大久保清
テンプレート:Infobox Serial Killer 大久保 清(おおくぼ きよし、1935年1月17日 - 1976年1月22日)は、日本の連続殺人犯。1971年3月から5月までの2か月足らずの間に、路上で自家用車から声をかけて誘った女性8人を相次いで殺害し、逮捕された。1973年に死刑判決を受け、1976年1月22日に刑が執行された。
Contents
殺人事件までの経歴
生い立ち
大久保は群馬県碓氷郡八幡村(現・高崎市八幡地区)に3男5女の7番目(三男)として生まれた[1]。長兄は生まれて間もなく他界し、次兄は性格が両親の好むところではなかったことから、大久保は両親から「ボクちゃん」と呼ばれて溺愛された[1]。
父親は国鉄(大久保の生誕当時は鉄道省)の機関士であったが、太平洋戦争後の人員整理(1949年)の際に同じく国鉄に勤務していた次兄とともに解雇された[1][2]。母親はロシア人との間に生まれた混血の私生児(祖母は安中で芸者をしていた)で、10歳の時に小学校の用務員をしていた大久保の祖父に養女として迎え入れられたという経歴の持ち主であった[1]。次兄の証言では父は子どもの前でも性行為をおこなうような人物で[3]、次兄の妻(初婚、再婚の両者)は父による淫行の被害に遭ったという[4]。
太平洋戦争の開始後、ロシア人の血を引く大久保は「アイノコ」「アメリカ人の血が混ざっている」などといじめを受けた[5]。勉強を好まず、小中学校を通じて教員からの評価は高くなかった[6]。
1946年に小学校6年生だった大久保は、幼女を麦畑に連れ込んで性器に石を詰め込む強制わいせつ行為をする[7]。被害者の親が抗議に来た際、母親は当初大久保が現場にいたことを認めず、犯人が大久保だと指摘されると「お医者さんごっこに目くじらを立てることはない」と息子を擁護した[7]。
中学時代には、父が始めた闇屋を手伝うようになった[8]。1950年に中学を卒業すると農業をたまに手伝い、1952年に群馬県立高崎商業高等学校定時制課程に進学したが、短期間で退学した[9]。退学後、東京都板橋区の電器店に住み込みで勤め、銭湯の女風呂を覗き、解雇される[9]。次いで、横浜市の電器店に嫁いでいた姉の夫が大久保を引き取り、神田の電機学校に通学させた[9]。学校とともに赤線にも通うようになり、知り合った娼婦とのトラブルがきっかけで帰郷した[10]。1953年4月、親からの出資により実家にラジオ修理販売店「清光電器商会」を開業する[10]。だが技術や知識の伴わない大久保は十分なサービスができずに顧客を失い、修理部品の調達にも窮した[10]。このため、同年7月から翌年1月にかけて高崎市内の同業者から8回にわたり部品を万引きして逮捕される[10]。この時は大久保の父が損害を弁償して示談となり、不起訴処分となった[10]。しかし、これが理由となって電器店は閉店した[10]。
最初の強姦事件
1955年7月12日、大久保は大学生に成りすまして前橋市内で17歳の女子高生を強姦[11]。初犯であったことから懲役1年6か月・執行猶予3年の判決で済んだものの[11]、同年12月26日に再び強姦事件を起こす(被害者の抵抗で未遂に終わるが、相手を負傷させたため、強姦致傷に問われた)[12]。この事件で、懲役2年の実刑判決を受け、初犯時の刑期を加えた3年6ヶ月の懲役のため松本少年刑務所に収監された[12]。
刑務所での大久保は早期出所を目指して模範囚となり、1959年12月15日に刑期を6か月残して仮釈放された[13]。しかし、それから半年も経たない1960年4月16日に大久保は全学連の活動家に扮し、前橋市在住の20歳の女子大生を自宅に連れ込んで襲い掛かったが、被害者が大声をあげて大久保の両親に見つかったため未遂に終わる[14]。この時も示談となり不起訴処分となった[14]。
結婚と恐喝・強姦
1962年5月に、前年知り合った女性と1年の交際を経て結婚[15]。しかし結婚するまで偽名と虚偽の経歴を語り[15]、素性を明らかにした後も犯歴は妻には黙っていた[16]。翌年には長男が生まれ[17]、さらに谷川伊凡のペンネームで詩集『頌歌』を自費出版している。1964年9月、妻の親族を通して得た権利で自宅に牛乳販売店を開き、当初は熱心に働いた[17]。だが、1965年6月3日に牛乳瓶2本を盗もうとした少年の兄(同業者だった)のもとに押しかけて2万円を脅し取り、後日新たに示談書を書かせたため、恐喝および恐喝未遂罪で逮捕された[16]。この事件で、懲役1年・執行猶予4年の刑を受けたばかりか、自らの犯歴が妻に知られることになり、牛乳屋も不振に陥る[16]。なお、この年に長女が誕生していた[16]。
