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{{基礎情報 国
+
正式名称 ケニア共和国 Republic of Kenya。[[スワヒリ語]]では Jamhuri ya Kenya。
| 略名 =ケニア
 
| 日本語国名 =ケニア共和国
 
| 公式国名 ='''{{Lang|sw|Jamhuri ya Kenya}}'''<small>(スワヒリ語)</small><br/>'''{{Lang|en|Republic of Kenya }}'''<small>(英語)</small>
 
| 国旗画像 =Flag of Kenya.svg
 
| 国章画像 =[[ファイル:Alternate Coat of arms of Kenya.svg|85px|ケニアの国章]]
 
| 国章リンク =([[ケニアの国章|国章]])
 
| 標語 =''{{Lang|sw|Harambee}}''<br/>([[スワヒリ語]]: "共に働こう")
 
| 位置画像 =Kenya (orthographic projection).svg
 
| 公用語 =[[スワヒリ語]] [[英語]]
 
| 首都 =[[ナイロビ]]
 
| 最大都市 =ナイロビ
 
| 元首等肩書 =[[ケニアの大統領|大統領]]
 
| 元首等氏名 =[[ウフル・ケニヤッタ]]
 
| 首相等肩書 =[[ケニアの首相|首相]]|
 
| 首相等氏名 = なし 2013年廃止
 
| 面積順位 =49|
 
| 面積大きさ =1 E11
 
| 面積値 =580,367
 
| 水面積率 =1.9%
 
| 人口統計年 =2014
 
| 人口順位 =31
 
| 人口大きさ =1 E7
 
| 人口値 =45,010,056
 
| 人口密度値 =77.6
 
| GDP統計年元 =2013
 
| GDP値元 =4兆7,500億<ref name=businessdaily>[http://www.businessdailyafrica.com/Kenya-enters-top-10-club-of-Africa-s-largest-economies-/-/539552/2470782/-/vpq7luz/-/index.html Economy expands by 25pc placing Kenya in Africa’s top 10]2014年10月11日閲覧。</ref>
 
| GDP統計年MER =2013
 
| GDP順位MER =
 
| GDP値MER =532億<ref name=businessdaily/>
 
| GDP統計年 =2013
 
| GDP順位 =82
 
| GDP値 =799億
 
| GDP/人 =1,800
 
| 建国形態 =[[独立]]<br/>&nbsp;-&nbsp;日付
 
| 建国年月日 =[[イギリス]]から<br/>[[1963年]][[12月12日]]
 
| 通貨 =[[ケニア・シリング]]
 
| 通貨コード =KES
 
| 時間帯 =(+3)
 
| 夏時間 =なし
 
| 国歌 =[[おお、万物の神よ]]<br/>Ee Mungu Nguvu Yetu<br/>Oh God of All Creation
 
|ISO 3166-1 = KE / KEN
 
| ccTLD =[[.ke]]
 
| 国際電話番号 =254
 
| 注記 =
 
}}
 
'''ケニア共和国'''(ケニアきょうわこく)、通称'''ケニア'''は、[[東アフリカ]]に位置する[[共和制]][[国家]]で、[[イギリス連邦]]加盟国である。北に[[エチオピア]]、北西に[[南スーダン]]、西に[[ウガンダ]]、南に[[タンザニア]]、東に[[ソマリア]]と[[国境]]を接し、南東は[[インド洋]]に面する。首都は[[ナイロビ]]。
 
  
首都ナイロビには[[国際連合環境計画]]、[[国際連合人間居住計画]]の本部がある。旧[[イギリス]]植民地。
+
面積 58万2646km<sup>2</sup>。
  
== 国名 ==
+
人口 4403万8000(2013推計)。
正式名称は[[スワヒリ語]]で '''Jamhuri ya Kenya'''({{IPA-sw|ʄɑmˈhuˑrijaˈkɛɲɑ|pron}} ジャム'''フ'''リ・ヤ・'''ケ'''ニャ)、[[英語]]では '''Republic of Kenya'''({{IPA-en|rɪˈpʌb·lɪk əv ˈken.jə|pron}} リ'''パ'''ブリック・オヴ・'''ケ'''ンニャ)。
 
  
[[日本語]]での表記は'''ケニア共和国'''。通称「'''ケニア'''」。「ケニヤ」とも表記する。
+
首都 [[ナイロビ]]
  
国名は[[ケニア山]]に由来する。
 
  
== 歴史 ==
+
[[アフリカ]]東部にある国。北は[[南スーダン]],[[エチオピア]],西は[[ウガンダ]],南は[[タンザニア]],東は[[ソマリア]]と国境を接し,南東は[[インド洋]]に臨む。国土の西半は[[ケニア高原]]を含む高地で,赤道直下にもかかわらず一年中日本の春秋に似た気候でしのぎやすく,特にケニア高原は肥沃で,人口が集中。海岸地帯は高温多湿。[[雨季]]は 4~6月の大雨季と 10~12月の小雨季の 2回。河川の多くは間欠的。変化に富む美しい自然と多種の野生動物が保存され,重要な観光資源となっている。7世紀頃から海岸地帯に[[アラブ人]]が定住,1498年[[バスコ・ダ・ガマ]]が[[モンバサ]]に到来して以来,アラブ人とポルトガル人の間で海岸地帯の争奪戦が繰り返された。16世紀初期から約 200年間[[ポルトガル]]が占領,1729年から再びアラブ人に支配されたが,1887年イギリス東アフリカ会社に譲渡され,1895年イギリスの東アフリカ保護領となった。1920年代から[[キクユ族]]を中心として独立の機運が高まり,第2次世界大戦後激しい独立運動へと発展,1963年独立,翌 1964年共和国となった。1991年独立以来の[[ケニア・アフリカ民族同盟]]による一党独裁を放棄,複数政党制に移行した。農業を主とし,コーヒー,サイザルアサ,トウモロコシ,小麦,チャ(茶),綿花などを産し,酪農も盛ん。工業は発展途上にあり,自動車組み立て,タイヤ,セメント,アルミニウム製品,家具,乾電池,靴,石鹸などの工場がある。地下資源は少ないが,マグネタイト,蛍石,天然ソーダ,石灰石などを産する。観光業も重要。住民の約 98%はアフリカ人で,キクユ族,[[ルオ族]],[[マサイ族]],[[ルイア族]],カレンジン族などを主に,言語,文化を異にする約 70の諸族が住む。民族固有の伝統宗教のほかキリスト教徒も多い。公用語はスワヒリ語,英語。
{{main|{{仮リンク|ケニアの歴史|en|History of Kenya}}}}
 
