土佐山内氏

提供: miniwiki
2018/8/6/ (月) 07:18時点におけるAdmin (トーク | 投稿記録)による版 (1版 をインポートしました)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先:案内検索


土佐山内氏(とさやまうちし)は、日本氏族。本家は山内を「やまうち」、各分家は「やまのうち」と称する。通字は「」。本来庶流の家ならば、読み仮名は変わらないが何故一説を持ってこのように、土佐山内氏の本家が備後山内氏の(庶流)を称して(やまうち)となって、その分家(支流の支流)が本流の(やまのうち)回帰しているのか、不明である。


歴史

安土桃山時代以前

藤原北家秀郷流備後山内氏分家で、山内宗俊の五男俊家を祖と考えていたが、真相については定かではなく有力性のある資料がないのが現状である。戦国時代、まだ池田恒興前田利家柴田勝家佐々成政が下級武士だったころ、山内盛豊尾張国守護代織田氏嫡流の岩倉織田家に家老として仕え、黒田城主でもあった。しかし盛豊は、当時山内氏よりも下位にあった清洲三奉行の一つ、清洲織田家当主織田信長に侵攻され自害して果てた。

盛豊の息子らは裸一貫となって流浪することになるが、山内一豊が信長、のちに豊臣秀吉に仕えて遠江国掛川5万9千石を領する大名となった。

1600年関ヶ原の戦いでは、徳川家康の東軍に従う。戦後、居城掛川城を率先して提供するなどの功が認められて土佐国を与えられ、土佐藩24万石の大藩を成した。

江戸時代以降

土佐国はそれまで長宗我部氏が領しており、長宗我部に仕えていた半農半兵の家臣(一領具足)たちとは対立を経て郷士として取り込んだ。他藩に比べると財政逼迫などは少なかったとされる。

中村山内家麻布山内家の分家のほか、幕末期に新たに4つの分家を創設した。9代藩主山内豊雍の二男豊敬による西邸山内家、10代藩主豊策の三男豊道による東邸山内家、同じく四男豊著南邸山内家、同じくその六男豊栄追手山内家である。15代藩主の豊信(容堂)は南邸家の豊著の長子である。

なお、山内氏は代々官位として土佐守を得ているが、領地と官位(国守としての差配地=この時期には当然まったく実態がない)が完全一致している数少ない江戸大名である。

幕末の15代藩主・豊信は公武合体派で、倒幕は望んでいなかった。しかし、重臣後藤象二郎大政奉還案(土佐藩を脱藩した郷士坂本龍馬船中八策が原案)を受け入れ、将軍徳川慶喜に建白、武力討伐派である薩摩藩西郷隆盛大久保利通らの動きを抑え、無用な血が流れることのないスムーズな政権移譲を実現させようとした。

明治維新後、山内氏は華族となり、侯爵の位を与えられた。現当主は山内豊功。豊功は、土佐名産の土佐鶴酒造のCMに出演している。2010年には、長宗我部氏の末裔、長宗我部友親と共に高知県知事尾崎正直のもとへ表敬訪問を行った[1]

家紋

土佐山内氏が使用した家紋は、「土佐柏」「山内一文字」「土佐桐」である[2]

「土佐柏」は、「丸に三つ細柏」の図案と同様で、一豊の時は通常の三つ柏よりやや細い程度の葉の図案が使用されていたが、江戸時代には(図1)の図案となった。幕末から明治時代、土佐藩を母体とした企業であった九十九商会や後の三菱商会スリーダイヤはこれに由来する。

「山内一文字」(図2)は、一文字とはいうが同じ大きさの一文字を上下に2本描く。またの名を「白黒一文字(しろくろいちもんじ)」ともいうように、上を日向に描き下を陰に描くことで陰陽を表している。これは、陰陽ともに敵なしという意味である[2]

「土佐桐」は豊臣秀吉によって下賜された桐紋をアレンジしたものである。

系譜

脚注

  1. 行事等のお知らせ(No.00018748) 長宗我部友親氏、山内豊功氏の知事訪問(2013年5月10日時点のアーカイブ) 高知県広報公聴課公式サイト 2012年9月閲覧
  2. 2.0 2.1 大野信長著『戦国武将100 家紋・旗・馬印FILE』学習研究社 2009年

関連項目

外部リンク