大久保は結婚してからも、自家用車で外出してガールハントを続けていたが[16][注 1]、恐喝での検挙後に再び強姦事件を起こすことになる[18]。1966年12月23日に16歳の女子高生を自動車に乗せ、高崎市内に停めた車内で強姦[18]。翌1967年2月24日にも20歳の女子短大生を自動車に乗せ、同じ場所で強姦した[18]。この一件から大久保は逮捕され、懲役3年6か月の判決を受ける[18]。加えて恐喝事件の執行猶予も取り消され、懲役4年6か月の刑となる[18]。
服役した府中刑務所でも大久保は模範囚として振る舞い、所長からの表彰を4度も受けた[19]。一方、妻からは離婚の申し入れがあったが、大久保は出所まで待ってほしいとこれを止めていた[19]。室内装飾品販売を起業する更生計画を作成したこともあり、1971年3月2日に仮釈放となる[19]。
連続殺人
事件発生
仮釈放後の大久保は両親の住む自宅に暮らした。一方、大久保の服役中に妻は実家に戻っており、大久保は自宅での同居(実質的な復縁)を望んだが妻の意思は固かった[20]。妻の実家を訪れた際に、義母から大久保の次兄が(大久保の両親も含めた家庭事情から)同居しない方がよいと申し入れたと知り、さらに次兄および両親から申し入れが事実と聞かされた[21]。大久保は連続殺人での逮捕後に、この一件で将来に絶望し、彼らを道連れに殺人に手を染める決意をしたと述べている[22]。
一方、室内装飾品の販売に必要という理由で、当時の最新型スポーツカー(マツダ・ファミリアロータリークーペ)を親からの資金により購入した[23]。
3月31日に群馬県多野郡で最初の殺人を犯したのを手始めに、逮捕されるまでの1か月半の間、白いスポーツカーで1日平均170キロメートルもの距離を走りながら、約150人(うち確認されたのは127人)の女性に声を掛けていた[24]。大久保の車に乗った女性は約30人で、うち10数人と肉体関係を持った[24]。しかし、声を掛け行動をともにした女性のうち8名を容赦なく殺害、死体を造成地等に埋めて遺棄した[25]。
事件発生日 | 事件発生地点 | 犠牲者 | 仮名 |
---|---|---|---|
1971年3月31日 | 群馬県多野郡 | 女子高生 (17) | A |
1971年4月6日 | 群馬県高崎市 | ウェイトレス (17) | B |
1971年4月17日 | 群馬県前橋市 | 県庁臨時職員 (19) | C |
1971年4月18日 | 群馬県伊勢崎市 | 女子高生 (17) | D |
1971年4月27日 | 群馬県前橋市 | 女子高生 (16) | E |
1971年5月3日 | 群馬県伊勢崎市 | 電電公社職員 (18) | F |
1971年5月9日 | 群馬県藤岡市 | 会社員 (21) | G |
1971年5月10日 | 群馬県前橋市 | 無職 (21) | H |
逮捕から自供まで
Gが行方不明となったあと、Gの兄は自らが経営する会社の従業員や知人による捜索隊を結成し、警察と連絡を取りながら独自の捜索を開始した[26]。Gの兄は地元の藤岡市内でGが外出に使った自転車を発見し、その場所を見張っていたところ、大久保が現れて自転車を手袋で撫でる仕草をした(指紋を消す意図があった[27])ため、不審に感じて話しかけると、大久保は自動車に乗って立ち去った[28]。だがGの兄はその車種やナンバーを記憶しており、警察に連絡するとともに該当車種の販売店に照会して大久保の身元を割り出した[29]。捜索隊は警察の指導も受けながら、5月12日から自動車70台で本格的な捜索に乗り出し、13日の夕刻に捜索隊はカーチェイスの末ついに大久保を拘束ののち連行、警察に引き渡した[30]。Gの失踪事件捜査を担当する群馬県警察藤岡警察署に身柄を移され、14日にGに対するわいせつ目的誘拐罪で逮捕された[31]。この時点で警察は大久保の逮捕理由についての物証を持っておらず、拘留期限を過ぎる可能性もあったが、15日になって強姦被害を受けた女性が警察に届け出て、面通しで大久保に間違いないと指摘したことから彼女に対する強姦致傷容疑で再逮捕された[32]。この女性への強姦致傷については認め、Gを殺したと供述はしたものの、死体遺棄の場所については警察への復讐として絶対に話さないと主張した[33]。以後、死体という物証を持たない警察は被害者全員の発見に至るまで約80日を要することになった[24]。
