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{{otheruseslist|キリストの教理|一般の語|審判|詰め将棋の作品|最後の審判 (詰将棋)|[[ミケランジェロ・ブオナローティ]]の絵画|最後の審判 (ミケランジェロ)}}
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{{複数の問題|観点=2011年1月|正確性=2011年1月|独自研究=2011年1月|参照方法=2011年1月}}
 
 
{{キリスト教}}
 
{{キリスト教}}
'''最後の審判'''(さいごのしんぱん、Last Judgement)とは、[[ゾロアスター教]]および[[アブラハムの宗教]](ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教)が共有する終末論的世界観であり、世界の終焉後に人間が生前の行いを審判され、天国か地獄行きかを決められるという信仰である。
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'''最後の審判'''(さいごのしんぱん、Last Judgement)
 
 
== ゾロアスター教 ==
 
「最後の審判」という概念は[[キリスト教]]や[[イスラム教]]に特有のものではなく、それより先発の[[ゾロアスター教]]に既に存在している。ゾロアスター教の世界観では、世界は善なる神[[アフラ・マズダ]]と悪なる神[[アンラ・マンユ](アーリマン)]との闘争の場として考えられており、最終的に悪が滅びた後で世界も滅び、その後、最後の審判が行なわれると考えられている。
 
 
 
ゾロアスター教の最後の審判は、地上に世界の誕生以来の死者が全員復活し、そこに天から彗星が降ってきて、世界中のすべての鉱物が熔解し、復活した死者たちを飲み込み、義者は全く熱さを感じないが、不義者は苦悶に泣き叫ぶことになる。
 
 
 
一説には、これが三日間続き、不義者の罪も浄化されて、全員が理想世界に生まれ変わるとされる。別の説では、この結果、悪人(不義者)は地獄で、善人(義人)は天国で永遠に過ごすことになるとされる。
 
 
 
=== 関連項目 ===
 
* [[盟神探湯]]
 
 
 
== ユダヤ教 ==
 
[[過越]]を参照。
 
 
 
== キリスト教 ==
 
キリスト教では、世界の終わりに[[イエス・キリスト]]が[[再臨]]し、あらゆる死者をよみがえらせて裁きを行い、永遠の生命を与えられる者と[[地獄 (キリスト教)|地獄]]に墜ちる者とに分けるという。
 
 
 
=== 教父 ===
 
[[アウグスティヌス]]は、キリストが生ける者と死せるものを裁くために天から来られる最後の審判について「最後の」、「終りの」という語を付けるのは、神が常に人を裁いておられるからだと教えている<ref>『神の国』5、p.117、岩波文庫</ref>。
 
 
 
=== 西方教会 ===
 
==== カトリック教会 ====
 
{{main|公審判}}
 
[[カトリック教会]]では公審判の教義が保持されている。肉体が復活して魂と結び合わされた後に、公審判があるとされる。<ref>[http://www.vatican.va/archive/ENG0015/__P2G.HTM Catechism of the Catholic Church 990][[カトリック教会のカテキズム]]990</ref>
 
 
 
==== プロテスタント ====
 
===== ルーテル教会 =====
 
[[ルーテル教会]]の[[アウクスブルク信仰告白]]は、最後の審判においてイエス・キリストが敬虔な者と選ばれた者には永遠のいのちをあたえ、不敬虔な者と悪魔には限りない苦悩を宣告すると告白する。<ref>[http://www.wjelc.or.jp/office/credo/augsburg/index.htm アウグスブルグ信仰告白][[西日本福音ルーテル教会]]</ref>
 
 
 
===== 改革派教会 =====
 
[[ウェストミンスター信仰告白]]33章「最後の審判について」の2は、「神がこの日を定められた目的」について告白している。それは、「選民の永遠の救いにおいて神のあわれみの栄光があらわされ、邪悪で不従順で捨てられた者の永遠の刑罰において神の正義の栄光が表されるためである。」 ウェストミンスターの全体の最後で、キリストは「すべての者に罪を犯すことを思いとどまらせるためにも、逆境にある信者の大いなる慰めのためにも」、最後の審判の日があることを信じるように望まれていると告白されており、ウェストミンスター信仰告白は、[[黙示録]]20:20の「来たりませ、主イエスよ。すみやかに来たりませ」アーメンで結ばれている。<ref>[[ウェストミンスター会議]]『[http://www.ogaki-ch.com/WCF/text/ ウェストミンスター信仰告白]』[[日本キリスト改革派教会]]大会出版委員会編</ref>
 
 
 
