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継体天皇

継体天皇(けいたいてんのう、允恭天皇39年(450年?) - 継体天皇25年2月7日531年3月10日?))は、日本の第26代天皇。在位は継体天皇元年2月4日507年3月3日?) - 同25年2月7日(531年3月10日?)。

ヲホド。『日本書紀』では男大迹王(をほどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと)と記される。また、『筑後国風土記』逸文に「雄大迹天皇(をほどのすめらみこと)」、『上宮記』逸文に乎富等大公王(をほどのおおきみ)とある。 なお、隅田(すだ)八幡神社(和歌山県橋本市)蔵の人物画像鏡銘に見える「孚弟王(男弟王?)」は継体天皇を指すとする説がある(後述)。別名として、『日本書紀』に彦太尊(ひこふとのみこと)とある。

概略

記紀』によれば15代応神天皇の5世孫であり、越前国を治めていたが後嗣を遺さなかった25代武烈天皇の崩御により、中央の有力豪族の推戴を受けて即位したとされる。

戦後、天皇研究に関するタブーが解かれると、5世王というその特異な出自と即位に至るまでの異例の経緯に注目が集まり、元来はヤマト王権とは無関係な地方豪族が実力で大王位を簒奪し、現皇室にまで連なる新王朝を創始したとする王朝交替説がさかんに唱えられるようになった[1]

しかしながら傍系王族の出身という『記紀』の記述を支持する声も多く[2]、それまでの大王家との血縁関係については現在も議論が続いている(後述)。

生涯

『記紀』は共に継体天皇を応神天皇の5世の子孫と記している。また、『日本書紀』はこれに加えて継体を11代垂仁天皇の女系の8世の子孫とも記している。近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市近辺)で誕生したが、幼い時に父の彦主人王を亡くしたため、母・振姫の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられ、「男大迹王」として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。

『日本書紀』によれば、506年に武烈天皇が後嗣を定めずに崩御したため、大連大伴金村物部麁鹿火大臣巨勢男人ら有力豪族が協議し、まず丹波国にいた14代仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこおおきみ)を推戴しようとしたが、倭彦王は迎えの兵を見て恐れをなして山の中に隠れて行方不明となってしまった。やむなく群臣達は越前にいた応神天皇の5世の孫の男大迹王を迎えようとしたものの、疑念を持った男大迹王は河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)を使いに出し、大連大臣らの本意に間違いのないことを確かめて即位を決意したとされる。翌年の507年、58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位し、武烈天皇の姉にあたる手白香皇女皇后とした。即位19年後の526年にして初めて大倭(後の大和国)に入り、都を定めた。翌年に百済から請われて救援の軍を九州北部に送ったものの、しかし新羅と通じた筑紫君・磐井によって反乱が起こり、その平定に苦心している(詳細は磐井の乱を参照)。

対外関係としては、百済が上述のように新羅や高句麗からの脅威に対抗するためにたびたび倭国へ軍事支援を要請し、それに応じている。また、『書紀』によれば継体6年(513年)に百済から任那四県[注 1]の割譲を願う使者が訪れたとある。倭国は大伴金村の意見によってこれを決定し[注 2]、百済は返礼としてか翌年からより招いていた五経博士を遣わしている。

531年に皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位と同日に崩御した。崩年に関しては『古事記』では継体の没年を527年としており、そうであれば都を立てた翌年に死去したことになる。『古事記』では没年齢は43歳、『日本書紀』では没年齢は82歳。

生没年

  • 推定生年:『古事記』には485年、『日本書紀』には允恭天皇39年(450年?)。
  • 推定没年:『古事記』には丁未4月9日527年5月26日?)、『日本書紀』には辛亥2月7日(531年3月10日?)または甲寅(534年?)とされる。

