河野一郎

提供: miniwiki
2018/8/6/ (月) 09:03時点におけるAdmin (トーク | 投稿記録)による版 (1版 をインポートしました)
移動先:案内検索

河野 一郎(こうの いちろう、1898年明治31年)6月2日 - 1965年昭和40年)7月8日)は、日本政治家副総理日本自由党幹事長自由民主党総務会長。昭和中期の政界実力者の一人。河野派会長、領袖。

自由民主党党人派の代表格として権勢を誇り、その政治行動は「横紙破り」[1] と呼ばれた。農林大臣建設大臣経済企画庁長官行政管理庁長官副総理国務大臣東京五輪担当)を務めた。また、地元神奈川県県政にも強い影響力を持ち、県は「河野王国」とも呼ばれた。栄典従二位勲一等旭日桐花大綬章

参議院議長をつとめた河野謙三は実弟。衆議院議長外務大臣自由民主党総裁新自由クラブ代表をつとめた河野洋平は次男。外務大臣を務める衆議院議員河野太郎は孫にあたる。

来歴・人物

戦前

神奈川県足柄下郡豊川村[2]豪農・河野家に生まれる。父治平(じへい)は、豊川村長、郡会議員、神奈川県会議長などを歴任した人物。神奈川県立小田原中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)を経て、1923年大正12年)早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業し、朝日新聞社に入社。早稲田大学時代は、弟・謙三とともに競走部の陸上長距離選手として鳴らし、草創期の箱根駅伝で活躍。総合優勝も経験している[3]

1931年(昭和6年)、犬養毅内閣の山本悌二郎農林大臣の秘書官となり、翌1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に神奈川3区から出馬し、当選。当選後は、立憲政友会に所属した。鈴木喜三郎総裁の後継をめぐる党内抗争では、鳩山一郎を担いで奔走したが、中島知久平が優位に立っていた。河野は、久原房之助を擁立して対抗し、政友会は、正統派(久原派)と革新派(中島派)に分裂するに至る。1942年(昭和17年)の翼賛選挙では、非推薦で選挙戦を戦い当選した。

戦後

終戦後、1945年(昭和20年)11月に旧政友会正統派の勢力を糾合して、鳩山一郎を総裁とする日本自由党を結党。幹事長として、鳩山内閣の結成に奔走するが、1946年(昭和21年)5月4日、鳩山に公職追放令が下り、吉田茂が後継総裁として大命降下をうけ、組閣に取り掛かる。組閣をめぐっては、吉田が旧政党人を軍部に迎合したとみなし、人事について相談しなかったことなどをきっかけとして、不倶戴天の間柄となる。さらに6月20日には、河野自身も公職追放となった。1951年(昭和26年)8月7日に追放解除となり、三木武吉と共に自由党に復党。以降は反吉田派の急先鋒として鳩山政権樹立に向けて奔走するが、1952年(昭和27年)9月29日、解散総選挙を目前にして、吉田が鳩山派に打撃を与えるべく、石橋湛山と河野を党から除名した。三木武吉の工作によって、12月に除名取り消しとなる。1953年(昭和28年)3月14日、鳩山、三木ら21名と自由党から分党。内閣不信任案に賛成投票し、バカヤロー解散・総選挙へと繋がるきっかけを作った。11月に鳩山、石橋らが自由党に復帰した後も、三木、河野ら8名の代議士[4]日本自由党を結成して、自由党反主流派と改進党の連携を模索し、ついに3派を合同させ日本民主党を結成し、鳩山を総裁とし、吉田内閣を打倒する。

1954年(昭和29年)、第1次鳩山内閣で農林大臣に就任し、第2次、第3次鳩山内閣でも農林大臣に留任した。翌1955年(昭和30年)、自由民主党結党に参画し、党内で大派閥の河野派を形成。1956年(昭和31年)5月9日、クレムリンでの日ソ漁業交渉において、河野は随行していた外務省新関欽哉参事官を部屋から閉め出して「日本が国交回復の交渉に応じなければ(日本側が北方領土の返還要求を引っ込めること)、漁業協定は調印できないと、ソ連側から日本側に圧力をかけてほしい」とブルガーニン首相やイシコフ漁業相に要請し、日ソ漁業協定は国交回復の日に効力を生じることになった[5][6]。このため、水産業界などが「北方領土など国交回復の後に交渉しろ」という圧力を日本政府にかけるに至り、北方領土の返還が妨害された[7]

