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塩谷氏

塩谷氏(しおやし・しおのやし・しおたにし・えんやし 等)は、日本の氏族。氏姓における塩谷の読み方については、一般的には「しおや」だが、下野国塩谷郡を発祥とする塩谷氏が「しおのや」と名乗っているほか、「しおたに」「えんや」と呼称する塩谷氏もある。宇多源氏塩冶氏(えんやし)とは別である。

塩谷氏(しおのやし)

源義親の子の堀江頼純下野国塩谷郡に下り創始したのが塩谷(しおのや)氏である。 これは、塩谷郡が大化の改新の古くから「しおのや」と呼ばれていた事に由来している。平安時代中期に編纂された和名抄では『志保之夜(シホノヤ)』と注釈されており、これを示すいくつかの和歌も残されている[1]

  • 塩ノ谷ノ八塩ノウチノ貢物 思エハ遠クミツル物哉  天武天皇
  • 塩のやの八塩の里の貢物 思ひば遠く来つるもの哉  草壁皇子
  • 塩のやの月かけ清みあこかれて 蜒(えん 海人の事)ならぬ身もやとりさだめず  藤原躬鶴
  • 磯ならぬこの塩のやの松がえも 志からむ藤の浪はかけけり  円治花門
  • 蜒ならぬこの塩のやの山賊も 木こりの炭やきいとまなからむ  板橋住
  • 浦遠き山田も賊が心にて みちひる水や塩のやの里  詠み人しらず
  • 蜒が子の袂ならねど塩のやの 里の卯花くたす五月雨  高階友篤

そのため、下野国塩谷郡を拠点とした塩谷氏は『しおのや』と名乗った。藤姓塩谷氏の初代である塩谷朝業も『承久記』巻一において『しほのや兵衛朝業』と記されており[2]、さらに江戸時代末期に編纂された下野国誌[3]にも『塩ノ谷』とあり、江戸時代に至っても下野国塩谷郡の塩谷氏は代々「しおのや」と呼称されていた事が解る。その直系の子孫も「しおのや」と名乗り[4]、地名としての呼称が「しおや」に変わってからも、氏姓の呼称は「しおのや」のまま現在に至っている。

源姓塩谷氏

堀江氏

源姓塩谷氏(堀江氏)歴代
初代 塩谷頼純(堀江頼純)
2代 塩谷惟純(堀江惟純)[5]または頼賢[6]
3代 塩谷惟頼(堀江惟頼)
4代 塩谷正義(堀江正義)
5代 塩谷朝義(堀江朝義)

塩谷荘を支配したと伝わる清和源氏の一族。塩谷氏の系譜や伝承・軍記物にみられ、かつては伝説の存在とされたが、現在では存在していた可能性が高いと推定される。ただし存在を裏付ける確実な同時代史料は存在していない[7]

『矢板市史』によれば、源義親の子である堀江頼純が、父のために流罪となり、大治5年(1130年)頃に下野国塩谷郡に下り塩谷荘司として塩谷氏を名乗ったのが始まりと伝わる。但し、その頃には頼純は没している可能性が高く、矢板市史のこの見解については、年代の整合性を検討する必要がある。なお系図の所伝では、「喜連川塩谷系図」[6]は義親の討伐後に頼純が下野へ流罪となり孫の惟頼が塩谷少将を名乗ったという所伝を記載し、一方「秋田塩谷系譜」[5]は、堀江頼純が塩谷荘司として塩谷姓創始したと記されている。

塩谷荘33郷3万8千町を支配した。居城は『堀江山城[8]と『御前原城[9]の両説がある。しかし、御前原城の築城年代には二説あり、一説は、築城者とされる塩谷頼純が存命しない治承寿永年間(1177年1183年。間に養和の年号あり)の築城とする説であり矛盾があるため、この点において、もう一説の正安4年(1315年)説が有力とされており、この場合、堀江氏の時代には御前原城は存在していないことになる。しかも、仮に治承寿永年間の御前原築城の年代が正しかったとしても、塩谷氏は、その半世紀も前から塩谷郡を支配しており、当然、御前原築城以前の居城があったはずで、少なくとも御前原城は、塩谷氏の最初の居城とはなりえず、さらに平成の発掘調査[10]によって、御前原城の築城年代は1400年初め頃と推測されたため、より年代の近い正和4年築城説が有力となった。一方で堀江山城説では、のちに御前原城となる旧塩谷郡衙に塩谷頼純が滞在した後、堀江山城を築いて移り、5代の間、堀江山にあったとしており、堀江山の名前からも堀江氏の堀江山城居城説の有力となっている。

