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議場が混乱して平静に戻らないときには、議長が着帽するという面白いルールがあった。議長が着帽すると、議員はただちに着席して沈黙しなければならないという決まり事であった。動議は4名以上の支持があれば審議に掛けられ、憲法または法令に関する動議は最低でも2回(2日以上)の審議を必要とした。逆に言えば、立法に関係しない動議であれば即日採択できたので、逮捕命令等、クーデターのときなどに利用された。議決は、'''起立投票'''によって決めることがほとんどであったが、わずかではあるが重要な採決では'''指名点呼'''{{enlink|Appel nominal||fr}}が行われた。 | 議場が混乱して平静に戻らないときには、議長が着帽するという面白いルールがあった。議長が着帽すると、議員はただちに着席して沈黙しなければならないという決まり事であった。動議は4名以上の支持があれば審議に掛けられ、憲法または法令に関する動議は最低でも2回(2日以上)の審議を必要とした。逆に言えば、立法に関係しない動議であれば即日採択できたので、逮捕命令等、クーデターのときなどに利用された。議決は、'''起立投票'''によって決めることがほとんどであったが、わずかではあるが重要な採決では'''指名点呼'''{{enlink|Appel nominal||fr}}が行われた。 | ||
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2018/8/5/ (日) 13:22時点における最新版
国民公会 Convention nationale | |
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フランス第一共和政 | |
種類 | |
種類 | |
歴史 | |
設立 | 1792年9月20日 |
廃止 | 1795年11月2日 |
前身 | 立法議会 |
後継 |
元老会 (上院) 五百人会 (下院) |
定数 | 749 |
議事堂 | |
テュイルリー宮殿 (パリ) |
国民公会(こくみんこうかい、仏: Convention nationale)は、フランス革命期の1792年9月20日から1795年10月26日(共和暦4年霧月4日)まで存在したフランスの一院制の立法府で、諸委員会を通じて執行権をも握っていたので、同時に行政府の役割も担った革命政治の中央機関である。
1792年、パリ市民がテュイルリー宮殿を襲撃した8月10日事件で王政が打倒されたことで、立法議会は法令を発してルイ16世の王権を停止した。誕生を予告された新議会はロベスピエールの事前の提案で「国民公会」という名称に決まり、選挙もフランス革命中では唯一となる男子普通選挙(ただし間接選挙)で実施された。
国民公会は、会期2日目の9月21日に共和国宣言を行って第一共和政に移行し、王政は廃止された。ルイ16世は国王裁判にかけられて処刑された。1年後に革命暦が創設されたとき、振り返って1792年9月22日が共和元年元日と定められた。当初は前憲法の修正を目的として召集されたが、フランス革命戦争とヴァンデの反乱などの内戦という危機的状況にあって、超法規的体制を維持する必要が出て、人民主権を体現する革命独裁の権力の根源として顕在化した。
国民公会は、1793年6月2日のジロンド派追放と、1794年7月27日のテルミドールのクーデターとを境に3分される。最初がジロンド派と山岳派の抗争の時期、次が山岳派独裁の時期で、最後がテルミドール派[注釈 1]が反動政治を行った時期である。クーデター以後は末期国民公会などとも言い、行政府は解散同日に総裁政府に、立法府も新たに誕生する二院制議会(元老会と五百人会)に、それぞれ引き継がれた。さらに後、王政復古となると、元国民公会議員の455名が国王弑逆者として認定されて追放された。
選挙
1792年8月11日、立法議会は、国民公会の選挙規定を発布した。国民を能動的市民と受動的市民に分けた従来の選挙制限[注釈 2]は廃止され、年齢も引き下げられた[注釈 3]。旧憲法が禁止していた帰化外国人にも門戸が開かれ、無産市民も等しく投票権を持てたが、従来通り、権利は男性だけで、当時二級市民と考えられていた奉公人や召使いも除外された[注釈 4]。このように現代とは異なる例外はあるが、一般にフランスで初めて普通選挙の原則で行われた選挙であったと認識されている。
選挙の方法については立法議会の時とほぼ同じ間接選挙であった。すなわち一般有権者がまず第一次集会で選挙人を選出し、次に選挙人が選挙人集会で集まって議員を選出するという、二段階選挙方式である。ただしこの従来通りの方法には反対も多く、第一次集会による直接選挙を望む声も多かった。そこでロベスピエールの主張により、選挙会での選挙人の選択は第一次集会の承認を得る必要があるという補足が付け加えられた。
パリの選挙は、8月10日事件の勝利者である
法令によって第一次集会は8月26日から、選挙人集会は9月2日から開催されることが決まっていた。投票は用紙ではなく指名点呼で行われた。
