ハル・ノート
ハル・ノート(Hull note)は、太平洋戦争開戦直前の日米交渉において、1941年(昭和16年)11月26日(日本時間11月27日[1][注釈 1])にアメリカ側から日本側に提示された交渉文書である。交渉のアメリカ側の当事者であったコーデル・ハル国務長官の名前からこのように呼ばれている。正式には合衆国及日本国間協定ノ基礎概略(Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan)と称する[2]。
冒頭に「厳秘 一時的且拘束力ナシ」[3](Strictly Confidential, Tentative and Without Commitment)という但し書きがあり[注釈 2]、アメリカ政府の正式な提案ではなく、ハルの「覚書」という側面がある[7]。日本で「ハル・ノート」という通称が用いられるようになった時期は明確ではないが、戦後の極東国際軍事裁判前後だと考えられる[8]。アメリカでは1941年11月26日アメリカ提案[9]、あるいは"Ten Points"とも呼ばれている[10]。
Contents
提示までの経緯
- 参照: 日米交渉
1940年(昭和15年)頃の日米関係は、日本側の北部仏印進駐、日独伊三国同盟の締結、汪兆銘政権の承認と、それらに対抗した米国側の対日経済制裁(航空機用ガソリンや屑鉄の禁輸など)により悪化の一途を辿っていた[11]。重要資源のほとんどをアメリカに依存する日本にとって対米関係の修復は急務であり[12]、またアメリカにとっては対英援助の本格化に伴い、太平洋方面で日本との対立を避ける必要があった[13]。このような状況下で、両国の関係改善を模索するため日米交渉が始まることとなった。
民間外交から日米交渉の開始へ
二人の聖職者の来日と井川忠雄の活躍
日米交渉は民間外交を起点として、その後に正規の外交ルートにのせられたという経緯を持つ。その発端は、1940年11月25日、アメリカからメリノール宣教会のジェームズ・ウォルシュ司教とジェームズ・ドラウト神父が来日したことであった[14]。両師は元ブラジル大使沢田節蔵と、近衛文麿首相に近い産業組合中央金庫(現・農林中央金庫)理事井川忠雄に宛てた紹介状をそれぞれ持参しており、彼らの紹介で各方面の要人と面談、その中には松岡洋右外相や武藤章軍務局長ら日本の高官も含まれていた[14][15][注釈 3]。両師の目的は日米関係改善にあり、その背後にはフランクリン・ルーズベルト大統領の側近であるフランク・C・ウォーカー郵政長官がいた[14][注釈 4]。
翌1941年(昭和16年)1月に帰国したウォルシュとドラウトは、23日、ハル国務長官、ウォーカー、ルーズベルトに経過を報告し、「日本提案」なる覚書を提出した[18]。その内容は三国同盟の破棄、中国における停戦、極東モンロー主義の承認、米国との経済関係の回復、というものであったが、これは正式な日本提案ではなく、両師が日本側の意見をまとめたに過ぎないものであった[18]。この時のルーズベルトの態度は明らかではないが、ハルは懐疑的であり、反対にウォーカーは乗り気であった[19]。ともかく、ルーズベルトとハルは、両師が私的に日本側と接触することを容認しつつ、政府としての行動は新任の野村吉三郎大使着任まで待つこととした[20]。
一方、ウォルシュ、ドラウトとの連絡役を担っていた井川は、両師から大統領との会談の結果、前途有望であるとの連絡を受け、渡米を決意する[21]。井川の渡米には近衛の支持があり[21]、その活動を保証したのは武藤であった[22]。
2月27日、井川はウォルシュ、ドラウトと再会し、両師とともにウォーカーを訪問した。ウォーカーは「私は陰の男としてルーズベルトやハルに連絡斡旋の労をいとわない」「三者で協議を進めて日米国交を正常化する方法をきめてほしい」と井川を激励した[23]。
2月28日、井川は野村大使を訪問して経過を報告し[23]、ウォーカーもまたルーズベルトに覚書を提出し、井川を正式な権限を与えられている日本の全権代表として報告した[23][24][注釈 5]。
井川とドラウトは協定案の作成に着手し、3月13日にはウォーカーからハルに三国同盟からの日本の脱退、太平洋の平和の保障、中国の門戸開放、中国の政治的安定、軍事的・政治的侵略の不可、共産主義拡大阻止などの内容について作業中との覚書が提出された[26]。ウォーカーは、あたかも日本政府が井川・ドラウトの協定案に同意しているかのように報告したが、井川は日本政府から何ら権限は与えられておらず、内容も日本政府の立場とは相異なっていた[26]。
3月14日、野村大使とルーズベルト大統領の最初の正式会談が開催された。ルーズベルトは三国同盟への強い懸念を示し、日本の南進を牽制するとももに、中国の共産化の恐れについて日本は心配しすぎであると述べた[27]。
岩畔豪雄の参加と日米諒解案
井川・ドラウトの協定案作成に公的な性格を付与したのが岩畔豪雄であった[28]。岩畔は、日米国交調整には支那事変に通じた人材が必要、との野村大使の要請により陸軍から派遣された人物で、それまでは軍事課長の要職にあった[29]。岩畔はウォルシュ、ドラウトの工作について、井川と事前に打ち合わせをしていたが、陸軍首脳から密命を受けていた形跡はない[30][31]。しかし、アメリカ政府は陸軍の実力者の訪米とあって、何らかの密命を帯びているものと解し、岩畔に対し好意的な対応をとった[32]。
3月20日、岩畔は井川と再会し、協定案の説明を受けたが、これに同意せず修正を加えることにした[33]。特に三国同盟の問題について岩畔は、アメリカの目的が日本の三国同盟脱退なら交渉に入る可能性はないとの立場で米国側との協議に臨んでいる[34]。ウォルシュ、ドラウト、岩畔、井川の活動は、後に国務省から"John Doe Associates"(正体不明の連中)と呼ばれることになるが、彼らこそが日米交渉の担い手となるのであった[22]。
岩畔とドラウトは4月2日から5日にかけて協定案の手直しを行い(通訳は井川が務めた)、出来上がった草案は野村大使とウォーカー郵政長官に届けられた[35]。
岩畔の回想によると、米国側との協議の過程で、ドラウトから「もし日本が三国同盟から脱退すれば、アメリカは日ソ戦が起きた場合に日本を援助する」という一文を明記するとの提案があったという[35](もっとも、岩畔はそれを却下したが[36])。また、支那事変終決後の日本軍の駐兵問題については次のようなやり取りがあった。岩畔が米国も北京議定書に基づき中国に駐兵していることを指摘すると、なるべく早く撤兵するつもりであると逃げ、さらに岩畔が米国のパナマ駐兵を問い質すと、それは租借地でパナマ領ではないと弁解し、では事変解決後に条約で租借地を作ってもよいのかと反問すると、それは困ると応じたという[36](結局、日本軍の駐兵を案の中に明記することは出来なかった[37])。なお、満州国承認問題については米国側から異議は出なかったとのことである[36]。
この草案は日米双方が修正を加えた上で、4月9日に一応の完成を見た[35]。これを受け取ったハル国務長官は3日間にわたって国務省極東部と検討したが、「提案の大部分は血気の日本帝国主義者が望むようなものばかりであった」とその内容に失望したという[38]。しかし、ハルは「一部には全然承諾できない点もあるけれども、そのまま受け入れることのできる点、また修正も加えて同意できる点もある」という結論を下し、これを交渉の糸口にすることとした[38]。
その後、草案は双方の若干の修正を経て、4月16日に「日米諒解案」として決着した[39]。内容的には岩畔の主張がかなり盛り込まれていたが、相互に不満な箇所は今後の交渉で修正していくもので、「なんらの拘束力もない」と断り書きがあった[39]。
松岡外相の訪欧とスタインハート工作
他方、松岡外相は自らがすすめる四国協商(三国同盟+ソ連)構想の実現、日ソ国交の調整等を目的に3月12日から4月22日にかけてソ連、同盟国のドイツ、イタリアを訪れていた[40]。
もっとも、四国協商に関しては、前年に行われた独ソ間の交渉が決裂していたため、ドイツ側は松岡の思惑とは異なり、四国協商の可能性を強く否定した[40](アドルフ・ヒトラーは既に対ソ攻撃を決意し、バルバロッサ作戦を極秘裏に命令していた[41])。ドイツ側が要請したのは、日本のシンガポール攻撃、即ち対英参戦であり、イギリスの敗北は時間の問題である、日本の軍事行動はアメリカの参戦をも防げると執拗であったが、松岡がシンガポール攻撃の言質を与えることはなかった[40]。
一方、ソ連との交渉は4月13日の日ソ中立条約調印で結実した。難航した交渉をまとめた松岡は、日ソ接近により日本の国際的地位を強化し、来る対米交渉へ向けて「力の威圧」による外交の道筋をつけたのであった[40](ハル国務長官が日米交渉を開始した背景には、この日ソ中立条約の威力があったとの指摘もある[42])。
また、松岡は訪欧中に日米交渉の布石として、駐ソ米国大使スタインハートと会談し、ルーズベルト大統領への伝言を依頼していた。往路の3月24日には、日本はシンガポールを含めオランダや英米の領土を攻撃しない、日本は米国と開戦する意図はない、日米戦争は極東の共産化をもたらす[43]、ルーズベルトが蒋介石への影響力を行使するならば、全ての関係国にとって満足な条件で、いつでも日中戦争を終結せしめうる立場にある[44]…といった内容を伝えた。
帰路の4月8日にも「厳私信」の手紙でゴム、スズ、石油等でアメリカが南方諸国と貿易ができることを保証する、中国においてアメリカの権益を侵しているような誤りがあれば日中戦争終結後賠償することなどを伝えた[43]。これらの会談の内容はいずれも、スタインハートからハルに報告された[43]。
しかし、松岡のスタインハート工作は、ルーズベルトもハルもさしたる関心を示していなかったのが実情であった[45]。
ハル四原則
4月16日、ハル国務長官は野村大使と会談し、次の四原則を示した[46]。
- すべての国の領土と主権尊重
- 他国への内政不干渉を原則とすること
- 通商上の機会均等を含む平等の原則を守ること
- 平和的手段によって変更される場合を除き太平洋の現状維持
ハルは野村に対して、「この四原則を受け入れた上で、さきに日米間で作った非公式の提案を日本政府に送り、日本政府がこれを承認してわが方に提案すれば、われわれの交渉開始の基礎ができることになろう」と述べた[47]。野村は3.については前提条件とせず、日米会談で討議しても良いではないかと示唆したが、ハルはこれを受け付けなかった[48]。また、野村が4.と日米諒解案の満州国承認問題との関係について問い質したところ、ハルは4.は満州国については影響せず、将来の問題について適用されると答えた[49]。
しかし、野村はこの四原則を添付せずに日米諒解案を日本政府に送った[50](後日、野村は話が進まないことを恐れて、「これを押さえた」(5月8日野村電)と説明したが、米国の真意を歪めたことは否定できない[49])。
日米諒解案
日米諒解案の要約は以下の7項目からなる[51]。
- 日米諒解案
- 日米両国は、相互に隣接する太平洋地域の強国であることを承認し、共同の努力により太平洋の平和を樹立し、友好的諒解を速やかに達成する。
- 欧州戦争に対する態度として、日本は三国同盟の目的が、欧州戦争拡大を防止することにあり、その軍事上の義務は、ドイツが、現にこの戦争に参加していない国によって、積極的に攻撃された場合のみ発動することを声明する。一方米国の欧州戦争に対する態度は、もっぱら自国の福祉と安全とを防衛するという見地によってのみ決することを声明する。
- 日中戦争について、米国大統領が次の条件を容認し、日本政府がこれを保証したときは、大統領は蒋介石政権に和平を勧告する。A.中国の独立。 B.日中間の協定による日本軍の中国撤兵。 C.中国領土非併合。 D.非賠償。 E.中国の門戸開放方針の復活。 F.蒋介石政権と汪兆銘政権の合流。 G.中国への日本の集団的移民の自制。 H.満州国の承認。
- 太平洋平和維持のため、相互に他を脅威する海空力の配備をせず、日本は米国の希望に応じ、自国船舶を太平洋に就役させる。会談妥結後、両国は儀礼的に艦隊を派遣し合い、太平洋の平和到来を祝す。
- 両国間通商の確保、日米通商航海条約の復活。米国よりの金クレジットの供与。
- 日本の南西太平洋における発展は武力に訴えず、平和的手段によってのみ行われるという保障のもとに、米国は日本の石油・ゴム・錫・ニッケルなど重要資源の獲得に協力する。
- 太平洋の政治的安定に関し両国は、A.太平洋地域に対する欧州諸国の進出を容認しない。 B.両国はフィリピンの独立を保障。 C.日本人移民は他国民と同等無差別の待遇を得る。
以上の点について両国が合意すれば、ハワイにおいてルーズベルト-近衛会談を行う。
「アメリカ提案」としての受け取り
4月18日、日米諒解案の電報が日本に届いた。しかし、ここで重大な誤解が生じ、近衛首相は諒解案を「アメリカの提案」と誤解して受けとった[50][注釈 6]。『近衛手記』には、その夜、緊急に大本営政府連絡懇談会を招集し、「米国の提案を議題にして協議した」とあり、「この米国案を受諾することは支那事変処理の最捷径である」との記述もある[56]。近衛は明らかに諒解案の「交渉試案」という意味を履き違え、「米国案」と説明したとみられる[57] 。諒解案には東條英機陸相も武藤軍務局長も、岡敬純軍務局長も「大へんなハシャギ方の歓びであった」というが[58]、「主義上賛成」の電報を打とうという動きは抑えられ、返事は松岡外相の帰国を待ってからとなった[50][注釈 7]。なお、『近衛手記』によれば、「大体受諾すべしとの論に傾いた」が、一方でドイツとの信義を強調する意見があったとのことである[56]。
東條や武藤は、諒解案を泥沼化した支那事変解決の機会と捉えて乗り気となり、陸軍省としては「ともかく交渉開始に同意」と決定した[61]。また陸軍参謀本部においても、「三国同盟の精神に背馳せざる限度に於いて対米国交調整に任ずべき大体の方向」で意見が一致し、最終的にはこの線に沿って陸海軍間の合意がなった[61]。
ただし、中国からの撤兵問題については、交渉に前向きな軍務局でさえ撤兵に反対の立場であり、日本人の経済活動保護の観点から駐兵は必要と考えていたことは、交渉の前途に影を落とすことになった[62]。
松岡外相の反対
4月22日に帰国した松岡外相は、日米諒解案がスタインハート工作の返事ではなく、自分の全く関知しないルートの話であったことを知り、不機嫌になった[63]。その夜の連絡懇談会では、2週間か1、2ヶ月位考えさせてほしいと述べ、諒解案を取り合おうとはしなかった[63]。『近衛手記』によると、松岡は、米国が第一次世界大戦中に石井・ランシング協定を結んで後顧の憂いを除いておきながら、戦後にこれを破棄した先例を挙げて、本提案は米国の悪意七分善意三分と解すると論じたという[64]。この松岡の対米認識について、松岡が恐れたのは第一次大戦の再現であり、米国が参戦して独伊が敗北すれば、たとえ日米妥協が成立していても米国に手のひらを返される可能性があった、との指摘がある[65]。
その後、松岡は日米諒解案を「陸海軍案ヨリ更ニ強硬」(『機密戦争日誌』[注釈 8](5月3日付))な内容へと大幅に修正し、5月3日の連絡懇談会に提示した[67]。
また、松岡は連絡懇談会で次の三原則を提議した[68]。
- 支那事変への貢献
- 三国同盟に抵触しないこと
- 国際信義を破らない
三原則は、アメリカが三国同盟を承認し、またアメリカが蒋介石に圧力をかけて日中戦争解決に貢献することを意味し、国際信義とはドイツへの信義と協調であったため、これはアメリカの方針―中国からの日本軍撤兵、三国同盟の骨抜き、欧州戦争における英国援助、と真っ向から対立するものであった[69]。松岡の狙いは、さらに強気に出てアメリカの欧州戦争参戦を阻止することにあり、「独が起った場合には同盟条約によれば日本も当然起つのを正論なりと思う。しかし外交からいえばそうも行かぬ。米を参戦せしめず、また米をして支那から手を引かせる、というのが今度自分がやろうとする考えである」(5月8日連絡懇談会)とした[70]。
同日、松岡は、野村大使にハル国務長官宛のオーラルステートメント(口頭文書)を打電しているが、その内容は松岡の強気の交渉姿勢を示すものであった[71]。
- ドイツ・イタリアは会談によって和平しない
- ソ連と枢軸国の関係は良好
- 米国の参戦は戦争を長期化する
- 日本は三国同盟にもとづく
5月7日、野村はハルと会談し、松岡のオーラルステートメントを読み上げたが、多くの間違いがあると断りを入れるほどであった(野村はハルの同意を得てオーラルステートメントの手交を取りやめている)[72]。ハルは、ヒトラーの制覇が七つの海に及ぶことを忍ぶことはできない、米国の権益擁護のために10年でも20年でも抵抗する決心である、と野村に語った[71]。また、野村は松岡の指示により日米中立条約を提議したが、ハルは「それは4月9日の文書に含まれた提案とは全然異なった事柄である」と一蹴した[72]。
なお、野村によれば、ハルは日米交渉の開始について力を込めて督促したとのことである[73]。
アメリカによる日本外交電の傍受解読
ハルはこの時の野村とのやり取りについて、松岡の電報の内容を既に知っていたと回想している[74]。事実、アメリカ側は1940年9月にはパープル暗号(外務省が使用していた暗号)で組まれた外交電の解読に成功しており[75]、日米交渉においては日本側の外交電のほとんどを解読していた[74](ただし、日本が暗号戦に完敗していたというのは俗説で、森山優の研究によれば「日本がアメリカ国務省の暗号を最高強度に至るまで解読していたことは確実」「解読の規模に関しても、駐日、在中の主要な国務省電報のほとんどを解読していたと考えても差し支えない」[76]という)。
「われわれがこれを知っていたのは、陸海軍の暗号専門家が驚くべき腕前を見せて日本の暗号を傍受し、東京からワシントンその他の首都に送られる日本政府の外交電を解読し、英語に翻訳して国務省に送り届けていたからである。この解読情報は「マジック」という名前がついていたもので、交渉のはじめのうちはたいして役に立たなかったが、最後の段階では大きな役割を演じた」[74]
— ハル
ハルはこのような特別な情報を握っているという印象を、少しでも野村に与えないよう注意していたという[74]。
松岡修正案
5月12日、野村大使は、松岡外相による日米諒解案に対する修正案をハルに提示した[77]。この修正案は日本の公式提案となっており、ハルは「日米交渉の基礎はこの5月12日におかれた」としている[78]。
松岡修正案では、三国同盟の軍事義務についての了解案での「積極的に攻撃された時のみ」が削除され、また支那事変の「日米両国の容認した条件での和平の勧告をする」という条項の全てを削除、近衛三原則や日満華共同宣言にのっとりアメリカが和平を勧告するという一方的な内容に変更された[79]。さらに日本の南方進出に対しては「武力に訴える事なく」が削除され、ハワイでの首脳会談も削除された(ただし、必要があれば首脳会談を考慮するとしている)[80]。
「この提案からは希望の光はほとんどさしていなかった。日本は自分の利益になることばかり主張していた。…これを一言のもとに拒否することは、われわれが何ヶ月もたったのちにはじめて出会った、日米間の提案を根本的に討議する唯一の機会を捨ててしまうことであった。そこでわれわれはこの日本の提案を基礎にして交渉を進めることにしたが、それは、もし日本を説得して三国同盟から脱退させるわずかの可能性でもありそうだったら、その目的だけを追求すべきだと考えたからだ」[78]
— ハル
6月21日米国案
6月21日(日本時間6月22日)、アメリカ側から松岡修正案に対して正式な回答が出された[81](本文には“Unofficial, Exploratory and without Commitment(非公式、予備的段階にして拘束力なし)”の但し書きがあり、アメリカ政府の公式提案とは呼べないものであるとしていた[82])。以後、ハル・ノート提示までアメリカはこの提案に固執することとなる[83]。
- アメリカの欧州戦争参戦は自衛のためであり、日本は三国条約を欧州戦争に適用しないこと[81][84]
- 中国問題については和平の基本条件(善隣友好、無併合、無賠償、無差別待遇の原則による経済協力、日中間協定による速やかな撤兵、防共駐兵については今後の検討課題とすることなど)を前提として、大統領が蒋介石政権に日本と交渉するようサジェストする[84]
- 満州国に関する友誼的交渉[84]