菩提寺は、奉り墓として寺山観音寺、埋め墓として六房寺の両墓制であったと言われているが定かではない。

5代目朝義に子が無かったため、宇都宮業綱の次男竹千代(朝業)を養子に迎え家督を相続させ、源姓塩谷氏の時代は終焉する。

喜連川源姓塩谷氏

源姓塩谷氏(喜連川源姓塩谷氏)歴代
初代 塩谷惟広(塩谷五郎)
2代 塩谷惟守(塩谷三郎)
3代 塩谷惟義(塩谷弥次郎)
4代 塩谷惟縄

しかし、本家では源姓塩谷氏は断絶したが、その血統は、塩谷惟純の次男惟広[11]の子孫によって維持された。同じ塩谷郡の喜連川の大蔵ヶ崎城を中心に三千町の領地[12]を支配し、源姓塩谷氏の血統を守り、惟広は治承・寿永の乱(源平合戦)に参戦して戦功を挙げ[13]、鎌倉幕府に源姓塩谷氏の地位を確立していくが、その子惟守が和田合戦において、和田義盛に同調して討死すると、喜連川塩谷氏は鎌倉において地位を失い、その勢力が大きく衰退する。そして、惟守の甥である4代惟縄の時、惟縄に嗣子がなかった事から、藤姓塩谷氏から塩谷忠朝[14]を婿養子に迎えて家督を継がせる事になり、ここに惟広の子孫により辛うじて守られてきた源姓塩谷氏の血統も断絶し、源姓塩谷氏は完全に途絶えた。

藤姓塩谷氏

藤姓塩谷氏歴代
初代 塩谷朝業 承安4年(1174年)正月24日生 - 宝治2年(1248年)10月7日没 従五位下周防守 民部大輔
2代 塩谷親朝 建久5年(1194年)5月18日生 - 建長2年(1250年)10月14日没 従五位下周防守 民部大輔
3代 塩谷泰朝 建保2年(1214年)7月9日生 - 弘安元年(1278年)12月7日没 従五位下周防守 民部大輔
4代 塩谷盛朝 嘉禎3年(1237年)2月17日生 - 徳治2年(1307年)12月9日没 従五位下周防守 民部大輔
5代 塩谷朝定 正嘉元年(1257年)11月20日生 - 元徳2年(1330年)5月13日没 従五位下周防守 民部大輔
6代 塩谷朝世 弘安2年(1279年)3月20日生 - 興国6年(1345年)10月17日没 従五位下周防守 民部大輔
7代 塩谷家綱 文保元年(1317年)10月20日生 - 元中3年(1386年)6月9日没 従五位下駿河守 民部大輔
8代 塩谷朝綱 元応2年(1320年)10月17日生 - 元中8年(1391年)12月26日没 従五位下駿河守 民部大輔
9代 塩谷盛綱 嘉暦2年(1327年)10月21日生 - 応永7年(1400年)5月28日没 従五位下駿河守 民部大輔
10代 塩谷泰綱 正平4年(1349年)正月18日生 - 応永28年(1421年)10月1日没 従五位下駿河守 民部大輔
11代 塩谷光綱 建徳2年(1371年)9月25日生 - 文安5年(1448年)3月28日没 従五位下駿河守 民部大輔
12代 塩谷秋綱 明徳元年(1390年)10月27日生 - 享徳2年(1453年)4月11日没 従五位下駿河守 民部大輔
13代 塩谷教綱 応永13年(1406年)正月7日生 - 長禄2年(1458年)5月8日没 従五位下駿河守 民部大輔
14代 塩谷隆綱 永享11年(1439年)9月15日生 - 延徳元年(1489年)12月28日没 従五位下駿河守 民部大輔
備考 系譜および生没年は「秋田塩谷系譜」による。ただし朝綱・盛綱・泰綱・光綱・隆綱については記載の無い系譜がある[15]