ところが折角、普通選挙となったにも関わらず、選挙自体は振るわなかった。貧民である日雇労働者は日給を失うのを嫌って投票所に行かず、職人など中産階級の労働者も一部の例外的な選挙区を除いて投票することは希だった。彼らはもっと身近なコミューン選挙には関心を持ったが、国政選挙にはあまり関心がなかったからである。王党派やフイヤン派、元貴族は、猜疑の目に晒され、槍玉に挙がるの恐れて投票を辞退した。登録された約700万人の有権者は、数の上では立法議会選挙時の2倍であったが、このうちで投票したのは1割程度の70万人に過ぎなかったと考えられている[1][2]。結局のところ、従来通りにブルジョワ階級と地主層が選挙人集会を仕切り、ほとんど至る所で多数を占めた。彼らの手で王党派と極左分子の両方が弾き出された。労働者階層で議員に選ばれたものは2名のみである。
選挙の結果は、8月10日事件で妥協的態度をとって民衆の支持を失っていたジロンド派を抑えて山岳派が躍進し、残りはどちらでもない中道的な議員が新議会の多数を占めることになった[注釈 5]。
選挙が概ね山岳派の勝利という結果となったことで、前述の第一次集会での議員審査という話は反故になった。これはもともとジロンド派の大量当選を阻むための措置だったのである。しかしこの態度の豹変に直接民主制支持者が多いパリの地区コミューンは怒って抗議した。これを宥めたのが、ジャーナリストでありコミューン総代補佐のエベールであった。第一線の活動家が国民公会議員となって転出していった後で、彼のような二線級の活動家が民衆の間で浸透して台頭していった[3]。
- 選挙権
1年以上フランスに居住して自分の収入で生活する勤労者で、奉公人や召使いの身分ではない、21歳以上のすべてのフランス人は、能動的市民と同じように第一次集会で投票することを認める。(第2条)
- 被選挙権
選挙人および議員になる資格は、上記の選挙権を持ち、かつ25歳以上のすべてのフランス人に認める。(第3条)
構成
議員
選挙は全国で投票が行われ、約2週間前後で終了した。
議員の定数は、フランス本土の749名に、植民地および新県制度のもとフランスに併合されてその一部となった地域から派遣された議員とを合わせた33名を加えて、総数は782名であった。ただし海外植民地からの参加は少数で、ほとんどが会期開始に間に合わなかった。同時に補欠議員も321名選ばれたが、同じ人物が複数の選挙区で当選した例[注釈 6]がかなりあり、辞退者も相当数出たので、補欠議員が繰り上げとなって補充され、結果的に補欠議員は298名となった。
議員は、会期中に辞任したもの、病死や刑死、追放、投獄、恐怖政治の犠牲や亡命など、何らかの理由で職務を遂行できなくなって、さらに補欠議員と代わったケースがあるが、逆に代理が立てられなかったケースもあって、議員の数は次第に減っていった。追放されたジロンド派議員の中にはテルミドールのクーデター後に復帰を果たした者もいたが、国民公会が存在する間には新たに選挙はなく、欠員の補充は補欠議員を含めて行われなかった。
派遣議員などに選ばれて長期間パリを離れ、職務のために地方や軍へと送り出されていた議員が百名前後いて、実際に公会に出席していた議員数は定数よりも遙かに少なかった。その上、議決時も点呼を行うことはなかったので、ある日の国民公会の出席議員数が何人であったかを特定するのは困難である。史料として分かる最大出席者数はルイ16世の裁判の第1回投票(1793年1月15日)における721名で、最小はわずか186名(1793年7月25日)であったが、平均出席者数も半数に満たない250〜260名程度であったと言われている[1]。公会では多数決の数の論理よりも民衆への影響力が物を言った。それで有力議員が本会議に臨む前にジャコバン・クラブで演説して、事前に民衆の支持を獲得するということがよく見られた。
国民公会には様々な階級出身者が参加していたが、最も多数を占めた前職は、弁護士や公証人など法律関係者であった。フランス革命の指導者になった著名な政治家のほとんどは法律の学位を持っていた。次に多いのは地方行政官、司法官で、大商人や地主は意外に少なく、前述のように労働者(職人)は2名だけだった。議員経験者は270名で、うち前憲法制定国民議会議員は89名、前立法議会議員は181名であり[1]、結果的に前議会の議員の75%は落選するか辞退したので、大部分は新人議員という刷新された議会になった。
議場
国民公会の第1回議会はテュイルリー宮殿の大広間で開催された。それ以後は立法議会の議場と同じ屋内馬術練習場[注釈 7]に戻った。ここは庭園の離れにあり、ジャコバン・クラブとは通り向かいに位置した。議場の座席は両側に対面するような配置の低い階段状ベンチで、右手が右派(政権側)と左手が左派(野党側)という伝統が古くからあった。しばしば「洞窟のような」と表現されるこの議場は、音響が悪く、声量のあって声の通る雄弁家の議員が人気を博した。