- 新通商条約では必要物資の相互供給は保障、ただし自国の安全と自衛のためには制限が認められる[84]
また、中国問題については、日本の要求した蒋介石への援助停止、南京政府と重慶政府の合流などには触れられず、太平洋では日米は平和的手段により必要資源を得られるよう協力するとあり、ハル四原則の太平洋での武力行使禁止を踏まえ、日本軍の南方進出を禁止する内容であった[85]。さらに付属のオーラル・ステートメントでは、日本政府の三国同盟堅持声明や華北・内蒙古における軍隊駐屯を非難しており、全体としてはハル・ノートに通じる厳しい内容であった[84]。
5月12日の松岡修正案、6月21日の米国案によって日米諒解案は松岡とハルの双方から否定された上、両案は性質上全く相容れないものであったため、松岡は「外交をやれといっても、米との工作はこれ以上続かぬと思う」と述べた[86]。
なお、野村大使がこの案を受け取った9時間後の6月22日、独ソ開戦のニュースがあった[87]。独ソ戦は、松岡外相の日独伊ソ四国協商構想の崩壊を意味し(もっとも松岡訪欧以前に独ソ間の外交交渉は決裂しており、四国協商は幻想であった)[88]、またアメリカにとっては対日妥協から強硬路線へ舵を切るきっかけとなった[89]。この6月21日米国案と独ソ開戦の関係については、アメリカは独ソ開戦について確度の高い情報を掴んでおり、日本の情勢が不利になるタイミングを見計らってこの案を出してきたとの見方もある[90][91]。
「これは私の主観が入るが、(アメリカの対日態度の)変化は著明であったと思う。…私の考えでは独ソ戦即ち6月22日以前において(日米諒解案に基づく交渉を)纏めれば纏められる」[92]
— 岩畔豪雄
ハルのオーラルステートメントと松岡外相の更迭
6月21日米国案のハル国務長官のオーラルステートメントには、不幸にして日本の指導者の中にドイツ支持者がいると指摘し、名指しこそしていないものの、松岡外相がいる限り交渉はまとまらないことを意味するくだりがあった[90][93]。これを内閣改造を要求するものと受取った松岡は激怒し、オーラル・ステートメントを取り次いだ野村大使をも批判した[94] [93]。
日本政府と軍部は独ソ戦への対応に追われたため、連絡懇談会で6月21日米国案の検討に着手したの7月10日のことであった[87]。松岡は外務省顧問の斎藤良衛を出席させ、「相呼応してほとんど全面的な日米交渉反対論」を展開したという[95]。
結論的には、松岡は米国の狙いを、
- 三国同盟を冷却させること
- 南京政府を抹殺し、日本に重慶政権が正当な中国政府であることを認めさせること
- 蒋介石への和平勧告及び日中和平交渉は、その基本条件を日本政府から米国政府へ提議させ、米国政府がこれを是認するという建前を誇示すること
と指摘し、その上で、オーラルステートメントの受理を峻拒すること、交渉を続けるなら5月の松岡修正案を堅持しつつ少許の米国案字句を取り入れるほかないが、これでは日米交渉の妥結の見込みはないこと、また交渉打ち切りの場合は時期及び方法を慎重に考慮する必要があることを述べた[96]。
7月12日の連絡懇談会においても、松岡は「吾輩はステートメントを拒否することと、対米交渉はこれ以上継続できぬことをここに提議する」と述べた[97]。杉山元参謀総長は米国に断絶のような口吻をもらすのは適当ではない、交渉の余地を残してはどうかと松岡に意見したが、松岡はアメリカ人の性格から弱く出るとつけあがるから、この際強く出るべきだとはねつけた[98]。
しかし、陸海軍は少なくとも仏印進駐終了までは対米交渉を引き伸ばすこととし、
- 日本は欧州戦争拡大の場合、三国条約上の義務及び自国の安全防衛のため独自の立場を執ること
- 日中和平の基本条件は近衛三原則を基準とし、アメリカは休戦及び和平交渉の勧告をするが、和平条件への介入は許されないこと
- 日本の南方武力行使が掣肘されないこと
もっとも、この三点は6月21日米国案で削除された項目であり、これらを復活させて交渉の余地を残すと言うのは互譲の精神に欠けたものであった[99]。松岡は「何か余地がありますか、(他に)何を(譲歩に)入れますか」「南方に兵力を使用せぬというならば(米も)聞くだろうが、他のことで何か(譲歩が)あるか」「交渉をつづけるならば(米から)蹴って蹴って蹴りのめされてから、はじめて交渉をやめるようになるだろう」と反発したが、会議の結論は、オーラルステートメントは拒否するが、交渉は松岡修正案を再修正して続行することに決まった[99]。
日本の対案作成は連絡懇談会終了後からはじまったが、陸海軍からの督促を松岡がサボタージュしたため、対案が完成したのは7月14日となった[100]。しかも松岡は「先ずオーラルステートメント拒否の訓電を発し、しかる後二、三日たってから、日本の対案を発電すべき」と主張し、それではアメリカ側の悪感情を招き交渉が決裂する恐れがある、少なくとも拒否の訓電と日本の対案は同時に発電すべきとする近衛首相や陸海軍と対立した[101]。
7月14日深夜、松岡は自説を固持してオーラルステートメントの撤回要求のみを打電させたが、翌15日の朝には近衛の意を受けた寺崎太郎アメリカ局長が、松岡に無断で日本案を追いかけて打電するなど事態は紛糾した[102]。事ここに至り、関係閣僚は松岡では重大な外交問題は処理できないとの結論で一致し、16日、近衛は松岡を罷免させるため内閣を総辞職した[103][102]。
7月17日、日本の要求に対してハルは簡単にオーラルステートメントを撤回した[98]。しかし、この日の第3次近衛内閣発足で松岡は外相に登用されず英米派の豊田貞次郎がなったため、ハルの要求が結果として通った[104]。近衛は豊田の外相就任を「日米交渉を何とかして成立せしめんとする余の熱意の表れ」としている[103]。
対日経済制裁
情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱
仏印南部に兵力を進駐させる案は5月頃から検討されていたが、仏印の冷淡な対日態度、蘭印との経済交渉の行き詰まり、独ソ開戦必至の報(6月6日大島電)などの要素から陸海軍で南部仏印進駐論が台頭する[105]。南部仏印は蘭印、英領マレー・シンガポール攻略に不可欠な要衝であり、ここに進駐することで英蘭植民地に圧力をかけることができるという判断であった[106][注釈 9]。
松岡外相は南進すれば英米を刺激するとして執拗に反対を続けていたが、6月25日、松岡の反対を抑える形で南部仏印進駐を定めた「南方施策促進に関する件」が決定された[108]。さらに7月2日には、独ソ戦についても「密かに対ソ武力的準備を整え自主的に対処す」と定めた「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が御前会議で決定された[108]。
なお、「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」には、「南方施策促進に関する件」の「目的達成の為、対英米戦を辞せず」との文言があるが、これは対英米戦の決心がない限り、仏印進駐のための交渉には応じられないとする松岡を納得させるための作文に過ぎなかった[109]。
日本の南部仏印進駐
7月19日、豊田外相はヴィシー政府に南部仏印進駐に関する最後的な通牒を送り、22日に話し合いが成立、25日には日本軍は海南島三亜を出港し、28日から南部仏印への上陸を開始した[110]。
日本の南部仏印進駐の措置について、アメリカはマジック情報などにより事前に把握しており[111]、23日、サムナー・ウェルズ国務次官は日米交渉の中止を野村大使に告げた[112]。さらにアメリカは24日の新聞発表で、日本の南進について、「我が国の安全保障に重大なる問題を及ぼすものと深く認識する」との声明を出した[113]。日本軍の中国駐兵については安全保障に関する問題と見做していなかったアメリカも、日本軍の南部仏印進駐については、これを東南アジア侵攻への最初の一歩と受け取ったのであった[113]。
アメリカの対日経済制裁と仏印中立化の大統領提案
ルーズベルト大統領は、対抗措置としてフィリピン防衛の強化及び対日資産凍結を採ることにした[115]。ただし、ハル国務長官や米海軍が、強硬な経済制裁は日本の蘭印侵攻、ひいては日米衝突を招くと反対していたこともあり、ルーズベルトは資産凍結が全面禁輸をもたらさないことを確約していたという [115]。
7月24日朝、ルーズベルトは対日石油供給の問題について次のように言及した。
「もしアメリカが石油を絶っていたら、日本はおそらく一年前に蘭領インドに赴き、アメリカは日本と戦争したであろう。アメリカは自己の利益のため、イギリス防衛のため、海洋自由のため、南太平洋から戦争を締め出す希望をもって、日本に石油を供給した。それは過去二年間役に立った」[116]
24日午後の閣議でルーズベルトは在米日本資産の凍結を決定した[116][117]。その後、野村大使を引見したルーズベルトは、日本への石油の禁輸を強く主張する世論を説得してきたがいまやその論拠は失われつつある、日本が石油獲得のためオランダ、イギリスと戦争をすればアメリカは援英政策をとっているため事態は重大となると述べた。その上で、もし日本軍が仏印から撤兵すれば、中国、イギリス、オランダ、アメリカの各政府はその中立を保障する、と仏印の中立化を提案した[118][119](ルーズベルトは各国が自由公平に仏印の物資を入手する方法があれば尽力するとも述べている[119])。
7月26日、アメリカは在米日本資産の凍結を実施した(イギリス、蘭印もこれにつづき、日蘭民間石油協定は停止された)[120][117]。
7月27日、本国から大統領提案の通報を受けたジョセフ・グルー駐日アメリカ大使は「これは日本が自称する困難と、これまた日本が自称する自国の安全をおびやかすABCD国家の包囲的手段とからぬけ出す、理屈にあった方法を、日本に提供している」[121]と考え、豊田外相と会談、大統領提案の受け入れを要請した[122]。グルーは、日本がこの提案を受諾するか否かが太平洋の平和を決定するとして懸命に説得を行ったが、豊田はあまりに重大な提案なので即答できないないなどと消極的反応を示した[123]。なお、グルーが、日本の現在の政策はドイツの圧力によって行われていると米国民一般に信じられていることを指摘すると、豊田はドイツは日本の政策決定には無関係だと強く否定したという[124]。
石油の全面禁輸
8月1日、アメリカは対日貿易制限の具体的内容を発表し、「米国の国防の許す範囲内で、日本が35~36年度に購入したと同量までの低質ガソリン、原油および潤滑油については輸出許可証および凍結資金解除証を発行。その他の通商は、原棉と食糧を除いて、全面的に不許可」とした[125]。しかし、その後、対日石油輸出や石油取引支払いのための凍結資金の解除は実際には許可されず、アメリカは石油の全面禁輸に踏み切ることになった[125](そもそもアメリカは全面禁輸令など出していないことには注意を要する[126])。
石油の輸出管理システムが構築されていたにも関わらず、なぜ全面禁輸になったのか。これには世論の圧力を原因とする説、対日強硬派の官僚たちの不作為により管理システムが機能しなかったという説(ルーズベルトやハルは9月まで石油の禁輸を知らなかったとされる)、ディーン・アチソン国務次官補が独断で資金の凍結を解除しなかったという説、日本の「南進」「北進」を抑止するためのルーズベルトの確たる意志とする説、あるいはヘンリー・モーゲンソー財務長官の影響を指摘する説などがあり、議論が続いている[126][注釈 10]。アメリカが全面禁輸を発動した理由は現在も謎である[128]。
日本側はアメリカの強硬な態度を想定しておらず、佐藤賢了軍務課長は、日本軍はすでに北部仏印に進駐しており、それが南部に進むだけで日米戦争にはならないと判断していたと述べている[129]。また、7月25日の『機密戦争日誌』には「当班、仏印進駐に止まる限り、禁輸なしと確信す」とあり、資産凍結が伝わった26日にも「当班全面禁輸とは見ず、米はせざるべしと判断す」と記されているが、全面禁輸を受け26日の日誌の欄外に「本件第二〇班の判断は誤算なり。参謀本部亦然り」と注記した[130]。
当時、日本には石油の備蓄が平時で二年分、戦時で一年半分しかなく、石油がなくなる前に産油地帯の蘭印を攻略するという選択肢が台頭することになる[131]。結果的に、南部仏印進駐と対日全面禁輸は太平洋戦争への岐路となった[131]。
大統領提案への回答
8月6日、仏印中立化の提案に対する日本の回答が野村大使からハル国務長官に提示された[132]。
- (日本政府の確約事項)日本は仏印以上に進駐しない、日中戦争解決後仏印から撤兵、フィリピンの中立を保障、東亜における米国の必要資源獲得に協力
- (米国政府の確約事項)米国は南西太平洋の軍備拡大中止、日本の蘭印資源獲得に協力、日米通商関係の復活、日中交渉の橋渡しと撤兵後の日本の仏印における特殊地位の承認
仏印以上に進駐しないというのは日本としては譲歩ではあるが、説得力にかける上に、仏印の中立化ではなく日本の特殊地位を求めるなどあまりに虫のいい提案であった[132]。この提案にハルは悲観的な見通しを示し、日本の行動に深く失望したことを表明した上で、日本が征服の政策を捨てない限り、話し合いの余地はないと取り合わなかった[133]。米国の回答は8日にハルから示されたが、これは日本の提案は大統領提案への回答としては不充分であると厳しく指摘するものであった[132]。
日本からの首脳会談提案
近衛首相の決意
8月4日、近衛首相は日米首脳会談の決意を東條陸相、及川古志郎海相に告げた[134][135]。及川は全面的賛成を表明し[136]、東條は会談がまとまらなかった場合にも内閣を放り出さないこと、対米戦の決意をもって臨むことを条件に賛同した[137][138]。近衛の意図は、昭和天皇から全権を委任されて、ルーズベルト大統領と直談判し、軍部を通り越して直接天皇の裁可を仰ぐことで事態を解決することだったとされる[139] 。
8月7日、近衛は昭和天皇から首脳会談を速やかに取り運ぶようとの督促をうけ、野村大使に宛て「(日米国交の)危険なる状態を打破する唯一の途は此の際日米責任者直接会見し互いに真意を披露し以て時局救済の可能性を検討するにありと信ず」として、ルーズベルト大統領との首脳会談を提案するよう訓電した[140]。首脳会談の申し入れは野村からハル国務長官に行われたが(ルーズベルト大統領はウィンストン・チャーチル英首相との大西洋会談に出かけていたため不在)、ハルの返事は曖昧であった[137]。
8月17日、大西洋会談から戻ったルーズベルトは野村に対日警告を読み上げた[注釈 11]。
「もし日本政府が武力ないし武力の威嚇によって隣接諸国を軍事的に支配しようとする政策または計画にしたがい、今後なんらかの手段をとるならば、米政府は、アメリカおよび米国民の正当なる権利と利益を保護し、アメリカの安全を保障するために必要と思われる一切の手段を、直ちにとらざるをえないであろう」[142]
その一方で、ルーズベルトは首脳会談の提案には好意的で、ホノルルに行くのは無理だが、アラスカのジュノーではどうかと返事をした[137]。
8月26日、大本営政府連絡会議の可決を経て、近衛は「先ず両首脳直接会見して必ずしも従来の事務的商議に拘泥することなく大所高所より日米両国間に存在する太平洋全般に亙る重要問題を討議し、時局救済の可能性ありや否やを検討することが喫緊の必要事にして細目の如きは首脳会談後必要に応じ主務当局に交渉せしめて可なり」との「近衛メッセージ」を発出した[143]。28日に野村から「近衛メッセージ」を手交されたルーズベルトはこれを大いに賞賛し、3日位会談しようと述べた[144][145]。しかし、同夜に行われた野村とハルの会談において、ハルは首脳会談で話がまとまらなければ真に憂慮する結果を来すとして、予め大体の話をまとめてから首脳会談で最終的に決定する形式にしたいとの意向を示した[146]。
9月6日付日本案
9月3日(米時間)、アメリカ側は覚書を手交し、首脳会談には原則的に賛成だが、協定の根本問題について予備会談を設けること、ハル四原則および6月21日米国案により討議を行うべきことを主張した[147]。時を同じくして、日本側では新たな対米提案を検討しており(外務省案「日米交渉に関する件」)、9月3日(日本時間)の連絡会議でこれを採択していた[148]。「日米交渉に関する件」は翌4日に豊田外相からグルー駐日大使に、6日(米時間)には野村大使からハル国務長官に対米新提案をして手交された(日付をとって9月6日付日本案と呼ばれた)[149]。
9月6日付日本案の日本側約諾事項の要点は以下の通りである[150][151]。
- 仏印を基地として武力進出しない、北方(ソ連)に対しても正当な理由なしに軍事行動に訴えない
- 米国が欧州戦争に参戦した場合の三国同盟の解釈は、日本が自主的に決定する
- 日本は日支間の全面的正常関係の回復に努め、それが実現した後は日支間協定に従い出来る限り速やかに撤兵するの用意あり[注釈 12]
- 支那における米国の経済的活動は公正な基礎において行われる限り、これを制限しない
- 南西大西洋における日本の活動は平和的かつ通商上の無差別待遇の原則に従って行い、米国が必要とする資源の生産獲得に協力する
- 日米間の正常な通商関係を回復させるために必要な措置を講ずる、これに関し日米相互に合意することを条件に凍結令を直ちに撤廃する
豊田は野村大使に、9月6日付日本案は「(米側の主張する)『予備的討議』に対する我方回答とも結果的には相成る次第」「米の希望にミートし得る最大限を示すもの」と説明し、日本側としては原則として両首脳の会談における政治的解決を待つ意向としている[154]。
6日の会談で野村はハルに、米国側が高度の「ステーツマンシップ」を発揮して首脳会談の速やかな実現の為協力することを要望したが、10日の会談でハルは、日本の新提案は「今迄の話合いの点を非常に『ナロウダウン』し居る様」と不満を示した[155]。
首脳会談の挫折
9月27日、日本側はドイツとの関係に誤解を生じる犠牲を払っても日米首脳会議を行いたいと打電し、輸送の船舶と随員も決定済みで、時期は10月10日または10月15日が好都合と提案した[156]。しかし、10月2日のハル国務長官より手交された回答は原則論を崩さないもので、日米両政府が予め了解に達していない以上、首脳会談は危険であるとして実質的に拒否した[157]。これを受け野村は日本政府はさぞかし失望するであろうと述べて引き取り、「日米交渉は遂にデッド・ロックとなりたる観あるも打開の道は必ずしも絶無でもなかろう」と状況報告せざるを得なかった[158]。
日米首脳会談について、豊田外相は「行けば必ずやりとげる積りで(中国からの)撤兵の件も何も出先で決めて御裁可を仰ぐ覚悟であった」と回想しており、海軍省の岡軍務局長は「近衛がルーズベルトに会ってしまえばその場で始末をつけるだろうから、ともかく行けばなんとかなるだろう」との考えであった[159]。
アメリカ側では、近衛首相や豊田から首脳会談開催への尽力を依頼されたグルー駐日大使が、日米の危機を回避できる機会だとして、ハルおよび国務省に具申を重ねていた[160]。しかし、グルーの進言はほぼ相手にされず、影響力をもったのは国務省政治顧問スタンレー・ホーンベックの進言であった[161]。ホーンベックは首脳会談に強く反対しており、「たとえ会談が開かれたとしても、近衛公はなにもできないか、まったくぼんやりしたコミットメントしかできないであろう」と見ていた[162]。ホーンベックの対日認識は、日本は4年にわたる支那事変で消耗している、日本のリーダーたちは仲間争いをして不安定であることを理由に「日本に関しては危険はない」というものであった[163]。そして、日本に対して経済的、軍事的な圧力を加える力の外交を続ければ「時をかせぐ最良の機会となり、太平洋の領域に交戦状態を拡散させることを防ぐ最良の可能性をもっており、それは結局三国同盟の崩壊を期待できる」「短期的にも長期的にも戦争への可能性は減るであろう」との持論を展開していた[164]。
ハルもまた首脳会談は第二のミュンヘン会談になるとして反対の立場であり、当初は乗り気を見せたルーズベルト大統領もハルの助言を取り入れたという[165] 。
帝国国策遂行要領
帝国国策遂行方針
「帝国国策遂行要領」の原型は、8月16日に海軍側から陸軍側へ提示された「帝国国策遂行方針」にさかのぼる。その骨子は「戦争を決意することなく戦争準備を進め、この間外交を行い、外交打開の途なきに於いては実力を発動」するというというもので、海軍の臨戦態勢を完成させるための国策案であった[166][注釈 13]。
