太平洋戦争

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第二次世界大戦 > 太平洋戦争

太平洋戦争
戦争: 第二次世界大戦
年月日: 1941年12月8日(日本時間)– 1945年9月2日(または8月15日[注 1]
場所: 太平洋ミクロネシアメラネシア)、北東アジア東南アジアオセアニアインド洋アフリカマダガスカル)、アリューシャン諸島
結果: 連合国の勝利、日本ポツダム宣言による、無条件降伏
交戦勢力
枢軸国
大日本帝国の旗 大日本帝国
タイ王国の旗 タイ
満州国の旗 満州国
中華民国の旗 中華民国(汪兆銘政権)
蒙古聯合自治政府の旗 蒙古聯合自治政府
25px 自由インド仮政府 (1943)
テンプレート:FRA1940
連合国
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国

イギリスの旗 イギリス帝国

  1. 転送 Template:Country data Malaysia イギリス領マラヤ

オランダの旗 オランダ

中華民国の旗 中華民国

ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 (1945)
テンプレート:Country alias MEX1934の旗 メキシコ合衆国(1944-1945)
25px 自由フランス (1940-1944)
フランスの旗 フランス共和国臨時政府(1944-)
ベトナムの旗 ベトナム独立同盟
フィリピンの旗 フクバラハップ

戦力
損害
軍人1,740,955
民間人 393,000
アメリカ合衆国 354,523
イギリス帝国 86,838
その他 300,000

太平洋戦争(たいへいようせんそう、: Pacific War

1941年12月から 1945年8月までの間,アメリカ合衆国イギリスを中心とする連合国と日本との間で戦われた戦争をさし,広義には第2次世界大戦に含まれる。太平洋戦争という呼称はアメリカにとって太平洋での戦いであったために名づけられたもので,戦時中の日本では大東亜戦争と呼ばれていた。日本の敗戦後,連合国の占領を受けてからは日本でも太平洋戦争と呼ばれるようになった。この戦争の性格にはファシズムと反ファシズム,帝国主義国間の市場争奪戦,帝国主義と反帝国主義など多様な側面があると論じられているが,主たる性格はファシズムに対するデモクラシー(民主主義)を守る戦いという意味が強い。

1941年12月8日,日本海軍はハワイのアメリカ海軍基地に奇襲攻撃をかけ,それを機に太平洋戦争は始まった。この攻撃にいたるまでに日本とアメリカの間では,関係悪化を調整するための外交交渉が続いていたが,日本の中国侵略,ドイツ,イタリアとの日独伊三国同盟に対してアメリカ政府は中国からの撤兵,三国同盟の離脱を要求して譲らず,石油の全面禁輸を続けていた。1941年11月26日にアメリカが示した案(ハル・ノート)を最終回答と判断した日本政府は開戦に踏み切った。日本軍は真珠湾攻撃と同時にホンコン,マレーシア,フィリピン,グアム島,ウェーク島などでも軍事行動を開始し,開戦を予期していなかったアメリカ軍やイギリス軍に多大な損害を与えた。1942年2月にはイギリスのアジア最大の基地シンガポールを占領し,イギリス軍の 13万8000人の将兵を捕虜にした。同年3月にはオランダ領東インド諸島を制圧し,さらにビルマに侵攻してラングーンも日本軍の支配するところとなった。5月までにニューギニアまで制圧地域とし,東南アジアに広大な勢力圏を築き上げることになった。

これに対しアメリカは国内の平和体制を戦時体制に切り替えて,軍備増強に励み,あわせて日本軍の奇襲攻撃に怒る国民の戦意が「リメンバー・パールハーバー」という標語に収斂(しゅうれん)されて国力が対日戦争へと傾注されることになった。1942年6月のミッドウェー海戦では日本海軍の連合艦隊司令長官山本五十六の作戦を見破り,アメリカ海軍の太平洋艦隊が空と海から連合艦隊を攻撃した。そのため日本海軍は航空母艦(空母)3隻を含め連合艦隊の編制が崩れてしまった。アメリカ軍の反攻はすでに真珠湾攻撃から 6ヵ月後には始まっていた。1942年8月からのガダルカナル攻撃は,アメリカ軍の総反攻の記念すべき戦闘となったが(ガダルカナルの戦い),日本はそれを見抜けず兵力を順次投入するという過ちを犯し,莫大な損害を被った。1943年4月,山本五十六の乗った飛行機がアメリカ軍の待ち伏せ攻撃にあい,山本は戦死した。日本で山本は「救国の英雄」とされていたために,その戦死は国民の衝撃をやわらげるためにしばらくは伏せられていた。

日本軍は 1943年にはあまりにもその勢力範囲を広げていたがゆえの苦悩を味わうことになった。アメリカは 1943年末までに日本の国力を見抜いて消耗戦に引き込む一方で,ダグラス・マッカーサーの戦略による「蛙跳び作戦」を計画。日本軍が占領する南アジアの島々のなかから日本本土に近づくための要衝ルートを選び出し,集中的に攻撃を浴びせた。一方,攻撃を仕掛けない島々へは補給ルートを断ち,このため日本軍はいたるところで餓死者を出した。1943年末までに制海権はアメリカ軍の手に落ち,日本軍はその勢力範囲を縮め,見捨てられる日本兵が相次いだ。

1943年11月,日本は東京にビルマ,フィリピンなど日本軍の軍政下にある国々の代表を集めて大東亜会議を開催,日本主導の大東亜構想を確認した。しかし日本軍の戦況悪化を知っている各国国内では連合国との連絡ルートをもつグループもいたため,大東亜共栄圏構想は現実味をもたなかった。1944年6月,日本海軍は「サイパン死守」を掲げて「あ号作戦を開始したが,マリアナ沖海戦で機動部隊や攻撃機が致命的な打撃を受けた。またアメリカ軍のサイパン上陸作戦(サイパン島の戦い)によって,守備隊,民間人が玉砕した。以後,日本軍の玉砕は戦場のいたるところで繰り返された。10月からのレイテ湾海戦で日本軍は空母 4隻をはじめ戦艦,巡洋艦などを失い,航行可能な戦艦と空軍力をすべて失った。そのために特攻作戦(特攻隊)が強行され,1945年2月の硫黄島の戦い,同年4月の沖縄の戦いは玉砕と特攻の戦いとなった。大本営は本土決戦を呼号し,根こそぎ動員で全軍特攻の戦略を立てた。

1945年7月のポツダム会談で,ハリー・S.トルーマンウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル蒋介石の連名により日本の無条件降伏を促すポツダム宣言が発せられたが,日本はこれを無視。8月に入って広島,長崎への原子爆弾投下,さらにソビエト連邦の対日参戦により日本政府は国体護持を条件にポツダム宣言を受け入れた。9月2日,東京湾に停泊する戦艦『ミズーリ』上で降伏文書への調印が行なわれ,3年9ヵ月に及ぶ太平洋戦争は終結した。


注釈

  1. 伝統的な戦時国際法において休戦協定の合意は口頭による同意によれば良く文書の手交を要件としない。このため日本では伝統的に8月15日を終戦の日としている。一方でアメリカは日本の降伏が報道された8月14日にトルーマンがポツダム宣言受諾を紹介した上で対日戦勝記念日を日本が降伏文書を正式に署名する日とすると発言し、9月2日に対日戦勝記念日を宣言している。なお、ポツダム宣言の受諾を各国政府に通知した日は8月14日、玉音放送が8月15日、日本全軍に対する停戦指令を発したのが8月16日。また、この日付は日中戦争を含んでいない。

出典