源姓塩谷氏の最後の当主・朝義の養子となった竹千代が元服して朝業と名乗り、家督を継いだことで藤姓塩谷氏の歴史が始まる(「秋田塩谷系譜」)。朝業は婿として養子になったとも伝わる(「喜連川塩谷系譜」)。藤姓とは、朝業の実家である宇都宮氏藤原氏の出自であったためである。

朝業は、堀江山城の山続きの北側500mほどの山頂に新たに川崎城を築き居城とする。菩提寺長興寺

藤姓塩谷氏は、約260年~300年間に渡り続くが、応永30年(1423年)8月9日、教綱の時、関東公方足利持氏と結び、宇都宮氏に謀反。時の宇都宮当主、宇都宮持綱を自領の幸岡原に狩りに招いて殺害[16]。この35年後の長禄2年(1458年)5月8日、今度は教綱が、和睦を口実に宇都宮城に招かれたところを殺害され、藤姓塩谷氏は衰退する(5月13日に宇都宮城からの帰りの氏家で討たれたと記す文献もあり)。

教綱殺害により、藤姓塩谷氏時代が終焉するが、その経緯には2説がある。教綱の死で藤姓塩谷氏が断絶し、宇都宮正綱の四男弥五郎が名跡を継いで宇都宮氏の影響下に入ったとする説(『下野国誌』所収「塩谷系図」)と、教綱の子に隆綱があって文明10年(1478年)正月18日に塩谷弥五郎を養子に迎え家督を継がせたという説(「秋田塩谷系譜」)である。後者の説では、この養子関係に拠って宇都宮氏と塩谷氏は和睦したという。

重興塩谷氏(再興塩谷氏)

重興塩谷氏(再興塩谷氏)歴代
初代 塩谷孝綱 文明2年(1470年)5月5日生 - 天文15年(1546年)10月19日没 伯耆守 民部大輔
2代 塩谷義孝 長享2年(1488年)正月5日生 - 永禄7年(1564年)10月7日没 伯耆守 民部大輔
3代 塩谷義綱 永禄2年(1559年)正月20日生 - 寛永8年(1631年)12月9日没 伯耆守 民部大輔
4代 塩谷義通 天文16年(1547年)月日不詳生 - 慶長3年(1598年)11月1日没 日向守
5代 岡本保真 (塩谷惣十郎) 天正10年(1582年)月日不詳生 - 正保元年(1644年)3月10日没
6代 塩谷保正 生没年不詳
7代 塩谷吉正 生没年不詳
8代 塩谷明正 元禄6年(1693年)月日不詳生 - 宝暦7年(1757年)7月26日没
9代 塩谷奉正 享保4年(1719年)月日不詳生 - 寛政7年(1795年)5月7日没
10代 塩谷正義(大四郎) 明和6年(1769年)6月14日生 - 天保7年(1836年)9月8日没 正五位[17]
11代 塩谷正路 享和元年(1801年)1月28日生 - 明治7年(1874年)月日不詳没 正五位豊後守大夫
12代 塩谷正是 生没年不詳

孝綱は藤姓塩谷氏と同族の宇都宮氏嫡流の出身なので、藤姓であることには変わりないが(ただし孝綱の父の正綱は芳賀氏清原姓)からの養子)、それ以前と区別して重興塩谷氏(再興塩谷氏)などと呼ばれる。「秋田塩谷系譜」では、義孝義綱の間に時綱冬綱通綱という3人の当主がいたとする。但し、後世において、功績のあった塩谷氏の一族の者に当主の地位を追贈した可能性もあるので、完全に架空の存在であるとも言い切れない。また、義通については、義綱が家督を継いだのは天正2年(1574年)11月のことであり、義孝の死去から10年のブランクがあるため、正室の子である義綱が元服するまでの間、繋ぎ的に塩谷氏の当主であった可能性も指摘されている[18]。一説では、時綱が義孝の弟で、結城晴朝と戦って討死した乙畑孫四郎こと塩谷義尾(没年が同じ永禄二年(1559年))、冬綱が孝信、通綱が義通とも言われている。[19]