この案に対して、即時の「戦争決意」を盛り込むよう主張したのが参謀本部の田中新一作戦部長であった。以後、田中の主導で「戦争決意」を明記した参謀本部案が作成され、陸軍省、海軍側との折衝が続くことになる[168]。陸軍省は海軍側の考えに近く、特に海軍側は戦争決意に強硬に反対していたが、田中は武藤軍務局長、海軍の岡軍務局長との折衝をまとめ上げ、「戦争決意」は「戦争を辞せざる決意の下に」との文言に修正、外交交渉の期限(開戦決意の時期)は10月上旬とすることで妥協が成立した(8月30日成立の「帝国国策遂行要領」陸海軍案の案文は「対英米戦争を辞せざる決意の下に、概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す」「外交交渉により十月上旬に至るも尚我が要求を貫徹し得ざる場合に於ては、直ちに対米開戦を決意す」)[168]。
要は「『戦争準備だけは完成して開戦・避戦は最後の瞬間に決定すればよい』と考える海軍と、『開戦決意を明定しなければ戦争準備が進められない』との立場に立つ陸軍が、机上で作文した」のが実態であったが、後の日本の国策を著しく制限することになった[169]。
帝国国策遂行要領の決定
9月3日、「帝国国策遂行要領」の陸海軍案が大本営政府連絡会議に提出された。しかし、及川海相が案文に異議を唱えたため、結局「外交交渉により十月上旬頃に至るも尚我が要求を“貫徹し得る目途なき”場合に於ては、直ちに対米開戦を決意す」との修正が加わり、交渉継続の余地を残すような表現となった(『機密戦争日誌』には「之により本案骨抜きとみるべし。十月上旬に於て更に大なる議論となるべし」と記されている)[170]。
審議の過程で、永野修身軍令部総長が日本は物資が減りつつあり、これに反し敵側はだんだん強くなりつつある、今ならば戦勝のチャンスがあるが、時とともになくなる恐れがあると述べ、杉山参謀総長は動員などで時間がかかるので戦争準備完了の目途は10月下旬とし、なるべく早く決意したいとした[171]。
この戦争準備を10月下旬とする理由については、「九月六日御前会議質疑応答資料」によると、
- 石油の備蓄が多くても2年で、時日の経過とともに戦争遂行能力が低下すること
- 米国の海空軍が時とともに飛躍的に向上すること、特に来年秋以降は米海軍の軍備は日本海軍を凌駕すること
- 北方作戦(対ソ戦)は冬期の大きな作戦が至難で、この期間に速やかに南方作戦を終え、明年春以降の北方作戦に備える必要があること
の三点が挙げられている[172]。ちなみに、戦争の見通しについては「質疑応答資料」には次のようにある。
なお、「帝国国策遂行要領」には、別紙として、「対米(英)交渉に於て帝国の達成すべき最小限度の要求事項」が付けられていた[174][175][176]。
- 米英は日本の支那事変処理に容喙または妨害しない
- 日華基本条約及び日満支三国共同宣言により事変を解決せんとする企図を妨害しない
- ビルマ公路を閉鎖し、蒋介石政権に対し軍事的、政治的、経済的援助をしない
- 米英は極東において軍事的増強を行わない
- 米英は日本の所要物資獲得に協力する
これらの要求が応諾された場合は日本は以下の約束をする
- 仏印を基地として支那以外の近接地域に武力進出しない
- 公正なる極東平和確立後、仏印より撤兵する
- フィリピンの中立を保障する
- (附)欧州戦争に対する態度は、防護と自衛の観念により、又米国の欧州戦争参戦の場合の三国条約に対する日本の解釈及び行動は専ら自主的に行う。ただし、三国条約に基く日本の義務は変更しない
これらの外交条件は、経済制裁を受けて窮地にある日本としては明らかに過大要求であり[177]、アメリカにとっては受け入れがたい内容であった[178]。
連絡会議は僅か1回7時間の審議で案文を可決し[176]、9月6日御前会議において「帝国国策遂行要領」は正式決定となった。なお、御前会議では、昭和天皇が異例の発言を行う一幕があり、明治天皇の御製を読み上げて、統帥部に外交が主で戦争は従であると釘を刺した[179][180](ただし、天皇は案文自体への干渉は避けている)[181]。
9月25日付日本案
その後、御前会議以降、2週間が経っても日米交渉の目途が立たないことから日本側の最後的態度を決定して米側に提示することとなった[182]。案文は9月20日連絡会議で決定され、25日にグルー大使に手交された(ワシントンでは27日に手交)[182][183]。
- 9月25日付日本案
- (略)
- (欧州戦争に対する両国政府の態度)適当な時期に協力して速やかな世界平和回復に努力。それまでは両国政府は防護と自衛の見地で行動。米国参戦の場合における日本の三国同盟に対する解釈、義務履行は専ら自主的に行う。
- (日中間の和平解決に対する措置)米国は重慶政権に日本と交渉するよう橋渡しし、かつ、その間日本の支那事変解決に関する措置及び努力に支障を与える行動に出ない。日本は支那事変解決に関する基礎的条件が近衛声明及び既に実施されている汪兆銘政権との条約(日華基本条約)と矛盾しないこと、並びに日中間の経済協力は平和的手段により、国際通商関係における無差別の原則及び隣接国間における自然的特殊緊密関係の原則において行われ、第三国の公正な経済活動は排除されないことを闡明する。
- (日米両国間の通商)正常な通商関係を回復する。相互の資産凍結を直ちに撤廃。
- (南西太平洋に関する経済問題) 平和的、無差別待遇の原則のもと、国際通商および投資の条件創設に努力する。石油などの特殊物資の取得については、無差別待遇を基礎に関係諸国との協定及びその実行に関して協力する。
- (太平洋地域における政治的安定に関する方針) 日本は仏印を基地として近接地域(中国を除く)に武力進出しない。太平洋地域における公正な平和確立後仏印から撤兵する。米国は南西太平洋地域の軍事的措置を軽減する。両国はタイ・蘭印の主権及び領土を尊重し、独立後のフィリピン中立化協定を締結。米国はフィリピンにおける日本人に対する無差別待遇を保障する。
- 「註」日中和平基礎条件
(一)善隣友好、(二)主権及び領土の尊重、(三)日中共同防衛:防共および治安維持を目的とする一定地域における日本陸海軍の所要期間駐屯[注釈 14]、(四)撤兵:それ以外の軍隊は支那事変解決にともない撤兵、(五)経済提携、イ.国防資源開発利用のための日中経済提携、ロ.公正な第三国の経済活動は制限されない、(六)蒋介石政権と汪兆銘政権の合流、(七)非併合、(八)無賠償、(九)満州国承認
この提案に野村大使は、「今更新提案は困る」と不満であり、難点を列挙しつつ、特に汪兆銘政権との条約を基礎とする日中和平では米国を満足させえない、駐兵問題で交渉決裂の公算大であることを進言した(9月28日野村電。なお、この電報と前後して在米陸海軍武官からの報告電があったが、いずれも「駐兵問題に絡まり交渉見込み薄」「支那駐屯の放棄なき限り交渉成立の望みなきこと明瞭」という内容であった)[186]。
10月2日、ハルは「太平洋の平和維持のためには一時の取繕いの了解では不可で明快な協定を欲する」と述べ、回答案を野村に手交した。それはハル四原則を持ちだしたうえで、日本が「日中和平基礎条件」で不確定期間にわたる特定地域への駐兵を主張していることに異議を唱え、三国条約については日本の立場をさらに闡明するよう求めるものであった[187]。
避戦への動き
10月2日米国案の接到
10月2日付の米国の回答案を受け、陸軍は5日に開催した省部局部長会議において「外交の目途なし。速に開戦決意の御前会議を奏請するを要す」との結論に達したが、同日に行われた海軍省部首脳会議は「首相の堅き決意の下に明六日首相陸相会談、交渉の余地ありとして時期の遷延、条件の緩和につき談合することとす」と決まった[188]。翌6日、陸海部局長会議において、海軍の岡軍務局長は駐兵条件を緩和すれば交渉の目途ありと主張し、陸海軍の対立があらわとなった[189]。
その後、東條陸相と杉山参謀総長は、交渉の目途なし、ハル四原則は承認しない、駐兵条件に関しては表現方法も含めて一切変更しない、もし政府が外交の見込みありとするならば15日を限度にこれを行ってもよいとの方針を確定し、海軍と近衛首相を説得することを申し合わせた[190]。他方、海軍省部首脳会議は「撤兵問題の為日米戦ふは愚の骨頂なり。外交により事態を解決すべし」との交渉継続論に達した[191]。しかし、及川海相が「それでは陸軍と喧嘩する気で争うても良うございますか」と決意を示して了承を求めたところ、永野軍令部総長が異議を唱え、他の出席者も沈黙したため、海軍の意思統一はできなかった[191]。
近衛は10月5日および7日に東條と会談し、撤兵を原則とし、その運用で駐兵の実質をとることはできないかと説得したが、東條に絶対にできないと拒絶され、物別れに終わった[192]。7日の東條と及川の会談も、交渉の目途を巡って意見の一致はみなかったが、東條が戦争の自信を問いただしたところ、及川は「それはない」と言明し、「統帥部の自信とは緒戦の勝利の意。二、三年後のことは検討中」と打ち明けた[193]。東條は「仮に海軍に自信がないというならば考えなおさなければならない。勿論重大な責任において変更すべきものは変更しなければならない」と9月6日御前会議決定の責任問題に言及した[193]。
さらに翌8日の東條―及川会談では、東條は「最後に悲壮なる面持ちにて」次のように述べたという[194]。
荻外荘会談
10月12日、近衛首相は荻外荘に陸海外三相及び鈴木貞一企画院総裁を招き、和戦に関する最後的会談を行った。主な発言は以下のとおりである[197]。
- 豊田外相「日米交渉妥結の余地あり。それは駐兵問題に多少のアヤをつけると見込があると思ふ」「遠慮ない話を許されるならば御前会議決定は軽率だった」
- 及川海相「外交で進むか戦争の手段によるかの岐路に立つ。期日は切迫して居る。其決は総理が判断してなすべきものなり」
- 近衛首相「今どちらかでやれと言われれば、外交でやると言わざるを得ず。戦争に私は自信ない。自信ある人にやって貰はねばならぬ」
- 東条陸相「現に陸軍は…御前会議決定により軍を動かしつつあるものにして、今の外交は普通の外交とは違ふ。やって見るといふ外交では困る」「日本の条件の線にそって統帥部が要望する期日内に解決する確信がもてるならば、戦争準備を打ち切り外交をやるもよろしい」「総理が決心しても陸軍大臣としては之に盲従出来ない。我輩が納得する確信でなければならない」
また、特に駐兵問題について、東條は「駐兵問題は陸軍としては一歩も譲れない」「支那事変の終末を駐兵に求める必要がある」「(駐兵の)所要期間は永久の考えなり」とした[197]。結局、荻外荘会談においても何ら結論を得ることが出来なかったため、鈴木は近衛に対し「陛下に御願いして9月6日の決定を一旦白紙に返して、対米交渉を継続することにしてはどうか」と進言した[198]。
及川海相の首相一任論と東條陸相の撤兵反対論
この時期、日本が日米戦争という破局を避けるには、海軍首脳が避戦の態度を明確にするか、陸軍首脳が中国からの撤兵を勇断するかのどちらかであったが[199]、いずれも現実のものにはならなかった。
前者については、荻外荘会談の前日、武藤軍務局長から富田健治内閣書記官長を介して海軍側に、戦争はできないと明言してほしい、そうすれば陸軍部内の主戦論を抑えるとの要請があった[200]。また、富田も海軍の岡軍務局長と同道して、及川海相に戦争回避、交渉継続の意志を明言するよう下交渉を行っていたが、及川は軍の立場として戦争をできる、できないは言えないとして、あくまで「首相一任」の態度を取り続けたのであった[201][200][注釈 16]。
後者については、東條陸相の次の発言が注目できる。10月14日の閣議前、東條は近衛首相と会談し、駐兵問題について再考を求められたがこれを拒否し、閣議では持論を「興奮的態度で力説した」という[203]。
- 「撤兵問題は心臓だ。…米国の主張に其儘服したら支那事変の成果を壊滅するものだ。満州国をも危くする。さらに朝鮮統治も危くなる。帝国は聖戦目的に鑑み非併合、無賠償としてをる。…駐兵により事変の成果を結果つけることは当然であって、世界に対し何等遠慮する必要はない」
- 「北支蒙疆に不動の態勢をとることを遠慮せば如何になりますか、満州建設は如何になりますか。将来子孫に対し積年の禍根を胎すこととなり、之を回復する為、又々戦争となるのであります。満州事変以前の小日本に還元するなら又何をか言はんやであります。撤兵を看板にすると言ふが之はいけませぬ。撤兵は退却です。帝国は駐兵を明確にする必要かあります。所要の駐兵をして其他の不要なものは時か来れば撤兵するのは当然です。撤兵を看板とすれば軍は志気を失ふ」
- 「駐兵は心臓てある。主張すべきは主張すべきで、譲歩に譲歩々々々々を加へ、其上に此基本をなす心臓迄譲る必要がありますか。これ迄譲りそれが外交とは何か、降伏です。益々彼をして図にのらせるので何処迄ゆくかわからぬ。…譲ることのみを以て自信ありと言われても、私は之を承け容れるることは出来ぬ」[204]
東條の発言は、この問題を一般閣僚にも知らせる必要があるとの趣旨でなされたが、閣僚は誰も反駁しなかったという[204]。
東条内閣と国策再検討
近衛内閣の総辞職と東條内閣の成立
10月14日夜、閣議での東條陸相の発言により、近衛首相は総辞職を決意した[205]。近衛が鈴木企画院総裁を介して、総辞職後の政局の収拾について東條の考えを聞くと、東條は東久邇宮稔彦王を後継内閣の首相に推薦した[205]。
『近衛手記』によると、東條の意見は「段々其後探る処によると海軍が戦争を欲しないようである。…海軍がさういふやうに肚がきまらないならば、9月6日の御前会議は根本的に覆へる」「御前会議に列席した首相はじめ陸海大臣も統帥部の総長も、皆輔弼の責を充分に尽くさなかったことになるのであるから、此の際は全部辞職して今までのことをご破算にして、もう一度案を練り直すといふこと以外にないと思ふ。それには陸海軍を抑えてもう一度此の案を練り直すといふ力のあるものは、今臣下にはない。だから、どうしても後継内閣の首班には今度は宮様に出て頂くより以外に途はないと思ふ」[206]ということであった[205]。東久邇宮は対米戦反対論者であったため、近衛も東條の意見に賛成した[205]。
翌15日から16日にかけ、近衛、東條、鈴木、木戸幸一内大臣の間で後継内閣の首相について折衝が行われたが、木戸は難問が未解決のまま打開策を皇族にお願いするのは絶対に不可、また皇族内閣で戦争に突入すれば皇室が国民の怨府となる恐れがあることを理由に東久邇宮内閣に反対した[207]。木戸の反対を伝えられた近衛は、閣僚から辞表を取りまとめ、第三次近衛内閣は総辞職した[207]。
10月17日、重臣会議が開かれ、木戸の主張により東條を後継内閣の首相(兼陸相)に推挙することになった[208]。木戸が東條を指名したのは、天皇に対する忠誠心が人一倍強いためだといわれる[209][注釈 17]。東條は昭和天皇から陸軍の主戦論および駐兵固守の態度についてお叱りを受けるものと覚悟して参内したが、予想に反して組閣の大命を受けた[208]。さらに東條は昭和天皇から陸海軍の協力を一層密にするよう命じられ、続いて参内した及川海相も陸海軍の協力を命じられた[208]。また、東條、及川には木戸から9月6日御前会議決定の白紙還元の聖旨が伝えられた[208]。
東条内閣は対米戦争に踏み切った内閣として悪名高いが、むしろ近衛内閣よりも積極的に対米交渉を行ったと見ることもできる[211]。東條は非戦論に傾いており、外務大臣には平和主義で知られた東郷茂徳を迎えた[209][注釈 18]。また、東條は大蔵大臣候補の賀屋興宣との入閣交渉では「できるだけ日米交渉に努力して、戦争にならないように平和に解決できるように努力したい」と述べており[213]、及川海相の後任候補となった嶋田繁太郎との入閣交渉においても「海軍軍備の充実」とともに「外交の推進」を約していた[214][注釈 19]。東條の交渉推進への方向転換については、陸軍内部から「東條変節」と評する声さえ聞かれたが、東條にとっては天皇の御言葉が絶対であった[216][注釈 20]。
なお、近衛内閣の崩壊と軍人内閣の出現はアメリカ側に戸惑いを与えたものの、それほど悪い印象を与えたわけではなかった。戦争に打って出る危険性は孕んでいるものの、日米間の対話は継続されるというのが大方の認識であった[218] 。
国策再検討
18日に成立した東條内閣は「白紙還元」に基づき、国策再検討を行うこととした。しかし、再検討の関係資料の多くを作成した陸海軍の責任者は海相を除けば前内閣と同じ顔ぶれで、かつ再検討に消極的なため、「かような性質の資料に立脚した国策再検討が要するにもとの木阿弥に落ちついたのはむしろ当然」で、結論的には和戦両様案の採択となる[219]。
甲案の決定
29日の連絡会議は対米条件の審理となった。9月6日御前会議決定の最小限度の要求では、短期間内に外交を妥結させる見込みなしという点では全員が一致したため、交渉条件緩和に議論が移った[220]。果然、中国における駐兵、撤兵問題で激論となった。東郷外相が「他国の領土に無期限に駐兵するの条理なきこと」を説き駐兵期間5年を主張したのに対し、参謀本部は「駐兵を期限付とする時は支那事変の成果を喪失せしむる」として強硬に反対し、東條首相も暗にこれを支持するなど反対論が相次いだ[221][220]。東條は永久に近い言い表し方として年数を入れることを提議し、99年案や50年案も出たが、結局は25年とすることで話がまとまった[220]。また、三国条約については従来通りで変更せず、中国における通商無差別待遇の問題については「無差別原則が全世界に適用されるに於いては」という条件を付し、これを認めることに決まった[220]。
- 甲案
- 通商無差別問題に関しては、日本は無差別原則が、全世界に適用されるにおいては、太平洋全域、即ち中国においても、本原則の行われることを承認する
- 三国同盟問題に関しては、日本は自衛権の解釈をみだりに拡大する意図なきことを明瞭にする。同盟条約の解釈及び履行は日本の自ら決定するところにより行動する
- 撤兵問題に関しては、(A)中国においては華北・内蒙古の一定地域、並びに海南島には日中和平成立後所要期間駐兵、その他の軍隊は日中間協定により2年以内に撤兵。所要期間について米側から質問があった場合、概ね25年を目処とする旨をもって応酬すること。(B)日本は仏印の領土主権を尊重する。仏印からは、日中和平成立又は太平洋地域の公正な平和確立後撤兵
- なお、ハル四原則に関しては、これを日米間の正式妥結事項に含めることは極力回避する
甲案は9月6日の御前会議決定を緩和したもので[222]、具体的には9月25日付日本案から懸案三問題(中国における通商無差別問題、三国同盟の解釈及び履行問題、中国及び仏印からの撤兵問題を指し、日米交渉の三難点と言われた)につき日本の主張を緩和したものになる[223]。
海軍の戦争決意
嶋田海相は入閣当初、戦争回避の必要性を明言していたが、10月23日から30日までの連絡会議における討議の影響を受け意見を覆した[224]。30日、嶋田は澤本頼雄次官や岡軍務局長に対し「数日来の空気より総合して考えうるに、この大勢は容易に挽回すべくも非ず」「自分は今の大きな波を到底曲げられない」として戦争決意を表明した[225]。澤本は「何度考えて見ても大局上戦争を避くるを可」「米国の国情として議会に諮らずして戦争をすることは有り得ない」として再考を促したが、嶋田は色をなして「次官の保証がいくらあっても何の役にも立たぬ。時機を失せぬ様にすることが大切である」と押し通した[226]。この嶋田の姿勢について、「政治的に無経験な嶋田の履歴や性格から、彼が開戦・避戦の大局的な判断を短時日のうちにおこなうのはもともと無理な課題であった」[227]との指摘がある。
こうして「実質的に、開戦への最後の歯止めは取り除かれた」[227]形となり、海軍の戦争決意は「対米開戦のポイント・オブ・ノー・リターン」[228]となった。
11月1日連絡会議
11月1日の連絡会議は午前9時から開催された。冒頭、嶋田は鉄その他物資の増配を頑強に主張し、要求が認められるや開戦決意の意思表示をなした[229][注釈 21]。
続いて議論は、1.戦争を避け臥薪嘗胆する、2.開戦を直ちに決意する、3.戦争決意に下に、作戦準備を外交を並行させる、の三案の検討に入った[231]。第一案の臥薪嘗胆は不可能であるという判断からと葬り去られ、第二案は参謀本部が採り、杉山と塚田攻参謀次長は「作戦開始は十二月初頭」「直ちに開戦を決意する」「外交交渉は挙げて作戦開始の名目把握及び企図の秘匿におく」と主戦論を展開した[231]。東郷外相と加屋蔵相はこれに反論して最後の交渉をやるように主張し、東條は外交を行う期日を含めて第三案も並行して審議するよう提議した[232]。