===== ディスペンセーション主義 =====
 
[[ディスペンセーション主義]]では[[患難前携挙説]]をとり、[[ノンクリスチャン]]が地上に取り残されて、クリスチャンだけが[[患難時代]]に[[携挙]]され、その後に最後の審判がある。<ref>[[奥山実]]『世の終わりが来る!『ヨハネの黙示録』の私訳と講解』マルコーシュ・パブリケーション</ref><ref>[[高木慶太]]『これからの世界情勢と聖書の預言(新版)』</ref><ref>[[高木慶太]]『近づいている世界の終焉』</ref><ref>[[高木慶太]]『「中東の激動」と聖書預言』</ref><ref>[[高木慶太]]『近づいている人類の破局』</ref><ref>[[ハル・リンゼイ]]『地球最後の日』</ref>
 
 
 
=== 東方教会 ===
 
==== 正教会 ====
 
{{Main|公審判}}
 
 
 
=== キリスト教において最後の審判をテーマにした芸術作品 ===
 
[[File:Das Jüngste Gericht (Memling).jpg|thumb|200px|right|公審判 [[ハンス・メムリンク]]]]
 
[[File:Fra Angelico 009.jpg|thumb|200px|right|公審判 [[フラ・アンジェリコ]]]]
 
==== 絵画 ====
 
* [[ミケランジェロ・ブオナローティ]]が描いたもの。 → [[最後の審判 (ミケランジェロ)]]
 
* [[フラ・アンジェリコ]]が描いたもの。
 
* [[ハンス・メムリンク]]が描いたもの。
 
* [[ヒエロニムス・ボス]]が描いたもの。
 
* [[ロヒール・ファン・デル・ウェイデン]]が描いたもの。 → [[最後の審判 (ファン・デル・ウェイデンの絵画)]]
 
*[[ジョン・マーティン]]最後の審判三部作
 
[[Image:MARTIN John Great Day of His Wrath.jpg|thumb|200px|最後の審判三部作之一:神の大いなる怒りの日。[[ジョン・マーティン]]作]]
 
[[File:John Martin - The Last Judgement - Google Art Project.jpg|thumb|200px|最後の審判三部作之二:最後の審判。[[ジョン・マーティン]]作]]
 
[[File:John Martin - The Plains of Heaven - Google Art Project.jpg |thumb|200px|最後の審判三部作之三:天国の平原。[[ジョン・マーティン]]作]]
 
 
 
==== 音楽 ====
 
[[神の怒り]]を歌った[[ディエス・イレ]]は最後の審判のモティーフとして出て来る<ref>『標準音楽辞典』[[音楽之友社]]</ref>。
 
 
 
* [[ジャック・シャルパンティエ|シャルパンティエ]]作曲の[[オラトリオ]]。
 
* [[ディートリヒ・ブクステフーデ|ブクステフーデ]]作曲のオラトリオ。
 
* [[宇宙の審判|交響詩「宇宙の審判」]] - [[カミッロ・デ・ナルディス|デ・ナルディス]]作曲の[[交響詩]]。
 
 
 
== イスラム教 ==
 
{{main|キヤマー}}
 
イスラム教においても世界の終末に[[アッラーフ]]が審判をくだすとされている<ref>[http://muslimkyoukai.jp/whatisislam.htm#a3 最後の審判] 宗教法人日本ムスリム教会</ref>。
 
 
 
== ユニヴァーサリズム ==
 
{{main|万人救済主義|新普遍救済主義}}
 
究極的には全人類が救済されるとする思想もある。
 
  
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神もしくは神的存在が,その義に照らして人間の思い,ことば,行ないを裁くことを,裁き,審判という。これが世界の終末に全人類に対してなされるとき最後の審判と呼び,[[カトリック]]などでは各自の臨終に行なわれるいわゆる[[私審判]]に対して公審判と呼ぶ。[[ゾロアスター教]]では,死後霊魂は報復者の橋を渡り,もし悪業が善業を上回ると橋がせばまって地獄に落ちるという。しかし終末には,[[アフラ・マズダ]]が魔王[[アーリマン]]に勝って全人類を復活させ,最後の審判を主宰して世界を善に建て直すとされる。[[ユダヤ教]]では,前8世紀頃から「主の日」(アモス書5・18ほか),すなわちイスラエルの神「[[ヤハウェ]]の日」が強調され,この日には裁き主なる神が直接人間の歴史に介入し,その義を顕してイスラエルとすべての民族を裁き,神の国を始めると信じられた。この終末史観と密接に関連した最後の審判の思想は,[[キリスト教]]でも継承され,救い主[[イエス・キリスト]]およびその復活と再臨への信仰と結合して,神はみずからその子イエス・キリストに「裁きを行なう権威」(ヨハネ福音書5・27)を与え,イエスを通して「義をもってこの世界を裁くためその日(主イエス・キリストの日)」(使徒行伝17・31)を定めたと説く。審判を通しての救いの完成がいっそう明確に強調され,死者は朽ちざる者として復活すること,すなわち永遠の生命にあずかることによって死を克服し,神の国を継ぐという秘義も告げられている(マタイ福音書25・31~46ほか)。この場合の審判は,単に善業,悪業の比較考量ではなく,神意に対する人間の内的根本的態度への批判としてとらえられている。[[イスラム教]]でも,世の終わりにはすべての人間はいったん死んだのちに復活し,各自の首にかけられた善業と悪業を記録した二つの帳簿の重さに従い,悪業の帳簿の重い者は地獄の上にかかる橋から落下するとしている。同様な最後の審判における善悪の考量は,エジプトなど近東の諸宗教にも見出される。なお最後の審判は,[[キリスト教美術]]では重要な主題の一つで,[[ルネサンス]]期の有名な作例では,フィレンツェのサン・マルコ美術館所蔵のフラ・[[アンジェリコ]]の板絵,ローマのシスティナ礼拝堂の[[ミケランジェロ]]のフレスコ画がある。([[終末論]])
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==脚注==
 