  
=== クシ語系の民族移動 ===
+
{{テンプレート:20180815sk}}
紀元前2000年ごろに北アフリカからケニア地域へ[[クシ語派|クシ語系]]の民族移動が行われた。
 
 
 
=== バンツー系の民族移動 ===
 
[[紀元前1000年]]までに、バンツー語系、ナイル語系の民族がケニアの地域に移動し、今日のケニア国民を形成する民族として定住した([[:en:Bantu expansion]])。
 
 
 
=== アラブの進出とスワヒリ文明の勃興 ===
 
7、8世紀頃には、[[アラブ人]]が海岸地域に定住しており、[[モンバサ]]や[[マリンディ]]など交易の拠点を建設した。10世紀までにケニア沿岸部には、バンツーとアラブの言語が混ざったスワヒリ語の[[スワヒリ文明]]が栄え始めた。1418年頃に[[明]]の[[鄭和]]の艦隊の一部がマリンディにまで到達した記録が残っている。[[15世紀]]末、[[ヴァスコ・ダ・ガマ]]の来訪をきっかけに[[ポルトガル]]人が進出するも、やがて撤退しアラブ人が再進出。[[18世紀]]にはアラブ人の影響力が内陸部にまで及び[[奴隷貿易]]や[[象牙]]貿易などが活発になる。
 
 
 
=== オマーン帝国 ===
 
1828年には{{仮リンク|マスカット・オマーン|en|Muscat and Oman|label=オマーン帝国}}のスルタン・[[サイイド・サイード]]がモンバサを攻略した。
 
 
 
=== イギリスの進出 ===
 
[[ファイル:Britisheastafrica 1.png|thumb|200px|[[イギリス領東アフリカ]]([[1911年]])]]
 
19世紀にアフリカの植民地化が進むと、ケニア沿岸には[[イギリス]]と[[ドイツ帝国]]が進出。権力争いの末にイギリス勢が優勢となり、[[1888年]]には沿岸部が{{仮リンク|帝国イギリス東アフリカ会社|en|Imperial British East Africa Company}} (IBEA) により統治されるようになった。1895年に[[イギリス領東アフリカ]]が成立。1895年‐1901年の間に、モンバサからキスムまでの鉄道が英国によって完成した。[[1896年]]の[[イギリス・ザンジバル戦争|アングロ=ザンジバル戦争]]で敗れたスルタンが[[ザンジバル・スルタン国]]([[:en:Sultanate of Zanzibar]]、[[1856年]] - [[1964年]])に根拠地を移した。[[1902年]]、[[ウガンダ]]もイギリスの保護領となり、イギリスの影響が及ぶ地域が内陸部に広がった。1903年に鉄道はウガンダまで延びた。[[1920年]]には直轄の{{仮リンク|ケニア植民地|en|Kenya Colony}}となる。
 
 
 
=== 政治運動の始まり ===
 
{{Seealso|[[:en:History of the Kenya African National Union]]}}
 
 
 
[[1921年]][[6月10日]]、{{仮リンク|ハリー・トゥクー|en|Harry Thuku}}によって{{仮リンク|キクユ青年協会|en|Young Kikuyu Association}}(YKA)が設立され、政治運動が始まった。[[1924年]]にYKAの政治活動が禁止されると、[[:en:James Beauttah]]らによって{{仮リンク|キクユ中央協会|en|Kikuyu Central Association}}(KCA)が結成された。
 
 
 
[[1940年]]に[[第二次世界大戦]]の[[北アフリカ戦線|アフリカ戦線]]の戦場になると、KCAも政治活動が禁止された。後にマウマウ団の乱の際、一部の活動家が組織をKCAと自称していたのはキクユ中央協会の活動を継承していたからである。1942年にケニア・アフリカ学生同盟({{lang|en|Kenya African Study Union}}、KASU)が設立され、1947年に[[ジョモ・ケニヤッタ]]が加わり{{仮リンク|ケニア・アフリカ同盟|en|Kenya African Union}}(KAU)に改組された。
 
 
 
=== マウマウ団の乱 ===
 
1952-56年[[ケニア土地自由軍]](KLFA)が植民地政府に対して[[マウマウ団の乱]]を起こし、イギリスへの抵抗運動が始まった。マウマウ団の乱は敗北した。このとき、KAUのメンバーであった[[ジョモ・ケニヤッタ]]が投獄されている。当時、[[グレンデールのホウィック男爵]]の草分けであるイヴリン・ベアリングがケニア総督(在任1952-1959)であった。
 
 
 
=== 独立・ケニヤッタ政権 ===
 
[[File:Jomo Kenyatta.jpg|thumb|right|140px|[[ジョモ・ケニヤッタ]]初代大統領]]
 
反乱を契機に独立の機運が高まった。[[1960年]]には、KAUの中心メンバーによって、[[ケニア・アフリカ民族同盟]](KANU)が結成され、同時期に[[:en:Kenya African Democratic Union|KADU]]が結成された。一国体制と連邦体制と両方の意見を持つ二つの政党、KANUとKADUの間で意見の対立があったが、[[:en:James Gichuru|James Gichuru]]、[[ジャラモギ・オギンガ・オディンガ]]、{{仮リンク|トム・ムボヤ|en|Tom Mboya}}が率いるKANUが主導となる。
 
 
 
[[1963年]]に[[英連邦王国]]として独立。翌[[1964年]]に[[共和制]]へ移行、ケニア共和国が成立した。初代大統領に就任した[[ジョモ・ケニヤッタ]]や[[ダニエル・アラップ・モイ]]は、冷戦中に[[アフリカ社会主義]]を掲げて[[ソ連|親ソ]]の姿勢を示した。国内的には[[ケニア・アフリカ民族同盟]](KANU)の[[一党制]]が敷かれ、その後は一貫して[[西側諸国|西側]]寄りの政策を採った。後にKANUを飛び出したオギンガ・オディンガがKPUを設立した(1969年に活動禁止となる)。ケニヤッタの下でケニアは経済的に成長を遂げた。
 