政府側の外交上の要求と統帥部の作戦上の要求が対立したが、結局、11月30日まで外交を継続しても統帥上差し支えなしとの結論に達し、
- 東條「十二月一日にはならぬか。一日でもよいから長く外交をやらせることは出来ぬか」
- 塚田「絶対にいけない。十一月三十日以降は絶対いかん」
- 嶋田「塚田君。十一月三十日は何時迄だ、夜十二時迄はよいだろう」
- 塚田「夜十二時迄は宜しい」
との問答を経て、外交打ち切りの期限は「12月1日午前0時」と決定した[233](第三案の和戦両様案では、9月6日御前会議決定の二の舞いになる恐れがあったため、参謀本部首脳は明確に時間を切るように申し合わせており、その意味では「この時点に時刻を切ったのは塚田の主戦論の部分的勝利」であった)[231]。
乙案の決定
会議は外交交渉の討議に移り、29日に同意を取り付けていた甲案に加え、東郷外相は突如乙案を示して、寝耳に水の軍部に衝撃を与えた[234]。
乙案の狙いは日米関係を資産凍結前の状態に復帰させること、南部仏印からの撤兵により武力南進の断念及び平和的意図という日本の誠意を見せることであった[238]。東郷は「従来の交渉のやり方がまずいから、自分は先ず条件の場面を狭くして南の方の事だけを片づけ、支那の方は日本自身でやるようにしたい」「甲案は短時日に望みなしと思う」と説明している[239]。
しかし、杉山参謀総長と塚田参謀次長は乙案に強硬に反対し、
- 乙案は支那問題に触れることなく仏印の兵を撤するもので、国防的見地から国をあやまることになる
- 資金凍結解除だけでは通商は元の通り殆ど出来ない、特に石油は入ってこない
- 仏印駐屯は対米政策上及び支那事変解決上重要である
という主張を展開、特に塚田は南部仏印からの撤兵について「絶対に不可なり」と繰り返した[239][240]。このため原案第3項は「資金凍結前の通商状態に復帰し、油の輸入を加える」に改められ、「支那事変解決を妨害しない」(米国の援蒋政策停止を求める項目)が第4項として追加された[239][236][注釈 22]。
その後も、なお南部仏印撤兵反対を主張する杉山、塚田と、そのような条件では外交はできぬと主張する東郷との間で、会議が幾度か決裂に瀕するほどの大論戦となった(海軍では永野軍令部総長が乙案に賛成を表明している)[239]。『杉山メモ』[注釈 23]には討議の経過が次のようにある。
ここで東條首相、武藤軍務局長、杉山、塚田は別室で協議し、乙案を拒否すれば東郷が辞職し倒閣に発展する恐れがあること、また援蒋停止の要求があればアメリカは乙案を呑まないだろうという結論に達し、杉山と塚田はやむなく乙案に同意することになった[239][243][236][234]。なお、東郷によれば、武藤は「若し此際外務大臣の主張を斥けて交渉不成立となる場合、陸軍では其責任がとれますか」とまで言って杉山に談じ込んだくれたという[244]。
ここに11月1日午前9時から翌2日午前1時まで16時間にわたった「歴史的重大連絡会議(『機密戦争日誌』11月2日付)」は終了し、翌2日、対米英蘭戦争決意の下に「武力発動の時期を12月初頭とし作戦準備を行うこと」「甲案、乙案による対米交渉を行うこと」「12月1日午前0時までに交渉が成立すれば武力発動を中止すること」を柱とした「帝国国策遂行要領」が採択された[245]。同午後5時、東條、杉山、永野が列立して連絡会議の結果を昭和天皇に上奏した[246]。天皇の期待に応えられなかったためか、東條は涙を流しながら上奏したという[247]。
11月5日、御前会議において「帝国国策遂行要領」は正式に決定された。そもそも「日米交渉の成否は、直接的に日本の和戦と結びつく筋合いのものではなかった」が、9月6日及び11月5日の国策決定により、日米交渉の成否と日本の和戦が直接的に結びつく結果となった[248]。これにより「日本は開戦に向けて、決定的な一歩を踏み出した」[249]のであった。
最後の外交交渉
来栖大使の派遣
11月4日午前2時、東郷外相は来栖三郎を招致し、野村大使を応援するためワシントンに急行するよう要請した[250]。東郷は日米関係の危機的現状と甲案及び乙案を説明し、特に乙案中の南部仏印からの撤兵については、交渉の最後の切り札として、野村には知らせず来栖へ託した[250]。
東郷の要請を受諾した来栖は、4日の午後7時に東條首相と会見した。東條は、米国は両洋作戦の準備が不充分、米世論がまだ参戦を支持していないこと、ゴムや錫などの重要軍需物資の不足等を理由に「米国も濫りに戦争を望むまい」と述べ、交渉妥結の見込みは成功三分失敗七分位であるから、くれぐれも妥結に努力してほしいと力説した[251]。来栖が交渉が妥結した場合、「首相は必然的に来るべき国内各方面の強烈な反対を排しても、飽くまで吾々の作り上げた妥結を支持遂行するか」と問うと、東條は力強い口調で必ず遂行すると断言したという[251](来栖は翌5日に東京を出発し、11月15日にワシントンに到着した)。
甲案及び乙案の内報
東郷外相は10月21日に野村大使に対して「新内閣に於いても…日米国交調整に対する熱意は前内閣と異なる所なし」と交渉継続の方針を示していたが、御前会議前日にあたる11月4日に詳細な訓電を発した[252]。東郷は「破綻ニ瀕セル日米国交」を調整するために日米交渉対案(甲案、乙案)を決定したこと、「本交渉は最後の試みにして我対案は名実ともに最終案」であることを野村に伝えた[252]。
訓電では、甲案は「要之甲案ハ懸案三問題中二問題ニ関シテハ全面的ニ米国ノ主張ヲ受諾セルモノニテ、最後ノ一點タル駐兵及撤兵問題ニ付テモ最大限ノ譲歩ヲ為セル次第ナリ」と説明されたが、撤兵問題については「撤兵ヲ建前トシ駐兵ヲ例外トスル方米側ノ希望ニ副フヘキモ…国内的ニ不可能ナリ」「国内政治上モ我方トシテハ此上ノ譲歩ハ到底不可能ナリ」とした[223]。
また、乙案は「若シ米側ニ於テ甲案ニ著シキ難色ヲ示ストキハ事態切迫シ遷延ヲ許ササル情勢ナルニ鑑ミ何等カノ代案ヲ急速成立セシメ以テ事ノ發スルヲ未然ニ防止スル必要アリトノ見地ヨリ案出セル第二次案」と説明された[253](ただし、野村に送られた乙案は、アメリカによる傍受・解読を避けるため、備考にある南部仏印からの撤兵の部分か意図的に落とされていた[254])。
11月5日、東郷は甲案交渉の開始を訓電し、乙案の提示については「必ず予め請訓あり度し」とした[255]。さらに「本交渉は諸般の関係上遅くも本月二十五日迄には調印をも完了する必要」との期限を付けた(この11月25日という期限は外務省独自のものと考えられる)[255]。
「マジック」情報とアメリカの「最後通牒」としての受け取り
アメリカ側は、東郷の一連の訓電、日本の提案は「名実ともに最終案」であり、「妥結に至らざるに於ては…決裂に至る外なく」、さらにタイムリミットを付したことなどを「マジック」で解読した結果、これを最後通牒とみなした[256][257][注釈 24]。即ち「マジック」によって、日本が戦争に踏み切るだろうと事前に予測していたのであった。
「ついに傍受電報に交渉期限が現れて来た。…これの意味するところはわれわれには明白だった。日本はすでに戦争の車輪をまわしはじめているのであり、11月25日までにわれわれが日本の要求に応じない場合には、米国との戦争もあえて辞さないことにきめているのだ」[259]
— ハル
また、この時の「マジック」情報では、重大な誤訳が生じていた。甲案での「なお、(ハル)四原則については、これを日米間の正式妥結事項に含むことは極力回避する」との訓電が、「マジック」では「四.原則として、これを日米間の~」と誤訳され、日本側の通商無差別、三国条約、撤兵問題での譲歩すべてを正式妥結事項に含むことを避けるという意味となった[260]。ハル国務長官は、東條内閣に対してむしろ交渉への期待を抱いていたが(ハルは天皇の影響力に期待していた)、日本側の誠意を疑わせる「マジック」情報はそれを裏切るものであった[261]。
甲案の提示と交渉の遷延
11月7日、野村大使はハル国務長官に甲案を提示した。ハルはマジックによって甲案の内容はもちろん、乙案が最後にあることも知っていたので、甲案はほとんど問題としなかった[262]。
その後、ハルは甲案に答える代わりに、これまでの交渉で日本側が提案した内容に関して東条内閣に確認を行い、また、15日には通商無差別の原則に関するオーラルと経済政策に関する日米共同宣言の提案をしたが、これらはアメリカの誠意を示すジェスチャー、あるいは時間稼ぎであった[263]。事実、日本側は再三にわたって甲案に対する回答を求めていたが、アメリカ側は抽象論を繰り返し、研究の上回答するなどと確答を避け続けた[264]。
15日の会談では、ハルは中国における通商無差別待遇の問題について、甲案の「全世界に適用」という但し書きの撤廃を要求し、さらに三国同盟の「死文化」をも繰り返し要求した[265]。日本側は三国同盟の脱退なしに日米間の妥結は不可能という意味かと問い質したが、ハルは確答を避けた[265]。さらに今回の議論を甲案の回答と看做してよいかという質問からも、ハルは逃げを打った[265]。
交渉が困難であることを痛感していた野村は、アメリカは日本に譲歩するよりも戦争を選ぶ決意であり、交渉期限はつけずに長期的な構えをする方がいいと具申している(14日付野村電)[266]。しかし、東郷外相は交渉期限は絶対に変更不可と答えた(東郷も期限付交渉には賛成していなかったが)[266]。
一方、15日に着任した来栖大使は、17日、野村大使とともにルーズベルト大統領と会談した(ハルも同席)[267]。交渉の早期妥結を訴える来栖に対し、ルーズベルトは「友人の間に最後という言葉はない」(There is no last word between friends.)という言葉を引き合いに出して一般的諒解案を作る意向を示し、日中の和平問題についても「米国としては介入(intervene)も調停(mediate)もしない。外交用語にあるかは知らないが紹介(introduce)ということにしたい。双方を引き合わせるだけで話の内容に立ち入る必要はない」旨を述べた[267]。三国同盟の参戦義務については、来栖は「日本独自の立場で決めるということは、決してドイツの言いなりになって米国の背後をおびやかすということではない。日米間の一般的了解が成立すれば三国同盟は自然に光を奪われる(out shine)ようになる」として理解を求めた[267]。この会談で来栖は交渉の前途に希望を持ったというが、ハルの記録によれば、大統領は両大使の訴えを軽く受け流し、会談の成果はなかったと記されている[267]。
野村私案
11月18日、甲案交渉が不調のため、野村は根本問題を限られた時間で解決することは困難なこと、情勢は極めて緊迫していることを説き、独断で「日本は仏印南部より撤兵に対し、米国は凍結令を撤去す。…其の上にて更に話を進むることと致した度し」と申し入れた[268]。これは東郷の訓令を待って提示することになっていた乙案を狭めた私案であり、来栖大使は「出先としては思ひ切った提案であるが、自分もかねてから同意見であるし、現地の空気及び野村大使の立場及び心境としては寧ろ当然といひ得ること」[269]としている。ハルはなかなか承服しなかったが、日本が平和政策を明確にすることを条件に検討を約した[270][271]。
11月18日夜、野村と来栖はウォーカー郵政長官を訪問。ウォーカーは大統領及び大多数の閣僚は日米諒解に賛成であること、日本が仏印撤兵など現実の行動で平和的意図を示せば、アメリカの石油供給もあることを述べたという[272][271]。19日には某閣僚の旨を受けたウォルシュ司教が大使館を訪れ、日本が今日にも仏印撤兵の意図を表明すれば、ハルは即座に石油輸出を約束し、これをきっかけに急速に問題を解決したい意向との情報が伝えられた[272]。またこの日、野村・来栖と会談したハルの対応も好意的だったという[271]。
しかし、11月20日発の公電で東郷外相はアメリカがさらに煩雑なる条件を持ち出してくる余地があること、我が国の国内情勢では乙案程度の解決案を必要とすることを述べ、「貴大使ガ当方ト事前ノ打合セナク貴電報腹案ヲ提示セラレタルハ国内ノ機微ナル事情ニ顧ミ遺憾トスル所ニシテ却テ交渉ノ遷延乃至不成立ニ導クモノト云フ外ハナシ」として野村の私案提示を叱責するとともに、日本の最終案である乙案の提示を指示した[273][274]。
現在の研究でも、野村の私案提示は「明らかに越権行為であった」[275]、「日本の譲歩を最大限のものに見せようとした東郷の努力を結果的に水泡に帰すものであった」[276]という指摘がある。
乙案の提示
東郷外相は11月4日の乙案打電から20日の乙案交渉開始の訓電まで、幾度となく乙案の修正を指示していた[277]。その間、備考一の仏印からの撤兵は第5項に、備考ニの通商無差別待遇と三国条約はそれぞれ第6項と第7項となったが、最終的には第5項に南部仏印撤兵の項目を追加挿入し、第6項と第7項は削除した[277]。交渉開始にあたり、東郷は南部仏印からの撤兵は極めて重要な譲歩であること、中国からの撤兵及び通商無差別待遇と三国条約の懸案三問題を棚上げして緊迫した空気を緩和していることの二点をアメリカ側に強調するよう野村に指示した[277]。
11月20日(米時間)、野村と来栖は乙案をハルに提示した(実際にアメリカ側に提示された乙案では、野村・来栖の独断により第5項を第2項へと移動し、条項の順番が入れ替えられている[277])。
- 乙案
- 日米は仏印以外の東南アジア及び南太平洋諸地域に武力進出を行わない
- 日本は日中和平成立又は太平洋地域の公正な平和確立後、仏印から撤兵。本協定成立後、日本は南部仏印駐留の兵力を北部仏印に移動させる用意があることを宣す
- 日米は蘭印(オランダ領東インド)において必要資源を得られるよう相互協力する
- 日米は通商関係を資産凍結前に復帰する。米は所要の石油の対日供給を約束する
- 米は日中両国の和平に関する努力に支障を与えるような行動を慎む
乙案についてハルは援蒋の停止(第5項)に強い難色を示した[278]。ハルは、アメリカはドイツの征服政策に対抗してイギリスを援助している、日本の政策が確然と平和政策とならざる限り、援蒋政策と援英政策は同一であるとして「援蒋政策を変更することは困難」であるとした[278][279]。そして、会談の最後にハルは沈痛な面持ちで乙案を「同情的に検討する」と述べたという[278][279]。ハルは乙案の内容よりも、それがアメリカにとって「最後通牒」であったことであった点に苦慮しており、日本との間になんらかの暫定協定案を結ばない限り、開戦になるかもしれないという最終的な選択を迫られていた[280]。
一方、乙案の決定以降、参謀本部は交渉成立を恐れ一喜一憂していたが(『機密戦争日誌』には「来栖の飛行機墜落を祈る者あり」(11月10日))、「乙案成立を恐る」(13日)、「援蒋停止の要求により交渉は決裂すべきこと最早疑を容れず」(20日)などの記述がある)、ハルの難色が伝えられるや「之にて交渉愈々決裂すべし芽出度々々々」(21日)と喜んだ[281]。
援蒋の停止は乙案交渉のネックとなったが、これについて東郷は、アメリカの橋渡しで日中和平交渉が開始されれば援蒋政策は不要になるではないか、と問題を先送りする論法で理解を求めている(11月24日、グルー駐日アメリカ大使との会談において)[282]。
なお、25日までの交渉期限は、22日発の東郷外相からの訓電により29日までに延長された[283]。この訓電には「右期日は此以上の変更は絶対不可能にして其後の情勢は自動的に進展する」とあったが、言うまでもなくアメリカ側は「マジック」により解読済みであった[283]。
アメリカの対日回答
アメリカ側でも日本の甲案に相当する基礎協定案、乙案に相当する暫定協定案が検討された。基礎協定案はモーゲンソー財務長官による私案が叩き台になっており[284]、暫定協定案はフィリピン防衛の遅れをカバーするための時間稼ぎを求める軍部の要請に応えるものであった[285]。基礎協定案は、暫定協定案につけ加える恒久的な協定という位置付けとなっている[286]。国務省で基礎協定案と暫定協定案が作成されたのは11月22日であるが、最終的には暫定協定案が放棄され、基礎協定案のみがハル・ノートとして日本に提示されることになる[287][285]。なお、アメリカの対日回答は、あくまで暫定協定案と基礎協定案の二部構成であり、暫定協定案のみを渡すという議論はなかった[288]。
基礎協定案
モーゲンソー私案
11月11日に国務省極東部は対日協定案を作成し、ハル国務長官に提出したが、これは具体性に欠けたものであった[284]。一方、11月17日にモーゲンソー財務長官が国務省の頭越しに、対日協定案を私案として直接大統領に提出した[284](この私案は、ソ連のスパイである[289]財務省特別補佐官ハリー・ホワイトが作成したものであった[284])。モーゲンソー私案は極東部の試案よりも軍事、経済問題でより具体的であったため、こちらが検討対象となった[284]。ハルはモーゲンソーを不快に思ったが、私案には良い点もあったので国務省案に取り入れられたと回想している[286]。
モーゲンソー私案の題は「日本との緊張を除去しドイツを確実に敗北させる課題へのアプローチ」で全体で三部、内容は以下の通りであった[290]。
- アメリカ政府が提案するもの
- 太平洋から米海軍の大部分の撤収
- 日本と20年間の不可侵条約を締結
- 満州問題の最終解決を推進
- イギリス、フランス、日本、中国、アメリカの合同委員会の構成する政府のもとでインドシナの利益の擁護
- 中国におけるすべての治外法権の放棄
- 排日移民法の廃止を議会に要請
- 日本に最恵国待遇及び相互に満足の行く輸入上の譲歩を行う
- 20年間にわたり年利2%にて総額20億ドルの借款を提供
- ドルと円の為替レートの安定のために総額5億ドルを日米で折半の上拠出
- 在米日本資産凍結の解除
- 日本と隣国の潜在的な摩擦の原因を除去すべくアメリカは影響力を十分に発揮すること
- 日本政府が提案するもの
- すべての陸海空軍、警察力を中国(1931年の境界で)[注釈 25]、インドシナ、タイから撤収
- 国民政府以外の中国におけるいかなる政府への支援を中止
- 中国で流通している軍票、円、傀儡の紙幣を、中国、日本、英、米の各財務省で合意したレートで円貨幣に交換する
- 中国におけるすべての治外法権の放棄
- 中国再建のために年利2%にて10億円の借款を提供
- ソ連が極東の前線から相応の残留部隊を除き、軍を撤収させるという条件で、警察力として必要な少数の師団を除き満州から日本軍を撤収させる
- 現在の戦争資材の生産量の4分の3を限度として米国に売却すること。価格は原価+20%を基準とする
- すべてのドイツ人技術者、軍職員、宣伝員を退去させる
- 日本帝国全域において米国と中国に最恵国待遇を与えること
- 米国、中国、英国、オランダ領インドシナ、フィリピンとの間に10年間の不可侵条約を交渉する
第四部ではこの協定の利点として、アメリカにとっては太平洋艦隊を他の地域へ向けることでドイツに対して連合国の地位を飛躍的に強化できること、対日戦を回避できることなどが挙げられた[291]。また日本にとっての利点は、深刻な戦争および終局の敗北に直面せずに平和を確保できること、日本の再建や満州建設にその勢力や資本を充当できることなどが挙げられた[291]。
ハル・ノートの成立
しかし、国務省極東部で検討・修正が重ねられた結果、日本軍の(少数師団の)満州駐兵を認める項目、太平洋の米海軍力の削減、「1924年排日移民法」の廃止を議会に請願する、日本への20億ドルの借款などの融和的な項目は削除された[292]。モーゲンソー案から基礎協定案(ハル・ノート)に受け継がれたのは、中国及び仏印からの全面撤退などの非妥協的な項目であった[293]。
また、三国同盟については、11月22日基礎協定案で「日独伊三国条約の各条項は、日本により太平洋地域における平和維持に関する紛争に対して適用なきものと解釈すべきことに同意する」との項目が付け加えられた[294]。最終案においては抽象的な表現になったものの、「三国同盟からの事実上の離脱を明文化」[295]したものであった。