1956年、日ソ平和条約交渉でフルシチョフ共産党第1書記を向うに渡り合い、同年10月には日ソ共同宣言を成立させ、鳩山首相と共に調印に扱ぎつけた。鳩山引退後の自由民主党総裁公選では岸信介を支持し、石橋湛山に一敗地にまみれるが、岸内閣成立後は主流派となる。1957年(昭和32年)の内閣改造では、経済企画庁長官として入閣。第2次岸内閣下では党総務会長に就任。しかし、1959年(昭和34年)6月に幹事長就任を岸首相に拒否されたため、反主流派に転ずる。日米安保条約改定では岸内閣に批判的立場を取り、衆議院における強行採決で、河野派は三木派とともに欠席した。

岸退陣後の自民党総裁公選では党人派の結集を画策し、大野伴睦石井光次郎を擁立するが、官僚派(旧吉田派)の池田勇人に敗れる。一時、河野新党[8]の結成を目論むが、大野らに翻意を促され、断念。大野の仲介により池田首相に接近をはかり、1961年(昭和36年)7月の内閣改造で農林大臣として入閣。1962年(昭和37年)7月の改造では建設大臣として、東京オリンピックに向けた道路や施設の整備に辣腕をふるう。建設大臣を2年務めた後、1964年(昭和39年)7月の第三次池田内閣では、副総理、東京オリンピック担当の国務大臣に横滑りした。この人事が決まった際、河野は「オリンピックについては建設大臣のときにやるべきことはやった。あとは文部大臣の管轄ではないのか」と必ずしも歓迎しない反応を新聞記者に示している[9]

1963年(昭和38年)7月には、右翼の野村秋介らに、自宅を焼き討ちされている(河野一郎邸焼き討ち事件)。

1964年10月に東京オリンピック終了と共に、池田が病のため退陣表明するに当たっては後継総裁候補の一人に擬せられたが、後継総裁は池田の指名で佐藤栄作に落ち着いた。

1964年11月9日発足の第1次佐藤内閣では、副総理体育振興のスポーツ担当大臣[10]を務めたが、1965年(昭和40年)6月3日の内閣改造では、閣内残留を拒否。1ヶ月後の7月8日、大動脈瘤破裂のため急死した。享年67。死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられ、「党人政治家の最期の言葉」として広くこれが信じられてきた[11]が、河野洋平によると「大丈夫だ、死にはしない」という穏やかな言葉で家族を安心させようとしたのだという。

新東京国際空港問題との関わり

  • 新東京国際空港(現・成田国際空港)建設にあたっては建設大臣として強硬に木更津案[12]等埋め立て案を推進していた[13]。1963年8月27日に、航空行政を管轄する運輸大臣であった綾部健太郎羽田空港との管制の兼ね合いを理由に木更津案を否定し代案として富里や霞ヶ浦周辺を候補地として示されたときには、河野は「いったい道路や河川改修はどうするのだ。建設省の手を借りずに何ができるというのだ。羽田など廃港してしまえ。羽田は生鮮品や砂利、セメントなど建設資材の流通基地として存続すれば良い。新空港は木更津沖だ」と大変な剣幕であった[14][15]。なお、産業計画会議が1964年に出した勧告『産業計画会議の提案する新東京国際空港』では、河野の主張と同様の東京湾内中北部海域案が含まれている。
  • 1963年12月11日に運輸省航空審議会が富里を最有力候補とする答申を出した後も、浦安沖など東京湾内の埋立による建設を主張し続けた[16][17]。河野自身「なぜこんなに(空港問題に)ムキになるのかと、自分でも思うことがある。医療にしろ、三矢問題にしろ、当面の問題がいろいろあるのに、五年さき、八年さきの問題にうき身をやつして、なんになるのだろうなあ。だいたい、そのころ、僕も(運輸相に就任した)松浦君もどうなっているかわからんのにね」と述べていたが、その言葉どおり1965年に急逝した[15]
  • 新空港の建設地は河野が死亡した4か月後に運輸省案の富里に一旦内定するが、政府部内での意見調整に時間を費やされ地元との調整がほぼ行われていなかったために大規模な反対運動がおこった[15]。これを受けて、空港建設地は翌1966年に規模を縮小したうえで約{{safesubst:#invoke:val|main}}北東に移動して国有地公有地が多い成田市三里塚に決定した(→成田空港問題)。