 
 
=== モイ政権 ===
 
[[1978年]]のケニヤッタ死去後、[[ダニエル・アラップ・モイ]]が第2代大統領に就任した。[[1982年]]8月、{{仮リンク|ケニア・クーデター未遂事件 (1982年)|en|1982 Kenyan coup d'état attempt|label=空軍クーデター未遂事件}}が起きた。
 
 
 
1991年に複数政党制を導入。[[ムワイ・キバキ]]は、KANUを飛び出して[[民主党 (ケニア)|民主党]](DP)を結成。[[2000年]]、モイがケニヤッタの息子、[[ウフル・ケニヤッタ]]をKANUの後継者とし、[[:en:The National Alliance]]と改組された。
 
 
 
[[1998年]][[8月7日]]には首都[[ナイロビ]]の[[在ケニアアメリカ合衆国大使館]]が[[アルカーイダ]]によって攻撃される[[アメリカ大使館爆破事件#1998年アメリカ大使館爆破事件|アメリカ大使館爆破事件]]が発生し、数千名の死傷者を出した。
 
 
 
=== キバキ政権 ===
 
2002年の総選挙の結果、旧KANU政権の継続を阻止しようとした[[ムワイ・キバキ]]を代表とする大小多数の政党による連合組織「{{仮リンク|国民虹の連合|en|National Rainbow Coalition}}」(NARC)が選挙に勝利し、初めての政権交代が実現した。しかし、キバキは、公約である憲法見直しへの着手を実施せず、またキバキの出身部族である[[キクユ人]]優遇策をとり、また連合組織内の党派同士の約束を破って連合を分裂させるなど、新たな政権の樹立を期待した選挙民を裏切った。政権は保守色のある抵抗勢力と呼ばれるキバキ派と改革派の政党LDP(後にODMに発展)に分裂する。改革派の中心は、[[ライラ・オディンガ]]であった。2002年以来審議された[[憲法]]改正は、2005年7月に[[議会]]で改正案が承認されたが、大統領権限の強い性格のものであり改革派は改正案に反対であった。11月に[[国民投票]]を行ったが、改正案は国民投票により否決され、[[ムワイ・キバキ]]大統領は閣僚の交代をよぎなくされた。
 
 
 
=== ケニア危機 ===
 
[[File:ODM - Raila Odina portrait.jpg|thumb|160px|[[オレンジ民主運動]]の支持者たち]]
 
 
 
そして、[[2007年]][[12月]]の大統領選挙は、キバキ派(国家統一党;PNU)とライラ・オディンガを中心とした改革派(ODM:[[オレンジ民主運動]])との[[一騎討ち]]となった。当初オディンガ優勢とされたにもかかわらず、同年12月30日、選挙管理委員会がキバキ大統領の再選を発表した。しかし、意外な結果となったことを不服とした野党勢力が行った抗議行動は、警官による鎮圧も含め、両派衝突による暴動へと変容した。暴動は、ナイロビの[[スラム]]や[[リフト・バレー州]]において住民同士の暴力や警官による鎮圧が発生し、1000名を越える死者(リフトバレー州での教会に逃げた避難民焼き討ちによる大量焼死事件や相次ぐODM議員の暗殺事件も含む)と非常に多くの国内避難民を生み出した。
 
 
 
1月に行われた国連のアナンによる調停の結果、和解の合意がなされ、キバキとオディンガが、大統領と首相を分け合う連立政権が成立することで、2月末に政治的混乱は一応収拾された。連立政権とともに国民の対話と和解の法と暫定憲法が成立する([[ケニア危機 (2007年-2008年)|2007年-2008年のケニア危機]])。 
 
 
 
連合政権は、その後、本格的に憲法改正作業に着手する。[[2010年]][[8月4日]]に国民投票によって新憲法の成立が決まった。新憲法は、1963年にイギリスの植民地支配から独立した際に制定された憲法に代わり、大統領権限の縮小による[[三権分立]]の強化等、より制度的な民主化を促進するとみられる([[ケニア共和国憲法 (2010年)]]、[[:en:Constitution of Kenya]]、[[:en:Kenyan constitutional referendum, 2010]])。
 
 
 
=== 東アフリカ大旱魃 ===
 
{{main|東アフリカ大旱魃 (2011年)}}
 
 
 
=== ウフル・ケニヤッタ政権 ===
 
2013年3月の{{仮リンク|ケニア大統領選挙 (2013年)|en|Kenyan presidential election, 2013|label=大統領選挙}}で[[ウフル・ケニヤッタ]]が当選、4月に就任。[[2013年]][[9月21日]]に[[ケニアショッピングモール襲撃事件]]が発生し、[[ソマリア]]で活動していた[[アル・シャバブ (ソマリア)|アル・シャバブ]]が犯行声明を出した。
 
 
 
[[2017年ケニア国政選挙|2017年8月の大統領選挙]]でケニヤッタが再選されたが、最高裁はこれを無効とした。これはアフリカで選挙結果が法的に無効にされた初めてのケース<ref>{{cite web|url=http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/50998|title=ケニア選挙やり直しの英断、司法独立への期待に火 アフリカ初の無効判決、一躍国民のヒーローになった最高裁判事|publisher=|date=2017-09-07|accessdate=2017-09-18}}</ref>。同年10月にやり直しの{{仮リンク|ケニア大統領選挙 (2017年10月)|en|Kenyan presidential election, October 2017|label=大統領選挙}}が執行されたが、野党候補の[[ライラ・オディンガ]]がボイコットしたためケニヤッタが圧倒的多数で再選された。
 
 
 
== 政治 ==
 
{{main|ケニアの政治}}
 
[[File:Parliament Buildings, Nairobi, Kenya-21April2010.jpg|thumb|180px|ケニア[[国民議会 (ケニア)|国民議会]]議事堂。]]
 
[[大統領制]]をとる。[[議会]]は224議席、任期5年、[[一院制]]の[[国民議会 (ケニア)|国民議会]]([[:en:National Assembly (Kenya)]])から成っていたが、2013年より二院制(Countyの代表である上院と選挙区議会の下院)に移行した。
 