『日本書紀』では、注釈として『百済本記』(散逸)の辛亥の年に天皇及び太子と皇子が同時に亡くなったという記述(「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」)を引用して政変で継体以下が殺害された可能性を示唆しており、このことから継体の本来の後継者であった安閑・宣化と、即位後に世子とされた欽明との間に争いが起こったとする説がある。ただし「天皇」とは誰を指すのか不明であり、本来百済のことを書く歴史書の記述にどれほどの信頼を置いてよいかという疑問もある(詳細は継体・欽明朝の内乱を参照)。『上宮聖徳法王帝説』(弘仁年間成立)と『元興寺伽藍縁起幷流記資材帳』(天平19年成立)によると、「欽明天皇7年の戊午年」に百済の聖明王によって仏教が伝えられたと記されているが、『書紀』の年記によればこの年は宣化天皇3年(538年)であり、欽明朝に戊午年は存在しない。しかし仮に継体崩御の翌年に欽明が即位したとするとちょうど7年目が戊午年に当たることとなり、あるいはこの仮説を裏づける傍証となりうる[4]。また、真の継体陵と目される今城塚古墳には三種類の石棺が埋葬されていたと推測されている(後述[5]

一方で、この辛亥の年とは531年ではなく60年前の471年とする説もある。『記紀』によれば干支の一回り昔の辛亥の年には20代安康天皇が皇后の連れ子である眉輪王に殺害される事件があり、混乱に乗じた21代雄略天皇が兄や従兄弟を殺して大王位に即いている。「辛亥の年に日本で天皇及び太子と皇子が同時に亡くなった」という伝聞情報のみを持っていた『百済本記』の編纂者が誤って531年のことと解釈し、『日本書紀』の編纂者も安康にまつわる話であることに気づかずに(「天皇」は安康、「太子」は後継者と目していた従兄弟の市辺押磐皇子、「皇子」はまま子の眉輪王か)継体に当てはめたとも考えられる[6]

系譜

『日本書紀』によれば応神天皇5世の孫(曾孫の孫)で父は彦主人王、母は11代垂仁天皇7世孫の振媛(ふりひめ)である。ただし、応神から継体に至る中間4代の系譜について『記紀』では省略されており、辛うじて鎌倉時代の『釈日本紀』(『日本書紀』の注釈書)に引用された『上宮記』の逸文によって知ることが出来る。これによると、男子の直系は「凡牟都和希王(ほむたわけのおおきみ・応神天皇)[注 3] ─ 若野毛二俣王 ─ 大郎子(一名意富富等王) ─ 乎非王汙斯王(=彦主人王) ─ 乎富等大公王(=継体天皇)」とされる。『上宮記』逸文は近年、文体の分析によって推古朝の遺文である可能性が指摘され、その内容の信憑性や実際の血統については前述の通り議論が分かれているものの、原帝紀の編纂と同時期(6世紀中葉か)に系譜伝承が成立したものと考えられる[8]

皇后は21代雄略天皇の孫娘で、24代仁賢天皇の皇女であり、武烈天皇の妹(姉との説もある)の手白香皇女である。継体には大和に入る以前に複数の妃がいたものの、即位後には先帝の妹を皇后として迎えた。これは政略結婚であり、直系の手白香皇女を皇后にする事により、既存の大和の政治勢力との融和を図るとともに一種の入り婿という形で血統の正当性を誇示しようとしたと考えられる。継体にはすでに多くの子もいたが、手白香皇女との間に生まれた天国排開広庭尊(29代欽明天皇)を嫡男とした。欽明天皇もまた手白香皇女の姉妹を母に持つ宣化天皇皇女の石姫皇女を皇后に迎え、30代敏達天皇をもうけた。以上のように、大王家の傍系という自らの血の薄さを直系である皇后の血統により補填しようとした様子が窺える。その後は、欽明天皇の血筋が現在の皇室に至るまで続いている。