なお、11月22日の基礎協定案では、日本軍の全面撤兵の項目には「中国(満州を除く)」との明記があり、モーゲンソー案第3項は「日中両政府に対して、満州の将来の地位に関し平和的交渉に入るべく示唆すること」との表現となって取り入れられていた[296]。しかし、最終案では満州問題の平和的交渉を示唆する項目は削除され、さらに「(満州を除く)」という文言も削除された[296]。
暫定協定案
11月22日暫定協定案
11月22日にハルは、イギリス大使ハリファックス、オーストラリア公使カセイ、オランダ公使ロウドン、中華民国大使胡適を招き、暫定協定案を説明した[297]。
- 11月22日暫定協定案[298]
- 日米は太平洋に領土的野心を持たない
- 日本は南部仏印から即時撤兵し、北部仏印の兵力を1941年7月26日時点の兵力に制限する。その兵力は25,000人以下とする
- 米国は在米日本資産の凍結を撤廃する。日本は在日米国資産の凍結を撤廃する
- オランダ、イギリス政府に対しても同様の処置をとるよう説得する
- 米国は日中和平解決を目的とした当事者間の交渉を非友好的な態度をもってみない
- この協定は臨時的なもので、3ヶ月を越えて有効としない
この暫定協定案では、日本軍の北部仏印在留兵力は2万5千を限度とする項目があり、一時的とはいえ日本軍の仏印駐留を認めたものであったが、他はハル四原則を具体的に守るというものであった[297]。
胡適はやや平静さを失いつつも「これは向こう三ヶ月間、これ以上中国を侵略しないよう日本を縛るものか」とハルに問い質したが、ハルは「そうではない」と回答している[297]。
ハルは交渉成立の見込みは三分の一と語ったものの、会談終了後に改めて英・豪・蘭の大・公使に対し、日本に供給可能な物資の上限を決定する権限を本国から取り付けるよう要請した[299]。これは交渉の最終局面で、各国が日本に供給可能な物資の量をいちいち本国に照会していては、交渉がまとまらなくなる恐れがあったからである[299]。
11月24日暫定協定案
11月24日、国務省はさらに修正した暫定協定案と基礎協定案を作成した[300]。11月24日暫定協定案では、特に通商問題に関して細かく言及され、また協定の有効期限は平和解決の目途がつけば延長を協議できる、と付け加えられた[301]。
ハルは再び英・豪・蘭・中の大・公使と協議したが、胡適中国大使は北部仏印への日本軍駐留に反対した[302]。ハルは「2万5千の兵力は脅威ではない」と反論し、「この臨時的合意が必要なのは、わが陸海軍にとって時間が重要な問題であること、また一層の準備が必要なため」と説明した[302]。胡適は5千に引き下げるべきだと強く主張したが[302]、ハルは倍の5万でも脅威ではないと冷淡であった[303]。
この会談の段階では、オランダ政府以外は22日暫定協定案に対する訓令を与えておらず、ハルを立腹させた[304]。ハルは、この問題でより利害があるのはアメリカではなく関係諸国であり、各国政府が現在の状況がいかなるものか熟知していないと不満を述べ、「これら予想されなかった発展、関心の欠如及び協力せんとする意向の欠如には、決定的に失望した」と会談の模様を記した[304]。
この日、ハルはチャーチル英首相宛に乙案と暫定協定案を知らせる電報を送った。電報には、暫定協定案を日本に対する公正な提案としつつも、日本が受諾する可能性はあまりないとするルーズベルト大統領の追記が添えられていた[305]。
中国の反対
蒋介石は、暫定協定案を知った時の心情を「不安と怒りが心のなかを激しく交錯した」「我々の国は、この絶体絶命の危機から生還することができるだろうか」と日記に記した[306]。そして、ワシントンの胡適大使に「アメリカを日本と妥協させてはならない。それは中国の死を意味する」と厳命した[306]。
また、蒋介石は重慶にいた顧問のオーウェン・ラティモアに暫定協定案反対を依頼した[307]。ラティモアからは、日本への経済制裁解除は、中国にとって日本の軍事的優位を危険なほど増大させ、いかなる暫定協定案も中国の対米信頼に対して悪影響を及ぼすもので、このときに見捨てられたとする感情は過去の支持や将来の援助の増額によっても償いえるかどうか疑問である、という報告がなされた[307]。
蒋介石は宋子文に対しても、11月25日にヘンリー・スティムソン陸軍長官とフランク・ノックス海軍長官に伝えるよう指示して、対日制裁の緩和があれば、中国人民はみな犠牲にされたと思うだろうし、こうして世界におけるもっとも悲劇的な時代が開かれ、中国陸軍は崩壊し、日本の計画は遂行され、ひとり中国にとっての損失に留まらない、との電報を寄せた[307]。
ハルはこのような中国の反対攻勢に憤慨し、「蒋介石が、我が国の閣僚数名、国務省以外の政府機関の職員多数等に対し、おびただしい数の電報メッセージを送り付け、時としては大統領すら無視し、問題の真相に接していないにもかかわらず、微妙かつ重大な問題にまで介入することがあった」(ハリファックス英国大使に対して)と非難していた[307]。
暫定協定案が日本に提示されなかったのは中国の猛烈な反対があったためという指摘もあるが[308]、ハルは中国の抗議をさほど重視していなかった[309]。また、モーゲンソー財務長官によれば、ルーズベルト大統領が中国の反対に対して「自分が彼らを黙らせてやる」とハルに向かって発言していたという[309]。
11月25日暫定協定最終案
11月25日に、22日案と24日案をまとめて整理した暫定協定案の最終案ができあがった[310]。政府内で異議が出るたびに融和的な内容は骨抜きとなり[292]、特に日本が切望していた石油の供給については「民需用の石油」のみに限定された[311][312][313][314][注釈 26]。ハルは「暫定協定が日本に与えるものは非常に限定された量の棉花、石油と若干の物資供給という極めて僅かな『雛の餌』にすぎなかった」と表現している[316]。
また、最終案ではアメリカが日本軍の仏印駐留を容認したと誤解されることを懸念したため、北部仏印に残留する日本軍の兵力量の具体的な数字(2万5千人)は削除され、1941年7月26日の兵力という文言のみが残された[317]。
暫定協定案について、イギリスは「ハルが最善の方法というなら支持してもいい」と賛成に回り(ただし、日本への石油輸出再開には疑問符をつけた)、オランダは日本の軍事潜在力を増大させない限度の石油供給を条件に付して賛成した[318]。また、オーストラリア公使カセイは本国に「乙案それ自体受諾し難いにせよ、修正を施すならば全関係国にとって受諾しうるものとなしうるであろう」と具申し、本国から会談決裂阻止の訓令を受けていた[319]。
スティムソン日記(1941年11月25日火曜日)
スティムソン陸軍長官は日記に11月25日を「今日は実に多忙な日であった」として、以下の出来事を記している[320]。
一つは、ノックス海軍長官とともにハルと三人で会談した模様で、暫定協定案最終案について次のようにある(25日朝)。
「ハルは三ヵ月の休戦案を提示した。彼は今日か明日のうちに日本側に提案するつもりであった。それは米国の利益を十分に保謹したものであることを一読してすぐに知ったが、しかし、提案の内容はひじょうに激烈なものであるから、私には、日本がそれを受諾する機会はほとんどないと思われた」[320]
二つ目は、ホワイトハウスでの会議の内容で、対日関係についての討議である(25日正午)。
そして三つ目は、スティムソンに届けられた米陸軍情報部からの報告である。
「私が陸軍省に帰ったとき、日本がすでに遠征をはじめているという陸軍情報部からのニュースを知った。五個師団が山東や山西から上海に来て、そこで三〇隻か、四〇隻か、または五〇隻の船に乗りこみ、これが台湾の南方で認められた。私はすぐハルを電話口へ呼び出してそのことを告げたあと、陸軍情報部からの報告の「写し」をハルと大統領に送った」[320]
しかし、実際の報告書には「十隻ないし三十隻からなる船団」、兵力は「五万を意味する可能性もあるが、より少数の可能性が大きい」とあり、情報部は日本政府とヴィシー政府との協定に基づく「通常の行動」と判断していた[322]。この情報は日本軍の特別な移動を伝えるものではないが、スティムソン日記の記述では数が大きく膨らんでおり、スティムソンがルーズベルトやハルに内容を正確に伝えたのか疑問が残る[322]。
暫定協定案の放棄
11月25日午後、ハルは国務省の会議に参加していたが、列席していたハーバート・ファイス(国務省顧問)によれば、会議の最中にハルが何度も外部からの電話で呼び出され、電話の相手は誰かわからないが、電話の後にハルは暫定協定案に消極的な態度をとるようになったという(ファイスは電話の相手を「大統領であったかもしれないし、日本の軍部の行動の最近の情報提供者であったかもしれない」と推定している)[323]。ただし、この会議では、ハルは暫定協定案の放棄を言明しなかった[323]。
しかし、26日早朝になると、ハルはスティムソンに電話をして、「あの提案(暫定協定案)をすべてご破算にし、しかも、そのほかには提議することは何もないと通告する決意を固めた」と伝えている[324](これは後日、ハルがオランダ公使の質問に答えて、暫定協定案の放棄を決意したのは11月26日早朝だったと説明したことと符合する[325])。
この電話の直後、スティムソンはルーズベルトに電話をかけ、昨日の陸軍情報部の報告の写しを受け取ったかどうか尋ね、日本軍南下のニュースを伝えた[324]。スティムソン日記によると、写しはルーズベルトのもとに届いておらず、「大統領はすっかり興奮し、烈火のごとく立腹した。…日本側は中国からの全面撤兵を含む全般休戦の交渉をしていながら、他方では、インドシナに向って遠征軍を送ろうとしていることは、日本が全然信用できない何よりの証拠であるから、いまや情勢はすっかり変ってしまった、と述べた」とある[324][326]。
スティムソンは日本軍の動向について、日記にあるようなオーバーな言い方をしたのではないかと見られている[327]。またルーズベルトの方も、以前から南方の日本軍に対する資材や兵員の輸送が行われていたことを承知していたはずで、今回の日本とヴィシー政府の協定に基づく「通常の行動」になぜ「烈火のごとく立腹した」のか不明である[327]。
一方、ハルは26日午前、ルーズベルトに対して、アメリカの対日回答から暫定的協定案を削除して、基礎協定案のみを野村・来栖両大使に手交することを具申し、承認を得た[328]。
「中国政府の反対及び英蘭豪政府の冷淡な支持または事実上の反対に鑑み、また反対が広く周知のこととなった事実、及び暫定協定がとくにもっている広範な重要性と価値とに関する理解の全面的欠如に伴い、当然これ以上の反対の、なお広がる可能性に鑑み、いずれにせよ太平洋地域に関心を持つ侵略国に対抗する諸国すべてにとり、右措置が賢明かつ有利なりとする私の見解を捨てはしないが、この際日本大使を招き一般的平和解決の為の総合的基本的提案を手交し、同時に暫定協定を撤回することを哀心より強く提唱するものである」[329]
— ハル
しかし、中国の反対は事実であったが、それ以外の国の対応については事実ではなく、「これ以上の反対の、なお広がる可能性」も内容が不明である[329]。また、戦後に行われた真珠湾攻撃に対する米国上下両院合同調査委員会におけるハルの証言では、大統領と「どんな会話を交わしたか、何も思い出せない」としており[330]、暫定協定案が放棄された経緯は明確ではない。
なお、ハルの回想録によると、中国の反対及び日本と暫定協定を進めることが中国の戦意を崩壊させる危険性を考慮して、暫定協定案を放棄したような記述となっている[331]。
11月26日日米会談におけるハル・ノート提示
1941年11月26日(アメリカ現地時間16時45分から18時45分、日本時間11月27日6時45分から8時45分)に行われた野村・来栖-ハル会談で、ハルは日本側の最終打開案である乙案に対する拒否の回答を伝え、ハル・ノートを手交した[1]。
なお、暫定協定案の放棄及びハル・ノートの提示は、陸海軍の長官にも知らされておらず、関係国との協議もなかった[332]。
ハル・ノートの内容
冒頭に「厳秘 一時的且拘束力ナシ」 (Strictly Confidential, Tentative and Without Commitment)との記載がある。
第一項「政策に関する相互宣言案」にはハル四原則が書かれ、第二項には10項目から成る具体的措置が示されている。
- ハル・ノート
- 第一項「政策に関する相互宣言案」
- 一切ノ国家ノ領土保全及主権ノ不可侵原則
- 他ノ諸国ノ国内問題ニ対スル不関与ノ原則
- 通商上ノ機会及待遇ノ平等ヲ含ム平等原則
- 紛争ノ防止及平和的解決並ニ平和的方法及手続ニ依ル国際情勢改善ノ為メ国際協力及国際調停尊據ノ原則
(略)
- 第二項「合衆国政府及日本国政府の採るべき措置」
- イギリス・中国・日本・オランダ・ソ連・タイ・アメリカ間の多辺的不可侵条約の提案
- 仏印(フランス領インドシナ) の領土主権尊重、仏印との貿易及び通商における平等待遇の確保
- 日本の支那(中国)及び仏印からの全面撤兵[注釈 28]
- 日米がアメリカの支援する蒋介石政権(中国国民党重慶政府)以外のいかなる政府も認めない(日本が支援していた汪兆銘政権の否認)
- 英国または諸国の中国大陸における海外租界と関連権益を含む1901年北京議定書に関する治外法権の放棄について諸国の合意を得るための両国の努力
- 最恵国待遇を基礎とする通商条約再締結のための交渉の開始
- アメリカによる日本資産の凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結を解除
- 円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立
- 日米が第三国との間に締結した如何なる協定も、太平洋地域における平和維持に反するものと解釈しない(日独伊三国軍事同盟の実質廃棄)
- 本協定内容の両国による推進
附属のオーラルステートメントでは、ハル・ノートは「太平洋全地域に亙る広汎乍ら簡単なる解決の一案」「六月二十一日附米国案と九月二十五日附日本案の懸隔を調整」と説明されているが、実際には日本側の要望はすべて無視したものであった[333]。6月21日付米国案では、日中和平の条件として日本の立場に理解を示す文言(共産主義運動に対する防衛のための日本軍の中国駐兵を今後の検討対象とする、「満州国に関する友誼的交渉」といった項目)もあったが、ハル・ノートは条件をつり上げたことになる[334]。
日本大使の反論
ハル・ノートを受け取った野村・来栖両大使は難色を示してハル国務長官と応酬したが、ハルは「何れも立ち入つては何等説明も主張もしない。全体の態度が殆ど問答無用といった風で、俗にいう取り付く島のない有様であった」[335]という。
来栖は、多辺的不可侵条約の締結(第二項1)について「(日本に)ワシントン会議以来の苦い経験があるにも拘らず、又々九カ国条約と同じような機構を復活せよというのは、過去四年間の日華事変を全然無視せよということになる」と反対したが、ハルは何等力強い反駁を加えることをしなかった[335]。
第二項3の全面撤兵及び第二項4の重慶政府以外不支持については「出来ない相談で、米国が蒋政権を見殺しに出来ないと同様、日本は南京政府を見殺しにする訳にはゆかぬ」と言うと、ハルは「南京政府は到底中国を統治する能力なし」と応酬し、撤兵については「即時撤兵を主張するものではない」と述べた[335][336]。
日本側が「三国条約の問題に至りては米国は日本をして出来得るだけの譲歩を為さしめんことを希望せられつつある一方、支那問題に対しては殆ど当方をして重慶に謝罪せよと称せらるるに等く」、先日ルーズベルト大統領が日中和平の『紹介』をしたいと述べたのはまさかこのような趣旨だとは思わなかったと抗議すると、ハルは黙して答えなかったという[337]。
なお、暫定協定について来栖が問い質すと、ハルはその問題の可能性は探求済みである、探求には最善を尽くしたとだけ答えた[338]。
会談の最後に、来栖はこのノートをこのまま政府に伝達するのは深い疑念があるとまでいい、野村は米国としてはこの案の外考慮の余地なしかとして、ハルに大統領との会談を要請した[339][336]。
翌日の日米会談
11月27日(米時間)、野村・来栖両大使と会見したルーズベルト大統領は、態度は明朗だが案を再考する余地はまったくないように思われたという[340]。
ルーズベルトは「自分は今尚大いに平和を望み、希望を有している」と述べたが、野村の「今回の貴国側提案は日本を失望させるべし」との言に対しては、「自分も事態がここまでに至ったのはまことに失望している」と応じた[341]。さらに「日本の南部仏印進駐により第一回の冷水を浴びせられ、今度はまた第二回の冷水(日本のタイ進駐の噂)の懸念もある」「ハルと貴大使等の会談中、日本の指導者より何ら平和的な言葉を聞かなかったのは交渉を非常に困難にした」「暫定協定も日米両国の根本的主義方針が一致しない限り、一時的解決も結局無効に帰する」と述べた[341]。
同席していたハルも暫定協定が不成功になった理由について「日本が仏印に増兵し、三国同盟を振りかざしつつ、米国に対して石油の供給を求められるが、それは米国世論の承服せざる所である」と付言し、日本の指導者が力による新秩序建設を主張したことを遺憾とした[341]。
「我々はこう確信しているのだが、日本の最大の利益は、ヒトラー主義とその攻撃の進路に追随することからは出てこないだろうし、また、日本の最良の利益は、我々が今般の会談で概要を伝えた進路にある、ということだ。しかしながら、もし日本が不幸にして前者をとることに決定するならば、一片の疑いもなく、日本は終局において敗者となることを私は確信している」[342]
— ルーズベルト
ハルによる外交交渉終了宣言
暫定協定案の放棄とハル・ノートの提示について、11月27日付の『スティムソン日記』には次のようにある。
「今朝まず第一に、私はハルを電話口に呼び出して、日本との交渉の最後はどうなっているか、すなわち、われわれが二、三日前に意見を述べたあの新提案を日本に手渡したかどうか、あるいは、ハルが昨日いっていたように、いっさいを断念したかどうか、これらの点を聞き出した。ハルはそれに答えて、「私はそれから手を引いた。いまやそれは君とノックスとの手中、つまり陸海軍の手中にある」とつけ加えた。そのあと私は大統領を電話口に呼び出した。大統領は私に向って、すこし違う意見を述べた。大統領は、日本は打ち切ったが、しかし、日本はハルの準備した立派な声明によって打ち切ったのだと言った。これは事柄の再開でなく、米国の不変の原則的立場の声明であったことを、私はあとで知った」[324]
27日、ルーズベルト大統領は、現地指揮官に「最後的警戒命令」を発出するというスティムソン陸軍長官の提議に同意した[343]。まずフィリピン、ハワイ等の陸軍司令官に「対日交渉は、日本が再び会談継続を提案する可能性だけを残して、すべての実質的目的を終えた。日本の将来の行動は予断できないが敵対行動はいつおこるかわからない」との警戒命令が出され、次いで太平洋艦隊及びアジア艦隊に対しては「日米交渉はすでに終わり、日本の侵略的行動がここ数日以内に予想される」との「戦争警告」が発せられた[343]。
さらに28日の軍事会議では、日本軍の南進について議論があり、特に日本軍がクラ地峡に進出すればイギリスは戦うであろうこと、もしイギリスが戦えばアメリカも参戦せねばなるまいということで意見が一致した[342]。
29日、ハルはハリファックス駐米イギリス大使に次のように告げた。「日米関係の外交部門は終わった。今や問題は陸海軍の手に移った。私の意見では、今や全面的に更新された日本の征服計画は、多分のるかそるかの賭けだろうから、極度の大胆さと冒険を必要とするに違いない。…彼らは独ソ戦の成り行きにはたいして注意を払わずに、死に物狂いに企図を進めるだろう」[344]。
関係国の反応
暫定協定案の放棄は中国以外の関係国を驚かせ、27日にはハリファックス駐米イギリス大使がウェルズ国務次官に抗議した[345]。しかし、ウェルズが日本軍の大部隊が南下している情報を伝えると、ハリファックスも納得したという[309]。また、29日にはカセイ駐米オーストラリア公使が日米間の調停を申し出たが、ハルは外交上の段階は過ぎたと拒否している[346][345]。
日本側の反応
ハル・ノート着電と11月27日連絡会議