5月21日に、榛名湖近くで行方不明となっていたAの遺体が発見された[34]。しかし、大久保はAの殺害を認めなかった[35]。捜査本部は方針を変更し、大久保の自作の詩や私淑していたというライナー・マリア・リルケの作品を目の前で朗読したり、心境を語らせたりしながら説得した[36]。大久保は5月26日にGの殺害と死体遺棄について供述し、27日の現場検証で大久保の供述した場所からGの遺体が発見された[37]。これにより大久保は初めて強姦殺人・死体遺棄の容疑で逮捕された[38]。だが、Aを含めた他の殺人は示唆しながらも「秋まで言わない」と黙秘した[39]。6月4日にAの殺害を供述[40]。しかし、その他の事件の供述は一度には進展しなかった。この間警察側は取り調べのほかに、大久保の足取りと接触した女性の確認[41]、大久保の自家用車に残された被害女性の毛髪や体毛の検出[42]といった周辺の捜査をおこない、大久保に行方不明女性の写真を見せて関係の有無を尋ねたりした[43]。大久保は断片的な供述を始めたが、核心部分は「警察や両親・兄への反抗」として拒んだ[44]。警察は再度方針を改め、6月24日に班長の警部1人だけによる取り調べに切り替えた[45]。大久保は「自分の望む条件を出してそれに対する捜査官の態度で死体遺棄地点を教えるかどうかを決める」と述べた[45]。大久保は7つの条件を出し、その多くは身勝手な内容で警部は拒否したが、同時に警部自身が綴った「詩」を読むと大久保は態度を和らげ、2つだけ条件を受け入れるなら被害者1人の遺棄現場に案内すると述べた[46]。捜査本部は「報道関係者を同行させない」という条件を受け入れ、6月27日の未明に榛名町内で大久保の供述した場所からDの遺体が発見された[47]。
だが、その後再び大久保は供述を渋り、さらに身勝手な条件を示したりした[48]。7月13日に再び「報道陣を同行させない」という条件でE、Fと別の男性(実際には虚偽だった)について遺棄の場所を案内するとしたが、実際に外出すると前言を翻し、結局その日は発見できなかった[49]。この事態に警察庁が指導に乗り出し、指導官・調査官の派遣、現場検証に大久保を同行させない(場所はパノラマ写真やビデオを見せて確認)、大久保と条件で妥協しない、身柄を松井田警察署に移すといった方針転換が図られた[50]。松井田署管内では犯罪がほとんど発生しないため留置場には他に拘置者がおらず、大久保を孤立させる効果があった[50][注 2]。結局、7月20日にF[52]、21日にE[53]、22日にB[54]、29日にCとHの殺害と死体遺棄を供述し[55]、それに基づいて5人の遺体が発見された。この発掘は人目を避けていずれも日付が変わった深夜におこなわれた[56]。このうち、Hを除く4人は造成中の工業団地付近にある狭い範囲から発見されている[56]。
なお、この取調中に妻との離婚が成立している[57]。
公判から死刑執行まで
大久保に対する刑事裁判は1971年10月25日に前橋地方裁判所で第一回公判が開かれた[58]。罪状認否には「なにもいうことはありません」と返答した[58]。
大久保は、「裁判でも自供は変えない」と断言した[59]。このため東京医科歯科大学教授の中田修によって精神鑑定が行われた[58][注 3]。鑑定結果では「精神病ではないが発揚性、自己顕示性、無情性を主徴とする異常性格(精神病質)で、性的、色情的亢進を伴う」と判定された[58]。
1973年2月22日に前橋地裁で死刑判決[58]。大久保は控訴せず判決が確定した[60]。同年10月、KKロングセラーズから『訣別の章 死刑囚・大久保清獄中手記』(編集:大島英三郎)を刊行する。1976年1月22日に東京拘置所で大久保の死刑が執行された[60]。
人物
獄中手記『訣別の章』について、風俗史家の下川耿史は、著書『殺人評論』において「(ニーチェやショーペンハウアーを引くなど)難しい言葉を多用して、(アナキズムに共感するなどして)国家権力への反発を述べているが、言葉が難しいわりには浅薄で、他にひどくセンチメンタルな詩を長々と書き連ねており、これが36歳の男が書くものかと思うほどに実に少年っぽい」と批評している[61]。
取調中の大久保は数字の「3」を嫌がった[62]。警察は大久保を追い詰めるためにこれを利用し、松井田署に身柄を移送した際には留置場の第3房に収監した[50]。
大久保清を題材とした作品
- 1976年、本事件のほか、西口彰事件などを再現したオムニバス映画『戦後猟奇犯罪史』(製作:東映)が公開された。大久保に相当する久保清一を演じたのは川谷拓三。
- 1983年8月29日、筑波昭による同名書籍を原作としたテレビドラマ『昭和四十六年 大久保清の犯罪』(製作:TBS)が放送された。大久保を演じたのはビートたけし、プロデュースは八木康夫。