 
 
初代大統領[[ジョモ・ケニヤッタ]]、二代目[[ダニエル・アラップ・モイ]]と建国以来[[ケニア・アフリカ民族同盟]] (Kenya African National Union, KANU) が長く政権の座にあり一時期に一党制であったが、1991年より[[複数政党制]]が導入された。
 
 
 
== 国際関係 ==
 
=== 日本との関係 ===
 
*在日ケニア大使館汚職事件 - [[2009年]]に大使館用地購入を巡る汚職疑惑事件が起こり、翌年、Moses Wetangula外務大臣が辞任した(のちに復職)。日本政府から好立地で無料の大使館用地の提示があったにも関わらず、[[目黒区]]の敷地を大使館用地として市井価格より高い金額で現金購入したことが問題となった<ref>[http://www.english.rfi.fr/africa/20101027-expensive-tokyo-embassy-leads-kenyan-resignations Expensive Tokyo embassy leads to Kenyan resignations]RFI, 27/10/2010</ref><ref>[http://www.47news.jp/CN/201010/CN2010102001000542.html 在日ケニア大使館、不当に高い? 反汚職委が経緯調査] 共同通信, 2010/10/20</ref>。
 
 
 
== 地方行政区分 ==
 
{{main|ケニアのカウンティ}}
 
2010年の国民投票により新憲法が制定され、独立以来続いてきた州を基本とする中央政府主導の国家体制から47のカウンティ(County:日本のイメージで「県」)を地方行政の単位とすることが決定された(地方分権化)。2013年3月に行われた総選挙<ref group="注釈">大統領、上院議員(Senator)、カウンティの知事、国会議員などを選出</ref>の後にカウンティ政府が設立された。カウンティ政府には中央から多くの権限が委譲され、必要な予算・職員も従来の地方行政区や中央から配置・配転された<ref>{{Cite web|url=http://www.jica.go.jp/kenya/office/information/event/130124.html|title=ケニアで地方分権が始まる。日本が支援する、分権実施に向けた人材育成もスタート|publisher=国際協力機構|accessdate=2014-10-24}}</ref>。
 
カウンティ政府法<ref group="注釈">County Governments Act No.17 of 2012</ref>によって各カウンティの下にはサブ・カウンティ(sub-county)、区(ward)、村(village)などの下位行政区分が設置されている。サブ・カウンティは国会議員(290名)を選出するための選挙区(constituency)に対応している。
 
 
 
=== 2013年以前の行政区分 ===
 
新憲法施行以前の行政区分は州 (Mikoa, Province) が設置されていた。
 
{{main|ケニアの州}}
 
 
 
===主要都市===
 
{{Main|ケニアの都市の一覧}}
 
主要な都市は[[ナイロビ]](首都)、[[モンバサ]]、[[キスム]]がある。
 
 
 
== 地理 ==
 
[[ファイル:Ke-map.png|280px|thumb|right|ケニアの地図。ルドルフ湖は現在[[トゥルカナ湖]]と呼ばれる。北西部に、ケニアと南スーダンとエチオピアとの係争地で、ケニアが実効支配する[[イレミ・トライアングル]]がある。]]
 
[[Image:Kenya Topography.png|thumb|250px|地形図]]
 
ケニアの首都、ナイロビはマサイ族の言葉で「冷たい水」を意味する。ナイロビは[[カヤツリグサ]]が茂る沼地に位置する。ケニアは赤道直下に位置しており、[[インド洋]]や[[ヴィクトリア湖]]沿岸は年間平均気温が26℃の[[熱帯|熱帯性気候]]である。しかし、国土の大部分は、標高1100m - 1800mの高原となっているため年間平均気温が19℃の乾燥した高原[[サバナ (地理)|サバンナ]]地帯となっている。11月から3月にかけては北東[[モンスーン]]、5月から9月には南東モンスーンと呼ばれる季節風が吹く。最高地点は赤道が通る[[ケニア山]](標高5199m)。
 
エチオピアからタンザニアにかけて西部を走る[[大地溝帯]]は大地を切り裂いた壮大な地質形態でリフト・バレーと呼ばれる。北から[[トゥルカナ湖]]・[[ナクル湖]]・[[ナイバシャ湖]]・[[マガディ湖]]等が並ぶ。
 
 
 
=== 国立公園・国立保護区 ===
 
* [[アンボセリ国立公園]]
 
* [[アバデア国立公園]]
 
* [[海洋国立公園]]
 
* [[ケニア山国立公園]]
 
* [[サンブル国立保護区]]
 
* [[ツァボ国立公園]]
 
* [[トゥルカナ湖国立公園群]]([[シビロイ国立公園]]、[[セントラル・アイランド国立公園]]、[[サウス・アイランド国立公園]])
 
* [[ナイロビ国立公園]]
 
* [[ナクル湖国立公園]]
 
* [[ヘルズ・ゲート国立公園]]
 
* [[マサイマラ国立保護区]]
 
* [[シンバヒルズ国立保護区]]
 
 
 
== 経済 ==
 
{{also|ケニアにおけるコーヒー生産}}
 
<!--''詳細は[[ケニアの経済]]を参照''-->
 
[[File:A view of Nairobi from the Kenyatta International Conference Centre.jpg|thumb|260px|left|首都[[ナイロビ]]の景観。]]
 
 
 
ケニアの主要産業は[[農業]]であり、GDPの約30%を占めている<ref name=WDI>{{Cite web|url=http://data.worldbank.org/products/wdi|title=World Development Indicators|publisher=World Bank|accessdate=2014-10-11}}</ref>。また、農業部門はケニアの輸出総額の65%を占めている<ref name=vision>{{Cite web|url=http://www.vision2030.go.ke|title=Kenya Vision 2030|publisher=Republic of Kenya|accessdate=2014-10-11}}</ref>。
 
農業部門は雇用面でもケニア経済において重要な役割を果たしており、正規雇用に占める割合は約18%(2005年)ほどであるが<ref name=vision/>、労働力人口全体(1,891万人)で見ると70.6%(1,335万人)が農業に従事している(2010年)<ref>{{Cite web|url=http://faostat.fao.org|title=FAOSTAT|publisher=Food and Agriculture Organization|accessdate=2014-10-11}}</ref>。さらにケニアの人口の約8割の人々が農業によって生計を立てている。
 