その他

ファイル:Ichiro Kono cropped.jpg
自邸にて(年代不詳)
  • 建設大臣時代、国際会議場建設計画があり、選挙区内の箱根との声が地元よりあがったが、『日本で国際会議場にふさわしいところは京都である…』との考えで京都市宝が池国立京都国際会館建設を決めた。しかし、完成した建物を見ることなく亡くなっている。地元よりの陳情を抑えての決断であった。
  • 競走馬のオーナー・牧場主(那須野牧場)としても有名であり、代表所有馬に1966年の菊花賞馬で翌年の天皇賞(春)で斃れたナスノコトブキなどいわゆる「ナスノ」軍団がいる。牧場あるいは牧場ゆかりの血統を持つ繁殖牝馬は河野の死後も続いているが、牧場自体は河野洋平が新自由クラブ旗揚げの際、立党資金の工面のために売却していた。その後一度は途絶えた河野家と那須野牧場のつながりが復活し、現在、牧場を運営する「恵比寿興業」の社長は一郎の孫であり、洋平の次男である河野二郎が務めている。また、欧米やオセアニアでの人気が高く、日本でも1971年まで行われていた繋駕速歩競走日本中央競馬会から独立させる行動も起こしていたり[18]、佐藤正人の証言によれば「高価な種牡馬をたくさん輸入するよりかは効率がいい」と、サラブレッドの人工授精を推し進めようとしていたこともある[19]
  • 戦前、日中戦争の激化に伴い東京オリンピックの開催返上の議論が沸き上がった際に、帝国議会でその急先鋒だったのが河野であった。一方、戦後の東京オリンピック開催に際しては、前記の通り建設大臣およびオリンピック担当国務大臣を務めている。河野は担当大臣としてオリンピックを成功に導いた反面、オリンピックを「スポーツのイベント」から政治の介入する国家的プロジェクトに変貌させたことへの批判もある。市川崑の監督した記録映画に「記録性が欠けている」と批判して議論を呼び起こしたのも河野である(ただしその後高峰秀子の依頼を受けて市川と面談し、映画を容認した)[20]
  • 酒がまったく飲めない体質だったが、フルシチョフにコニャックを薦められた際、「国益のために死ぬ気で飲んだ」という(フルシチョフは河野が飲めない体質なのを予め知っていたが、河野はこれを逆手に取り一気飲みした後グラスを逆さにしフルシチョフらを瞠目させた)。そのフルシチョフらと日ソ漁業交渉で渡り合ったとき、興奮してテーブルを叩いたため前にあったティーカップが倒れテーブルクロスが紅茶で汚れたので、河野は苦笑しながら謝罪した。ささいな出来事だが、これがフルシチョフらの河野に対する印象を好転させたという。長い間スターリンの理不尽な暴政に耐えてきた彼らにとって、小さなことでも間違いと分かれば素直に謝る姿が好ましく思われたのである。
  • 1963年7月、憂国道志会の野村秋介により自宅に放火される。その日は名神高速道路の開通日で河野はその開通式典でくす玉を引いている。三木武夫大磯吉田茂の自邸に招かれた際、応接間から庭で吉田が笑っていた様子が見え「随分ご機嫌ですね」とたずねると「三木君は知らんのか! 今、河野の家が燃えてるんだよ!」とはしゃいでいた。「罰が当った」と吉田周辺はささやいたと言う。その大磯の吉田邸も46年後の2009年3月に火災で焼失した。

系譜

  • 河野氏
 
 
 
 
杉田湛誓
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石橋湛山
 
 
 
石橋藤左衛門
 
きん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石橋湛一
 
久美子
 
 
 
 
 
 
 
 
岩井尊記
 
うめ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
足立正
 
足立龍雄
 
 
足立正晃
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
山梨勝之進
 
泰子
 
 
啓子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
伊藤忠兵衛
 
伊藤恭一
 
 
伊藤勲
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
本郷房太郎
 
周子
 
 
武子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
河野謙三
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
河野治平
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
河野太郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
河野一郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
河野洋平
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
照子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
田川平三郎
 
 
 
 
 
 
 
田川誠一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
田川誠治
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
田川秀雄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
河野一郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
河野謙三
 
 
河野鉄雄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
園子
 
 
河野剛雄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
顕子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岡本良平
 
岡本茂俊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岡本伝之助
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岡本達彬
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岡本経世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
田川誠一
 
伸子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
田川秀雄
 
 
 
 
 
和子
 
 
 
 
 
 

