B-17 (航空機)
B-17 フライングフォートレス
B-17は、アメリカ合衆国のボーイング社が開発した四発重戦略爆撃機。愛称はフライングフォートレス(Flying Fortress=空飛ぶ要塞)。
Contents
特徴
B-17は沿岸防衛用として哨戒と敵艦の攻撃用に立案されたが、1934年に「敵国の軍隊よりもさらに重要である、その国の工業組織を目標」にする「護衛なしでやっていける」爆撃機をめざすことになった[1]。
機体ラインは非常に滑らかな曲線と直線で構成されている。後期型は機銃多数を装備した物々しい外観を有する。 B-17は、エンジン排気でタービン翼車を回して高空の希薄な空気を必要な密度に圧縮してエンジンに送り込むターボ過給器によって、良好な高高度性能を備えていた[2]。
B-17は強固な防弾装備と多くの防御火器で身を固め、零戦の20ミリ機銃ですら効き目は薄く、撃墜は困難であった[3]。防御火器は試作機で機銃5丁、後期型のG型では実に13丁の12.7 mm M2機関銃を装備していた。
歴史
開発段階
1934年8月8日、アメリカ陸軍は、当時の主力爆撃機だったマーチンB-10(双発機)の後継機として、航続力と爆弾搭載量を2倍に強化した『多発爆撃機』を国内航空機メーカーに要求した。当初の目的はアラスカ、ハワイなどアメリカの沿岸地域を防衛するための爆撃だった。第二次世界大戦参戦以前のアメリカは孤立主義的傾向が強く、このような高性能の爆撃機を保有する事については議会・納税者からの反対が根強かった。そのため「敵国を攻撃するための兵器ではなく、アメリカ本土防衛のための兵器である。」という名目の下、Flying Fortress(空飛ぶ要塞)と命名された。列車砲の代替兵器として、アメリカの長大な海岸線で敵上陸軍を阻止迎撃することがその念頭にあった。
欧州戦線
第二次大戦開戦後、イギリスにC型が貸与され「フォートレスI型」として、E型が「フォートレスII型」、F型が「フォートレスIII型」として運用された。しかし訓練不足および少数機での爆撃、爆撃照準器がノルデン爆撃照準器ではないことなどから目立った戦果をあげられなかった。後にフォートレスI型の戦訓はD型に反映されることになった。
アメリカの欧州参戦後はアメリカ陸軍の主力爆撃機として活躍し、主にイギリスを基地とした対ドイツへの昼間爆撃に従事した。だが、イギリスで兵力を蓄積しはじめた1942年はトーチ作戦(およびその後の北アフリカの作戦)のために兵力を抽出されてしまい本格的な爆撃作戦は実施できなかった。そして兵力の蓄積が進んだ1943年から昼間爆撃が本格化、フランスへの近距離爆撃で経験を積んでからドイツ本土への爆撃にも出撃するようになった。護衛戦闘機の航続距離が充分でなかった1943年頃まではドイツの迎撃戦闘機により多数の(時には10%を越える)損害が出ていたが、B-17の編隊は密集隊形で濃密な防御砲火の弾幕を張り、ドイツ戦闘機隊の攻撃を妨害し逆に撃墜することもしばしばだった。1944年以降はP-51ムスタングを始めとする戦闘機が護衛として随伴し、B-17の損害は一気に減少した。
またB-17は頑丈で優れた安定性を持つ機体であるため、エンジンがひとつや二つが止まっても機体や翼が穴だらけになってもイギリスまで帰ってきたものが多数あった。ドイツ本土への侵攻では、撃墜されてしまうとそれだけ多くの搭乗員を失ってしまうため(脱出しても捕虜になってしまうため)、ボロボロになっても搭乗員を連れ帰ることができるということは非常に重要だった。そのような特徴は多くの搭乗員に愛され、「空の女王」という異名も授かっている。
都市への夜間爆撃を担当したイギリス軍のランカスター爆撃機以上に、ドイツの継戦能力を削ぐ立役者となった。なお、B-17とランカスターの2大爆撃機は第二次世界大戦中に各々約60万トンの爆弾を投下した(B-29が日本へ投弾した量は約17万トン)。
アジア太平洋戦線
主にハワイやアラスカ本土、アリューシャン列島、アメリカの植民地のフィリピンや、同じ連合国のオランダ領東インド、オーストラリアに配備され、太平洋戦争中期まで活動した。
1941年12月8日に日本海軍によって行われた真珠湾攻撃においては、ヒッカム飛行場におかれていたB-17機が日本軍の攻撃隊により地上撃破された。さらに攻撃中にアメリカ本土より飛行してきたB-17の編隊が、攻撃を行う日本海軍機と誤認され地上からの攻撃を受け、損傷した機がオアフ島内のゴルフ場に不時着している。