1793年5月10日からは大人数を収容できるテュイルリー劇場[注釈 8]に議場が移された。この議場の座席は片側だけの配置で、対面して演壇と議長席、書記席が設けられていた。座席は劇場スタイルの半円形ベンチで、かなり高くまで階段状に席が設けられていた。このため座席に高低によって派閥が分かれることになり、下方の席に座った中間的な派閥が平原派[注釈 9]と呼ばれ、対して上方の席に座った派閥は山岳派[注釈 10]と呼ばれた。しかしどちらの議場でもベンチに仕切りはなく、議員の座席は決まっていなかったので、気ままに、ばらばらに散らばって座っている状態であった。
議場内の二階は傍聴席になっており、傍聴する民衆や請願者が陣取って討議に割って入ったり、喝采したり、怒号を浴びせたりして議事進行に影響を与えた。議場での武装は禁止されていたが、治安に問題があり、実際に議事の後で不満を持った傍聴人に殺害された議員が数名いる。民衆の感情を損ねるような発言をすることは議員にとって命がけで、公会は大衆世論に流されやすい環境にあった。
運営
国民公会の議事規則によると、事務局は1名の議長と、6名の書記からなり、議長は2週間(革命暦で20日)ごとに指名点呼によって改選され、2週間の間隔を置けば再選も許された。議長が欠席した場合は、最も新しい前議長が代行した。書記の任期は4週間(革命暦で40日)で、2週間ごとに半分ずつ改選された。最初の国民公会議長には圧倒的多数でペティヨン (Jérôme Pétion de Villeneuve) が選ばれ、書記6名全員(コンドルセ、ラボー=サン・テティエンヌ、ブリッソー、ヴェルニヨー、カミュ、他一名)がジロンド派から選ばれた。
本会議は、原則1回で、まず前日の議事録の朗読から始まり、次に細々とした取り決めごとの裁可、そして午後になってようやく法案の審議が始まるのが通常だった。規則では午前9時から開会すると決められていたが、現実には10時以後の遅くに始まることがほとんどで、午後4〜5時まで続いた。夕方の開会も少なからずあり、議事延引により深夜に至ることも頻繁だった。夜の会議が開かれて夜8時や9時から翌朝夜明けまで続けられたり、特別な場合には無期限の会議開会が宣言され、間断なく数日に及ぶ開催となることすらあった。
議場が混乱して平静に戻らないときには、議長が着帽するという面白いルールがあった。議長が着帽すると、議員はただちに着席して沈黙しなければならないという決まり事であった。動議は4名以上の支持があれば審議に掛けられ、憲法または法令に関する動議は最低でも2回(2日以上)の審議を必要とした。逆に言えば、立法に関係しない動議であれば即日採択できたので、逮捕命令等、クーデターのときなどに利用された。議決は、起立投票によって決めることがほとんどであったが、わずかではあるが重要な採決では指名点呼 (fr:Appel nominal) が行われた。
脚注
注釈
- ↑ 一般的には
恐怖政治家 () の転向者の極右化したグループ(タリアンやフレロンなど)で、反動政策を進めたという捉え方だが、歴史家の中にはテルミドール反動をジロンド派の復活による報復であったと定義するものもいる。(前川説) - ↑ 納税額を基準にした財産制限で、ロベスピエールが憲法制定議会の審議時点から反対してきたもの。マール・ダルジャン制度(Le marc d'argent)という
- ↑ 1791年憲法での投票権は25歳以上
- ↑ 買収されやすいという理由である
- ↑ 議席数の一例としては、山岳派(200):ジロンド派(160):平原派(389)。ただしこの数字は正確なものではない。特に「ジロンド派」は後世の歴史家の後付けの名称・グループであるため、判定が困難で、オラールはジロンド派を165、ショーミエは136、パトリックは176とする。約1年後、ジロンド派が追放がされたときに名指しされた議員の数は140であった
- ↑ ジロンド派のジャン=ルイ・カラ (fr:Jean-Louis Carra) が5つの選挙区から選ばれて最多であった。複数の選挙区で当選した議員は、どこか1つを選んで、残りは補欠議員の繰り上げとなった。
- ↑ 「調馬の間」 (Salle du Manège) とも言う。
- ↑ 「機械仕掛けの間」 (Salle des Machines) とも言う。テュイルリー宮殿の北側、公安委員会のあったフロール館の反対側にあった。
- ↑ 蔑称として沼派という呼び方もある
- ↑ 高みに座っているというに由来。
出典
- ↑ 1.0 1.1 1.2 猪木正道 & 前川貞次郎 1957, p.144
- ↑ セデイヨ & 山崎耕一 1991, p.77
- ↑ 井上 1972, pp.140-146
参考文献
- 猪木正道, (編); 前川貞次郎, ほか10名 (1957), 『独裁の研究』, 創文社
- マチエ, アルベール; 市原, 豊太(訳); ねづ, まさし(訳) (1989), 『フランス大革命 』, 上・中・下, 岩波文庫
- 井上, すず (1972), 『ジャコバン独裁の政治構造』, 御茶の水書房
- セデイヨ, ルネ; 山崎耕一, (訳) (1991), 草思社, ISBN 4-7942-0424-8
- 河野健二, (編) (1989), 『資料フランス革命』, 岩波書店, ISBN 4-00-002669-0
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