垂仁天皇

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垂仁天皇(すいにんてんのう、崇神天皇29年1月1日 - 垂仁天皇99年7月14日)は第11代天皇(在位:垂仁天皇元年1月2日 - 垂仁天皇99年7月14日)。

伊勢神宮の建立や大規模な灌漑事業を行った。相撲、埴輪など著名な神事の起源もこの天皇の治世にあるとされる。活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)・活目尊等と称され、『古事記』には「伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)」、『常陸国風土記』には「伊久米天皇」、『令集解』所引「古記」に「生目天皇」、『上宮記』逸文に「伊久牟尼利比古(いくむにりひこ)大王」と見える。『日本書紀』、『古事記』に見える事績は総じて起源譚の性格が強いとして、その史実性を疑問視する説もあったが、近年においてはその実在を認めることが多い[1]

系譜

崇神天皇の第3皇子。生母は御間城姫命(みまきひめのみこと)。

  • 皇后(前):狭穂姫命彦坐王の女)。垂仁天皇5年に焼死したとされる
  • 皇后(後):日葉酢媛命丹波道主王の女)
    • 五十瓊敷入彦命
    • 大足彦忍代別尊(おおたらしひこおしろわけのみこと、景行天皇
    • 大中姫命(おおなかつひめのみこと、『古事記』には大中津日子命)
    • 倭姫命。初代斎宮
    • 稚城瓊入彦命(わかきにいりひこのみこと)
  • 妃:渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ。日葉酢媛の妹)
    • 鐸石別命(ぬてしわけのみこと)。和気氏の祖
    • 胆香足姫命(いかたらしひめのみこと)
  • 妃:真砥野媛(まとのひめ。日葉酢媛の妹)
  • 妃:薊瓊入媛(あざみにいりひめ。同上)
    • 息速別命
    • 稚浅津姫命(わかあさつひめのみこと)
  • 妃:迦具夜比売(かぐやひめ。大筒木垂根王の女)。かぐや姫モデル
    • 袁那弁王(おなべのみこ、『古事記』のみ)
  • 妃:綺戸辺(かにはたとべ、弟苅羽田刀弁。山背大国不遅の女)
  • 妃:苅幡戸辺(かりはたとべ、苅羽田刀弁)。弟苅羽田刀弁の姉
  • 母親未詳

系図

テンプレート:皇室古墳時代

事績

『日本書紀』の編年に拠る。

  • 崇神天皇29年1月1日に誕生(垂仁天皇即位前紀による。崇神天皇元年の条では、御間城姫はこれより前に垂仁天皇を生んだとあり、矛盾する記述となっている)。同48年4月、崇神天皇の夢の前兆により皇太子に立てられる。
  • 垂仁天皇元年1月即位。翌2年2月に狭穂姫を立后、10月、纒向に遷都した。
  • 同3年3月新羅王子の天日槍が神宝を奉じて来朝。
  • 同5年10月、皇后の兄・狭穂彦が叛乱を起こし、皇后は兄に従って焼死。
  • 同7年7月、野見宿禰当麻蹴速相撲をとり蹴殺す(相撲節会の起源説話)。
  • 同15年2月、丹波道主王の女たちを後宮に入れ、8月にその中から日葉酢媛を皇后とした。
  • 同25年3月、天照大神の祭祀を皇女の倭姫命に託す(元伊勢伝承)。
  • 同27年8月、諸神社に武器を献納し、神地・神戸を定める。この年、来目(奈良県橿原市久米町)に初めて屯倉を興す。
  • 同28年、殉死の禁令。
  • 同32年7月、日葉酢媛が薨去。野見宿禰の進言に従い、殉死の風に替えて埴輪を埋納する(埴輪の起源説話)。『古事記』に「石祝(棺か)作りを定め、土師部(はにしべ)を定めたまいき」とある。石棺を作る部民や赤土で種々の器を作る部民を定めたというのである。
  • 同35年、河内国の高石池や茅渟(ちぬ)池を始め、諸国に多くの池溝を開いて、農業を盛んにしたと伝える。
  • 同39年10月、五十瓊敷命が剣千振を作り、石上神宮に納める。この後、五十瓊敷命に命じて、同神宮の神宝を掌らせる。
  • 同90年2月、田道間守に命じて、常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせる。
  • 同99年7月、崩御。140歳(『日本書紀』)、153歳(『古事記』)、139歳(『大日本史』)。12月、菅原伏見陵に葬られた。『住吉大社神代記』には、在位53年で辛未年に崩御したとあり、これは『書紀』の編年と1年相違するが、『古事記』の没年干支と整合する点で注目される(『書紀』の垂仁天皇99年を計算すると1年前の庚午、『古事記』の崇神天皇の没年干支は53年前の戊寅)。

宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)、『古事記』では師木玉垣宮(しきのたまかきのみや)。伝承地は奈良県桜井市穴師周辺。

なお京都府久世郡久御山町市田の地には宮城跡とされる地域があり、その地には垂仁天皇と和気清麻呂を祭った珠城神社(久世郡久御山町大字市田小字珠城2-1)がある。

陵・霊廟

(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市尼辻西町にある菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「宝来山古墳」で、墳丘長227メートルの前方後円墳である。

『古事記』には「御陵は菅原の御立野(みたちの)の中にあり」、『日本書紀』には「菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)」、『続日本紀』には「櫛見山陵」とある。『延喜式諸陵寮には「菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)」と記される。

現在の宝来山古墳の濠の中、南東に田道間守の墓とされる小島がある。この位置は、かつての濠の堤上に相当し、濠を貯水のため拡張して、島状になったと推測される。しかし、戸田忠至等による文久の修陵図では、この墓らしきものは描かれていない。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

在位年と西暦との対照

垂仁天皇の在位年について、実態は明らかでない。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。

脚注

  1. 吉村武彦「列島の文明化と律令制国家の形成(稿)」『古代学研究所紀要』第21号(2014)明治大学日本古代学研究所

外部リンク