  • 皇后:手白香皇女(たしらかのひめみこ。仁賢天皇の皇女)
    • 天国排開広庭尊(あめくにおしはらきひろにわのみこと。欽明天皇
  • 妃:目子媛(めのこひめ。尾張連草香の女)
    • 勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ。安閑天皇
    • 檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ。宣化天皇
  • 妃:稚子媛(わかこひめ。三尾角折君の妹)
    • 大郎皇子(おおいらつこのみこ)
    • 出雲皇女(いずものひめみこ)
  • 妃:広媛(ひろひめ、黒比売。坂田大跨王の女)
    • 神前皇女(かむさきのひめみこ)
    • 茨田皇女(まんたのひめみこ)
    • 馬来田皇女(うまぐたのひめみこ)
  • 妃:麻績娘子(おみのいらつめ、麻組郎女。息長真手王の女)
    • 荳角皇女(ささげのひめみこ) 斎宮
  • 妃:関媛(せきひめ。茨田連小望の女)
    • 茨田大娘皇女(まんたのおおいらつめのひめみこ)
    • 白坂活日姫皇女(しらさかのいくひひめのひめみこ)
    • 小野稚娘皇女(おののわかいらつめのひめみこ、長石姫)
  • 妃:倭媛(やまとひめ。三尾君堅の女)
    • 大郎子皇女(おおいらつめのひめみこ、大郎女)
    • 椀子皇子(まろこのみこ、丸高王) 三国公・三国真人の祖
    • 耳皇子(みみのみこ)
    • 赤姫皇女(あかひめのひめみこ)
  • 妃:荑媛(はえひめ。和珥臣河内の女)
    • 稚綾姫皇女(わかやひめのひめみこ)
    • 円娘皇女(つぶらのいらつめのひめみこ)
    • 厚皇子(あつのみこ。阿豆王)
  • 妃:広媛(ひろひめ。根王の女)
    • 菟皇子(うさぎのみこ。記になし) 酒人公の祖(能楽金剛流はこの子孫という)
    • 中皇子(なかつみこ。記になし) 坂田公の祖

系図

テンプレート:皇室古墳時代テンプレート:皇室飛鳥時代

出自を巡る議論

ファイル:Keitaitennou.png
継体天皇出自系図

既述の通り、『記紀』によれば先代の武烈天皇に後嗣がなかったため越前(近江とも)から「応神天皇5世の孫」である継体天皇が迎えられ即位したとされる。『日本書紀』の系図一巻が失われたために正確な系譜が書けず、『釈日本紀』に引用された『上宮記』逸文によって辛うじて状況を知ることが出来るが(右図参照)、この特異な即位事情を巡っては種々の議論がある。

『記紀』の記述を信用するならば、継体を大王家の「5代前に遡る遠い傍系に連なる有力王族」とする説が正しい。しかし戦後に天皇に関する自由な研究が認められることになり、継体はそれまでの大王家とは血縁関係のない新王朝の始祖であるとする説が提唱されるようになった。代表的な研究者である水野祐によればいわゆる万世一系は否定され、出自不明の26代継体天皇から新たな王朝が始まったことになり、この新王朝は継体の出身地から「越前王朝」と歴史学上呼称される(詳細は王朝交替説を参照。)。一方で、その出自を近江国坂田郡を本拠とする息長氏に求める説もあり、その根拠としては息長氏が応神天皇の孫の意富富杼王を祖とする皇別氏族(皇族が臣籍降下して誕生した氏族)で、後の天武朝には八色の姓の最高位を賜るなど朝廷から格別な待遇を受けた氏族であり、継体自身も妃の一人を息長氏から迎えていることなどがあげられる[9]。いずれにしても決め手となるような史料はなく、継体の出自に関しては結論は出ていない[10]

また、即位から大和に宮を定めるまで何故か19年もの時間がかかっていることも不可解で[注 4]、そのため即位に反抗する勢力を武力制圧して王位を簒奪したとする説も出た[11]。継体が宮を構えたのはいずれも河川交通の要衝の地で、大伴氏など継体の即位を後押ししたとみられる豪族の土地も多く、それら支援豪族の力を借りながら漸進的に支配地域を広げていったようにも窺える[12]。しかし大伴氏などは大和盆地に勢力を持っており、継体が宮を築くまで大和にまったく政治力を行使できなかったとは考えづらく、もしも反乱による武力闘争があったのであれば、大和遷都の翌年に起こった筑紫君磐井の乱のように『記紀』に記されていないのは不自然である[13]。一方で、継体が育ったとされる越前、生まれた土地とされる近江、宮があったとされる山城・河内、陵墓が設けられた摂津は日本海琵琶湖宇治川淀川瀬戸内海の水上交通を中心とした交通路によって結び付いており、継体が地方豪族ながら大王位を継げた背景にはこうした交通路を掌握して強大な政治力・経済力を維持していたことにあるとし、本拠地を離れて大和入りする動機が弱いために敢えて大和に入らなかったとする見方もある[14]水谷千秋は武力闘争までには至らなかったものの継体の即位に反対する勢力は存在したとし、その中心となった氏族を葛城氏と推測している[注 5]。その根拠としては、葛城氏は武烈までの仁徳天皇の王統と密接な関係があったこと、以降の時代に目立った活動が見られないこと、6世紀後半には拠点であった北葛城地方が大王家の領有となっていることを挙げている。さらに大和入りの後に安閑・宣化が蘇我氏の勢力圏に宮を造営していることから、葛城氏の支流とみられる蘇我氏は宗家と距離を置いて継体の即位を支援し、この時の働きが後の飛鳥朝における興盛のきっかけとなったとしている[15]。また、考古学的な調査からもヤマト王権に従順ではなかったと窺える北部・中部の九州の首長達が中央の混乱に乗じて自立をする気配を見せ、そうした傾向に対する危機感が反目を繰り返していた中央豪族達を結束させ、継体の大和入りを実現させたとしている。大和入りの翌年に勃発した磐井の乱は、継体の下に新たに編成されたヤマト王権の試金石となり、この鎮圧に成功したことによって継体は自らの政権の礎を確固なものとしたと推測している[16]