1942年2月19日には蘭印作戦において、日本陸軍飛行第64戦隊・飛行第59戦隊の一式戦闘機「隼」は、バンドンの第7爆撃航空群への補充として飛行中であった2機のB-17Eとバタビア沖上空にて交戦した。B-17は2機の「隼」を旋回機関銃で撃墜するも1機(41-2503号機)が落とされている。また攻撃を逃れバンドンへ到着したもう1機は日本軍の空襲により地上で焼失している[4]。
1942年5月から1943年10月にかけて行われたアリューシャン方面の戦いでは、アラスカ本土の基地に駐留するB-17が、アリューシャン列島のアッツ島やキスカ島に上陸した日本軍や、それを援護する日本軍の艦船に対する空襲を数度に渡り行っている。また、南東方面ではポートモレスビーを主たる基地として出撃し、ラバウルやブイン等の日本軍根拠地に対する爆撃のほか、オーストラリア国内の基地を拠点に洋上哨戒にも活躍した。
ガダルカナル島攻防戦に参加した第六海軍航空隊飛行隊長兼分隊長の小福田少佐は、「一般的にいってB-17とB-24は苦手であった。そのいわゆる自動閉鎖式防弾燃料タンクのため、被弾してもなかなか火災を起こさなかったことと、わが対大型機攻撃訓練の未熟のため、距離の判定になれず、遠距離から射撃する場合が多く、命中弾が得にくいからであった。(中略)撃墜はしたが、それは主として零戦がしつこく、しかも寄ってたかって敵機を満身創痍という格好にしたり、またわが練達の士が十分接近して20ミリ銃弾を十分打ち込んだり、または勇敢な体当たりによるもので、尋常一様の攻撃ではなかなか落ちなかった。(後略)」と語っている[5]。
B-17の対策は、1942年初めに日本海軍が取りかかり、日本陸軍は12月末にB-17対策委員会を設けた。共に対策の第一は機銃の威力増強であった[6]。海軍の零戦は世界に先駆けて20ミリ機銃を採用しており、B-17程度の防御力なら一発で撃墜可能と考えていたが、効果がないという報告があった。川上陽平海軍技術少佐によれば、調査の結果、これは威力不足ではなく、5メートルほどの標的での射撃訓練を受けたパイロットが大型で尾部に防御火力を持つ四発重爆に対して、照準器の視野にあふれるため、相当接近したと錯覚して有効射程外から射撃して退避していることが原因であったという[7]。
当時搭載されていた20ミリ機銃でも威力不足と判断した日本海軍は、30ミリ機銃の開発を決定し、1942年末には二式30ミリ機銃の試作品が完成し、1943年7月にはこれを装備した零戦がラバウルに送られ、大型機を一発で大破させた[8]。陸軍の対策委員会発足当時は有効な20ミリ機銃がなく、1943年秋にドイツから入手したマウザーMG151/20が東部ニューギニアで一部に使用され、国産のホ五の装備開始は1944年3月からだった。対策委員会は応急処置として37ミリ戦車砲を屠龍と百式司偵に取り付けて1943年2月にラバウルに送ったが、一発ごとに手で装填するため空中では役に立ちがたかった。B-17対策に基づいて、航空機用の大口径砲は、37ミリのホ二〇三、40ミリのホ三〇一、57ミリのホ四〇一の3種が昭和18年度装備に決められた。ホ二〇三を屠龍に、ホ三〇一を鐘馗に装備し、1943年中に実戦で使用した[9]。
しかし、航続距離に優れるB-24が揃ってくると、1942年から1943年にかけてB-17装備部隊は順次B-24に改編されるか他方面に転出していき、太平洋戦線においては戦争後半には偵察や救難などに従事している機体を除きB-17は姿を消した。偵察や救難などに従事している機体はB-29やB-24による日本本土空襲の支援を行った。ドイツ降伏後、アメリカ陸軍ではヨーロッパ戦線で使用されていたB-17を太平洋戦線に回航して日本への戦略爆撃に使用することが検討されたが、ロバート・マクナマラら将校の分析により、B-29を大量生産した方が効率的と判明し、それらのB-17は廃棄された。
なお対日戦開戦直後に、オランダ領東インドのジャワ島やコレヒドール島などに展開していたアメリカ軍のB-17CやB-17Dなど複数の機体が、日本陸軍に完全な形で鹵獲されている。鹵獲後はP-40やホーカー ハリケーン、バッファロー、ハドソンなど他の鹵獲機と同じように、内地の陸軍飛行実験部に送られ研究対象にされた。
その他、飛行第64戦隊などは鹵獲した機体を南方で対大型重爆戦の攻撃訓練に使用している。また、「敵機爆音集」と題し銃後の防空意識高揚のため高度別エンジン音と解説を収録されたり、羽田飛行場での鹵獲機展示会で展示された後、全国を巡回展示されたものもある。
さらに一式戦「隼」の開発模様を描いた1942年10月公開の映画『翼の凱歌』では、終盤の戦闘シーンにおいて鹵獲B-17が飛行第1戦隊(撮影協力の飛行戦隊)に所属する多数の「隼」ともども撮影に使用されている。これらの鹵獲機は終戦後アメリカ軍によって廃棄されている。
