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日露戦争

にちろせんそう、ロシア語: Русско-японская война ルースカ・イポーンスカヤ・ヴァイナー、英語: Russo-Japanese War、1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日

1904~05年,朝鮮および満州 (中国東北地方) の支配権をめぐる対立から発展した日本・ロシア間の軍事衝突。

1898年ロシアは中国 (清朝) に圧力をかけ,戦略的に重要な南満州の遼東半島南端にある旅順港の租借権を獲得した。またこれに先立つ1896年には中国と対日同盟を結び,合せて東支鉄道の敷設権を得て,中国領満州を通過しロシアの海港ウラジオストクに達する道を開き,路線地として満州の地にわずかながら重要な足場をつくった。 1891年から 1904年にかけてロシアはシベリア横断鉄道を築いたものの,満州における軍事力を増強するに足る人員および物資を輸送できるだけの設備は整っていなかった。一方,日本は1894年の日清戦争以来軍事力を確実に増強し,1904年の極東駐屯師団数は明らかにロシアを上回っていた。 1903年ロシアが満州からの撤兵同意を翻したのを,日本は攻撃の機とみなした。

1904年2月8日,奇襲に出た日本海軍の主力艦隊が旅順港のロシア艦隊を包囲して,戦いの火ぶたが切られた。同日陸軍も朝鮮半島に上陸し,まもなく完全に制圧した。5月別途遼東半島に上陸した日本軍は,25日南山を奪取して旅順港のロシア駐屯軍を満州の本隊から切離した。8月 10日旅順から出撃したロシア艦隊との間に黄海海戦が戦われ,日本軍が勝利,14日の蔚山沖海戦によって,日本は制海権を獲得した。8月 28日~9月4日には遼陽周辺で日露の野戦軍主力が会戦し,ロシア軍は退却した。 10月ロシア軍はシベリア横断鉄道経由で援軍を受け巻返しをはかったが,その攻撃はかえって統制力に欠けた優柔不断な面をさらけ出す結果となった。日本軍もまた数回にわたる攻撃の失敗で大きな犠牲を出し,旅順港の長期包囲戦に業を煮やしていた。日本軍の統制に分裂の兆しがみえはじめた矢先の 1905年1月1日,戦意を失った旅順港のロシア軍司令官は,3ヵ月分の糧食と十分な軍需品をたくわえたまま,配下にはかることなく独断で港を日本軍に引渡してしまった。陸上での最終戦となった2~3月の奉天会戦は,ロシア軍 35万対日本軍 25万の兵力を投入して行われた。ロシア軍9万,日本軍7万に上る死傷者を出した長期戦の末,ロシア軍司令官 A.N.クロパトキンは軍を北に撤退させ,奉天は日本軍の手中に落ちた。海上での戦闘も,最終的には日本軍が優勢になった。5月 27日,日本海海戦で東郷平八郎大将 (のち元帥) 率いる日本海軍主力艦隊がロシアのバルチック艦隊を破った。バルチック艦隊は Z.P.ロジェストベンスキー提督指揮下,旅順の包囲をとくため 1904年 10月リエパヤのバルチック港を出航し,戦いがウラジオストクに達する頃到着した。すでに日本は経済的に疲弊していたが,日本海海戦の決定的勝利と,ロシア国内の政情不安が相まって,ロシア政府を平和条約の場へと導くこととなった。

アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトを調停役に,1905年8月 10日から9月5日にかけて合衆国のニューハンプシャー州ポーツマスで講和会議が開かれた。この場で締結されたポーツマス条約で,日本は旅順港を含む遼東半島と東支鉄道の一部 (旅順-長春間,南満州鉄道) の支配権を獲得し,サハリン島南部を領土に加えた。ロシアは南満州の中国への返還に同意し,日本の朝鮮支配権も認めた。日露戦争は日本が初めて当面した本格的戦争で,直接戦闘に参加した総兵力は 108万余,艦船 31.8万t,疾病をも含めた死傷者は 37万余,喪失艦船 91隻であった。