注釈
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 筑波、1982年、pp.14 - 15
- ↑ 筑波、1982年、p.33
- ↑ 筑波、1982年、p.16
- ↑ 筑波、1982年、pp.25 - 26、33 - 34
- ↑ 筑波、1982年、p.17
- ↑ 筑波、1982年、pp.17 - 18、23、26、30
- ↑ 7.0 7.1 筑波、1982年、p.28
- ↑ 筑波、1982年、p.32
- ↑ 9.0 9.1 9.2 筑波、1982年、pp.35 - 37
- ↑ 10.0 10.1 10.2 10.3 10.4 10.5 筑波、1982年、pp.38 - 42
- ↑ 11.0 11.1 筑波、1982年、pp.43 - 45
- ↑ 12.0 12.1 筑波、1982年、p.46
- ↑ 筑波、1982年、p.47
- ↑ 14.0 14.1 筑波、1982年、pp.48 - 49
- ↑ 15.0 15.1 筑波、1982年、pp.50 - 52
- ↑ 16.0 16.1 16.2 16.3 16.4 16.5 筑波、1982年、pp.56 - 57
- ↑ 17.0 17.1 筑波、1982年、pp.53 - 54
- ↑ 18.0 18.1 18.2 18.3 18.4 筑波、1982年、p.58
- ↑ 19.0 19.1 19.2 筑波、1982年、pp.59 - 61
- ↑ 筑波、1982年、p.67
- ↑ 筑波、1982年、pp.73 - 77
- ↑ 筑波、1982年、p.79
- ↑ 筑波、1982年、pp.68、70
- ↑ 24.0 24.1 24.2 筑波、1982年、p.234
- ↑ 筑波、1982年、p.233(この箇所は群馬県警察による捜査報告書の引用)
- ↑ 筑波、1982年、p.10
- ↑ 筑波、1982年、p.149
- ↑ 筑波、1982年、p.11
- ↑ 筑波、1982年、pp.11 - 12
- ↑ 筑波、1982年、pp.118 - 120
- ↑ 筑波、1982年、p.122
- ↑ 筑波、1982年、pp.124 - 125
- ↑ 筑波、1982年、pp.125 - 130
- ↑ 筑波、1982年、pp.135 - 136
- ↑ 筑波、1982年、pp.136、142
- ↑ 筑波、1982年、pp.142- 143、145 - 146
- ↑ 筑波、1982年、pp.147 - 150
- ↑ 筑波、1982年、p.151
- ↑ 筑波、1982年、pp.152、154
- ↑ 筑波、1982年、p.158
- ↑ 筑波、1982年、p155
- ↑ 筑波、1982年、p.171
- ↑ 筑波、1982年、p.175
- ↑ 筑波、1982年、pp.177 - 180
- ↑ 45.0 45.1 筑波、1982年、pp.181 - 182
- ↑ 筑波、1982、pp.183 - 184
- ↑ 筑波、1982年、pp.185 - 186
- ↑ 筑波、1982年、p.192
- ↑ 筑波、1982年、pp.194 - 197
- ↑ 50.0 50.1 50.2 筑波、1982年、p.198
- ↑ 筑波、1982年、p.199
- ↑ 筑波、1982年、p.201
- ↑ 筑波、1982年、p.205
- ↑ 筑波、1982年、pp.207 - 209
- ↑ 筑波、1982年、pp.216 - 221
- ↑ 56.0 56.1 筑波、1982年、pp.210- 213、222、224
- ↑ 筑波、1982年、p.190
- ↑ 58.0 58.1 58.2 58.3 58.4 筑波、1982年、pp.230 - 231
- ↑ 『別冊宝島333 隣りの殺人者たち-彼や彼女はなぜ、人を殺したのか』宝島社、1997年、p.172
- ↑ 60.0 60.1 筑波、1982年、p.232
- ↑ 下川耿史『殺人評論』青弓社、1991年
- ↑ 筑波、1982年、p.156
- ↑ 天上の青 - テレビドラマデータベース
- ↑ BSサスペンス 天上の青 - NHK
- ↑ 文化庁芸術祭賞受賞一覧 昭和61年度(第41回) - 平成7年度(第50回) (PDF) - 文化庁
参考文献
- 筑波昭 『昭和四十六年、群馬の春 大久保清の犯罪』 草思社、1982年。ISBN 4-79-420161-3。
- 2002年に『連続殺人鬼大久保清の犯罪』に改題の上、新潮文庫にて文庫化。