尹ボ善
尹潽善 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 윤보선 |
漢字: | 尹潽善 |
発音: | ユン・ボソン |
日本語読み: | いん ふぜん |
ローマ字: |
Yun Boseon(2000年式) Yun Posŏn(MR式) |
英語表記: | Yun Posun |
尹 潽善(ユン・ボソン、1897年8月26日 - 1990年7月18日)は、大韓民国第4代大統領。本貫は、海平尹氏。号は海葦(해위 ヘウィ)。尹致昊・尹致旺の従甥、尹致暎の甥。尹致昭(尹致暎の異母兄)の長男。
忠清道牙山郡(現在の忠清南道牙山市)生まれ。独立後初代のソウル市長として政界入りし、商工相・大韓赤十字社総裁を経て民主党最高委員に。4.19革命で李承晩が失脚・亡命すると、民主党旧派の代表格として8月12日に大統領に選出された[1]。しかし、新派の代表格で政治的実権を握っていた張勉首相との確執が絶えず、自ら民主党を離党して新民党を結成。5・16軍事クーデターの遠因を作った。
大統領辞任後は野党の指導者として2度朴正煕に挑戦するなどし、軍事政権への抵抗と民主化運動に取り組んだ。
Contents
生涯
尹潽善は、李氏朝鮮時代の1897年(建陽2年/光武元年)8月26日に、忠清道牙山郡(現在の忠清南道牙山市)屯浦面新項里にて、父・尹致昭と母・李範淑の子として生まれる。1903年(光武7年)、漢城府(現在のソウル)の漢城府校洞普通学校に入学し、1907年(光武11年/隆熙元年)に卒業する。その後、1910年(隆熙4年)4月に京城の京城日之出小学校の5年生に編入した。
独立運動、アメリカ軍政時代
1917年、上海に渡り、1919年には三・一運動の直後に設立された「大韓民国臨時政府」の設立に携わり、大韓民国臨時政府議政院議員に選出された。その後、1921年6月に上海を離れ、欧米に留学する。1932年に帰国する。
第二次世界大戦で日本が敗戦した後の1945年9月1日に、許政や金度演などの保守系人士を結集して韓国国民党を結成した。10月4日にアメリカ軍政庁から農商局上級顧問に任命される。1948年5月10日、制憲国会議員総選挙に韓国民主党から出馬するが、落選する。その後、1949年6月6日には商工部の長官となるが、1950年5月9日に李承晩大統領との対立により商工長官を解任される。
1950年11月、大韓民国赤十字社初代総裁に就任するが、2年後の1952年9月2日に辞任している。
政治家として
政界入り
1954年5月20日、第三代国会議員選挙において、ソウルの鍾路甲区から民主国民党(民国党)の公薦で出馬し、当選を果たした。その後、1955年9月に民国党など保守野党勢力が結集して民主党が結成されると、初代議員部長に就任した。
1958年5月2日の第四代総選挙ではソウル鍾路甲区から民主党の公薦で出馬し、再選を果たした。その後、1959年に民主党の最高委員となった。
大統領在任中
その後、4・19革命後に行なわれた1960年7月29日の第五代国会議員選挙で3選、同年8月12日には両院の合同会議で大統領に選出される[2]。民主党旧派の指導者である彼は野心がないように行動、新派の指導者から簡単に支持を得た。翌1961年5月16日に5・16軍事クーデターが発生、クーデター軍からの要請もあり大統領の座に留まるが、翌年3月に軍政が制定した政治活動浄化法に抗議するため下野した。
野党政治家として
1963年9月12日、民政党を結成し、同党の大統領候補に指名された。同年10月15日の第五代大統領選挙では朴正熙候補(民主共和党)に僅差で敗れた。翌月11月25日に行われた第六代国会議員選挙で当選(全国区、民政党)。
1965年5月3日、野党第二党の民主党と合同して結成された「民衆党」の党首(代表最高委員)を選出するための選挙で朴順天(旧・民主党代表)に敗れる。同年7月28日、日韓基本条約の国会批准に反対[3]し、議員辞職で抗議の意志を示すとして自ら民衆党を離党[4]する。そして翌年3月に彼と共に議員辞職した議員と「新韓党」を結成、党総裁に就任した。
1967年2月7日、民衆党と新韓党が合同して「新民党」が結成され、尹潽善は新民党の大統領候補に指名された。しかし同年5月3日に行われた第六代大統領選挙では、朴正熙大統領に大差をつけられて敗北した。
1976年3月1日、3・1民主救国宣言を金大中らと発表[5]。1978年2月24日、民主救国宣言を咸錫憲とともに66人で発表する[6]。このことは政府から「憲法秩序を破壊しようとする非合法活動である」と厳しく非難されて緊急措置9号違反で立件され実刑判決を受けた。
評価
こだわりが強いという評価と原則主義者という評価がある。
賞勳
- 無窮花の大装飾
- 仁村文和賞
関連項目
脚注
- ↑ 今日の歴史(8月12日) 聯合ニュース 2009/08/12
- ↑ 今日の歴史(8月12日) 聯合ニュース 2009/08/12
- ↑ 日本との国交回復自体に反対したわけではない。
- ↑ 当時の大韓民国憲法では、国会議員は政党への加入を義務づけられており、政党を離党した場合は、議員職を失う規定が設けられていた。
- ↑ 103〜105頁『韓国民主化への道』(池明観著)岩波新書
- ↑ 今日の歴史(2月24日) 聯合ニュース 2009/02/24
著書
- 『救国の茨の道』(1967)
- 『孤独な選択の日々:尹ボ善の回顧録』(ハングル表記:외로운 선택의 나날들:윤보선 회고록、1990)
参考文献
- 韓国語文献
- 日本語文献
- 池東旭『韓国大統領列伝 権力者の栄華と転落』(中公新書、2002年)
- 木村幹『韓国現代史 大統領たちの栄光と蹉跌』(中公新書、2008年)
- 木村幹『民主化の韓国政治 朴正煕と野党政治家たち 1961〜1979』(名古屋大学出版会 2008年)
- 金浩鎮『韓国歴代大統領とリーダーシップ』(小針進・羅京洙訳、柘植書房新社、2007年)
- 趙甲済 永守良孝訳『朴正煕―韓国近代革命家の実像』(亜紀書房、1991年)
- 金【ジン】 梁泰昊訳『ドキュメント朴正煕時代』(亜紀書房 1993年)
- 河信基『韓国を強国に変えた男 朴正煕』(光人社、1996年/光人社NF文庫、2004年)
- 金潤根『朴正煕軍事政権の誕生 韓国現代史の原点』 (彩流社 1996年)
- 趙甲済 【ペ】淵弘訳『朴正煕、最後の一日 韓国の歴史を変えた銃声』(草思社、2006年)
外部リンク
公職 | ||
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先代: 許政 (臨時代行) |
大韓民国大統領 第4代:1960 - 1962 |
次代: 張都暎 (国家再建最高会議議長) |
先代: 張勉 (大韓民国副統領) |
大韓民国副統領 代行:1960 |
次代: 廃止 |
先代: 任永信 |
大韓民国 商工部長官 第2代:1949年 6月6日 - 1950年 5月9日 |
次代: 金勳 |
先代: 金炯敏 |
ソウル市長 第2代:1948 - 1949 |
次代: 李起鵬 |