塩谷氏は、重興塩谷氏の時代に入り、永禄7年(1564年)10月7日に、義孝が弟の孝信に殺害され川崎城を奪われて以降内紛が続き、天正18年(1590年)には、家臣の岡本正親に独立されるなど衰退していく。

そして、文禄4年(1595年)2月8日[20]、塩谷義綱には豊臣秀吉により改易が言い渡される。系譜に理由の記載は無いが、この2年後に本家である宇都宮氏も改易された事実とあわせて考えると、豊臣政権内の政争に巻き込まれたものと考えられているが定かではない。[21]また、塩谷氏については、小田原征伐の際、直接参陣しなかったために改易されたとする見解もあるが、義綱は、天正17年(1589年)6月29日に上洛して秀吉に恭順の意を表しており、小田原征伐では、名代として家臣の岡本正親を派遣していることから、この時に改易になったとは考え難い[7]

文禄4年(1595年)に改易されたが、捨扶持として1000石[22]が義綱に安堵された。しかし義綱はこれを捨て出奔し、義綱庶兄の義通が岡本正親の甥であり娘婿である関係からこの1000石を継いだという。そして義通の跡は次男・塩谷惣十郎[23]が家督を継いだ[24]

しかし、その保真は、正保元年(1644年)3月10日、甥の岡本義政の謀略により殺害(泉騒動)され、この騒動の結果、岡本義政とともに野州塩谷氏は改易となる。

その後、保真の三男保正が桜田御殿(徳川綱重)に仕え、のちに30俵扶持の幕臣となり、義通流の塩谷氏の命脈を細々ながら保った。 だが、保正から数えて5代目塩谷正義の代になると、正義は幕府内で飛躍的な出世を遂げ、大坂九州の15万石の天領を支配する日田代官となり、最終的には西国郡代にまで出世し、その家名を下野国にあった祖先の塩谷氏の頃よりも高く轟かせる事になった。正義は、のちに日田の名代官として称えられ、地元の人々に塩谷神社を建てて顕彰されるなど崇敬される存在となった。

佐竹家臣時代

佐竹家臣時代歴代
初代 塩谷義綱 永禄2年(1559年)正月20日生 - 寛永8年(1631年)12月9日没 伯耆守 民部大輔 十二所城
2代 塩谷貞綱 慶長10年(1605年)2月15日生 - 万治3年(1660年)8月4日没 民部 十二所城代
3代 塩谷重綱 寛永10年(1633年)3月19日生 - 元禄15年(1702年)6月12日没 民部 十二所城代
4代 塩谷方綱 万治元年(1658年)2月17日生 - 正徳4年(1714年)3月13日没 民部
5代 塩谷実綱 元禄5年(1692年)2月18日生 - 正徳4年(1714年)10月29日没 民部?
6代 塩谷元綱 宝永4年(1707年)2月4日生 - 宝暦12年(1762年)5月16日没 民部
7代 塩谷久綱 元文4年(1739年)5月21日生 - 寛政6年(1794年)10月2日没 伯耆
8代 塩谷保綱 安永2年(1773年)正月4日生 - 天保5年(1834年)10月20日没 右膳 御相手番
9代 塩谷紀綱 文化7年(1810年)正月14日生 - 安政元年(1854年)9月15日没 伯耆 家老
10代 塩谷温綱 天保4年(1833年)正月6日生 - 明治42年(1909年)3月10日没 家老 秋田藩執政 秋田藩大参事

義綱は、改易となった後、慶長2年(1597年)正月2日より常陸国佐竹義宣に仕え、慶長7年(1602年)に佐竹氏出羽国に転封となると、これに従い、出羽国平鹿郡横手に移り十二所城代を務め、子孫は、佐竹氏の家老職などを務める。しかし、その最後の当主である温綱に子が無かったため、嫡流は明治時代に断絶する。