野村大使の第一報(ハル・ノートの要旨報告)、在米武官からの要旨報告電報が相前後して日本に届いたのは27日の午後とされる[347]。東條首相及び東郷外相の回想を総合すると、野村や在米武官からの報告を受け、午後2時の連絡会議でこれを審議したという[348]。東條は審議の結論を「11月26日の覚え書きは明らかに日本に対する最後通牒である」「この覚書は我国としては受諾することは出来ない。且米国は右条項は日本は受諾し得ざることを知ってこれを通知して来ている」「米国側においては既に対日戦争を決意しているものの如くである」と回想しており、また東郷は出席者の様子を「各員総て米国の強硬態度に驚いた。軍の一部の主戦論者は之でほっとした気持ちがあったらしいが、一般には落胆の様子がありありと見えた」と回想している[348]。
ハル・ノート着電との前後関係は判然としないが、『杉山メモ』によると、27日の連絡会議で「宣戦に関する事務手続順序」及び「戦争遂行に伴ふ国論指導要綱」が採択され、12月1日御前会議で戦争開始の国家意思を決定すること、開戦の翌日に「宣戦ノ詔書」により宣戦布告を行うことなどが定められた[注釈 29](『機密戦争日誌』には「連絡会議開催、対米交渉不成立大勢を制し、今後開戦に至るまでの諸般の手続きに就き審議決定す」(27日付)とある)[350]。
なお、昭和天皇は27日午後1時27分に東條首相から日米交渉について奏上を受けており、翌28日午前11時30分には東郷外相からハル・ノートの説明を受けている[351]。『木戸幸一日記』には11月28日の欄に「東郷外相参内米国の対案を説明言上す。形勢逆転なり」[352]と記されている。
天佑としての受け取り
暫定協定案については、海外での中国のリーク情報が回り回って日本側にも伝わっており、「米国は経済関係を回復するから、日本も武力行使を取りやめよというような内容のものと判断される」(佐藤軍務課長)、「米側の要求として、我方の仏印部隊全面撤退と資産凍結解除とを関連せしめる模様」(東郷外相)との見方があった[353]。しかし、ハルの回答は対日妥協案のようなものではなく、「予想に反し全く強硬な内容」(佐藤)であった[353]。
『機密戦争日誌』には在米武官からの電報について次のように記されている[354]。
- 「果然、米武官より来電、米文書を以て回答す、全く絶望なりと。曰く
- 四原則の無条件承認
- 支那及仏印よりの全面撤兵
- 国民政府(汪兆銘政権)の否認
- 三国同盟の空文化
- 米の回答全く高圧的なり。而も意図極めて明確、九カ国条約の再確認是なり。対極東政策に何等変更を加ふるの誠意全くなし。交渉は勿論決裂なり。之にて帝国の開戦決意は踏み切り容易となれり、芽出度芽出度。之れ天佑とも云ふべし。之に依り国民の腹も堅まるべし、国論もー致し易かるべし」
作戦幕僚らに代表される主戦派にとっては、開戦決意を最終的に固める上でも、また国論の一致に貢献する意味でも、ハル・ノートは「天佑」であった[355]。実際、和平派であった東郷外相や賀屋蔵相も開戦に反対せず、海軍も戦争の決意を固め[注釈 30]、全員一致で開戦の決意がなされた[9]。その意味では、ハル・ノートは日本にとって真珠湾攻撃に匹敵する衝撃を与えたと言える[357]。
東郷外相の失望
「『ハル・ノート』接到迄は全力を尽くして働いた。又闘つた。同『ノート』により、我が力の足らざるを謝すよりも、我が誠意の認められざるを恨む気持ちの方が強かつた。其後は働く熱がなくなつた」[358]
— 東郷
東郷外相は日本側が最終案として提示した乙案が拒否され、ハル・ノートの内容にも失望し外交による解決を断念した。東郷は「自分は眼もくらむばかりの失望に撃たれた」[359]「長年に渉る日本の犠牲を無視し極東における大国たる地位を捨てよと言うのである、然しこれは日本の自殺に等しい」[360]「この公文は日本に対して全面的屈服か戦争かを強要する以上の意義、即ち日本に対する挑戦状を突きつけたと見て差し支えないようである。少なくともタイムリミットのない最後通牒と云うべきは当然である」[361]と回想している。当時、外務省は中国やアメリカの暗号を解読しており、東郷がアメリカ側で暫定協定案が検討されている事を知っていた可能性が指摘されている[362]。東郷の失望はそうしたものも合わせたものとも考えられる[363]。
東郷から相談を受けた外務省顧問佐藤尚武は「たとえハル・ノートのようなものが来たからといって、絶望せずに何とか危機を脱する方法を見つけねばならぬと考え、前後三回にわたり、茂徳と、息詰まるような議論を交わした」[364]という。開戦論に転じた東郷の「日米交渉は成立せず、戦争は不可避にして又避くるを要せず、長期戦の必敗は予想するに及ばず、との態度」に対し、佐藤は「戦争は国運顛覆の虞れあるものなれば飽く迄之を避けざるべからず、又避け得」と主張したが、物別れに終わり、佐藤は顧問の職を辞した[365]。
東郷は28日の閣議において「従来我方の主張とは雲泥の相違あり、且四月以降半才余に亘る彼我の交渉経緯を全然無視せる傍若無人の提案を為し来れり」とハル・ノートを非難した[366]。また、野村大使に対しては「我方としては到底右(ハル・ノート)を交渉の基礎とするに能はず。従って今次交渉は右米案に対する帝国政府見解申入を以て実質的には打切りとする他なき情勢なるが、先方に対しては交渉決裂の印象を与ふることを避けることとし度き」と訓電し、以後の交渉は開戦企図の秘匿に配慮するためのジェスチャーとなった[367]。
12月1日御前会議
日本では、多くの関係者がハル・ノートを事実上の最後通牒、または宣戦布告であると受け取った[368][注釈 31]。
12月1日の御前会議において、東條首相は日米交渉に努力してきたが「米国は従来の主張を一歩も譲らざるのみならず、更に米英蘭支聯合の下に、支那より無条件全面撤兵、南京政府の否認、日独伊三国条約の死文化を要求する等、新なる条件を追加し帝国の一方的譲歩を強要して参りました。若し帝国にして之に屈従せんか、帝国の権威を失墜し支那事変の完遂を期し得ざるのみならず、遂には帝国の存立をも危殆に陥らしむる結果と相成る」とした[370]。そして、米英蘭支は経済的、軍事的圧迫を強化しており、特に作戦上、これ以上時日の遷延は許されないとして「帝国は現下の危局を打開し、自存在自衛を全うする為、米英蘭に対し開戦の已むなきに立ち至りましたる次第であります」と説明した[370]。
東郷外相もハル・ノートに対して次のような意見を述べた。「通商問題(第二項6、7、8)及支那治外法権撤廃(第二項5)等、我方として容認し得べき項目も若干含まれて居りますが、支那仏印関係事項(第二項2、3)、国民政府否認(第二項4)、三国条約否認(第二項9)、及多辺的不可侵条約(第二項1)等は、何れも帝国として到底同意し得ざるものに属し、本提案は米側従来の諸提案に比し著しき退歩にして、且半歳を超ゆる交渉経緯を全然無視せる不当なるものと認めざるを得ぬ」「提案を基礎として此上交渉を持続するも、我が主張を充分に貫徹することは殆ど不可能というの外なしと申さなければなりませぬ」[371]。
会議の結果、対米英蘭開戦が決議される。『杉山メモ』には開戦の聖断を下した昭和天皇の様子が次のように記されている。
「本日ノ会議二於イテ、オ上ハ説明ニ対シ一々頷カレ、何等御不安ノ御様子ヲ拝セズ、御気色麗シキヤニ拝シ、恐懼感激ノ至リナリ」[372]
同日、杉山参謀総長と永野軍令部総長は列立して作戦実施の関する大命の允裁を仰ぎ、昭和天皇からは「此の様になることは已むを得ぬことだ。どうか陸海軍は協調してやれ」との御言葉があった[373]。翌12月2日、開戦日が12月8日と最終決定されたことを受け、午後5時30分、連合艦隊司令部から、ハル・ノートが提示される以前にハワイオアフ島真珠湾に向けて出航していた機動部隊へ[注釈 32]、真珠湾攻撃の命令が発せられた[375]。
ハル・ノートにおける満州国について
ハル・ノートにおける「支那(中国)」には満州国が含まれるかどうかがしばしば問題になる(ハル・ノートで言うところの「中国」には満州は含まれていないとする説がアメリカ側の研究者から出ている[376])。しかし、そもそもハル国務長官にとって満州問題は優先順位が低く、日米交渉の争点にすらなっていない[377]。
ハルも野村大使も「中国」という言葉を満州を含む意味には使っておらず、国務省極東部内の認識も同様で、それが現場の常識であった[377]。ハル・ノートの原案であるモーゲンソー案においても満州は中国とは別の地域を意味しており[378]、11月22日案・11月24日案においても「中国(満州を除く)」と明記してあった[377](ただし、11月25日案(ハル・ノート)では「(満州を除く)」という挿入句が外された[377]。24日から25日にかけての数時間の間に、このような修正がなされた理由は現在でも不明である[377])。
一方、日本政府の解釈であるが、12月1日の御前会議での東條首相及び東郷外相の説明では、ハル・ノートの解釈について「汪兆銘政権の否認」を挙げていても満州国の否認は挙げていないこと、そして東郷が米国案を受諾すれば「其の結果満州国の地位も必然動揺を来すに至るべく」と述べていることから、ハル・ノートにおける「支那(中国)」の中に満州国は含まれていないとの前提に立っていたことが認められる[379]。御前会議において原嘉道枢密院議長がこの点について質問しているので、以下に原と東郷のやりとりを引用する[380][381]。
原 「特に米が重慶政権を盛り立てて全支那から撤兵せよといふ点に於て、米が支那といふ字句の中に満州国を含む意味なりや否や、此事を両大使は確かめられたかどうか、両大使は如何に了解して居られるかを伺い度い」
東郷 「26日の会談(ハルノート提示時の野村・来栖-ハル会談)では唯今の御質問事項には触れて居りませぬ。然し、支那に満州国を含むや否やにつきましては、もともと4月16日米提案(日米諒解案)の中には満州国を承認するといふことがありますので、支那には之を含まぬわけでありますが、話が今度のように逆転して重慶政権を唯一の政権と認め汪兆銘政権を潰すといふ様に進んで来たことから考えますと、前言を否認するかも知れぬと思ひます」
須藤眞志は、東郷が日米諒解案を米提案だと思い込んでいるのは信じがたいものがあるとしつつ、この答弁は論理的にも意味不明であり、質問に対して何の回答にもなっていないと評して、この問題について何の議論も行っていない無関心さを指摘している[382]。そして、東條の東京裁判での宣誓口供書(ハル・ノートの難問として「支那全土(満州を含む)からの無条件撤兵」「満州政府否認」等を挙げている)、田中新一作戦部長の回想(ハル・ノートを「全支(満州を含む)からの撤兵」「満洲国政府の否認」と解釈)、佐藤賢了軍務課長の回想(「満州を含む中国からの全面撤退」と解釈)といった軍部関係者の証言から「とても『(支那の中に満州国は)含まれないとの前提に立っていた』とは思われない」としている[383]。
しかし、安井淳によると、須藤の依拠した軍部関係者の証言は戦後の回想という問題点があり、外務省のハル・ノート翻訳文や御前会議での東郷の説明、在米武官からの報告、東條首相のラジオ放送[注釈 33]など戦前(あるいは開戦直後)の一次史料からは「満州を含む」との文言は確認できない[385]。原の質問から当時、「満州を含む」との流言があったことは間違いないが、責任ある地位にいた者の中で「満州を含む」と解釈していたとは認められない[385]。
つまり、ハル・ノートで米国から満州撤兵の要求もあったと公然と言われるようになったのは戦後のことであり、その大本を辿ると、東京裁判における被告側(日本側)の主張 ―満州を含む中国からの撤兵という苛酷な要求により日本は開戦を強いられたという「ハル・ノート開戦説」―を起源としている[385]。
当時の新聞報道
11月28日付朝日新聞夕刊には「ハル長官、最後的文書を手交」の見出しで、「ハル国務長官は26日午後の日米会談において日本側に文書を手交したが、右は日米問題の平和的解決に対する米国の態度を要約したものと推測される」「野村、来栖両大使とも…記者団の質問に対してはいっさい口を緘して語らなかった」「各方面とも26日の日米会談再開をもって、恐らく日米交渉の前途を卜するに足る重大意義を有するものとの一致した観測を下している」とある[386]。
11月28日付中外商業新報には「米、原則的主張を飽くまでまげず」との見出しで、ハルが26日に手交した文書について「恐らくは最後的な米側の提案と解されるものである」「米政府スポークスマンの語るところによると、右文書は、『過去ニ、三週間に亘る会談が最高潮に達した事実を表すものであり、…誰でも熟知している或る種の基本的原則に基づいたものである。』とのことであるが、これは米側の提案が依然ある点において過去の原則的主張を頑固に固執していることを示唆するものであり、従って会談の前途はすこぶる楽観を許さざるものと見られる」とある[386]。
また、ニューヨーク27日発の同盟電によれば、「26日夕刻、ハル国務長官が野村、来栖両大使と会見、文書を手交してからは急角度を以って悲観論が圧倒的となり、27日の朝刊各紙は『日米交渉がついに最後の段階に達し、日米関係が和戦いずれかに決定される時が来た』と大々的に報じている」として、「米各紙、悲観論濃厚」としている[386]。
開戦後には、外務省から「日米交渉の経過」が公表された。その中には乙案の全文やハル・ノート全十箇条の大要が含まれており、12月9日付朝日新聞夕刊では「米、中国撤兵と三国同盟死文化に固執」との見出しで報道された(「対米覚書」についても、「日本側、交渉打ち切りの最後通牒を手交」との見出しで全文が掲載されている)[387]。
開戦へ
ルーズベルト大統領の昭和天皇宛親電
ハル・ノートで交渉が絶望的になってもなお開戦阻止の動きがあった。来栖大使は、戦争を防ぎ得るのは天皇陛下とルーズベルト大統領以外にはないとして、様々なルートを使って、大統領から昭和天皇へ親電を打ってもらうよう働きかけていた[388]。また、寺崎英成一等書記官も来栖の賛同を得て、親電工作に乗り出していた[389]。
(11月26日午前、野村・来栖両大使は、乙案全ての通過は困難であることを報告するとともに、事態打開策としてルーズベルト大統領と昭和天皇の間で親電を交換して「空気を一新」する案を東郷外相に進言していた[390]。だが、この案は東郷に却下されていたので、来栖・寺崎の行動は外務省の指示に背くことになる。)
他方、アメリカ側にも親電を打つ案は以前からあったが、ハル国務長官はルーズベルトに「日本の攻撃が殆ど開始される時まで延期するよう」進言していた[343]。
12月6日、ルーズベルト大統領から昭和天皇に親電が発せられた[391]。親電の趣旨は、もし日本軍が仏印から撤兵してもアメリカは同地に侵入する意図はない、周辺政府にも同様の保障を求める用意がある、南太平洋地域における平和のため仏印から撤兵してほしいというものであった。ハルの原案では「日中の90日停戦、太平洋関係諸国の軍隊の移動禁止、在仏印日本軍の縮小、日中両国の和平交渉の開始」など既に放棄された暫定協定案の再現のような内容であったが、ルーズベルトはこれを採用しなかった[392]。親電を送ることについてのルーズベルトの真意は明らかではないが、ハルは「それを送ることは記録を作る目的以外にはその効果は疑わしい」[393]と否定的だった。
親電は東京中央電信局で15時間留め置かれ、最終的に昭和天皇のもとに届いたのは12月8日の午前3時(ハワイ時間では午前7時半で真珠湾攻撃予定時刻の約30分前)であった(この時、昭和天皇は「海軍軍装を召され」ていたことが、『昭和天皇実録』によって初めて明らかになった)[394]。戦後、昭和天皇は「この親電は非常に事務的なもので、首相か外相に宛てた様な内容であつ[た]から、黙殺出来たのは、不幸中の幸であつたと思ふ」と回想している[395]。親電について東郷は「此危局を救い得るものとは認め難い」とし、東條も「そういうものは何にも役立たぬではないか」と言ったとされる[396]。
なお、2013年3月に公開された外交文書によって、戦後、連合国軍総司令部(GHQ)が外務省に対して、伝達が遅れずに「電報が天皇陛下に渡されたならば戦争は避けることができたに違いない」との見解を示していたことが明らかになっている[397]。
対米覚書 ― ハル・ノートへの回答
現地ハワイ時間1941年12月7日午前7時50分(ワシントン時間午後1時20分、日本時間12月8日午前3時20分)、真珠湾攻撃が開始された。
ワシントン時間12月7日午後2時20分、野村大使からハル国務長官に対米覚書(外交打ち切り通告文)が手交された。東郷外相の訓令には「午後一時を期し米側に(成るべく国務長官に)貴大使より直接御手交あり度し」とあったが、結果的にハワイ空襲の一時間後の手交となった[398]。
対米覚書は、ハル・ノートに対する帝国政府見解ともなっており、
- ハル四原則の採択を日本に迫るのは「現実を無視し一国の独善的主張を相手国に強要するが如き態度」で交渉の成立を促進するものではないこと
- 第二項1の多辺的不可侵条約は「徒に集団的平和機構の旧構想を追ふの結果、東亜の実情と遊離せるもの」であること
- 第二項9については「合衆国が欧州戦争参入の場合に於ける帝国の三国条約上の義務履行を牽制せんとする意図をもって提案せるものと認めらるる」ため受諾できないこと
- 第二項2は「東亜の事態を紛糾に導きたる最大原因の一たる九国条約類似の体制を、新たに仏領印度支那に拡張せんとするもの」で容認できないこと
- 支那(中国)からの全面撤兵及び通商無差別原則の無条件適用は「何れも支那の現実を無視し、東亜の安定勢力たる帝国の地位を殲滅せんとするもの」であり、南京政府否認は「交渉の基礎を根底より覆すものといふべく」、アメリカが日中和平及び東亜の平和回復を阻害する意思があることを実証していること
などの難点を挙げ、「四年有余に亙る支那事変の犠牲を無視し、帝国の生存を脅威し、権威を冒涜するものあり。従って全体的に観て帝国政府としては、交渉の基礎として到底之を受諾するを得ざるを遺憾とす」としている[399]。
また、日本の乙案に対するアメリカの対応については、「合衆国政府は右新提案を受諾するを得ずと為せるのみならず、援蒋行為を継続する意思を表明し、(大統領が日支間和平の仲介者となると言明したにも拘らず)大統領の所謂日支間和平の紹介を行ふの時機猶熟せずとて之を撤回し、遂に11月26日に至り、偏に合衆国政府が従来固執せる原則を強要するの態度をもって、帝国政府の主張を無視せる提案を為すに至りたるが、右は帝国政府の最も遺憾とする所なり」と非難した[399]。
なお、対米覚書には、日露戦争の際にあった「独立の行動を採る」に相当する文言はなく、開戦宣言あるいは条件付き開戦宣言は明記していない[400][注釈 34]。また、対米覚書は国内においても閣議決定、上奏、裁可の手続きを経ておらず、「国際法上の『開戦宣言』とはなりえず、…国内的措置の形式からいっても敵対国への最後通牒ではなかった」[400]。
翌8日、ルーズベルト大統領は日本への宣戦布告を求める議会演説(恥辱の日演説(Day of Infamy Speech))を行った。演説では、日本と太平洋の平和について交渉を進めていたとしているが、ハル・ノートの存在は議会に説明しなかった[402]。
日米開戦が即アメリカのヨーロッパ戦線への参戦を意味するわけではなく、独ソ戦に日本が参戦しなかったように三国軍事同盟の規定では、加盟国側から仕掛けた戦争に関しては他の加盟国の参戦義務は発生しなかった。ハルの回想によれば、アメリカが他の枢軸国に対しても宣戦布告をするかどうかについて議論があったというが、ドイツの方から宣戦してくると考えて、それを待つ方針を固めたという[403]。ヒトラーは真珠湾攻撃以前から既に対米開戦は不可避と判断しており、12月11日に日本に呼応する形でアメリカに対して宣戦布告を行った[404]。このため、アメリカはヨーロッパ・アフリカ戦線に参戦することとなった。
日米間には戦争をしてまで解決しなければならない明確な争点はなかった[405][注釈 35]。また、日本は米英蘭の経済封鎖を受けて窮地にあったものの、世界情勢を自主的に判断して、自主的に行動できる自由をもっていたのである[406]。戦争の結果も踏まえると、「日米交渉の不成立によりただちに日本が開戦しなければならないというのは、あまりにも短絡的な思考」[406]であった。
解釈と評価
当事者・関係者の回想・評価
日本側当事者・関係者
- 来栖大使