著書

  • 『私の今議会に於ける重要農村対策要綱』 全国肥料商協会、1940年。 - 『肥料』(肥料協会)2巻5号の別冊附録:河野会長議会報告集。
  • 『大東亜共栄圏と日本畜産人の覚悟』 帝国畜産会〈帝畜叢書 第2輯〉、1942年。
  • 『自由党の自由経済政策並その農業政策』 りべらる社、1946年。
  • 『今だから話そう』 春陽堂書店、1958年。
  • 『ゆたかな農村めざして 河野一郎講演集』 春秋会編、弘文堂、1962年。
  • 『明日の日本をつくる』 知性社、1963年7月。
    • 『明日の日本をつくる』 知性アイデァセンター、1963年。
  • 『日本の将来』 恒文社、1965年。 - 論説集。
  • 『河野一郎自伝』 伝記刊行委員会 編、徳間書店、1965年。
  • 岸信介・河野一郎・福田赳夫後藤田正晴田中角栄中曽根康弘保守政権の担い手』 日本経済新聞出版社〈日経ビジネス人文庫 私の履歴書〉、2007年5月。ISBN 978-4-532-19373-7。

脚注

  1. 高橋利行『永田町の愛すべき悪党たち』PHP研究所 2010年
  2. 現在の小田原市成田
  3. 早稲田大学競走部年譜
  4. 「8人の侍」と呼ばれた
  5. 『秘録・北方領土交渉――これがソ連の対日外交だ』
  6. 新関欽哉『日ソ交渉の舞台裏』
  7. 『原発ゼロで日本は滅ぶ』
  8. いわゆる第二保守党
  9. 読売新聞1964年7月19日
  10. 国会議事録検索システム ‐ 衆 - 体育振興に関する特別委員会 - 11号 昭和40年03月23日
  11. 小説吉田学校」にもそのような描写がある
  12. 計画案は浚渫業も営んでいた小川栄一がイギリスの港湾埋立業者に設計させたもの。(成田空港問題シンポジウム記録集編集委員会『成田空港問題シンポジウム記録集 資料編』1995年、20頁。)
  13. 東京新聞千葉市局/大坪景章 編『ドキュメント成田空港』東京新聞出版局、1978年、11-12頁
  14. 東京新聞千葉市局/大坪景章 編『ドキュメント成田空港』東京新聞出版局、1978年、17-18頁
  15. 15.0 15.1 15.2 佐藤文生 (1978). はるかなる三里塚. 講談社, 32-41. 
  16. 東京新聞千葉市局/大坪景章 編『ドキュメント成田空港』東京新聞出版局、1978年、23-28頁
  17. 第32号 昭和39年5月27日”. 国会会議録検索システム (1964年5月27日). . 2017閲覧.
  18. 元繋駕競走の騎手でJRA調教師の古川平は、雑誌「優駿」での杉本清との対談で「施設は戦時中から使っていなかった根岸競馬場あたりを活用し、独立寸前まで話が進んでいた」と証言している
  19. 河野が言い出す数年前に禁止になっていた
  20. 野地秩嘉『TOKYOオリンピック物語』小学館、2011年、pp.246 - 250

参考文献

  • 『河野先生を偲ぶ』 河野一郎伝記刊行委員会 編、春秋会、1966年。
  • 戸川猪佐武 『河野一族 一郎、謙三、洋平――その反骨の系譜』 サンケイ出版〈Sankei drama books〉、1976年。

演じた俳優

関連項目

外部リンク


公職
先代:
創設
日本の旗 国務大臣東京オリンピック担当)
1964年 - 1965年
次代:
最終
先代:
中村梅吉
日本の旗 建設大臣
第21・22代:1962年 - 1964年
次代:
小山長規
先代:
保利茂
周東英雄
日本の旗 農林大臣
第20・21・22代:1954年 - 1956年
第30代:1961年 - 1962年
次代:
井出一太郎
重政誠之
先代:
宇田耕一
日本の旗 経済企画庁長官
第5代:1957年 - 1958年
次代:
三木武夫
先代:
川島正次郎
日本の旗 行政管理庁長官
第14代:1955年 - 1956年
次代:
大久保留次郎
党職
先代:
佐藤栄作
自由民主党総務会長
第4代:1958年 - 1959年
次代:
益谷秀次
先代:
結成
春秋会会長
初代:1956年 - 1965年
次代:
森清
先代:
結成
日本自由党幹事長
初代:1945年 - 1946年
次代:
大野伴睦
その他の役職
先代:
春日弘
日本陸上競技連盟会長
第3代:1965年
次代:
河野謙三



テンプレート:行政管理庁長官

テンプレート:日本自由党 (1945-1948) テンプレート:日本陸上競技連盟会長 テンプレート:箱根駅伝7区区間賞