ネヴィル・チェンバレン

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アーサー・ネヴィル・チェンバレン英語: Arthur Neville Chamberlain 1869年3月18日 - 1940年11月9日) は、イギリスの政治家。首相(在任:1937年5月28日 - 1940年5月10日)。

生涯

生い立ち

バーミンガム市長や植民地大臣などを歴任したジョゼフ・チェンバレンを父としてバーミンガムのサウスボーンで生まれる。外相時代にロカルノ条約を締結し、ノーベル平和賞を受賞したオースティン・チェンバレンは異母兄にあたる。6歳の時に母親が死去した。

ラグビー校で教育を受け、さらにメイソン・サイエンス・スクール(バーミンガム大学の前身)でも学び、科学と冶金学金属工学)の学位を得て、卒業後は監査法人に就職した。一方で父ジョゼフが経営していたイギリスの植民地バハマの農園へ派遣され、そこで長く農園経営も行った。

政治経歴

その後実業界で成功を収め、この時に得た名声を後ろ盾として1911年に生まれ育ったバーミンガムの市議に立候補し当選した。そのわずか4年後の1915年には、父同様バーミンガム市長となる。

国会議員

第一次世界大戦終結間際の1918年に行われた選挙で保守党より立候補し下院議員となり、1923年から1937年にかけて保健大臣、財務大臣などの要職を務めた。

首相職

就任

1937年5月28日に、スタンリー・ボールドウィンの後を受けて保守党党首およびイギリス首相の座に就く。なお直前の5月12日には、新国王のジョージ6世が戴冠式を行ったばかりであった。

内政

資本家寄り」とされる保守党党首にもかかわらず、就任後すぐに、これまで制限が設けられていなかった女性子供の労働時間に制限を掛ける法律を通過させたほか、有給休暇関連法や家賃統制など、労働者の権利を優先させる法律の制定に尽力した。

外交

ファイル:MunichAgreement.jpg
ミュンヘン会談からの帰国後に会見するチェンバレン
ファイル:The British Army in France 1939-40 O2167.jpg
フランスを訪れたチェンバレン(1939年12月)

当時イギリスやフランスと軍事増強と領土の拡大を進めるドイツイタリアなどとの間で政治的緊張が増す中、チェンバレンがドイツのアドルフ・ヒトラーや、イタリアのベニート・ムッソリーニに対して取った宥和政策は、1938年9月29日ミュンヘン会談において締結された「ミュンヘン協定」で頂点に達した。

イギリスの一部やアメリカなどのその後の連合国から称賛されたこの融和政策により、結果的には第二次世界大戦の勃発が1年引き延ばされることになる。これは、ドイツの関心をソビエト連邦に向けさせる意味と、イギリスの防備の時間稼ぎをする意味があったとされるが、ウィンストン・チャーチルはこれを「この期間にイギリスが軍備の近代化を進めたのは事実だが、同時にドイツも軍備の強化を行いより強力な軍備を作り上げた」と批判している。

なお当時の保守勢力の主流にとって、ソ連を頂点とする共産主義陣営や、彼らによる共産主義革命の誘発への警戒心は強かった。そこで、ヒトラー政権を抑えてソ連に付け入る隙を与えるよりは、対ソの抑止力となることを期待したのである。イギリスが、世界をにぎわせたスペイン内戦に不介入で通したのも、介入すればそれが世界大戦の引き金になり、ソ連を喜ばせるだけであるという判断があったからであるとされている。

なおミュンヘン会談から帰国したチェンバレンを迎えたジョージ6世は、チェンバレンにバッキンガム宮殿のバルコニーで国王夫妻とともに、国民からの歓迎を受ける特権を与えた。国王と政治家の友好関係を大衆の前で見せるのは極めて例外的であり、王宮のバルコニーからの謁見も伝統的に王族のみに許される行為だった。

しかし一連のチェンバレンによる宥和政策は、チャーチルが指摘したように「ドイツに軍事力を増大させる時間的猶予を与えた」と同時に「ヒトラーに対し、イギリスから近隣諸国への侵攻を容認されたと勘違いさせた」として現在では歴史研究家や軍事研究家から強く非難されている。特に1938年9月29日付けで署名されたミュンヘン協定は、後年になり「第二次世界大戦勃発前の宥和政策の典型」とされ、近代における外交的判断の失敗の代表例として扱われている。

第二次世界大戦勃発

1939年9月1日ドイツ軍ポーランド侵攻と、同日に駐独イギリス特命全権大使を通じてポーランドからの撤退を勧告した最後通告への返答がなかったことを受けて、2日後の9月3日にチェンバレンも対独宣戦布告を決意した。

同日に、ダウニング街10番地の首相官邸からのラジオ演説を通じて、イギリスと帝国の国民に対してドイツとの交渉決裂と戦争状態への突入を発表し、ここに第二次世界大戦が勃発した。

開戦からしばらくは西部戦線の動きがほとんど無かったことから(いわゆる「まやかし戦争」)、チェンバレンは最前線のフランスに展開するイギリス陸軍を視察するなどしつつ、なおも秘密裏にドイツと交渉を続け、ホラス・ウィルソンを使者としてドイツの目をソ連に向けさせようとした。

しかしその後、1940年4月にドイツ軍のノルウェー作戦の阻止に失敗、同年5月10日に、これまで大きな動きを見せなかったドイツ軍がベネルクス3国に侵攻の矛先を転じると、チェンバレンの宥和政策は完全に破綻した。

辞任とその後

この様な事態を受けてチェンバレンは5月10日に首相を辞任し、後継には主戦派のウィンストン・チャーチルが就任して、保守党とともに労働党なども参加する挙国一致内閣(en)が組織されることになった。

この挙国一致内閣の組閣においてチェンバレンは、チャーチルから下院院内総務枢相への就任を要請されたが、この人事に対して挙国一致内閣に参加した労働党のクレメント・アトリーが難色を示したため、チェンバレンは枢相のみへの就任にとどまった[1]

死去

その後、ドイツのオランダフランス占領や「バトル・オブ・ブリテン」などにより、イギリスへの圧力が強まる中、体調が悪化したため1940年9月に閣僚から退いている。同年11月9日胃癌により死去した。チャーチルは「彼は政敵であり、批評家であり、支持者であった」と追悼演説を行った。

脚注

  1. ウィンストン・チャーチル著、佐藤亮一訳『第二次世界大戦2(新装版)』河出文庫、2001年7月、16頁

関連項目


公職
先代:
スタンリー・ボールドウィン
イギリスの旗 イギリス首相
第60代:1937年 - 1940年
次代:
ウィンストン・チャーチル
先代:
スタンリー・ボールドウィン
フィリップ・スノーデンEnglish版
イギリスの旗 イギリス財務大臣
1923年 - 1924年
1931年 - 1937年
次代:
フィリップ・スノーデンEnglish版
ジョン・シモンEnglish版
先代:
アーサー・グリフィス=ボスカウェンEnglish版
ジョン・ウィートリーEnglish版
アーサー・グリーンウッドEnglish版
イギリスの旗 イギリス保健大臣
1923
1924年 - 1929年
1931年
次代:
ウィリアム・ジョイソン=ヒックスEnglish版
アーサー・グリーンウッドEnglish版
エドワード・ヒルトン・ヤングEnglish版
議会
先代:
ジェームス・スタンホープEnglish版
イギリスの旗 枢密院議長
1940年
次代:
ジョン・アンダーソンEnglish版
党職
先代:
スタンリー・ボールドウィン
イギリス保守党党首
第3代:1937年 - 1940年
次代:
ウィンストン・チャーチル