「この文書の冒頭の欄外に (Tentative and without commitment 暫定且無拘束)としてあり、且つ先方は一案(a plan )であると説明したのであるが、その内容からすれば、米国側は従来の主張から一歩も引いていないことが判る。のみならず、全然交渉の始めに戻ったと云う方が適当な点が多い」「乙案の受諾は出来ないから、更に議論しようというのである」「乙案提出の際に、「右ニテ米側ノ応諾ヲ得サル限リ交渉決裂スルモ致シ方ナキ次第ニツキ」と訓令されている上に、二十九日までに調印をも完了というタイム・リミットを課せられている我々の失望は甚大なものであった」と回想している[407]。また、ハル・ノートを最後通牒かと思ったか否かについては、「最後通牒とまでは思わなかつたが、当時の事情の下に於いてはそうも思える」としている[407]。
- 野村大使
ルーズベルト大統領とハル国務長官について、「米国の信条とする対外政策の諸原則に膠着し、一歩もその埒外に出ることなくgive and takeは少しもなかった」「両者とも非常に世論を顧慮する。これがけだしデモクラシーの正体であろう」と回想している[408]。
- 東郷外相
日米交渉の経過について、「日本の提出した要求の過大なることは勿論であるが、米国の態度が四月所謂日米諒解案の頃とは変調を見せ、六月末の提案を固執して些の譲歩をも示さず、殊に七月末資金凍結以来は極めて非妥協的で、只時日の遷延を図つて居るとしか思へなかつたことである。米のこの態度は交渉の決裂延いては戦争を辞せざるの決意なくしては執れないとの印象を強く受けたのである」「これでは松岡君が交渉不成立を見越してその打ち切りを主張した理由がわかる。むしろ内閣で我が要求条件を緩和しないでただ交渉成立を楽観していた理由が不可解だ」と回想している[409]。また、撤兵問題について「支那に於ける日本の駐兵が不都合であると言い乍ら、外蒙(現在のモンゴル国)に於けるソ連軍隊の駐在に抗議せざるは不公平である」[410]としている。
ハル・ノートについて、「仮令、尚、試案なりと銘打ってあっても談判の最後的階段に於て提出したものであるから、甚だ非妥協的なものである。日本側が公然述べて居る大東亜共栄圏の確立、支那事変の完遂、三国パクトによる枢軸政策とは大凡縁の遠いものである。日本の提案と此米国の試案とを調和せしむることは絶望とは云はずとも至難なことである」と手記に書き残し、また「此の提案に接した日本政府は殆ど交渉継続の熱意を喪失」したとも記している[411]。
- 有田八郎元外相
「況んやハル・ノートには最恵国待遇及び通商障壁低減の措置に基く日米通商条約の締結、資金凍結令の廃止、円弗為替の安定、原料物資の無差別待遇原則の支持等平和日本の経済発展に有利に利用し得べきものが含まれていたのだから、なを慎重に考え直して見るべきであった」として、ハル・ノートを受諾してもよかったのではないか、と戦後に述べている[412]。
ハル・ノートについて、「すなわちこれは『試案』であり、『日米交渉の基礎案』であるといっている。実際の肚の中はともかく外交文書の上では決して『最後通牒』ではなかった筈だ。私はあらためて東郷外務大臣を訪ね、・・・執拗にハル・ノートの右の趣旨をいって、注意を喚起した」「私は少々乱暴だと思ったが、東郷君に向かって『君はこのことが聞き入れられなかったら、外務大臣を辞めるべきだ。君が辞職すれば閣議が停頓するばかりか、無分別な軍部も多少反省するだろう。それで死んだって男子の本懐ではないか』とまでいったものだ」と回想している[413]。
- 佐藤賢了
「『暫定協定案が十一月二十六日のハルノートの代わりに来ていたら、あなた方は戦争を決心したか、せんか』ということを東條総理・東郷外務大臣・賀屋大蔵大臣・武藤軍務局長・嶋田海軍大臣・岡軍務局長等、関係者にきいてみた。さすがに東條さんは、『うん、これがくればむろん……』、といいかけられたが、まさかこの期におよんで『これがくれば戦さしなかった』ともいえない、というような顔つきで『ウーン』といって、後は黙ってしまわれた。それから後の人は全部、『これさえ来とりゃ戦さするんじゃなかった』といった。しかし、果たしてそうかどうかは、質問した場合が、戦いはもう負けて、捕われの身になってからの感じであるので、もしも、そんなものが実際十一月の二十五日か四日に来たら戦さをしなかったどうかは、非常に疑問である」と回想している[414]。
「暫定協定案で雀の涙程の石油をくれても、それでは当時、日本の石油問題は無論解決しなかった」「交渉を延ばせば日本の海軍はもう足腰たたなくなるということを、アメリカはソロバンにおいているのだから。それならやっぱり、ただ日本の言い分が少し通ったというだけで、実質は結局、何にもならないのである。だから、やっぱり戦争になったのじゃないかと思う」[414]。
米国側当事者・関係者
- ハル国務長官
「私が一九四一年十一月二十六日に野村、来栖両大使に手渡した提案(十ヵ条の平和的解決案)は、この最後の段階になっても、日本の軍部が少しは常識をとりもどすこともあるかも知れない、というはかない希望をつないで交渉を継続しようとした誠実な努力であった。あとになって、特に日本が大きな敗北をこうむり出してから、日本の宣伝はこの十一月二十六日のわれわれの覚書をゆがめて最後通告だといいくるめようとした。これは全然うその口実をつかって国民をだまし、軍事的掠奪を支持させようとする日本一流のやり方であった」[415]。
また、ハルは日米交渉の目的について、次のように言及している。「ヨーロッパに戦争が勃発し、特にフランスが陥落してから、アメリカは日本とのすべての関係において2つの目的をもっていた。その一は平和であって、その二はもし平和がえられなければ、アメリカの防衛を準備するために時間を稼ぐことであった。アメリカは平和をかちとりえなかったが、無限の価値ある時間を稼いだ」「日本がもし六ヵ月早く真珠湾を攻撃していたならば、世界戦争の全貌が変っていたかも知れない」[416]。
- グルー大使
「米国政府は極東の全情勢を調整するための十ヶ条からなる提案草案を日本に渡した。範囲の広い、客観的にして政治道を具現化した文書であり、もし日本が侵略的政策を中止しさえすれば日本がそのために戦いつつあり称するものをほとんど全部与えることを提議している。このプログラムに従えば、日本は必要とする原料を自由に入手することと、通商貿易の自由と、財政的協力と援助と、凍結令撤回と、米国と新しい通商条約を交渉する機会を与えられる。だがもし日本が東亜の国々を政治的経済的に抑圧しようと欲し―日本の極端主義者の多くはこれを欲している―武力によって南進を遂行せんとするならば、間もなくABCD国家のすべてと戦端を開くことになり、問題なく敗北して第三等国の地位に落ちる」「日本の世論はいつでも比較的短時間に形づくることが出来る。今政府がとるべき賢明な処置はワシントン会談でこれ以上武力にうったえることなく、いままでそれを目的に戦ってきた保全及至『自由』を獲得し、偉大な外交的勝利を占めたことを国民に納得させることである」[417]。
また、グルーはハル・ノートは決して最後通牒ではない、日米間で認められた協議の基礎を明示したものであることを東郷外相に説明したいと、吉田茂に依頼して会談を申し入れたが、東郷は応じなかった[413]。後にグルーは東郷に会ったが、「自分は甚だしく失望している」と告げられたという[418]。
その他諸国の当事者・関係者
- クレーギー駐日イギリス大使
「もし、暫定協定案について何らかの妥協が成立し、三ヵ月間の猶予期間が得られたとするならば、季節風の条件で日本軍のマレー上陸作戦は困難になっただろう。また独ソ戦の様相も変化する。対独潜水艦戦の成功といった新しい要素も加わり、日本政府が対米戦の決断に達することは極めて困難になるだろう」(1942年2月4日付チャーチル英首相宛の報告書において)[419][420]。
- チャーチル英首相
クレーギーの報告書について、「日本がアメリカを攻撃し、そのためアメリカが国を挙げて勇躍参戦してきたことはまさに天の恵みであった。大英帝国にとって、これ以上の幸運はそうざらにはない。日本の対米攻撃は、いずれが我が国の友であり敵であるかを、白日のもとにさらした」と批判し、報告書を厳秘扱いとした[419][420]。イギリスは対独戦に苦戦していた。親日派で知られたチャーチルは対日融和工作を進めていたが[421]、日本がドイツと同盟を締結して以降は戦局打開の策としてアメリカの参戦を切望していた。チャーチルの回顧録によれば、日米開戦の知らせを受け、勝利を確信し喜んだという[422]。
また、チャーチルは、日本の参戦まで多くの時間が稼げたことについて次のように述べている。「もしドイツが一九四〇年六月フランス崩壊後にイギリス本土侵入を企て、またもし日本がそれと同じ時期に、イギリス帝国とアメリカに宣戦したとすれば、われわれの運命がどんなに災厄と苦悶とであっただろうことは、何人も知りえない」(1941年12月26日のアメリカ上下両院合同会議における演説で)[416]。
- 蒋介石
日中戦争が持久戦に突入していた蒋介石にとっての悲願は、日ソ開戦あるいは日米開戦の実現であった(日ソ中立条約により日ソ開戦が遠のいてからは、「日米開戦のみが日本に勝利する唯一の方法」となっていた)[423]。蒋介石は故適大使・宋子文を通じて、アメリカが対日妥協を行わないようルーズベルト工作を進めていたが、日米開戦を受け、日記に「抗戦四年半以来の最大の効果であり、また唯一の目的であった」と記した[423]。
東京裁判での言及
- ベン・ブルース・ブレイクニー(東郷担当の弁護人)
「本法廷において『最後通牒』ということに付多くが語られた。ハル・ノートが『最後通牒』と認められるべきや否やは全く関係ない問題であつて、問題は覚書の効果である。…ハル・ノートは歴史となつた。されば之を現代史家の語に委ねよう。『本次戦争に就いて言えば真珠湾の前夜国務省が日本政府に送つた覚書を受け取ればモナコやルクセンブルクでも米国に対し武器をとつて立つたであろう』」[424][注釈 36]。
ブレイクニーが引用した現代史家の一節を、パールも個別意見書に引用している[426][427]。
また、パールは6月21日付米国案とハル・ノートを比較した上で、これまでの交渉で一度も言及されたことのない条項があることや従来の米国の主張を超えるような要求をしていることを指摘し、「日本の内閣は、たとい『自由主義的』な内閣であろうと、また『反動的』なそれであろうと、内閣の即時倒壊の危険もしくはそれ以上の危険を冒すことなしには、その覚書の規定するところを交渉妥結の基礎として受諾することはできなかったであろう」「ルーズヴェルト大統領とハル国務長官が東京の日本政府はこの覚書の条項を受諾するだろうとか、またこの文書を日本に交付することが、戦争の序幕になることはあるまいと1941年11月26日の遅きに至って考えるほど、日本の事情にうとかったとは、とうてい考えられないことである」という米国人歴史家の一節も引用している[428]。
研究者による評価
日本の乙案について
- ハーバート・ファイス(当時、国務省・陸軍省の顧問)
ハルが乙案に対して「日本の提案を受諾することによって米国が負う義務は全く降伏に等しいものであった」と評価していることについて、「ハルのこの判断の若干の点については多少の疑問がないことはなかった。ハルが提案乙の若干の項目について読み取った意味は、必ずしも正しい解釈であったかどうかは確かでない。また日本が後退を開始すると申し出たことについてのハルの全体的推定が正しかったかどうかも確かではない」と疑問を呈している[429]。しかし、米国が乙案に同意したとしても「日・米両国が行なっている軍事行動について必ず紛議がおこったであろう」「石油についての紛議が重大化して協定を危うくするであろう」として、「太平洋における戦争は避けられなかっただろう」としている[429]。
アメリカ暫定協定案の破棄について
「この段階に至ってもABCD陣営の存続が最優先視されたのであり、したがって米国としても単独で日本と取引するわけにはいかなかった。たとえ、三カ月でもABCD陣営を対日譲歩の犠牲にするわけにはいかないという決意のために、暫定協定案は日本側に提示されることはなかった」「ABCD陣営維持が最優先だとされた以上、日本と米国が交渉する意味はなかった」[430]。
佐藤元英との対談で、佐藤の「日米トップ会談や、『乙案』あるいはアメリカの『暫定協定案』には、交渉妥結の可能性があったのではないか。(中略)ハルやホーンベックなど国務省の問題になるのでしょうか」という質問に対して、「戦争を回避する機会が昭和十六年の八月以降もまだあったということです。しかし、国務省、特にハルやホーンベックらの反対によって、小さいながらも残されていた戦争回避の機会を失ったことは遺憾と言わざるを得ません。ハル・ノートは、日本に仏印や中国からの全面撤兵と汪兆銘政権の否認を求め、日本の「新秩序外交」の全面的否定を明らかにし、いわば日本に満洲事変前に戻ることを求めた厳しい内容であり、日本にとって受け入れがたいものでした。もとより、一九三〇年代、日米戦争に向けての歴史の潮流を推し進めていったのは、日本の中国大陸に対する侵略政策であり、あるいは「東亜新秩序」建設を目指した日本の外交です。(中略)このことを前提としても、ここで考察した時期のアメリカ国務省の対応ぶりにも問題があったことを指摘せざるを得ないのです」と述べている[431]。
- ジョナサン・G ・アトリー
「振り返ると、11月26日のハルの決定は、おそらく間違っていた。たとえハルが日本に暫定協定を提案していても、中国は崩壊しなかったであろう。大統領の言質と軍事物資の輸送がおこなわれていれば、中国の士気は維持され、可能性はわずかであったが戦争を回避するチャンスも残されていたであろう」[432]。
ハル・ノートについて
- ハーバート・ファイス
「米国のこの提案に述べられている極東の政治的・社会的秩序は、日本がこれまで夢みてきたものと真っ向から衝突するものであった。米国の構想は、相互の独立と安全を尊重し、相互に平等な立場で相接し通商を行う秩序ある平等の諸国家間の国際的社会であった。日本の構想は、日本が極東の安定的中心となるというのである。(中略)米国の提案は、日本が戦略や武力で実施しようとした右のような一切のことを拒否しようとするものであった」「しかしそれにしても、この米国の提案を最後通牒と見なすのは、政治的にも軍事的にも妥当ではないように筆者には考えられる」「米国の提案に同意してその政策を転換する。南・北いずれにもこれ以上武力進出は行わないが中国における戦争は極力これを続ける、軍隊の撤収を開始してこれに対し中国・米国・英国から如何なる反応があるかを待ってみる、あくまで勝利をうるための政策を強行する、というのが日本に許された四つの手段であった。日本はこの最後の方法を選んだ」[433]。
- 入江昭
「十一月中旬から同月末までという短期間に、日本か米国かどちらかが立場を変更するということはまずあり得なかった。そのような状態にあって、米国が原点に戻り、その対外政策の基本原則をハル・ノートとして十一月二十六日に日本側に手渡したのもそれなりの必要性を持っていた。ワシントンの日本外交団及び日本政府はハル・ノートによって日米の立場の開きを思い知ったのであるが、彼等がハル・ノートを米国の最後通牒と受け止めたのは当を得ていなかった。このノートの言わんとしたことは、米国は中国、英国、蘭印を支援するが、日本にもこの陣営への参加を呼びかけた上でアジア・太平洋地域の秩序再編を目指したいということだったのである。しかし、日本がこれを拒む以上、両国間に妥協のあり得なかったのも確かである」[430]。
「ハル・ノートはそれまでの交渉経過を無視した全く唐突なものだった。日本への挑戦状でありタイムリミットなき最後通牒であると東郷が評したのも極論とは言えまい」「この提案の中にはいささかの妥協や譲歩も含まれておらず、ハルもルーズベルトも日本がこれを拒否するであろうことは十二分に承知していた」「ルーズベルトは対日戦争を策謀していた、11/25の会議で議題としたのは和平ではなく、戦争をいかにして開始するかの問題だった」[434]。
ハル・ノート等の外交的挑発により日本は開戦を強いられたという主張を「広義のルーズベルト陰謀説」とし(「狭議の陰謀説」はルーズベルトが事前に真珠湾攻撃を知っていながらハワイに伝えなかったという真珠湾攻撃陰謀説)、ハル・ノートはルーズベルトからの「挑戦状」であるが、日本もそれ以前に真珠湾に向けて機動部隊を出発させているので、どちらが先に挑発したかは水掛け論だとしている[435]。また、秦は「アメリカは、満州事変に対するスティムソン・ドクトリン、日中戦争に対する「隔離演説」など満州事変以後の日本の行動について承認しないことを表明し続けていた。ハル・ノートで要求した満州事変以後の既成事実の全面放棄は、実力による阻止行動を取って来なかった日本の行動についてその清算を求めたに過ぎない」とも述べている[436]。
- 森山優
「日本側は、ハル・ノートをアメリカが日本に突き付けた「条件」と解釈した。中国・仏印からの撤兵にしろ、無差別原則の適用にしろ、例外なしに実現を迫っているように読めるからである。それは、お互いの条件のすりあわせをはかる外交交渉の常道から懸け離れていた」 「日本側が衝撃を受けたのは、第一にその唐突さと不可解さであった。それを補う役割を担うはずだったのが、暫定協定案であった。もし暫定協定案が付随していれば、ハル・ノートが即座に日本に実行を迫るものではなく、未来に向けて提言された原則論であることが、比較的正確に理解されて筈だからである。(中略)暫定協定案がはずされたことで、際立ったのはアメリカの頑な態度と交渉放棄の姿勢だった」 「しかし、将来構想としても、日本側が全てを鵜呑みにすることは不可能であろう。陸軍とアメリカという強大な敵の狭間で二正面作戦を強いられていた東郷が条件闘争を展開するには、ハル・ノートはあまりに不寛容であった」[437]。
「ハル・ノートの性格は、基本的に米国六月二十一日案および十月二日案の延長線上にあり、その反復にすぎず、原理原則論から一歩も譲歩していないということである。その理念は米国が構想した戦後の自由主義国際体制の素案であり、…その理念は日本軍部ですら否定できないものが含まれており、…問題は、日本が要求している現実的処理方法に、なぜ配慮してくれないのかということであった。撤兵問題も二ヵ所の駐兵要求のうち一ヵ所(たとえば華北・内蒙)だけでも認めてくれれば、日本の譲歩は、期間の点を含めて、十分あり得ただろう。…とにかく米国が相手国のプレステージに配慮しようという姿勢はまったく認められなかった」[438]。
「実はハル・ノートの内容については、日米間に悲劇的な誤解があった。ハルのいう『シナ』には満州は含まれず、だいいち彼は最初から日本による満州国の放棄など考えていなかったのである。ハル・ノートは、この点をもっと明瞭にしておくべきだった。満州国はそのままとさえわかれば、日本側はあれほど絶対に呑めぬと考えはしなかったであろう」[439][440]。
「筆者は東郷外相に近かった数人に、ハル・ノートが『シナ』の定義をもっと厳密にしていたらどうだったかと質問してみた。・・・佐藤賢了は、ひたいを叩き『そうでしたか!あなたのほうが満州国を承認するとさえ言ってくれれば、ハル・ノートを受諾するところでしたよ』と言った。・・・賀屋(興宣)は、『ハル・ノートが満州国を除外していれば、開戦決断にはもっと長くかかったはずです。連絡会議では、共産主義の脅威を知りつつ北支から撤兵すべきかどうかで大激論になったでしょう』と答えた」[441]。
日米交渉について
- ジョナサン・G ・アトリー
「両国とも戦争は望んではいなかった。日本の指導者たちはアメリカの莫大な経済軍事資源に一目を置いており、そうした大国と戦うことはまったく思慮を欠くものと考えていた。他方、アメリカの指導者たちに日本人に対する尊敬の念があったわけではない。ただアメリカの現実的利益がヨーロッパに存在すると考えていたために、アジアでの戦争を極力避けたかったのである。双方が平和を希求していたからこそ、外交の機会がありえたのである」「そもそも外交の目的とは、利害対立を有する国家が戦場においてでなく相互の差異を解消する方法を見出すことにある。…こうした基準からすると、アメリカの外交政策担当者は失敗したことになる。四年以上の期間を通して、彼らはアメリカの政策、日本の政策、いずれも戦争を回避する方向に導くことができなかったのである」[442]。
- P.カルヴォコレッシー、G.ウイント、J・プリチャード
「どちらかというと日本人と同じく、力ずくでなければ日本人には通じないと思いこんだ米国は、交渉への取り組みが異常なほどかたくなで、日本が納得しうる妥協を切望しているのを判断し損なった」「米国政府が中国の陳情とチャーチルの発言通りにするや、真の暫定協定の可能性も消えうせてしまった。日本は、壁に背を向けて、これ以上の話し合いは全く無益であると悟った」「とりわけ強調すべきなのは、米国が加えた対日経済制裁と、適度の強さ、柔軟性、想像力で外交交渉を行うのに米国が失敗したため必然的に生じた結果が、日本としてみじめな降伏に屈しないためには、太平洋戦争しか代案がなかったということだ。問題の核心は、あの戦争を避けられたかもしれない対日政策をとるのは、米国と英国の権力者の手中にあったのである」 [443]。