戦後
1948年から始まった第一次中東戦争では、イスラエルのエジプト爆撃において、メッサーシュミットBf109の戦後チェコ生産型であるアヴィア S-199に護衛されてB-17がエジプト軍のスピットファイア戦闘機に迎撃される事態が生じている。
生産数
B-17各型の合計生産数は12,731機。そのうちボーイングによるものは6,981機、そのほかに3,000機がダグラス、2,750機がロッキード傘下のベガ・エアクラフトによって製造された。
型 | 生産数 | 内訳 | 初飛行 |
---|---|---|---|
モデル 299 | 1 | 1935年7月28日 | |
YB-17 | 13 | 1936年12月2日 | |
YB-17A | 1 | 1938年4月29日 | |
B-17B | 39 | 1939年6月27日 | |
B-17C | 38 | 1940年7月21日 | |
B-17D | 42 | 1941年2月3日 | |
B-17E | 512 | 1941年9月5日 | |
B-17F | 3,405 | 1942年5月30日 | |
ボーイング | 2,300 | ||
ダグラス | 605 | ||
ベガ | 500 | ||
B-17G | 8,680 | ||
ボーイング | 4,035 | ||
ダグラス | 2,395 | ||
ベガ | 2,250 | ||
総計 | 12,731 |
諸元
機体名 | B-17G[10] | ||
---|---|---|---|
ミッション | BASIC | MAX BOMB | FERRY |
全長 | 74.8ft (22.8m) | ||
全幅 | 103.8ft (31.64m) | ||
全高 | 19.1ft (5.82m) | ||
翼面積 | 1,420ft² (131.92m²) | ||
空虚重量 | 35,972lbs (16,317kg) | ||
離陸重量 | 67,860lbs (30,781kg) | 67,864lbs (30,783kg) | 64,975lbs (29,472kg) |
戦闘重量 | 48,692lbs (22,086kg) | 47,384lbs (21,493kg) | 45,535lbs (20,654kg) |
燃料[11] | 2,570gal (9,729ℓ) | 2,104gal (7,965ℓ) | 3,600gal (13,627ℓ) |
爆弾搭載量 | 10,000lbs (4,536kg) | 12,800lbs (5,806kg) | ― |
エンジン | Wright R-1820-97 (1,200Bhp 最大:1,380Bhp) ×4 | ||
最高速度 | 282kn/26,700ft (522km/h 高度8,138m) | 283kn/26,700ft (524km/h 高度8,138m) | 284kn/26,700ft (526km/h 高度8,138m) |
航続距離 | 1,529n.mile (2,832km) | ― | 2,624n.mile (4,860km) |
戦闘行動半径 | 873n.mile (1,617km) | 689n.mile (1,276km) | ― |
武装 | 12.7mm M2 Browning×12 (弾数計5,970発) |
派生型
- XB-38
- アリソンV-1710-89換装型。試作のみ。
- B-40
- 編隊を敵機から掩護するために銃座を増設した護衛爆撃機。日本軍の翼端援護機に相当する。しかし、銃弾の重量で飛行速度が鈍足で編隊についていけず、爆弾投下後は身軽になった編隊との性能差は更に開き、足手まといにしかならなかった。折しも護衛戦闘機の航続距離に目処がついたため、そのまま計画中止となり、大半の機体は元のB-17Fに戻された。
- XB-40
- B-17Fの1機をベガ社で改造。
- YB-40
- 20機改造。
- TB-40
- YB-40の搭乗員練習機。4機。Y/TB-40はベガ社のモデルナンバーを持つが改造作業はダグラス社で行われた。
- PB
- 海軍型。P2BあるいはP4D/P3Vとならずボーイング・モデル50(PB)とおなじ型番が与えられ、重複しているため注意されたい。また20機のB-17Gがその名称のまま海軍で使用された。
- XPB-1
- 各種テストに使用された。
- PB-1G
- B-17H/SB-17Gに相当する海上救難型。
- PB-1W