近年では、5世紀の大王の地位は特定の血に固定されなかった(即ち王朝ではなかった)とする説もある。継体以前のヤマト王権は各地域国家の連合で、王統は一つに固定されていなかったという意味であり、武光誠は継体以前の大王は複数の有力豪族から選出されたとしている。既述の通り、近年では継体の出自を伝える『上宮記』の成立が推古朝に遡る可能性が指摘され、傍系王族説が再び支持を集めるようになった。すなわち『上宮記』逸文が載っている『釈日本紀』には「上宮記曰一伝」という記述があるが『上宮記』の作者は別史料を引用しており、それにはさらに古い資料に基づいた系譜が載っていたとされていることを根拠とする。

仮に継体新王朝説を採用した場合でも、現皇室は1500年の歴史を持ち、現存する王朝の中では世界最長である[注 6]。それ以前の系譜は参考ないしは別系とするなどして「実在と系譜が明らかな期間に限っても」という条件下においてもこのように定義・認定されることから、皇室の歴史を讃える際などに、継体天皇の名前が引き合いに出されることが多い。

隅田八幡神社人物画像鏡

隅田八幡神社所蔵[注 7]国宝人物画像鏡」の銘文に『癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟』「癸未の年八月十日、男弟王が意柴沙加の宮にいます時、斯麻が長寿を念じて河内直、穢人今州利の二人らを遣わして白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る」とある(判読・解釈には諸説あり)。

隅田八幡神社は859年の設立であるが、人物画像鏡の出土場所、出土年代は明らかにされておらず、「癸未」については443年説と503年説など論争がある。「癸未」を503年、「男弟王」を(おおと)=男大迹王つまり継体天皇と解釈すると、継体は癸未=武烈天皇5年8月10日(503年9月18日)の時点では、大和の意柴沙加宮=忍坂宮にいたとする仮説が成り立つ。もしこの説が正しければ、継体が畿内勢力の抵抗に遭って長期に渡って奈良盆地へ入れなかったとする説が崩れる。503年説が正しければ、鏡を作らせて長寿を祈った「斯麻」は、当時倭国と同盟関係にあった百済武寧王(別名斯麻王)となる。

ただし「男弟」の読みは厳密には「ヲオト」であり、継体の「ヲホド」とは微妙に異なる(詳細はハ行転呼音唇音退化を参照)。このことから、「男弟王」を「大王の弟の王族」と解釈し、妹の忍坂大中姫允恭天皇に入内した意富富杼王であると考える説もある[注 8]。その場合「癸未」は443年となり、鏡を作らせた「斯麻」は武寧王ではなく三嶋県主と考える。継体は三嶋の対岸に位置する樟葉宮で即位していることから、曽祖父である意富富杼王とも深い親交があったとしても不自然ではない[17]

伝承

ゆかりの地である越前はかつて湿原が広がり農耕や居住に適さない土地であった。男大迹王(おおとのみこ、のちの継体天皇)はこの地を治めると、まず足羽山に社殿を建て大宮地之霊(おおみやどころのみたま)を祀りこの地の守護神とした。これが現在の足羽神社である。

次に地形を調査のうえ、大規模な治水を行い九頭竜川足羽川日野川の三大河川を造ることで湿原の干拓に成功した。このため越前平野は実り豊かな土地となり人々が定住できるようになった。続いて港を開き水運を発展させ稲作養蚕採石製紙など様々な産業を発達させた。