源姓・藤姓系譜

実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
源義親
 
 
 
源姓塩谷氏
 
 
 
塩谷頼純
 
 
 
惟純
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
惟頼喜連川塩谷氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
正義朝義惟広
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
藤姓塩谷氏惟守惟義
 
 
 
 
 
朝業[※ 1]惟縄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
親朝笠間時朝忠朝[※ 2]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
泰朝忠綱幸岡親時惟純?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
盛朝朝宗朝基重朝正朝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
朝定忠朝小田時景朝宗
 
 
 
 
 
朝世惟朝
 
 
 
 
 
家綱孝信
 
 
 
 
 
秋綱惟久
 
 
 
教綱
 
 
 
隆綱
 
 
 
重興塩谷氏
 
 
 
孝綱[※ 3]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義孝孝信義尾盛綱
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義通久保田藩塩谷氏小幡義勝小幡高升
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義綱行安
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岡本義保保真岡本保忠貞綱
 
 
 
 
 
 
 
義政保正重綱
 
 
 
 
 
 
 
義住吉正方綱
 
 
 
 
 
 
 
能茂明正実綱
 
 
 
 
 
 
 
公能奉正元綱
 
 
 
 
 
正義久綱
 
 
 
 
 
正路保綱
 
 
 
 
 
正是紀綱
 
 
 
温綱
  1. 宇都宮業綱の子。
  2. 藤姓塩谷氏・塩谷泰朝の子朝宗の子。
  3. 宇都宮正綱の4男。

塩谷(しおのや)姓を名乗る著名人

塩谷氏(しおやし)

一般的に「しおや」と読み下す塩谷氏である。

児玉党系塩谷氏

武蔵七党の一角を占める児玉党の本宗家3代目児玉武蔵権守家行有道姓)の次男、児玉二郎家遠(後の塩谷平太夫家遠)が、武蔵国児玉郡塩谷郷若泉庄の塩谷(現在の埼玉県本庄市児玉町塩谷)の地を父から与えられ、子孫が土着して塩谷(しおや)を名乗った事から始まる(児玉党を構成する氏族)。従って、藤原姓とあるが本来の初姓は有道姓であり、12世紀中には塩谷を名乗っていたものと見られる。児玉党系塩谷氏の活躍については、『源平盛衰記』などの資料に見られる。児玉町には、源義経の居所を児玉党系塩谷氏が真下基行と共に襲撃したとの旧家の伝書もある。

『武蔵七党系図』では、嫡流を、家遠→経遠経光(児玉二郎)としている(複数系図が存在している為、断定はできない)。また、家遠の子、塩谷五郎維弘は、一ノ谷の戦いに参戦し、奥州合戦にて戦死し、維弘の子、三郎維盛とその子である六郎維光は、共に建暦3年(1213年)5月2日の和田合戦時に討死にしたと伝えられている(『武蔵国児玉郡誌』)。

『塩谷系図』によると、家遠の子、家経民部大夫)は、承久の乱の時、宇治川で死去したとあり、年齢は71だったとある。その子息である家朝(通称太郎、右衛門尉)は、寛喜年間に死去したと記述されている。

なお、児玉党系塩谷氏は伊勢国安芸国の所領を得たが、本貫地である児玉郡塩谷郷は室町時代には安保氏丹党の一氏族)の所領となっている。

安芸塩谷氏

児玉党系塩谷氏は、児玉氏と同様に安芸国へ地頭として移住した者がいたと見られており、当国の能美島の地頭として、文書に記述されている。児玉氏と同様に瀬戸内に出没する海賊悪党を取り締まっていたものと考えられる。

同族

家遠の兄である家弘(児玉党本宗家4代目)は児玉郡の栗崎の地へ行き、庄氏を名乗り、弟の親家は富田の地へ土着して富田氏を名乗った。遵って、児玉党系塩谷氏は、庄氏富田氏と同族である。


その他の塩谷氏

塩谷氏(しおたにし)

「しおたに」と読みくだす塩谷氏である。

塩谷氏(えんやし)