 
 
工業化は他のアフリカ諸国と比べると比較的進んでおり、特に製造業の発展が著しい。[[紅茶]]、花卉の輸出増が近年著しい。自然条件(起伏にとんだ国土、温暖な平野部と冷涼な高地が混在)とケニア政府による園芸産業育成により欧州連合(EU)向け花卉の最大の供給源である<ref>[[日本経済新聞]],2013年12月19日,初歩からのアフリカ ケニアの園芸産業に続け</ref>。
 
 
 
独立以来資本主義体制を堅持し、東アフリカではもっとも経済の発達した国となった。しかし、政情不安や政治の腐敗・非能率、貧富の差の増大という問題を抱える。2007年の経済成長率は約7%、2008年は国内混乱の影響で成長率は低迷したが、2009-2010年は4-5%の成長に戻った。
 
 
 
[[ナイロビ]]は東アフリカの通信・金融・交通の中心都市であり、[[モンバサ]]は東アフリカ最大の港であり内陸部への重要な入り口である。1999年にタンザニア・ウガンダと共に地域経済の発展のため、関税、人の移動、インフラの向上を目指した[[東アフリカ共同体]](EAC)を形成した(後にルワンダ、ブルンジが参加)。2004年には関税同盟を確立し、2010年にはEACの共同市場化が発足し、2012年までの自由化と共通通貨の達成を目標としていた。
 
{{Clearleft}}
 
 
 
[[:en:LAPSSET|LAPSSET]]はインド洋のラム港とエチオピア・南スーダンを結び北部開発を目的とするインフラ計画である。
 
=== 鉱業 ===
 
ケニアの鉱物資源は種類、産出量とも少なく、さらに第二次世界大戦から20世紀末にかけて規模を縮小してきた。主な鉱物資源はソーダ灰、塩、マグネシウム鉱物、蛍石、石灰岩、金である。経済産業調査会の鉱業便覧によると、1986年にはマグネシウム鉱30万トンを産出し、これは世界シェアの1.7%に達した。塩9.2万トン、金16kg、蛍石10万トン、採掘後、工場で加工されたソーダ灰24万トンも記録されている。2004年時点では塩が1.9万トンに減少、その他の鉱物は記録されていない。唯一、金の産出量が1.6トンに拡大している。主な金鉱山は南西部の{{仮リンク|グリーンストーン帯|en|Greenstone belt}}に分布する。金の採掘は機械化されておらず手工業の段階に留まっている。
 
現在石油は100%輸入に頼っているが近年探査が進み発見されており、その生産開発が検討されている。また、大地溝帯が南北に貫くナイロビ西方では地下の地熱を開発中で日本企業も参加している。
 
 
 
=== 貿易 ===
 
2012年のケニアの貿易額は、輸出額が51億6900万ドル、輸入額が120億9300万ドルである(69億2400万ドルの貿易赤字)<ref name=jetro>{{Cite web|url=http://www.jetro.go.jp/world/africa/ke/|title=海外ビジネス情報:ケニア|publisher=日本貿易振興機構|accessdate=2014-10-11}}</ref>。
 
*主要な輸出品:[[紅茶]](輸出額全体の21.1%)、[[園芸作物]](16.9%)、[[コーヒー]](4.6%)、衣料品・アクセサリー(4.3%)、たばこ・同製造品(3.5%)
 
*輸入品:産業用機械、[[自動車]]、[[原油]]、[[鋼|鉄]]
 
*主要な輸出先:[[ウガンダ]](輸出額全体の13.0%)、[[タンザニア]](8.9%)、[[英国]](7.8%)、[[オランダ]](6.0%)、[[アラブ首長国連邦]](5.5%)
 
*主要な輸入先:[[インド]](14.2%)、[[中国]](12.2%)、[[アラブ首長国連邦]](10.9%)、[[サウジアラビア]](4.9%)、[[米国]](4.8%)
 
 
 
==== 日本との貿易 ====
 
対日輸出額は4600万ドル、対日輸入額は9億1100万ドルである<ref name=jetro/>。
 
*主要な輸出品:植物性原料(34.4%)、[[コーヒー]]・[[紅茶|茶]]・[[香辛料]](27.7%)、[[加工食品]](19.3%)
 
*主要な輸入品:輸送機器(59.5%)、[[鋼|鉄鋼]](19.5%)、一般機械(9.8%)
 
 
 
== 国民 ==
 
{{main|ケニアの国民|[[:en:Demographics of Kenya]]}}
 
[[File:Maasai tribe.jpg|thumb|伝統衣装をまとった[[マサイ族]]。]]
 
[[File:Catholic Church in Mombasa.JPG|thumb|[[モンバサ]]の[[カトリック教会|カトリック]]大聖堂。]]
 
 
 
=== 人口 ===
 
2009年の国勢調査によると、ケニアの総人口は38,610,097人(男性:19,192,458人,女性:19,417,639人)である<ref name=census>{{Cite web|url=https://web.archive.org/web/20130810185221/http://www.knbs.or.ke/docs/PresentationbyMinisterforPlanningrevised.pdf|title=2009 POPULATION & HOUSING CENSUS RESULTS|publisher=Minister of State for Planning, National Development and Vision 2030|accessdate=2014-10-11}}</ref>。また、[[CIAワールドファクトブック]]による推計では2014年7月時点の総人口は45,010,056人である<ref name="cia2014">[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ke.html The World Factbook]2014年10月11日閲覧</ref>。
 
 
 
=== 民族 ===
 
ケニアの主要な民族の人口は、以下の表の通りである。
 
 
 