天皇即位のため越前を離れることになると、この地を案じて自らの御生霊を足羽神社に鎮めて御子の馬来田皇女(うまくだのひめみこ)を斎主としてあとを託したという。このような伝承から越前開闢の御祖神とされている。

の「花筐」に登場する。あらすじ:継体帝が武烈帝の後継者に選ばれ、寵愛の照日(シテ)に手紙と花篭を形見として贈って上京した。照日は君を慕い、侍女とともに狂女の姿となって都へ追う。紅葉見物の行幸の列の前に現われた照日は、帝の従者(ワキ)に篭を打ち落されて狂い、漢の武帝と李夫人の物語を舞う。やがて帝は以前照日に渡した花篭であると気づき、再び召されて都に連れ帰った。後に二人の間の子が安閑天皇となる。

皇居

※『日本書紀』に拠る。

上叙の遷都は政治上の重大な変革があったためとする説もあるが、憶測の域を出ない。ただし、この記録が事実とすると、継体が大和にいたのは晩年の5年のみである。

陵・霊廟

(みささぎ)は、宮内庁により大阪府茨木市太田3丁目にある三嶋藍野陵(みしまのあいののみささぎ:三島藍野陵)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「太田茶臼山古墳」で、墳丘長227メートルの前方後円墳である。しかし、本古墳の築造時期は5世紀の中頃とみられている。

一方、大阪府高槻市郡家新町の今城塚古墳(前方後円墳、墳丘長190m)は6世紀前半の築造と考えられることから、歴史学界では同古墳を真の継体天皇陵とするのが定説となっている。この古墳は被葬者の生前から造られ始めた寿陵であると考えられている[18]。この古墳は宮内庁による治定の変更が行われていないために立ち入りが認められ、1997年からは発掘調査も行われている。2011年4月1日には高槻市教育委員会にて史跡公園として整備され、埴輪祭祀場等には埴輪がレプリカで復元された。隣接する今城塚古代歴史館では、日本最大級の家型埴輪等が復元展示されている。

同古墳ではこれまで家型石棺の破片と見られる石片が三種類確認されている。その内訳は、熊本県宇土市近辺の阿蘇溶結凝灰岩のピンク石、奈良県大阪府の境に位置する二上山の溶結凝灰岩の白石、兵庫県高砂市の竜山石で、少なくとも三基の石棺が安置されていたことが推測できる。このうち、竜山石は大王家の棺材として多く用いられたものである[19]。これらの石棺は、16世紀末の伏見大地震により破壊されたと見られる[20]。2016年には、過去に付近で石橋に使われていた石材が今城塚古墳の石棺の一部であった可能性が発表された[21]

また、皇居皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに御霊が祀られている。

石碑

1847年飛騨高山国学者田中大秀の起案を受けて門弟・橘曙覧池田武万侶山口春村、足羽神社神主・馬来田善包らにより継体天皇御世系碑が足羽神社境内に建立されている。この碑文には、大秀の研究による応神天皇から継体天皇までの系図が彫り込まれている。

これには「玉穂宮天皇大御世系」とあり、その下に「品陀和気命(御諡 応人天皇) ─ 若沼毛二俣王 ─ 大郎子(亦名 意本杼王) ─ 宇斐王 ─ 汙斯王(書記云 彦主人王)─ 袁本杼命(書記云 更名 彦太尊 御諡 継体天皇)」と彫り込まれている。