==脚注==
 
<references />
 
<references />
 
== 参考文献 ==
 
*[[アウグスティヌス]]『[[神の国 (アウグスティヌス)|神の国]]』
 
*[[奥山実]]『世の終わりが来る!『ヨハネの黙示録』の私訳と講解』 [[マルコーシュ・パブリケーション]]
 
=== 関連文献 ===
 
*[[ジャン・カルヴァン]]『[[キリスト教綱要]]』 [[改革派教会]]
 
*[[岡山英雄]]『小羊の王国―黙示録は終末について何を語っているのか』 [[いのちのことば社]]
 
*[[尾山令仁]]『聖書の要理』 [[羊群社]]
 
*尾山令仁『ヨハネが受けたキリストの啓示』羊群社
 
*[[里脇浅次郎]]『カトリックの終末論』[[聖母の騎士社]]
 
*『[[ウェストミンスター信仰告白]]講解』[[新教出版社]]
 
*『新聖書辞典』いのちのことば社
 
 
== 外部リンク ==
 
*[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E5%AF%A9%E5%88%A4/ 最後の審判(さいごのしんぱん) 日本大百科全書]
 
* [http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/doomsday.html 最後の審判の日、世界の終末の日(Doomsday) ]
 
  
 
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[[Category:ヨハネの黙示録]]
 
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[[Category:イエス・キリストの教理と教え]]
 
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[[Category:アブラハムの宗教]]
 
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最後の審判(さいごのしんぱん、Last Judgement)

神もしくは神的存在が,その義に照らして人間の思い,ことば,行ないを裁くことを,裁き,審判という。これが世界の終末に全人類に対してなされるとき最後の審判と呼び,カトリックなどでは各自の臨終に行なわれるいわゆる私審判に対して公審判と呼ぶ。ゾロアスター教では,死後霊魂は報復者の橋を渡り,もし悪業が善業を上回ると橋がせばまって地獄に落ちるという。しかし終末には,アフラ・マズダが魔王アーリマンに勝って全人類を復活させ,最後の審判を主宰して世界を善に建て直すとされる。ユダヤ教では,前8世紀頃から「主の日」(アモス書5・18ほか),すなわちイスラエルの神「ヤハウェの日」が強調され,この日には裁き主なる神が直接人間の歴史に介入し,その義を顕してイスラエルとすべての民族を裁き,神の国を始めると信じられた。この終末史観と密接に関連した最後の審判の思想は,キリスト教でも継承され,救い主イエス・キリストおよびその復活と再臨への信仰と結合して,神はみずからその子イエス・キリストに「裁きを行なう権威」(ヨハネ福音書5・27)を与え,イエスを通して「義をもってこの世界を裁くためその日(主イエス・キリストの日)」(使徒行伝17・31)を定めたと説く。審判を通しての救いの完成がいっそう明確に強調され,死者は朽ちざる者として復活すること,すなわち永遠の生命にあずかることによって死を克服し,神の国を継ぐという秘義も告げられている(マタイ福音書25・31~46ほか)。この場合の審判は,単に善業,悪業の比較考量ではなく,神意に対する人間の内的根本的態度への批判としてとらえられている。イスラム教でも,世の終わりにはすべての人間はいったん死んだのちに復活し,各自の首にかけられた善業と悪業を記録した二つの帳簿の重さに従い,悪業の帳簿の重い者は地獄の上にかかる橋から落下するとしている。同様な最後の審判における善悪の考量は,エジプトなど近東の諸宗教にも見出される。なお最後の審判は,キリスト教美術では重要な主題の一つで,ルネサンス期の有名な作例では,フィレンツェのサン・マルコ美術館所蔵のフラ・アンジェリコの板絵,ローマのシスティナ礼拝堂のミケランジェロのフレスコ画がある。(終末論

脚注




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