{| class="wikitable"
 
|+ ケニアの主要民族<ref name=census/>
 
!  !! 民族 !! 人口 !! 人口比(%)
 
|-
 
! 1
 
| [[キクユ族|キクユ]] || 6,622,576 || 17.2
 
|-
 
! 2
 
| {{仮リンク|ルヒヤ人|en|Luhya people|label=ルヒヤ}} || 5,338,666 || 13.8
 
|-
 
! 3
 
| {{仮リンク|カレンジン人|en|Kalenjin people|label=カレンジン}} || 4,967,328 || 12.9
 
|-
 
! 4
 
| [[ルオ族|ルオ]] || 4,044,440 || 10.5
 
|-
 
! 5
 
| [[カンバ族|カンバ]] || 3,893,157 || 10.1
 
|-
 
! 6
 
| [[ソマリ族|ソマリ]] || 2,385,572 || 6.2
 
|-
 
! 7
 
| [[キシイ族|キシイ]] || 2,205,669 || 5.7
 
|-
 
! 8
 
| [[ミジケンダ]] || 1,960,574 || 5.1
 
|-
 
! 9
 
| [[メルー]] || 1,658,108 || 4.3
 
|-
 
! 10
 
| {{仮リンク|トゥルカナ人|en|Turkana people|label=トゥルカナ}} || 988,592 || 2.6
 
|-
 
|}
 
ケニアには全部で42の民族が存在していると言われるが、上表の通り上位5位までの民族でケニアの総人口の約3分の2を、上位10位まででその約9割を占めている。また、その他に[[アジア系民族|アジア系]]、[[ヨーロッパ人]]、[[アラブ人]]などが少数存在する。
 
ただしこれらの民族/部族区分はイギリスが植民地支配のために造り出したものであり、民族間の境界は存在しなかった<ref>[[松田素二]]「民族対立の社会理論」『現代アフリカの紛争を理解するために』[[アジア経済研究所]] 1998年</ref>。
 
人口比では少数派だが、イギリス系などの大土地所有者や、鉄道建設時に労働力を補いのちに商人としてやってきた「[[インド系移民と在外インド人|インド系]]」(印僑)も、政治経済に大きな影響力を保っている。
 
 
 
=== 言語 ===
 
{{main|ケニアの言語|[[:en:Languages of Kenya]]}}
 
 
 
==== 公用語・国語 ====
 
2010年に制定された憲法では、ケニアの[[国語]](National Language)は[[スワヒリ語]]、[[公用語]](Official Language)は[[スワヒリ語]]および[[英語]]と定められている。司法機関はスワヒリ語よりも英語を重視しており、国民感情にも同様の傾向がある<ref>宮本正興「アフリカの言語 その生態と機能」『ハンドブック現代アフリカ』[[岡倉登志]]:編 [[明石書店]]、2002/12</ref>。
 
 
 
==== 民族語 ====
 
ケニアには英語やスワヒリ語の他に60以上の言語が存在しており<ref>Lewis, M. Paul, Gary F. Simons, and Charles D. Fennig (eds.). 2015. Ethnologue: Languages of the World, Eighteenth edition. Dallas, Texas: SIL International. Online version: http://www.ethnologue.com.</ref>、大きく分けて[[ニジェール・コンゴ語族]]の[[バンツー諸語]]、[[ナイル・サハラ語族]]の[[ナイル諸語]]、[[アフロ・アジア語族]]の[[クシ諸語]]がある。
 
 
 
*[[ニジェール・コンゴ語族]] [[バンツー諸語]]
 
**[[キクユ語]](話者数約660万人)、[[ルイヤ語]]<ref group="注釈">ルイヤ語はさらに14の言語に分類することができ、主なものとして[[ブクス語]](約140万人)、{{仮リンク|ロゴーリ語|en|Logoli language}}(約62万人)、{{仮リンク|イダホ=イスハ=ティリキ語|en|Idaxo-Isuxa-Tiriki language}}などがある。</ref>(約510万人)、[[カンバ語]](約390万人)、[[キシイ語]](約220万人)、[[メル語|メルー語]](約170万人)
 
 
 
*[[ナイル・サハラ語族]] [[ナイル諸語]]
 
**[[カレンジン語]]<ref group="注釈">カレンジン語は幾つかの言語をまとめた方言群であり、{{仮リンク|キプシギス語|en|Kipsigis language}}(約190万人)、{{仮リンク|ナンディ語|en|Naandi language}}(約95万人)などを含む。</ref>(約480万人)、[[ルオ語]](約400万人)、{{仮リンク|トゥルカナ語|en|Turkana language}}(約100万人)
 
 
 
*[[アフロ・アジア語族]] [[クシ諸語]]
 
**[[ソマリ語]](約240万人)
 
 
 
==== シェン ====
 
[[シェン(言語)|シェン]](Sheng)とは、1970年代以降に生まれたスワヒリ語や英語、幾つかの民族語の[[混合言語]]・[[スラング]]であり、主に首都[[ナイロビ]]で若者を中心として話されている。
 
 
 
=== 宗教 ===
 
宗教は、[[プロテスタント]]が47.7%、[[カトリック教会|カトリック教徒]]が23.5%、その他のキリスト教徒が11.9%、[[ムスリム]]が11.2%、伝統宗教の信徒が1.7%、[[ヒンドゥー教徒]]が0.1%、その他が1.5%、[[無宗教]]が2.4%となっている<ref name=census/>。
 
 
 
=== 教育 ===
 
2010年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は87.4%(男性:90.6%、女性:84.2%)である<ref name=cia2014/>。
 
 
 
{| class="wikitable" style="text-align:center; margin: 0 0 0 4em"
 
|+ ケニアの教育関連指標(2009年)<ref>{{Cite| author=The World Bank| title=Africa Development Indicators 2012/13| date=2013| url=http://data.worldbank.org/data-catalog/africa-development-indicators| ref=harv}}</ref>
 
! rowspan="2" |
 
! colspan="3" | 純就学率 (%)
 
! rowspan="2" style="width:7em" | 教師一人当たりの生徒数
 
! rowspan="2" style="width:7em" | 生徒一人当たり教育支出(%) <ref group="注釈">一人当たりGDPに対する生徒一人当たり公共教育支出額の割合。初等・中等教育は2006年、高等教育は2004年の数値。</ref>
 
|-
 
! 男子 || 女子 || 合計
 
|-
 
! 初等教育
 
| 82.3 || 83.2 || 82.8 || 46.8 || 22.3
 
|-
 
! 中等教育
 
| 51.6 || 48.4 || 50.0 || 29.7 || 21.1
 
|-
 
! 高等教育
 
| 4.7 || 3.3 || 4.0 || - || 273.6
 
|}
 
 
 