また足羽神社の近くにある足羽山公園には継体天皇を模した巨大な石像が三国を見下ろすように建っており、観光スポットとなっている。

在位年と西暦との対照表

継体天皇を題材にした作品

  • 『北風に起つ 継体戦争と蘇我稲目』 (1988年、中央公論社) 黒岩重吾
  • 『継体天皇、空を飛ぶ』(2007年、小学館)赤石路代

脚注

注釈

  1. 上哆唎(おこしたり)、下哆唎(あるしたり)、娑陀(さた)、牟婁(むろ)の四県。これが現代のどの地方に当たるかについては、全羅南道にほぼ相当するという説と、全羅南道の南東部であるという説が存在する[3]
  2. 後の欽明朝初期にこの四県割譲が問題となり、責任を問われた金村が失脚している。
  3. この「凡牟都和希王」を「ホムツワケ」と読んで、応神天皇ではなく垂仁天皇の第一皇子である誉津別命(ほむつわけのみこと)とする説もある。しかし系譜上の始祖には天皇を据えるのが普通であり、母系の始祖には垂仁を据えているにも拘らず父系には書かないというのは不可解である。また父母が共に世代の異なる垂仁の子孫ということになるため、やはり不自然といえる[7]
  4. ただし、『書紀』は「一本に曰く、七年なりと」と注釈を付けている。
  5. 従前葛城氏は5世紀末の雄略朝に滅んだという説が通説であったが、近年ではこの時滅んだのは玉田宿禰系統の葛城氏であり、葦田宿禰系の葛城氏は衰弱しながらもそれなりの勢力を保って存続したと考える説が有力となっている。
  6. 現在は断絶している王朝、および伝説を含めるのであれば、メネリク1世からハイレ・セラシエ1世に至るエチオピアの皇朝が3000年続いたとされる。
  7. 銅鏡は長年東京国立博物館に寄託されているが、所有者は隅田八幡神社である。
  8. 「男弟王」の語は『魏志倭人伝』にも見られ、邪馬台国の女王卑弥呼を佐治した弟を指すために使われている。意富富杼王は忍坂大中姫の兄だが、允恭よりは年下なのでこう記したと考える。

出典

  1. {{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}P451
  2. {{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}P4
  3. 田中 2009, p. 80.
  4. {{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}P197-198
  5. {{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}P153-154 水野正好による論考。
  6. {{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}P193-195
  7. {{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}P92-94
  8. {{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}
  9. {{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}P21-22
  10. {{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}P185
  11. {{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}P130
  12. {{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}P130-132
  13. {{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}P134-135
  14. {{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}
  15. {{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}P135-144
  16. {{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}P167-172
  17. {{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}P52-54 和田萃による論考。
  18. {{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}P16
  19. {{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}P151-152 水野正好による論考。
  20. {{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}P17
  21. "橋の石材、「真の継体天皇陵」の石棺か 高槻の歴史館発表「大王のひつぎの実態に迫る発見」"(産経新聞、2016年11月10日記事)。

参考文献

  • 井上光貞 『日本の歴史1 神話から歴史へ』 中央公論社〈中公文庫〉、1973-10。ISBN 4-12-200041-6。
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  • 山中鹿次「継体天皇の即位への背景と大和進出」愛知学院大学文学研究科 文研会紀要4.5号、1994年 ISSN 0917-3633
  • 宇治市教育委員会 編 『継体王朝の謎 うばわれた王権』 河出書房新社、1995。ISBN 978-4-309-22285-1。
  • 安本美典 『応神天皇の秘密』 廣済堂出版、1999-11。ISBN 4-331-50704-1。
  • 水谷千秋 『謎の大王 継体天皇』 文藝春秋〈文春新書〉、2001-9。ISBN 978-4-16-660192-9。
  • 武光誠 『大和朝廷と天皇家』 平凡社〈平凡社新書〉、2003-5。ISBN 978-4-582-85180-9。
  • NHK大阪今城塚古墳プロジェクト 編 『大王陵発掘! 巨大はにわと継体天皇の謎』 NHK出版、2004-7。ISBN 978-4-14-080872-6。
  • 高槻市教育委員会 編 『継体天皇の時代 徹底討論今城塚古墳』 吉川弘文館、2008-7。ISBN 978-4-624-07988-4。
  • 田中俊明 『古代の日本と伽耶』 山川出版社〈世界史リブレット70〉、2009-1。ISBN 978-4-410-01172-0。
  • 直木孝次郎 『直木孝次郎古代を語る6 古代国家の形成―雄略朝から継体・欽明朝へ』 吉川弘文館、2009-3。ISBN 978-4-642-07887-0。
  • 水谷千秋 『継体天皇と朝鮮半島の謎』 文藝春秋〈文春新書〉、2013-7。ISBN 978-4-16-660925-3。
  • 中野高行 『三田古代史研究会編 法制と社会の古代史』 慶應義塾大学出版会、2015-5。ISBN 978-4-7664-2230-6。

関連項目

外部リンク