-tp5-060220-0043.html シャニー・デービス黒人初金/Sスケート]nikkansports.com</ref>。
 
 
 
[[陸上競技]]では、特に[[短距離走]]の分野でアフリカ系選手の活躍が目ざましい。[[カール・ルイス]]を筆頭に、数多くの五輪金メダリストを輩出している。一方、[[重量挙げ]]においてはアフリカ系選手が活躍することは少ない。
 
 
 
[[ボクシング]]などの世界でも、アフリカ系アメリカ人は無くてはならない存在になっている。[[モハメド・アリ]]を筆頭に輩出している。一方総合格闘技においてはアフリカ系選手の活躍は少なく、特に[[柔道]]などの組技系格闘技においてはアフリカ系選手の占める割合は非常に少ない。
 
 
 
[[水泳]]においては、ウインタースポーツと同様に偏見によりアフリカ系選手の進出が進んでいないが、[[2000年]]の[[シドニーオリンピック|シドニー五輪]]で[[アンソニー・アービン]]がアフリカ系アメリカ人として初めて米国水泳代表に選ばれ、男子50m[[自由形]]で金メダルを獲得した。
 
 
 
[[競馬]]においても、かつては[[アイザック・マーフィー]]や[[ジミー・ウィンクフィールド]]らに代表されるアフリカ系の騎手の活躍している時代が存在していた。奴隷時代に牧童として使役されていた若年者が、奴隷解放宣言後に騎手として転向した例が多く、10代前半からデビューするのが一般的であった。19世紀末は特に顕著で、1875年の第1回[[ケンタッキーダービー]]では出走馬15頭のうち14頭がアフリカ系騎手を背にしていたほどである。しかし1920年代に入るとアフリカ系騎手はほとんど消え失せ、現在ではほぼ見かけることがない。
 
 
 
== 脚注 ==
 
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=== 注釈 ===
 
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=== 出典 ===
 
{{Reflist}}
 
 
 
=== 参考文献 ===
 
* 『[[アンクル・トムの小屋]]』([[ハリエット・ビーチャー・ストウ|ストウ夫人]])
 
* 『[[ちびくろサンボ]]』([[ヘレン・バナマン|バーナーマン]])
 
* 『[[風と共に去りぬ]]』([[マーガレット・ミッチェル]])
 
* 『[[アメリカ合州国]]』([[本多勝一]])
 
* 『{{仮リンク|ルーツ (小説)|en|Roots: The Saga of an American Family|label=ルーツ}}』([[アレックス・ヘイリー]])
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2012年4月}}
 
{|
 
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; 歴史
 
* [[三角貿易]]
 
* [[アメリカ合衆国の歴史]]
 
** [[アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史]]
 
* [[アメリカ合衆国の人種差別]]
 
* [[ジム・クロウ法]]
 
* [[アフリカ系アメリカ人の大移動]]
 
* [[公民権運動]]
 
* [[ロス暴動]]
 
; 組織
 
* [[黒人教会]]
 
* [[クー・クラックス・クラン]]
 
* [[地下鉄道 (秘密結社)]]
 
* [[全米黒人地位向上協会]]
 
* [[ブラックパンサー党]]
 
* [[ネーション・オブ・イスラム]]
 
* [[黒人解放軍]]
 
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; 民族
 
* [[ムラート]]
 
* [[ガラ人]]
 
* [[ブラック・インディアン]]
 
* [[ブラック・セミノール]]
 
* [[アメリコ・ライベリアン]]
 
* [[ハイチ系アメリカ人]]
 
* [[カーボベルデ系アメリカ人]]
 
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* [[アフリカ系ラテンアメリカ人]]
 
** [[アフリカ系ブラジル人]]
 
** [[アフリカ系コロンビア人]]
 
** [[アフリカ系アルゼンチン人]]
 
** [[アフリカ系ウルグアイ人]]
 
* {{仮リンク|アフリカ系カナダ人|en|Black Canadians}}
 
* {{仮リンク|アフリカ系イギリス人|en|Black British}}
 
* [[アフリカ系フランス人]]
 
* [[カラード (南アフリカ共和国)]]
 
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; 文化
 
* [[アメリカ黒人文学]]
 
* [[ハーレム・ルネサンス]]
 
* [[ブラックミュージック]]
 
** [[プランテーション・ソング]]
 
** [[霊歌|黒人霊歌]]
 
** [[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]]
 
** [[ブルース]]
 
** [[ラグタイム]]
 
** [[ジャズ]]
 
** [[リズム・アンド・ブルース]]
 
** [[ロックンロール]]<br/>最初期は黒人音楽だった
 
** [[ソウルミュージック|ソウル]]
 
** [[ファンク]]
 
** [[ヒップホップ]]
 
** [[ブラック・コンテンポラリー]]
 
** [[ニュージャックスウィング]]
 
** [[コンテンポラリー・R&B]]
 
 
 