 
 
主な[[高等教育]]機関として[[ナイロビ大学]](1956,1970)の名が挙げられる。
 
 
 
== 文化 ==
 
[[ファイル:Ngũgĩ wa Thiong'o (signing autographs in London).jpg|thumb|220px|ケニア出身の文学者、[[グギ・ワ・ジオンゴ]]は植民地時代以来の公用語の英語ではなく、民族語である[[キクユ語]]のみで創作することを宣言している。]]
 
[[File:Pt Thomson Batian Nelion Mt Kenya.JPG|thumb|220px|ケニア最高峰の[[ケニア山]]は1997年に[[世界遺産]]に登録された。]]
 
 
 
=== 文学 ===
 
{{See also|アフリカ文学}}
 
小説においては英語で書いた『{{仮リンク|泣くな、わが子よ|en|Weep Not, Child|label=夜が明けるまで}}』(1964)でケニア独立戦争を描いた後、[[キクユ語]]のみで創作することを新たに宣言した[[グギ・ワ・ジオンゴ]]、『猟犬のための死体』(1974)の[[メジャ・ムアンギ]]、『スラム』(1981)の[[トマス・アカレ]]、[[ケニア土地自由軍]]の指導者を描いた『デダン・キマジ』(1990)で知られる[[サムエル・カヒガ]]などが著名な作家の名として挙げられる。
 
 
 
=== 世界遺産 ===
 
{{Main|ケニアの世界遺産}}
 
ケニア国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が2件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が2件存在する。
 
 
 
<gallery>
 
ファイル:MtKenyaMackinder.jpg|[[ケニア山国立公園|ケニア山国立公園/自然林]] - (1997年、自然遺産)
 
ファイル:Lake turkana.jpg|[[トゥルカナ湖国立公園群]] - (1997年、自然遺産)
 
ファイル:Lamu Town.jpg|[[ラム_(ケニア)|ラム旧市街]] - (2001年、文化遺産)
 
ファイル:Kaya-skog.jpg|[[カヤ (ケニア)|ミジケンダのカヤの聖なる森林群]] - (2008年、文化遺産)
 
</gallery>
 
 
 
=== 祝祭日 ===
 
{| class="wikitable"
 
|+祝祭日
 
!日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考
 
|-
 
|1月1日 || [[元日]] || New Year's Day ||
 
|-
 
|3月or4月 || 聖金曜日 || Good Friday || [[移動祝日]]
 
|-
 
|3月or4月 || [[復活祭|イースター・マンデー]] || Easter Monday || 移動祝日
 
|-
 
|5月1日 || [[メーデー]] || Labour Day ||
 
|-
 
|6月1日 || [[マダラカデー]] || Madaraka Day ||独立前の自治獲得記念(1963年)
 
|-
 
|10月20日 || マシュジャアデー || Mashujaa Day ||旧称のケニヤッタ・デーから2010年に独立の英雄を祝う日へと名称・趣旨を変更
 
|-
 
|12月12日 || 独立記念日 || Jamuhuri Day ||1963年12月12日
 
|-
 
|12月25日 || [[クリスマス]] || Christmas Day ||
 
|-
 
|12月26日 || [[ボクシング・デー]] || Boxing Day ||
 
|}
 
 
 
10月10日に指定されていた[[モイデー]]は[[2010年]]に廃止された。
 
 
 
=== スポーツ ===
 
{{main|ケニアのスポーツ}}
 
[[陸上競技]]、[[サッカー]]、[[クリケット]]、[[ラグビー]]、[[ラリー]]、[[バレーボール]]、[[ボクシング]]などが人気のあるスポーツである。とりわけ陸上競技の[[長距離走]]の人気が高く、また隣国エチオピアと並んで世界の強豪として有名である。[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]男子マラソン金メダリスト[[サムエル・ワンジル]]をはじめ、世界大会における優勝者を輩出した。
 
 
 
== ゆかりの人物 ==
 
=== 出身者 ===
 
{{main|ケニア人の一覧}}
 
<!--* [[{人名}]] - [[{職業}]]のように記載して下さい。なお、追加する人物は既に記事がある人物に限ります。また、追加する場合はアイウエオ順(姓)でお願いします。-->
 
* [[トマス・アカレ]] - 作家
 
* [[ピーター・オルワ]] - [[ボクサー (スポーツ)|ボクサー]]
 
* [[ムワイ・キバキ]] - ケニア第3代[[大統領]]
 
* [[ウィルソン・キプケテル]] - [[陸上選手]]
 
* [[ピーター・コエチ]] - 陸上選手
 
* [[ダニエル・ジェンガ]] - マラソン選手
 
* [[ウィリアム・シゲイ]] - 陸上選手
 
* [[ウィリアム・タヌイ]] - 陸上選手
 
* [[ケンタ・ミゾグチ]] - 陸上選手
 
* [[リチャード・チェリモ]] - 陸上選手
 
* [[グリンダ・チャーダ]] - [[映画監督]]
 
* [[ポール・テルガト]] - [[マラソン]]選手
 
* [[ワルインゲ中山]] - ボクサー
 
* [[モデスト・ナプニ]] - ボクサー
 
* [[キャサリン・ヌデレバ]] - マラソン選手
 
* [[ポール・ビトク]] - 陸上選手
 
* [[ワンガリ・マータイ]] - 環境保護活動家
 
* [[エリック・ワイナイナ]] - マラソン選手
 
* [[ダグラス・ワキウリ]] - マラソン選手
 
* [[ロバート・ワンギラ]] - ボクサー
 
* [[サムエル・ワンジル]] - マラソン選手
 
* [[バラク・オバマ・シニア]] - エコノミスト
 
 
 
=== バラク・オバマ ===
 
{{main|バラク・オバマ}}
 
ケニア人のバラク・オバマ・シニアと[[アン・ダナム]]の間に生まれたバラク・オバマが、[[アメリカ合衆国]]初の[[アフリカ系アメリカ人|黒人]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]に就任した。
 
 
 