「えんや」と読みくだす塩谷氏である。

  • 塩谷鵜平(えんや うへい) 俳人
  • 塩谷朋之(えんや ともゆき) 「More」「12012」のベース

脚注

  1. 『矢板市史』
  2. 『姓氏家系大辞書』 太田亮著 昭和38年(1963年
  3. 嘉永3年(1850年)出版
  4. 『塩谷朝業』 塩谷朝業顕彰会 昭和50年(1975年
  5. 5.0 5.1 秋田県史資料室所蔵「塩谷系譜」
  6. 6.0 6.1 喜連川町の個人所蔵「塩谷系図」(『栃木県史 資料編4』収録)
  7. 7.0 7.1 矢板市教育委員会編 『ふるさと矢板のあゆみ』矢板市1989年
  8. 『下野風土記』(佐藤行哉校訂、1958年)、軍記物の『堀江軍記』・『堀江物語絵巻』、『ふるさと矢板のあゆみ』。なお『矢板市史』では、「下野風土記」にある境林村に堀江氏の旧城があるという記述を挙げ、堀江山の可能性を示唆する。
  9. 『栃木県史 通史編3』、『矢板市史』
  10. 矢板市教育委員会、第1次調査(平成元年10月から平成2年1月まで)、第2次調査(平成2年5月から8月まで)
  11. 「秋田塩谷系譜」による。但し、「喜連川塩谷系譜」によれば、惟広は塩谷正義の次男とする。
  12. 秋田塩谷系譜は「塩谷荘十五郷」と記す。
  13. 「秋田塩谷系譜」、「喜連川塩谷系譜」、『吾妻鏡』の記載などによる。但し、『吾妻鏡』に登場する「塩谷五郎惟広」については、武蔵国の児玉党塩谷氏の塩谷維弘であるとする説がある。
  14. 初めは貞朝を名乗る。別名、鷲宿四郎。秋田塩谷系譜によれば塩谷泰朝の次男朝宗の子とするが、「喜連川塩谷系譜」では、朝宗を泰朝の三男とする。
  15. 「秋田塩谷系譜」に記載されるが、『ふるさと矢板のあゆみ』・『栃木県大百科事典』では歴代に数えていない。
  16. 地元の記録「大沢家記」では、持綱は文安3年(1446年)8月13日に塩谷氏と仲違えになり、玉生口より塩谷領を侵して失敗し自害したとある。
  17. 明治45年(1912年)追贈
  18. これを裏付ける証拠として、川崎城への帰還を喜ぶ永禄10年(1567年)9月26日付の義通の書状が佐八文書に残る。
  19. 矢板市史・乙畑城記
  20. 「秋田塩谷系譜」
  21. 塩谷朝業顕彰会編 『塩谷朝業』塩谷朝業顕彰会、1975年。
  22. 義綱に与えられたのか疑問とする説も存在する。しかし、岡本家に与えられた泉十五郷の石高を合算すると7720石に達し、岡本家の領地である3800石の倍以上になるため、岡本領である泉十五郷には、岡本保真が継いだこの捨扶持分も含まれていると考えられている(『矢板市史』)。
  23. 義通の次男保真と三男保忠には、岡本姓の名と塩谷姓の名があり、塩谷家を継いだ保真の名は塩谷惣十郎である。岡本家の場合は岡本保真、塩谷家の場合は塩谷惣十郎とする、この使い分けは特に塩谷家を継いだ保真については重要とされており、保真の位牌がある瑞雲院では、保真に岡本家のものと塩谷家のものの二つの戒名が与えられており、供養されている。なお、三男保忠の塩谷家における名は塩谷高通(始めは清通)。
  24. 義通の長男・義保は岡本正親の養子となり岡本氏を継いだ。

参考文献

  • 矢板市史編集委員会編 『矢板市史』矢板市1981年
  • 矢板市教育委員会編 『ふるさと矢板のあゆみ』矢板市1989年
  • 小暮秀夫編 『武蔵国児玉郡誌』児玉郡誌編纂所、1927年
  • 『児玉町史 中世資料編』
  • 『本庄人物事典』