ブルガリア王国 (近代)

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ファイル:Map of Bulgaria during WWII-j.png
第二次世界大戦で獲得した領土

テンプレート:ブルガリアの歴史 ブルガリア王国(ブルガリアおうこく、テンプレート:Lang-bg, 英語: Kingdom of Bulgaria)は、1908年10月に大ブルガリア公国大公フェルディナンド1世ツァール国王)を称することで誕生したブルガリア王国君主号のツァールは皇帝の意味も持つため、第一次ブルガリア帝国第二次ブルガリア帝国に次ぐものとして第三次ブルガリア帝国とも呼ばれる。

歴史

前身である大ブルガリア公国列強の思惑で領土を縮小されるなど、自治権は得たものの国内には不満が残る結果となった(ベルリン会議)。その後、1908年宗主国オスマン帝国青年トルコ人革命が勃発すると、オーストリア=ハンガリー帝国の助力を得てブルガリアは独立を宣言し、大公フェルディナンド1世は君主号を皇帝(ツァール)へ変更する。翌1909年4月19日、オスマン帝国はロシア帝国との戦争の賠償を肩代わりするという条件でブルガリア政府と議定書を交わし、ブルガリアは名実共に独立国となった。

1912年、ロシアを後ろ盾としたバルカン諸国とオスマン帝国との対立が激化し、第1次バルカン戦争が勃発する。ブルガリアはこれに参戦して勝利し、領土を拡大するが、マケドニアの領有をめぐって同盟国のセルビア王国ギリシャ王国と対立する。こうした戦後処理の不満が原因となり、1913年2次バルカン戦争が再び勃発する。この戦争でブルガリアは敗北し、マケドニア、ドブロジャ地方、東トラキアを失う。その後、第一次世界大戦では1915年10月セルビア王国ドイツオーストリアとともに攻撃し、中央同盟国側で参戦したが敗北し、ヌイイ条約エーゲ海沿岸をギリシャに割譲した。敗戦後、ブルガリアの政局が混迷したため、ボリス3世によって親政が行われた。

第二次世界大戦では枢軸国側で参戦し、1940年にはルーマニア王国領の南ドブルジャを併合する。1941年ユーゴスラヴィア王国とギリシャ王国が枢軸国側に降伏すると、ブルガリアはユーゴスラヴィア南東部(現在のマケドニアあたり)とギリシャ東部を占領統治した。1943年、ボリス3世が急死すると、遺児であるシメオン2世が6歳で即位し、ボリス3世の弟キリル王子らから構成される摂政団による統治が行われた。

その後、枢軸国側が劣勢となると、1944年9月5日にはソ連軍がブルガリアに宣戦布告した。元来ブルガリア国民は、同盟国ドイツよりも同じスラヴ民族であるロシア人に親近感を寄せており、政府も対ソ戦には参戦しなかったにもかかわらず、ソ連軍は領土内への侵攻を開始した。ブルガリア軍は無抵抗のまま降伏し、同年9月9日に勃発したクーデター(en)により政権は交代、連合国側に鞍替えして対ドイツ戦を開始する。

戦後の1946年祖国統一政府による国民投票の結果、王政が廃止された。最後のツァール、シメオン2世は9歳にしてエジプトへ亡命した。ブルガリアは共産主義国家・ブルガリア人民共和国となり、ソ連16番目の共和国と呼ばれるほどの親ソ連政策を執った。

脚注

参考文献

関連項目