オバマはケニア国内では育てられていないが、過去にケニアを数回訪問している。両親は既に故人であるが生存している祖母[[サラ・オバマ]]の元には大統領就任の際、国外を含む10以上のメディアが押し寄せたと伝えられている。ムワイ・キバキ大統領は、[[ジョン・マケイン]]候補が敗北を認めた直後に、「オバマ氏の勝利はケニアにとっての勝利でもある」と歓迎する声明を発表。さらに、祝意を表するため6日を国民の祝日にすると宣言した<ref>[http://www.afpbb.com/article/politics/2535758/3498917]</ref>。オバマという姓は[[ルオ族]]の姓であり、ヨーロッパ系の姓のみであった歴代アメリカ大統領の中に初のアフリカの独自の姓が現れたのである。またオバマの父はイギリス植民地時代に生まれ、オバマの母は[[イギリス人]]の血を引くためにオバマは大英帝国に関わりが深いアメリカ人でもある。
 
 
 
== 注釈 ==
 
<references group="注釈"/>
 
== 出典 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite book|和書|author=[[砂野幸稔]] |translator= |editor=[[岡倉登志]]編 |others= |chapter=アフリカ文化のダイナミズム |title=ハンドブック現代アフリカ |series= |origdate= |origyear= |origmonth= |edition |date=2002年12月 |publisher=[[明石書店]] |location=[[東京]] |id= |isbn= |volume= |page= |pages= |url= |ref=砂野(2002)}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[宮本正興]] |translator= |editor=[[岡倉登志]]編 |others= |chapter=アフリカの言語――その生態と機能 |title=ハンドブック現代アフリカ |series= |origdate= |origyear= |origmonth= |edition |date=2002年12月 |publisher=[[明石書店]] |location=[[東京]] |id= |isbn= |volume= |page= |pages= |url= |ref=宮本(2002)}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[ケニア関係記事の一覧]]
 
* [[マウマウ団の乱]]
 
* [[イレミ・トライアングル]]
 
* [[ケニア海軍艦艇一覧]]
 
* [[少年ケニヤ]]
 
* [[愛と哀しみの果て]](原作:[[カレン・ブリクセン]]『アフリカの日々』)
 
* [[ケニア危機 (2007年-2008年)]]
 
* [[ナイロビの蜂]]
 
* [[名もなきアフリカの地で]]
 
* [[大草原の小さな天使 ブッシュベイビー]]
 
* [[佐藤芳之]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Wiktionary}}
 
{{Commons&cat|Kenya|Kenya}}
 
{{Wikipedia|sw}}
 
{{ウィキポータルリンク|アフリカ|[[画像:Africa_satellite_orthographic.jpg|36px|Portal:アフリカ]]}}
 
; 政府
 
* [http://www.kenya.go.ke/ ケニア共和国政府] {{en icon}}
 
* [http://www.statehousekenya.go.ke/ ケニア大統領府] {{en icon}}
 
* [http://www.kenyarep-jp.com/ 在日ケニア大使館]
 
; 日本政府
 
* [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/kenya/ 日本外務省 - ケニア]
 
* [http://www.ke.emb-japan.go.jp/j-index.html 在ケニア日本国大使館]
 
; 観光
 
* [http://www.magicalkenya.jp/ MAGICAL Kenya](ケニア観光局)
 
* {{Wikivoyage-inline|en:Kenya|ケニア{{en icon}}}}
 
* [[ウィキトラベル]]旅行ガイド - [http://wikitravel.org/ja/ケニア ケニア]
 
; その他
 
* [http://www.jetro.go.jp/world/africa/ke/ JETRO - ケニア]
 
* {{Wikiatlas|Kenya}} {{en icon}}
 
* {{Googlemap|ケニア}}
 
* {{osmrelation-inline|192798}}
 
{{アフリカ}}
 
{{イギリス連邦}}
 
{{Authority control}}
 
{{KE-stub}}
 
{{Coord|1|N|38|E|display=title}}
 
 
{{デフォルトソート:けにあ}}
 
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[[Category:ケニア|*]]
 
[[Category:ケニア|*]]
 
[[Category:共和国|けにあ]]
 
[[Category:共和国|けにあ]]
 
[[Category:イギリス連邦加盟国]]
 
[[Category:イギリス連邦加盟国]]

2019/4/27/ (土) 16:55時点における最新版

正式名称 ケニア共和国 Republic of Kenya。スワヒリ語では Jamhuri ya Kenya。

面積 58万2646km2

人口 4403万8000(2013推計)。

首都 ナイロビ


アフリカ東部にある国。北は南スーダンエチオピア,西はウガンダ,南はタンザニア,東はソマリアと国境を接し,南東はインド洋に臨む。国土の西半はケニア高原を含む高地で,赤道直下にもかかわらず一年中日本の春秋に似た気候でしのぎやすく,特にケニア高原は肥沃で,人口が集中。海岸地帯は高温多湿。雨季は 4~6月の大雨季と 10~12月の小雨季の 2回。河川の多くは間欠的。変化に富む美しい自然と多種の野生動物が保存され,重要な観光資源となっている。7世紀頃から海岸地帯にアラブ人が定住,1498年バスコ・ダ・ガマモンバサに到来して以来,アラブ人とポルトガル人の間で海岸地帯の争奪戦が繰り返された。16世紀初期から約 200年間ポルトガルが占領,1729年から再びアラブ人に支配されたが,1887年イギリス東アフリカ会社に譲渡され,1895年イギリスの東アフリカ保護領となった。1920年代からキクユ族を中心として独立の機運が高まり,第2次世界大戦後激しい独立運動へと発展,1963年独立,翌 1964年共和国となった。1991年独立以来のケニア・アフリカ民族同盟による一党独裁を放棄,複数政党制に移行した。農業を主とし,コーヒー,サイザルアサ,トウモロコシ,小麦,チャ(茶),綿花などを産し,酪農も盛ん。工業は発展途上にあり,自動車組み立て,タイヤ,セメント,アルミニウム製品,家具,乾電池,靴,石鹸などの工場がある。地下資源は少ないが,マグネタイト,蛍石,天然ソーダ,石灰石などを産する。観光業も重要。住民の約 98%はアフリカ人で,キクユ族,ルオ族マサイ族ルイア族,カレンジン族などを主に,言語,文化を異にする約 70の諸族が住む。民族固有の伝統宗教のほかキリスト教徒も多い。公用語はスワヒリ語,英語。



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