「もしハルが、東アジアの政治的現実にもっと関心を示し、さらに他国民もすぐれて法律的かつ道徳的な原理にたいし口先だけでも好意をしめすべきだということにハル自身があまり執着しなかったら、太平洋戦争はたぶん避けえたろうと思われる」「しかしながら、アメリカ国民はこの事実を当時も理解しなかったし、現在にいたるまで理解していない。自分たちは攻撃され挑発された、したがって防御しなければならない、だからこの戦争の目的は自分たちを攻撃した勢力を打倒することにある。こういう単純な印象のもとにアメリカ国民は太平洋戦争に乗りこんでいったのである。それで彼らは本当のところ、自分たちが何のために戦っているかについて、第一次大戦や第二次大戦のヨーロッパ戦線の戦争目的以上に明確な目的を持ちえなかったのである」[444]。
- 須藤眞志
「日本側は松岡を除いて、確固たる対米観が存在しておらず、十分に説明すれば、日本の立場を理解してくれるはずという楽観的見方が支配的で、(日本に対して)悪しきイメージをアメリカ当局者達が抱いているとは想像もしていなかった。一方、アメリカ側は、日本は説明してもわからない国であり、制裁という態度で示すのが最も効果のある説得方法であると確信していた。それは日本に対する不信感に裏打ちされていた」として、松岡の強硬論も誤算であったこと、近衛の楽観論は結局裏切られたこと、そして、ホーンベックの力による封じ込めで日本は屈服するという合理主義も、日本には弱い者でも時には強い者に立ち向かうという非合理主義があり通用しなかったことを挙げ、「結局のところ、(日米)相互に誤ったイメージの上に作られた政策の行き違いが悲劇を生む結果」となったと指摘している[445]。
ソ連陰謀説について
ハル・ノートをめぐっては、「ソ連が独ソ戦を有利に戦うために日米開戦を策した」という「ソ連陰謀説」が一部に存在し、ハル・ノートの作成過程にソ連の関与が噂されていた[446]。事実、ハル・ノートの原案となったモーゲンソー私案を作成したハリー・ホワイトは、戦後にソ連のスパイとの容疑をかけられている[447]。ホワイトは非米活動委員会で疑惑を否定し、その後間もなく急死した[447][注釈 37]。
そして、1990年代になってソ連の内務人民委員部(NKVD。後のKGB)工作員であったビタリー・グリゴリエッチ・パブロフがホワイトと接触し、アメリカの交渉戦略に関する情報等を提供していたことが明らかとなった[448]。ソ連側ではホワイトの名前から「スノウ(雪)作戦」と呼ばれていた[449]。ただし、パブロフ自身がホワイトと会ったのは1941年5月の一度だけであり[449]、6月6日にはホワイトが私案を作成したものの、この時はモーゲンソー財務長官の興味を引かなかった[450]。
パブロフは、関東軍の脅威のなかでソ連極東地域を日本の攻撃と侵攻から防衛することが目的であったと述べており、日米を開戦させるという考えは全面的に否定している[451]。「雪作戦」の主眼は、アメリカの圧力と妥協で満州の関東軍を撤退させる、その見返りにアメリカは日本に経済的埋め合わせを行うということであり、モーゲンソー私案にもそれらが明確に表れている[452]。ただし、ソ連の工作により、ホワイトがモーゲンソー私案を書いたとまでは断定できない[452](パブロフの証言によれば、パブロフらの考え方がホワイトの状況の理解と合致したとしている[453])。結論的には、ソ連の工作によって日米戦争が起きたとする「ソ連陰謀説」は確定的では無い[452]。
なお、一部にはソ連の関与を持って、「ハル・ノートはソ連製」とする誤解もあるが[注釈 38]、ホワイトが作成したのは原案に過ぎず、ハル・ノートを作成したのはあくまで国務省極東部である[455][456]。
歴史教科書での記載
日本の高等学校用の教科書には以下のように記載されている[457]。
- 「〔1941年(昭和16年)〕9月6日の御前会議は、日米交渉の期限を10月上旬と区切り、交渉が成功しなければ対米(およびイギリス・オランダ)開戦にふみ切るという帝国国策遂行要領を決定した。・・・木戸幸一内大臣は、9月6日の御前会議決定の白紙還元を条件として東条陸相を後継首相に推挙し、首相が陸相・内相を兼任する形で東条英機内閣が成立した。新内閣は9月6日の決定を再検討して、当面日米交渉を継続させた。しかし、11月26日のアメリカ側の提案(ハル=ノート)は、中国・仏印からの全面的無条件撤退、満州国・汪兆銘政権の否認、日独伊三国同盟の実質的廃棄など、満州事変以前の状態への復帰を要求する最後通告に等しいものだったので、交渉成立は絶望的になった。12月1日の御前会議は対米交渉を不成功と判断し、米英に対する開戦を最終的に決定した。12月8日、日本陸軍が英領マレー半島に奇襲上陸し、日本海軍がハワイ真珠湾を奇襲攻撃した。日本はアメリカ・イギリスに宣戦を布告し、第二次世界大戦の重要な一環をなす太平洋戦争が開始された」
アメリカの高等学校用の教科書(『アメリカン・ページェント―共和国の歴史』(2002年版))では以下のように記載されている[458]。
- 「1941年半ば、合衆国国内における日本の資産を凍結し、ガソリンなど軍事物資の輸出をすべて停止した。…日本の指導部は苦渋に満ちた二つの選択肢を突き付けられた。アメリカに屈従するか、あるいは石油資源やその他資源が豊かな東南アジアに窮余の一策として攻撃に出ることで、輸出停止の包囲網を打ち破るか、のどちらかだった」
- 「日本との最後の緊迫した交渉が、1941年11月から12月初めにワシントンで行われた。国務省は日本の中国からの撤退を主張し、その代わりに限られた規模での貿易再開を申し出た。中国との4年以上にわたる苦しい戦いを続けてきた日本の帝国主義者は、合衆国の要請で退却するのは面子を失うことだとして同意しようとはしなかった。アメリカに屈従するか、中国での侵略を続けるか、の選択に迫られ、彼らは剣を選んだ」
- 「ワシントンの政府高官はだれ一人として、日本軍がハワイを攻撃するほど強力であり、あるいは向こう見ずであるとは思ってもみなかったようだ。」
- 「しかし、攻撃は、東京が意図的にワシントンでの交渉を長引かせているあいだにパールハーバーで行われた。…1941年12月7日の朝、『暗い日曜日』に、警告なしに攻撃した。ルーズベルトが議会で声明したように、その日は「屈辱の日」として記憶された」
脚注
注釈
- ↑ 以降日付は現地時間を採用し、必要に応じてアメリカ時間または日本時間を併記する。ワシントンと東京の時差は14時間である。
- ↑ アメリカ側は日米交渉を「正式な交渉(formal negotiations)」ではなく「非公式な予備的会談(exploratory conversations)」と位置づけていた[4]。交渉の初期からハルは野村大使に対し、両人の討議は「非公式」なもので、両人の間で交換される文書も特に「非公式」と明記している、と釘を刺している[5](ハル・ノート以前の米国案には“Unofficial, Exploratory and without Commitment”の但し書きがある)。ハルは11月の段階においても予備的会談であると言及し、その理由は先ず日米間で交渉の基礎に到達しなければ、イギリス、中国、その他関係諸国に相談できないからだと述べている[4]。ちなみに東郷外相は、この但し書きは「米国の常套句」で特別な意味は無いとし、11月は「本格的交渉の段階」としている[6]。
- ↑ 両師と松岡の面談で出来上がった覚書には「日本軍の中国からの漸進的な撤収を条件に日米間の会談を行う」との内容があったとされる[14]。しかし、そもそも松岡はこの面談を重視しておらず、これ以上話を進めようとはしなかった[14]。
- ↑ ウォルシュ、ドラウト、そしてウォーカーはアイルランド系カトリックという繋がりがあった[16]。ウォーカーはルーズベルトの選挙事務長を勤め、全米カトリック教会財務委員としてカトリック票を左右できたため、ルーズベルトに対して影響力があった[16]。また、ウォルシュとドラウトは日本のカトリック関係者とも面会しており(沢田もカトリックである)、彼らの思想の根底には反共意識があった、との指摘がある[17]。
- ↑ 井川はアメリカ側には全権代表や臨時外務大臣を自称していたが、正式な肩書は外務省属託(無給)であった。このような井川が在米中に日米交渉に関与できた要因は、・井川が近衛首相に宛てて公開電報を打って見せたことによりウォーカーの信頼を得たこと、・ウォーカーと井川のルートで、最初の野村-ハル会談が実現し、井川は野村からも信頼を得ることが出来たこと、・大使館付武官補佐官という公的な立場で渡米してきた岩畔豪雄大佐と行動を共にしたことが挙げられる[25] 。
- ↑ こうした誤解がなされたのは、野村大使の電文に責任があるとする説がある。しかし、現在この電文を読んでも、「アメリカの提案」との解釈はとても導き出せない[52]。また岩畔の報告電には「情勢大なる変化なき限り、日本側の意思表示あり次第、其大綱は一、二日中に決定する事確実なり」との誤った見通しがあるほか、「了解案の主旨はハルの提案による」との日本政府内の同意をまとめるための対内謀略的な一文があり、それが政府の判断を誤らせたとの指摘がある[53]。ただし、電文に接した東條陸相が中間報告なしに大風呂敷を広げた岩畔のやり方に不満を漏らしていること、武藤軍務局長も「あまりに策が多すぎる」と警戒していることから、両者とも諒解案を岩畔案と見抜いていたと考えられ、政府の判断を誤らせたとするには論拠が乏しい[54]。なお、諒解案は日本文で発信されたが、英原文とは重要な点で相違する訳文になっており、後日、松岡外相をして「驚くべき杜撰なる、否故意に我方に不利益なる点は我方に応諾し易からしむる為ごまかし訳文を作成したりとより外思考せられざる節の多々ある…」と憤慨させた[55]。
- ↑ 野村大使は日米諒解案について松岡外相に何ら請訓しておらず、このため外務省では、諒解案はアメリカを利用して日中戦争解決を図る陸軍外交ではないか、松岡不在中を狙って三国条約の骨抜きを既成事実化する謀略ではないか、との疑惑を深めた[59]。後者については、岩畔がそのように回想したという話もあるが、松岡は既に満州まで来ており、うがち過ぎた見方とされる[60]。
- ↑ 参謀本部戦争指導班の業務日誌。戦争指導班の任務は、長期的・総合的観点から国策の起案を行うことであり、「とくに、昭和15年からは、大本営政府連絡会議に提出する議案の作成や審議に参加し、陸軍省や海軍省、軍令部、外務省などの部局との折衝を通じて、政治や外交、経済問題」に関わっていた[66]。
- ↑ 南部仏印に航空基地を設定しなければ、シンガポール攻略は軍事技術的に不可能であった[107]。
- ↑ 資産に関わる問題は財務省の管轄にあり、そのトップであるモーゲンソーは、経済制裁をすれば日本は屈服すると考えていた。アチソンも同様の考えで、彼は禁輸に関する職務を専管する外国資産管理委員会をリードする人物であった[127]。
- ↑ この対日警告はチャーチルとの約束を元に行われ、米政府内では最後通牒的性格を持つものと考えられていた[141]。なお、対日警告の原案は「紛争を結果する可能性であっても」との語句を含むものであったが、ハルが「強すぎて挑戦と誤解される危険」があるとしてこれを削除するとともに全体の表現を緩和した[141]。
- ↑ この日支間協定は日華基本条約を指し、華北への駐兵は固守するという意味であるが、「駐兵と明らかに書けば先方がこだわるから…」(武藤軍務局長)という理由で曖昧にされた[152]。もっとも、外務省はその曖昧さを逆手に取り、豊田外相は日支間で今後新たに締結される協定と駐兵にこだわらない解釈を示していた[153]。
- ↑ 海軍では「戦争」という文言が禁句であったため、「実力を発動」との文言が使われた[167]。
- ↑ 原案では、内蒙古及北支の一定地域における日本軍駐屯、並びに海南島、厦門及揚子江流域の諸地点における日本国艦船及び部隊の駐留を明記していたが[184]、連絡会議における討議で、海軍の岡軍務局長が駐兵の地点と期間を曖昧にするよう求め、駐兵の地点は削除された[185]。
- ↑ 太平洋戦争開戦前の時点で、支那事変における戦死者は18万5千人以上、戦傷者は32万5千人以上にのぼり、「日本がそれまで戦ったなかで、最も規模が大きく最も犠牲の大きな戦争」となっていた[196]。
- ↑ 戦後間もなく行われた「海軍特別座談会」(海軍首脳や幕僚が出席)によれば、「海軍は戦えない」と言えなかった理由は、主に海軍の存在意義を失う、艦隊の士気に影響する、近衛首相に"下駄をはかせられる”(避戦の責任を押し付けられる)のを警戒したことなどが挙げられている[202]。
- ↑ 敗戦後、木戸は東條指名について、国際検察局の厳しい尋問にさらされることになった。「あなたは当時、東條が何に賛成し何を主張していたかについてすべて知りながら、日本人一億人のうちで彼が対米戦を避けることのできる公算の、最も大きい人だと本当に思っていたのですか」[210]。
- ↑ もっとも、東條は「強硬意見を持した自分に大命が降下したのであるから、自分は何処迄も強硬な態度を持続していい筈」などと述べたため、一度は東郷に就任を拒絶されている[212]。
- ↑ もっとも、当初の後任候補は対米戦を非現実的とする豊田副武であったが、東條が陸軍に批判的な言動で知られる豊田を忌避したという事実がある[215]。
- ↑ もっとも、東條への大命降下を知った海軍の岡軍務局長は日記に「甚だしく予想に反す」と記し、天皇の御言葉による避戦という手法にも「とんでもなき事なり」と記している。果たして東條が適任であったかは疑問が残る[217]。
- ↑ 前夜、嶋田は東條に海軍軍備の手当てを申し入れ、莫大な量の物資(例えば、鋼材の30万トン増配等)を配分するよう要求していた[230]。しかも、この時点では海軍は開戦決意を公式に表明しておらず、陸軍はこのような海軍の姿勢に不信感を募らせた[230]。このため、1日の会議では杉山参謀総長が嶋田に「鉄を貰へば決意しますか」と念を押し、嶋田はこれに頷いたという(『機密戦争日誌』には「海軍の決意は鉄30万トンの代償なり、哀れむべき海軍の姿かな」とある)[230]。
- ↑ 決定案では第3項は「日米両政府は相互に通商関係を資産凍結前の状態に復帰しべし。米国政府は所要の石油の対日供給を約す」、第4項は「米国政府は日支両国の和平に関する努力に支障を与ふるが如き行動に出でざるべし」となっている[239]。
- ↑ 大本営政府連絡会議、御前会議等の議事録。杉山参謀総長は会議の内容を克明にメモしており、帰庁後、各部長以上を集めて、それを説明していた。この口述を有末次第二十班(戦争指導班)長が筆記・清書し、さらに杉山の校閲を経たもので、文書の重要性から、終戦時の書類焼却命令に反して保管・隠匿された経緯がある[241]。
- ↑ 戦後の東京裁判でも、検事側は主にマジック資料をもとに、日本の提案は最後通牒であったと主張した。これに対し、弁護側は誤訳、捏造であったと反論し(実際、甲案の説明文の箇所で、原文の「最後的譲歩案」が「マジック」では「最後通牒」と翻訳されていた)、東郷や東條もアメリカが譲歩すれば日本も譲歩する用意があったと述べている[257]。この問題について須藤眞志は、譲歩の用意があったかどうかには疑問を呈しつつ[257]、「恐らく東郷の真意は、野村に対し本案をもって交渉妥結するよう強い要請をしたつもりであったろう」「日本語の『最後』という言葉には、商取引のような場合にもしばしば掛け引きの言葉として使われ、相手の出方次第によっては、再考する意味が含まれている場合がよくある…しかし、これが英訳され last とか final とかあるいは dead line という言葉になると、日本語のもつ慣習的な意味合いはなくなってしまい、文字通り『最後』」となってしまう、としている[256]。その上で須藤は、日本語と英語の言語的相違、文化あるいは慣習上の相違を、日米間のコミュニケーション・ギャップの原因と指摘している[258]。
- ↑ この文言が満州を含むの意味なのかという問題については、第6項の満州からの条件付き撤兵と矛盾するため、満州は中国には含まれないと解釈するのが自然である[291]。
- ↑ 対する日本の石油輸入の希望量は米国より400万トン(米国から昭和13~15年に輸入された石油の平均量)、蘭印より200万トン(従前の日蘭交渉で蘭側が同意した年180万トンを基礎としている)であった[315]。なお、これは11月26日の連絡会議で「乙案妥結の場合における保障措置」として決定したものであるが、この時点で決まったのは石油の対日供給量に関する事項だけである(『機密戦争日誌』には「燃料六〇〇万屯ノ件ハ明確ニ決定セルモ、他ハ外相俺ニマカセテ呉レノ態度ニテ依然トシテハッキリゼズ」とある)[315]。
- ↑ 英語原文は英語版ウィキペディア「w:Henry L. Stimson#Secretary of War (2nd term)」を参照。
- ↑ 英文:The Government of Japan will withdraw all military, naval, air and police forces from China and from Indochina. (日本国政府は、支那及び印度支那より一切の陸、海、空軍兵力及び警察力を撤収すべし)
- ↑ 実際には開戦当日1941年12月8日午前11時40分に「宣戦の詔書」が裁可され、直ちに煥発された[349](真珠湾攻撃開始は8日午前3時20分)。
- ↑ 嶋田海相は東京裁判の宣誓供述書において、ハル・ノートを受けて海軍が戦争を決意せざるを得なかったかの如く述べ、これを痛烈に非難しているが、実際に嶋田が戦争を決意したのは1941年の10月30日である[356]。
- ↑ たとえば、『機密戦争日誌』には「昨年本日は米国か対日最後通牒を発したるの日なり」(1942年11月27日付)との記述がある[369]。
- ↑ ハル・ノートが提示される1日前の11月26日(日本時間)午前6時、機動部隊は択捉島単冠湾を出発していたが、「日米交渉成立セバ機動部隊ハ即時帰還集結スル如ク行動スベシ」との命令を受けていた[374]。
- ↑ 題は「大詔を拝して」。12月8日午前11時45分の「宣戦の詔書」渙発発表後、間もなく行われた。「彼(米国)は従来の主張を一歩も譲らざるのみならず、却て英、蘭、支と聯合して支那より我が陸海軍の無条件全面撤兵、南京政府の否認、日独伊三国条約の破棄を要求し、帝国の一方的譲歩を強要してまいりました」とある[384]。
- ↑ 「開戦に関する条約(1907年ハーグ国際条約)」の規定には開戦宣言または条件付開戦宣言を含む最後通牒を事前に通告する必要があるが、対米覚書はその規定を満たしていない(東郷自身も「形式的には宣戦の通告とは異なるは明らか」と認めている)[401]。開戦当日に公布された「宣戦の詔書」こそが国際的にも国内的にも宣戦布告であると認められる[401]。
- ↑ 北岡は「日中戦争によってアメリカが失い、あるいは脅かされていた現実の権益はわずかなものであった。問題は中国の統一と独立という理念であり、いつかアメリカの巨大な利益が生み出されるかもしれないという想像上の利益であった。日本の中国侵略がかりに成功したとしても、それでアメリカが致命的なものを失うわけではない」[405]と指摘している。
- ↑ この一節の原出典は米国人現代史家アルバート・ノックの回想録"Memories of a Superfluous Man"であり、東郷外相の手記にも引用されている[425]。
- ↑ ホワイト事件の発端は、ソ連のスパイであるエリザベス・ベントレイの告発による。ホワイトの死後もソ連のスパイであったウイタカー・チェンバーズが、ホワイトはソ連のスパイであったことを証言している。[447]
- ↑ ルーズベルトが(ソ連のスパイであった)ホワイト作成のハル・ノートを日本に渡せと言った際、「我々は日本をして最初の一発を撃たせるのだ」と言った[454]…とするような見方もある。
出典
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関連項目
外部リンク
- インターネット特別展 公文書に見る日米交渉(国立公文書館アジア歴史資料センター)