- 早期警戒型。
- F-9
- 写真偵察型。1945年にFB-17に、さらに1948年にRB-17と呼称が変更された。第二次大戦後も1952年からCIAの協力で、台湾の国府空軍第8大隊第34中隊が運用。対中国情報収集のため、同隊のB-26と共に838回の夜間偵察を行い、迎撃により3機が失われた。これら偵察機とは別に第一線を退いた老朽機が1947年までRB-17と類別されていたがZB-17となった。
- BQ-7
- 無線誘導飛行爆弾。完全な無人機では無く離陸後乗員は脱出する。"「無人航空機#軍用機」"
- CQ-4
- BQ-7の誘導母機。
- C-108
- 試作輸送機型。これとは別に輸送機に改造された機体はCB-17あるいはVB-17と呼称された。
- ドルニエ Do 200
- ドイツ空軍が輸送機として鹵獲運用していたB-17に与えた秘匿名称。
- ボーイング307
- B-17主翼・尾翼を利用した旅客機。世界で最初に客室を与圧した機体として有名。
- C-75
- 軍用に徴発された307。
運用国
現存する機体
型名 | 機体写真 | 国名 | 保存施設/管理者 | 公開状況 | 状態 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
B-17F | アメリカ | Museum of Flight[1] | 公開 | 飛行可能 | 米陸軍 S/N 42-29782。世界で唯一飛行可能なB-17F。通常、冬季は別な場所にあるハンガーに格納されており、春から秋にかけて同Museum前に駐機されている。 | |
B-17G | アメリカ | National Museum of the United States Air Force | 公開 | 静態展示 | 米陸軍 S/N 42-32076。[3] | |
B-17G | アメリカ | Collings Foundation | 公開 | 飛行可能 | 米陸軍 S/N 44-83575。同Foundationにより、歴史教育を目的として年間を通じて全米各地の飛行場を巡回し、展示、デモフライト、体験搭乗をおこなっている。[4] | |
B-17G | アメリカ | Planes of Fame Air Museum | 公開 | 静態展示 | 米陸軍 S/N 44-83684。ダグラス製。飛行可能とすべく同Museumにてレストア中。[5] | |
B-17G | アメリカ | Commemorative Air Force[6] | 公開 | 飛行可能 | 「Sentimental Journey」。FAA登録番号 N9323Z。[7] | |
B-17G | アメリカ | Commemorative Air Force[8] | 公開 | 飛行可能 | 「Texas Raiders」。FAA登録番号 N7227C。[9] | |
B-17G | アメリカ | Palm Springs Air Museum | 公開 | 飛行可能 |
関連作品
脚注
- ↑ マーチン・ケイディン; 南郷洋一郎訳 『B-17空の要塞』 フジ出版、1977年、55-70頁。
- ↑ 渡辺洋二『死闘の本土上空』文春文庫115頁
- ↑ 渡辺洋二『死闘の本土上空』文春文庫115-116頁
- ↑ 梅本弘 『第二次大戦の隼のエース』 大日本絵画、2010年7月、p.21
- ↑ 『零戦』(堀越二郎・奥宮正武)
- ↑ 渡辺洋二『死闘の本土上空』文春文庫116頁
- ↑ 『零戦よもやま物語』光人社NF文庫39-40頁
- ↑ 渡辺洋二『死闘の本土上空』文春文庫117頁
- ↑ 渡辺洋二『死闘の本土上空』文春文庫117-118頁
- ↑ B-17 Flying Fortress Specifications STANDARD AIRCRAFT CHARACTERISTICS
B-17 Pilots Manual - ↑ 搭載可能燃料は機体内燃料タンクに2,780gal (10,523ℓ) + 爆弾槽に820gal (3,104ℓ) の合計3,600gal (13,627ℓ)
参考文献
- 航空情報編集部編 『第2次大戦アメリカ陸軍機の全貌』 1964年・酣燈社刊。
外部リンク
- Marshall Stelzriede's Wartime Story 元B-17航法士のWebページ(B-17による出撃経験談、B-17 Pilot Training Manual、写真が存在する)
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