; 作品
 
* [[アンクル・トムの小屋]]
 
* [[ルーツ (テレビドラマ)]]
 
; その他
 
* [[中根中]]
 
|}
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://mainichi.jp/select/wadai/wakaru/kokusai/archive/news/2009/20090120org00m040028000c.html 黒人たちのアメリカ]
 
* [http://yi355.cside.com/iframe/histry1.html#top ブルースの歴史]
 
 
 
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アフリカ系アメリカ人は,映画,文学,音楽,スポーツなどの分野で才能を発揮し,すぐれた人材が輩出している。政治においては 2008年,ケニア出身の父をもつ[[バラク・オバマ]]が大統領に選出された。
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2018/10/9/ (火) 00:03時点における最新版

アフリカ系アメリカ人
African American
総人口
3958万6840人(16.8%)[1]
居住地域
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
言語
アメリカ英語黒人英語南部アメリカ英語カリブスペイン語ハイチ語フランス語系のクレオール言語)、ブラジルポルトガル語
宗教
ほとんどがプロテスタント、一部はカトリック、稀にイスラーム
関連する民族
ブラック・インディアンアメリコ・ライベリアンアフリカ系ラテンアメリカ人

アフリカ系アメリカ人: African-American[† 1]

アメリカ合衆国の民族集団。多くは奴隷として連れて来られたアフリカ人を祖先とするが(黒人奴隷),黒人以外のアフリカ人の子孫も多い。奴隷所有者が用いた,黒人 black,ニグロ negro(スペイン語で黒の意)という呼称は侮蔑的であり,解放奴隷はみずからを婉曲的にカラード coloured(有色人種)と称したが,アメリカ北部では大文字で始まる Negroが通用するようになった。20世紀半ばの公民権運動の際は父祖の地の誇りを表すアフロ=アメリカン Afro-Americanという表現も用いられたが,力と変革の象徴としての黒(黒人)が,より一般的になった。1980年代末に公民権運動指導者のジェシー・ジャクソンがアフリカ系アメリカ人という呼び方を提唱し,今日では黒人とともに広く用いられる。

アフリカ系アメリカ人の歴史は 1619年,20人のアフリカ人がヨーロッパ系入植者の奉公人としてイギリス領バージニア植民地に連れて来られたことに始まる。1660年代までに大規模なアフリカ人移送が行なわれるようになり,1790年にはアフリカ系がアメリカの人口の 2割を占めた。この間,1750年までに,植民地全域で黒人奴隷が制度化された。奴隷は南部の綿花プランテーションの労働力として,綿花王国を支えた(プランテーション制)。

南北戦争の結果,黒人奴隷は法的に解放され(奴隷解放宣言),およそ 400万人が自由の身となった。南部における政治的な立場も向上し,1901年までに 20人が下院議員に,2人が上院議員に選ばれた。しかし南部諸州は黒人の公民権を制限する州法を相次いで制定,さらに人種分離制度(ジム・クロウイズム。黒人差別法)を確立し,連邦最高裁判所もこれを是認した(プレッシー対ファーガソン裁判)。

1895年,解放奴隷の子ブッカー・T.ワシントンは黒人に,政治・社会闘争をやめて労働に専念し,経済的地位の向上を目指すよう呼びかけた。ワシントンは白人有力者の支持を得たが,差別的な環境は改まらず,黒人をねらった暴力事件も増加した。1920年代,ジャマイカ出身のマーカス・ガーベイが黒人民族主義を掲げて大規模な大衆運動を組織すると黒人間に民族意識が高まり,ハーレム・ルネサンスと呼ばれる黒人文学・音楽・芸術の勃興もみられたが,ガーベイが投獄されると運動は勢いを失った。第2次世界大戦後,人種差別撤廃の気運が高まった。1954年,連邦最高裁判所はプレッシー対ファーガソン裁判の「分離すれど平等」の原則を覆し,公立学校の分離制度に違憲判決をくだした(ブラウン対トピカ教育委員会裁判)。マーティン・ルーサー・キングは 1955年にバス・ボイコット運動を指導して勝利を収め,1963年のワシントン大行進は,包括的な差別禁止を定めた 1964年公民権法の成立を実現した。他方,1960年代後半にはブラック・パワーの思想が台頭,学校教育には黒人文化研究や黒人教員の登用を求め,若者の髪形や服装などにも影響を与えた。

アフリカ系アメリカ人は,映画,文学,音楽,スポーツなどの分野で才能を発揮し,すぐれた人材が輩出している。政治においては 2008年,ケニア出身の父をもつバラク・オバマが大統領に選出された。



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  1. 英語発音: [ˈæfrɪkənəˈmɛrɪkən] フリカナリカン
  1. 2008年アメリカ国勢調査による人口統計学より。